Yoshinobu san was the seventh boy of Nariaki san.

えっとですね、今回。2024082909:37(日本時間)。

「間違いないです、これは戦闘停止命令ではなく、戦闘禁止命令です。」
「だれがそんな命令を。」
「ここには牧野貞直候の署名がありますが。」
「牧野候?大坂城代が何の権限で我々にそんなバカげた命令を下すのだ。」
「わたしに文句を言われても(笑)。」
「で、発令の日時は。」
「ここには今日の日付が書いてあるだけで、具体的な日時は書いてありません、おそらく牧野候がこの命令書に署名をした時点がこの命令の発令日時なのでしょう。」
「我が主君の名前はないのか?誰かとの連名ではないのか?」
「はい、牧野候のお名前だけです。…これが将軍家のお名前で、あるいは牧野候と会津中将様との連名でとかでしたらまだ…」
「バカな!そんな命令誰が納得する?」
「当然会津様の陣にも届いているでしょうが、お読みになりますか?」

'徳川総軍に告ぐ。今後、いかなる理由があるにせよ、朝廷の支配下にある部隊との一切の戦闘行為を禁止する。これを破った者は何人であれ徳川への反逆者として厳重に処罰する。'

「…なるほど、確かに戦闘禁止命令だ(笑)、連中は我々の暴発をご所望なのか?この戦いが始まって以来おかしなことばかり続いてきたが、それもここに極まった感じだな。」

「翌7日明朝我が軍は全軍を持って薩長の奸賊共に対する総攻撃を開始する。
その陣頭指揮は私が執る、各々励め!」
1月6日午後6時ごろ、慶喜は主だった将官を大阪城本丸御殿の大広間に集めこの様に宣言、当然、この慶喜の突然の出馬宣言は大阪城の将兵に熱狂的に受け入れられた。

「私は会津桑名両藩をこの作戦の先鋒にと考えている。
ついては両卿にこの作戦についての忌憚のない意見を聞きたいので本丸天守の私の詰め所まで来ていただきたい。」
同時に、慶喜は松平容保、松平定敬兄弟にこの様に要請、二人はすぐさま本丸天守に向かい、'遠慮のない意見交換をしたいので'との慶喜の意志により臣下を連れず単独で中に入り、そして消えた。

・・・・・・・・・

午後8時半ごろ、容保との一切の音信不通状態に異様さを感じた大阪城内の会津藩本営は伝令を本丸に派遣、しかし'今、天守では重要な作戦会議の最中である。会議終了までは何人も近づけるなとの上様の仰せである。瑣事は後になされい。'と警備隊長に追い返されてしまう。それを本営で聞いた家老の田中土佐が今度は自分で向かうも結果は同じ、これが3度続いた時点で、会津藩大御目付佐藤栄作が土方に同行してもらおうと大阪城内の新撰組本陣に赴いた時、午後10時ごろ、丁度本丸から土方の元に、大反攻に向け意気上がる大阪城各陣地に、この命令書が届いた。

「たしかに新撰組はコワモテですけど(笑)、佐藤さん、あなただってそんなこと全く気にしてないじゃないですか。私が同行しても別に何ができるという訳でもないと思うのですが。」

『歳、今朝、さる高貴な方に'もしかしたら新撰組に護衛を頼むことになるかもしれない。その時はよろしく頼む'と言われたよ。』
『へぇ、用心棒稼業にまだ需要があったか(笑)。分かった、その時には詳細を伝えてくれればすぐに対応するよ。』
'あれ?何でこんなこと今思い出したんだ。'
土方は、今日の昼過ぎ、大阪城の一室で療養中の近藤の部屋を訪れた時の何気ない会話をふと思い出した。

「土方君、君は自分自身の事がよく分かっていないみたいだな。」

「え?」

「ここに来る時、そこで榎本提督に会ったが、卿も君に会いに来たのだろ?」

「ああ、榎本さんは近藤さんと沖田君の見舞いに来てくれたんですよ。そこで今度の一連の戦闘で新撰組に多数の負傷者が出たと聞いてこちらにも見舞いに来てくれたんです。」

「多数の負傷者が出たのは君たちだけじゃないだろ?悪意に取るなよ(笑)。榎本卿も大勢の部下の命を預かる指揮官として、戦場は違えど自分の命を顧みず奮戦した将兵たちに自ら驚嘆深謝の意を伝えたかったのだろうが、それと同時に卿は単純に君たちに会いたかったんだよ。知らないのか?会津もそうだが、若者だけじゃないぞ、徳川幕府には高貴な方も含め新撰組のファンはかなり多いんだ(笑)。
君なら我々にはとても無理な反応を相手から引き出すことができるかもしれない。
それに、公的には新撰組は会津藩の一支隊にすぎない、幕府という組織では特にそうだ。その一支隊にこの様な命令書が直接届くと言うことは、幕府が公式に新撰組の実力を無視できなくなった証拠じゃないか。」

