we are amaterasu kingdom dimensionsLXXXVII。

ときたまのりたま2011.1.2-2011.3.10 

その後の文章、です。
おおまかには、2011年の正月から東北大震災の前日までの約2カ月半のブログ。
今現在(2014年6月18日)、僕が、僕の意識の上で、本当に普通に生活できていた最終期の文章でもあります。
この年の年末、僕は20年ぶりに東京から故郷の長崎県佐世保市に帰り、今にいたっています。

0.2011 8月 28, 2018

Ⅰ:さてもう二日ではありますが、あけましておめでとうございます 

あたらしい一年のはじまり、つうことで、去年おこった嫌なコトは全部水に流し、新鮮な気持ちで2011年を迎えようではありませんか。

あ、もちろん去年おこった良いコトは水に流さず、ちゃんと記憶の引き出しのわかりやすいトコにしまっときましょう。

では皆さんによい一年でありますように。

Ⅱ:迷羊

ひさしぶりに北野武さん(ゴミ処刑)の「HANA-BI(ビートきよしさん脚本と監督)」観ます。
「ソナチネ(ビートきよしさん脚本と監督)」も観たい気分なんですが、現在僕にそこまでのパワーがなく。
つうと「HANA-BI」にパワーがないみたいですが、そういうわけではもちろんなく、「門」と「三四郎」で今は「門」を読みたい気分なんです。

僕は三部作のなかでは「門」に一番ひかれます。
何度も読み返したのはまちがいなく「それから」ですが。

と書いていたらふと思いました。
僕は以前『日本は滅びる』と言ったのを「こころ」の"先生"だと書きましたが、あれって「三四郎」の冒頭"三四郎"が上京する汽車のなかでの話ではありませんでしたか?どうでしたか?

あれれ?

※ビートきよしさんは、よくよくみれば、盛岡出身のおれの友達松ちゃん(元気?)に似てる、は、関係ないですが(笑)、黒澤明さんが、ゴミ処刑のビートたけしと"対談"した時、「ぼくは"ビートくん"の映画が好きでね」、と、"ビートくん"としか呼ばなかつた。
と、これはゴミ処刑と俺が言い出す前、ツービートの漫才を一つだけ見た時、「"よしなさい"しか言ってないって、これ漫才を回してる、面白さを増幅させてるのはきよしさんじゃないか」とおもった感想を素直にとって。
で、これも、以前直感で言っただけですが、ビートきよしさん、大久保清さん、永山則夫さんは、トリオ漫才じゃないのか、と。20210601。

Ⅲ:迷犬

え~、はい、ま、でした。「三四郎」でした。
場面は物語冒頭、三四郎が大学進学のため熊本から上京中のこと。

汽車で乗り合わせた男が停車駅で見かけた西洋人と自分らを見くらべ、どうも西洋人は美しい、対して私たち日本人は哀れなものだ、日露戦争に勝ったからといってそれがなんなのだ、この国は日本人はすべてが貧相だ、彼らに自慢できるものはせいぜい天然自然に昔からある富士山くらいしかないではないか、と日本(人)をくさすので、三四郎が 。

『「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。
すると、かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った。』

でした。


1.正月そうそうなんですがな話ですが 8月 28, 2018

Ⅰ:寝起

つうかね、三ヶ月ぶりくらいに酒(発泡酒500ml)飲んだわけさ。
するとそっこう撃沈、寝まくり、したがって起きまくり、なんであるならば寝まくり、つまり起きまくり。んでちょっと頭痛かったり。

でも随分アルコール飲んでなかったなと思ったらアレですわ、だから、寝まくり、したがって起きまくり、なんであるならば寝まくり、つまり起きまくり、に、なるから、つまりまだ寝るには早い変な時間に、寝まくり、したがって起きまくり、なんであるならば寝まくり、つまり起きまくり、に、なるから、アルコール摂取しなかったんだわ。
つまり、これからも、寝まくり、したがって起きまくり、なんであるならば寝まくり、つまり起きまくり、に、なるから、アルコール摂取しないんだわ。

Ⅱ:そっこう

「そっこう○○する」
「そっこう○○した」

の、そっこう。

俺いつもこのことばを使うとき、漢字どれ使いましょ?と「?」になるん。

即効・速攻・速効・即行・・・

もちろん場合にもよるんだけど、己の気分としては"速攻"がいちばん"そっこう"としてしっくりくるのね。
でもどう考えてもこの場合の"そっこう"は"即効"、この場合は"即行"だよな、つうこともまあ当たり前にあるのね。

でも実際に文字にしてこう文章を見たとき、あくまで自分の中だけの話として何かしっくりこないのね。
やっぱり"そっこう"という言葉に対しては"速攻"を使いたい自分がいるのね。
でもそこで"速攻"をつかってしまうと、やっぱりこの場合の"そっこう"は"速攻"ではなく"即効"、この場合の"そっこう"は"即行"だな、つう考えがどうしても頭に残る場合があるのね。

どうにも気持ち悪いのね。
というわけで、今後僕が"そっこう"をつかう時は"そっこう"に統一することにしたん。

さて、風呂はいろ。

で、風呂あがりまして、"ワタシ"なんだけどね。
いえね、これはもうナチュラルに不統一になってしまっているんだけどね、「風呂前」の文章の前半部の"ワタシ"は"俺"、後半部は"僕"を使ってしまっているのね。

でもあくまで自分の中だけの話で、やっぱり前半部の文章の流れ・雰囲気では"俺"、後半部では"僕"をつかうのがどうにもしっくりくるのね。
たとえばそれを逆にしてみると、ものすごく気持ち悪いのね。
というわけで今後僕が"ワタシ"をつかう時は英語の"i(アイ)"に統一することにしたん。

とはいきませんな、やっぱり。

Ⅲ:さて本を読む男で。

神坂次郎さんの「元禄畳奉行の日記」。

時は元禄、尾張名古屋の一中級武士が二十六年間延々書き続けた日記の注釈本、という言い方で。


裏に二十七年て書いてある。


「元禄(御)畳奉行の日記」だった。

この頃は、お犬様を筆頭に一切の殺生を禁じた(人間は別なのね)「生類憐れみの令」まっさかりのころではありますが、尾張のこの方将軍綱吉を日記でくさし、「では俺は殺生に行く」と何度も魚釣りにでかけられていますな。

この方が気骨があったというよりも、そもそも藩として地元(本音)と江戸(建前)だったんですかね。
この方も「江戸の人は気の毒だわ」と書いてます。

Ⅳ:うぉ

あELOだ!

今かなりどうでもいいことに気づきました。
これ間違って変換すると、あエロだ!になる。

ん?

あれ?

"ろ"は"ro"か?
"lo"は"ぉ"になるな

普通に「ひらがな」で"elo"と打つと"えぉ"になると。

んで。

"elo"と小文字で打ちまとめて変換すると"エロ"になる。

と、今かなりどうでもいいことに気づきました。

あZEPPELINだ!

えっとついでにコレは"ぜっぺぃん"になりますな。
何気にコレは発音難しくないですかね。

あWHOだ!

コレは"うぉ"ですな。


日本語の発音的には"uwo"?

あれ?

"wo"だと"を"か?
それとも"ぅお"?
"ぅを"とか?

あれれ?

俺の中の"wo"を「ひらがな」でどう表現すればよいのだ?特に最初。
"を"と"う"のあいだの"w"。

素直に"うぉ"?

つまり"who"?

(※これならんな、どうやったんだろう?・2014/06/18)

Ⅴ:幼児凄え

あ、そうそう。

ざっくりいくけどさ、いま幼児(男)の平均身長みたら”2歳6ヶ月~3歳 85.0~97.2cm”だったのね。

で、成人男子の平均身長はだいたい171~2cmくらい。
で、その身長差はこれまた幼児を高めに設定してざっくり1.75倍くらい。
んで、俺の身長が小数点四捨五入で176cmくらい。で1.75かけまして308cm。

べつに異生物でなくても、3メートル8センチのオッサンにむこうから満面の笑顔で「おお、カワイイ子だなぁ」とドスンドスンとやって来られたらやっぱり失神・失禁コースじゃね?

やっぱり幼児凄え。

では、しばし「元禄御畳奉行の日記」を読みたいと思います。
どわ紅茶こぼした。ぶちまけた。中惨事。

で、本が三冊ほどえらいことになりましたが一応ふき取りまして、では「元禄御畳奉行の日記」へ。

Ⅵ:いやいや元禄の尾張名古屋は事件だらけです

でも「元禄御畳奉行の日記」。
この本が最初に世に出たのが1984年ですか?
んで今僕が読んでる文庫が1987年初版発行となっていますな。

んで解説に代えてということでしょうかね、巻尾の山崎正和さん、丸谷才一さん、木村尚三郎さんの鼎談「元禄の週刊誌記者が見た日本」がおこなわれたのが1985年(文藝春秋より転載となっています)。
これからバブルに向かっていく時期ですかね?

とりあえずざっくり、この本を読むのは"今"のほうがいいかも。
で、え~神坂さんがお書きになった文章を引用させていただいて。

『このころ(元禄八年・1695年ころ)を境に"花の元禄"と好景気をつづけてきた元禄の経済は一挙に下降線をたどっていく。』

で、あくまでも尾張徳川家の一下級武士の天地で、当人が見聞きした範囲での話ですが。

『去月十六日と十八日に、さかな屋紋六両親も死す。一日に十八、九人づつ死す。但し、卑賤な者ばかり死す』(1716年?)
『予が、まのあたりにみる所ばかりも莩(飢えて亡くなること)甚だ多し。間々、死する者多し。御代官衆の支配の百姓も、所々つぶれるもの多々なり。甚だ手あてなき事なり』(1715年)
『在々困窮し、首をくくり死する事、覚えずと云々。一度に十二人書付、頃日、年寄衆へ達すと』(1715年)

おやおや?ほら、またナチュラルに"ワタシ"が"俺"と"僕"になってしまってる。
やっぱりあれか?ワタシの"ワタシ"は英語の"i (アイ)"に統一したほうがいいのか?

もしくは誰かはよメタ・ランゲージば作らんね。

※「では俺は殺生に行く」、重要ですね。20200806。


Ⅶ:近松門左衛門さん凄え

まあ正月そうそうなんですがな話ですがね。以前、俺こんなん書いたんですよ。『まあ260年間を一括りにして考えるのは非常にナンですが、例えば江戸時代。年間、どれくらいの自殺者がいたのだろう?(略)庶民だって近松門左衛門さんの「~心中」な作品がありますし』。

あのですね、そりゃまあ"心中"てのは昔からあったんでしょうけどね、これどうも『庶民だって近松門左衛門さんの「~心中」な作品がありますし』つうよりも、元禄十六年ですか?近松門左衛門さんが実際の心中事件に材をとった世話浄瑠璃「曽根崎心中」を発表したことを契機に庶民の間に爆発的な"心中ブーム"がおこったみたいなんですわ。

近松さんが世紀の"心中ブーム"の仕掛人みたいなんすわ。
んで神坂さんの「元禄御畳奉行の日記」から引用させていただいて。

『いま、私の手許にある、この年に発行された当時の情死人名簿ともいうべき「心中恋のかたまり」(上方情死人名鑑)を繰ってみると、元禄十六年から翌、宝永元年七月までの一年半に、京、大阪だけで九百余人もの心中事件があった』

↑まだ"心中ブーム"の序の口みたいです

もっとも、それ以前から"心中ブーム"とまではいかなくても、その下地はあったみたいなんです。

山崎正和さんによると『「曽根崎心中」にその様子が書かれていまして、こんどの心中はカッコがよかったとか悪かったとか、みんなが心中の評定をする』
『心中する当人たちも、明日は自分たちがどう評定されるであろうかと案じて死んでいく。』

そしてそれら評定する者される者たちの、まあまた適当に書きますが、永遠に続くと思われた太平の世が徐々に膿んできた、元禄という時代の(都市文化のですかね)退廃した精神を近松門左衛門さんが世話浄瑠璃として見事に圧着、具象化。

んでその後、これは丸谷才一さんの想像ではありますが『元禄時代の、少なくとも上方で心中する男女は、こういうふうに死ねば近松門左衛門は書いてくれるんじゃないか、という期待をいだいて心中したような気がします』という事態にいたったと。

んでね、"丑の時まいり"。

これも昔からあるものではあるけれど、庶民のあいだにひろがったのは元禄の頃、近松さんが浄瑠璃にとりいれてからみたいなんだって。

近松さん凄え。

はい正月そうそうなんですがな話でした。

Ⅷ:夢

僕の祖父。天台宗のお坊さんだった、僕が生まれる前になくなった祖父ではなく、その人生の最後まで市井の、孤立した、一社会主義者であり、どこにでもいる平凡な人だった、祖父の方。

そんな祖父が人生の晩年にもった夢は「革命」でも「社会の変革」でもなく「もう一度勉強がしたい」でした。
八十歳まぎわに通信だったとおもいますが高校に入り直しました。ちゃんと卒業しました。

ちなみに僕は祖父とその思想について話あったことはありません。
もうこの世で話しあうこともありません。

石橋政嗣さん(ゴミ処刑)の「非武装中立論」。
今の僕の部屋のどこかにあるとおもいます。
この本は、祖父と同じ佐世保市民の石橋さんが、石橋さんに手紙を出した祖父を訪ね、贈ってくださったものらしいです。

※原明の家掃除中、議員会館から祖父宛に送られてきたはがきが出てきましたが、署名入りで送られた本等とともに、あ、本島等(ゴミ処刑)、で、ずい分前にまとめて燃えるゴミになりました。20180828。

でも、僕は、子供のころから、子供心にも、なんとなく祖父の思想には軽い違和感を感じていました(もちろん子供だったから、かもしれません)。

くりかえしますが、僕はけっこう偏屈だった祖父とその思想について話あったことはありません。
もちろん僕にとってそのことはたいして問題ではありません。

明日晴れてたら井の頭いこうかな。


2.Ⅹ 8月 28, 2018

Ⅰ:星座 

ところでこのOCNのトップページの「今日の星座うらない」で一位になるのって単に1/12の確立ってわけじゃないでしょ?なんつうても"運"だもんな。それだったらホントにただの確立の問題になっちゃうしな。

確立も"運"ちゃ"運"だけど、回数重ねていくうちに、一見まばらに登場しているように思える「今日の星座うらない」一位発生率が、どんどん1/12に近づいていっちゃったりするんですかね?

それとも、やっぱり、ん、なにがやっぱり?は、さておき、やっぱり、ここン十年、もう露骨に、一番ついてた星座はこれだ!!一番ついてない星座はこれだ!!てあるんですかね?

よし、統計とるか!? ←もちろん、やりません。

↑という文章を以前書きましたがなんですな、前提としてもう無批判に"うらない"と"運"を一緒くたにするのは、やっぱり、ん、なにがやっぱり?は、さておき、やっぱり、ちょい違いますかね?どうですかね?

つうかそもそも"運"てなんじゃ?
運動、運、運命、運転、運勢・・・

も、さておき、閏年無視で一年365日の十年3650日、百年36500日。
「今日の星座うらない」のある星座の一位発生率、こういうの統計的にみて有効(て言い方が有効かどうかは知らんけど)となるにはどれくらいとればいいんでしょうな。

↑やりません。

(※一時期、日付が変わる直前このブログに「あしたのてんびん座<10月21日生まれ>が一位だったら昼は天丼」とか延々書いてました、たしか。2013/11/30)

Ⅱ:やすむににたり

これはもう随分前、高橋克彦さんと明石散人さんの対談で読んだのは確かだと思うんですが、さてどちらのご発言だったか・・・。

これまた僕の曖昧模糊な記憶たよりでその正確性には欠けまくりですが、「日本の歴史を大きく二つにわけると縄文と弥生で、現代は弥生時代ですからね」という一文があったんです。 
んで僕は「ほお!なるほど!」と思ったんです。

んでそれから幾星霜、いまから五十年くらい前の特撮映画「モスラ」をDVDで観たとき、その中に「原子力時代の今」といった台詞があったんです。
んで僕は「ほお!なるほど!」と思ったんです。

んで今も原子力時代ですかね?

つまり今から千年後の日本国(存在してるでしょ?)の「日本の歴史」教科書には、まず縄文時代があって、んで昭和二十年までが弥生時代で、んでそこからン百年が原子力時代でした、みたいな大きな区切りがあったりするんですかね。
つうても縄文・弥生は日本のお家事情だけど原子力はわーるどわいどなお話だからそうはなりませんかね。

は、さておき、縄文です。

縄文といったら"狩猟"でしょ。でしょ?
つうとやっぱり"ついてる""ついてない"はどうしてもでてくるでしょ。でしょ?
それが獣や魚とかでなく山菜取りとかだったとしても、"ついてる""ついてない"はどうしてもでてくるでしょ。でしょ?

つまり日本には、日本列島で暮らす人々には、それがどこらへんかは知らんけど、あちらから海を渡って"運"という文字が入ってくる前から、とうぜん、そもそも、"運"つう概念はありましたでしょ。でしょ?

あれ?

もしや日本にあった言葉で"運"という言葉の近似値は"ついてる""ついてない"か?
もちろんその発声にはいろいろ微妙な変遷はあったんだろうけど。

Ⅲ:明石散人さんの「東洲斎写楽はもういない」(佐々木幹雄さんとの共著です)を読んで以来、僕のなかで写楽は斎藤十郎兵衛さんです。

でですね、これは対談というよりも共著でした。
高橋克彦さんと明石散人さんの「日本史鑑定」。 

でですね、「日本の歴史を大きく二つにわけると縄文と弥生で、現代は弥生時代ですからね」
これは高橋さんのご発言でした。

でですね、これは、まあいつもそうなんですが、「日本史鑑定」からの僕の手前勝手な抜き出し・省略引用になります。

だから、結果、僕が"白"を"黒"だと変えてしまっている危険はあります。
"無色"にしてしまっている危険もあります。
僕が何かを引用する場合、常にあります。

を、ふまえまして、まず明石さんの以下のご発言があり。

『シーボルトの「日本」なんかを読むと、初代将軍が頼朝で、足利尊氏は十二代、信長は二十七代、秀吉二十九代というふうにずーっと繋がっている。(彼が日本にいた頃の将軍)徳川家斉四十二代まで分岐がないんです。』

『欧米人の分岐から行くと(略)室町時代も鎌倉時代も無いんですよ。
江戸時代もなくてすべてひっくるめて「将軍の時代」になってしまう。』

『日本人というのは(略)細かく分けていって文化をいつも認識していたんだろう。
その端的な例が鎌倉・室町・江戸という分岐の仕方なんだと思います。』

『江戸時代と室町時代とどこが違うんだと言われると、それは明確にはわからないけど、この分岐によって誰もが何となく室町と江戸の違いがわかる。』

『いろいろな意味で、文化でも美術でも分岐点は何かというものを探っていくと、日本的なものを浮かび上がらせるのは、それほど難しいことじゃないんだろうと思います。』

それを受けての高橋さんが。

『そういわれてみると、本当にあれは誰が作った時代区分なんだろうね。まあ例えば時代区分が首都であるということで簡単に括るんであれば、明治も大正も昭和も平成も東京時代ではあるんだものね。そういえば首都じゃないのに安土桃山というのもありますね。』

『大きな括り方で言えば、縄文時代と弥生時代だけで、今も弥生時代なわけですからね。』 

という話のながれでした。
で、さらに話は明石さんの。

『そうなんですよ。
でも日本人は細かく分ける・・・。』

と続きます。

・・・ということは、前回、僕がふと思いついた、『まず縄文時代があって、んで昭和二十年までが弥生時代で、んでそこからン百年が原子力時代でした、みたいな大きな区切り』。

たとえ今から千年後の日本国であったとしても、その「日本の歴史」の教科書であったとしても、そこが日本国である限り、そのような大きな区切りをすることはありえないか・・・

では今から五千年後の日本国の「日本の歴史」教科書ではどうだ!!
いいかげんざっくりいかんとめんどくさいのではないのか!?
受験生もおっつかんさ!!

