でですね、ここから先は本当に僕のぼんやりとした記憶と思いつきのみで他人の思いを勝手に忖度(そんたく・ざっくりこんなもんだと決め付けること、ですか)した失礼きわまりない話です。
そしてそのなかにはたくさんの、おそらくその書き手のほとんどは絶望的な戦場を戦い亡くなっただろう日本兵の日記があり、そのような日記を読んでいるとキーンさんはしらずしらず涙を流すこともあったそうです。
その、日本を滅亡の淵から救い、日露戦の勝利を決定付けた海戦後、連合艦隊旗艦三笠の艦橋で炎をあげながら沈みゆくロシア艦隊を見ながら、秋山さんは、「どうだ!みたか!やってやったわ!」と19世紀から続く西洋の圧迫をついに粉砕したと会心の笑みを浮かべ、ではなく、「もう軍人はやめよう、坊主になろう」と己の立てた作戦であまりにも多くの人が死んだ事実に衝撃を受けます。
で、もともと戦争前から日本文学に惹かれていたということなんだとは思うんですが、たしか戦後すぐのころは、「日本文学を専攻している」と言うと「なんでそんなサルマネの国の学問を?」と言われることもあったとおっしゃられていた(記憶頼り・不確かです)と思いますが、それでも日本文学研究を生涯の道に選び、日本文化のすばらしさをアメリカやヨーロッパに積極的に紹介し・・・
司馬遼太郎さんとリービ英雄さんの対談(90年代中頃でしょうか?)の中で、司馬さんは「私がドナルド・キーンさんやサイデンステッカーさんに特別な友情を感じるのは、彼らが私の敵、マイエネミーだったからなんです。太平洋を挟んでアチラとコチラにいて、よく戦い、よく生き残ったという友情です」とおっしゃられていたような。
で、リービ英雄さんが「たとえば来日時の晩餐会でブッシュが倒れたとき、助け起こそうとした宮澤さんにもそのような感情があったのでは」と、「それ以降の世代には無いんでしょうね。もう敵でも味方でもない」と。
えっとですね、司馬さんの長編小説。よくいわれることではありますが、一つの作品としてみた場合「小説として」どうなの?と、僕も思うことあるんです。イズムの話ではなく、あくまで「小説として」、構成だのなんだのの部分で、どうなの?と僕も思うことあるんです。そこんとこをわりと批判的に言われる方の文章を読んだりすると、確かにそうだなぁと僕も思ったりするんです。
直木賞選評委員であった海音寺潮五郎さんのエッセイ「天才かも知れない司馬氏」の中の『彼の作品には人を酔わせるものがある』、としか言いようがない感じでおもしろいんです。
司馬さんの初期の長編小説には、海音寺さんの短編集「武将列伝」や「悪人列伝」の影響がある気もするんです。海音寺さんがある時代を生きたある人生を漢文的文章でギュワッと凝縮して凝縮して凝縮して、凝縮しきって、人間の典型として結晶化したものを、逆にパンッと破裂させてビッグバンをおこしたものが司馬さんのいくつかの長編小説、と思うこともあるんです。
だから「翔ぶが如く」のなんとなくな作品としての一貫性のなさは、そこんとこの司馬さんの中でのせめぎあいもあったのでは?と思うこともあるんです。と、放り投げるんです。
で、それはさておき、司馬さんの奥さんの福田みどりさんは「司馬には新聞連載とかだけではなく、書き下ろしを書かせてあげたかった」みたいなことをおっしゃられていたと思います。
あと確か、司馬さんのサラリーマン時代の部下、というか後輩、というか年若の友人で作家の三浦浩さん。三浦さんがお書きになっていたと思うんですが、時期は今わかりませんが、三浦さんが司馬さんからきいた話で、自分は毎日、新聞連載を読んでくれる人が読んでよかった、おもしろかったと思えるものを書くようにしている、と読んだ気がします。
三浦さんもサラリーマン時代、そのころはもう三浦さんの上司でしたか?司馬さんが『東北にあるという、ヘブライの遺跡について話し始めた。(略)語り終えると、フラっと、行ってしまった。
というわけで、互いに二十代、作家司馬遼太郎誕生以前から新聞社の部下として(たしか仲人も)司馬さんを身近に知っている三浦浩さんは、当時の司馬さんについて『天成のコラム書き』という思いをもたれていたみたいです。
で、三浦さんは何故自分はこんなに司馬さんの(ええ、もちろん当時は本名の福田さんです)コラムに感銘を受けるのか考えられたそうです。他のコラム、アメリカのコラムであったり、いろんな新聞のコラムであったりと、いったい何が違うのかと。
そして気づいたことは、司馬さんの『コラムは、どこかにフィクションめいたものが隠されているのだ。あるいは、はじめの発想にフィクションがあって、これを堅固なファクトで固めながら、コラム化しているの』だと。『つまり、このころ流行りだしたショートショートの、ノンフィクション版なのだ。どうやらそれで、ひどく面白いのだ』と。
さらに、これは後のことですが、司馬さんが『歴史小説を書き始めたときには、たいていの場合、新聞連載だったから、なおさらそう思ったのだが、これは、すぐれたコラムの集積だと感じた』と。
さて、随分前になりますが、したがって記憶たよりですが、司馬さんが亡くなられた後に沢山でた追悼集の一冊を図書館でパラパラと読んだことがあります。で、あとがきというのか、それを三浦さんが書かれていたんです。
もしかしたら当たり前のことなのかもしれませんが、そこで三浦さんは、これは司馬さんを"追悼"した本なので、すべてそういう文章がのっています。司馬さんの仕事に対する、厳しいものを含んだ"批評"を読みたい方がいらっしゃったら、○○や△△という本がありますので、と、ちゃんと書かれていましたね。
すると司馬さんは『不思議なことを訊かれたもんだ、という表情をして「あれは、なくなったんだよ」』と、『実にそっけなく』『淡々と』『そんな口調で』こたえられたそうです。
三浦さんは『司馬遼太郎、を名乗ってから、司馬さんの中では徐々に、福田定一が薄れていって、いつのころか、法的な書類上は別にして、司馬遼太郎になり切っていたのである』とお書きになっています。
でも人生なにかとハメをはずしては「おい三浦!いいかげんにしないか!」と司馬さんにこっぴどくおこられ続けた三浦さんの中では、司馬さんは最後まで『なぜかはじめから』『兄貴のような』福田さんだったんですかね。で、司馬さんも、三浦さんと接している時は、司馬遼太郎ではなく、消えてなくなったはずの福田定一でいられたりしたんですかね。
お二方はおおやけの場では互いを新撰組「局長」「副長」と呼んでいるけど、二人っきりになると、多摩の幼馴染「トシ」「近藤さん」と呼び合うと。まあ「近藤さん」は普段から使っていたかもしれないけど、まあ「沖田君」が「総司」になったりもしたけれど、そんな感じ。
そして二人でとりとめもないことを話している最中、土方さんはいきなり机に突っ伏して泣き出してしまう。沖田さんはその土方さんの嗚咽をききながら、ぼんやりと天井を見つめ
つうわけで土方さん、「おいおい、このままでは俺も生きてあいつらに降伏することになるじゃねえか。冗談じゃねえぞ」と"最後まで戦って死ぬため"かなり絶望的な状況になっている最前線にひとり出て行こうとします。
が、その時、函館で部隊再編され土方さんのもとを離れていた新撰組の生き残りの人たちが次々と土方さんのもとに集まってきて、共に進みはじめます。土方さんは思わず「なにしてんだお前ら、もうお前ら剣術屋にどうこうできる時代じゃねえんだよ、剣ふりまわしても鉄砲のマトになるのがオチじゃねえか。邪魔だ帰れよ」と、"生きろ"と、叫びます。
で、土方さん、最初は「俺は蝦夷共和国陸軍奉行並土方歳三だ」と答えようとして、こりゃ何か違うなと、己の野心をたぎらせた京都時代の役職「俺は新撰組副長土方歳三だ」と答えます。
7.誠 8月 30, 2018
Ⅰ:子母澤さん、お生まれは石狩かぁ
最初の刊行は昭和三年でしょうか?
新聞記者だった子母澤寛さんが、大正のはじめくらいから、当時まだ存命だった隊士など、新選組関係者に取材したものをまとめた「新選組始末記」。
司馬さんも新選組について小説を書こうといろいろ調べるも、どうしても「新選組始末記」から離れられない、内容以上のものが出てこない。
だから小説を書く資料として子母澤さんの「新選組始末記」を使わせてくださいと、司馬さんは直接子母澤さんに会ってお願いをされていますね。
が、子母澤さんが取材内容をまとめたノンフィクションと思われてきた「新選組始末記」。
現在では、その中にかなり子母澤さんの創作がまぎれこんでいるのではないか、フィクション、ある種小説ではないか、とも言われているみたいです。
でも昭和42年の「中央公論」での子母澤さんと司馬さんの対談。
司馬『とにかく、新選組というのはいまになると、もう調べようがございませんね』
子母澤『われわれが始めた時分は、少しイカれていても、何とか多少はあった。しかし今でも、ときどき何か調べ残しているところがあるんじゃないかと思うことがあるんです。彰義隊でも意外な人が、私の実父は上野の彰義隊でしたとかいう。行ってみると何か話があるものですね。嘘、本当、それは別としましてもね。それに、少しホラ吹くぐらいの人の話のほうが面白いですね(笑)』
もちろん子母澤さんが取材を始められた当時としても、新選組は五十年は昔の話。
別に"ホラ話"でなくても、まあ"ホラ話"もあったのかもしれませんが、ふつうに関係者の方の記憶違いはあると思うんです。で、それを少々本当かなぁ、胡散臭いなぁと思いつつも、証言は証言としてそのまま「始末記」に載せた、ということもありませんかね?