「もしかしたらこれは会津中将様のご配慮によるものかもしれませんが。」

「わが主君は本丸に赴く前に'戦いはこれからだ!皆もいよいよ気を引き締めて頑張ってくれ!'と仰られていた…。あるいは、そう思わせるための…、いや、我々には、君が言うことが真実かどうか確認する術が全くないのだ。
田中さんがすでに行っている、是非君にも一緒に来てもらいたいのだ。」

「わかりました佐藤さん、私にいかほどの事ができるかはわかりませんが同行しましょう。」

・・・・・・・・・

「佐藤さん、あなたもすでにご存じかもしれないが」
土方は開け放した12畳の部屋の周囲を軽く見回し、同じ口調で話をつづけた。

「私は職務上真偽定かならない情報に日常的に数多く接しているのですが…。
'もし徳川軍将兵が朝廷の官兵を殺害した場合、徳川は朝廷に賠償金を支払うことを約束した'
'徳川は大阪城を無条件で朝廷に引き渡すことを記した親書をすでに御所に送った'
この様な情報が今日の夕刻には私に報告されていました。」

「そんな妄言誰が信用するんだ。」

「私もそう思ってはいましたが…佐藤さん、歩きながら話しましょう。」

「そうだな…急ごう。」

・・・・・・・・・

「佐藤さん、残念ながらこの戦いはすでに勝機を逸していると私は思います。
今は、逸る将兵の心を何とか宥め、この大軍団を一兵も損なうことなく江戸に戻り、必勝の態勢を整え、新たな戦機を掴む努力をする時期ではないでしょうか?」

「政争ならまだしも、これだけ奇々怪々な手かせ足かせをはめられるとな。
しかし戦闘を禁止された我々が、暴発すらできなかった我々が江戸に帰ったとして状況は変わるだろうか?」

「…佐藤さん、…京都守護職の元で働いてきた我々には、陰謀による奇々怪々な手かせ足かせが戦争そのものであるということはよく分かっていることじゃないですか(笑)。もののふは東国にかぎりもうし候、東国はわれわれの故郷ですよ、我々が我々の意志でそういう状況を作るんです。」

「そうだな(笑)、その通りだ。」

「この後、榎本さんにお会いになられますか?榎本さんは徳川全艦艇を統べる提督です。江戸への帰還含め、今後の事を考えれば会津藩としても是非会っておかねばならない方だと思いますが。」

「榎本卿はわが主君と同格の方だからな。」

「今はそう言うことを言っている時じゃないでしょう?会津藩の為にも機会があるなら掴むべきです。」

「しかし、卿は何かの報告で大阪城に参られたのだろう?その頃には自分の艦隊に帰隊する途上だろう。」

「いえ、何でも先日、徳川艦隊は薩摩の輸送船とそれを護衛する戦艦相手に追撃戦をやり、結果輸送船の一隻を座礁沈没させたそうなのですが、それが榎本さんの独断によるものだったとして幕閣にその釈明を求められたそうなのです。」

海戦後、予定海域で再集合した徳川艦隊は5日に日付が変わる頃には大阪湾沖に帰投、停泊したまま艦艇の損傷チェックを始めたが、6日正午ごろ、大阪湾の各地区に深紅の'緊急連絡旗'が掲げられ(この時以降、この旗は'錦旗'と呼ばれることになる)、榎本は大阪城の幕府上層部に独断で海戦をしたことの"釈明"を強く求められたが、榎本は"今我が艦隊は各艦艇の損耗チェックと海域の哨戒活動を同時に行っており、私も極めて多忙で艦隊を離れる余裕はない"と、この召喚命令を無視し続けていたが、6日正午ごろ、執拗な召喚命令についに榎本は事情説明の為一人で大阪城に赴いた。

