勝とう福島Ⅳ。

千年帝国の鷹篇 / 魔都の章 盲目の巨神 - 放魔 - 人外の戦場 - 鷹の巫女 - 混沌 12月 16, 2018



























































HELLO VIFAM 12月 21, 2018




























































このドラムは明らかにリンゴスターさん、つまり。






















































そうそう、テストプレイなど、ゲームデザインには友人の協力が不可欠だとおもいますが、『ヘビーメタル(エルガイムマークⅡも)』のゲームデザインは山中伸弥さん。


"01 紅"

"02 20TH CENTURY BOY (LIVE VERSION)"

"03 ENDLESS RAIN"

"04 Ⅹ (LIVE VERSION)"

"05 WEEK END"

"06 ENDLESS RAIN (LIVE VERSION)"

"07 SILENT JEALOUSY"

"08 SADISTIC DESIRE"

"09 STANDING SEX"

"10 JOKER"

"11 SAY ANYTHING"

"12 SILENT JEALOUSY (LIVE VERSION)"

で、『おかしなおかしな石器人』の主役がリンゴスターさんだと知らずに兄たちと楽しく映画を観ていた当時のおれが、『ラウンドバーニアン』のゲームデザインがリンゴスターさんだと知らずに兄たちと楽しくゲームをしていても、不思議ではないだろうと(笑)。

要するに、岡田厚利という顔の男はゴミ処刑。



あのですね。10月 26, 2018

たとえば、イデオンは全高100メートル超えの巨大合体ロボットなので、戦艦感覚で複数の搭乗員が乗り込んでいる。


"機動戦士ガンダム 第16話 「セイラ出撃」"


"機動戦士ガンダム 第17話 「アムロ脱走」"


"機動戦士ガンダム 第18話 「灼熱のアッザム・リーダー」"

機動戦士ガンダムの音楽は富田勲さん。当然何かとゴミ処刑。

で、現実に巨大ロボットを一人で動かそうと思えば、レイズナーのように"会話ができるコンピューター"がいてくれると助かるんでしょうが。


























だから、いいんだろう、と(すいません)。
で、一万年じゃすまないと思うけど、百万年?いや〜きびしいでしょ?億年単位では?
あのですね、他が当たってるならこれも当たる(直径500キロ)。


























発端。8月 23, 2018














"どろろ 第一面 (パイロット版)"

"どろろ 第二面 「最後の妖怪」"

"どろろ 第一話 「百鬼丸の巻 その一」"

"どろろ 第二話 「百鬼丸の巻 その二」"

"どろろと百鬼丸 最終話 「最後の妖怪」"

黙々と。








































こっちサイドの話ですが、魔法はとっとと復活すべきでしょう。凶星輝いちゃってるでしょ、地球にそれ来ますよ、これが本番。11月 14, 2018















で、当然、前述の通り、角川春樹などはゴミ処刑ですが。

 



愛の讃歌 9月 01, 2018

"01 サン・トワ・マミー"

"02 メケ・メケ"

"03 雪が降る"

"04 ろくでなし"

"05 枯葉"

"06 人生は過ぎ行く"

"07 ラストダンスは私に"

"08 愛の讃歌"



ぼくの地球を守って[20]4月 11, 2019





























































































"01:オープニング・テーマ~三日月の寝台 (ショート・ヴァージョン)"

"02:第1話 「懐しい惑星 (ほし)」・1"

"02:第1話 「懐しい惑星 (ほし)」・2"

"03:第2話 「柊の月基地日誌」・1"

"03:第2話 「柊の月基地日誌」・2"

"04:第3話 「78日間」・1"

"04:第3話 「78日間」・2"

"05:第4話 「優しいフリ、恋のフリ」・1"

"05:第4話 「優しいフリ、恋のフリ」・2"

"06:第5話 「さめぬ想い」・1"

"06:第5話 「さめぬ想い」・2"

"07:第6話 「母星全滅」・1"

"07:第6話 「母星全滅」・2"

"08:第7話 「告白」・1"

"08:第7話 「告白」・2"

"09:第8話 「未来への回帰」・1"

"09:第8話 「未来への回帰」・2"

"10:エンディング・テーマ~夢のすみか (ショート・ヴァージョン)"

and

"ガンダムvsハローキティ 第1話 「ハローガンダム」"

"ガンダムvsハローキティ 第2話 「めぐりあい」"

"ガンダムvsハローキティ 第3話 「愛・戦士」"

たとえば、ゲルググの中の人にも家族はいるだろうに、とか、帰ってこないとキティちゃんのご家族も心配するだろう、など、ありますが(それも意図して作られているのだろうと)。

大人の責任として、キティちゃんがやってくる前にやるべきことはやってしまいましょう。


天照帝。この、ナイト オブ ゴールド "イリアス"のバスターランチャーで、現在、地球直撃コースで飛来する直径500キロの隕石を狙撃消滅するのがおれとさゆみの最初のお仕事。7月 25, 2019


Wednesday, 21 August 2013

excavation

Yao and Shun are emperors of mythical of China. (堯 と 舜・Gyou to Shun)
 
"Their's reign was the really ideal society."

They are told that way.
And one more.
 
"Shun was a man of 東夷(Tou-i)."

This is also told that way.
Translation of "東夷" is "Eastern Barbarians".
In short、"夷" have a meaning of barbarians.

But Shun is a saint of China.

"Shun was born of barbarians、it's strange.
Initially、word of "夷" must did not mean barbarians."

Therefore theory such seems to exist.
※I don't know now when it was said that way.

※I wrote Yao and Shun as "emperors".
This word is written as "皇帝" in Chinese character.
But this word was made about two thousand years later.
What was its expression?
it may be "聖天子 (sei-tenshi)".
The literal translation of "聖天子" is "a holy heavenly child".
Yes、if I check it on the net、I will probably find it relatively easy(lol).※

・・・・・・・・・

Yao and Shun did not hereditary their throne.
 
Yao gave away his throne to Shun.
And Shun gave away his throne to Yu. (禹・U)

"When walking、Yu became a figure of the bear."
Incidentally there is such a legend in Yu. 

He founded ”the Xia dynasty”. (夏・Ka)
This dynasty is the first dynasty of China. 
And thus the throne was became hereditary from here. 

But until now、we had nothing to be able to confirm the presence of this dynasty. 
Invention of Chinese characters.
It is the time of the Yin dynasty of next dynasty.(殷・In)
Therefore this dynasty is considered with the presence of fictitious.

"Ruins of the Xia dynasty may have been excavated."
But recently、I saw its news on TV programs.
 
Just maybe、we are able to confirmed existence of the Xia dynasty.

In a close example、the Yin dynasty.
Until the excavation of ruins of theirs capital city、they were also believed to be a fictional dynasty.
  
・・・・・・・・・ 

Incidentally、Japanese pronunciation of ”Yu・禹” is "U". (う・ウ)
 
And chinese characters bear is "熊". 
Japanese are read this word as "kuma" mainly.  (くま・クマ)

"Yu" and ”U”. (ゆう・ユウ・Yuu&う・ウ・U)
But this Chinese character is also possible to read that way (at least in Japan today).




Thursday, 22 August 2013

saved

Tang dynasty in China. (唐王朝・618 AD~907 AD) 
This dynasty flourished as a global dynasty.

Of course、culture also flourished.
This era、China has produced a poet of many.
Their poetry is called ”Tang poetry” specially. (唐詩・Toushi)

"Currently、many dialects are present in China.
(including the standard languages.)

When we read Tang poetry、they and Japanese language of current、which would be close to the pronunciation of Chang'an of era of the Tang Dynasty?"

※Chang'an is the capital of the Tang Dynasty.(長安・Chouan)
By the way、there are several dynasties that made Changan the capital、but the place and the scale seem to be different.※

There was a person with a question like this. 
※I do not know its answer.

"Japanese language is close to the pronunciation of that time than them.”
But apparently this possibility seems to be.

・・・・・・・・・

Chang'an was the capital of the Tang Dynasty.
At that time、many Japanese international students were staying there. 
 
This international students were called ”kentōshi・kentoushi”. (遣唐使) 
Literal translation of ”kentōshi” is "envoy to Tang".

※In fact、(it may be because of efficiency issues)、but it seems that study abroad was being conducted as part of dispatching an ambassador.
I think the permission of the Chinese Emperor is necessary for foreign students to stay in China、after all formal study abroad may be only this way.※

This study abroad was conducted as a national policy.
Besides、exchanges of each other was active of course.
Many cultures have been brought to Japan at that time.

But 907 AD、the Tang Dynasty was perish.
Before that little、this study abroad was abolished.

And after this、Japan began follow the path of their own.

Culture of China that was brought to Japan until this period、it seems to have been saved in Japan.

















































































































たとえば63ページ、昭和63年で、おれが生まれたのは1971年、とか、ありつつ、今西さんの筆跡鑑定なんて(笑)。

"ミーム いろいろ夢の旅 第1話 「それでも地球は・・・」"

"ミーム いろいろ夢の旅 第2話 「君は恐竜を見たか」"

ミームの音楽は富田勲さんですが、OPEPは編曲含め三上寛さん辻典子さんご夫婦。

"01 新日本紀行"

"02 ジャングル大帝"

"03 勝海舟"

"04 文吾捕物絵図"

"05 学校"

"06 蒼き狼の伝説"

"07 国境のない伝記"

"08 二つの橋"

"09 リボンの騎士"

"10 花の生涯"

"11 天と地と"

"12 新平家物語"

"13 徳川家康"

"14 決断"

"15 多様な国土 (爺さんの里)"

"16 青い地球は誰のもの"



"地球大進化~46億年・人類への旅~ 第一集 生命の星 大衝突からの始まり"



"地球大進化~46億年・人類への旅~ 第二集 全球凍結 大型生物誕生の謎"


はじまりのおわり。7月 31, 2018

高層建築らしきのも見えますが、これ河南の商城(殷墟)ではなかろうかと。おれたちが暮らしてた頃。の写真。となると八千年前か?ならまだ夏だな、はいもう適当です()
で、現在殷墟のまわりにはたぶん山はなくこれわざと何か隠したか、あまりにも写っていてはまずいものが写っていたので、あるいは愚公が、ではないけれど、ドラゴンクロスが、と言いはっているので()、ま、志にうたれてですけど、動かした山とか。あるいはここは殷墟ではなく、その前の何かかな?とか、もう適当、ま時間は随分現代からずれ込むというのは間違いないと、脳内ではなってるんですけど()
もちろん現在の中国の都市のどこか、写真のような絵ミニチュア模型つう可能性もありますし、ま、そうなるとなぜそんなもんをという疑問はわきますが。
それに、この絵の中に写真一枚という組み合わせここだけではなく、あ、そうそう、えっとですね、いろいろ言いはってますが、俺専用"Knight of Gold"Ilias イリアス 頭頂高31メートル、バスターランチャー71メートル 
ロシア LIℬBICO始め…

"Knight of North"Achilles Cross アキレスクロス ギリシア Ølympowír
"Knight of South"Eleanor Cross エレノアクロス マダカスカル Pefestridy Eldo
"Knight of East"Heavens Cross ヘブンズクロス ペルー Çogitángiel
"Knight of West"Jupitre Cross ジュピトルクロス ハワイ島 Stariver love
"Knight of Wind"Dragon Cross ドラゴンクロス 中国 泰山 応安平-5868年愚公に応え山を動かした。
"Knight of Time"Clesia Cross クレシアクロス オーストラリア Araratrose

ロボット?が各地の地中に寝てる”“生きてる地面は通常より暖かい鼓動も聞こえる、と言いはってます。後木星禹を守る8匹の竜がとぐろをまいた姿だ、と言いはってることは既にお伝えしとりますが…。


ちなみに、上の”商城”は、『まんがでわかる科学万博つくば’85』昭和60年2月17日初版発行の一コマ、です


"1983年11月9日 レーガン大統領歓迎式典"

本籍の方はどうなってるのだろう(笑)。



でですね。8月 06, 2018

この帽子は父が米軍基地の知り合いの方から貰ったと。でですね、だからもう4年は前に普通に散歩してる時に普通に撮った写真ですが。
結構な艦船が2012/06/02 6:54 [※なにげこの潜水艦シャレで北朝鮮の潜水艦とか ()]

だから、北朝鮮との緊張関係のためだろうと。当時は。2012/07/01 6:31手前が自衛隊奥が米軍
[※なにげにここにも専門家も見かけない軍艦夏の空母ロナルドレーガンとか、写ってるとか?]