それが、北海道生まれではあるけれど、幕臣の孫である子母澤さんの中に流れる江戸っ子の「だってそっちがおもしれえじゃん」つう粋なのか、司馬さんがいう。
『(始末記は)学問の新しい方法だと思ったわけです。つまり植物採集とか昆虫採集とかいう方法を、違った分野で使ったのが民俗学、柳田国男さんとか、折口信夫さんの民俗学でございますね。それと同じ方法で採集して回られた』ということなのか。
で、それを受けた子母澤さんの『わたしただ怠け者ですからね。自分で勉強しないで人の話を聞いているほうが気楽だから、そういう方法をとったわけですよ』つうのが謙遜でもなんでもなく真実だったのか。
「俺はとにかく新選組の話を集められるだけ集めたよ。そりゃ胡散臭い話も中にはあるけどさ、でも嘘のような真てのもあるかもしれないじゃん。まあ、それらの真贋は誰かやってよ。俺はめんどくさいわ」てな感じで。
で、ふと思いましたが、アウトテイクというか、子母澤さんが"採集"するも、さすがにこれはどうだろうと「新選組始末記」に載せなかった話もあるんですかね?
もしもあるんならそれ読んでみたいです。
Ⅱ:微妙な話ではありますが
「俺はとにかく新選組の話を集められるだけ集めたよ。そりゃ胡散臭い話も中にはあるけどさ。でも嘘のような真てのもあるかもしれないじゃん。まあ、それらの真贋は誰かやってよ。俺はめんどくさいわ」
つうのを、
「俺はとにかく新選組の体臭が嗅げそうな話を集められるだけ集めたよ。そりゃ胡散臭い話も中にはあるけどさ。でも嘘のような真てのもあるかもしれないじゃん。まあ、それらの真贋は誰かやってよ。俺はめんどくさいわ」にしときます。
でですね、司馬さんは「新選組始末記」を使わせてもらって、「新選組始末記」によって、と、おっしゃられていますが、もちろんご自身でもいろいろ調べられています。
たとえば、ん?昭和四十年前後はそんなこともはっきりしなかったの?ともちょっと思いますが。
司馬さんは土方さんの故郷の日野に行き、地元の方に「土方歳三さんの歳三は、としぞうと読むのでしょうか、さいぞうと読むのでしょうか」「このあたりの人間はみなトシさんと呼んでいますね」「ああ、やっぱり、としぞうでいいんですね」と確認したり・・・
うん、まあ、確認、これは念のための確認ですね。
ああ、で、そうしていろいろご自身で調べた結果、どうにも「新選組始末記」にたどり着いてしまうということか。
で、『少しホラ吹くぐらいの人の話のほうが面白い』かどうかはおいといて、面白エピソード満載の「新選組始末記」、やっぱり司馬さんも『私が新選組のことを書こうと思ったとき、これはどうしても「始末記」を離れられない。ですから先生のところに来て、あれをひとつ使わしていただきますと・・・』てことになったのだと思います。
がですね、たとえばこないだの「燃えよ剣」のラスト。
もちろん世紀の軍艦乗っ取り作戦、"アボルダージュ"宮古湾海戦とかありますが、「新選組始末記」の中であのラストに対応する部分は。
『土方歳三は、勇の捕らえられると共に、ひそかに流山を脱出し、会津に走り、更に函館へ行って、榎本武揚の幕下に参じ、陸軍奉行並となったが、武揚の人となりを察し、ついには官軍と和することを予知して極度に悲観し、合戦のたびに、自ら危地に出動して死を希(こ)う風であったが、明治二年五月十一日の激戦で馬上弾丸に当たって戦死した。年三十五、勇より一つの年下である。常に同僚に語って、「ああわが輩は死に遅れた。もしわが軍官兵と和する事あれば、地下に近藤と相見(まみ)ゆるを得ない」といっていたという』
てトコなんですね。
つうかこの漢文のよみくだし風な文章、簡潔でいい文章ですね。
やっぱり昔の人はみなさん漢文の素養があったんですかね。
は、さておき、だから「新選組始末記」の中で、僕が要約をした「燃えよ剣」のラストに対応する部分はここだけだと思うんですね。
そりゃ、実際には他の資料を使ってもいるのでしょうが、この「始末記」の文章を元手に、司馬さんがどれだけ想像の翼をひろげてあのラストシーンを創られたか、是非「燃えよ剣」を読んで確かめてほしいんですね。
つまり結論は、あのラストシーンは面白い、「燃えよ剣」は面白い、なんです。
「新選組始末記」も面白い、なんです。
お暇でしたら是非読んでみてください、なんです。
で、しれっと、あくまで僕の想像の「俺はとにかく新選組の体臭が嗅げそうな話を集められるだけ集めたよ。そりゃ胡散臭い話も中にはあるけどさ。でも嘘のような真てのもあるかもしれないじゃん。まあ、それらの真贋は誰かやってよ。俺はめんどくさいわ」てのを大肯定するとすると・・・
ん?するとするとって言い回し、何か変?そうでもない?
ま、今問題にすべきはそこではない、というわけで、大肯定するとすると、司馬さんが子母澤さんに『(始末記)をひとつ使わしていただきます』とおっしゃったのは、子母澤さん的にも「おお!お前みたいなヤツが現れるのを待っていたぜ!」てなトコもありましたかね。
で、明治維新後は、正義の志士をバッサバッサと切りまくる、悪逆無道な悪者という地位を確立した新選組の土方歳三さん。←想像です。
なにげに雰囲気としてその名を口にするのもはばかられ、気づいたときにはその名が"としぞう"なんだか"さいぞう"なんだか、はっきりとはようわからんのだ、てなトコもあったのだろうか?
※ないでしょう(笑)。20200807。
Ⅲ:マイナス・ゼロ
でも、言葉は悪いですが、司馬さんも子母澤さんが使われた意味での"ホラ吹き"は嫌いじゃないと思います。
井上ひさしさんが「手鎖心中」で直木賞をとられたとき、選考委員だった司馬さんの選評は『(井上さんの)うそのあざやかさには目をみはるおもいがした』『これを書いた才腕の前には、たれもが叩頭せざるをえないのではないか』『いかにも上質の滑稽であった』ですし。
それに早逝された作家、広瀬正さんのSF小説が直木賞候補(1970)になったとき、委員の中で、司馬さんのみが熱心にその作品を推されたそうです。
司馬さんは、広瀬正さんの「マイナス・ゼロ」について。
『一読者として一番面白かったのは、広瀬正氏の「マイナス・ゼロ」であった。
SFには読み方が要る。頭から空想譚に騙される姿勢で読まねばならないが、それにしてもこの人の空想能力と空想構築の堅固さにおどろいた』
『「ツィス」には圧倒的な感銘をうけた。ごく平均的にいって、人間は五官によって生存を認識している。そのうち聴覚に、外部からほんの小さな変化を、持続的そしてひろく社会一般に加えるとすれば、人間はどうなるのであろうかという空想的な実験意識が、着想になっている』
『この空想上の実験によって、人間が、簡単に個のわくをこわして集団の大わくに入り、そのわくの中で似た反応を交換しあってやがては恐慌をおこすという結果を生む』
『このときSFは、重大なリアリティを持つのである』
広瀬正さんの「エロス」について。
『私は広瀬正氏の「エロス」を推した。深読みかもしれないが、愛というこの人間現象に奇怪な衝撃力をもつものを、作者は化学的物質としてそれを抽出し、合成し、それをこの小説に登場する数人の人間の過去に対し、実験的に添加した場合、「過去」がどのように化学変化をおこすかということをSF風に考えてみた文学であるように思える』
『(この作品は)三度目の候補作である。このあまりにも現実離れした遊びの世界は二作ともおおかたの共感を得ず、こんどもそうであった』
ん~でも、司馬さんは『SF』『現実離れした遊びの世界』を『遊戯としてわりきってしまえばじつにおもしろい』と書かれていますが、本当に『遊戯としてわりきって』いたのか、すこし疑問です。
ええ、かなうことなら一度、紅茶でも飲みながら、司馬さんから『東北にあるという、ヘブライの遺跡について』の話をお聞きしたかったです。
はたしてキリストは日本に来ていたのか!!
で、いきなり話を矮小化しますが、イエスさんご自身が日本に来ていたことはないかもしれませんが、アチラで異端として排斥され、唐で大流行したネストリウス派かどうかはしりませんが、人としてか文物としてかはたまた両方か、かどうかはしりませんが、キリスト的なものが○○麻呂な時代の日本に来ていても、別に不思議ではないと思います。
井筒さんは司馬さんとの対談で『古代ギリシアの思想を持ち込んでくると、実にはっきりと解明されるところが東洋思想には多々あるんです』『歴史的に影響があったかなかったかには全然関係なく、思想構造的に必然的な相互照明の問題なんです』とおっしゃられています。
でも司馬さんが『長安に入った空海は、当然なことですけれども、ネストリアンのキリスト教の教会は見たらしいですし、ゾロアスター教の火のお祭りも見たはずです。ですから当然、プラトン的なものが来ていないということは、いえませんですね』といわれると、『いえません。絶対いえないと思います』と。
"新日本紀行 第28巻 「鬼と琵琶法師 ~大分県・国東半島~」 1971年放送"
ま、もちろん、「~とはいえない」といいだすと、もうなんでもありじゃないか、と僕も思いますが、キリスト的なもの、ヘブライ的なものが、○○麻呂な時代の日本に来ていても、別に不思議ではないと思います。
だって嘘のような真てのもあるかもしれないし。
Ⅳ:そういえば、つうかそもそも、厩戸皇子て方がいましたね
そうそう、いやいやありました。
司馬さんの、しかも広瀬正さんの「ツィス」の選評の中にありました。
『(陳舜臣さんと)はなしが中国の詩のことになったとき、氏がなにか出典を示して、男子の詩は志をのべるもので女子の詩は怨みをのべるものだ、という意味のことをいったような記憶がある』
『むろんこんにち、女子が志をのべてもよく、男子が怨みをのべてもいい』
『薪をたたき割ったような粗論だけに、小説にもそれが大きい場所であてはまるような気がする』
『怨みものべず志ものべず、どういう衝動に駆られてか、営々として小説を書くというのは、なにかをやたらに空費するという意味で一種の壮観であるにせよ、一面なんだかつまらないような感じがしないでもない』
『江戸期の日本人の持論で、志が高く涼やかであれば技巧の拙さはかえって覆われて逆に強さを出すことさえある、というのを読んだことがある。これも小説の分野にあてはまるかもしれない』
『広瀬正氏の「ツィス」という作品は、自分の空想をどれほど精緻に計数化しうるかということに挑んだ作品で、この作業そのものが志であり、さらには社会心理学的なリアリティもあって、変に魅かれるものがあった』
でした。
いやいや司馬さん、広瀬さんの作品に変に魅かれたのは、自分と同じものを、志といってもいいですが、それをその中にみたからではないのですか?と、僕がまた勝手にいっときます。
でもこの選評は『しかしこの種のものが受賞作になるには多少先例と筋合いがちがうし、なるにしてもあと数年かかるかもしれないと思った』としめられています。
この選評を司馬さんが書いて四十年。
『この種のもの』が受賞できる時代に現在はなったのでしょうかね?