「きつくお灸をすえられ(笑)、この説明は無事終わったそうなのですが、何でもこの追撃開始前に、'大阪湾を軍事的空白地帯にするわけにはいかない'と、限界追撃線を彼ら自身で決めていたそうなのです。それで結果的に榎本さんが乗る開陽丸がこの線を2海里ほど越えてしまったそうなのですが、それを榎本さんが説明中に何気なく口にすると、今度はそのことについての謝罪と詳細な説明を求められたそうで(笑)。'この大事な時期に。これで今夜は徹夜だ。こんなことなら文章を書くのが上手い副官の方をつれてくるんだった'と嘆いておられましたよ。'夜明けとともに連中の顔に俺の創作文を叩きつけてすぐに開陽に帰る!'と仰られていましたから、まだ大阪城に居られるでしょう。」

「そうか、陸も海も、奇々怪々な状況はどこも同じだな。
分かった、わが主に榎本卿にお会いするように進言するよ。
たとえば私と田中さんが個人的に卿にお会いするよりも、組織としてはやっぱりその方が話が早いからな(笑)。」

その時、二人は前方のかがり火の陰に二人の人影を認めた。

な、感じの英文を書いていたのですが、間違って全部消してしまいました(笑)。

で。2024082913:52(日本時間)。

ここで、勘合譜な感じの謎の半分印が捺してあるだけの、徳川慶喜さん直筆署名無し恭順宣言書を持った岸信介さん登場("その方が早いので"文章自体を考えたのは岸さん)。
「私は艦隊提督の副官なので開陽丸に乗っていくわけにはいかない。」
で、書面を大阪城に運ぶ役割を買って出た岸さんに「君は海軍の士官服を着てるから堂々としていたら疑われないよ。護衛とかつけず従者のみの方がいい。」と慶喜さん自身の経験ふまえアドバイス。
「会津中将も居られましたが、終始無言でした。」
で、翌7日夜明けを持って牧野さんが"徳川代表として"この恭順宣言書を発表するという。
「牧野候も貧乏くじを引かされたな。」

で、「これで暴発するなというのも無理がある、やりたい連中には好きにさせるしかない。」

「私はこの事実を早く城内に広めたほうがいいと思います。」
「岸、お前は反乱を誘発するつもりか?」
「進発のつもりの所にいきなり恭順書の方が危険極まりないですよ。」

「江戸に帰って態勢を整える為だと言えばいいんじゃないですか、嘘という訳でもない、皆アッチの連中だ、自分を納得させる手掛かりにはなるさ。」

岸、輸送船をかき集めろ。ここ2、3日が勝負だ!制海権は捨てて構わん、戦闘艦をすべて集める、輸送船の護衛と哨戒に集中させる。いますぐ輸送作戦の開始、戦闘開始だ!
「千石船、小型帆船も含めればすでにかなり集まって来ている可能性があります。」
「ん?」
「牧野様が事前に手配をなされているのです。
陸路でも牧野様が各藩の領主と交渉し、すでに通行の許可をもらっています、ここ数日なら大丈夫でしょう。」

な、感じで展開する予定でした(笑)。

で。2024082914:28(日本時間)。

「'他人に迷惑がかからない場所で自分たちの戦いを'と言っても陸地じゃそうもいかないでしょ?会津も新撰組も船に乗りませんか?全く迷惑をかけないとはいかないが、誰にも邪魔されないとこで連中と白黒ハッキリ勝負をつけようじゃないですか。」

な、感じのオチ。2024082914:31(日本時間)。

※☟Original text as of 8:50am, 1/8/2019(japan time). 2024082915:25(japan time).


Friday, 8 February 2013

family

"He make pressure on the Emperor for his selfish thoughts."

The reason for Naosuke's assassination (of Hikone lord).
It was one of the main ones.
 
Mito samurai was the center of this assassination.
Mito clan was Tokugawa family.
※Without fear of misunderstanding、simply speaking、rank second to fourth from the top.

But they were also the center of thought of reverence for the Emperor.

"Mito lord is Tokugawa family.
Naosuke is a mere vassal of Tokugawa.
Nevertheless、he insulted our Lord.
We can not forgive him."
Of course there might had this feeling.
 
But many of Naosuke's political opponents had already been executed.
This oppression called "Ansei no Taigoku". 
 
・・・・・・・・・ 

Yoshinobu was born in Mito.
 
"For the Emperor." 
Therefore thoughts of his reverence for the Emperor was strong.

Nevertheless、he had become the enemy of the Emperor.
And now Hikone joined new government troops of the Emperor.
 
His heart might be broken.