でですね、これが2012/07/03 5:47当時はまったくそんなこと思ってなかったのでマジマジと撮った写真はないんですが、“AMERICAN TOWN FESTIVAL向う左の建物が俺がヒトラーさん設計じゃないかという佐世保市美術館。「なんか嫌味だ」ではなく、だからこういうことだと思うんです。だし(真面目に)アメリカ(あめ)天再夏天才か?いえいえ、すいませんね、で、つまりAll for Re-canan[※神の約束の地Canaanper ardua ad as艱難を経て星へRAFの標語;. ad astra per aspera /星へ困難な道をKansasのモットー[リーダーズ英和辞典第2版より]

※天(ten)、10、十、じゅう、じゆう、再夏などなど。20180806



DOUBLE CROSS。ま、そこまでいうと()。でも、そうなんですけどね、確実に。2012/07/03 6:48
それに羽の先を見ていると、鴉?中央上の鳥、なんかそれこそ十字架にかけられた人のような…。拡大したら、右左逆だけど、というか、左へ90度回転、人の手のひらに俺には見える。

十部46画/50365244〕〔音〕マン バン〔訓〕まんじ(aswastika
古くインドで、仏の胸に描いて円満な功徳(くどく)を表した吉祥の記号
中国で「」と同じ発音し、仏書で「」の代りに用いるようになった。「まんじ」は「万字」の意。
[広辞苑第六版より引用] [※あ、ここは、まんじ子卍]

やた‐がらす【八咫烏】(ヤタはヤアタの約。咫(あた)は上代の長さの単位)①記紀伝承で神武天皇東征のとき熊野から大和に入る険路の先導となったという大烏。姓氏録によれば、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)の化身と伝えられる。古事記[中]「今、天より―をつかはさむ
中国古代説話太陽の中にいるという3本足の赤色の烏の、日本での称。〈倭名類聚鈔[1]〉 →金烏
きん‐う【金烏】(太陽の中に三足の烏がいるという中国の伝説による)太陽の異称。→金烏玉兎
きんう‐ぎょくと【金烏玉兎】(中国の伝説による、太陽に棲()3本足の烏と月に棲む兎から)太陽と月転じて、歳月。略して「烏兎
う‐と【烏兎】[張衡、霊憲序](金烏玉兎の略。中国の伝説で、太陽には3本足の烏が、月には兎がすむとされたことによる)太陽と月日月歳月月日光陰。「―匆匆(そうそう)[広辞苑第六版より]
らす【烏・鴉】スズメ目カラス科カラスおよびそれに近縁の鳥の総称。日本では主としてハシブトガラスとハシボソガラス2種。雌雄同色、黒くて光沢がある。多くは人家のある所にすみ雑食性。秋・冬には集団で就眠。古来、熊野の神の使いとして知られ、また、その鳴き声不吉なものとされる。ヒモスドリ。万葉集[14]「―とふ大をそ鳥の真実(まさで)にも」

だん‐くん【檀君】朝鮮の開国神話で、天命によって降臨した、古朝鮮の開祖名は王倹。檀樹の下に降臨した天帝の子恒雄と熊女との子平壌に都し1500年間統治したという。朝鮮民族の始祖・象徴とされ、檀君を崇拝する民間宗教もある。韓国で一時使用された檀君紀元の元年は西暦紀元前2333[※これ殷夏の何かですよね、絶対][広辞苑第六版より]。で、名は王倹
O’Kelly /oʊkέli/オケリー(1) Seamus O’Kelly (1881‐1918) アイルランドの作家
(2) Seán T(homasO’Kelly (1882‐1966) 《アイルランドの政治家Sinn Féin 党の創設に参加アイルランド共和国大統領 (1945‐59).[リーダーズ英和辞典第2版より]
okapi {名詞}((複数形)okapi(s))動オカピ(キリン(へッ笑)の類;アフリカ産).
Oktoberfest {名詞}(ドイツMunich)十月祭;秋祭り.[パーソナル英和辞典より]

き‐りん【麒麟】①(雄を「麒」、雌を「麟」という)中国で聖人の出る前に現れると称する想像上の動物。形は鹿に似て大きく、尾は牛に、蹄は馬に似、背毛は五彩で毛は黄色。頭上に肉に包まれた角がある。生草を踏まず生物を食わないという。一角獣。孝徳紀「鳳凰・―・白雉・白烏、かかる鳥獣より」
最も傑出した人物のたとえ。浄瑠璃、国性爺合戦「日本の―是なるはと異国に武徳照しけり」

きつりん【吉林】(Jilin中国東北地方中部の省。省都は長春。面積約19万平方キロメートル。漢族のほか、朝鮮族満州族回族モンゴル族などが住む [広辞苑第六版より]

2014/09/30 10:21
朝鮮民主主義人民共和国は、実は鉱物資源が非常に豊かで、貿易の自由化が促進すれば、それだけで、かなりの国庫の増収がある。ざっと年間71211112万ドル
127.12°×37.21°未発見の金鉱 愛華山(アイカサン)埋蔵量7101021億円相当


このお金は北朝鮮の方たちが受け取るべき正当なお金。でですね、多分ですけど、実は皆さんご存知なんだと思いますけど、人食い連中に悪用されるのも何なので、世界中、何かと埋蔵されてます。人食いなき後の世界は世界共産主義。うまい具合にいくのでしょう。丸投げしますよ(笑)。


2014/10/18 19:16
イギリスHeartfeel UK地中4.6メートルエクスカリバー102㎝、十4Uの刻印、俺の剣
2014/10/18 18:58
Israellasale sîma 地中4.6メートルロンギヌスの槍197cm、十4Uの刻印、俺の槍





うちのコピー機のスキャン範囲があるので、とりあえず、何その鉱物資源は?て、ありません?(5月 01, 2019)

で。

ロシア海軍の戦闘艦でしょうか(笑)?



"防衛装備庁陸上装備研究所広報ビデオ (令和2年版)"



6月13日のさんぽ・鹿子前 9月 02, 2018










6.6月17日、あさのさんぽ・福石観音 9月 05, 2018










20.7月1日、あさのさんぽ・港から千尽へ 9月 11, 2018








これ右折。




23.7月4日、あさのさんぽ・本島歩道橋から佐世保橋へ9月 11, 2018












ETV8 司馬遼太郎雑談“昭和”への道 8月 28, 2018

今現在の日本のこととして。



で、統帥権者の私が、例によって、何で読んだか今定かでないまま書きますが、対談の中で司馬さんが牟田口さんのことを、「村の個人商店の親父が精一杯の能力の男」とくさしておられましたが、記憶頼りですが、こういうことだろうと。

"所謂"インパール作戦。

ゴミ処刑の歯車はゴミ処刑の歯車なので当然別(ゴミ処刑)ですが。

けっしてやらない。




Monday, 9 September 2013 (8月 09, 2019)

label

恐露病(Kyōro-byō).
There was such word in the Japanese army at that time.
Literal translation of this term is "the disease that Russia is scary".
 
"Soviet army is weak." 
Recognition of the Japanese army at the time against the Soviet army.
It was like that.

"Its recognition is wrong.
Certainly our armament has not progressed.
But Soviet army is different from Russian Empire army.
(Previously、Japan fought against the Russian Empire.)
Their armed have been modernization already.
Today、they are more powerful than the Japanese army."
 
Military officers who did such reports with detailed data.
Of course、they were present in the Japanese army.
(Perhaps、they were people who had a large amount of sense of balance and analytical skills.)

"They're Kyōro-byō.
In short、they're cowards.
They have overestimated the opponent  by their own cowardice."

But this was a label that is adhered against them.
And they were removed from the promotion ladder on the army.

・・・・・・・・・

By the way、the Russian Imperial Army.
Japan fought against them in the Russo-Japanese War. 

Although this is obvious.
Also at that time、they were not weaker than the Japanese army of course.

During the war、the Japanese army moved forward.
And the Russian army fell back.
And War became a cease-fire.

War became a cease-fire before Napoleon to reach Moscow.
This would be things like that.

Shortly before of cease-fire.
Troops、ammunition、etc.
The Russian army of frontline had been enhancing after another.
By contrast、Japanese army had reached the limit. 
 
In short、the national power of Japan was the limit.

But at that time Russian Empire also had a serious problem at home.
Russian Revolution was just around the corner.

And battle of Tsushima was the victory of Japanese Navy.
Russian Empire lost their's navy in this battle. 

Japan is an island nation.
And this era was not the age of the Air Force yet.

Although this is frivolous writing、reason to stop the war with each other is found by it.

※The Japanese leadership at that time was fully aware of their limitations and was willing to endeavor to end the war、such as by requesting mediation to the United State.
  
・・・・・・・・・

Although this may be that is said in Japan only.
This period.
Secret fund of large amounts of Japan seems to have become funds of the revolutionary movement in Russia. 



Thursday, 12 September 2013 (8月 10, 2019)

rights of people

"If the loss of more than 30% came out by the battle.
Front commander has the authority to retreat by own sole discretion."
 
According to the episode I heard、apparently there is a "common sense" such in most European countries.
 
This is very different from the common sense of the Japanese military at the time.

"Mortality rate of high-ranking officer in the Pacific War.
The U.S.military was overwhelmingly high rate compared to the Japanese military." 

Previously、I also read an episode like this.

※Injury rate and death rate on the way.
 
・・・・・・・・・

"Ethics of Protestantism and the spirit of capitalism" of Max Weber san.
 
I'm reading it now(at Japanese translation of course).
And had been written about the origin of basic human rights in this text.
 
"The origin of basic human rights.
It's in a law of the God.

People have an obligation to obey the law of God.

No one is allowed to disturb it.
(include the secular power of course.)

The law of God is unhindered by anyone (※as long as it is not tinged with anti-social nature).
This is the fundamental rights of people. 
 
Such a view is present in the Protestant."

"Nation can not salvation of soul of people.
It can only God."

Note: This is my summary of text that has been translated into Japanese from German.
Not be accurate.

・・・・・・・・・

"Human requests a sacrifice too much against the same human.
This is a prohibited behavior by God.
(It's behavior only God is allowed.)" 

Idea like this.

"If the loss of more than 30% came out by the battle.
Front commander has the authority to retreat by own sole discretion."

Origin of this "common sense".
There may be this idea out there.

"Armor of this tank is * inches.
The thickness of this armor is sufficient to prevent enemy attacks.
Therefore your life are safe."

"The inside of the tank of the U.S.Army during World War II.
It was written so there."

※Of course、if the enemy did not launch a more powerful new weapon(lol).

Previously、I also read an episode like this.




Saturday, 14 September 2013 (8月 14, 2019)

six years ago

I go back to Nomonhan in 1939.
It was three years after of the terrorist attacks against Minobe san.

Kantōgun has expanded the conflict with ignoring the demand of the general staff headquarters.
And they had big defeat.
 
The general staff headquarters in Tokyo was the center of Japanese military.

First、become the staff officer of Kantōgun in Manchukuo.
Next、be transferred to the general staff headquarters in Tokyo. 

It seems that this was the success road of army officials at the time.

・・・・・・・・・

A strange thing happened.