ちなみにこの翌年に亡くなられた広瀬正さんの作品への選評は、司馬さんのエッセイ「不思議な世界を構築した天才」で読めます。
(注:僕は広瀬さんの作品自体は、たぶん赤羽の本屋で少し立ち読みをしたくらいです・2013/12/05)
Ⅴ:思いつきは大切にしましょう
しかしまあなんですね。
○○麻呂な時代の日本にキリスト的なものが来てたとして、なんで次の「いごよくひろまるきりすときょう」まで来なかったのか?おかしいではないか!と無理やり疑問に思うことにして、これあれですよ、早い話が両方とも民族大移動の時代ですよ。
ほらネストリアンの方たちが地中海世界で異端として排斥されたころ。
そのころ。
それはモンゴルにいた匈奴が漢との戦争に破れ、西方に逃れたのがそのスタートラインとなる、民族大移動の時代じゃないですかね?
AがBを襲い、それを逃れたBがCを襲いと、玉突きの民族大移動のあおりでローマ帝国が滅んだ時代じゃないですかね?
んで、石もて追われた、かどうかはしりませんが、ネストリアンの方たちが唐に到達したのも、そんな民族大移動の巨大な玉突きエネルギーの一環ではなかったんですかね?
異端として排斥された、その事実自体とは一切無関係に。
当時は未知の世界に飛び出すのは時代の気分として当たり前だったのではないですかね?
ま、いいや、ここが駄目ならよそにいけばいいじゃないか、みたいな。
んで、そのエネルギーが徐々に冷め、混乱も収まり、地中海世界もそれなりに安定してくると、その中で充足し、わざわざ未知の世界にでていく必要が・・・いや、この話の流れはいかん。
とにかく膨大なエネルギーを使い果たし、出ていきたい人たちは出ていって、で、休息の時代として、自らの世界に閉じこもるようになったと。
ユーラシア大陸の反対側までやってくるエネルギーはとてもなかったと。
んで、もしかしたら次の民族大移動もモンゴル、こんどはチンギス・ハーンの自発的な西への遠征が発端かもしれませんが。発端つうか意識としてのきっかけかもしれませんが。
まあそこらへんはゴニョゴニョでおいといて、自らの世界に閉じこもっていた地中海世界も徐々にエネルギーを溜め込みはじめ、あらたなるイスラム世界との戦争を含めた交流もあり、そのすぐれた文化に刺激もうけ、さらにエネルギーを溜め込み、溜め込み、溜め込み、そしてついに海にあふれ出た「いごよくひろまるきりすときょう」。
と、話をもっていきたいわけですよ。
Ⅵ:『会(たまた)ま』てのは、"たまたま"ですか
そうそう、諸葛亮さんが亡くなったときって本当に星が。
あ、これまた陳舜臣さんの「秘本三国志(六)」によりかかりまくりなんですけどね、正史「晋書・宣帝紀」の中に諸葛亮さんが亡くなったときのこととして『会(たまた)ま長星有り、亮の塁に堕つ』という記述があるそうです。
ちなみに宣帝というのは、諸葛亮さんが魏への遠征中に五丈原で病没したとき、その軍と対峙していた魏の重臣司馬懿仲達さんのことです。
で、諸葛亮さん率いる蜀軍が陣を敷いた五丈原はかなり切り立った(想像)台地で、ま、ある程度距離をとって台地下に布陣していた(想像)魏軍からは、見上げる五丈原に流れ星が吸い込まれるように見えたんでしょうね。
が、「晋陽秋」という書によるとそんなもんではなく、『星有り、赤くして芒角(ぼうかく)、東北より西南流し、亮の営に投じ、三投再還、往(おう)は大、還は少。俄かにして亮卒(しゅっ)す』、もうまるで、しし座流星群のように星が五丈原めがけて流れ堕ちたと。
まあ実際には、正史三国志「蜀書・諸葛亮伝」の井波律子さんの訳を引用させていただくと『赤くとがった星が東北より西南に流れて、諸葛亮の陣営に落ち、三たび落ちて二度は空に戻った(が、三度目は落ちたままだった)。落ちたときは大きく、戻るときは小さくなっていた。にわかに諸葛亮はなくなった』と。
陳さんも『孔明が死んだ夜には、天文に奇変があったのだ』とお書きになっています。
(注:正確ではないですが「三投再還」このような表現は、無念な思いで亡くなった人にたいする慣用句、みたいな話を読んだことあります・2013/12/05)
まあ「晋陽秋」のほうはおいとくとしても、たかだか一人の人間の死と天文がリンクするかい。
アホか。それこそ『会(たまた)ま』じゃ。とも思います。
が、天下三分という己の志に命を燃やしつくした諸葛亮さんが亡くなったとき、夜、『長星』が『有り』、諸葛亮さんの『塁に堕』ちたように人びとに見えたのも事実なんでしょう。
わざわざ正史にそう記すくらいなんだから。
もちろん『会(たまた)ま』なんでしょうけどね。
Ⅶ:井波律子さんの訳たよりで、正史三国志「蜀書・諸葛亮伝」をもとに書いております
三国分裂時代に終止符を打ち、天下を統一した晋の時代、魏・呉・蜀、残された三国の記録を「三国志」としてまとめた陳寿さん。
この方はもとは蜀の国の人ですが、晋の皇帝に下問され(?)、諸葛亮さんについてこの方自らの言葉で語ったところによると、『諸葛亮は幼少より抜群の才能、英雄の器量をもった人物でありまして』『当時の人は彼を高く評価しておりました』と。
で戦乱を避け、荊州の片田舎で農業をやりながらのんびり暮らしていた時、『左将軍の劉備は諸葛亮の並はずれた器量を認めて、三度も草ぶきのいおりの中に諸葛亮を訪問いたしました』そして『諸葛亮は、劉備の傑出した勇姿に深く心を動かし』主従の『契りをかわした』と。
いわゆる「三顧の礼」てやつですね。
諸葛亮さんご自身も、つうか↑の陳寿さんの言葉は、そもそもそれをもとに書かれているのかもしれませんが、諸葛亮さんご自身も「出師(すいし)の表」の中で『臣はもともと無官の身で、南陽で農耕に従事しておりました』『先帝(劉備さん)は臣を身分卑しきものとなさらず、みずから身を屈して、三たび臣を草屋のうちにご訪問下さり、私に当代の情勢をお尋ねになりました』『これによって、感激いたしまして、先帝のもとで奔走することを承知いたしました』とお書きになっています。
実際はそんなに見た目ドラマチックではなかったのかもしれないけど、「桃園の誓い」と違い、「三顧の礼」は本当にあったことなんでしょうね。でもこの邂逅の中で本当に「天下三分の計」が話合われたとしたら、見た目のドラマチックとは一切無関係に、その歴史的ダイナミズムは凄まじいものがありますね。
でですね、「蜀書・諸葛亮伝」によると、劉備さんが新野という場所にいたとき、徐庶(じょしょ)さんという方と会見したそうです。で、話してみて、劉備さんは徐庶さんをすごく有能な人物だと思ったそうなので、聞いてみたんでしょう。「このへんに誰か優れた人物はいない?」と。
すると徐庶さんは「ああ、そいでしたら、おいの友人に諸葛孔明というすごか男がおってですね、こん男は臥龍(がりゅう)、まさに寝ている龍ですたい。時が来たれば、天に昇りますよ」と。
「ほんと?それは会ってみたいな。君ちょっとつれてきてよ」
「いやいや、こん男はこっちから出向けば会えるばってん、呼び出しても絶対にこんですよ。そがん男です。本当に会いたかとなら将軍自ら会いにいったほうがよかですよ」
で、頃はいよいよ曹操軍の南下がはじまりそう。
なにかと状況が切迫し、人材に飢えていたということはあったと思いますが、不思議と劉備さんの中に閃くものがあったのでしょう。
『その結果、先主は諸葛亮を訪れ、およそ三度の訪問のあげく、やっと会えた』という流れになったみたいです。
そういえば司馬遼太郎さんは、劉備さんと諸葛亮さん、互いの出身地域から、もしかしたら最初は互いの言葉が通じず、筆談で話し合ったのかもしれないな、とお書きになられていましたね。
つうても諸葛亮さんの友人、すくなくとも知人だろう徐庶さんとは劉備さんつつがなく会見できているので、あんまり問題はなかったんでしょうけど、もちろん通訳がいたのかもしれませんが。
あ、でも司馬さんがおっしゃったのは、日常会話ではなく、「天下三分の計」みたいに重要でいりくんだ話をするには、互いの出身地域から、もしかしたら互いの言葉が通じがたい部分があり、だから筆談で話し合ったかもしれないな、という話だったかも。
なぜなら、話し言葉は違っても、漢字、書き言葉は全国共通だから。
(※たぶん。2013/12/05)
Ⅷ:戸籍
でも、ですね。
「魏略」という書には、劉備さんと諸葛亮さんの出会いは、劉備さんが諸葛亮さんのもとを訪ねたわけではなく、諸葛亮さんのほうから、劉備さんに会いに行ったと書いてありますな。
当時、河北地域をついに平定した曹操さん。
荊州在野の諸葛亮さん、こりゃいよいよここに曹操軍が大挙来襲するぞ、と予期します。
次のターゲットはここだ、と。
しかし荊州領主の劉表さんはいまいちぼんやり、この亡国の危機に頼りないことこの上ありません。
そうだ、あの男にこの危急を伝えてもどうしようもない。
そういうわけで、諸葛亮さんは、荊州北方の樊城(はんじょう)に劉表さんの客分として駐屯している、「あの男はあくまでも反曹操だ」と評判の劉備さんのもとを訪ねます。
もちろん自分の売り込みもかねています。
が、諸葛亮さんはまだ若く、劉備さんと初対面でもあったので、なかなかまともに相手をしてもらえません。
しかしなんとか機知をはたらかせて、劉備さんに自分の話を聞かせることに成功します。
※この馬は的驢ですぞ!とか(笑)。20200807。
「ところで劉将軍は劉表さまを曹公と比較してどう思われます?」
「およばないな」
「ではご自身と比較してはどうですか?」
「ん、やはり孟徳にはおよばないな」
「ええ天下広しといえども、今、曹公におよぶ者などおりません。その曹公が自ら大軍を率いてこの地を襲ったとき、劉将軍のたかだか数千の軍勢でどうやって戦おうというのですか?無謀すぎませんか?それとも戦わずにさっさと降伏しますか?」
「まさか誰が孟徳なぞに・・・しかしワシも軍勢の少なさは心配しておるのだ。孔明君、何かいい手立てがあるだろうか?」
きた!ここだ!