※Yoshinobu's father、Tokugawa Nariaki (Mito lord).
He was virtually confined in Mito by Naosuke and died as it was.
However、for reasons such as repression of Buddhism at Mito、he had been ordered by the Shogunate to shutting himself up at home in the past.
(After a while、this sin was forgiven、but at this time he was made to retirement Mito lord.)※



Saturday, 9 February 2013

mist

Tokugawa navy that gathered in Hyōgo port.
Its armed force had been overwhelmed the new government navy.
Its flagship ”Kaiyō”.
And its captain was Enomoto Takeaki (Kamajirō).

He went to Ōsaka Castle for consultation of counterattack strategy.
However、at that time the inside of Osaka Castle was mysteriously empty.

・・・・・・・・・

"What happened?"
Of course、Enomoto asked with surprised.

"Now I will go to forefront of the battle.
There was such a proclamation from Ue-sama.
(上様・put simply、the shogun honorific title. represents Yoshinobu)
So the soldiers were waiting for him at full strength.

However、Ue-sama forsake us and went back to Edo.
At that time this rumor was flowing.
And we understood it to be true.
Then our soldiers was vanishing like mist rapidly."
 
・・・・・・・・・

"Imperial Court will punish Yoshinobu as rebel. 
Lords who participated in the Tokugawa troops.
They are enemy of the Emperor."
This had been officially declared from Imperial Court.
 
Without doing anything、Enomoto went back to the harbor.
At that time、Kaiyo had sailed to Edo already with Yoshinobu.

※Especially at the time、my English ability has many problems、but I think that the recollection of Enomoto was like this.
Yes、that's amazing planned withdrawal(lol).
And at least Osaka、the economic center、was able to avoid the war by this.※



Sunday, 10 February 2013

burning

"Tokugawa troops vacate from Osaka Castle.
Tentatively Tokugawa pass the control of the castle to Owari and Echizen (Family of Tokugawa).
Then Osaka Castle will passed to the Imperial Court."
There was this proposal to the new government troops from Tokugawa.

Osaka was the commercial center of Japan.
And Osaka Castle was a large fortress. 
 
"It's a trap." 
But new government forces did not believe it.

"Stop the advance of all the troops."
And they began the reorganization of the front line.
 
・・・・・・・・・

"We go scouting."
But part of the Choshu troops they did ignore this instruction.
They went to Osaka.
 
And they saw.
Osaka Castle was burning.
 
・・・・・・・・・

"Why the fire?"
"I don't know."

It happened when the person responsible for Tokugawa handed over the castle to the person responsible for Owari. 
There were few people already in the Castle.
 
"Fire fighting is impossible."
They were stumped.

"Enemy is approaching ."
At that time、this warning was brought.

※☝Original text as of 8:50am, 1/8/2019(japan time). 2024082915:25(japan time).

「忠兵衛くん、代えの日本刀をもっと持っていかなくていいかい?大阪城の宝物蔵には斬れそうな名刀が山の様にあったから一山持って来たんだよ(笑)。」

「いえ、連中も鎧を着てる訳じゃないですからね、標的の数もわかってるし、使い慣れた刀だけで大丈夫です。骨を斬るようなヘマはしませんよ(笑)。
そうだ、彼らにも代えの刀が必要か聞いてやってください。
何せ激戦続きで刀の手入れをする暇なんてほとんどありませんでしたからね。
で、あなた達は何時までアメリカの船に乗ってることになってるんです?」