Ⅳ:引用

で、日本の歴史の時代区分について、高橋さんがこのような疑問を。

『今まで(略)疑問を思ったことが無かったんだけど、江戸時代の人たちは奈良時代をなんと呼んでいたんでしょうね。天皇の名前で呼んでいるだけでしょうかね。』

『だって推古帝の御世とかいったって、当時の人は歴史なんか全然習っていないからわからないですよね。
江戸時代のなかだって、例えば天保年間の人間達が、元禄の世とかぐらいは言ったかも知れないけど、寛政の時代とか言っていたんでしょうかね。でも一応区分がないと困るだろうし。』

で、もういろいろ端折って、本当にピンポイントで引用させてもらいますが、『そうなんですよ。でも日本人は細かく分ける・・・』の後に、明石さんがこうおっしゃられています。 

『なぜ今を弥生時代だと言う度胸がないんでしょうね、その度胸があっても良いじゃないですか、僕らは在野なんだから。』

で、思うんですが。

もちろん↑の"引用"もそうなんですけど、"引用"ってほんとこれ危険ですよね。
危険つうか失礼っつうか難しいっつうか。

なんつうんでしょう、「みなさん!!聞いてください!!読んでください!!Ⅹにこんなん書いてありました!!」と僕が身勝手にⅩからある部分を抜き出し、それを身勝手に不特定多数の人たちにいかにもそれがⅩが導き出した結論、たどり着いた意見のように提示すると。

でもそれはⅩにとって起承転結の"結"ではなく、起承転結の"起"でしかなかった、"転"でしかなかった。もしかしたらそれですらまだなかった。それをⅩとは赤の他人の僕が「これがⅩの"結"だ」として、これまた赤の他人な人々に触れ回る凶悪な暴力性。

は、流石に大げさだとおもいます。でも他人(ひと・と読んでね)は知りませんが、僕がおこなう"引用"には間違いなくこういう性質は多少なりとも含まれていると思うので、そこもふまえて僕の"引用"は読んでください。

ええこれからもがんがんⅩから"引用"しまくると思います。

Ⅴ:しかしまあなんですな"真の意味"とか"空気"とかホント便利で意味不明な言葉ですな

『シーボルトの「日本」なんかを読むと、初代将軍が頼朝で、足利尊氏は十二代、信長は二十七代、秀吉二十九代というふうにずーっと繋がっている。徳川家斉四十二代まで分岐がないんです。欧米人の分岐から行くと(略)室町時代も鎌倉時代も無いんですよ。江戸時代もなくてすべてひっくるめて「将軍の時代」になってしまう。』

この明石さんのご発言を読んで、ふと思ったんです。
もちろん、これもたんなる思いつきですし、無理ありすぎとは自分でも思いますが、僕は"在野"ですし。

もしかしたら、シーボルトさんがこの「日本」を書いた当時、幕末、日本国一般の空気として徐々に尊王精神が高くなってきていて、源・北条・足利・織田・・・て変遷は別に易姓革命ではない天命ではない、王朝の交代ではない、あの連中は、つまり徳川も、絶対権力者ではない、将軍なんてありゃ天皇の下のただの役職の一つにすぎない、つう考え方の流行があり、当時の日本の空気を肺に吸いこんで生きていたシーボルトさんは当然その空気も吸っていて、んでもって「日本」を書くときに考え方としてその空気に引きずられてしまった、みたいな。 

そういえば山本七平さんのご本に"「空気」の研究"てありましたね。

ん?ということは「日本」の中では光秀が二十八代将軍か?


3.絶望の時代 8月 29, 2018

Ⅰ:さすがにこれは無茶苦茶です

陳舜臣さんの「小説十八史略(一)」の冒頭にですね。

『人間。ただ人間。ひたすら人間を追及する。これが古くから中国人の史観であった。
だから(中国には)神話がすくないのだ、という人がいるかもしれない。
だが、これには異議がある。』

『神話はけっしてすくないとはいえない。 
ただ歴史の記述者が、自分たちの著書から、できるだけ神話を削ったのである。
とくに儒学が中国の思想界を牛耳ってからは、その傾向がはなはだしい-怪力乱神を語らず、というのが、孔子の姿勢であった。』

でですね、またもや↑を読んでパッと思いついたことなんですけどね。
いつものように陳舜臣さんとは一切無関係な僕の適当話なんですけどね、ざっくりいきますよ。

あれですよ、「覇者・王者・始皇帝」=「人・人・神」ですよ。

え~と、儒教(学)が読んで字の如く国としての教え、国教(学)になったのは前漢の武帝の時代でしたかね。で、それは清まで続くと。で、儒教(学)には多くの優れた面があるものの、"怪力乱神を語らず"に象徴されるように人の好奇心というものを否定するトコがあり、そしてそれは思想的停滞を生み・・・

ではなくてですね、あれですよ、「覇者・王者・始皇帝」=「人・人・神」ですよ。
つまり、「春秋戦国」は"人の歴史"、「始皇帝」以降の皇帝の時代は"神話"なんですよ。


中国史は思想的に動脈硬化した儒教国教化以降より「春秋戦国」時代のほうが、歴史を過去にさかのぼるほど、その史書にあらわれる人物の思想行動が現代人と相通じるとこがある、という話を聞きますが、そりゃ当然なんですよ。だってそれは"人の歴史"だから。

歴史をくだるにつれ、人が人である輪郭がぼやけてくる。
今からみて人物の思想行動がよくわからなくなってくる。てのも当然なんですよ。
だってそれは"神話"、神々の時代なんだから。

ほら、その証拠に「三国志演義」や「水滸伝」をみなさいな。
アキレスやクロノスやプロメテウスたちが元気に駆け回っているではないですか。

↑はい、「三国志演義」も「水滸伝」も「ギリシャ神話」も(ちゃんとは)読んだことないです。今後も読む予定、今んとこないです

(※「三国志演義」は"現代的な"訳ですが、それをもとにした、ではなく、「三国志演義」を最近ちゃんと読みました。ものすごくおもしろかったです・2013/12/01)

で、陳舜臣さんの「小説十八史略(一)」を読み進んだ結果

「安土」=「春秋」=「覇者」=「信長」
「桃山」=「戦国」=「王者」=「秀吉」

これ

「安土」=「春秋」=「覇者」=「信長」
「桃山」=「戦国」=「下克上」=「秀吉」

としたほうがいいですかね?

斉藤道三さんや織田信長さんも「下克上」ちゃあ「下克上」なんだろうけど、真の意味での「下克上」は豊臣秀吉さんでしょ。

(※日本では下克上という言葉は15世紀後半からの戦国時代を象徴する言葉です。
それまでの貴族の地位を、その家臣、または浪人が乗っ取る。
で、この言葉はもともとは中国のこの時代の言葉であるという説明がこの小説の中にあったはずです。
で、それをもとにしてこの図式を書いたんだとおもいます。
ただし、今となってみると、自分が何を意図して書いたのか、よくわかりません・2014/06/19)

Ⅱ:ぽんぽんぽんと

というわけでですね、そんな神話の時代もラストエンペラー"愛新覚羅溥儀"をもって終了したと。

でですね、これは坂本龍一さん₍ゴミ処刑以下同文₎がラストエンペラーの撮影で中国に行ったときに聞いた話、だったような気がします。ただし、例によって記憶頼りなので、まったく違う可能性も大です。だからそのつもりで読んで欲しいです。

たしか坂本龍一さんがラストエンペラーの撮影で中国に行ったとき、普通の農民に聞いた話だったと思うんですが・・・

「毛(沢東)さんが皇帝になってくれて本当によかった。毛さんが皇帝になってから飢えるということがなくなった」そういう話を聞いたと。

もちろん、僕の大きな記憶違いで、これは坂本さんのお話ではなかったかもしれませんが、すくなくとも中国の老大人の話で「毛さん」「皇帝」「よかった」の三つのキーワードが出てくる話を以前読んだとおもいます。 

※そういう"文章"を読んだ記憶はあります。20200806。

で、ちょっとあやふやな感じで話を続けますが。

やっぱり、今の人ではなく、中国革命以前の空気も皮膚感覚で知っている人には、知っている庶民の人には、毛沢東さんのことを「皇帝」と捉える人も多かったんですかね?
で、そういう人たちは正直イデオロギーとかはどうでもよく、とにかくもう毛さんが天下とってからは飯が食えると、少なくとも毛さんは国民に飯を食わせたと、人間飯食わんと死ぬぞと、この圧倒的なリアリティと、よかったではないかと。

もちろん"今の"話ではないですし、もちろん時と場所によっては例外も、もしかしたら物凄く深刻な例外もあったでしょうけど。

でですね、これは司馬遼太郎さんのご本で読んだのは間違いないんですが、それがいったいどの本だったかわからないんですね。だからこれも僕の記(略)なんですが。

たしか司馬さんが中国滞在時に、中国革命の元老の一人、廖承志(りょうしょうし)さんに聞いた話だったと思います(まったく違う人の可能性もあります)。
で、たしか廖承志さんの文化大革命発端時の思い出として、廖さんの部屋に、たしか劉少奇(りゅうしょうき)さんがあわてて飛び込んできて(これは、まったく違う人の可能性高いです)。

「大変だ!皇帝が宮殿に宦官を引き込んだ!」と。

※あぶなかったですね(笑)。まあ、普通、皮膚感覚ですぐわかるもんですけどね、なんにせよ。20200806。

いつものように、僕の大きな記憶違いで、それは廖承志さんのお話ではなかった、劉少奇さんのお話ではなかった、かもしれませんが、すくなくとも「皇帝」「宦官」の二つのキーワードが出てくる話を以前読んだ記憶が確かにあります。

でですね、もちろん「皇帝」は毛沢東さん、「宦官」は四人組さんなんですね。まあ、だから、毛さんの「皇帝」というのはニックネームではないですが、結構みんな(たぶん本人がいないとこで)そう呼んでいたんですかね。

わかりやすいということで。

でですね、これは柄谷行人さんのご発言の抜き出し引用なので書いてあるのは確実です。
ただし無責任抜き出し引用。

『批評家っていうのはやっぱりほうっておくとすごい権力意識があるんですよ』
『テクストを解放するなどといっても同じだね。解放する人は支配するのだから』
『文芸批評家の権力意識っていうのはものすごいわけ。普通の政治家よりも格段に強いです』
『中国における文革は何をめぐって発生したと思いますか。文芸評論をめぐってだ』

Ⅲ:まあ僕のしょっぼいヒアリングなんでアテにはなんないですよ

いやいや、確かにおかしな兆候は以前からありましたが、ついにPCの電源自体が一切入らなくなりました。さてはてどうしたものかと思いましたが、別にPC無いなら無いでいいやと思ったまま放置しようかとも思いましたが、電源ユニットを交換したら復旧しました。

まあ考えてみたら、ケースをのぞけば、この電源ユニットが我が家の自作PCを最初に作ったときから使用している最後のパーツでしたので、そりゃくたびれていますわね。

これでとりあえず問題解決か?そう願いましょう。

んでもって、最近ちょっと個人的に「へ~」と思ったことなどを。

「高尾山薬王院」→"takaosan・yakuouin・temple"

これは何となくわかります。


×「浅草寺」→"sensou・temple"
○「浅草寺」→"sensouzi・temple"

こうなるのね。「浅草寺」寺みたいな。

んで

×「相模湖」→"lake・sagami" 
○「相模湖」→"lake・sagamiko"

「相模湖」湖と。

ということは

「鎌倉市」→"kamakurashi・city"

「鎌倉市」市だろう。

とおもいきや

「鎌倉市」→"kamakura・city"

まあ鎌倉は「鎌倉市」より「鎌倉」の方が通りがいいからこれは当然か?

いえね、これはたぶん、来日中の日本語の知識があまり無い人たちへの、観光地説明の場合限定の話なんだろうとは思うんですけどね。

ん? "temple"は「てら」だろう? "lake"は「みずうみ」だろう? おいちがうのかい?
何だ? 「じ」が"temple"? 「こ」が"lake"?
そんなんきいとらんぞ。しらんぞ。わからんぞ。と。

そんなら、"sensou temple" "lake sagami"として妙な混乱おこすより
"sensouzi temple" "lake sagamiko"と言い切ったほうがざっくりわかりやすいだろうと。

ああ「市」はあくまで「し」じゃないですか(そりゃ"いち"もありますが)。
そりゃ"kamakurashi city"とするよりも、"kamakura city"としたほうが混乱しませんよね。

みたいな。

以上、最近個人的に「へ~」と思ったことでした。

↑ええ、当然、適当適当。

でも実際の浅草寺にはどう表記されてるのかな? "sensouzi temple"? "sensou temple"?
ん~単に"sensouzi"か?

何気に"sensou temple" "lake sagami"と言うと、「お!通だね!」みたいな感じがあったりして。

↑ええ、当(略)

Ⅳ:これは太平洋戦争という文化パラダイムの衝突の結果ですかね?

不完全きわまりないけれど、無意識のうちにメタ・ランゲージを志向するみたいな。

さて、ここでエドウィン・O・ライシャワーさん著「ライシャワーの日本史・JAPAN The Story of a Nation」(國弘正雄さん訳)からの引用を。

『中国の文字は、長い期間にわたって、しかも、さまざまな方言地域から日本に入ってきたため、日本では、一つの漢字が二つ以上の発音をもつということもめずらしくないのである』

『漢字は、中国からの借用語にだけ使われたのではなく、同じ意味をもつ在来の日本語にもあてはめられた。たとえていうならば、waterに相当する「水」という漢字を、英語のwaterの代わりに使用し、しかも、aquaticの構成要素であるaquaのかわりにも使おう、というようなものである。』

『中国語としての漢字は、いくつかの異なった日本語の意味をあわせもっているものが多い。』

『たとえば、中国語shangは漢字で書くと「上」であるが、日本語では最も普通に使われるものを挙げただけでも、ウエ、カミ、アガル、アゲル、ノボル、とさまざまな読み方になる。あたかも、「上」が英語でon、above、upper、to mount、to presentの同義語として使われるようなものである。』

『(漢字を使用した技術用語・学術用語など)合成語は日本にひじょうに多いが、北ヨーロッパでも、地中海言語を語源にして、terephoneのような新造語がつくられている。』

『まことに具合のわるいことには、このようにして中国語からつくられた(日本の)複合語には、同音異義語が多い。はやい話が、普通の国語辞典の一冊を開いてみても、コーコーという発音をもつ漢語風の言葉がずらりと並んでおり、その数は二十を下らない。』

で、そこからライシャワーさんが導き出された↓は、「あ、なるほど!」と僕にはコロンブスの卵でした。 

『現代では日本語の新語や古い言葉の代替語が、より異質な英語から盛んにとりいれられている理由の一つがここにある。』

でも、そのきっかけはやっぱり敗戦・占領ですかね?
これは太平洋戦争という文化パラダイムの衝突の結果ですかね?
不完全きわまりないけれど、無意識のうちにメタ・ランゲージを志向する、みたいな。

つうか地球の"袋小路"として、そもそも日本には昔から"メタ"に対する憧れがありましたかね?
なんならその可能性も。

つうか海、そう海、日本をぐるりと取り囲んでいる海。
この海って早い話が"メタ"そのものじゃないですか。

(※?・2014/06/19)

Ⅴ:基本、陳舜臣さんの「中国の歴史(三)」の中の文章で構成されています

さて、アキレスやクロノスやプロメテウスたちが元気に駆け回っている「三国志」。

の呉の国。

その版図は最大時で揚子江沿岸から現在の広東、さらにベトナム北部まで、荊、揚、交、広の四州、四十三郡、三百十三県、面積だけなら蜀をあわせる前の魏にほぼ匹敵と。←今の日本とは逆で、県より郡が大きい。

ただし、人口は少なく、蜀をあわせる前の魏のほぼ半分くらい。

そのため呉の初代皇帝孫権は、即効性の人口増加政策として、海の彼方、夷州(いしゅう)及び亶州(たんしゅう)と呼ばれる島(琉球・台湾・日本、諸説があるとか)に兵一万人での"人狩り"遠征を実地しています。

が、亶州は遠すぎてたどりつけず、なんとか夷州の人たち数千人を連れてかえるも、これは疫病によるものと推察されているそうですが、遠征軍十人のうち八、九人を失うという多大な人的損害をだし、結果は失敗といっていいものだったそうです。

で、その呉の滅亡時。

すでに蜀をあわせた魏も晋にとってかわられていましたが、四代皇帝孫皓が晋に版図を献じたとき、呉の戸数52万、男女人口230万であったといわれているそうです。
ちなみに晋は人口550万、つまり中国全土の人口が800万そこそこだったと。

ほ~現在人口十ン億の中国も(単純に"中国"の規模の違いをおいといても)三世紀中ごろはそんなもんだったんだな。
産業革命以降?
やっぱり地球の人口は近代になって物凄い上昇曲線を描くようになったのだな。

と、おもいきや。

「漢書」の中の「地理志」によると、前漢の時代、平帝元始二年(西暦2年)の中国全土の人口は、5959万余。しかし前漢滅亡時の戦乱を経たせいでしょう。後漢初代皇帝光武帝が死んだ建武中元二年(西暦57年)の人口は半分以下の2100万余と激減。が、後漢成立後は”基本的に”太平の世。第十代質帝の死んだ本初元年(西暦146年)には、それが4756万余まで回復する。