Kantōgun took action at own discretion and big failed.
※I do not know now whether it was a purely unmanned land there.

Liability issues arise there.
That's natural.

"Who is responsible for this operation?
We don't know it.”

However、the responsible person became unclear.
And above all、the existence of this battle itself was not clearly disclosed to the Japanese.

"We must erase the fact of this defeat (as for domestic).
If we punish someone, that is the admission of our defeat.
Therefore、we should never do it." 

Of course it might have been more direct.

"We do not want to dispose ourself with such a thing.  
There was no such facts in the first place."

Thought such as the following、it also might have been present in them.

"We do not want to damage the authority of the Japanese military by the conflict of just small area like this.
Because it will damaging the authority of the Emperor as Generalissimo.
We must absolutely avoid it.”

Of course、as excuse for their self-protection.

・・・・・・・・・

However、this was intended for high-ranking officers only.
Soldier's situation including field commander (like a platoon leader for example) were different completely.
(Japanese army did not collapse by virtue of their mortal combat.)

Japan had advanced the invasion of China already.
Soldiers who survived this battlefield.
After this、many of them seems that were sent to hard-fought field.

And field commanders.
 
"You should die to take responsibility."

When he go back to his room (or his tent)、handgun for self-determination had been put on a desk.
Of course、the room was unmanned already. 
 
Such facts were many.
 
And of course、the man who put handgun to their's room did not take responsibility anything.
(The man who commanded it.)

This is six years ago of collapse of Empire of Japan.





Sunday, 15 September 2013 (8月 14, 2019)

duty

"Labor is the duty to God.
And people profit from own labor.
It's the will of God.

Reject it.
It's act contrary to the will of God.
People must be received this profit absolutely.

However、there is a condition.
Do not use it for narrow interests.
This profit must be only used for the duty to God.

Represent to the world the glory of God.
Because this profit is a thing that has been commissioned by God for it.
In short、commercial activity is the act of representing the glory of God.

Therefore、people have a duty to manage and operate properly this profit.
people has to serve God as mechanical for profit activities."

According to the text of Max Weber.
There was such thought in Protestant.

"This irrational thinking."

Rational pursuit of legitimate profit by investments of the capital.
In other words、modern capitalism.

"There is a possibility that this thought has an important meaning to the development of it.
They could not be used own profits for own pleasure.
So they continued to used it for business expansion."

And they were never speculative about their commercial activities.
And they were never exclusive with respect to commercial activities.

They just worked very well.
And they kept the simple life.
"Honest" was accompanied to there always.
Because God does not forgive injustice never.

・・・・・・・・・

"For example、your state is in the monarchy.
Even so、the state itself is the only rights subject.
King is just one of the organ of governance of the state.
In short、the state itself has sovereignty as a legal entity."

So-called "Nation corporation theory".

Incidentally、recently I got to know this word by looking at the electronic dictionary.
It was linked to text for Minobe san.
※Of course、 from about high school student、I know "theory of the Emperor as an organ of government".

Jellinek is a German.
And he is a person of early 20th century from the mid-19th century.

Max Weber is also a German.
He is about 10 years younger than Jellinek.

Now、I examined "Nation corporation theory" in the electronic dictionary.
It seems that Jellinek is not the first advocate of the theory.
Establishment of this theory seems to be the mid 19th century.

Jellinek is like a person who has further developed this theory on era of "modernization" progresses.

Well、the aside it.

"Thought base of the two is the same."
I feel so.

And "the theory of the (Japanese) Emperor as an organ of government" of Minobe san.
 
This may be like a syncretism of Shinto and Buddhism (A kind).
I feel so too.

※Suddenly what does he say(lol).

Shinbutsu-shūgō




ETV特集 「戦後日本 人民の記憶」 鶴見俊輔さん。9月 01, 2018





言うまでもないことですが、"自らの責任として"重要です。

でですね、樺美智子さんが小林トミさん鶴見俊輔さんとご夫婦。
女性の相槌は鶴見和子さん。

で、アメリカは原爆なんか落としてない(フィルムの反転でしょうか?)。
日本だけでなく無辜の民衆への無差別爆撃などしたことがない。
なぜならそんなことしたくないからだ。

と、おもっています。

で、俺の立ち位置は、専守防衛、俺に逆らう奴は九族皆殺し、と、平和憲法九条の精神に乗っ取り、ではないだろ(笑)?
建前上、一応、相手に手を出させ。

鶴見さんのお話と何の矛盾もないとおもいます。

◆悼 〔心(・)部8画/11画/常用/3773・4569〕
〔音〕トウ〈タウ〉
〔訓〕いたむ
悲しんで心をいためる。人の死をいたむ。「悼辞・哀悼・追悼」

形声。「心」+音符「卓」(=抜け出る)。心がうつろになって悲しむ意。【広辞苑第六版より引用】

It has no direct relation to the content、but for the purpose of preventing the manufacture of false Christ (lol).


America never kills innocent people、but this is scheduled on a global scale as a fact in the near future. 11月 09, 2018

Thursday, 15 November 2012

urakami

The last provisions of the eight policy in the ship.
"Ⅷ.The value of gold and silver will be same value with the Western countries."
This issue was serious enough to be incorporated into the new administration's concept.

By the way、this policy was written in cooperation with Nagaoka Kenkichi.
He was a distant relative of Sakamoto.
He escaped during Tosa's great oppression、came to Nagasaki、and became Sakamoto's secretary (if I say).

Incidentally、I have never read its book、but there is a book on the theme of the issue of hidden Christians in his book.
(Perhaps it was written around this time.)

Long ago、he had came to Nagasaki once.
At that time Japan was still peace.
※I think that it is before Perry's visit to Japan.
At that time、Nagasaki was the best place to learn Western medicine.

However、he was summoned from Tosa regime.
His suspicion was "Christian faith.”.
 
・・・・・・・・・

A village headman who is on the Nagasaki was in trouble at that time.

"I'm not want hold family's funeral ceremony by Buddhism."
Because many such people appeared in Urakami.

"But this has been determined by law since long ago.
It's a violation of the law and is felony."
Village headman persuaded so.

"We are a Christian.
We can't ask Buddhist monk for our funeral."
They replied.
 
"If this is the case、I must submit a list of people that don't follow the laws of Tokugawa."
Village headman said finally.

The names of most of Urakami village were lined up there.

※My grandfather (mother's side) was a bishop of Tendai Buddhism.



Friday, 16 November 2012

where is Santa Maria?

There was a legend.
"After seven generations、Padre will coming again to this land.
And Christian faith will flourish again."
About 250 years had passed、since priest gone from Japan.

"Padre is now in Ōura with Santa Maria."
There was a rumor like that in Hidden Christians of Urakami area of Nagasaki.

"The legend might true. 
I want to make sure the truth."

"What if the rumor was not true?
If found to have been our Christian faith we will all be killed."

Variety of opinions came out.
It is natural、because it was directly connected to their death.

"Even if I'm killed I won't regret it."
After said so、some people went to Ōura.
 
・・・・・・・・・ 

"Where is Santa Maria?"

"A baby she hugged in her arm.
He is Jesus."
 
It was a confession of the Christian faith in Japan for the first time in 250 years.
At the same time、this was the beginning of the persecution of the last.

"pikadon"



アメリカがそうなら日本が世界がそうでないわけはない (個人的見解)。9月 01, 2018













万邦総意として、ルーズベルトさんにシンパシー。





zion 8月 31, 2018

Zionとは
主な意味:シオン山、ユダヤ民族の故国、イスラエルの地、エルサレムの住民たち、ユダヤ民族、キリスト教会、天国
音節 Zi・on 発音記号・読み方/zάɪən(米国英語)【Weblio辞書 英和辞典・和英辞典より】





"ジークジオン!"が、ドイツ風なのも、デギンさんはなんとなく肖像画の足利義満さんですが(記憶頼りのおれの印象で・笑)、ジオン軍のモビルスーツがナチスドイツ軍風なのも、意味があるのでしょう。



おれが聞いてる話とちがうので。8月 07, 2018

パトレイバーの映画の原作、監督はゆうきまさみさん。

名前はいいんですよ、ま、よくないんだろうけど、名義貸し、ペンネーム貸しとかあるわけで。

富野由悠季はまんまゴミ、ええ、まんまゴミ、あの連中はそりゃそうだ。ダパンプ、エグザイル、スピード、小沢健二、ブーム、山下達郎、竹内まりや、星野源、ミスチル、ラルク、松山千春、インチキ占い師みたいな名前の奴とか、など、見りゃ判るっちゅうの。

押井守含めゴミは当然処刑。

ガンダムは安彦良和さん監督。メカニックデザインは大河原邦男さん。

「こいつ動くぞ」つうことで。

永野護さんデザインのワンダースカッツ、「変形します」ということなので、このままのデザインではないだろうけど。エルガイムマークⅡ?今の、原爆ドームの地下42メートルに眠ってる。

バルキリー(可変形)はこないだ青森あたりを飛んでたみたいだけど。


機動警察パトレイバー THE MOVIE 1 20200729。





and

"01 夏の嘲笑"

"02 ヘヴィ・アーマー"

"03 暴走事件"

"04 トマト畑"

"05 迫る不安"

"06 HOS"

"07 虚影の街"

"08 政府公報"

"09 GEGE"

"10 共鳴"

"11 出撃命令"

"12 海へ"

"13 突入"

"14 ID:666"

"15 方舟"

"16 バベルの崩壊"

"17 朝陽の中へ"

and

"01 Asia"

"02 Indication (兆候)"

"03 Unnatural City"

"04 Riot"

"05 ...with Love"

"06 Theme of PATLABOR 2"

川井憲次ゴミ処刑名義の音楽はすべてglobeさん。



Asura 1月 15, 2019

Thursday, 14 February 2013

change

"After this Restoration、Imperial Court will have to hold national lords' meetings.
But powerful lords is still Tokugawa faction.
Tokugawa therefore will can seize the initiative at the meeting.
Maybe Yoshinobu thought so until this time. 

However Yoshinobu's prospectu has been shattered by defeat in this war.
The situation has all changed.
Imperial Court is a need to works urgently as japan government." 
Ernest insisted so.
 
・・・・・・・・・

There was Kobe about 20 km west of Osaka.
There was a trade center of Hyogo here.
(Also there was foreign settlement.) 

Imperial Court sent a delegation from Kyoto to there.
And they had a consultation with the diplomatic corps. 
 
"I want to return regime to the Emperor.
There was this proposal from Yoshinobu.
Imperial Court decided to allow this.
After this、Imperial Court will responsible for the regime of Japan.

The name of the supreme power person in Japan on diplomatic.
After this、it change from Tycoon (大君) to Tenno (天皇)."
There was this notice to the diplomatic corps.
 
Tycoon is Tokugawa king (shogun).
Tenno is the Emperor.



Friday, 15 February 2013

mistranslated

"Currently、can the Imperial Court control the whole of Japan?"
French ambassador asked its question.
 
"Unfortunately、we can't it now.
Because Tokugawa has revolted at east Japan.
However、we can improve it gradually.
In the near future、authority of the Imperial Court extends to all of Japan."
Representative of Imperial Court answered so.
 
・・・・・・・・・ 

"If all Japanese will comply the Imperial Court、the Imperial Court may be able to dominate all of Japan."

Interpreter of the French ambassador.
It was an officer of the Tokugawa.
He did mistranslated deliberately.
 
"This is somewhat strange."
Of course Ernest had participated in this conference.
He was able to understand Japanese.
 
He asked the same question. 
And modified the translation of the answer.

※According to the fact that transmitted、he seems to have been a genius of language. 
He may have asked in Japanese and translated the answer himself into French (While checking with an interpreter in Tokugawa).※

・・・・・・・・・  

In the first place、Ernest was involved in this response plan.
Maybe there was also this possibility.
(Substantially responsible persons of diplomacy of the new government
It was his friend.)