「明後日だったか?長州軍の進撃開始時間も考慮すると今回の戦闘時間は正味20時間ぐらいだな。」

で。2024082914:39(日本時間)。

橋本の戦い
5日夜、勅使四条隆平は西国街道上の山崎関門(梶原台場)へ赴き、山崎一帯の津藩兵を指揮する藤堂采女を説得して寝返らせ、これらの津藩兵を官軍とした。

6日、旧幕府軍は石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて布陣した。西側の橋本は遊郭のある宿場で、そこには土方率いる新選組の主力などを擁する旧幕府軍の本隊が陣を張った。東に男山、西に淀川、南に小浜藩が守備する楠葉台場を控えた橋本では、地の利は迎え撃つ旧幕府軍にあった。旧幕府軍は木津川と男山に挟まれた科手、山上に石清水八幡宮のある男山、その東側の山麓にある八幡に、桶や俵に砂を詰め畳を立てかけた胸壁を作って野戦陣地を構築し、やや後方の橋本にも砲台を築いていた。幕府陸軍歩兵小隊4個、砲2門、京都見廻組、遊撃隊、会津兵、桑名兵らが守備に当たった。 早朝、淀大橋が焼け落ちていたため新政府軍の多くは木津川を舟で渡河し、一部の部隊は徒渉した。渡河中の新政府軍への攻撃はなく、少数の監視兵との戦闘があったのみで新政府軍は容易に木津川左岸に展開した。午前8時、新政府軍は右翼隊、中央隊、左翼隊の三方面に分かれて攻撃前進した。八幡に展開していた旧幕府軍の右翼の抵抗は軽微で新政府軍が攻撃すると町に火を放って退却した。しかし科手、および正面の男山の陣地を守る旧幕府軍の抵抗は頑強で新政府軍の右翼および中央の攻撃は進展しなかった。しかし、新政府軍の左翼隊が前進すると旧幕府軍が包囲され、また新政府軍の砲弾が旧幕府軍の陣地内の民家に命中して爆発炎上すると動揺が生じた。旧幕府軍は後退して橋本の砲台に入ると、そこで体勢を立て直し、多数の砲で砲撃して新政府軍との間で激しい砲戦となった。 しかし、午前11時頃、橋本から淀川を挟んで対岸にあたる山崎の一帯を守備していた津藩兵が高浜砲台(高浜船番所)から旧幕府軍へ砲撃を加えた。先述の通り津兵は勅使四条隆平の説得によって新政府軍に寝返っており、四条隆平は津兵の砲撃を監視して朝廷に報告した。旧幕府軍は津藩を味方と思っており、思いもかけない淀川対岸からの砲撃を受けた旧幕府軍は戦意を失って総崩れとなった。楠葉台場からは右岸へ向けて反撃の砲撃が行われたが、左岸にも新政府軍が現れた。陸路からの攻めに弱かった楠葉台場も放棄された。この戦いで、京都見廻組の長であった佐々木只三郎が重傷を負い、後に死亡した。竹中重固、滝川具挙、会津藩家老の田中土佐ら指揮官は枚方に陣を敷いて新政府軍を迎え撃とうとしたが敗走する旧幕府軍部隊を引き止めることはできず、更に守口まで後退した。そして慶喜からの撤退命令によって大坂へ退き、大坂城に入城した。

徳川慶喜の江戸城帰還と天皇への恭順
慶喜一行の大阪城脱出
慶喜には初めから戦意がなく、将校・兵士らが北進のあとも、一度も大阪城を出ず、この数日、風邪をひいていて寝巻のまま、ほとんど布団のなかにいた。鳥羽・伏見の戦いが開戦した報しらせを聴くと、慶喜は万事休すと決心し、ことさらに内にこもっていた。4日、開戦の報せにともなって、帰京する福井藩士・中根雪江へ託し、慶喜は直書を尾張藩主・徳川慶勝、福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、紀州藩主・徳川茂承、宇和島藩主・伊達宗城、熊本藩主・細川護久らへ連名で送って、「奏聞(天皇へ申し上げること。慶喜の先供として入京したと伝えること)の次第はあっても、輦轂れんこくの下(天皇のおひざ元)で武器・防具は動かさぬよう、かねて兵隊らへ申し諭しておいたのに、相手からすでに発砲されてしまったからにはこの後の形勢は心配である。くれぐれも鳳輦ほうれん(天皇ののりもの。間接表現でうやまった天皇のこと)を守護していただくよう、厚くお頼み申す」と書いた。やがて錦旗が掲げられたのを聴くと、慶喜はますます驚いて「あわれ、自分は朝廷に対し歯向かう意思などつゆばかりも持っていないのに、賊名を負うにいたったのは悲しい事だ。最初に、たとえ家臣の刃にたおれても命のかぎり会桑(会津藩、桑名藩)をさとし帰国させておけば、ことここに至ることはなかったろうに。部下がわが命令をきかない腹立たしさで、『いかようにとも勝手にせよ』と言い放ってしまったことこそ一期の不覚だ」と悔恨の念に堪えず、いたく憂鬱になった。