野心ギラギラの「魏略」での諸葛亮さん、おもわず身をのりだして。
「劉将軍!よくぞ訊いてくださいました!」
え~昨日から書きはじめて、やっと本題にたどりつきました。
ちなみに「魏略」では、諸葛亮さんのほうから劉備さんに会いにいったと書いてあります。
しかし諸葛亮さんご自身により、劉備さんの息子さん(蜀漢二代皇帝)宛に書かれた「出師の表」の中に『三たび臣を草屋のうちにご訪問下さり』とありますし、『(劉備さんに仕えてから)二十一年が経過しました』とありますから、まだ普通にそのあたりの事情を知っている人は沢山いたと思うので、やはり僕は劉備さんが諸葛亮さんのもとを訪ねたのだと思います。
が、ここで問題とすべきはそこではなく、「孔明君、何かいい手立てがあるだろうか?」への諸葛亮さんの返答なんです。
『現在、荊州は人口が少なくないのに、戸籍にのっている者は少しです』←当時、荊州は比較的平和で、諸葛亮さんみたいによそから避難してきた人も多かったんでしょうね。
『(その戸籍にのっている)一戸当り何人と平均して兵をとりたてれば、民心は喜ばないでしょう』
『(劉表さんにいって)国中に命令を下し、およそ戸籍にのっていない家があれば、みな戸籍に入れさせ、そこで彼らをとりたてて軍勢を増やすのがよろしいでしょう』
で、以前僕が書いた
『後漢第十代質帝の死んだ本初元年(西暦146年)には、中国全土の人口は4756万余。
そんで、それから約140年後、晋が天下統一した時点での中国全土の人口は800万そこそこ。
最初は僕も(晋が天下統一した時点での人口)800万といってもそれは長引く戦乱のせいで人口が流動的になり、行政組織も弱体化、単に正確な人口調査ができなかっただけじゃないの、と思ったんです。本当はもっと人口多かったろうと。
でも、たとえば、曹操が袁紹との事実上の天下分け目の決勝戦「官渡の戦い」に勝利し、当時の人口密集地帯、いわゆる"中原"をおさえたのは西暦で200年ころ。
これは呉の滅亡の80年前。
で、この80年間、"中原"はそれなりに平和、そこまで大規模な戦争はおこっていないと思います。これは乱世に翻弄された普通の人たちが、少しでもと平和や治安をもとめて集まってくるには、そこに定着するには、十分を通り越した期間だと思います。
それに後漢から続く行政組織が復旧、正常に機能しはじめるにも十分を通り越した期間だと思います。それに、なにより、たぶんですが、どの国でも戦争をするには、作戦計画を立てるには、徴兵にしろ輜重にしろなんにしろ、自国の人口の把握が一番大事な気がします。時は乱世、いい加減にやったとは思えず、かなり厳密に調べた気がします。』
で、やっぱり800万そこそこって数字はかなり正確だったんじゃないですかね。
この「魏略」はちゃんと調べてなかった、って話ですけど。
それは劉表さんの話ですし、で、荊州は滅んだわけですし。
※ごめんなさい。20180830。
で、「魏略」。
この本は、引用部分を読んだだけですが、「魏」の「略」つうせいか、いまいち「蜀」の諸葛亮さんへの当たりが強い気もします。
ただ、ほんと、当時の庶民は、権力者にみつかるとそっこう戦場送りだったんですね。
『中国の歴史 (三) 290-337ページ』
で、漢の臣を終生貫いた曹操さん、「劉氏を大切に」という遺訓を残されていても不思議ではないとおもいますが。
"曹操と孔明 ~乱世の英雄・知られざる素顔~"
8.3月10日まで 8月 30, 2018
Ⅰ:でも匈奴兵の鎧とかはなんとなく皮製っぽいイメージが僕にはあります
突然ですが、前漢初代皇帝の劉邦さんが屈辱的内容の講和をして以来、長いこと北方の脅威だった匈奴のみなさん。←ま、さくっと、匈奴を兄、漢を弟とする、みたいな感じでしたか。
を、ついに撃退した、前漢第七代武帝、の衛青(えいせい)霍去病(かくきょへい)両将軍。
司馬さんは、あ、武帝時代を生きた司馬遷さんではなく、司馬遼太郎さんです。
司馬さんは、今まで戦争では劣勢一方だった漢が、とつぜん匈奴を圧倒しえたのは、衛青、霍去病、両将軍の能力の高さももちろんあったろうけど、当時漢で飛躍的に進歩した製鉄技術が一番の理由ではないだろうか、みたいなことをお書きになられていたと思います。
まあ例によって記憶たよりで書いとりますが、今までは青銅製だったか、互いに同じような武器を持った歩兵の集団(漢) vs 騎兵の集団(匈奴)を、騎兵の運用に適した場所でやっていたから、漢としてはいかんともしがたいところがあった。でも製鉄技術の革新により、どうにも少量しか作れなかった鉄が大量生産可能になり、それにより漢兵の装備が青銅製から鉄製にかわり、戦闘の優劣が劇的に変化したと。
早い話が、匈奴兵の青銅製の矢が漢兵にとどく前に、漢兵の鉄製の矢は匈奴兵にとどき、匈奴兵の青銅製の矛は漢兵の鉄製の盾を貫けないけど、漢兵の鉄製の矛は匈奴兵の青銅製の盾をサクサク貫くと。
ある種、織田・徳川鉄砲三千挺な、イメージとしての長篠の戦いみたいに、一方的な戦況になったのではなかろうかと。←は、僕の想像です。
で、ですね、当時漢で飛躍的に進歩した製鉄技術。司馬さんが、あ、武帝時代を生きた司馬遷さんではなく、司馬遼太郎さんです。ま、司馬さんが本当にそうお書きになっていたのかあやふやですし、実際に当時漢で製鉄技術が飛躍的に進歩したのかも、僕にそれを調べる気がまったくないのでさだかでないですが、ここは飛躍的に進歩した!と言い切り話を進めます。
では、なぜ飛躍的に進歩しえたのか?
そう、匂ってきましたね。司馬さんが、あ、司馬遼太郎さんではなく、武帝時代を生きた司馬遷さんです。司馬さんが『高后は女主にして制(詔勅)を称し、政(まつりごと)は房戸(後宮の門)を出でずして、天下は晏然(あんぜん・やすらか)たり。刑罰、用いるは罕(まれ)に、罪人、是れ希(まれ)に、稼穡(産業)を務め、衣食は滋々殖(ますますふ)えたり』と高く評価した、どうも戦争もなく平和で、刑罰も厳しくなく、庶民には悪い時代ではなかった、悪い権力者ではなかった呂后さんの時代に、その鍵があるのではないか!?と話をもっていきたいわけですよ。
で、もしもこの匈奴の敗北が、玉突き民族大移動のきっかけならば、ローマ帝国を滅ぼしたのは呂后さんだったのだ!と話をもっていきたいわけですよ(六百年後くらいですかね)。
したがって、プラトン的なものが○○麻呂な日本にやってくるきっかけをつくったのは呂后さんだったのだ!と話をもっていきたいわけですよ(七百年後くらい・笑)。
Ⅱ:そういえば、司馬さんの文章の中に霍去病さんの名前に言及したトコがあった気もします
病という文字から、彼はもともと少し病弱だったのだろうか、と。
当時としても、若くして亡くなられたと思いますが、武帝も自分の陵のすぐ近くに彼の墓をつくらせていませんでしたか。
で、それはさておき、しかしですよ、青銅製の矢と鉄製の矢、ま、矢じりですが、そこが違うだけでそんなに射程距離が、匈奴の騎兵のみなさんの突撃を無効にするほど射程距離が伸びるんかい、とも思います。
まあ、実際はそんなに伸びなくても、こちらの矢は相手を貫くけど、相手の矢はこちらを貫けない、つうならまあいいんだろうな、とも思います。
とか書いてたら、司馬遼太郎さんの「長安から北京へ」の中に、『古代の(中国の)鉄のことを考えたい』からはじまる文章がありました。以下は司馬さんが『考え』られたものを、例によって僕が"抜き出し""入れ替え"たものです。
えっとですね、古代の中国はもともと周辺地域より金属文化の先進地帯であったと。
鉄でいえば、春秋時代の中ごろにはわずかながらも鉄器農具があったらしいと。
で、くだって戦国時代、もともと出自がそちらの遊牧民族だったらしいですが、西域から流入したすぐれた製鉄法をとりいれた秦が『列国にぬきん出て鉄器を多く生産』、それにより農業生産高が飛躍的に上昇、したがって『他の青銅器諸国よりも人口が多くなり』『軍団を多く持つことができ』『鉄製兵器をつかうことによって、切れ味のわるい列国の青銅器兵器を圧倒』『中国最初の統一帝国をつくった』と。
『金属を鋳るには、信じがたいほどにぼう大な樹木が要る』『一山の樹を伐りたおしてそれを木炭にし、それをもって砂鉄もしくは鉄鉱石を溶かしたところで、得られる鉄の量はわずかなものである』
で、『(秦の)あとを継いだ漢帝国はさかんに製鉄をおこした』、そのため『山野の樹木は大いに伐られたであろう』『伐られると土地は急速に乾き、復元することが困難になる』が、短期的視野では、そうしてつくられた『鉄器の爆発的な普及によって山野がよく開拓され新興地主が続出』、結果『漢帝国を富ませ』『軍事においても鉄器で鎧や刀槍が作られ』ついに『武帝の時代』『漢の富強期』をむかえたと。
で、矢。
『鉄のヤジリと青銅のヤジリとは、殺傷力はくらべものにならない』『鉄のそれはノミを矢柄のさきにつけたように重くするどく固く、これを飛ばせば青銅のそれより遠く飛び、相手の堅甲を破って骨を断つ効果をもっている』と。
で、『もしかしたら漢民族よりもあるいは早くに青銅冶金を知ったかもしれない』遊牧民族の匈奴の人たちが、何故に鉄製ではなく青銅の兵器を使用していたかというと、『鉄冶金が食ってしまうばく大な樹木の量が』匈奴のみなさんの地には乏しかったからではないかと。
もっとも『かれらもまた』『こんにちのバイカル湖付近において森林を持って』はいた。しかし『これが冶金とどう結びついたかについては、私の知識は欠けている』ともお書きになられています。
さて、そういうわけで、司馬さんは"当時漢で飛躍的に進歩した製鉄技術"なんて一切書かれてません。
『有史以来』『圧迫され続けた』『騎馬民族』をついに撃退した『武帝の功業』のタネ、『鉄器の爆発的な普及』は『新興地主階級の大形成と表裏をなす』と書かれています。
おや?