Saturday, 16 February 2013

beyond thought

"Tycoon may leader of other lords.
But he is not the head of Japan.
He is just a lord with the largest territory in Japan."
The person who first noticed this fact.
It was Ernest Satow.

"Diplomacy is a promise between countries.
The UK can not diplomacy with regional lord as the Japanese government."

"Mikado (the Emperor) exist on top of the tycoon.
Yes、Mikado is the truth head of Japan.
Those who think so has increased also in Japanese people.
(Thought of reverence for the emperor.) 

Mikado become the head of Japan formally.
Then lords gather under Mikado (include tycoon).
And establishment of Lord conference as Policy-making body.

When considering the modernization of Japan.
It is the most rational way."
Ernest thought that way.

・・・・・・・・・ 
Thought of expulsion of the foreigners.
Of course there was also this problem at that time.
It was dangerous in Japan simply because Western people.
They were attacked by the Japanese.
 
But Ernest went to Osaka before this war.

"Osaka is close to Kyoto."

Osaka was Japan's largest commercial zone.
But Osaka had not been opened so far to other countries for this reason.

"Osaka become opening soon.
Osaka's economy will rise by it."
Osaka merchant was speak joyfully to Ernest.
 
Era was trying to beyond thought.



































しつこく、松本清張はゴミ処刑済。
松本清張名義の著作をお書きになったのは半藤一利さん。
松本清張がサインをしなかったのは、松本清張直筆書画と"魂"が違いすぎるから。
で、おれは今携帯等持ってないので、パソコン無い場所で直筆となると下手な文字のひらがなまみれになります(笑)。



























"戦後50年特別企画 松本清張 事件にせまる 連合赤軍の崩壊"

※そういえば、こないだ佐世保税務署で、「"はんばいぎょう"の"はん"て…」と聞いてしまいましたが。20210805。

おれはこの映像(そりゃ脚本はありますね番組には)を観て、"単なる下品"、松本清張はゴミ(処刑)と確信しました、さつき山荘共々、地獄へどーぞ。

※で、放り出される(多分)男、何か"予定"がありましたか?この日のよど号には。20210805。
































"2016.01.26 市民連合シンポジウム 基調講演 柄谷行人さん 「憲法九条の今日的意味」"

















荒神というと、韓神スサノヲノミコトですが。

※20年ぶりぐらいだとおもいますが、つい最近、井上靖さんの孔子を読み、丁度おれの英文ブログを書くために論語(日本語訳解説付き)や陳舜臣さんの儒教に関する本を読んだりしていたので(5、6年前)、当時よりは理解できました。

最近、再構築の再構築もしましたし(笑)。

あのですね。

自由で平等な世界社会を創れる可能性があるお前に賭けてもいいぞ。
但し身勝手な独裁者にでもなろうとするもんなら命を懸けてお前と戦うぞ。

と、理解しました。

でですね、これは何度か話しましたが、「解放する奴は次に支配する奴」。
あのですね、世界を征服してしまうと、支配せにゃならん。地球グルッと。当然日の沈みようがなく、忙しくて寝る暇もなく、何故今更そこまでの働き者に(笑)。

それが嫌なら、結局その場その場の野心家の皆さんにその場その場の権力を委任。
何で他人の支配欲を満たす為に俺が世界を征服せにゃならんのだと(笑)。

というか、それなら「基本、人の世は変なことはない」。
基本、今のままでいいではないか、正しい人たちに権力を信託、な、考えです現在。

もちろん、そもそもこの世界はおれのもの、という認識があります。
20191206。※

で、以前、この中に唐の長安城や後漢(?)の洛陽城の映像が、とか、いいましたが。


"街道をゆく 第3回 奈良散歩"


8.3月10日まで 8月 30, 2018

でも匈奴兵の鎧とかはなんとなく皮製っぽいイメージが僕にはあります

突然ですが、前漢初代皇帝の劉邦さんが屈辱的内容の講和をして以来、長いこと北方の脅威だった匈奴のみなさん。←ま、さくっと、匈奴を兄、漢を弟とする、みたいな感じでしたか。

を、ついに撃退した、前漢第七代武帝、の衛青(えいせい)霍去病(かくきょへい)両将軍。

司馬さんは、あ、武帝時代を生きた司馬遷さんではなく、司馬遼太郎さんです。
司馬さんは、今まで戦争では劣勢一方だった漢が、とつぜん匈奴を圧倒しえたのは、衛青、霍去病、両将軍の能力の高さももちろんあったろうけど、当時漢で飛躍的に進歩した製鉄技術が一番の理由ではないだろうか、みたいなことをお書きになられていたと思います。

まあ例によって記憶たよりで書いとりますが、今までは青銅製だったか、互いに同じような武器を持った歩兵の集団() vs 騎兵の集団(匈奴)を、騎兵の運用に適した場所でやっていたから、漢としてはいかんともしがたいところがあった。でも製鉄技術の革新により、どうにも少量しか作れなかった鉄が大量生産可能になり、それにより漢兵の装備が青銅製から鉄製にかわり、戦闘の優劣が劇的に変化したと。

早い話が、匈奴兵の青銅製の矢が漢兵にとどく前に、漢兵の鉄製の矢は匈奴兵にとどき、匈奴兵の青銅製の矛は漢兵の鉄製の盾を貫けないけど、漢兵の鉄製の矛は匈奴兵の青銅製の盾をサクサク貫くと。
ある種、織田・徳川鉄砲三千挺な、イメージとしての長篠の戦いみたいに、一方的な戦況になったのではなかろうかと。←は、僕の想像です。

で、ですね、当時漢で飛躍的に進歩した製鉄技術。司馬さんが、あ、武帝時代を生きた司馬遷さんではなく、司馬遼太郎さんです。ま、司馬さんが本当にそうお書きになっていたのかあやふやですし、実際に当時漢で製鉄技術が飛躍的に進歩したのかも、僕にそれを調べる気がまったくないのでさだかでないですが、ここは飛躍的に進歩した!と言い切り話を進めます。

では、なぜ飛躍的に進歩しえたのか?

そう、匂ってきましたね。司馬さんが、あ、司馬遼太郎さんではなく、武帝時代を生きた司馬遷さんです。司馬さんが『高后は女主にして制(詔勅)を称し、政(まつりごと)は房戸(後宮の門)を出でずして、天下は晏然(あんぜん・やすらか)たり。刑罰、用いるは罕(まれ)に、罪人、是れ希(まれ)に、稼穡(産業)を務め、衣食は滋々殖(ますますふ)えたり』と高く評価した、どうも戦争もなく平和で、刑罰も厳しくなく、庶民には悪い時代ではなかった、悪い権力者ではなかった呂后さんの時代に、その鍵があるのではないか!?と話をもっていきたいわけですよ。



で、もしもこの匈奴の敗北が、玉突き民族大移動のきっかけならば、ローマ帝国を滅ぼしたのは呂后さんだったのだ!と話をもっていきたいわけですよ(六百年後くらいですかね)
したがって、プラトン的なものが○○麻呂な日本にやってくるきっかけをつくったのは呂后さんだったのだ!と話をもっていきたいわけですよ(七百年後くらい・笑)



そういえば、司馬さんの文章の中に霍去病さんの名前に言及したトコがあった気もします


病という文字から、彼はもともと少し病弱だったのだろうか、と。
当時としても、若くして亡くなられたと思いますが、武帝も自分の陵のすぐ近くに彼の墓をつくらせていませんでしたか。

で、それはさておき、しかしですよ、青銅製の矢と鉄製の矢、ま、矢じりですが、そこが違うだけでそんなに射程距離が、匈奴の騎兵のみなさんの突撃を無効にするほど射程距離が伸びるんかい、とも思います。
まあ、実際はそんなに伸びなくても、こちらの矢は相手を貫くけど、相手の矢はこちらを貫けない、つうならまあいいんだろうな、とも思います。


とか書いてたら、司馬遼太郎さんの「長安から北京へ」の中に、『古代の(中国の)鉄のことを考えたい』からはじまる文章がありました。以下は司馬さんが『考え』られたものを、例によって僕が"抜き出し""入れ替え"たものです。

えっとですね、古代の中国はもともと周辺地域より金属文化の先進地帯であったと。
鉄でいえば、春秋時代の中ごろにはわずかながらも鉄器農具があったらしいと。
で、くだって戦国時代、もともと出自がそちらの遊牧民族だったらしいですが、西域から流入したすぐれた製鉄法をとりいれた秦が『列国にぬきん出て鉄器を多く生産』、それにより農業生産高が飛躍的に上昇、したがって『他の青銅器諸国よりも人口が多くなり』『軍団を多く持つことができ』『鉄製兵器をつかうことによって、切れ味のわるい列国の青銅器兵器を圧倒』『中国最初の統一帝国をつくった』と。

『金属を鋳るには、信じがたいほどにぼう大な樹木が要る』『一山の樹を伐りたおしてそれを木炭にし、それをもって砂鉄もしくは鉄鉱石を溶かしたところで、得られる鉄の量はわずかなものである』

で、『(秦の)あとを継いだ漢帝国はさかんに製鉄をおこした』、そのため『山野の樹木は大いに伐られたであろう』『伐られると土地は急速に乾き、復元することが困難になる』が、短期的視野では、そうしてつくられた『鉄器の爆発的な普及によって山野がよく開拓され新興地主が続出』、結果『漢帝国を富ませ』『軍事においても鉄器で鎧や刀槍が作られ』ついに『武帝の時代』『漢の富強期』をむかえたと。



で、矢。

『鉄のヤジリと青銅のヤジリとは、殺傷力はくらべものにならない』『鉄のそれはノミを矢柄のさきにつけたように重くするどく固く、これを飛ばせば青銅のそれより遠く飛び、相手の堅甲を破って骨を断つ効果をもっている』と。

で、『もしかしたら漢民族よりもあるいは早くに青銅冶金を知ったかもしれない』遊牧民族の匈奴の人たちが、何故に鉄製ではなく青銅の兵器を使用していたかというと、『鉄冶金が食ってしまうばく大な樹木の量が』匈奴のみなさんの地には乏しかったからではないかと。

もっとも『かれらもまた』『こんにちのバイカル湖付近において森林を持って』はいた。しかし『これが冶金とどう結びついたかについては、私の知識は欠けている』ともお書きになられています。

さて、そういうわけで、司馬さんは"当時漢で飛躍的に進歩した製鉄技術"なんて一切書かれてません。

『有史以来』『圧迫され続けた』『騎馬民族』をついに撃退した『武帝の功業』のタネ、『鉄器の爆発的な普及』は『新興地主階級の大形成と表裏をなす』と書かれています。


おや?

が、ですよ、では、なぜ『鉄器の爆発的な普及』を呼ぶ『新興地主階級』が『大形成』できたのか?
そう、匂ってきましたね。司馬さんが、あ、司馬遼太郎さんではなく、武帝時代を生きた司馬遷さんです。司馬さんが『高后は女主にして制(詔勅)を称し、政(まつりごと)は房戸(後宮の門)を出でずして、天下は晏然(あんぜん・やすらか)たり。刑罰、用いるは罕(まれ)に、罪人、是れ希(まれ)に、稼穡(産業)を務め、衣食は滋々殖(ますますふ)えたり』と高く評価した、どうも戦争もなく平和で、刑罰も厳しくなく、庶民には悪い時代ではなかった、悪い権力者ではなかった呂后さんの時代に、その鍵があるのではないか!?