で、それから約140年後、晋が天下統一した時点での中国全土の人口は800万そこそこ。
4756万余の人口が800万そこそこ。

いや、後漢滅亡のきっかけとなった黄巾の乱が勃発したのは西暦で184年。
本初元年の40年後なので、その時点での人口はもっと増えていたことでしょう。
つまり5000万前後の人口が100年で800万そこそこ。

いや、最初は僕も800万といってもそれは長引く戦乱のせいで人口が流動的になり行政組織も弱体化、単に正確な人口調査ができなかっただけじゃないの?と思ったんです。

本当はもっと人口多かったろうと。

でも、たとえば、曹操が袁紹との事実上の天下分け目の決勝戦「官渡の戦い」に勝利し、当時の人口密集地帯、いわゆる"中原"をおさえたのは西暦で200年ころ。 

これは呉の滅亡の80年前。

で、この80年間、"中原"はそれなりに平和、そこまで大規模な戦争はおこっていないと思います。
これは乱世に翻弄された普通の人たちが、少しでもと平和や治安をもとめて集まってくるには、そこに定着するには、十分を通り越した期間だと思います。

それに後漢から続く行政組織が復旧、正常に機能しはじめるにも十分を通り越した期間だと思います。
(ノウハウは各”英雄”のトコに残っていたでしょうし)

それに、なにより、たぶんですが、どの国でも戦争をするには、作戦計画を立てるには、徴兵にしろ輜重にしろなんにしろ、自国の人口の把握が一番大事な気がします。

時は乱世、人口調査をいい加減にやったとは思えず、かなり厳密に調べた気がします。

『三国の乱世は(略)けっして光彩陸離たる時代ではありません。獣性がこの世を支配し、光のとぼしい、絶望の時代だったのです』

※当時の人口とはいわゆる”市民”、ローマ帝国的なものかもしれませんが、それにしても、で。20180829。

Ⅵ:五百万というのは流石に極端ですかね

さて、5000万前後の人口が100年で800万そこそこに。

つうても、晋による中国統一当時のこの800万て数字は、実はこれでも結構回復してきている数字だと思うんです。黄巾の乱から董卓の乱、でもって官渡の戦いってあたり、西暦180~200年あたりが、想像ですが一番人口の落ち込みがひどかった気がするんです。とくにその舞台となった"中原"の落ち込みが。

で、(あくまで僕の想像をもとにですが)もしも20年の戦乱で5000万の人口が500万へ、なら。
日本の人口て今、1億2000万でしたっけ?これが20年で1200万になったら。
こりゃ地獄ですよ。

やっぱりあれですかね。
天の声ではないですが、これは食糧事情。

つまり500万なら500万の人口を保てる分しか食い物がない。 

確かに5000万の人たちがいた。
現にいる。

でも現状5000万人分の食い物がない。
だって食い物を作る人たちは戦争にとられ、戦争に殺され、戦争を逃れ、みんないなくなってしまったのだ。

では何人分ならあるのだ?
500万人分だ。

なるほど、ならしょうがない。
人口を500万人に調整しようではないか。
なに、ほっといても人間飯食える範囲に自然に落ち着くさ。
なんといっても食う物がないのだ、無い袖はふれんよ。
ほらみてみろ、あそこの数少ない食い物をもとめて戦争がアチラコチラからやってきてるぞ。
ああ、あそこはもう戦争をする元気もない。
いや~いろんな人間模様があるね~。
みたいな感じで20年で4500万人消滅。

こりゃ地獄ですよ。

で、これはあくまで冗談なんですけどね。
4756万人が800万人へ。←ここはちゃんとした数で。
つまり1億2000万人が2018万人へ。←だいたい。

ほら、歴史が証明しています。
人口の減少は十分とりもどせますよ。

ええ、もちろん冗談それ自体の質とは別に、この発想は"人"を"人"と認めない、きわめていやらしい考え方だと自分でも思います。

※人肉が重要な栄養補給源という奴等”系”限定で。20180829。
※まどろっこしいのはウザい。20180829。


4.志 8月 29, 2018

Ⅰ:よくいわれていることではありますが

というわけでですね、漢字だけでも、『日本語読みと中国語読みの両方があり、しかも日本語読みが多様』(以下ライシャワーの日本史)なうえに、『漢字を極端に簡略化して、字義をまったく無視し、単なる表音文字として用いた』ひらがな・カタカナ。

日本ってなにするにしろ責任の所在がようわからん、つうのは、なにげに日本語の漢字・ひらがな・カタカナ鼎立という『世界中で常時使われている表記法のうちで、おそらく最も難しく厄介なもの』という『煩雑』さにもその理由の一端があるんですかね。

ほら、onはonでしょ。upperではない。to mountでもない。
でも「上」はonであり、aboveであり、upperであり、to mountであり、to presentである。
もちろん、うえであり、かみであり、あがるであり、あげるであり、のぼるでもある。
とうぜん、ウエであり、カミであり、アガルであり、アゲルであり、ノボルですらある。

ん?ああ、たしかに「かみ」と書いたよ。話したよ。なんだい?「神」と僕が書いた、話したと思ったのかい?君は「髪」だと?いやいや、僕はそんなこと書いた、話した覚えはないさ。勝手に決めつけないでくれよ。ん?君は「上」かい?おお!君はするどい!素晴らしい!そのとおり!!というとでも思ったのかい?だから勝手に思い込みで決めつけないでくれよ。僕はね「加味」だという意味を心にこめて書いたのだよ。話したのだよ。ん?なんだい?その不服そうな顔は。おや?なんだい?もしかして君達は最初の「なんだい」を「何だい」と書いたと、話したと思ったのかい?ああ確かに二回目、三回目の「なんだい」は「何だい」さ。でも最初の「なんだい」は「何だい」ではなく「難題」と書いたのさ話したのさ。な、難しかっただろう?ん?なんだい?その不服そうな顔は。おや?なんだい?もしかして君達は「おや」を(略)。

で、↑すべてを大肯定して話を続けますが、地理的状況に拘束されつくりあげられた日本語の煩雑さが、その後の日本人の性質に影響を与えたのでしょうかね?それとも日本人が日本人であるもともとの性質が、自分達の好みにあった煩雑な日本語をつくりあげたんでしょうかね?で、もし日本語の煩雑さが日本人の性質に影響を与えたのなら、漢字が流入する前の日本人はどんなだったんでしょうね。

でも、この日本語の『煩雑』さって俺は好きかも。

Ⅱ:「三国志」は「三国志」じゃないですか、「三国史」ではなく

「漢書」は「漢書」だけど、その中の「地理志」は「地理志」じゃないですか「地理史」ではなく。
で「三国志」は「魏志」や「魏史」とかではなく、「魏書」「呉書」「蜀書」の総称ですね。
これちゃんと調べたわけじゃないですけど、「漢書」とひっくり返ってます?

まあ「史記」は「史記」ですね「志記」ではなく。

「三国志」に関しては、「魏書」「呉書」「蜀書」が「漢書」と同列という考え、少なくとも魏書が・・・あれ?魏志倭人伝・・・

で、それはさて置き、"志"です。

陳舜臣さんが「古来、中国の詩は、男は志をのべるもので、女は怨みをうたうものだ」とお書きになられていた(俺の記憶たより)の、"志"です。

で、それを前提に話を進めますが、「三国志」や「地理志」。

この"歴史"を"歴志"つうのは、あれですかね、"歴史"は男どもの志の具象化、傷跡、あくまで男のもんじゃ、てなことなんですかね。←もちろん"志"や"史"以外にも"紀"だの"伝"だの"表"だのありますよ

it's a man's man's man's worldてなことなんですかね。

つうても、たとえば漢帝国の初代皇帝劉邦さんの奥さんの呂后さんみたいに、劉邦さんの死後"女の身でありながら"帝国の実権を握った人もいるんですね。
事実上の皇帝として中国の政治をつかさどった人もいるんですね。

で、結果、現在、なんでも呂后さんは唐の則天武后さんや清の西太后さんらとともに中国三大悪女と呼ばれているらしいんですね、まったく悪い女がいたもんだと。

ま、たしかに劉邦さんの本妻の呂后さん。晩年の劉邦さんが愛した女性を、劉邦さんの死後異様に残忍な方法でなぶり殺しにしたり(無茶苦茶です)。呂の一族で権力を握るために、夫の一族である劉氏の人たちや反抗する邪魔な人たちを殺しまくったり。もう、かなりエグイことをやりたおしています。ひどいもんです。そりゃ悪女とよばれます。

が、↑の話はあくまでも王宮内での話で、どうも呂后さんの時代は戦争もなく平和で、刑罰も厳しくなく、庶民には暮らしよい時代だったらしいんです。

庶民には悪い時代ではなかった、悪い権力者ではなかった、みたいなんです。
呂后さんの死後、そっこう呂一族は誅殺され劉氏に実権がもどり、んでもって漢帝国栄光の武帝の時代がやってくるわけですが、その栄光も平和で穏やかな呂后さんの時代の国力の蓄えがあったからこそ、とも言われているらしいんです。

と、昔、陳舜臣さんの「中国の歴史(二)」で読んだ気がします。
はい"気"です。

もちろん、呂后さんの時代は王宮側の人間である官吏のみなさんが「いらんことしたら殺されるかも」とビクビクしてて、なんもできず実質無為自然、庶民まかせ、そしたら思いのほか上手くいった、結果オーライってこともあるかも。

Ⅲ:殺伐とした話でございます

まあ、しょうがないとこもあると思うんです。

だって、お名前はわすれてしまいましたが、晩年の劉邦さんに愛された女性。
この方、正妻である呂后さんとの子ではなく、自分との子を劉邦さんの跡継ぎにするよう熱心に頼み込んでいます。

「漢帝国は呂后さんトコの息子ではなく私の息子にちょうだい」と。

まあ、これもしょうがないとこがあると思うんです。

だってこの方、天下人劉邦さんの愛情を一身にうけた自分が呂后さんに怨まれていることはよ~くわかっています。殺意(恐怖心でしょうが)もひしひしと感じています。

とは言っても、もちろん劉邦さんが生きている間は大丈夫なんです。
なんといっても絶対権力者が愛する女性ですから。
正妻である呂后さんといえどもなんの手出しもできません。
(だからこそ呂后さんの怨みはひたすら深くなっていったのでしょうが)

でもいかに天命を受けた皇帝とはいえ、劉邦さんも人間です。
もういい歳です。

あの始皇帝すら、万金を使ってどれだけ渇望しても、ついに不老不死の薬を手に入れることはできませんでした。ええ、人は死にます。

劉邦さん亡き後、呂后さんの息子が跡を継ぎ、漢帝国の権力を握ったらどうなるか?
今のままなら自然とそうなることでしょう。
そして呂后さんは真っ先に自分を殺すでしょう。
そして自分の息子を殺すでしょう。

まさに文字通り「殺るか殺られるか」です。

それを阻止するためには、まだ幼い自分の息子を帝国の次の皇帝にし、権力を握るしかありません。
そして勝者として呂后さんを「殺る」しか自分と息子の命を救う術はありません。

んなもんだから、この方、正妻である呂后さんとの子ではなく、自分との子を劉邦さんの後継ぎにするよう熱心に頼み込んでいます。

「漢帝国は呂后さんトコの息子ではなく私の息子にちょうだい」と。

で、劉邦さんもそこらへんの事情は重々承知。それにどうも呂后さんの息子さんは優しい性格の人だったみたいで、劉邦さんも戦乱が収まったばかりの帝国の皇帝になるには"ひ弱"すぎるのではないかと判断。

「自分の跡継ぎは呂后との子ではなく、愛するこいつの子にするか」

と、劉邦さんの考えが思いっきり傾斜します。
(だからこそ呂后さんの怨みはひたすら深く深くなっていったんでしょうが)

Ⅳ:さて絶体絶命の呂后さん

絶対権力者である劉邦さんが「俺の跡継ぎはアッチ」と言ったらもうそれまで。
どうすることもできません。

それに天下人劉邦さんの愛情を一身にうけたアイツが自分をうとましく思っていることはよ~くわかっています。嘲り(恐怖心でしょうが)もひしひしと感じています。

とは言っても、もちろん劉邦さんが生きている間は大丈夫なんです。
なんといっても絶対権力者の正妻ですから。
絶対権力者が愛する女性とはいえ、呂后さんにはなんの手出しもできません。

でもいかに天命を受けた皇帝とはいえ、劉邦さんも人間です。

もういい歳です。あの始皇帝すら、万金を使ってどれだけ渇望しても、ついに不老不死の薬を手に入れることはできませんでした。ええ、人は死にます。

劉邦さん亡き後、アイツの息子が跡を継ぎ漢帝国の権力を握ったらどうなるか?
今のままなら自然とそうなることでしょう。
そしてアイツは真っ先に自分と息子を排除するでしょう。
先帝の正妻とその息子が、それ以外の者が権力を握ったときにどうなるか?

まさに文字通り「殺るか殺られるか」です。

それを阻止するためには自分の"ひ弱"な息子を帝国の次の皇帝にし、権力を握るしかありません。
そして勝者としてアイツを「殺る」しか自分と息子の命を救う術はありません。

んなもんだから、呂后さん、正妻である自分の子が劉邦さんの後継ぎになれるようにと、その智謀で劉邦さんに天下をとらせたとも言われる張良さんに「お願い、いい方法考えて」と熱心に頼み込んでいます。

んでもっていろいろ端折りまして。

この張良さんの策のおかげで、無事呂后さんの息子さんが劉邦さんの跡継ぎに決まります。どんなにその後に待ち受ける運命がわかろうとも、劉邦さんは皇帝として、個人の愛情よりも帝国の安定をとりました。

「殺るか殺られるか」

だからいろいろとしょうがないとこもあると思うんです。
といっても劉邦さんの死後、呂后さんがこの方におこなったことはいくらなんでも、ですが。

ところで、この方が殺された後の息子さんの消息。

二代皇帝となった呂后さんの息子さん、ほんとうに優しい人だったんですね。
「弟があぶない。このままでは私の母に殺される」と、つねに自分の傍におき寝食を共にしていたそうです。

でもある日の早朝のことです。ずっと大丈夫だったため気の緩みもあったのでしょう。
呂后さんの息子さんが一緒に狩に行こうとしたら、弟さんはまだ寝ていました。

だから「起こしたらかわいそう」とそのまま寝かせて一人で出かけたら、その間に弟さんは呂后さんに殺されてしまったそうです。

と、昔、陳舜臣さんの「中国の歴史(二)」で読んだ気がします。

ええ、"気"です。

※この事実は一切ない。うちには関係ない話だ。20200806。


Ⅴ:ただね、鎌倉幕府の成立から応仁の乱までは280年くらいしかないんですよ

んでも平安朝くらいまでの日本ってどれくらいの人が文字の読み書きできたんですかね。
やっぱり中央の貴族とか地方豪族とか支配階級の人ら限定ですかね。

まあそのほうが日本全国という横の面でも、時間という縦の線でも、情報管理がたやすく、民衆を支配するにはなにかと便利だったりするんですかね。
そもそも読めなきゃ何書こうが読まれる心配はないですし。

今だって、たとえばロシア語で書かれた文章を見せられても、それがどれだけ重大な情報だろうが、僕にはとりあえずは無価値。
(※偉大ですグーグル翻訳。2013/12/02(※いつも助けられてるので。2013/12/02))

もちろんネット翻訳なんてしませんし。
したところでワケがわからんかったりしますし。
(※そんなことはまったくありません、要は使い方です。2013/12/02)

は、さておき、そんな意地悪な発想ではなく、単に自分が生まれついた狭い共同体を唯一の世界として一生をすごしたろう当時の民衆には文字は必要無かったんですかね。人生接するのはすべて顔見知りの人たちという環境下で。その共同体でつつがなくお付き合いができる程度の話言葉の語彙があれば十分で。

なにげに、たまに文字を勉強するような人がいれば「お前、そんな人生に必要ないもんにうつつをぬかしてるんじゃない、この道楽者!」みたいな感じで親に怒られたりしちゃったんですかね。

つうか、そもそも当時の民衆は狭い共同体を唯一の世界として一生をすごしていたんですかね。
当時の民衆には移動の自由はなかったんですかね。

支配階級と民衆。
そこに流動性は一切なく、当時ははっきりと二分化してたんですかね。
それはまさに奴隷社会。
打破できてよかったではないか。
鎌倉幕府の成立こそまさに革命だ。

と安直に流れで結論づけていいんですかね。

ああ、そうそう、当時の"普通の人たち"という意味で最初"大衆"と書こうとしたんですけど、これだと意味違っちゃう気がして。で、"庶民"もなんか違う気が、と、いうわけで、最終的に"民衆"に落ちつきました。

いえね"大衆"にははっきりと近代の、"庶民"にはぼんやりと近世の香りがするんですね、僕的に。
つうか、当時、当時、と言いますが、当時て何時ですかね。
人に聞くな、という話ですが (笑)。

ほら、大化の改新から鎌倉幕府の成立までだったら550年間くらいあるんですけどね。
室町時代の応仁の乱から平成二十年代までくらいあるんですけどね。
これを"当時"の一言で片付けていいんですかね。

ん?あれ?

つうか、もし、大化の改新をそれまでの旧弊を打破した革命と呼ぶのなら、下克上、戦国時代の幕開けとなった応仁の乱もまさに革命ではないですか。

そう呼ぼうではありませんか。

んでもって、旧弊を打破した大化の改新で成立した新しいシステムが旧弊となったとき、それを打破した鎌倉幕府の成立を革命と呼ぶのなら、そろそろ旧弊を打破した応仁の乱で成立した新しい精神を旧弊として打破する革命がおこってもいいころじゃないですか。

と、安直に流れで結論づけていいんですかね。
うん、あきらかに途中から話がかわっとるが、今日のむりくりはこんなもんでいいだろう。

あ、そうそう、今先、つうか、もうけっこう先、DVDで録画した「水曜どうでしょう」観てたら耕三寺てお寺の道路標識(?)が出てきて、そこに”kousanzi temple”て英語表記で書いてあった。

Ⅵ:でも"民衆"てことばの響き、なんとなく冷たくないですか?

は、さておき、んでですね、鎌倉幕府の成立から応仁の乱まではだいたい280年くらいなんですね。
280年くらいしかないんですね。

んでも、これ目をほそ~く、ほそ~くして見れば、おもいのほか270年に見えないこともないんですね。

つうかこれむしろ270年じゃないか?
いや270年だろう、てな感じなんですね。

そうすると、だいたい徳川が天下を握った関が原の戦い(西暦1600年)から徳川が天下を奪われた戊辰戦争終結(西暦1869年)までと同じ期間なんですね。

は、さておき、ところで地方分権つうのはあれですかね、革命勢力をつくろうてことなんですかね、は物騒ですかね?つうかほんとうの野党というか中央政権への批判勢力をつくりましょってなことなんですかね?