が、ですよ、では、なぜ『鉄器の爆発的な普及』を呼ぶ『新興地主階級』が『大形成』できたのか?
そう、匂ってきましたね。司馬さんが、あ、司馬遼太郎さんではなく、武帝時代を生きた司馬遷さんです。司馬さんが『高后は女主にして制(詔勅)を称し、政(まつりごと)は房戸(後宮の門)を出でずして、天下は晏然(あんぜん・やすらか)たり。刑罰、用いるは罕(まれ)に、罪人、是れ希(まれ)に、稼穡(産業)を務め、衣食は滋々殖(ますますふ)えたり』と高く評価した、どうも戦争もなく平和で、刑罰も厳しくなく、庶民には悪い時代ではなかった、悪い権力者ではなかった呂后さんの時代に、その鍵があるのではないか!?
『稼穡(産業)を務め』ここ重要!ではないのか!?と話をもっていきたいわけですよ。
んで、ここでユーラシア大陸の反対側に飛びまして、以前も書きましたが、昔、僕が「こんなん今読んでるんですよ」とイタリアの方に塩野七生さんの「ローマ人の物語」をみせたら、「ローマ(帝国)が何で滅んだか知ってるかい?ローマの皇帝がキリスト教徒を迫害し、その行為に怒った神に滅ぼされたのさ」と(たぶん)言われてました。ええ、英語だからようわからんかったんです。
つまりローマ帝国を滅ぼした怒れる神とはr(略)
Ⅲ:なかなか「ゴジラ対ヘドラ」にたどりつきませんな
え~しれっと書いておりますが、呂后さんについての司馬遷さんの記述は、読み方もふくめ、陳舜臣さんの「中国の歴史(二)」から引用させていただいております。
んでもってですね、そのまま武帝さんのあたりを拾い読みしていたら、どうして『ほかの歴戦の将軍が、あまり戦果をあげずに』、衛青・霍去病、『衛皇后の縁者の二人の将軍だけが、はなばなしい軍功を立てたの』か?
それは『武帝はこの二人に、選り抜きの精兵を与えたの』だ、と。
そう衛青さんと霍去病さんは、後宮ン千人(かどうかは知りませんが)の美女の中で、武帝が最も愛した衛皇后の弟と甥なんです。
『高祖(漢初代皇帝劉邦さん)の遺訓として、原則的には、戦功の無い者は列侯になれない』だから『愛する皇后の弟や甥を列侯にとり立てるには、戦争に勝つ機会を与えなければな』らない。
で、『二人の将軍はそれを生かし』たので『凡庸の才能ではなかった』だろうけど、『最高の装備(鉄器兵器でしょうね)と最強の精兵を与えられていたの』だから、『軍事的天才という評価は、いくらか割引かねばな』らないと。
あと高祖時代の漢を圧倒し、屈辱的講和を結ばせた英雄冒頓単于(ぼくとつぜんう)さんのころとは違い、当時の匈奴は、単于の座をめぐって(?)内紛がおこり、『活力は、すでに下り坂になっていた』と。
さて、ここで、またユーラシアの端から端にとびまして、昨日登場のイタリアの方。
一度「あなた、話す、何ヶ国語?」と聞いたことがあるんです。
すると伊、仏、英、と確かスペインが少々と。
で、僕が「ドイツ語は?」と聞くと、「わけわからん」と。←たぶん。
一人の人に聞いただけで話を進めますが、これってあれですかね、ローマ帝国内外ですかね。
で、ドイツ語は日本人には結構発音しやすいって話があった気がしますが、なにげにちょいと地面掘ったあたりで、匈奴の人たちがいたモンゴルあたりがぼんやりと浮かんじゃったりはしませんかね。
もちろん民族の話ではなくて。
Ⅳ:廖承志さん
ところで、話はまたかわりまして、司馬さんの「長安から北京へ」は、ざっくり、1975年に司馬さんが"日本作家代表団"の一員として中国に行かれたときの旅行記です。ちなみに当時の中国は、その末期ではありますが、文化大革命、まだまだ四人組のみなさんがブイブイいわしていたコロかと思われます。
廖承志さん。
『はるかに優勢な国民党軍と戦闘しながらの』1万2500キロの『陣地転換』、とはいえ『敗走にはまちがいなく』、『終了したときは、十人のうち一人しか生き残っていなかった』、"長征"に参加。中国革命を『日本の明治維新にことさら翻訳(直訳はむろんできないが・ママ)すれば、元勲でないにしても、幕末以来の生き残りの元老の一人といえる』。
父親は孫文さんの同志で、孫文さんを通じて、宮崎滔天さんとも縁が深かった。
後年、文化大革命発生時の「大変だ!皇帝(毛沢東さん)が宮殿に宦官(四人組さん)を引き込んだ」な思い出話を、僕が読んだ気がする方です。
で、北京滞在時のホテルの夜。
みんなが集まっていた団長である井上靖さんの部屋を、まだ三十代の唐家璇さん一人を連れ、廖さんが訪ねて来られたそうです。しばらく雑談して『辞すべくドアのそばまで行ってから、廖氏は重大なことを思い出したように、立ちどまり、井上靖氏のほうへむきなおった』
『井上氏の母堂は長命され、数年前に亡くなられた。重大なことというのは、そのことについての弔慰であった。』
『私も、母を亡くしました。
母親というものは、子供がいい年になっても、ずっと居てほしいものです。』
Ⅴ:蠡
司馬さんが中国にいかれたのは1975年の5月ですか。
で、司馬さんも音楽学院の見学時に、説明者の方から『江青(ジャンチン)同志にみちびかれて』という『おべっかというにおいの中に入る』言葉を聞いた、千万単位の人が犠牲になったといわれる文化大革命を推し進めた「四人組」の事実上のトップ、毛沢東夫人江青さん。
いまちょこっと調べたら、翌1976年10月逮捕、1981年に死刑判決。
後に無期に減刑されるも自殺されたと。
が、「来年のことをいうと~」もありますし、ここは司馬さんの旅にもどります。
え~と、これは解放以来、今に至る共産中国の一貫した史観なのか、この文化大革命時にとりわけ強調された史観なのか、よくわかりませんが、「匈奴について」。
『匈奴とは、数十万の騎兵をもつ奴隷制』であると、司馬さんは霍去病さんの墳墓の責任者の方に説明を受けたそうです
ここで司馬さんは、匈奴について『漢民族の農業社会に対し、単に商売ちがいの社会だと私は思ってきた』とお書きになられています。
『が、奴隷制社会であるとすれば』『漢帝国という新興地主勢力による「封建制社会」よりも前段階の社会』で、『あたらしい史観では』『克服されてゆくべき旧体制である』と。
そして『これによって、武帝の戦争の性格』は『奴隷制と封建制の制度の矛盾であり』『当時の段階では』『あたらしい封建制にとっては、正義の戦い』であったと。
さて、話は変わり、司馬さんが旅行中、太湖の湖畔の無錫市を訪れたときのこと。
司馬さんは蠡園(れいえん)という庭園のなかの宿館に泊まったそうです。
この蠡園は、春秋時代の名臣と名高い越国の范蠡(はんれい)さんが、主君を助け、仇の呉国を滅ぼし復讐を遂げた後、隠棲した館跡と言われているそうです。
この范蠡さん、日本人好みの悲劇の復讐者ではなく、伝説ですが、復讐後、主君の狭量さを恐れとっとと引退、他国で商人になり、巨万の富をきずいたそうです。
で、伝説はそこで終わらず、春秋一の美女といわれる西施さんと結ばれ、この太湖の湖畔で二人悠々自適な生涯をおくられたそうです。
『播州赤穂の浪士が復讐のあと四十七人がぜんぶ切腹してしまうという不条理な美学を二百年以上芝居として見つづけてきた社会に属している』司馬さん。
そんなん『大石内蔵助を商人にさせて巨富を得させ、野尻湖畔にでも別荘をつくらせて横にお軽でも侍らせた』ようなものではないかと『范蠡は復讐のあと、そういうことをしておったのですか』と、『けしからんといったような顔で(もちろん冗談でしょうが)』中国人の同行者の方に話されたそうです。
で、春秋時代というのは、司馬さんが「長安から北京へ」をお書きになった"今"の中国の史観では「奴隷制社会」になり、范蠡(はんれい)さんは非難されるべき奴隷主の代表であるだろうと。
しかしこの同行者の方は、『いかにもこの伝説が可笑しくて仕様がないといった表情で』
『まあ、伝説ですけれども』
Ⅵ:風神の門
いえね、昨日范蠡さんの伝説書いてて思い出したんですけどね。
ただこれは司馬さんの小説「風神の門」のラストシーンだったとおもうんですが、これまたン十年前に読んだ記憶のみで書きますので、まあフワフワしとります。
えっとですね、主人公の伊賀忍者霧隠才蔵さん、真田十勇士の一人として、打倒徳川に活躍します。
が、才蔵さんがどれだけ忍術を駆使して獅子奮迅の活躍をしようが、現実に過ぎ去った歴史が転覆するわけもなく、物語のクライマックス大阪夏の陣で豊臣家は滅亡。
才蔵さんの主君真田幸村さんや仲間の猿飛佐助さんたちはみな死んでしまいます。
己や仲間が命をかけた夢や野望はすべて潰え、仇敵である徳川が絶対的に確立した太平の世を生きることになった伊賀忍者霧隠才蔵さん。
さぞや無念だったことでしょう。
と、おもいきや、「風神の門」のラストシーン。
この方ももとはくノ一でしたか、ともに暮らしはじめた恋人に焚いてもらった風呂にゆっくりつかりながら、もう忍者はやめだ、そんな時代じゃねえ、というわけで。
「商人にでもなるか~」
な、感じだったと思うんです。