『稼穡(産業)を務め』ここ重要!と話をもっていきたいわけですよ。

んで、ここで、ユーラシア大陸の反対側に飛びまして、以前も書きましたが、昔、僕が「こんなん今読んでるんですよ」と、イタリアの方に塩野七生さんの「ローマ人の物語」をみせたら、「ローマ(帝国)が何で滅んだか知ってるかい?ローマの皇帝がキリスト教徒を迫害し、その行為に怒った神に滅ぼされたのさ」と(たぶん)言われてました。ええ、英語だからようわからんかったんです。


つまりローマ帝国を滅ぼした怒れる神とはr(略)



なかなか「ゴジラ対ヘドラ」にたどりつきませんな


え~しれっと書いておりますが、呂后さんについての司馬遷さんの記述は、読み方も含め、陳舜臣さんの「中国の歴史(二)」から引用させていただいております。

んでもってですね、そのまま武帝さんのあたりを拾い読みしていたら、どうして『ほかの歴戦の将軍が、あまり戦果をあげずに』、衛青・霍去病、『衛皇后の縁者の二人の将軍だけが、はなばなしい軍功を立てたの』か?

それは『武帝はこの二人に、選り抜きの精兵を与えたの』だ、と。

そう衛青さんと霍去病さんは、後宮ン千人(かどうかは知りませんが)の美女の中で、武帝が最も愛した衛皇后の弟と甥なんです。


『高祖(漢初代皇帝劉邦さん)の遺訓として、原則的には、戦功の無い者は列侯になれない』だから『愛する皇后の弟や甥を列侯にとり立てるには、戦争に勝つ機会を与えなければな』らない。

で、『二人の将軍はそれを生かし』たので『凡庸の才能ではなかった』だろうけど、『最高の装備(鉄器兵器でしょうね)と最強の精兵を与えられていたの』だから、『軍事的天才という評価は、いくらか割引かねばな』らないと。

あと高祖時代の漢を圧倒し、屈辱的講和を結ばせた英雄冒頓単于(ぼくとつぜんう)さんのころとは違い、当時の匈奴は、単于の座をめぐって(?)内紛がおこり、『活力は、すでに下り坂になっていた』と。


さて、ここで、またユーラシアの端から端にとびまして、昨日登場のイタリアの方。

一度「あなた、話す、何ヶ国語?」と聞いたことがあるんです。
すると伊、仏、英、と確かスペインが少々と。
で、僕が「ドイツ語は?」と聞くと、「わけわからん」と。←たぶん。

一人の人に聞いただけで話を進めますが、これってあれですかね、ローマ帝国内外ですかね。

で、ドイツ語は日本人には結構発音しやすいって話があった気がしますが、なにげにちょいと地面掘ったあたりで、匈奴の人たちがいたモンゴルあたりがぼんやりと浮かんじゃったりはしませんかね。
もちろん民族の話ではなくて。



:廖承志さん


ところで、話はまたかわりまして、司馬さんの「長安から北京へ」は、ざっくり、1975年に司馬さんが"日本作家代表団"の一員として中国に行かれたときの旅行記です。ちなみに当時の中国は、その末期ではありますが、文化大革命、まだまだ四人組のみなさんがブイブイいわしていたコロかと思われます。

廖承志さん。

『はるかに優勢な国民党軍と戦闘しながらの』1万2500キロの『陣地転換』、とはいえ『敗走にはまちがいなく』、『終了したときは、十人のうち一人しか生き残っていなかった』、"長征"に参加。中国革命を『日本の明治維新にことさら翻訳(直訳はむろんできないが・ママ)すれば、元勲でないにしても、幕末以来の生き残りの元老の一人といえる』。

父親は孫文さんの同志で、孫文さんを通じて、宮崎滔天さんとも縁が深かった。
後年、文化大革命発生時の「大変だ!皇帝(毛沢東さん)が宮殿に宦官(四人組さん)を引き込んだ」な思い出話を、僕が読んだ気がする方です。

で、北京滞在時のホテルの夜。

みんなが集まっていた団長である井上靖さんの部屋を、まだ三十代の唐家璇さん一人を連れ、廖さんが訪ねて来られたそうです。しばらく雑談して『辞すべくドアのそばまで行ってから、廖氏は重大なことを思い出したように、立ちどまり、井上靖氏のほうへむきなおった』

『井上氏の母堂は長命され、数年前に亡くなられた。重大なことというのは、そのことについての弔慰であった。』

『私も、母を亡くしました。
母親というものは、子供がいい年になっても、ずっと居てほしいものです。』



:蠡


司馬さんが中国にいかれたのは1975年の5月ですか。
で、司馬さんも音楽学院の見学時に、説明者の方から『江青(ジャンチン)同志にみちびかれて』という『おべっかというにおいの中に入る』言葉を聞いた、千万単位の人が犠牲になったといわれる文化大革命を推し進めた「四人組」の事実上のトップ、毛沢東夫人江青さん。


いまちょこっと調べたら、翌1976年10月逮捕、1981年に死刑判決。
後に無期に減刑されるも自殺されたと。

が、「来年のことをいうと~」もありますし、ここは司馬さんの旅にもどります。

え~と、これは解放以来、今に至る共産中国の一貫した史観なのか、この文化大革命時にとりわけ強調された史観なのか、よくわかりませんが、「匈奴について」。

『匈奴とは、数十万の騎兵をもつ奴隷制』であると、司馬さんは霍去病さんの墳墓の責任者の方に説明を受けたそうです

ここで司馬さんは、匈奴について『漢民族の農業社会に対し、単に商売ちがいの社会だと私は思ってきた』とお書きになられています。

『が、奴隷制社会であるとすれば』『漢帝国という新興地主勢力による「封建制社会」よりも前段階の社会』で、『あたらしい史観では』『克服されてゆくべき旧体制である』と。

そして『これによって、武帝の戦争の性格』は『奴隷制と封建制の制度の矛盾であり』『当時の段階では』『あたらしい封建制にとっては、正義の戦い』であったと。


さて、話は変わり、司馬さんが旅行中、太湖の湖畔の無錫市を訪れたときのこと。
司馬さんは蠡園(れいえん)という庭園のなかの宿館に泊まったそうです。
この蠡園は、春秋時代の名臣と名高い越国の范蠡(はんれい)さんが、主君を助け、仇の呉国を滅ぼし復讐を遂げた後、隠棲した館跡と言われているそうです。

この范蠡さん、日本人好みの悲劇の復讐者ではなく、伝説ですが、復讐後、主君の狭量さを恐れとっとと引退、他国で商人になり、巨万の富をきずいたそうです。
で、伝説はそこで終わらず、春秋一の美女といわれる西施さんと結ばれ、この太湖の湖畔で二人悠々自適な生涯をおくられたそうです。

『播州赤穂の浪士が復讐のあと四十七人がぜんぶ切腹してしまうという不条理な美学を二百年以上芝居として見つづけてきた社会に属している』司馬さん。

そんなん『大石内蔵助を商人にさせて巨富を得させ、野尻湖畔にでも別荘をつくらせて横にお軽でも侍らせた』ようなものではないかと『范蠡は復讐のあと、そういうことをしておったのですか』と、『けしからんといったような顔で(もちろん冗談でしょうが)』中国人の同行者の方に話されたそうです。


で、春秋時代というのは、司馬さんが「長安から北京へ」をお書きになった""の中国の史観では「奴隷制社会」になり、范蠡(はんれい)さんは非難されるべき奴隷主の代表であるだろうと。

しかしこの同行者の方は、『いかにもこの伝説が可笑しくて仕様がないといった表情で』


『まあ、伝説ですけれども』



風神の門


いえね、昨日范蠡さんの伝説書いてて思い出したんですけどね。
ただこれは司馬さんの小説「風神の門」のラストシーンだったとおもうんですが、これまたン十年前に読んだ記憶のみで書きますので、まあフワフワしとります。

えっとですね、主人公の伊賀忍者霧隠才蔵さん、真田十勇士の一人として、打倒徳川に活躍します。

が、才蔵さんがどれだけ忍術を駆使して獅子奮迅の活躍をしようが、現実に過ぎ去った歴史が転覆するわけもなく、物語のクライマックス大阪夏の陣で豊臣家は滅亡。
才蔵さんの主君真田幸村さんや仲間の猿飛佐助さんたちはみな死んでしまいます。

己や仲間が命をかけた夢や野望はすべて潰え、仇敵である徳川が絶対的に確立した太平の世を生きることになった伊賀忍者霧隠才蔵さん。

さぞや無念だったことでしょう。


と、おもいきや、「風神の門」のラストシーン。
この方ももとはくノ一でしたか、ともに暮らしはじめた恋人に焚いてもらった風呂にゆっくりつかりながら、もう忍者はやめだ、そんな時代じゃねえ、というわけで。

「商人にでもなるか~」

な、感じだったと思うんです。


もちろん、あ、この「風神の門」は司馬さんの中国旅行より前に書かれております、で、もちろん、これは太平洋戦争に敗北した日本、んで、もう軍人はやめだ、そんな時代じゃねえ、「商人にでもなるか~」な見方もできるとは思います。司馬さんがこの小説を書かれた時代のぼんやりとした気分として。

でも、僕は、そういうことはすべておいといて、ホ~ホケキョとウグイスがまぬけに鳴いてるような、今後の人生への妙なウキウキ感があるラストが好きでした、ような気がします。

ええ""です(忍豪作家はもうやめだ、そんな時代じゃねえ、も、ありますね・笑)。


さて、話がかわります

安田喜憲さんの「地中の花粉」によるとですね、『昔の花粉の化石』を地中から取り出して調べると、モアイ像でおなじみ『イースター島には昔、ヤシの森があった』『この島は、深い森の島だった』そうなんです。

で、イースター島は溶岩でできている絶海の孤島ですが、島に一か所だけやわらかい『凝灰岩が噴出しているところがあ』るそうなんです。

で、そこで各村々のリーダに似せてモアイ像がつくられていた。

で、その『モアイ像を運ぶため』『コロを使』う。
そのため『たくさんの木が要』る。
同時に、最大で二万人ですか、増えた人口を養うため『タロイモやバナナを作る畑を耕作して森を破壊し』『どんどん木を切った』。

結果、全島を覆っていた(僕の想像)森は消滅。

『雨が降ると』、水を吸収する木々がないために(という言い方でいいのでしょうか)『表土が全部流され』『土地はやせ』『主食のバナナやタロイモが獲れなくな』った。

また、木がないために海にでて魚を獲るための船も作れず、『結果、十六世紀から十七世紀のこのイースター島は、大飢饉に直面した』と。

そう、人びとは『島の森を食べつくしてしまった』。

しかし絶海の孤島であるためにどこにもいけず、最後は『人間が人間を食う事態が引き起こされ』、イースター島の文明は滅んだ。


安田さんは『地球というのは、宇宙という広大な海の中にぽっかり浮かぶ島です』『地球の森を食べつくしてしまったら、どういうことが起こるか』『イースター島ときっと同じことが起こる』だからこそ『宇宙という海の中の小さな島、命の森の島である地球を守っていかなければならない』と話をしめられています。

おや?そういえばここにあるのは東宝特撮映画DVDコレクション第38号「ゴジラ対へドラ」ではないですか!