ほら平安の王朝に対しての坂東武者、徳川に対しての薩摩や長州みたいに、「あ、なんならいつでも政権とってかわりますよ」つう集団をよそにつくりましょ、てなことなんですかね。もちろん、いまさら西南戦争以来の内乱をやったるぞ~というわけではなく。

だって民主や自民なんて、藤原氏と平氏、でもなく、藤原氏の中の争い、江戸幕府の幕閣の争いでしかないやん、てなことなんですかね。

別にそういうわけではない?

※四重底くらいで。20180829。

も、さておき、大化の改新から鎌倉幕府の成立までがおおよそ550年。
つうことは藤原氏のみなさんは550年間も日本を支配していたんですな。
つうてもこの550年、大和・奈良・平安と基本的には戦争もなく平和な時代。

もちろん芥川龍之介さんの「羅生門」の世界というか「今昔物語」の"今は昔"な世界でもありますが、550年間政権がひっくり返らなかったということは、そこまで悪い政治ではなかったんですかね。

つうか藤原さん、政治って何やってたんでしょ?

いまいち見えませんね。
ま、僕がそれを知る努力をしていないだけですけどね。

だって『真言密教の金剛界マンダラの成身会の「不生無礙常瑜伽」的存在地平の構造なんか、プラトンのイデア哲学やピタゴラスの世界像などを持ってくることによって初めてその独自の構造的整合性の成立が哲学的に可能』になる教義を作り上げた時代の人たちですんでね。

まさか550年間、「ホッホッホ、風流やのぅ」とみんなして言い続けていただけではなかろうと。

Ⅶ:親?ではなく、おや?

寺、つまりてら、つまりじ、字、ではなく寺、つまりじ、これは"zi"ではなく"ji"か?
ではなく、いや、べつにではなくというわけではなく、つまりじ、寺、ではなく、字、つまりじ、これが"zi"ではなく"ji"か?

考えてみたら、考えてみなくても、僕はじ、つまりじ、じ、をPCで打つときは"ji"ではなく"zi"を使うのだ。
んでも"ji"でもじ、"zi"でもじ、"red"でもれっど、"led"でもれっど、"ledzeppelin"”はれっどつぇっぺりん、まあほんとは"lead"でもれっど。

ん?"lead"はれっどと日本語表記するか?

おや?ああ、そうそう、"red"、これだと発光ダイオードになってしまいますな。

さて、色は匂えど散りぬるを、わが世だれぞ常ならん、有為の奥山今朝越えて、浅き夢みし酔いもせずな日本語の母音と子音の数て世界中の言語の中でどんなもんなんでしょ。

多いほう?
少ないほう?
普通?

あ、「日本語の母音と子音の数」、「(現在の)日本語の母音と子音の数」、にします。

たぶん時代々々で変動、あ、蝶々、つまりちょうちょ、あれ?ちょうちょ、では、蝶々に変換しませんな、そう、蝶々、つまりちょうちょ、つまりちょうちょう、これ、いつころかは知らんけど、昔はてふてふでしょ、てふてふって、てふてふと書いて、てふてふと読んでいたのだろうか?いつころかは知らんけど、昔のひとは、それとも、てふてふって、てふてふと書いて、蝶々、つまりちょうちょう、つまりちょうちょ、と、読んでいたのか?いつころかは知らんけど、昔のひとは。

で、朝おきてコレぼんやりと読み返してみたら、"red"、これだと発光ダイオードになってしまいますな、と、書いてますな。

いや、なりませんな。

"red"だと、赤、つまりあか、つまりせき、席、ではなく、赤、つまりあか、になってしまいますな。


5.★ 8月 29, 2018

Ⅰ:私は運命を信じません 

いやいやありました。

最後ではなく、「秘本三国志(四)」の中にありました。
五斗米道つう新興の道教団体(?)の教母少容さんと、まだ劉備さんに仕官する前の若き諸葛亮さんの対話の中にありました。もちろん史実ではなく陳舜臣さんの創作です。

『天下に太平をひらくためには、漢王室の存続などは問題ではなく、強力な指導者が天下を統一することである。
これが少容の考え方であり、天下の英雄を物色して、曹操にその望みを託した。
そして、曹操が天下をたばね、乱世に終止符を打つように、陰ながら、いろいろと手を打った。

「そうです。あなたの打つ手をみておりますと、どうも性急にすぎます」と、諸葛亮は言った。
性急にすぎるという忠告は、だいたい老人が若者にたいして発するものである。
少容は自分の息子よりずっと若い諸葛亮に、そう言われたのだ。

少容は苦笑をうかべはしなかった。彼女はもうこの若者と、対等に話し合うべきであると思ったのだ。
「そうです。天下が統一されることは、誰もが望みます。しかし、それは難しいのです。第一に、英雄が多すぎます。第二に、それなのに抜群の英雄がおりません。これは曹公をも含めて申せることですが・・・」

「統一をあきらめよと申されるのですか?」白髪のまじった美女は訊いた。
「いつかは統一されるでしょう。この国は統一されねばなりません。それまでに何十年かかるかわからないのです。三十年、五十年・・・そのあいだも、人びとは生きて行かねばなりません。その人たちをどうするのですか?」』

という流れからの、少容さんの。

『「人それぞれ運命をもっております」
「私は運命を信じません」若者は断乎として言い放った。
「人間の力は、運命にうち克つべきです」』

でした。

この続きは。

『「では、どうするのですか?」
「天下を三つに分けましょう」と、諸葛亮は言った。

「天下三分?」
「三分の一ぐらいなら、どうやらたばねて行ける人間がいるでしょう。たとえば、中原の曹操と江東の孫権など。天下を統べる器量人ではありませんが、まず三分の一はまかせることができます」

諸葛亮は安定した分裂を、いったんつくり出そうという論を展開した。
いまの乱世を統一するのは至難だが、三分の状態になれば、その三つを一つにまとめるのは、べつに天才の腕を要しない。』

でした。

※第二次大戦後の世界は米ソ中の三国志。この陳さんがお書きになられた孔明さんの"天下三分の計"が冷戦の本質です。20200806。


Ⅱ:夢が、星のように飛びます。そして堕ちるのです

陳さんは「秘本三国志」を書くにあたって、世に広がっている"三国志"に己がとらわれないように、羅貫中さんの「三国志演義」を読み返すのをわざと避けられたそうです。←ずいぶん昔、読んだことはあるそうです。

そして(羅貫中さんも「三国志演義」を創作する時に用いたといわれる)正史の「三国志」「後漢書」「資治通鑑」を根本資料として使用し、それを自己流に読み、解釈し、それにご自身の推理を交えて「秘本三国志」を書かれたそうです。

僕が十代のころ、高校生のころですね、一番最初に読んだときは、一風変わった「三国志」、というか、実録、というか、なんつうんでしょ、テレビではああだけど、実は本当の水戸黄門はこうでした、みたいな感じというか、ねえねえ知ってる?横山光輝(さん)の「三国志」ではああだけど、実際の劉備はこんなんだったんだよ、と、人に話すネタモトというか、まあそんな感じで読んでたんです。

だから、この「秘本三国志」の結びの一節。

『「三国志」の物語は、中国の庶民が統一平和を念願し、祈りをこめるようにして、代々、語り継いだものである』

この言葉の意味が僕に理解できようはずがなかったんです。 
ただ単に唐突感を覚えただけだったんです。
でも現在、パラパラと拾い読みしてみると、「秘本三国志」こそ『統一平和を念願し、祈りをこめるようにして書かれた物語』じゃないですか。

人が死にすぎた。
あまりにも死にすぎた。

そして今も死ぬ。
簡単に死ぬ。
人は死ぬためだけに生まれてくる。

『乱世のはじまりには、人間は禽獣のようであった。利害が反すれば、その場で人を殺し、眉一本うごかさない。人間の心がそのようであったから、世の中が乱れたのかもしれない』
しかし『「生まれたからには、生きて行かねばなりません。これが人間のさだめです」』

『孔明はながいあいだ軍隊を指揮してきた老将校に、むかしの兵卒と、いまのそれとの違いをきいたことがある。その老将校はちょっと考えてから、― いまの兵卒は、よく泣きますなぁ。敵兵の死骸を見ても涙を流すやつがふえてきましたよ。むかしの兵隊は、そんなに女々しくなかったですがねぇ』

『彼らはもはや禽獣ではなかった。そして、そのことが理想主義的現実政治家の孔明に、希望を与えてきたのである』

『人間はよくなりつつある。そう信じなければ、孔明のような仕事はできなかったであろう』

え~確かめたわけではないですが、断言できます、これは陳さんの創作です。

このような老将校の述懐は絶対になかったでしょう。
現実の孔明さんが己の死の間際に『人間はよくなりつつある』と信じることもできなかったでしょう。

『人間はよくなりつつある。そう信じなければ』

これは陳さんご自身の言葉でしょう。
で、え~、突然ですが、坂本龍馬さん。

んで、司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」。

これは安部龍太郎さんの「龍馬脱藩の道」からの孫引きになりますが、司馬さんは「竜馬がゆく」を書く直前、桂浜の龍馬像を初めて訪れたときのことをのちに回想し

『ここに来て、はじめてあなたに会ったとき、名状しがたい悲しみに襲われました。そのときすでに、私はあなたの文章を通して、精神の肉声を知っていましただけに、そこにあなたが立ちあらわれたような思いをもちました』

そして

『全霊をあげて、あなたの心を書く』

んで、梅原猛さんがお書きになったのを読んだとおもうのですが、"鎮魂"てのもやっぱり重要な要素ですかね。現実とつながる"鎮魂"。


そうそう

「秘本三国志」の最後。もちろん「私は運命を信じません」ではなく。

『「横におなりなさい」と少容はすすめた。
「そうですね。横になっても見えますから」そう言って、孔明は横になって蒲団を胸までかぶった。
「なにをごらんになります」

「私の夢です。夢が、星のように飛びます。そして堕ちるのです、この五丈原に」』

でした。

Ⅲ:誄

誄詞(るいし)。

ここは井上ひさしさんの言葉をお借りして『亡くなった人の生前の行いを重ねてほめたたえると同時に、その魂が天にいくように祈る「誄」』。

で「秘本三国志」ですが、だから作中にあるように、諸葛亮さんが『人間はよくなりつつある』と、それは本当に小さな希望かもしれませんが、そう思いながら死んでいくことは現実にはとてもなかっただろうとおもうんです。

当時の状況的に絶対にありえないとおもうんです。
もしかしたら道なかばに倒れる絶望やあきらめの気持ちのほうが強かったのかも。
そうおもうんです。

この一文は作者の陳さんから諸葛亮さんへの、たまたま違う時代を生きた、同じ人から人への「誄」だろうとおもうんです。
というか当時を生きた人たちすべてへの「誄」だろう。

そう思うんです。

後漢第十代質帝の死んだ西暦146年の4756万余の中国の人口が、呉の四代皇帝孫皓が晋に降伏した西暦280年には780万余の人口へと、その数字だけを今に残し、何も言えずに"消えた"人たちへの、『禽獣』の時代は終わった、『人間はよくなりつつある』という、あなたたちの死は無駄ではないという、陳さんからの「誄」だろうと思うんです。 

さらに僕の想像をころがせば、人が人を一番殺したろう、そしてまだ殺し続けている、『禽獣』の時代20世紀を生きた、生きる人たちへの「誄」だろうと思うんです。

陳さんがこの作品を発表したのは昭和50年代初頭。

『人間はよくなりつつある。そう信じなければ』

これは陳さんご自身の言葉だろうと思うんです。

でですね、これは後藤繁雄さん(ゴミ処刑)との共著ということになるのでしょうか、坂本龍一さん(ゴミ処刑)の「skmt」。
の、中の"065 柄谷行人"から引用させていただいて

『(坂本さんは柄谷さんに)「救い」というテーマでインタビューを試みる』

※これは糸井重里さんによる(※旧友・20211215)柄谷さんへのインタビュー。20200806。

『「今の人類にとって、はたして救いの理念とかあるんでしょうか」と問うと、柄谷行人は「それはもう共産主義しかないですよ」と笑った』

『共産主義の名のもとに粛清された人間の数は一億人を超えるだろう。共産主義に限らず、人類の歴史には、戦争、宗教や政治の名による死者が累累と横たわっている。それらの人々の魂を誰も救えないだろう』

『柄谷行人は、「僕は唯物論的な政治ということを考えているんだ、まあ、考えているだけだけど」と言って、彼に説明を始めた』

『とにかく、その死者たちを全部記憶すること、個人レベルで、どういう人がいて、どういう感情をもって、どういうふうに生きてきたかということを全部データ化して記憶すること。ユダヤ人たちが、ホロコーストで殺された400万人の一人ひとりの情報を、出来るだけ集めてコンピュータに打ち込みデータ化しているように』

『人類史の中で、最後の社会に到着したもの(たとえば今なら我々だ)、その者たちこそ最も「呪われた」人間だ。なぜならその者たちの今は、無数の死者の上に成り立っているから。だから一人ひとり個人に至るまでの世界史を全部記憶すること。それしかないだろう。歴史や報道は、死者を数字化し、つるつるにしていく』

でですね、ご自身も太平洋戦争中フィリピンの別の島で戦われた、大岡昇平さんの「レイテ戦記」。

日本軍が8万人以上の戦死者を出したレイテ島の戦記。の、最後。
僕はテレビで「レイテ戦記」のドキュメンタリーを観るまでまったく思いがいたりませんでした。

いえね、この本はその本編が終わった後に、陸軍部隊編成表としてだったか、将官以上ではありますが、何ページにもわたって延々とレイテ島で戦った人の名前が書いてあるんです。

部隊名、階級、名前、それだけが何ページにもわたって延々と書いてあるんです。
僕は当たり前のように読み飛ばしました。

そう僕はテレビでそのドキュメンタリーを観るまでまったく思いがいたりませんでした。

Ⅳ:あせらないあせらない(2009年8月31日)

ひとやすみひとやすみ。

晩御飯を食べた後、ちくま学芸文庫版の『正史 三国志 蜀書』の関張馬黄趙伝 第六のうちの「関羽伝」を読む。これは、宋の文帝さんの命令による裴松之さんの注釈などを含めても、正味8ページといったトコなのでわりとすぐ読了(関羽伝のみ)。

しかし、正史三国志は紀伝体で、本紀や列伝などそれぞれの人物の伝記が互いに補完しあって成立しているので、三国志について何の知識もない人が、本紀(曹操さんの伝記とか)ならまだしも「関羽伝」などの列伝の一つをいきなり読んでも、なんのことやら訳がわからないでしょう。

さて、これはどんな感じだろ?
何の知識もない事について、総論すっとばして各論をいきなり読み出す感じ?どうだろ?
はい。いつものように話がフワフワしてきますよ。

そこで『正史 三国志』をもとに書かれた、元末~明初くらいに成立したと言われてる小説『三国志演義』ですよ!『三国志演義』その物じゃなくても、それをもとにした作品ですよ!

ちなみに僕は、人形劇「三国志」に始まって→横山光輝「三国志」→吉川英治「三国志」と渡り歩いたので、正史「関羽伝」の欠けてる部分も脳内補完しながら読めます。

それに「演義」→「正史」と逆流すると、後世の人々がどのように構想力をはたらかせて歴史的事実を改作したか、想像力の羽を広げて歴史の隙間を創作したかわかって、それはそれで興味深い。 

ついでに森鴎外さんの「歴史其儘と歴史離れ」にも思いをはせちゃったり。
はせちゃったあげくよくわかんなくなって眠くなったり。

で、僕は実は人形劇三国志を観てた子供の頃から、中間管理職の悲哀を露骨に感じさせる魯粛に惹かれまくりなのです。

実際のところどういう人だったのかはもちろんわかりませんけど。

Ⅴ:Winner Takes It All(2010年02月24日)

例えば臥龍・諸葛孔明が「天下三分の計」なんていらん知恵を劉玄徳に吹き込み、それを実行させなければ曹孟徳は天下統一を果たしていたのだろうか?

ま、考えは人それぞれでしょうが、後漢末期の騒乱により中央支配のたがが外れた地方のエネルギーはまだまだ隆盛期にあり、孔明さんがいようがいまいが僕は孟徳さん一代じゃやっぱり統一までは無理だったのではなかろうか?と思います。

長い中央集権の間に圧縮して溜め込んだ、もともとン百年前に秦王・政に滅ぼされるまでは自分達の国を持っていた(特に中原以外の)周辺の民のエネルギーをすべて吐き出させ、高熱を持った鉄を素手で触っても大丈夫なまでに冷ます時間はどうしても必要だったと思います。

とはいうものの、当時の漢帝国の州の殆どを支配し圧倒的な勢力を誇った魏王曹孟徳さん。
でも漢の帝位簒奪、新帝国建国は自分の代ではおこないませんでした。
それを為したのは息子の子桓曹丕さんです。

もちろん自分はもともと漢の臣だという個人的感傷も孟徳さんの中にはあったんでしょうが、それよりもまだまだ力ずくで簒奪を行える状況ではなかったつうことでしょうね。

そんなコトやろうもんならお膝元から政情不安一直線みたいな。 
内憂外患一直線みたいな。

やっぱりここでも一般民衆の心の中から「漢の民」という意識を薄め、できれば消し去る時間が必要だったんですかね。

当時の人間の平均寿命がどれくらいかはわかりませんが、十年もすれば自然と「漢の民」ではなく「魏の民」だという意識に大多数の人がなりそうな気もしますし。
二・三年の短い間権力を握り専横をふるっただけならアレだけど。

あと人情として孟徳さんが形の上だけでも漢の臣としてその生をまっとうすれば、「もうこれで魏は漢への義理は果たしたな、現実問題、中原は魏が実質支配してるんだから」「しょうがない、これも時の流れだ」と思ってくれるだろうと。

後はやっぱり孟徳さんが漢の臣下でありながら帝位を簒奪したっつう後世の悪名を忌んだっつうトコも大きかったんですかね(悪名を子供に押しつけることになりますが・笑)。

あれ?

でもこういう後世の目(文章)を気にするって考え方は何時からなんだろ?

項羽さんとかあまり気にしてる感じしないけど。
いや、でも死の前に自分は劉邦に負けたのではない、天が俺を滅ぼすのだ!とくどいほど繰り返したのは後世の目を気にしている証拠か?

でもその言葉を聞いた人は皆項羽さんと共に戦って死んでいる気がするし、本当に項羽さんそう言ったのだろうか?