もちろん、あ、この「風神の門」は司馬さんの中国旅行より前に書かれております、で、もちろん、これは太平洋戦争に敗北した日本、んで、もう軍人はやめだ、そんな時代じゃねえ、「商人にでもなるか~」な見方もできるとは思います。司馬さんがこの小説を書かれた時代のぼんやりとした気分として。
でも、僕は、そういうことはすべておいといて、ホ~ホケキョとウグイスがまぬけに鳴いてるような、今後の人生への妙なウキウキ感があるラストが好きでした、ような気がします。
ええ"気"です(忍豪作家はもうやめだ、そんな時代じゃねえ、も、ありますね・笑)。
さて、話がかわります
安田喜憲さんの「地中の花粉」によるとですね、『昔の花粉の化石』を地中から取り出して調べると、モアイ像でおなじみ『イースター島には昔、ヤシの森があった』『この島は、深い森の島だった』そうなんです。
で、イースター島は溶岩でできている絶海の孤島ですが、島に一か所だけやわらかい『凝灰岩が噴出しているところがあ』るそうなんです。
で、そこで各村々のリーダに似せてモアイ像がつくられていた。
で、その『モアイ像を運ぶため』『コロを使』う。
そのため『たくさんの木が要』る。
同時に、最大で二万人ですか、増えた人口を養うため『タロイモやバナナを作る畑を耕作して森を破壊し』『どんどん木を切った』。
結果、全島を覆っていた(僕の想像)森は消滅。
『雨が降ると』、水を吸収する木々がないために(という言い方でいいのでしょうか)『表土が全部流され』『土地はやせ』『主食のバナナやタロイモが獲れなくな』った。
また、木がないために海にでて魚を獲るための船も作れず、『結果、十六世紀から十七世紀のこのイースター島は、大飢饉に直面した』と。
そう、人びとは『島の森を食べつくしてしまった』。
しかし絶海の孤島であるためにどこにもいけず、最後は『人間が人間を食う事態が引き起こされ』、イースター島の文明は滅んだ。
安田さんは『地球というのは、宇宙という広大な海の中にぽっかり浮かぶ島です』『地球の森を食べつくしてしまったら、どういうことが起こるか』『イースター島ときっと同じことが起こる』だからこそ『宇宙という海の中の小さな島、命の森の島である地球を守っていかなければならない』と話をしめられています。
おや?そういえばここにあるのは東宝特撮映画DVDコレクション第38号「ゴジラ対へドラ」ではないですか!
Ⅶ:でも「風神の門」での霧隠才蔵さん。真田幸村さんの部下ではなく、ちょっと一匹狼みたいな感じだったかも
さて、東宝特撮映画DVDコレクション第38号「ゴジラ対へドラ」(昭和46年7月公開)ですよ。
円谷英二さんがお亡くなりになり、なおかつ『邦画の衰退が強くささやかれ』て『潤沢な予算は望』むべくもない状況での『新しいゴジラ』の船出ですよ。
「公害」という重いテーマを作品の軸としたため、『その内容は暗いトーンで統一され』『一種のドキュメンタリー映画の観をも呈し』『シリーズの中でも最も異色な趣が強い作品のため』『熱狂的なファンも多く』『後年の作品への影響も非常に大きなものとなって』いるそうですよ。
で、僕も観て、なるほどそうだろうな、と思いましたよ。
もちろん詳しい人が観たら他にもたくさんあるのでしょうが、ゴジラさんが宇宙生物&ヘドロから生まれたへドラさんの体に手を突っ込み、中からへドラさんの存在の核でもある球体をとりだしたり、自衛隊の人たちが中部地区の電力をすべてとめ、対へドラさんな兵器にそれをまわしたりしたとこは、「おお、エヴァンゲリオン」と思いましたよ。
で、ここからぽんぽんぽんと。
やっぱり当時の学生運動には、こういった「公害」ってのも関係していたんですかね。
でも柴本俊夫(現・柴俊夫)さんが演じた若者、毛内行夫さんは、そういった運動とは無関係のノンポリということでしょうかね。
が、毛内さんが仲間と共に富士山麓で開いた野外フェスティバルの会場?に突如あらわれたヘドラさん。
「奴の体はヘドロだ。乾燥に弱い。火だ!火が奴の弱点だ!!」と毛内さんは仲間と、このあまりに巨大な敵めがけて、まるで石か火炎瓶でも投げつけるように火のついた木切れを次々と投げつけます。
が、まったく効果はなく、逆にヘドラさんに毒性をもったヘドロを吹き付けられあっさり一掃されます。
え~これはへドラさんが登場する前、都市から来た毛内さんたち若者が、火を焚き、「えじゃないか、えじゃないか、えぇじゃないか」とばかりに、バンドの演奏に合わせて踊っているのを、草むらの中から醒めた目でみつめる地元の老人たち、というシーンもふくめ、そういうことですかね。
で、この「ゴジラ対へドラ」は数字がかなり細かく出てくる気がします。
○○地区、死者何人、行方不明者何人、みたいな、怪獣による被害状況であったり、いろいろ。
他の作品もそんな感じでしたっけ?
そういえば僕が子供のころ、排気ガスとかの現在の数値が細かく出る電光掲示板があった気がします(今もあるかもしれないし、昔もなかったかも。ええ、あやふやです)。
んでそんな"気"で話を進めますが、そういうことですかね。
で、ゆっくりと向こうからやってくるヘドラさんをみてて、何かににてるな~と思ったら、あれでした、水木しげるさんが描く妖怪に(僕的には)にてました。
んでゴジラさん、ヘドラさんの攻撃にやられて片目が開かなくなっているじゃないですか。
おもわず「おい!鬼太郎!」と思いましたよ。
というわけで、今ちょいと調べたら、漫画連載もアニメも二年くらい前に終わっているけれど「ゲゲゲの鬼太郎」ちょうど大人気じゃないですか。
だってこの「ゴジラ対へドラ」公開年にアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」の第二シリーズが始まり、それにあわせ漫画連載も(掲載誌をかえて)再開してるし。
で、あの、そういうことですかね(笑)。
で、ほら、今って、やっぱり空気とか川や海の水とか、当時と比べたら絶対によくなっていると思うんですよ。
全体にならして考えれば。
だから僕は人間そんなにすてたもんじゃないって思っちゃうんです。
Ⅷ:自衛隊の人たちが中部地区の電力をすべてとめて、これ自衛隊の人たちが関東、中部地区の電力をすべてとめて、でした
でもですよ、たとえ『江青(ジャンチン)同志にみちびかれて』という発言に『おべっかというにおい』があったとしてもですよ、これしょうがないでしょ。だって誰が何を聞いているかわからないんだもん。実際によその国のお人とはいえ、司馬さんも、中国で見聞したものをこうして詳細に文章にされているわけですし。
反革命。
ある日、ある時、今まで存在していた人がいきなりいなくなる。
の、いなくなる人には誰だってなりたくないと思います。
といいますかね、これまったく確かめず、雰囲気で書きますけどね、司馬さんが最初に「長安から北京へ」としてまとめられる旅行記を中央公論に発表したのは、1975年11月から翌76年7月までなんですね。四人組のみなさんが失脚する前なんですね。で、ほんとうに雰囲気で書きますけどね、司馬さんが中国滞在中に接した中国のみなさん。
あ、ちょっと話かわりますが、これも記憶たよりですが、「街道をゆく」で最初に司馬さんが韓国に行ったのは朴政権下。んで、とある人に「韓国に行ったら旅行中ずっとKCIAにマークされるらしいよ」と忠告を受けたそうです。
KCIA。映画「KT」のイメージ"のみ"で書きますが、KT・金大中さんを東京のホテルで拉致し、暗殺しようとした、拷問、謀殺、なんでもござれのKCIAさんですね。ま、KCIAという固有名詞ではなく、諜報機関みたいな言い方だったかもしれませんけどね。んで、それを聞いて司馬さんは「へ~ずっと隠れてついてくるんだ。俺についてきても何もないのに。暇なんだな?」と思われたそうなんですね。これはポーズではなく、本当にあまり気にしない人だったと僕は思うんですね。
※佐藤浩市香川照之ゴミ処刑。20180830
が、これはあくまで司馬さん当人の問題。つうわけで、ほんとうに雰囲気"のみ"で書きますが、司馬さんが中国滞在中に接した中国のみなさん。名前が出てくる人と、出てこない人(同行者みたいな言い方)がいらっしゃるんですね。たぶん名前が出てくる人の名前が出てこない場合もあると思うんですね。
で、これはあくまで僕の思いつきです。
司馬さん、もしかしたらむちゃくちゃ相手の立場に配慮して文章書かれていませんかね。もちろん権力持っている人が本気で調べりゃすぐわかることなんでしょうが、文化大革命時の体制の"公式見解"に則っている、抵触しない、てのは相手の名前を書き、則っていない、抵触している、とまではまったく言えなくても、抵触していると揚げ足をとられる可能性が少しでもある、てのは同行者みたいな言い方で名前を出さない。という使い分けを意図的にされていませんかね。
だって誰が何を読んでいるかわからないんだもん。
つうか読むに決まっている。