でも「風神の門」での霧隠才蔵さん。真田幸村さんの部下ではなく、ちょっと一匹狼みたいな感じだったかも


さて、東宝特撮映画DVDコレクション第38号「ゴジラ対へドラ」(昭和46年7月公開)ですよ。

円谷英二さんがお亡くなりになり、なおかつ『邦画の衰退が強くささやかれ』て『潤沢な予算は望』むべくもない状況での『新しいゴジラ』の船出ですよ。

「公害」という重いテーマを作品の軸としたため、『その内容は暗いトーンで統一され』『一種のドキュメンタリー映画の観をも呈し』『シリーズの中でも最も異色な趣が強い作品のため』『熱狂的なファンも多く』『後年の作品への影響も非常に大きなものとなって』いるそうですよ。

で、僕も観て、なるほどそうだろうな、と思いましたよ。

もちろん詳しい人が観たら他にもたくさんあるのでしょうが、ゴジラさんが宇宙生物&ヘドロから生まれたへドラさんの体に手を突っ込み、中からへドラさんの存在の核でもある球体をとりだしたり、自衛隊の人たちが中部地区の電力をすべてとめ、対へドラさんな兵器にそれをまわしたりしたとこは、「おお、エヴァンゲリオン」と思いましたよ。

で、ここからぽんぽんぽんと。

やっぱり当時の学生運動には、こういった「公害」ってのも関係していたんですかね。
でも柴本俊夫(現・柴俊夫)さんが演じた若者、毛内行夫さんは、そういった運動とは無関係のノンポリということでしょうかね。

が、毛内さんが仲間と共に富士山麓で開いた野外フェスティバルの会場?に突如あらわれたヘドラさん。
「奴の体はヘドロだ。乾燥に弱い。火だ!火が奴の弱点だ!!」と毛内さんは仲間と、このあまりに巨大な敵めがけて、まるで石か火炎瓶でも投げつけるように火のついた木切れを次々と投げつけます。

が、まったく効果はなく、逆にヘドラさんに毒性をもったヘドロを吹き付けられあっさり一掃されます。

え~これはへドラさんが登場する前、都市から来た毛内さんたち若者が、火を焚き、「えじゃないか、えじゃないか、えぇじゃないか」とばかりに、バンドの演奏に合わせて踊っているのを、草むらの中から醒めた目でみつめる地元の老人たち、というシーンもふくめ、そういうことですかね。

で、この「ゴジラ対へドラ」は数字がかなり細かく出てくる気がします。
○○地区、死者何人、行方不明者何人、みたいな、怪獣による被害状況であったり、いろいろ。

他の作品もそんな感じでしたっけ?

そういえば僕が子供のころ、排気ガスとかの現在の数値が細かく出る電光掲示板があった気がします(今もあるかもしれないし、昔もなかったかも。ええ、あやふやです)。

んでそんな""で話を進めますが、そういうことですかね。


で、ゆっくりと向こうからやってくるヘドラさんをみてて、何かににてるな~と思ったら、あれでした、水木しげるさんが描く妖怪に(僕的には)にてました。

んでゴジラさん、ヘドラさんの攻撃にやられて片目が開かなくなっているじゃないですか。
おもわず「おい!鬼太郎!」と思いましたよ。

というわけで、今ちょいと調べたら、漫画連載もアニメも二年くらい前に終わっているけれど「ゲゲゲの鬼太郎」ちょうど大人気じゃないですか。

だってこの「ゴジラ対へドラ」公開年にアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」の第二シリーズが始まり、それにあわせ漫画連載も(掲載誌をかえて)再開してるし。

で、あの、そういうことですかね(笑)。


で、ほら、今って、やっぱり空気とか川や海の水とか、当時と比べたら絶対によくなっていると思うんですよ。
全体にならして考えれば。

だから僕は人間そんなにすてたもんじゃないって思っちゃうんです。



自衛隊の人たちが中部地区の電力をすべてとめて、これ自衛隊の人たちが関東、中部地区の電力をすべてとめて、でした


でもですよ、たとえ『江青(ジャンチン)同志にみちびかれて』という発言に『おべっかというにおい』があったとしてもですよ、これしょうがないでしょ。だって誰が何を聞いているかわからないんだもん。実際によその国のお人とはいえ、司馬さんも、中国で見聞したものをこうして詳細に文章にされているわけですし。

反革命。
ある日、ある時、今まで存在していた人がいきなりいなくなる。
の、いなくなる人には誰だってなりたくないと思います。

といいますかね、これまったく確かめず、雰囲気で書きますけどね、司馬さんが最初に「長安から北京へ」としてまとめられる旅行記を中央公論に発表したのは、1975年11月から翌76年7月までなんですね。四人組のみなさんが失脚する前なんですね。で、ほんとうに雰囲気で書きますけどね、司馬さんが中国滞在中に接した中国のみなさん。

あ、ちょっと話かわりますが、これも記憶たよりですが、「街道をゆく」で最初に司馬さんが韓国に行ったのは朴政権下。んで、とある人に「韓国に行ったら旅行中ずっとKCIAにマークされるらしいよ」と忠告を受けたそうです。

KCIA。映画「KT」のイメージ"のみ"で書きますが、KT・金大中さんを東京のホテルで拉致し、暗殺しようとした、拷問、謀殺、なんでもござれのKCIAさんですね。ま、KCIAという固有名詞ではなく、諜報機関みたいな言い方だったかもしれませんけどね。んで、それを聞いて司馬さんは「へ~ずっと隠れてついてくるんだ。俺についてきても何もないのに。暇なんだな?」と思われたそうなんですね。これはポーズではなく、本当にあまり気にしない人だったと僕は思うんですね。

佐藤浩市香川照之ゴミ処刑。20180830。

が、これはあくまで司馬さん当人の問題。つうわけで、ほんとうに雰囲気"のみ"で書きますが、司馬さんが中国滞在中に接した中国のみなさん。名前が出てくる人と、出てこない人(同行者みたいな言い方)がいらっしゃるんですね。たぶん名前が出てくる人の名前が出てこない場合もあると思うんですね。

で、これはあくまで僕の思いつきです。

司馬さん、もしかしたらむちゃくちゃ相手の立場に配慮して文章書かれていませんかね。もちろん権力持っている人が本気で調べりゃすぐわかることなんでしょうが、文化大革命時の体制の"公式見解"に則っている、抵触しない、てのは相手の名前を書き、則っていない、抵触している、とまではまったく言えなくても、抵触していると揚げ足をとられる可能性が少しでもある、てのは同行者みたいな言い方で名前を出さない。という使い分けを意図的にされていませんかね。

だって誰が何を読んでいるかわからないんだもん。
つうか読むに決まっている。

司馬さんも旅の終わりに、江青さんとともに逮捕、失脚した『中国における要人を六、七人あげれば十分その中に入る』姚文元さんの『礼見』を受けている。かといって日本人の司馬さんに文化大革命時の中国の体制の"公式見解"に則った文章を書かねばならん義務はまったくない、書く気もない。

でも反革命。
ある日、ある時、今まで存在していた人がいきなりいなくなる。
は、避けたいでしょ。

いえ、全く。個人的見解です。20180830。



さて『文革で中央に出てきた。というよりも、文革ののろしをあげた闘将』。『一九六五年、「"海瑞罷官"を評す」によって北京市副市長 呉晗氏を攻撃し、文革の口火をき』り、『「三家村を評す」によって彭真氏らの北京派が崩壊するきっかけをつくり』『「労働者階級は必ずすべてを指導せよ」でもって文革派の政治的方向を明示した、といわれる』姚文元さん。

この姚さんの『接見』を、その逮捕失脚の一年半くらい前ですかね、司馬さんたち"日本作家代表団"のみなさんが受けられた顛末ですが・・・

えっとですね、旅ももうあとわずか、今いる上海近辺を見学してあとは帰国を待つばかり、のはずが、庭園を参観中に「偉い政治家があなた達と会うから急いで北京にもどってくれ」という伝言が来たそうです。で、「その政治家は誰ですか」と聞いても、「まだ名前はわからない、しかし急いで北京にもどっていなければ、先方が(不意に)指定してくる日時に間に合わない」、と言われます。

司馬さんは、そんな接見など『どうでもいいではないか』『客に対して、失礼ではないか』と思うも、『公式の招待旅行である以上』『勝手なことはいえず』、それに『個々の意思を停止させ、思いもよらぬ所へひっぱられてゆく』"命令"というふしぎなものの感覚を、軍隊以来ひさしぶりに『体験するのも、旅の楽しみに繰り入れてもいい』と、たぶん無理やり思うことにされたみたいです。


で、まだ日が高いうちに北京にもどり、午後八時をすぎたころ、『会見は、中国共産党中央委員の姚文元氏です』との伝達がきて、『「むずかしい話題を持ち出されないよう、お願いします」と、くりかえし、注意』されつつ人民大会堂に向かいます。

司馬さんは『むずかしい話題とは政治むきのことらしく』『このことは、よく理解できた』『姚氏ひとりが独自の判断で答えるというわけにはいかないからであろう』、つまり『会見はあくまで儀礼』なのである。『礼とは、本来、内容のないもので、内容があれば礼にはならない』。

しかし『姚文元氏と私は、近代精神からいえば、個と個にすぎず、相手に失礼にならないかぎり、あらかじめ話題の制約をうけることはあるまいとも思い』、文革でさかんに礼教を排撃しているのに、姚文元さんはその尖兵であるはずなのに、『やはり、中国は礼教の国であるのか』『と、不思議な思いを持』たれたそうです。

で、その会見自体は""つまり""なのでおいといて、事前の説明は『文芸評論家の出身です』のみだったらしい姚文元さんを司馬さんが間近でみた印象は、『かれは粗末な綿服を着、実用的な靴をはき、紺のクツシタがひどく短く』『クツシタにいたるまで、街や野で働いている人達のそれと同じものをはいていた』。
その表情は『まことに温雅で』はあるものの、『私の常識の中にある政治家(諸価値の調整者という意味での)の顔ではなかった』。

『やはり多分に思想家の顔で』『諸価値を調整するよりも一価値を思索し』『発展させ』『あるいは他の敵対的な価値と戦うといったような感じであった』。


あ、文芸評論家の文字でおもいだしました。
以前僕が引用させてもらった柄谷行人さんのご発言。

『批評家っていうのはやっぱりほうっておくとすごい権力意識があるんですよ』
『小説家を支配しようっていうね。文学運動なんかをやる人はそうよね』
『テクストを解放するなどといっても同じだね。解放する人は支配するのだから』
『文芸批評家の権力意識っていうのはものすごいわけ。普通の政治家よりも格段に強いです』
『中国における文革は何をめぐって発生したと思いますか。文芸評論をめぐってだ』


さて、この会見から約一年半後ですか、1976年10月姚文元さんは逮捕されます。

これはやっぱり彼らの権力の源泉である皇帝、その死。
つまり毛沢東さんが9月に亡くなった影響が大きいんでしょうか。
呂后さんのときもちょっとおもいましたが、僕は生まれてこの方一切無縁なので、実際のトコはわかりませんが、権力って不思議ですね。

民衆には悪い権力者ではなかったかもな呂后さんですが、宮廷では一族あげてかなりエグイことやりたおしてます。だから呂后さんが亡くなると、そっこう呂一族の大部分が粛清されています。

でもこの老婦人が生きている間は表面上は何事もおこりませんでした。
つまりある人物が生物として生命を保っていること、それ自体が権力のオオモトであると。


そういえば、フルシチョフさんでしたか。

ソ連共産党の大幹部が集まって会議をしているところに「スターリンが死んだ」という連絡があった。
その瞬間、みんないきなり明るくなった、みたいな話をされたのは。

road gang,gang up on{against}20180830


・・・・・・・・・・・・・・・・・・



文章はここまでです。
次の日、東北大震災発生。



Holy virtue 11月 03, 2018


Saturday, 3 November 2012

his majesty

”King of Tokugawa (Shogun 将軍) isn't rulers of Japan.”
Ernest Satow of diplomatic staff of the UK said so in the first.

His name maybe not known in the UK.
Also not well known in Japan too.
However、his existence is very important for the history of Japan.
 
At first the UK translated "the King of Tokugawa (Tai-Kun 大君)" as His Majesty.
But there was ”Mikado 帝・御門・神門” on top of king in Japan.
 
”In this case、our Queen (Her Majesty) becomes under Mikado.
This is strange as a relationship of equal nation.”


He noticed that on first.

※"Tai-Kun" is how to read by the Chinese characters of Chinese style in Japan、when read in Japanese style、it becomes O(o)kimi.
"Okimi・O(h)okimi 大君・大王" is also a word that represents the Emperor of Japan by ancient style.
If you are interested、please check it yoursel(lol).