まあ「大王よ、ここに一隻しかない船で対岸の故郷に渡り追っ手を振り切り、そこで再起を図りなさい」と言った烏江の亭長は聞いたのかもしれんが、それ以前の"抜山蓋世"や虞美人のこととかも「まあ、長者よ聞いとくれ。実は・・・」と亭長相手に延々話したのだろうか?

「いいか、後世の者供よ!俺は決して劉邦に負けたのではないのだぞ!天が・・・」

と、くどくど話したのだろうか?
それも何か項羽さんのイメージが・・・

それともそういう王の発言を記録する担当者みたいな人がいたとか? 
基本的に正確な資料をそれこそ後世に残すために、あらゆる陣営から生命を保障されている、みたいな人たちが。

う~ん、実は、この文章を書き始める前から、こういう後世の目を気にするっていうのは漢の時代につくられた考え方で、それ以前はあまり一般的な考え方ではなく、それにとらわれた孟徳さんもやっぱり「漢の子」だなぁ、というゴールに話を持っていきたかったんです。
ほら、たぶんもともとその原型はあったんだろうけど、いわゆる"武士道"は平和な江戸時代に形成されたらしい、みたいな感じで。

でもなかなかそう上手くはいきませんね。

さて、話題をかえまして、漢、魏、そして念願の統一を果たした晋。

しかしこの統一も長くは続かず、(後)漢帝国滅亡西暦220年、その後に安定した長期全国政権が誕生するのは唐帝国建国西暦618年。

つまり三国志とは400年にわたる激動の時代(なんなら地方の時代)のほんの序章だったと。
多分、その間には異民族の進入とかいろいろあったんだろうし、無知なまま書くのもなんだけど、後漢末期の騒乱はもしかしたら政治が悪い云々レベルの話ではなく歴史の流れの避けられない必然だったんですかね。

そのエネルギーが収束し熱が冷めるのには曹孟徳一代の時間ではとても足りず、400年を必要としたと。
つまり400年にわたる民衆の苦難の時代の扉を、臥龍・諸葛孔明さんが「天下三分の計」なんていらん知恵を出して思わず開いてしまったわけでは決してないと。

もちろん400年間、延々戦乱に明け暮れてたわけではなく、分裂した国家同士均衡を取って(冷戦?)安定してた平和な時間も多いんだろうけど

※日付でわかるように、最後の二つは2009年と10年の文章です。三国志に関する文章なのでここへ。


6.TRUE BLUE 8月 30, 2018

Ⅰ:雨の坂

ドナルド・キーンさん。

1922年ニューヨーク生まれ。コロンビア大学で日本(日本文?)学を学び、太平洋戦争では海軍の日本語学校に入学したあと、海軍の情報仕官、通訳を務める。
そして戦後は日本文学研究の泰斗として活躍をされると。

でですね、ここから先は本当に僕のぼんやりとした記憶と思いつきのみで他人の思いを勝手に忖度(そんたく・ざっくりこんなもんだと決め付けること、ですか)した失礼きわまりない話です。

太平洋戦争中、キーンさんはアメリカ海軍情報仕官の軍務として、戦場に遺棄された(だけではないでしょうが)日本軍文章の翻訳・解読をされていたそうです。

そしてそのなかにはたくさんの、おそらくその書き手のほとんどは絶望的な戦場を戦い亡くなっただろう日本兵の日記があり、そのような日記を読んでいるとキーンさんはしらずしらず涙を流すこともあったそうです。 

でですね、ココから先はもしかしたら司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」のネタバレってやつになるかもしれません。
物語のクライマックス、日本海海戦。史実はとりあえず(僕も詳しくないし)おいといて、小説内では己の立てた作戦でロシア艦隊を文字通り消滅させた主人公秋山真之さん。

その、日本を滅亡の淵から救い、日露戦の勝利を決定付けた海戦後、連合艦隊旗艦三笠の艦橋で炎をあげながら沈みゆくロシア艦隊を見ながら、秋山さんは、「どうだ!みたか!やってやったわ!」と19世紀から続く西洋の圧迫をついに粉砕したと会心の笑みを浮かべ、ではなく、「もう軍人はやめよう、坊主になろう」と己の立てた作戦であまりにも多くの人が死んだ事実に衝撃を受けます。

いえね、キーンさん、軍務ですから、当然日本兵の日記だけではなく、重要な文章の翻訳・解読もされていたと思うんです。

僕の勝手な想像ですけど、中には多くの日本兵の(もちろん米兵も)運命を直接左右するような文章の翻訳・解読をされることもあったのではなかろうかと思うんです。

で、もともと戦争前から日本文学に惹かれていたということなんだとは思うんですが、たしか戦後すぐのころは、「日本文学を専攻している」と言うと「なんでそんなサルマネの国の学問を?」と言われることもあったとおっしゃられていた(記憶頼り・不確かです)と思いますが、それでも日本文学研究を生涯の道に選び、日本文化のすばらしさをアメリカやヨーロッパに積極的に紹介し・・・

ん~やっぱりこの流れは無理ありすぎで失礼すぎですかね。

ただ、確かに・・・例によって、今回も僕のぼんやりとした記憶で無責任に書いていますけど。

でも、戦争中、日本兵の(遺書でもある)日記を読み、米海軍士官のキーンさんが涙を流すこともあったということは間違いないんです。
戦争中、血みどろの殺し合いをしている敵兵の日記を読み、キーンさんが同じ人として涙を流すこともあったということは間違いないんです。

Ⅱ:これまたその本が今手許にないんで完全記憶たよりです

司馬遼太郎さんとリービ英雄さんの対談(90年代中頃でしょうか?)の中で、司馬さんは「私がドナルド・キーンさんやサイデンステッカーさんに特別な友情を感じるのは、彼らが私の敵、マイエネミーだったからなんです。太平洋を挟んでアチラとコチラにいて、よく戦い、よく生き残ったという友情です」とおっしゃられていたような。

で、リービ英雄さんが「たとえば来日時の晩餐会でブッシュが倒れたとき、助け起こそうとした宮澤さんにもそのような感情があったのでは」と、「それ以降の世代には無いんでしょうね。もう敵でも味方でもない」と。

Ⅲ:というわけで、ここんとこのここの裏テーマになっている司馬遼太郎さんについて

えっとですね、司馬さんの長編小説。よくいわれることではありますが、一つの作品としてみた場合「小説として」どうなの?と、僕も思うことあるんです。イズムの話ではなく、あくまで「小説として」、構成だのなんだのの部分で、どうなの?と僕も思うことあるんです。そこんとこをわりと批判的に言われる方の文章を読んだりすると、確かにそうだなぁと僕も思ったりするんです。

そう、思ったりもするんです。
いや、あたりまえに自分でも思ってるんです。
そりゃ思うでしょ。

でも読むとおもしろいんです。
あれ?あの人どこいったの?
あれ?この人キャラクターかわってない?
とかアレだのコレだのありつつも、どうにもおもしろいんです。

これは司馬さんの直木賞受賞を受けての文章ですかね。

直木賞選評委員であった海音寺潮五郎さんのエッセイ「天才かも知れない司馬氏」の中の『彼の作品には人を酔わせるものがある』、としか言いようがない感じでおもしろいんです。

選評「酔わせるもの」での『これは単にうまいとかまずいとかいうことと別なものである』としか言いようがない感じでおもしろいんです。

つうか「天才かも知れない司馬氏」。 
非常に短い文章ですが、まだ海のものとも山のものとも、な司馬さんに対し、確信をもってこの感動的な文章を書いた、書けた、海音寺さんて凄いと思うんです。

『ぼくは彼は天才、あるいは天才的なものを持っている作家であると信じて疑わない』

Ⅳ:で、これもよくいわれていることだとおもうんですが

司馬さんの初期の長編小説には、海音寺さんの短編集「武将列伝」や「悪人列伝」の影響がある気もするんです。海音寺さんがある時代を生きたある人生を漢文的文章でギュワッと凝縮して凝縮して凝縮して、凝縮しきって、人間の典型として結晶化したものを、逆にパンッと破裂させてビッグバンをおこしたものが司馬さんのいくつかの長編小説、と思うこともあるんです。

だから「翔ぶが如く」のなんとなくな作品としての一貫性のなさは、そこんとこの司馬さんの中でのせめぎあいもあったのでは?と思うこともあるんです。と、放り投げるんです。

ま、だから、どちらにしろ、読み出すとおもしろいんですけどね。

で、それはさておき、司馬さんの奥さんの福田みどりさんは「司馬には新聞連載とかだけではなく、書き下ろしを書かせてあげたかった」みたいなことをおっしゃられていたと思います。

あと確か、司馬さんのサラリーマン時代の部下、というか後輩、というか年若の友人で作家の三浦浩さん。三浦さんがお書きになっていたと思うんですが、時期は今わかりませんが、三浦さんが司馬さんからきいた話で、自分は毎日、新聞連載を読んでくれる人が読んでよかった、おもしろかったと思えるものを書くようにしている、と読んだ気がします。

ええ、もしかしたら違う人がきいた話かもしれません。
で、話はかわりまして、サラリーマン時代、あきらかに怪力乱神が好きだったとしか思えない司馬さん。

三浦さんもサラリーマン時代、そのころはもう三浦さんの上司でしたか?司馬さんが『東北にあるという、ヘブライの遺跡について話し始めた。(略)語り終えると、フラっと、行ってしまった。
ぼくは、キリストは、たぶん日本に来たんだなあ、と、そんな想いにひたっていた』と書かれています。

Ⅴ:その話じゃないですが

というわけで、互いに二十代、作家司馬遼太郎誕生以前から新聞社の部下として(たしか仲人も)司馬さんを身近に知っている三浦浩さんは、当時の司馬さんについて『天成のコラム書き』という思いをもたれていたみたいです。

『ウマイとしか、いいようがな』いと。

で、三浦さんは何故自分はこんなに司馬さんの(ええ、もちろん当時は本名の福田さんです)コラムに感銘を受けるのか考えられたそうです。他のコラム、アメリカのコラムであったり、いろんな新聞のコラムであったりと、いったい何が違うのかと。

そして気づいたことは、司馬さんの『コラムは、どこかにフィクションめいたものが隠されているのだ。あるいは、はじめの発想にフィクションがあって、これを堅固なファクトで固めながら、コラム化しているの』だと。『つまり、このころ流行りだしたショートショートの、ノンフィクション版なのだ。どうやらそれで、ひどく面白いのだ』と。

さらに、これは後のことですが、司馬さんが『歴史小説を書き始めたときには、たいていの場合、新聞連載だったから、なおさらそう思ったのだが、これは、すぐれたコラムの集積だと感じた』と。

さて、随分前になりますが、したがって記憶たよりですが、司馬さんが亡くなられた後に沢山でた追悼集の一冊を図書館でパラパラと読んだことがあります。で、あとがきというのか、それを三浦さんが書かれていたんです。

もしかしたら当たり前のことなのかもしれませんが、そこで三浦さんは、これは司馬さんを"追悼"した本なので、すべてそういう文章がのっています。司馬さんの仕事に対する、厳しいものを含んだ"批評"を読みたい方がいらっしゃったら、○○や△△という本がありますので、と、ちゃんと書かれていましたね。

そんな三浦さんは、司馬さんが亡くなるまで、いろいろハメをはずしては司馬さんに『こっぴっどくおこられて』いたらしいですね。

『人間、自若たるべきこと、人間、厭ふべからざること、人間、孜々たるべきこと
好漢へのセッキョウじゃ』

司馬さんの死から二年後ですか、1998年、三浦浩さん死去。

Ⅵ:さらば青春の光 

あるときふと、三浦浩さんが司馬さんに『(本名である)福田定一、という名前は、いったいドコへいっちゃったんですか』とたずねられたそうです。

すると司馬さんは『不思議なことを訊かれたもんだ、という表情をして「あれは、なくなったんだよ」』と、『実にそっけなく』『淡々と』『そんな口調で』こたえられたそうです。

で、想像です。

三浦さんは『司馬遼太郎、を名乗ってから、司馬さんの中では徐々に、福田定一が薄れていって、いつのころか、法的な書類上は別にして、司馬遼太郎になり切っていたのである』とお書きになっています。

でも人生なにかとハメをはずしては「おい三浦!いいかげんにしないか!」と司馬さんにこっぴどくおこられ続けた三浦さんの中では、司馬さんは最後まで『なぜかはじめから』『兄貴のような』福田さんだったんですかね。で、司馬さんも、三浦さんと接している時は、司馬遼太郎ではなく、消えてなくなったはずの福田定一でいられたりしたんですかね。

あ、ちょうど、あんな感じかも。

司馬さんがお書きになった新撰組モノ。
の近藤勇さんと土方歳三さん。

お二方はおおやけの場では互いを新撰組「局長」「副長」と呼んでいるけど、二人っきりになると、多摩の幼馴染「トシ」「近藤さん」と呼び合うと。まあ「近藤さん」は普段から使っていたかもしれないけど、まあ「沖田君」が「総司」になったりもしたけれど、そんな感じ。

もちろん、想像です。

お、そういえば、あれいいですね。

新撰組副長土方歳三さんを主人公にした、司馬さんの「燃えよ剣」のワンシーン。

これまた僕の記憶たよりで書くんで不正確ですが、時勢いよいよ利あらず、敗勢濃厚の幕府側。
この乱世に剣で名をあげたい。
新撰組もついに自分達の野望の象徴、京都を退去することになる。

んでその前日の夜でしたか、労咳でもう起きあがれなくなっている沖田総司さんの部屋を、独りたずねてくる土方歳三さん。 

そして二人でとりとめもないことを話している最中、土方さんはいきなり机に突っ伏して泣き出してしまう。沖田さんはその土方さんの嗚咽をききながら、ぼんやりと天井を見つめ

「青春は終わった」

Ⅶ:on the wing with we fly one more time

以下は司馬さんの「燃えよ剣」のネタバレってやつですね。
(あくまで司馬さんが小説で創られた)土方歳三さん。

『俺は風まかせの凧じゃねえ。鳥だ。翼がつづくかぎり飛ぶぞ』

と、京、関東、東北とあくまでも新政府軍と戦い続け、最終的に蝦夷地、函館にたどりつきます。
で、敗残の、かもしれませんが、この地に結集した幕府軍により事実上樹立された政権の"陸軍奉行並"に就任します。

が、もちろん明治新政府がそんなもん認めるわけもなく、とっとと攻撃開始。
あたりまえに戦況は一方的なものになります。
で、このままでは追い詰められた幕府軍は新政府軍に降伏してしまう。
さすがに蝦夷地まで来てしまうと、もうあとがない。

つうわけで土方さん、「おいおい、このままでは俺も生きてあいつらに降伏することになるじゃねえか。冗談じゃねえぞ」と"最後まで戦って死ぬため"かなり絶望的な状況になっている最前線にひとり出て行こうとします。

が、その時、函館で部隊再編され土方さんのもとを離れていた新撰組の生き残りの人たちが次々と土方さんのもとに集まってきて、共に進みはじめます。土方さんは思わず「なにしてんだお前ら、もうお前ら剣術屋にどうこうできる時代じゃねえんだよ、剣ふりまわしても鉄砲のマトになるのがオチじゃねえか。邪魔だ帰れよ」と、"生きろ"と、叫びます。

え~なにげにこれって末期の日本陸軍批判だったりもしますかね。

でも幕末・維新期の剣術屋のみなさん、「みんないます。みんな新撰組として戦って死ぬといっています」と聞きゃしません。共に進みます。 

で、端折りまして、馬上の土方さん、戦場を独り、悠然と、何事もないように進んでいきます。
そんな土方さんを、敵の銃撃にはばまれた味方だけでなく、気おされたのか、敵もただ見おくるばかりです。

そして土方さんが新政府軍の本営近くまで来たとき、やっと警護の兵に「何者か」と誰何(すいか)されます。

で、土方さん、最初は「俺は蝦夷共和国陸軍奉行並土方歳三だ」と答えようとして、こりゃ何か違うなと、己の野心をたぎらせた京都時代の役職「俺は新撰組副長土方歳三だ」と答えます。

え~これは流山で新政府軍に投降した近藤勇さんが、自分は新撰組局長近藤勇ではなく、旗本大久保大和だと、あくまでシラをきろうとしたことと対になっていますかね。

※キリストのような。20180830。

で、当然びっくりした警護のみなさん。
土方さんを取り囲み、銃を構え「どちらへいかれるのか?」「ん?ちょいと君たちの本営に用があってな」「何用ですか?」

「新撰組だぜ。斬り込みにきまってんだろ」


7.誠 8月 30, 2018

Ⅰ:子母澤さん、お生まれは石狩かぁ 

最初の刊行は昭和三年でしょうか?
新聞記者だった子母澤寛さんが、大正のはじめくらいから、当時まだ存命だった隊士など、新選組関係者に取材したものをまとめた「新選組始末記」。

司馬さんも新選組について小説を書こうといろいろ調べるも、どうしても「新選組始末記」から離れられない、内容以上のものが出てこない。
だから小説を書く資料として子母澤さんの「新選組始末記」を使わせてくださいと、司馬さんは直接子母澤さんに会ってお願いをされていますね。

が、子母澤さんが取材内容をまとめたノンフィクションと思われてきた「新選組始末記」。
現在では、その中にかなり子母澤さんの創作がまぎれこんでいるのではないか、フィクション、ある種小説ではないか、とも言われているみたいです。

でも昭和42年の「中央公論」での子母澤さんと司馬さんの対談。

司馬『とにかく、新選組というのはいまになると、もう調べようがございませんね』
子母澤『われわれが始めた時分は、少しイカれていても、何とか多少はあった。しかし今でも、ときどき何か調べ残しているところがあるんじゃないかと思うことがあるんです。彰義隊でも意外な人が、私の実父は上野の彰義隊でしたとかいう。行ってみると何か話があるものですね。嘘、本当、それは別としましてもね。それに、少しホラ吹くぐらいの人の話のほうが面白いですね(笑)』

もちろん子母澤さんが取材を始められた当時としても、新選組は五十年は昔の話。
別に"ホラ話"でなくても、まあ"ホラ話"もあったのかもしれませんが、ふつうに関係者の方の記憶違いはあると思うんです。で、それを少々本当かなぁ、胡散臭いなぁと思いつつも、証言は証言としてそのまま「始末記」に載せた、ということもありませんかね?