司馬さんも旅の終わりに、江青さんとともに逮捕、失脚した『中国における要人を六、七人あげれば十分その中に入る』姚文元さんの『礼見』を受けている。かといって日本人の司馬さんに文化大革命時の中国の体制の"公式見解"に則った文章を書かねばならん義務はまったくない、書く気もない。
でも反革命。
ある日、ある時、今まで存在していた人がいきなりいなくなる。
は、避けたいでしょ。
※いえ、全く。個人的見解です。20180830。
Ⅸ:礼
さて『文革で中央に出てきた。というよりも、文革ののろしをあげた闘将』。『一九六五年、「"海瑞罷官"を評す」によって北京市副市長 呉晗氏を攻撃し、文革の口火をき』り、『「三家村を評す」によって彭真氏らの北京派が崩壊するきっかけをつくり』『「労働者階級は必ずすべてを指導せよ」でもって文革派の政治的方向を明示した、といわれる』姚文元さん。
この姚さんの『接見』を、その逮捕失脚の一年半くらい前ですかね、司馬さんたち"日本作家代表団"のみなさんが受けられた顛末ですが・・・
えっとですね、旅ももうあとわずか、今いる上海近辺を見学してあとは帰国を待つばかり、のはずが、庭園を参観中に「偉い政治家があなた達と会うから急いで北京にもどってくれ」という伝言が来たそうです。で、「その政治家は誰ですか」と聞いても、「まだ名前はわからない、しかし急いで北京にもどっていなければ、先方が(不意に)指定してくる日時に間に合わない」、と言われます。
司馬さんは、そんな接見など『どうでもいいではないか』『客に対して、失礼ではないか』と思うも、『公式の招待旅行である以上』『勝手なことはいえず』、それに『個々の意思を停止させ、思いもよらぬ所へひっぱられてゆく』"命令"というふしぎなものの感覚を、軍隊以来ひさしぶりに『体験するのも、旅の楽しみに繰り入れてもいい』と、たぶん無理やり思うことにされたみたいです。
で、まだ日が高いうちに北京にもどり、午後八時をすぎたころ、『会見は、中国共産党中央委員の姚文元氏です』との伝達がきて、『「むずかしい話題を持ち出されないよう、お願いします」と、くりかえし、注意』されつつ人民大会堂に向かいます。
司馬さんは『むずかしい話題とは政治むきのことらしく』『このことは、よく理解できた』『姚氏ひとりが独自の判断で答えるというわけにはいかないからであろう』、つまり『会見はあくまで儀礼』なのである。『礼とは、本来、内容のないもので、内容があれば礼にはならない』。
しかし『姚文元氏と私は、近代精神からいえば、個と個にすぎず、相手に失礼にならないかぎり、あらかじめ話題の制約をうけることはあるまいとも思い』、文革でさかんに礼教を排撃しているのに、姚文元さんはその尖兵であるはずなのに、『やはり、中国は礼教の国であるのか』『と、不思議な思いを持』たれたそうです。
で、その会見自体は"礼"つまり"空"なのでおいといて、事前の説明は『文芸評論家の出身です』のみだったらしい姚文元さんを司馬さんが間近でみた印象は、『かれは粗末な綿服を着、実用的な靴をはき、紺のクツシタがひどく短く』『クツシタにいたるまで、街や野で働いている人達のそれと同じものをはいていた』。
その表情は『まことに温雅で』はあるものの、『私の常識の中にある政治家(諸価値の調整者という意味での)の顔ではなかった』。
『やはり多分に思想家の顔で』『諸価値を調整するよりも一価値を思索し』『発展させ』『あるいは他の敵対的な価値と戦うといったような感じであった』。
あ、文芸評論家の文字でおもいだしました。
以前僕が引用させてもらった柄谷行人さんのご発言。
『批評家っていうのはやっぱりほうっておくとすごい権力意識があるんですよ』
『小説家を支配しようっていうね。文学運動なんかをやる人はそうよね』
『テクストを解放するなどといっても同じだね。解放する人は支配するのだから』
『文芸批評家の権力意識っていうのはものすごいわけ。普通の政治家よりも格段に強いです』
『中国における文革は何をめぐって発生したと思いますか。文芸評論をめぐってだ』
さて、この会見から約一年半後ですか、1976年10月姚文元さんは逮捕されます。
これはやっぱり彼らの権力の源泉である皇帝、その死。
つまり毛沢東さんが9月に亡くなった影響が大きいんでしょうか。
呂后さんのときもちょっとおもいましたが、僕は生まれてこの方一切無縁なので、実際のトコはわかりませんが、権力って不思議ですね。
民衆には悪い権力者ではなかったかもな呂后さんですが、宮廷では一族あげてかなりエグイことやりたおしてます。だから呂后さんが亡くなると、そっこう呂一族の大部分が粛清されています。
でもこの老婦人が生きている間は表面上は何事もおこりませんでした。
つまりある人物が生物として生命を保っていること、それ自体が権力のオオモトであると。
そういえば、フルシチョフさんでしたか。
ソ連共産党の大幹部が集まって会議をしているところに「スターリンが死んだ」という連絡があった。
その瞬間、みんないきなり明るくなった、みたいな話をされたのは。
※road gang,gang up on{against}20180830。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
文章はここまでです。
次の日、東北大震災発生。
『中国の歴史 (三) 290-337ページ』
で、漢の臣を終生貫いた曹操さん、「劉氏を大切に」という遺訓を残されていても不思議ではないとおもいますが。
"曹操と孔明 ~乱世の英雄・知られざる素顔~"
『中国の歴史 (三) 338-453ページ』
"中国 第4巻 西安 覇者たちの夢のあと"
"シャーロック・ホームズの冒険 第23話 悪魔の足 (日本語吹き替え)"
"The Beatles - The Rooftop Concert (Full Concert, 1969)"
"01 Two of Us"
"02 Dig a Pony"
"03 Across the Universe"
"04 I Me Mine"
"05 Dig It"
"06 Let It Be"
"07 Maggie Mae"
"08 I've Got a Feeling"
"09 One After 909"
"10 The Long and Winding Road"
"11 For You Blue"
"12 Get Back"
ボブデュランはゴミ処刑。
で。
"エリア88 映画版 (ACT I・ACT II)"で。
"冷戦〈24回シリーズ〉第16回 デタント 緊張緩和 1969-1975"
"冷戦〈24回シリーズ〉第17回 第三世界への波及 1967-1978"
おれが今まで読み飛ばし聞き飛ばし観飛ばししてただけかもしれませんが、ニクソンさん大統領在職時にクレムリンを訪問されていたんですね(笑)。
ダブル‐スタンダード〘名〙 (double standard) 仲間内と部外者、国内向けと外国向けなどのように、対象によって異なった価値判断の基準を使い分けること。出典 精選版 日本国語大辞典精選版
二重基準【にじゅうきじゅん】ダブル・スタンダードdouble standardとも。一般語としては文字通り〈二重の基準〉をいうが,とくに同じことをしてもその行為者が男性であるか女性であるかによって評価の基準が異なること。また,その評価の基準の意で用いられる。たとえば女性は家事労働ができて当たり前とされる一方,男性はできなくても当たり前で,手伝うだけでもすばらしいとされるような事態である。性差別の典型的な現れと言える。出典 株式会社平凡社
フレキシブル〘形動〙 (flexible) しなやかなさま。柔軟なさま。また、融通のきくさま。※自然科学者の立場から(1946)〈武谷三男〉「フレクシブルな頭脳に於て」出典 精選版 日本国語大辞典
"【ゆっくり解説】転売ヤー炎上 模型店で犯罪まがいの行為…「ガンプラを巡って口論」「廃棄ダンボールを漁る」「バックヤードに侵入」など【ゆっくりニュース】"
そう言えば、昨日仕入れた情報で、"有名ユーチューバー"て"事務所"にエライ搾取されてるんだって。
"閲覧数はどうにでもなる""まずナンバー1だと言えばすぐにバカが寄ってきてナンバー1になるから順番が違うだけで嘘ではない"前提で。
稼いでないんだろうねそもそも。
ま、立花隆さんが"田中金脈(ごめんなさい・笑)"を暴いた時、"そんくらい俺でも知ってるわ""大したことない"と裏で言う報道関係者が多く、"知ってんだったら言えよ"と、そんな感じ(おれ芸能業界の大物のみなさんとの太いパイプができてしまい・笑)。
そうそう、たとえば、ここんとこ、おれのここ、閲覧数ずっと0(たまに1)。
ゴミは処刑な。20220502。
"宇宙戦艦ヤマトⅢ 第23話 激戦!スカラゲック海峡星団"
宇宙戦艦ヤマトⅢ 第24話 シャルバート星の秘密"
"宇宙戦艦ヤマトⅢ 第25話 ヤマト あの太陽を撃て!"