I think that there are many excellent Japanese culture studies written in English and others.
Currently I can only think of Donald Keene・キーン ドナルド・鬼怒鳴門 san (After the Tohoku earthquake、he acquired Japanese nationality.)、Edward George Seidensticker san and Edwin Oldfather Reischauer san.
However I read only sentences written Japanese of them until now.
I can't read English now(lol).※

"Tokugawa is just one lord of Japan.
Therefore treaty with king of Tokugawa has no effect on the other lords. 
※Naturally、while Tokugawa's power was strong、he had a certain degree of binding power against each lord.

The UK's treaty is only treaty of between the UK and Japan.
The UK cannot conclude an inter-state treaty with one lord.
The treaty shall be concluded between nation.  

Tokugawa should clearly return to the position of one lord and Mikado should clearly become Japan's ruler.

And council of the lords do the political of Japan."


He wrote an article like that to the Japan Times anonymously.
In no time、this article had been translated into Japanese.

After that this became one of the guiding principle in Japanese reformers.
By the way、Japanese knew that he wrote.
So everyone wanted to meet him.
From then on、he got to know many important Japanese people.
That remains as important testimony.

For example.
"Katsura had the courage and determination of the maximum for Military and Political.
However his demeanor was only gentle."





Sunday, 4 November 2012

will

During the war of Tokugawa and Choshu、serious situation had occurred at Osaka.
The King of Tokugawa died of illness.
He was 21 years old.

He had an assistant from the Tokugawa clan because he was originally sickly.
The name of this assistant was "Hitotsubashi Yoshinobu".
He was became next king ”Tokugawa Yoshinobu”.
And this Yoshinobu became the last king of Tokugawa.
Of course、he had no way of knowing it at that point.

Incidentally、he was not in the position to become king originally.
He became king at an unusual career.
※If you are interested.


"If person that don't have that ability become king、the survival of the Tokugawa administration is difficult.”
Inside the Tokugawa administration、there was recognition like that already.

※The name of the Tokugawa king who died at a young age was "Tokugawa Iemochi".
Katsu gave him the greatest tribute.※

"I go to the forefront.
And thenI shall go to Hagi (the home ground of Choshu)."
After inauguration、Yoshinobu declared so and decided the day of departure to the forefront.

※At that time、the political center of Choshu had already moved to Yamaguchi.
Hagi is the Sea of ​​Japan side and Yamaguchi is inland、but on the Seto Inland Sea side.※

However、unexpected news arrived to him.
The day before the departure date、he received the news of Kokura Castle fall.
Furthermore、Tokugawa area commander escaped by ship alone.
As a result、Tokugawa army in the direction of Kokura、which is a coalition of lords、had scattered.
In effect、it became impossible to continue the war.
Yoshinobu had stumbled at his starting point.

・・・・・・・・・

After this battle、also serious situation had occurred at Shimonoseki.
Takasugi was fainted from illness.
His medical condition had deteriorate rapidly.
 
"We have brought reality to this situation.
I ask you guys for the future."

He said so to the visitors.
After all、that became his will. 


"There is no fun things in this world.
That's why I want to spend fun in this world."

Takasugi dead.
He was 29 years old.

I think I mentioned it somewhere、but in the first place、I think that it was the perception that Tairō (大老) and Rōjū (老中) are prime ministers (and minister).

Of course Tokugawa Shogun is the head of state.

I think France was in the political position of "the Emperor is like a Pope for the Japanese." 20200804。





Monday, 11 February 2013 (1月 09, 2019)

fell

"White flag has been raised in castle."
Choshu troop had confirmed it then they entered into Osaka castle.

"Tokugawa has passed control of this castle to Owari.
Please therefore you talk with Owari."
The responsible person of Tokugawa told so to commander of Choshu troop.

Osaka Castle fell.
 
・・・・・・・・・ 

A few days after from Yoshinobu's Edo return、Shinsengumi was aboard the ship heading for Edo.
Their comrades when they were first departure from Edo to Kyoto、many of them were dead already.
 
”Kanto samurai is the best of samurai.”
This was a favorite phrase of Kondo.
 
Kanto is Tokyo (Edo) area.
I think that I have mentioned it several times、but first samurai government of Japan was made by Kanto samurai.
 
"I will die as a Kanto Samurai (Bushi 武士)." 
During this voyage、Kondo told to Hijikata.





Tuesday, 12 February 2013

notification

Diplomatic corps in each country had to stay in Osaka at that time.
Because Osaka was the center of politics.
※Foreigners may have been banned from entering Kyoto without a special permission at that time. 

"This time Japanese government will punish the Satsuma.
Therefore may become skirmish.
At that time、please give me a calm response."
Before war、Tokugawa had notified like that to them.

But Tokugawa was succession of defeats.
As a natural consequence、war was coming to Osaka gradually.

"Shouldn't we evacuate from Osaka?"
Diplomatic corps of each country had started this consultation.
 
”Yoshinobu fled to Edo.”
This surprising information also came there.
Then Tokugawa soldiers also retreated from Osaka.

Thing that was bothering Osaka from before.
The common people's riot.
Not surprisingly、it happened during this  blank period of security.
(It seems that commodity price at that time were certainly too expensive).
Legations in each country also received their assault.
 
・・・・・・・・・ 

”We will maintained Osaka's security certainly.
Please remain in Osaka.”
There was its notification in a hurry from the Imperial Court of Kyoto.

"Tokugawa was gone from Osaka.
Osaka today is virtually anarchy.
But we had negotiated with Tokugawa until now. 
Because they were Japanese government substantially.
If this situation continues it would be so in the future.
The Imperial Court should issue a resolute statement to foreign countries as Japanese government as soon as possible.”
Ernest Satow in the United Kingdom.
He said so to a friend of the new government. 





Wednesday, 13 February 2013

plan

"The Government of Japan has diplomatic rights with other countries of course.
In other words、regime that owns the diplomacy rights.
It is government of Japan.

And now、it is Imperial Court of Kyoto.
But can not declaration it from us.
So should be declared it as soon as possible from Japanese to other countries."
Ernest Satow said to Mutsu.

Mutsu was a member of Sakamoto's organization.
(This man later to became Minister of Foreign Affairs.)
However、after the death of Sakamoto、he had been struggling.

※He became a lordless samurai with his intention and acted with Sakamoto and his comrades、but he himself comes from Kishu Samurai.

"Imperial court does dispatch responsible person of diplomacy to Osaka.
And Imperial court also does summons Yoshinobu to Osaka.
Then Imperial court will conducted consultation with the diplomatic corps.

Abandonment of right to diplomatic of Tokugawa.
Yoshinobu declare it at that place.
Imperial Court owns the rights of diplomacy as the Government of Japan.
Then Imperial Court declares it."
Mutsu asked Ernest for his opinion on this plan、and Ernest agreed it.

Mutsu was the person close to Tosa.
 
After this、Ernest went to Satsuma clan residence at Osaka.
He also received a question at there about the diplomatic rights.

The possibility of Tokugawa returning to power has disappeared rapidly.





Incidentally 10月 17, 2018

Tuesday, 9 October 2012

antipathy

Although this may have been an inevitable distortion due to sudden opening of Japan.
Value of silver was higher in Japan at the time compared to the West.
In other words、value of gold was low.

When western people was replacing silver to gold simply in Japan、they got a huge profit.
As a matter of course、speculative peoples did appeared one after another.
So Tokugawa lowered the quality of gold coin in a hurry.
※Naturally the speculators are Westerners、but Japanese should have intervened as intermediaries.

Of course there was no reason which that gold coin was circulated in the same value as before.
All prices went up rapidly.
Naturally - I don't know now if I can say so - but the common people in Japan didn't know the situation well.

"Our life had become painful from when western people came to Japan.
Main cause is stop of closed-door policy by Tokugawa."
They thought so simply and they began to have an antipathy against Tokugawa.
 
(Tokugawa was clearly insufficient recognition against this issue in the first stage.
But of course when noticed to this issue、they were tried to rectify it.)

Inflation of prices and the people’s sympathy to Choshu were proportional.

※I wonder if that's true(lol)?

・・・・・・・・・

”Build a collaborative relationship with Western countries.”

However、Choshu had already changed his policy in the opposite direction.
This change was possible because they had win the battle against conservative people. (In this case、it means feudal) .

※There is also the implication here of ignoring the domestic laws of the Tokugawa shogunate.
Japan had already opened、but the lords' negotiations with foreign countries would have been quite limited.
In simple terms、Tokugawa may have intended an enlarged version of Dejima in Nagasaki.

More than that、change of main characters of their group would had large affected to this policy change.
Maybe their had thought like that originally.
Above all、they had seen the failure of their fellow and themselves.

※A few years ago、Takasugi and Ito should had tried to arson (attempted) the British Embassy in Shinagawa with their comrades.
Maybe Takasugi was in the early twenties、Ito was around late teens.※

"They have no principle."
They may seem like that.
More than anything、they were seen like that by (part of) their comrades.

"Traitor”

After this、they were very criticized and in danger of ongoing assassination.
In fact、some people were killed or seriously injured.
They nevertheless did not abandon this policy.


※Choshu、including all of them、did not abandon this policy.

By the way、this is different from what I wrote yesterday、but after the success of the coup、Takasugi and his lover fled from Choshu for a while.※





It's a book written in Japanese、I think Sato(u) Masayoshi san's book is easy to understand about the economy at the end of the Edo period. 11月 15, 2018

Friday, 23 November 2012

the same direction

"Only the return of the regime to Kyoto is not enough.
We are necessary take financial resources of Tokugawa in order to cover the Financial resources of the new government.
In short、it is to take the property of others.
If have enough the power、anyone would resist the robbery.
There is no reason to Tokugawa accept it.
After all、this is likely to become a war.
We therefore need preparations for war."
Sakamoto said so.

・・・・・・・・・

"Reform of the political system is absolutely necessary.
We shall be reform to the system like the UK.
Human resources who enable it.
They certainly exist in Japan.
However they isn't exist in lords.
They exist in more lower class like Saigo and Okubo of Satsuma.

Well、I am a representative of the lords of Japan.
I am representative of the old system. 
If I push through reforms、serious rebound will occur without fail.
It may become fatal to Japan. 
I can not reform with ignore its existence."
This was Yoshinobu's idea.
 
Its two idea may the same direction.

※This is a topic a bit later.
When the situation became very disadvantageous to Tokugawa、the officials of Tokugawa insisted to Yoshinobu that counterattack against the new government.

"Do we have Saigo and Okubo?"
It was Yoshinobu's answer.※

・・・・・・・・・

”Mr. Goto came to explain Tosa's policy."
When Goto visited a Tokugawa executive in Kyoto、he was introduced to a certain person.
It was Kondo Isami of Shinsengumi leader.





Saturday, 24 November 2012

became friends

Around this time、Shinsengumi wasn't a mere armed police by ronin already.
Executives had become a vassal of Tokugawa.
In other words、they had became Samurai.
Of course it wasn't just good luck.
Kondo and Hijikata Toshizo of Sub-Leader of Shinsengumi.
They were originally farmers but they were very competent.

"Human resources is exist to lower class."
They had proven it by themselves ability.
However、this could have been the dawn of a new era.
Yes、the Samurai era is almost over.

・・・・・・・・・

In particular、Kondo had more opportunities to attend the Tokugawa conference as an executive.
It necessarily expanded his connections.
One day、he was introduced Goto from the executive of Tokugawa. 

Tosa's policy of returning the Tokugawa administration to the Imperial Court.
He already knew it.

"Let's threaten Goto a little."
He might thought so.
As a general impression、at that time、Kondo was a person feared by the people as the leader of Shinsengumi.