それが、北海道生まれではあるけれど、幕臣の孫である子母澤さんの中に流れる江戸っ子の「だってそっちがおもしれえじゃん」つう粋なのか、司馬さんがいう。

『(始末記は)学問の新しい方法だと思ったわけです。つまり植物採集とか昆虫採集とかいう方法を、違った分野で使ったのが民俗学、柳田国男さんとか、折口信夫さんの民俗学でございますね。それと同じ方法で採集して回られた』ということなのか。

で、それを受けた子母澤さんの『わたしただ怠け者ですからね。自分で勉強しないで人の話を聞いているほうが気楽だから、そういう方法をとったわけですよ』つうのが謙遜でもなんでもなく真実だったのか。

「俺はとにかく新選組の話を集められるだけ集めたよ。そりゃ胡散臭い話も中にはあるけどさ、でも嘘のような真てのもあるかもしれないじゃん。まあ、それらの真贋は誰かやってよ。俺はめんどくさいわ」てな感じで。

で、ふと思いましたが、アウトテイクというか、子母澤さんが"採集"するも、さすがにこれはどうだろうと「新選組始末記」に載せなかった話もあるんですかね?

もしもあるんならそれ読んでみたいです。

Ⅱ:微妙な話ではありますが

「俺はとにかく新選組の話を集められるだけ集めたよ。そりゃ胡散臭い話も中にはあるけどさ。でも嘘のような真てのもあるかもしれないじゃん。まあ、それらの真贋は誰かやってよ。俺はめんどくさいわ」

つうのを、

「俺はとにかく新選組の体臭が嗅げそうな話を集められるだけ集めたよ。そりゃ胡散臭い話も中にはあるけどさ。でも嘘のような真てのもあるかもしれないじゃん。まあ、それらの真贋は誰かやってよ。俺はめんどくさいわ」にしときます。


でですね、司馬さんは「新選組始末記」を使わせてもらって、「新選組始末記」によって、と、おっしゃられていますが、もちろんご自身でもいろいろ調べられています。

たとえば、ん?昭和四十年前後はそんなこともはっきりしなかったの?ともちょっと思いますが。

司馬さんは土方さんの故郷の日野に行き、地元の方に「土方歳三さんの歳三は、としぞうと読むのでしょうか、さいぞうと読むのでしょうか」「このあたりの人間はみなトシさんと呼んでいますね」「ああ、やっぱり、としぞうでいいんですね」と確認したり・・・

うん、まあ、確認、これは念のための確認ですね。
ああ、で、そうしていろいろご自身で調べた結果、どうにも「新選組始末記」にたどり着いてしまうということか。

で、『少しホラ吹くぐらいの人の話のほうが面白い』かどうかはおいといて、面白エピソード満載の「新選組始末記」、やっぱり司馬さんも『私が新選組のことを書こうと思ったとき、これはどうしても「始末記」を離れられない。ですから先生のところに来て、あれをひとつ使わしていただきますと・・・』てことになったのだと思います。

がですね、たとえばこないだの「燃えよ剣」のラスト。

もちろん世紀の軍艦乗っ取り作戦、"アボルダージュ"宮古湾海戦とかありますが、「新選組始末記」の中であのラストに対応する部分は。

『土方歳三は、勇の捕らえられると共に、ひそかに流山を脱出し、会津に走り、更に函館へ行って、榎本武揚の幕下に参じ、陸軍奉行並となったが、武揚の人となりを察し、ついには官軍と和することを予知して極度に悲観し、合戦のたびに、自ら危地に出動して死を希(こ)う風であったが、明治二年五月十一日の激戦で馬上弾丸に当たって戦死した。年三十五、勇より一つの年下である。常に同僚に語って、「ああわが輩は死に遅れた。もしわが軍官兵と和する事あれば、地下に近藤と相見(まみ)ゆるを得ない」といっていたという』

てトコなんですね。

つうかこの漢文のよみくだし風な文章、簡潔でいい文章ですね。
やっぱり昔の人はみなさん漢文の素養があったんですかね。

は、さておき、だから「新選組始末記」の中で、僕が要約をした「燃えよ剣」のラストに対応する部分はここだけだと思うんですね。

そりゃ、実際には他の資料を使ってもいるのでしょうが、この「始末記」の文章を元手に、司馬さんがどれだけ想像の翼をひろげてあのラストシーンを創られたか、是非「燃えよ剣」を読んで確かめてほしいんですね。

つまり結論は、あのラストシーンは面白い、「燃えよ剣」は面白い、なんです。
「新選組始末記」も面白い、なんです。
お暇でしたら是非読んでみてください、なんです。

で、しれっと、あくまで僕の想像の「俺はとにかく新選組の体臭が嗅げそうな話を集められるだけ集めたよ。そりゃ胡散臭い話も中にはあるけどさ。でも嘘のような真てのもあるかもしれないじゃん。まあ、それらの真贋は誰かやってよ。俺はめんどくさいわ」てのを大肯定するとすると・・・

ん?するとするとって言い回し、何か変?そうでもない?

ま、今問題にすべきはそこではない、というわけで、大肯定するとすると、司馬さんが子母澤さんに『(始末記)をひとつ使わしていただきます』とおっしゃったのは、子母澤さん的にも「おお!お前みたいなヤツが現れるのを待っていたぜ!」てなトコもありましたかね。

で、明治維新後は、正義の志士をバッサバッサと切りまくる、悪逆無道な悪者という地位を確立した新選組の土方歳三さん。←想像です。

なにげに雰囲気としてその名を口にするのもはばかられ、気づいたときにはその名が"としぞう"なんだか"さいぞう"なんだか、はっきりとはようわからんのだ、てなトコもあったのだろうか?

※ないでしょう(笑)。20200807。


Ⅲ:マイナス・ゼロ

でも、言葉は悪いですが、司馬さんも子母澤さんが使われた意味での"ホラ吹き"は嫌いじゃないと思います。
井上ひさしさんが「手鎖心中」で直木賞をとられたとき、選考委員だった司馬さんの選評は『(井上さんの)うそのあざやかさには目をみはるおもいがした』『これを書いた才腕の前には、たれもが叩頭せざるをえないのではないか』『いかにも上質の滑稽であった』ですし。

それに早逝された作家、広瀬正さんのSF小説が直木賞候補(1970)になったとき、委員の中で、司馬さんのみが熱心にその作品を推されたそうです。
司馬さんは、広瀬正さんの「マイナス・ゼロ」について。

『一読者として一番面白かったのは、広瀬正氏の「マイナス・ゼロ」であった。
SFには読み方が要る。頭から空想譚に騙される姿勢で読まねばならないが、それにしてもこの人の空想能力と空想構築の堅固さにおどろいた』

『「ツィス」には圧倒的な感銘をうけた。ごく平均的にいって、人間は五官によって生存を認識している。そのうち聴覚に、外部からほんの小さな変化を、持続的そしてひろく社会一般に加えるとすれば、人間はどうなるのであろうかという空想的な実験意識が、着想になっている』

『この空想上の実験によって、人間が、簡単に個のわくをこわして集団の大わくに入り、そのわくの中で似た反応を交換しあってやがては恐慌をおこすという結果を生む』

『このときSFは、重大なリアリティを持つのである』

広瀬正さんの「エロス」について。

『私は広瀬正氏の「エロス」を推した。深読みかもしれないが、愛というこの人間現象に奇怪な衝撃力をもつものを、作者は化学的物質としてそれを抽出し、合成し、それをこの小説に登場する数人の人間の過去に対し、実験的に添加した場合、「過去」がどのように化学変化をおこすかということをSF風に考えてみた文学であるように思える』

『(この作品は)三度目の候補作である。このあまりにも現実離れした遊びの世界は二作ともおおかたの共感を得ず、こんどもそうであった』

ん~でも、司馬さんは『SF』『現実離れした遊びの世界』を『遊戯としてわりきってしまえばじつにおもしろい』と書かれていますが、本当に『遊戯としてわりきって』いたのか、すこし疑問です。

ええ、かなうことなら一度、紅茶でも飲みながら、司馬さんから『東北にあるという、ヘブライの遺跡について』の話をお聞きしたかったです。

はたしてキリストは日本に来ていたのか!!

で、いきなり話を矮小化しますが、イエスさんご自身が日本に来ていたことはないかもしれませんが、アチラで異端として排斥され、唐で大流行したネストリウス派かどうかはしりませんが、人としてか文物としてかはたまた両方か、かどうかはしりませんが、キリスト的なものが○○麻呂な時代の日本に来ていても、別に不思議ではないと思います。

井筒さんは司馬さんとの対談で『古代ギリシアの思想を持ち込んでくると、実にはっきりと解明されるところが東洋思想には多々あるんです』『歴史的に影響があったかなかったかには全然関係なく、思想構造的に必然的な相互照明の問題なんです』とおっしゃられています。

でも司馬さんが『長安に入った空海は、当然なことですけれども、ネストリアンのキリスト教の教会は見たらしいですし、ゾロアスター教の火のお祭りも見たはずです。ですから当然、プラトン的なものが来ていないということは、いえませんですね』といわれると、『いえません。絶対いえないと思います』と。


"新日本紀行 第28巻 「鬼と琵琶法師 ~大分県・国東半島~」 1971年放送"




"街道をゆく 第3回 奈良散歩"
ま、もちろん、「~とはいえない」といいだすと、もうなんでもありじゃないか、と僕も思いますが、キリスト的なもの、ヘブライ的なものが、○○麻呂な時代の日本に来ていても、別に不思議ではないと思います。

だって嘘のような真てのもあるかもしれないし。

Ⅳ:そういえば、つうかそもそも、厩戸皇子て方がいましたね

そうそう、いやいやありました。
司馬さんの、しかも広瀬正さんの「ツィス」の選評の中にありました。

『(陳舜臣さんと)はなしが中国の詩のことになったとき、氏がなにか出典を示して、男子の詩は志をのべるもので女子の詩は怨みをのべるものだ、という意味のことをいったような記憶がある』

『むろんこんにち、女子が志をのべてもよく、男子が怨みをのべてもいい』

『薪をたたき割ったような粗論だけに、小説にもそれが大きい場所であてはまるような気がする』

『怨みものべず志ものべず、どういう衝動に駆られてか、営々として小説を書くというのは、なにかをやたらに空費するという意味で一種の壮観であるにせよ、一面なんだかつまらないような感じがしないでもない』

『江戸期の日本人の持論で、志が高く涼やかであれば技巧の拙さはかえって覆われて逆に強さを出すことさえある、というのを読んだことがある。これも小説の分野にあてはまるかもしれない』

『広瀬正氏の「ツィス」という作品は、自分の空想をどれほど精緻に計数化しうるかということに挑んだ作品で、この作業そのものが志であり、さらには社会心理学的なリアリティもあって、変に魅かれるものがあった』

でした。

いやいや司馬さん、広瀬さんの作品に変に魅かれたのは、自分と同じものを、志といってもいいですが、それをその中にみたからではないのですか?と、僕がまた勝手にいっときます。
でもこの選評は『しかしこの種のものが受賞作になるには多少先例と筋合いがちがうし、なるにしてもあと数年かかるかもしれないと思った』としめられています。

この選評を司馬さんが書いて四十年。

『この種のもの』が受賞できる時代に現在はなったのでしょうかね?
ちなみにこの翌年に亡くなられた広瀬正さんの作品への選評は、司馬さんのエッセイ「不思議な世界を構築した天才」で読めます。

(注:僕は広瀬さんの作品自体は、たぶん赤羽の本屋で少し立ち読みをしたくらいです・2013/12/05)

Ⅴ:思いつきは大切にしましょう

しかしまあなんですね。

○○麻呂な時代の日本にキリスト的なものが来てたとして、なんで次の「いごよくひろまるきりすときょう」まで来なかったのか?おかしいではないか!と無理やり疑問に思うことにして、これあれですよ、早い話が両方とも民族大移動の時代ですよ。

ほらネストリアンの方たちが地中海世界で異端として排斥されたころ。
そのころ。

それはモンゴルにいた匈奴が漢との戦争に破れ、西方に逃れたのがそのスタートラインとなる、民族大移動の時代じゃないですかね?

AがBを襲い、それを逃れたBがCを襲いと、玉突きの民族大移動のあおりでローマ帝国が滅んだ時代じゃないですかね?

んで、石もて追われた、かどうかはしりませんが、ネストリアンの方たちが唐に到達したのも、そんな民族大移動の巨大な玉突きエネルギーの一環ではなかったんですかね?
異端として排斥された、その事実自体とは一切無関係に。
当時は未知の世界に飛び出すのは時代の気分として当たり前だったのではないですかね?

ま、いいや、ここが駄目ならよそにいけばいいじゃないか、みたいな。

んで、そのエネルギーが徐々に冷め、混乱も収まり、地中海世界もそれなりに安定してくると、その中で充足し、わざわざ未知の世界にでていく必要が・・・いや、この話の流れはいかん。

とにかく膨大なエネルギーを使い果たし、出ていきたい人たちは出ていって、で、休息の時代として、自らの世界に閉じこもるようになったと。

ユーラシア大陸の反対側までやってくるエネルギーはとてもなかったと。

んで、もしかしたら次の民族大移動もモンゴル、こんどはチンギス・ハーンの自発的な西への遠征が発端かもしれませんが。発端つうか意識としてのきっかけかもしれませんが。

まあそこらへんはゴニョゴニョでおいといて、自らの世界に閉じこもっていた地中海世界も徐々にエネルギーを溜め込みはじめ、あらたなるイスラム世界との戦争を含めた交流もあり、そのすぐれた文化に刺激もうけ、さらにエネルギーを溜め込み、溜め込み、溜め込み、そしてついに海にあふれ出た「いごよくひろまるきりすときょう」。

と、話をもっていきたいわけですよ。

Ⅵ:『会(たまた)ま』てのは、"たまたま"ですか

そうそう、諸葛亮さんが亡くなったときって本当に星が。
あ、これまた陳舜臣さんの「秘本三国志(六)」によりかかりまくりなんですけどね、正史「晋書・宣帝紀」の中に諸葛亮さんが亡くなったときのこととして『会(たまた)ま長星有り、亮の塁に堕つ』という記述があるそうです。

ちなみに宣帝というのは、諸葛亮さんが魏への遠征中に五丈原で病没したとき、その軍と対峙していた魏の重臣司馬懿仲達さんのことです。
で、諸葛亮さん率いる蜀軍が陣を敷いた五丈原はかなり切り立った(想像)台地で、ま、ある程度距離をとって台地下に布陣していた(想像)魏軍からは、見上げる五丈原に流れ星が吸い込まれるように見えたんでしょうね。

が、「晋陽秋」という書によるとそんなもんではなく、『星有り、赤くして芒角(ぼうかく)、東北より西南流し、亮の営に投じ、三投再還、往(おう)は大、還は少。俄かにして亮卒(しゅっ)す』、もうまるで、しし座流星群のように星が五丈原めがけて流れ堕ちたと。

まあ実際には、正史三国志「蜀書・諸葛亮伝」の井波律子さんの訳を引用させていただくと『赤くとがった星が東北より西南に流れて、諸葛亮の陣営に落ち、三たび落ちて二度は空に戻った(が、三度目は落ちたままだった)。落ちたときは大きく、戻るときは小さくなっていた。にわかに諸葛亮はなくなった』と。

陳さんも『孔明が死んだ夜には、天文に奇変があったのだ』とお書きになっています。

(注:正確ではないですが「三投再還」このような表現は、無念な思いで亡くなった人にたいする慣用句、みたいな話を読んだことあります・2013/12/05)

まあ「晋陽秋」のほうはおいとくとしても、たかだか一人の人間の死と天文がリンクするかい。
アホか。それこそ『会(たまた)ま』じゃ。とも思います。

が、天下三分という己の志に命を燃やしつくした諸葛亮さんが亡くなったとき、夜、『長星』が『有り』、諸葛亮さんの『塁に堕』ちたように人びとに見えたのも事実なんでしょう。
わざわざ正史にそう記すくらいなんだから。

もちろん『会(たまた)ま』なんでしょうけどね。

Ⅶ:井波律子さんの訳たよりで、正史三国志「蜀書・諸葛亮伝」をもとに書いております

三国分裂時代に終止符を打ち、天下を統一した晋の時代、魏・呉・蜀、残された三国の記録を「三国志」としてまとめた陳寿さん。

この方はもとは蜀の国の人ですが、晋の皇帝に下問され(?)、諸葛亮さんについてこの方自らの言葉で語ったところによると、『諸葛亮は幼少より抜群の才能、英雄の器量をもった人物でありまして』『当時の人は彼を高く評価しておりました』と。

で戦乱を避け、荊州の片田舎で農業をやりながらのんびり暮らしていた時、『左将軍の劉備は諸葛亮の並はずれた器量を認めて、三度も草ぶきのいおりの中に諸葛亮を訪問いたしました』そして『諸葛亮は、劉備の傑出した勇姿に深く心を動かし』主従の『契りをかわした』と。

いわゆる「三顧の礼」てやつですね。

諸葛亮さんご自身も、つうか↑の陳寿さんの言葉は、そもそもそれをもとに書かれているのかもしれませんが、諸葛亮さんご自身も「出師(すいし)の表」の中で『臣はもともと無官の身で、南陽で農耕に従事しておりました』『先帝(劉備さん)は臣を身分卑しきものとなさらず、みずから身を屈して、三たび臣を草屋のうちにご訪問下さり、私に当代の情勢をお尋ねになりました』『これによって、感激いたしまして、先帝のもとで奔走することを承知いたしました』とお書きになっています。

実際はそんなに見た目ドラマチックではなかったのかもしれないけど、「桃園の誓い」と違い、「三顧の礼」は本当にあったことなんでしょうね。でもこの邂逅の中で本当に「天下三分の計」が話合われたとしたら、見た目のドラマチックとは一切無関係に、その歴史的ダイナミズムは凄まじいものがありますね。

でですね、「蜀書・諸葛亮伝」によると、劉備さんが新野という場所にいたとき、徐庶(じょしょ)さんという方と会見したそうです。で、話してみて、劉備さんは徐庶さんをすごく有能な人物だと思ったそうなので、聞いてみたんでしょう。「このへんに誰か優れた人物はいない?」と。

すると徐庶さんは「ああ、そいでしたら、おいの友人に諸葛孔明というすごか男がおってですね、こん男は臥龍(がりゅう)、まさに寝ている龍ですたい。時が来たれば、天に昇りますよ」と。

「ほんと?それは会ってみたいな。君ちょっとつれてきてよ」
「いやいや、こん男はこっちから出向けば会えるばってん、呼び出しても絶対にこんですよ。そがん男です。本当に会いたかとなら将軍自ら会いにいったほうがよかですよ」

で、頃はいよいよ曹操軍の南下がはじまりそう。
なにかと状況が切迫し、人材に飢えていたということはあったと思いますが、不思議と劉備さんの中に閃くものがあったのでしょう。
『その結果、先主は諸葛亮を訪れ、およそ三度の訪問のあげく、やっと会えた』という流れになったみたいです。

そういえば司馬遼太郎さんは、劉備さんと諸葛亮さん、互いの出身地域から、もしかしたら最初は互いの言葉が通じず、筆談で話し合ったのかもしれないな、とお書きになられていましたね。

つうても諸葛亮さんの友人、すくなくとも知人だろう徐庶さんとは劉備さんつつがなく会見できているので、あんまり問題はなかったんでしょうけど、もちろん通訳がいたのかもしれませんが。

あ、でも司馬さんがおっしゃったのは、日常会話ではなく、「天下三分の計」みたいに重要でいりくんだ話をするには、互いの出身地域から、もしかしたら互いの言葉が通じがたい部分があり、だから筆談で話し合ったかもしれないな、という話だったかも。

なぜなら、話し言葉は違っても、漢字、書き言葉は全国共通だから。

(※たぶん。2013/12/05)

Ⅷ:戸籍

でも、ですね。

「魏略」という書には、劉備さんと諸葛亮さんの出会いは、劉備さんが諸葛亮さんのもとを訪ねたわけではなく、諸葛亮さんのほうから、劉備さんに会いに行ったと書いてありますな。

当時、河北地域をついに平定した曹操さん。

荊州在野の諸葛亮さん、こりゃいよいよここに曹操軍が大挙来襲するぞ、と予期します。
次のターゲットはここだ、と。
しかし荊州領主の劉表さんはいまいちぼんやり、この亡国の危機に頼りないことこの上ありません。

そうだ、あの男にこの危急を伝えてもどうしようもない。

そういうわけで、諸葛亮さんは、荊州北方の樊城(はんじょう)に劉表さんの客分として駐屯している、「あの男はあくまでも反曹操だ」と評判の劉備さんのもとを訪ねます。
もちろん自分の売り込みもかねています。

が、諸葛亮さんはまだ若く、劉備さんと初対面でもあったので、なかなかまともに相手をしてもらえません。
しかしなんとか機知をはたらかせて、劉備さんに自分の話を聞かせることに成功します。

※この馬は的驢ですぞ!とか(笑)。20200807。

「ところで劉将軍は劉表さまを曹公と比較してどう思われます?」

「およばないな」

「ではご自身と比較してはどうですか?」

「ん、やはり孟徳にはおよばないな」

「ええ天下広しといえども、今、曹公におよぶ者などおりません。その曹公が自ら大軍を率いてこの地を襲ったとき、劉将軍のたかだか数千の軍勢でどうやって戦おうというのですか?無謀すぎませんか?それとも戦わずにさっさと降伏しますか?」

「まさか誰が孟徳なぞに・・・しかしワシも軍勢の少なさは心配しておるのだ。孔明君、何かいい手立てがあるだろうか?」

きた!ここだ!