ささきいさおゴミ処刑の声はすべて西崎義展さん。
"LP「交響組曲 宇宙戦艦ヤマトⅢ」A面【自作フォノイコライザーSPPE-4(MM) レコード再生音】"
"LP「交響組曲 宇宙戦艦ヤマトⅢ」B面【自作フォノイコライザーSPPE-4(MM) レコード再生音】"
"01 KISS ME"
"02 YOU'RE THE RIGHT"
"03 MEMORIES OF BLUE"
"04 RAINY BLUE"
"05 GOOD LUCK MY LOVE"
"06 SON OF A BITCH"
"07 DECADENT"
"08 URBAN DANCE"
"09 GET READY'TONIGHT'TEDDY BOY"
"10 WILL"
and
"01 VIRGIN BEAT (Re-Mix)"
"02 BREATHLESS"
"03 SHAKE THE FAKE"
"04 LOST IN THE DARKNESS"
"05 HYSTERIA"
"06 FOREVER RAIN"
"07 DON'T SAY GOOD BYE (Re-Mix)"
"08 DOWN TOWN ARMY"
"09 LONESOME DUMMY"
"10 BLOW"
"11 TRUE BELIEVER"
and
"01 LOST IN THE DARKNESS (SHAKE THE FAKE TOUR 1994.12.24・25)"
"02 CRIME OF LOVE (SHAKE THE FAKE TOUR 1994.12.24・25)"
"03 HYSTERIA (SHAKE THE FAKE TOUR 1994.12.24・25)"
"04 JEALOUSY (SHAKE THE FAKE TOUR 1994.12.24・25)"
"05 LONESOME DUMMY (SHAKE THE FAKE TOUR 1994.12.24・25)"
"06 URBAN DANCE (SHAKE THE FAKE TOUR 1994.12.24・25)"
"07 STRANGER (SHAKE THE FAKE TOUR 1994.12.24・25)"
"08 LOVER' S DAY (SHAKE THE FAKE TOUR 1994.12.24・25)"
"09 BLOW (SHAKE THE FAKE TOUR 1994.12.24・25)"
"10 KISS ME (SHAKE THE FAKE TOUR 1994.12.24・25)"
"11 LOVE&GAME (SHAKE THE FAKE TOUR 1994.12.24・25)"
"12 WILD AT NIGHT (SHAKE THE FAKE TOUR 1994.12.24・25)"
"13 TASTE OF MONEY (SHAKE THE FAKE TOUR 1994.12.24・25)"
"14 ANGEL (SHAKE THE FAKE TOUR 1994.12.24・25)"
"15 ALISON (SHAKE THE FAKE TOUR 1994.12.24・25)"
"16 VIRGIN BEAT (SHAKE THE FAKE TOUR 1994.12.24・25)"
"17 SHAKE THE FAKE (SHAKE THE FAKE TOUR 1994.12.24・25)"
ここでベリッと。
『すくらっぷ・ブック 第4巻』
"MASTER キートン CHAPTER:19 空へ・・・"
"MASTER キートン CHAPTER:20 臆病者の島"
"MASTER キートン CHAPTER:21 アザミの紋章"
で。
15年ぐらい前?引っ越しの手伝いの時に一度お会いしただけだからはっきりとは分からないけど、その女性の方、三宅(雄一郎)さんが同棲してた彼女(当時ハロモニとかに衣装を提供していたショップの店長さんと聞いてたけど・結婚したと聞いたような・笑)?
おはようございます
今日は朝から
本当は、、、
アボカドも買ってたんやけど、、、
大はずれアボカドで。。😭
食べられませんでした
本当はね、、
生ハムも買ってたから、前にも作った↓
これを作りたかったんやけど
アボカドが食べれないことにより、、、
モッツァレラチーズを細かく切るのもなんかやめて
生ハムもとりあえずやめて
こんな感じにしました
アボカド食べれなかったのは残念やけど
美味しかったです
半分くらい残ってるので
お昼ご飯にパンと一緒に食べよーっと
(最近、フランスパンに生ハムとクリームチーズ挟んで食べるの、ずっとハマってる)
あ
モッツァレラチーズといえば、
少し前に
モッツァレラチーズ使って
こちら、作ってみました
モッツァレラチーズ、
よくサラダに入れて食べてて、だいっすき❤️なんやけど、
この日は
サラダで食べるつもりやったモッツァレラチーズの賞味期限が切れそうで、、
でも、野菜がない!
何か家であるものでモッツァレラチーズでお料理できんかな!?
って、YouTubeで調べて作りましたっ🫕
これも美味しかったなぁ〜
やっぱりチーズ大好き
昨日の夜の私❤️
今日も頑張りますー❣️❣️❣️
またあした。
(●´Д`ε`○)。
おやすみれいな(●´Д`ε`○)。
おやすみえり(●´Д`ε`○)。
(●´Д`ε`○)。
おやすみさゆみ(●´Д`ε`○)。
おやさゆみん(●´Д`ε`○)。
(●´Д`ε`○)。
20220505。
💝お知らせ💝
内容は、、、
パフェを作って、食べる!
です!!!
ちょっと前から、自分でパフェを作ってみたくて!
この間、ブログには載せたけど♡
ちなみにまだそのパフェグラスでパフェ一度も作ってないので、インスタライブで人生初のパフェ作りになりそう…!!
パフェにちなんで?
お友達とパフェ食べに行った時の写真❣️
これ、去年の写真や😆笑
めっちゃ撮ってくれてたから
めっちゃ載せるね、去年の私を
やっぱりこの頃に比べて髪の毛伸びたなぁ、
ロングにしたい気分だから嬉しい
マンゴーパフェ美味しかったなぁ
パフェにスターフルーツのってて、
トレーナーの星合わせて
4スターになるやん!!!
ってめっちゃはしゃいでた
大好きな、
CONVERSE TOKYOのトレーナーです⭐️
『このトレーナー着てきてよかったーーーー!!!!!!!』
『なんなら買ってよかったーーーー!!!!!』とまで言ってた
4スター作れて、嬉しそうすぎ!!!笑
仲良しお友達🍉
今日は、
お昼ご飯に、
KALDIのハリッサを使って❣️
野菜炒めを作りました
なんかあんまり美味しそうに写真撮れんやったけど💦笑
美味しかったよー
今回は、
ちょっと前に初めて買ったハリッサをどうしても使ってみたたかったのと
野菜がダメになりそうだったので
急いで野菜炒めにした
ハリッサ美味しかった
ほかにどんな調理法があるかなぁ???
おすすめレシピもしあれば教えてください
ちょっと前の私。笑
では今日も頑張りますっ!!
そういえば、位置が変わっても動かないね(笑)。
※1時間42分12秒の映像中、おれの使用許可がでたのはここだけだった(現状佳子は無理笑)。でね、これで1万分の1ぐらい?ひたすらできるけど、他にやらなきゃいけないことあるので、とりあえずこれで(笑)。声紋チェックはいいんじゃない?
タイトルは"急に全てが嫌になったウーパールーパー16"。
おはれいな(●´Д`ε`○)。
おはようえり(●´Д`ε`○)。
おはようさゆみ(●´Д`ε`○)。
おはさゆみん(●´Д`ε`○)。
ピーマンの肉詰め、作りました
ちょっと形崩れちゃった
帰り道、お腹空きすぎて気持ち悪くなってたので、おうち着いたらいっそいで作って!笑
でも多分、急いでたから、お肉のこねが足りなかったのかも
まぁでも!
味は美味しかったぁ〜
全部食べたらお腹いっぱいになりすぎた(同意見・家族一同これで一つ三千円とは!とうなりながら美味しく頂きました・笑)
(●´Д`ε`○)。
おやすみえり(●´Д`ε`○)。
おやすみれいな(●´Д`ε`○)。
おやすみさゆみ(●´Д`)ε`○)。
おやさゆみん(●´Д`ε`○)。
(●´Д`ε`○)。
20220508。
今日のお昼ご飯でした〜
アボカド美味しすぎ🥑大好きっ❣️
あと、
久しぶりに豚しゃぶサラダ作りました
トマトと赤パプリカで
赤
って感じになって、緑足したくなったので、ネギふりかけました
ドレッシングは
ポン酢とごまだれと玉ねぎドレッシングを混ぜました
美味しかった〜
あと、これに、食パンも食べたら、、、、
お腹いっぱいになりすぎたぁ〜😪
今日も、がんばろ(●´Д`ε`○)。
おやすみえり(●´Д`ε`○)。
おやすみれいな(●´Д`ε`○)。
おやすみさゆみ(●´Д`ε`○)。
おやさゆみん(●´Д`ε`○)。
(●´Д`ε`○)。
20220510。
ソファの上で
体育座り?する感じで膝の上にiPad置いて
iPadからサユランの曲かけて
目つむって歌詞を頭の中で思い浮かべて歌ってたんですけど、
目をつむったら最後。
1曲目でもう寝てました。🙃😇😪😴🙃
諦めて、移動してちゃんと寝ました
。(●´Д`
さてさて、、、、、
見てください
どうしても、どうしても、、、
マックが食べたくて
食べました
おいしすぎるーーーー!!!!!
マックポテト天才🍟✨✨✨✨
ハンバーガーは
初めてのものを頼んでみました!
てりやきチキンフィレオ
美味しかったです😆
満足!!!!
今日も頑張りますーーーー(●´Д`ε`○)。
おやすみえり(●´Д`ε`○)。
おやすみれいな(●´Д`ε`○)。
おやすみさゆみ(●´Д`ε`○)。
おやさゆみん(●´Д`ε`○)。
20220511。
で。
で。
"【三国志】呉の歴史が全てわかる呉の全武将53人解説全まとめ【前編】"
"【三国志】演義とは全くキャラが違う!?傲岸不遜な呉のインテリヤクザ・魯粛"
西田敏行岩田剛典渡辺直美ムロツヨシ小栗旬偽大泉洋ゴミ処刑。
"【三国志】呉の歴史が全てわかる呉の全武将53人解説全まとめ【後編】"
"【三国志】蜀の歴史が全てわかる武将46人全まとめ|黄巾の乱から蜀の滅亡まで主要な武将を完全解説"
※そういえば、おれは読んだことないんですけど、たしか柴田錬三郎さん版三国志『英雄ここにあり』の続編『英雄生きるべきか死すべきか(でしたか?)』の主役は姜維さんでけっこうなボリュームでした。20220506。
で。
20200818 劇場版 銀河鉄道999
and
幻魔大戦同様、音楽は矢沢永吉さん田中眞紀子さんご夫婦。ゴダイゴ(ゴミ処刑)名義の曲はキャロルさん。
"グッドバイ キャロル"
8月 23, 2019 手塚さんの三つ目がとおるで、"幽霊船"実は船底潜航艇、というのがありましたが、松本さん宇宙戦艦ヤマトの第三艦橋はそういうことでしょうか(笑)?