He put his Japanese sword aside and met Goto with a high-pressure attitude at first.
※The Japanese people of those days basically sit on tatami mats (Seiza 正座) and face each other.

"I don't like it.
Please move it to another place."
Goto said laughing to Kondo.
 
"Right."
Kondo replied also laughing.
After this、the two became friends.


※I think it was manners to remove the Japanese sword from the body when the samurai visited the house.
And maybe put it on the right side.
If the position is on the left、Samurai can cutting down his opponent in an instant. "居合 Iai"※
 
・・・・・・・・・

A little later、Sakamoto and Nakaoka was assassinated.
Since then、Tosa has suspected that Shinsengumi is the criminal of its assassination.
Kondo becomes Tosa's revenge target.





Sunday, 25 November 2012

remorse

"Apology.
It is not found in Choshu's words and attitudes.
I think Tokugawa should never forgive anyone with such an attitude."
Kondo asked Choshu's issue to Goto.

"Choshu is not have word of remorse surely.
But if Tokugawa dissatisfied with it、Tokugawa would have to war again with Choshu.
But I don't think it will succeed.

Now this issue became far worse.
It was mistake of the policy of Tokugawa in the first place.
Everybody knows it.

Therefore public dissatisfaction with Tokugawa is increasing.
Tokugawa shogunate should first admit their own mistakes.
 
Above all、Japan is now not a situation that can battle inside Japan.
We must think about it first."
Goto replied so.

・・・・・・・・・

Shinsengumi at this time was the heyday. 
They became a Samurai.
Kondo's power was like a little feudal lord (his influence was more).
However、it was all superficial.
Signs of collapse was already in Shinsengumi.
 
・・・・・・・・・

Certain day、Kondo said to Goto.
 
"I envy you.
If I'm also Tosa Samurai.
I will also can work freely just like you."

Of course he was the leader of Shinsengumi. 
And they was became important force of Tokugawa.
He was never stand in the same position with Goto.

"Don't behave rudely to Goto of Tosa."
He said only it to his subordinates.





Maybe the name of village headman was also listed in that list. 11月 10, 2018


Monday, 19 November 2012

unexpected things happened

Policy as Tosa was determined to Taisei Houkan.
Goto and his group was decided to go to Kyoto for policy implementation.

But unexpected things happened there.
An English sailor was killed in Nagasaki.
The suspect was Tosa person who is member of the company of Sakamoto.

Of course、the United Kingdom was strongly protested to the Tosa government.
Then ambassador came to Tosa、he demanded for extradition of criminals.
Goto had to be engaged in this negotiation.
※Of course there may be relations with Sakamoto there、perhaps he was Tosa's Foreign Affairs Officer.

・・・・・・・・・ 

"The culprit seems not a Tosa person."
That information was sent to Tosa already.

Sakamoto also went to Nagasaki and investigate this incident.
"The culprit isn't a Tosa person."
Its results、he was convinced so.

Based on these information、Tosa's samurai insisted bullish negotiations to the Tosa government.
It seems there was a disturbing movement of Itagaki's group there like the former Choshu.

In the course of things、negotiations had to be carried out in a tension.
However conversely might have been calmed the parties mind by it.

"Tosa also will continue investigate the culprit.
If the culprit is Tosa person、naturally、the criminal will be severely punished."
The negotiations were settled like that.
 
・・・・・・・・・

Although the true culprit turned out later、it was Fukuoka samurai.
He had been committed suicide (harakiri) already.

However、this incident wasn't necessarily a bad thing for Tosa.
With this incident as a start、the UK and Tosa became intimate.





Tuesday, 20 November 2012

that no longer meaningless

However after all、Tosa might had wasted their time.
When that case was settled、the situation had become more severe for Tosa's policy.

"Our policy had determine to armed uprising.
Even though、why aren't Tosa's troops in Kyoto right now?
It's our promise."

Saigo questioned Goto so.
Goto came to Kyoto without soldiers.

"This 250 years、in Yamauchi clan there is an obligation to Tokugawa.
Thanks to Tokugawa、Yamanouchi became the lord of Tosa country.
I don't want to war against Tokugawa."
There was a strong will of Yamanouchi Yodo as samurai.

・・・・・・・・・

Around the same time、Okubo (Satsuma) visited Choshu.
 
"The waste any more time is serious damage for Japan. 
Even if only Satsuma、we will raising an army."
He affirmed so.

"Even if contrary to the Tosa's policy、Tosa should not abandon choices of armed uprising."
Sakamoto said so under this situation.
He strengthened the armed of Tosa and went ahead with plans to send troops to Kyoto.

And he made continued an effort to achieve ”Taisei Houkan" at the same time.
His personal relationships including Tokugawa persons was helpful for it.

He met secretly to the Tokugawa key persons.
They also hoped meet to Sakamoto.

"Even if I meet a person who only has a title、it is meaningless any longer."
They were well aware.
Feudalism is ”title”.
※Of course they are one of them. 

"That isn't hold anymore." 
Yes、they were well aware. 

※According to my memory、the ship on which the killed sailor was riding is "Ikaros".





past the past. 10月 20, 2018

Friday, 12 October 2012

confession

When Sakamoto moved his activity base to Nagasaki (approximately)、Christian church was built in Nagasaki O(o)ura for the first time in almost three hundred years.
※I will write it based on my memory、it is said that this church is as it was when it was built、but according to the book I read、its appearance first seems to be a little different from the current church.

At that time、Christian faith of Japanese was forbidden by national law yet.
Japanese guards stood around the church for monitor the Japanese.
Construction of this church therefore was intended only for western people who stay in Nagasaki.
※I think this is natural、it seems that this church soon became a tourist destination for people in Nagasaki.

One night、when Father Petitjean of French was praying in this church、suddenly a small number of Japanese came into the church.
They were seems farmers of nearby.

"Are they onlookers of this church?"
He seemed first think so.


They were farmers of Nagasaki Urakami. 
A middle-aged woman in them asked in Japanese to Father Petitjean.
”Where is Mary (Maria sama)?”
”We are people who have the same faith with you.”
They revealed the faith of their own for the first time in 250 years.

※"Sama" is a honorific expressing respect more than "san".
However、it becomes slightly more formal by that much.
By the way、current、"sama" can be expressed in Chinese characters but "san" of this mean can not.
For example、pronunciation of number 3 is also "san・三"、which can be expressed in Chinese characters.
And this Chinese characters can also be pronounced as "mi" in Japanese(lol).※


Christians during this 250 years in Japan、it same as the Witch of the Middle Ages in Western for the people of that time.
Although its my feeling only、I do think so.

Confession of Christian faith was directly linked to their death.

In Nagasaki、there were several Christian discoveries in the past、and they were persecuted.
※They were tortured until they abandoned their faith.

In that situation、they had kept the faith in 250 years by only their own.
Of course the situation hadn’t changed yet. 
 
・・・・・・・・・ 

Discovery methods of the Christian believer by Tokugawa was simple.
"Have people step on a picture of Jesus and Maria."
This called "Efumi". 絵踏
※The literal translation is "step on (踏・fumi) a picture (絵・e)". 
This word is usually called "fumi-e"、but it seems that it is officially called "e-fumi".※

This "ceremony" was held on a regular basis.
Urakami area was also that it was the Jesuits territory before the era of Tokugawa Ieyasu.

"Maybe there are Christians in Urakami now."
Perhaps this was a tacit understanding.

”Please stepping on it.
Seeming is important.
Your inner faith is irrelevant.
Because the problem doesn't occur nothing by it.”
Officials of Efumi might had been thinking like that always.
 
However、after this they no longer hidden their faith.


原作、監督、主題歌の唄もパブリックエナミーさん。
音楽はプリンスさん。

当然、何かとゴミ処刑。


Greatest Misses 8月 24, 2018

"01 Tie Goes To The Runner"

"02 Hit Da Road Jack"

"03 Gett Off My Back"

"04 Gotta Do What Ⅰ"

"05 Air Hoodlum"

"06 Hazy Shade Of Criminal"

"07 Megablast (The Madd Skillz Bass Pipe Gett Off Remixx)"

"08 Louder Than A Bomb (JMJ Telephone Tap Groove)"

"09 You're Gonna Get Yours (Reanimated TX Getaway Version)"

"10 How To Kill A Radio Consultant (The DJ Chuck Chillout Mega Murder Boom)"

"11 Who Stole The Soul?(Sir Jinx Stolen Souled Out Reparation Mixx)"

"12 Party For Your Right To Fight (Blak Wax Metromixx)"

"13 Shut Em Down (Live in The UK)"

でですね、最初は、2011年12月に佐世保に帰ってきて、なつかしいな、と、原明の家の物置にあった子供のころの本を読んでると。


”十字架の縦の線が15センチほどあるもので、よくみなければ気づかぬほどにまで摩耗している。"
"気づいてみると石段のあちこちに散乱させたようにして刻まれている。"
士、卍、島地(笑)。


『ぼくの孫悟空③』一九七九年五月三十日第一刷発行 130ページ、131ページ。


昭和57年5月1日発行『HOW TO BUILD GUNDAM2』、146ページの目次に出てますが。


119ページ、戦場の”NEW YORK 0079”0079はガンダムの中の宇宙世紀年号(放送が1979年)。



















そういえば『ときたまのりたま』にも書いてますけど、三島由紀夫さんの『文章読本』。

「皆さんに、文学作品のなかをゆっくり歩いてほしいと申します」
「もちろん駆ければ十冊の本が読めるところが、歩けば一冊の本しか読めないかもしれません。しかし歩くことによって、十冊の本で得られないものが、一冊の本から得られるのであります」
「小説はそのなかで自動車でドライブをするとき、テーマの展開と筋の展開の軌跡にすぎません。しかし歩いていくときに、これらは言葉の織物であることを露呈します」

"歩いていくときに、これらは言葉の織物であることを露呈します"

これは、もしかしたらこういうことじゃないんだろうか、と。



で、ですね、気づけば、おれが読む本、見る映像、などが、それ自体とは無関係に、意味が、意思が、どんどんつながり始め、何か疑問があると「その答えはここだ!」と、無作為に本をとり、ページをひらくと、必ずそこに答えらしきものが書いてある、みたいなことも始まり、おれの実感として。

で、上の文章?もその一部なんですが、始めたのは2013年頃だったか?色々抜き出し、書き出し、たぶん(たぶん)2015年頃、それを一度"手紙"としてまとめたんです。

この頃、いろいろ試したんですよ。


司馬遼太郎さんのもうひとつの「風塵抄」をPDFファイルで保存し、文字をコピー、新しいテキストに張り付けると文字化けして、全く別の文章があらわれる。

これはやり始めの初期、文章を書き写さないですむ方法を探す過程で気づいたとおもう。

たしか最初、何でか表紙をコピペしたらいろいろな文字の中に督戦という言葉がでてきて、あれ?読めるじゃん、と。

こまかいことおぼえてないけど、漢語林で意味調べたり例文読んだりしてたら、腹を割って話そう、だったり。

言葉を救出しないと、と、いうわけで、"お笑い芸人"は全員エイズでゴミ処刑ですが、関係あるんだ?NY〒叫。

で、これはいつだったか、どこかに日付を書いているかもしれませんが、同じくらいの時期だと思うんですが(伸び盛りだったので・笑)それを読み返し、ちょっとこれは"甘いな"て所を除き、第二稿、みたいな感じでまとめ直したんです、話をシンプルにすると(確か二十稿ぐらいあった・笑)。

で、そこからの文章です。読みづらいですし、あくまでも試行錯誤のとっかかり、ですが、おれの基本的な考えはここにあります。

を、次回からふり返ろうとおもいますが、その前に。

あだち充さんの現代劇(だけじゃないかもしれないけど)は、基本、同じ時間軸の同じ世界の話だと聞きましたが。

"みゆき 最終回"

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