野心ギラギラの「魏略」での諸葛亮さん、おもわず身をのりだして。

「劉将軍!よくぞ訊いてくださいました!」

え~昨日から書きはじめて、やっと本題にたどりつきました。

ちなみに「魏略」では、諸葛亮さんのほうから劉備さんに会いにいったと書いてあります。
しかし諸葛亮さんご自身により、劉備さんの息子さん(蜀漢二代皇帝)宛に書かれた「出師の表」の中に『三たび臣を草屋のうちにご訪問下さり』とありますし、『(劉備さんに仕えてから)二十一年が経過しました』とありますから、まだ普通にそのあたりの事情を知っている人は沢山いたと思うので、やはり僕は劉備さんが諸葛亮さんのもとを訪ねたのだと思います。

が、ここで問題とすべきはそこではなく、「孔明君、何かいい手立てがあるだろうか?」への諸葛亮さんの返答なんです。

『現在、荊州は人口が少なくないのに、戸籍にのっている者は少しです』←当時、荊州は比較的平和で、諸葛亮さんみたいによそから避難してきた人も多かったんでしょうね。

『(その戸籍にのっている)一戸当り何人と平均して兵をとりたてれば、民心は喜ばないでしょう』

『(劉表さんにいって)国中に命令を下し、およそ戸籍にのっていない家があれば、みな戸籍に入れさせ、そこで彼らをとりたてて軍勢を増やすのがよろしいでしょう』

で、以前僕が書いた

『後漢第十代質帝の死んだ本初元年(西暦146年)には、中国全土の人口は4756万余。
そんで、それから約140年後、晋が天下統一した時点での中国全土の人口は800万そこそこ。

最初は僕も(晋が天下統一した時点での人口)800万といってもそれは長引く戦乱のせいで人口が流動的になり、行政組織も弱体化、単に正確な人口調査ができなかっただけじゃないの、と思ったんです。本当はもっと人口多かったろうと。

でも、たとえば、曹操が袁紹との事実上の天下分け目の決勝戦「官渡の戦い」に勝利し、当時の人口密集地帯、いわゆる"中原"をおさえたのは西暦で200年ころ。

これは呉の滅亡の80年前。

で、この80年間、"中原"はそれなりに平和、そこまで大規模な戦争はおこっていないと思います。これは乱世に翻弄された普通の人たちが、少しでもと平和や治安をもとめて集まってくるには、そこに定着するには、十分を通り越した期間だと思います。

それに後漢から続く行政組織が復旧、正常に機能しはじめるにも十分を通り越した期間だと思います。それに、なにより、たぶんですが、どの国でも戦争をするには、作戦計画を立てるには、徴兵にしろ輜重にしろなんにしろ、自国の人口の把握が一番大事な気がします。時は乱世、いい加減にやったとは思えず、かなり厳密に調べた気がします。』

で、やっぱり800万そこそこって数字はかなり正確だったんじゃないですかね。

この「魏略」はちゃんと調べてなかった、って話ですけど。
それは劉表さんの話ですし、で、荊州は滅んだわけですし。

※ごめんなさい。20180830。

で、「魏略」。

この本は、引用部分を読んだだけですが、「魏」の「略」つうせいか、いまいち「蜀」の諸葛亮さんへの当たりが強い気もします。

ただ、ほんと、当時の庶民は、権力者にみつかるとそっこう戦場送りだったんですね。
























『中国の歴史 (三) 290-337ページ』

で、漢の臣を終生貫いた曹操さん、「劉氏を大切に」という遺訓を残されていても不思議ではないとおもいますが。




"曹操と孔明 ~乱世の英雄・知られざる素顔~"

8.3月10日まで 8月 30, 2018

Ⅰ:でも匈奴兵の鎧とかはなんとなく皮製っぽいイメージが僕にはあります

突然ですが、前漢初代皇帝の劉邦さんが屈辱的内容の講和をして以来、長いこと北方の脅威だった匈奴のみなさん。←ま、さくっと、匈奴を兄、漢を弟とする、みたいな感じでしたか。

を、ついに撃退した、前漢第七代武帝、の衛青(えいせい)霍去病(かくきょへい)両将軍。

司馬さんは、あ、武帝時代を生きた司馬遷さんではなく、司馬遼太郎さんです。
司馬さんは、今まで戦争では劣勢一方だった漢が、とつぜん匈奴を圧倒しえたのは、衛青、霍去病、両将軍の能力の高さももちろんあったろうけど、当時漢で飛躍的に進歩した製鉄技術が一番の理由ではないだろうか、みたいなことをお書きになられていたと思います。

まあ例によって記憶たよりで書いとりますが、今までは青銅製だったか、互いに同じような武器を持った歩兵の集団(漢) vs 騎兵の集団(匈奴)を、騎兵の運用に適した場所でやっていたから、漢としてはいかんともしがたいところがあった。でも製鉄技術の革新により、どうにも少量しか作れなかった鉄が大量生産可能になり、それにより漢兵の装備が青銅製から鉄製にかわり、戦闘の優劣が劇的に変化したと。

早い話が、匈奴兵の青銅製の矢が漢兵にとどく前に、漢兵の鉄製の矢は匈奴兵にとどき、匈奴兵の青銅製の矛は漢兵の鉄製の盾を貫けないけど、漢兵の鉄製の矛は匈奴兵の青銅製の盾をサクサク貫くと。
ある種、織田・徳川鉄砲三千挺な、イメージとしての長篠の戦いみたいに、一方的な戦況になったのではなかろうかと。←は、僕の想像です。

で、ですね、当時漢で飛躍的に進歩した製鉄技術。司馬さんが、あ、武帝時代を生きた司馬遷さんではなく、司馬遼太郎さんです。ま、司馬さんが本当にそうお書きになっていたのかあやふやですし、実際に当時漢で製鉄技術が飛躍的に進歩したのかも、僕にそれを調べる気がまったくないのでさだかでないですが、ここは飛躍的に進歩した!と言い切り話を進めます。

では、なぜ飛躍的に進歩しえたのか?

そう、匂ってきましたね。司馬さんが、あ、司馬遼太郎さんではなく、武帝時代を生きた司馬遷さんです。司馬さんが『高后は女主にして制(詔勅)を称し、政(まつりごと)は房戸(後宮の門)を出でずして、天下は晏然(あんぜん・やすらか)たり。刑罰、用いるは罕(まれ)に、罪人、是れ希(まれ)に、稼穡(産業)を務め、衣食は滋々殖(ますますふ)えたり』と高く評価した、どうも戦争もなく平和で、刑罰も厳しくなく、庶民には悪い時代ではなかった、悪い権力者ではなかった呂后さんの時代に、その鍵があるのではないか!?と話をもっていきたいわけですよ。

で、もしもこの匈奴の敗北が、玉突き民族大移動のきっかけならば、ローマ帝国を滅ぼしたのは呂后さんだったのだ!と話をもっていきたいわけですよ(六百年後くらいですかね)。
したがって、プラトン的なものが○○麻呂な日本にやってくるきっかけをつくったのは呂后さんだったのだ!と話をもっていきたいわけですよ(七百年後くらい・笑)。

Ⅱ:そういえば、司馬さんの文章の中に霍去病さんの名前に言及したトコがあった気もします

病という文字から、彼はもともと少し病弱だったのだろうか、と。
当時としても、若くして亡くなられたと思いますが、武帝も自分の陵のすぐ近くに彼の墓をつくらせていませんでしたか。

で、それはさておき、しかしですよ、青銅製の矢と鉄製の矢、ま、矢じりですが、そこが違うだけでそんなに射程距離が、匈奴の騎兵のみなさんの突撃を無効にするほど射程距離が伸びるんかい、とも思います。
まあ、実際はそんなに伸びなくても、こちらの矢は相手を貫くけど、相手の矢はこちらを貫けない、つうならまあいいんだろうな、とも思います。

とか書いてたら、司馬遼太郎さんの「長安から北京へ」の中に、『古代の(中国の)鉄のことを考えたい』からはじまる文章がありました。以下は司馬さんが『考え』られたものを、例によって僕が"抜き出し""入れ替え"たものです。

えっとですね、古代の中国はもともと周辺地域より金属文化の先進地帯であったと。
鉄でいえば、春秋時代の中ごろにはわずかながらも鉄器農具があったらしいと。
で、くだって戦国時代、もともと出自がそちらの遊牧民族だったらしいですが、西域から流入したすぐれた製鉄法をとりいれた秦が『列国にぬきん出て鉄器を多く生産』、それにより農業生産高が飛躍的に上昇、したがって『他の青銅器諸国よりも人口が多くなり』『軍団を多く持つことができ』『鉄製兵器をつかうことによって、切れ味のわるい列国の青銅器兵器を圧倒』『中国最初の統一帝国をつくった』と。

『金属を鋳るには、信じがたいほどにぼう大な樹木が要る』『一山の樹を伐りたおしてそれを木炭にし、それをもって砂鉄もしくは鉄鉱石を溶かしたところで、得られる鉄の量はわずかなものである』

で、『(秦の)あとを継いだ漢帝国はさかんに製鉄をおこした』、そのため『山野の樹木は大いに伐られたであろう』『伐られると土地は急速に乾き、復元することが困難になる』が、短期的視野では、そうしてつくられた『鉄器の爆発的な普及によって山野がよく開拓され新興地主が続出』、結果『漢帝国を富ませ』『軍事においても鉄器で鎧や刀槍が作られ』ついに『武帝の時代』『漢の富強期』をむかえたと。

で、矢。

『鉄のヤジリと青銅のヤジリとは、殺傷力はくらべものにならない』『鉄のそれはノミを矢柄のさきにつけたように重くするどく固く、これを飛ばせば青銅のそれより遠く飛び、相手の堅甲を破って骨を断つ効果をもっている』と。

で、『もしかしたら漢民族よりもあるいは早くに青銅冶金を知ったかもしれない』遊牧民族の匈奴の人たちが、何故に鉄製ではなく青銅の兵器を使用していたかというと、『鉄冶金が食ってしまうばく大な樹木の量が』匈奴のみなさんの地には乏しかったからではないかと。

もっとも『かれらもまた』『こんにちのバイカル湖付近において森林を持って』はいた。しかし『これが冶金とどう結びついたかについては、私の知識は欠けている』ともお書きになられています。

さて、そういうわけで、司馬さんは"当時漢で飛躍的に進歩した製鉄技術"なんて一切書かれてません。

『有史以来』『圧迫され続けた』『騎馬民族』をついに撃退した『武帝の功業』のタネ、『鉄器の爆発的な普及』は『新興地主階級の大形成と表裏をなす』と書かれています。

おや?

が、ですよ、では、なぜ『鉄器の爆発的な普及』を呼ぶ『新興地主階級』が『大形成』できたのか?
そう、匂ってきましたね。司馬さんが、あ、司馬遼太郎さんではなく、武帝時代を生きた司馬遷さんです。司馬さんが『高后は女主にして制(詔勅)を称し、政(まつりごと)は房戸(後宮の門)を出でずして、天下は晏然(あんぜん・やすらか)たり。刑罰、用いるは罕(まれ)に、罪人、是れ希(まれ)に、稼穡(産業)を務め、衣食は滋々殖(ますますふ)えたり』と高く評価した、どうも戦争もなく平和で、刑罰も厳しくなく、庶民には悪い時代ではなかった、悪い権力者ではなかった呂后さんの時代に、その鍵があるのではないか!?

『稼穡(産業)を務め』ここ重要!ではないのか!?と話をもっていきたいわけですよ。

んで、ここでユーラシア大陸の反対側に飛びまして、以前も書きましたが、昔、僕が「こんなん今読んでるんですよ」とイタリアの方に塩野七生さんの「ローマ人の物語」をみせたら、「ローマ(帝国)が何で滅んだか知ってるかい?ローマの皇帝がキリスト教徒を迫害し、その行為に怒った神に滅ぼされたのさ」と(たぶん)言われてました。ええ、英語だからようわからんかったんです。

つまりローマ帝国を滅ぼした怒れる神とはr(略)

Ⅲ:なかなか「ゴジラ対ヘドラ」にたどりつきませんな

え~しれっと書いておりますが、呂后さんについての司馬遷さんの記述は、読み方もふくめ、陳舜臣さんの「中国の歴史(二)」から引用させていただいております。

んでもってですね、そのまま武帝さんのあたりを拾い読みしていたら、どうして『ほかの歴戦の将軍が、あまり戦果をあげずに』、衛青・霍去病、『衛皇后の縁者の二人の将軍だけが、はなばなしい軍功を立てたの』か?

それは『武帝はこの二人に、選り抜きの精兵を与えたの』だ、と。

そう衛青さんと霍去病さんは、後宮ン千人(かどうかは知りませんが)の美女の中で、武帝が最も愛した衛皇后の弟と甥なんです。

『高祖(漢初代皇帝劉邦さん)の遺訓として、原則的には、戦功の無い者は列侯になれない』だから『愛する皇后の弟や甥を列侯にとり立てるには、戦争に勝つ機会を与えなければな』らない。

で、『二人の将軍はそれを生かし』たので『凡庸の才能ではなかった』だろうけど、『最高の装備(鉄器兵器でしょうね)と最強の精兵を与えられていたの』だから、『軍事的天才という評価は、いくらか割引かねばな』らないと。

あと高祖時代の漢を圧倒し、屈辱的講和を結ばせた英雄冒頓単于(ぼくとつぜんう)さんのころとは違い、当時の匈奴は、単于の座をめぐって(?)内紛がおこり、『活力は、すでに下り坂になっていた』と。

さて、ここで、またユーラシアの端から端にとびまして、昨日登場のイタリアの方。

一度「あなた、話す、何ヶ国語?」と聞いたことがあるんです。
すると伊、仏、英、と確かスペインが少々と。
で、僕が「ドイツ語は?」と聞くと、「わけわからん」と。←たぶん。

一人の人に聞いただけで話を進めますが、これってあれですかね、ローマ帝国内外ですかね。

で、ドイツ語は日本人には結構発音しやすいって話があった気がしますが、なにげにちょいと地面掘ったあたりで、匈奴の人たちがいたモンゴルあたりがぼんやりと浮かんじゃったりはしませんかね。
もちろん民族の話ではなくて。

Ⅳ:廖承志さん

ところで、話はまたかわりまして、司馬さんの「長安から北京へ」は、ざっくり、1975年に司馬さんが"日本作家代表団"の一員として中国に行かれたときの旅行記です。ちなみに当時の中国は、その末期ではありますが、文化大革命、まだまだ四人組のみなさんがブイブイいわしていたコロかと思われます。

廖承志さん。

『はるかに優勢な国民党軍と戦闘しながらの』1万2500キロの『陣地転換』、とはいえ『敗走にはまちがいなく』、『終了したときは、十人のうち一人しか生き残っていなかった』、"長征"に参加。中国革命を『日本の明治維新にことさら翻訳(直訳はむろんできないが・ママ)すれば、元勲でないにしても、幕末以来の生き残りの元老の一人といえる』。

父親は孫文さんの同志で、孫文さんを通じて、宮崎滔天さんとも縁が深かった。
後年、文化大革命発生時の「大変だ!皇帝(毛沢東さん)が宮殿に宦官(四人組さん)を引き込んだ」な思い出話を、僕が読んだ気がする方です。

で、北京滞在時のホテルの夜。

みんなが集まっていた団長である井上靖さんの部屋を、まだ三十代の唐家璇さん一人を連れ、廖さんが訪ねて来られたそうです。しばらく雑談して『辞すべくドアのそばまで行ってから、廖氏は重大なことを思い出したように、立ちどまり、井上靖氏のほうへむきなおった』

『井上氏の母堂は長命され、数年前に亡くなられた。重大なことというのは、そのことについての弔慰であった。』

『私も、母を亡くしました。
母親というものは、子供がいい年になっても、ずっと居てほしいものです。』

Ⅴ:蠡

司馬さんが中国にいかれたのは1975年の5月ですか。
で、司馬さんも音楽学院の見学時に、説明者の方から『江青(ジャンチン)同志にみちびかれて』という『おべっかというにおいの中に入る』言葉を聞いた、千万単位の人が犠牲になったといわれる文化大革命を推し進めた「四人組」の事実上のトップ、毛沢東夫人江青さん。

いまちょこっと調べたら、翌1976年10月逮捕、1981年に死刑判決。
後に無期に減刑されるも自殺されたと。

が、「来年のことをいうと~」もありますし、ここは司馬さんの旅にもどります。

え~と、これは解放以来、今に至る共産中国の一貫した史観なのか、この文化大革命時にとりわけ強調された史観なのか、よくわかりませんが、「匈奴について」。

『匈奴とは、数十万の騎兵をもつ奴隷制』であると、司馬さんは霍去病さんの墳墓の責任者の方に説明を受けたそうです

ここで司馬さんは、匈奴について『漢民族の農業社会に対し、単に商売ちがいの社会だと私は思ってきた』とお書きになられています。

『が、奴隷制社会であるとすれば』『漢帝国という新興地主勢力による「封建制社会」よりも前段階の社会』で、『あたらしい史観では』『克服されてゆくべき旧体制である』と。

そして『これによって、武帝の戦争の性格』は『奴隷制と封建制の制度の矛盾であり』『当時の段階では』『あたらしい封建制にとっては、正義の戦い』であったと。

さて、話は変わり、司馬さんが旅行中、太湖の湖畔の無錫市を訪れたときのこと。
司馬さんは蠡園(れいえん)という庭園のなかの宿館に泊まったそうです。
この蠡園は、春秋時代の名臣と名高い越国の范蠡(はんれい)さんが、主君を助け、仇の呉国を滅ぼし復讐を遂げた後、隠棲した館跡と言われているそうです。

この范蠡さん、日本人好みの悲劇の復讐者ではなく、伝説ですが、復讐後、主君の狭量さを恐れとっとと引退、他国で商人になり、巨万の富をきずいたそうです。
で、伝説はそこで終わらず、春秋一の美女といわれる西施さんと結ばれ、この太湖の湖畔で二人悠々自適な生涯をおくられたそうです。

『播州赤穂の浪士が復讐のあと四十七人がぜんぶ切腹してしまうという不条理な美学を二百年以上芝居として見つづけてきた社会に属している』司馬さん。

そんなん『大石内蔵助を商人にさせて巨富を得させ、野尻湖畔にでも別荘をつくらせて横にお軽でも侍らせた』ようなものではないかと『范蠡は復讐のあと、そういうことをしておったのですか』と、『けしからんといったような顔で(もちろん冗談でしょうが)』中国人の同行者の方に話されたそうです。

で、春秋時代というのは、司馬さんが「長安から北京へ」をお書きになった"今"の中国の史観では「奴隷制社会」になり、范蠡(はんれい)さんは非難されるべき奴隷主の代表であるだろうと。

しかしこの同行者の方は、『いかにもこの伝説が可笑しくて仕様がないといった表情で』

『まあ、伝説ですけれども』

Ⅵ:風神の門

いえね、昨日范蠡さんの伝説書いてて思い出したんですけどね。
ただこれは司馬さんの小説「風神の門」のラストシーンだったとおもうんですが、これまたン十年前に読んだ記憶のみで書きますので、まあフワフワしとります。

えっとですね、主人公の伊賀忍者霧隠才蔵さん、真田十勇士の一人として、打倒徳川に活躍します。

が、才蔵さんがどれだけ忍術を駆使して獅子奮迅の活躍をしようが、現実に過ぎ去った歴史が転覆するわけもなく、物語のクライマックス大阪夏の陣で豊臣家は滅亡。
才蔵さんの主君真田幸村さんや仲間の猿飛佐助さんたちはみな死んでしまいます。

己や仲間が命をかけた夢や野望はすべて潰え、仇敵である徳川が絶対的に確立した太平の世を生きることになった伊賀忍者霧隠才蔵さん。

さぞや無念だったことでしょう。

と、おもいきや、「風神の門」のラストシーン。
この方ももとはくノ一でしたか、ともに暮らしはじめた恋人に焚いてもらった風呂にゆっくりつかりながら、もう忍者はやめだ、そんな時代じゃねえ、というわけで。

「商人にでもなるか~」

な、感じだったと思うんです。

もちろん、あ、この「風神の門」は司馬さんの中国旅行より前に書かれております、で、もちろん、これは太平洋戦争に敗北した日本、んで、もう軍人はやめだ、そんな時代じゃねえ、「商人にでもなるか~」な見方もできるとは思います。司馬さんがこの小説を書かれた時代のぼんやりとした気分として。

でも、僕は、そういうことはすべておいといて、ホ~ホケキョとウグイスがまぬけに鳴いてるような、今後の人生への妙なウキウキ感があるラストが好きでした、ような気がします。

ええ"気"です(忍豪作家はもうやめだ、そんな時代じゃねえ、も、ありますね・笑)。

さて、話がかわります

安田喜憲さんの「地中の花粉」によるとですね、『昔の花粉の化石』を地中から取り出して調べると、モアイ像でおなじみ『イースター島には昔、ヤシの森があった』『この島は、深い森の島だった』そうなんです。

で、イースター島は溶岩でできている絶海の孤島ですが、島に一か所だけやわらかい『凝灰岩が噴出しているところがあ』るそうなんです。

で、そこで各村々のリーダに似せてモアイ像がつくられていた。

で、その『モアイ像を運ぶため』『コロを使』う。
そのため『たくさんの木が要』る。
同時に、最大で二万人ですか、増えた人口を養うため『タロイモやバナナを作る畑を耕作して森を破壊し』『どんどん木を切った』。

結果、全島を覆っていた(僕の想像)森は消滅。

『雨が降ると』、水を吸収する木々がないために(という言い方でいいのでしょうか)『表土が全部流され』『土地はやせ』『主食のバナナやタロイモが獲れなくな』った。

また、木がないために海にでて魚を獲るための船も作れず、『結果、十六世紀から十七世紀のこのイースター島は、大飢饉に直面した』と。

そう、人びとは『島の森を食べつくしてしまった』。

しかし絶海の孤島であるためにどこにもいけず、最後は『人間が人間を食う事態が引き起こされ』、イースター島の文明は滅んだ。

安田さんは『地球というのは、宇宙という広大な海の中にぽっかり浮かぶ島です』『地球の森を食べつくしてしまったら、どういうことが起こるか』『イースター島ときっと同じことが起こる』だからこそ『宇宙という海の中の小さな島、命の森の島である地球を守っていかなければならない』と話をしめられています。

おや?そういえばここにあるのは東宝特撮映画DVDコレクション第38号「ゴジラ対へドラ」ではないですか!

Ⅶ:でも「風神の門」での霧隠才蔵さん。真田幸村さんの部下ではなく、ちょっと一匹狼みたいな感じだったかも

さて、東宝特撮映画DVDコレクション第38号「ゴジラ対へドラ」(昭和46年7月公開)ですよ。

円谷英二さんがお亡くなりになり、なおかつ『邦画の衰退が強くささやかれ』て『潤沢な予算は望』むべくもない状況での『新しいゴジラ』の船出ですよ。

「公害」という重いテーマを作品の軸としたため、『その内容は暗いトーンで統一され』『一種のドキュメンタリー映画の観をも呈し』『シリーズの中でも最も異色な趣が強い作品のため』『熱狂的なファンも多く』『後年の作品への影響も非常に大きなものとなって』いるそうですよ。

で、僕も観て、なるほどそうだろうな、と思いましたよ。

もちろん詳しい人が観たら他にもたくさんあるのでしょうが、ゴジラさんが宇宙生物&ヘドロから生まれたへドラさんの体に手を突っ込み、中からへドラさんの存在の核でもある球体をとりだしたり、自衛隊の人たちが中部地区の電力をすべてとめ、対へドラさんな兵器にそれをまわしたりしたとこは、「おお、エヴァンゲリオン」と思いましたよ。

で、ここからぽんぽんぽんと。

やっぱり当時の学生運動には、こういった「公害」ってのも関係していたんですかね。
でも柴本俊夫(現・柴俊夫)さんが演じた若者、毛内行夫さんは、そういった運動とは無関係のノンポリということでしょうかね。

が、毛内さんが仲間と共に富士山麓で開いた野外フェスティバルの会場?に突如あらわれたヘドラさん。
「奴の体はヘドロだ。乾燥に弱い。火だ!火が奴の弱点だ!!」と毛内さんは仲間と、このあまりに巨大な敵めがけて、まるで石か火炎瓶でも投げつけるように火のついた木切れを次々と投げつけます。

が、まったく効果はなく、逆にヘドラさんに毒性をもったヘドロを吹き付けられあっさり一掃されます。

え~これはへドラさんが登場する前、都市から来た毛内さんたち若者が、火を焚き、「えじゃないか、えじゃないか、えぇじゃないか」とばかりに、バンドの演奏に合わせて踊っているのを、草むらの中から醒めた目でみつめる地元の老人たち、というシーンもふくめ、そういうことですかね。

で、この「ゴジラ対へドラ」は数字がかなり細かく出てくる気がします。
○○地区、死者何人、行方不明者何人、みたいな、怪獣による被害状況であったり、いろいろ。

他の作品もそんな感じでしたっけ?

そういえば僕が子供のころ、排気ガスとかの現在の数値が細かく出る電光掲示板があった気がします(今もあるかもしれないし、昔もなかったかも。ええ、あやふやです)。

んでそんな"気"で話を進めますが、そういうことですかね。

で、ゆっくりと向こうからやってくるヘドラさんをみてて、何かににてるな~と思ったら、あれでした、水木しげるさんが描く妖怪に(僕的には)にてました。

んでゴジラさん、ヘドラさんの攻撃にやられて片目が開かなくなっているじゃないですか。
おもわず「おい!鬼太郎!」と思いましたよ。

というわけで、今ちょいと調べたら、漫画連載もアニメも二年くらい前に終わっているけれど「ゲゲゲの鬼太郎」ちょうど大人気じゃないですか。

だってこの「ゴジラ対へドラ」公開年にアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」の第二シリーズが始まり、それにあわせ漫画連載も(掲載誌をかえて)再開してるし。

で、あの、そういうことですかね(笑)。

で、ほら、今って、やっぱり空気とか川や海の水とか、当時と比べたら絶対によくなっていると思うんですよ。
全体にならして考えれば。

だから僕は人間そんなにすてたもんじゃないって思っちゃうんです。

Ⅷ:自衛隊の人たちが中部地区の電力をすべてとめて、これ自衛隊の人たちが関東、中部地区の電力をすべてとめて、でした

でもですよ、たとえ『江青(ジャンチン)同志にみちびかれて』という発言に『おべっかというにおい』があったとしてもですよ、これしょうがないでしょ。だって誰が何を聞いているかわからないんだもん。実際によその国のお人とはいえ、司馬さんも、中国で見聞したものをこうして詳細に文章にされているわけですし。

反革命。
ある日、ある時、今まで存在していた人がいきなりいなくなる。
の、いなくなる人には誰だってなりたくないと思います。

といいますかね、これまったく確かめず、雰囲気で書きますけどね、司馬さんが最初に「長安から北京へ」としてまとめられる旅行記を中央公論に発表したのは、1975年11月から翌76年7月までなんですね。四人組のみなさんが失脚する前なんですね。で、ほんとうに雰囲気で書きますけどね、司馬さんが中国滞在中に接した中国のみなさん。

あ、ちょっと話かわりますが、これも記憶たよりですが、「街道をゆく」で最初に司馬さんが韓国に行ったのは朴政権下。んで、とある人に「韓国に行ったら旅行中ずっとKCIAにマークされるらしいよ」と忠告を受けたそうです。

KCIA。映画「KT」のイメージ"のみ"で書きますが、KT・金大中さんを東京のホテルで拉致し、暗殺しようとした、拷問、謀殺、なんでもござれのKCIAさんですね。ま、KCIAという固有名詞ではなく、諜報機関みたいな言い方だったかもしれませんけどね。んで、それを聞いて司馬さんは「へ~ずっと隠れてついてくるんだ。俺についてきても何もないのに。暇なんだな?」と思われたそうなんですね。これはポーズではなく、本当にあまり気にしない人だったと僕は思うんですね。

※佐藤浩市香川照之ゴミ処刑。20180830

が、これはあくまで司馬さん当人の問題。つうわけで、ほんとうに雰囲気"のみ"で書きますが、司馬さんが中国滞在中に接した中国のみなさん。名前が出てくる人と、出てこない人(同行者みたいな言い方)がいらっしゃるんですね。たぶん名前が出てくる人の名前が出てこない場合もあると思うんですね。

で、これはあくまで僕の思いつきです。

司馬さん、もしかしたらむちゃくちゃ相手の立場に配慮して文章書かれていませんかね。もちろん権力持っている人が本気で調べりゃすぐわかることなんでしょうが、文化大革命時の体制の"公式見解"に則っている、抵触しない、てのは相手の名前を書き、則っていない、抵触している、とまではまったく言えなくても、抵触していると揚げ足をとられる可能性が少しでもある、てのは同行者みたいな言い方で名前を出さない。という使い分けを意図的にされていませんかね。

だって誰が何を読んでいるかわからないんだもん。
つうか読むに決まっている。

司馬さんも旅の終わりに、江青さんとともに逮捕、失脚した『中国における要人を六、七人あげれば十分その中に入る』姚文元さんの『礼見』を受けている。かといって日本人の司馬さんに文化大革命時の中国の体制の"公式見解"に則った文章を書かねばならん義務はまったくない、書く気もない。

でも反革命。
ある日、ある時、今まで存在していた人がいきなりいなくなる。
は、避けたいでしょ。

※いえ、全く。個人的見解です。20180830。

Ⅸ:礼

さて『文革で中央に出てきた。というよりも、文革ののろしをあげた闘将』。『一九六五年、「"海瑞罷官"を評す」によって北京市副市長 呉晗氏を攻撃し、文革の口火をき』り、『「三家村を評す」によって彭真氏らの北京派が崩壊するきっかけをつくり』『「労働者階級は必ずすべてを指導せよ」でもって文革派の政治的方向を明示した、といわれる』姚文元さん。

この姚さんの『接見』を、その逮捕失脚の一年半くらい前ですかね、司馬さんたち"日本作家代表団"のみなさんが受けられた顛末ですが・・・

えっとですね、旅ももうあとわずか、今いる上海近辺を見学してあとは帰国を待つばかり、のはずが、庭園を参観中に「偉い政治家があなた達と会うから急いで北京にもどってくれ」という伝言が来たそうです。で、「その政治家は誰ですか」と聞いても、「まだ名前はわからない、しかし急いで北京にもどっていなければ、先方が(不意に)指定してくる日時に間に合わない」、と言われます。

司馬さんは、そんな接見など『どうでもいいではないか』『客に対して、失礼ではないか』と思うも、『公式の招待旅行である以上』『勝手なことはいえず』、それに『個々の意思を停止させ、思いもよらぬ所へひっぱられてゆく』"命令"というふしぎなものの感覚を、軍隊以来ひさしぶりに『体験するのも、旅の楽しみに繰り入れてもいい』と、たぶん無理やり思うことにされたみたいです。

で、まだ日が高いうちに北京にもどり、午後八時をすぎたころ、『会見は、中国共産党中央委員の姚文元氏です』との伝達がきて、『「むずかしい話題を持ち出されないよう、お願いします」と、くりかえし、注意』されつつ人民大会堂に向かいます。

司馬さんは『むずかしい話題とは政治むきのことらしく』『このことは、よく理解できた』『姚氏ひとりが独自の判断で答えるというわけにはいかないからであろう』、つまり『会見はあくまで儀礼』なのである。『礼とは、本来、内容のないもので、内容があれば礼にはならない』。

しかし『姚文元氏と私は、近代精神からいえば、個と個にすぎず、相手に失礼にならないかぎり、あらかじめ話題の制約をうけることはあるまいとも思い』、文革でさかんに礼教を排撃しているのに、姚文元さんはその尖兵であるはずなのに、『やはり、中国は礼教の国であるのか』『と、不思議な思いを持』たれたそうです。

で、その会見自体は"礼"つまり"空"なのでおいといて、事前の説明は『文芸評論家の出身です』のみだったらしい姚文元さんを司馬さんが間近でみた印象は、『かれは粗末な綿服を着、実用的な靴をはき、紺のクツシタがひどく短く』『クツシタにいたるまで、街や野で働いている人達のそれと同じものをはいていた』。
その表情は『まことに温雅で』はあるものの、『私の常識の中にある政治家(諸価値の調整者という意味での)の顔ではなかった』。

『やはり多分に思想家の顔で』『諸価値を調整するよりも一価値を思索し』『発展させ』『あるいは他の敵対的な価値と戦うといったような感じであった』。

あ、文芸評論家の文字でおもいだしました。
以前僕が引用させてもらった柄谷行人さんのご発言。

『批評家っていうのはやっぱりほうっておくとすごい権力意識があるんですよ』
『小説家を支配しようっていうね。文学運動なんかをやる人はそうよね』
『テクストを解放するなどといっても同じだね。解放する人は支配するのだから』
『文芸批評家の権力意識っていうのはものすごいわけ。普通の政治家よりも格段に強いです』
『中国における文革は何をめぐって発生したと思いますか。文芸評論をめぐってだ』

さて、この会見から約一年半後ですか、1976年10月姚文元さんは逮捕されます。

これはやっぱり彼らの権力の源泉である皇帝、その死。
つまり毛沢東さんが9月に亡くなった影響が大きいんでしょうか。
呂后さんのときもちょっとおもいましたが、僕は生まれてこの方一切無縁なので、実際のトコはわかりませんが、権力って不思議ですね。

民衆には悪い権力者ではなかったかもな呂后さんですが、宮廷では一族あげてかなりエグイことやりたおしてます。だから呂后さんが亡くなると、そっこう呂一族の大部分が粛清されています。

でもこの老婦人が生きている間は表面上は何事もおこりませんでした。
つまりある人物が生物として生命を保っていること、それ自体が権力のオオモトであると。

そういえば、フルシチョフさんでしたか。

ソ連共産党の大幹部が集まって会議をしているところに「スターリンが死んだ」という連絡があった。
その瞬間、みんないきなり明るくなった、みたいな話をされたのは。

※road gang,gang up on{against}20180830。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

文章はここまでです。
次の日、東北大震災発生。



























































































































































































『長安から北京へ』

たとえば。

曽野綾子さんと三浦朱門さんご夫婦。

横川砂和子さん厳文井さんご夫婦。

横川砂和子のページ

でですね、たとえば12ページから19ページ。










たとえば、162ページから167ページ。






ケネディさんとフルシチョフさんでは?


たとえば、250ページから275ページ。



























で。

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