6日、慶喜は大阪城で会津藩士・神保修理に「事ここに至っては、もはやどうしようもありません。速やかにご東帰なさり、落ち着いて善後策をめぐらされるべきです」との建言を受け、若年寄・永井尚志もこの議論に賛同した。初めに大阪城へ戻ったとき、たとえ暴発しつつある藩屏に刺し殺されようとも会津藩・桑名藩へ諭して各々帰国させ、その後みずからは再び朝命の通り御所へ参内し『今は一己の平大名にすぎないため、願わくば前々通りお召し使い下されるべきです。朝廷の御為には粉骨砕身つかまつります』と天皇家(朝廷)へ懇願すればよかったと後悔していた慶喜は、元日、討薩に勢いづく会桑二藩を諭し得ず『なんじらのなさんとするところをなせ』『いかようにとも勝手にせよ』と言い放ってしまい、つづけて鳥羽・伏見の戦いが発生した事を一期の失策と考えていた。慶喜はこの後悔のさなか、神保による建言を聴いたため、寧ろその説を利用して、徳川宗家の居城・江戸城へ帰って堅固に天皇家(朝廷)へ恭順謹慎しようと決心したが[注釈 27/渋沢栄一・編『徳川慶喜公伝』「4巻、第三十五章 逸事、父祖の遺訓遵守」で、慶喜は一連の天皇家(吉子女王の子である慶喜にとって、母方の主家)への恭順行動理由を、伊藤博文と渋沢栄一の両名へ、「実家である水戸徳川家での普段の教えだけでなく、父・烈公(徳川斉昭)からはたちの頃、庭で威儀を正して教えられた、義公(徳川光圀)以来わが家代々の尊王の大義を守っただけ」と語っている。]、心に秘めてそうは人には語らなかった。試しに諸有司・諸隊長らを大阪城・大広間に招集し、「この上はどうすべきか」と尋ねると、いずれも血気にはやる輩のみで、みな異口同音に「少しでも早くご出馬遊ばされるべきです」というのみだった。慶喜は彼らを良きほどにあしらい置いて、老中・板倉勝静と若年寄・永井尚志を別室に招き、恭順の真意は漏らさずに、ただ東帰の事について告げた。板倉・永井両人が「ともかくも一旦ご東帰の方がよろしいかと」と言ったため、慶喜はいよいよそうしようと決心し、再び大広間へ出て形勢をみると、依然として藩屏が慶喜へ出馬をしきりに迫ってきた。このため慶喜は「では、これから打ち立つぞ。みなの者、用意せよ」と命じると、一同は喜び踊っておのおのの持ち場へ退いていった。この隙に、慶喜は老中・板倉勝静、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬ら4、5人の者を従え、ひそかに大阪城の後門から抜け出た。城門では衛兵に咎められるかもしれないといたく気を遣っていたが、「ご小姓でござる」といつわって通ったので衛兵も騙され、別に怪しみもしなかったのは、慶喜自身が後年、回想録『昔夢会筆記』で語るところ「誠に幸運だった」という[注釈 28/渋沢栄一・編『昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談』第14「大阪城御引上げの時の事」で、慶喜は「予(自分)は激昂する会津藩・桑名藩の兵士らへ刺殺される覚悟で帰国を命じ、天皇家に呼ばれた御所へ参内して新たな朝命を受け、『今は一己の平大名として朝廷に粉骨砕身つかまつる』と言えばよかったと、両藩兵の暴発を抑えきれず後悔している中、神保修理の東帰による善後策の勧めに、永井尚志や板倉勝静も同意していた。予(自分)が大広間に出て様子をみるたび予の出馬を迫る藩兵へ『ならば今から打ち立つ。皆おのおの用意をせよ』と命じ、一同が喜び踊って持ち場に向かって退いた隙に、永井尚志・松平容保・松平定敬ら4、5人を従えて密かに大阪城の後門から抜け出た」と大阪城撤退時の自身の心理と詳細な状況を回顧している。]。

大阪湾で開陽丸を探す
1868(明治元)年1月6日夜、こうして慶喜らは大坂湾天保山でただちにのりこむつもりで船をさがしたが、以前は泊まっていたはず徳川宗家の軍艦・開陽丸がなく、今は薩摩藩の軍艦を追跡している為だった。そこでアメリカ合衆国の艦艇に東帰を依頼しようとしたが、あまりに突然なので、まずフランス公使に紹介してもらうのがよいだろうと旗本・山口直毅をお使いにレオン・ロッシュのもとへ遣わすと、ロッシュは快く承諾して紹介状をくれた。慶喜一行がロッシュの紹介状を携えアメリカ合衆国の艦艇に赴くと、フランス公使の紹介があったためか極めて優遇してくれ、酒・肴を出しもてなしてくれた。このときイギリス軍艦がきて、しきりに開陽丸の周囲を乗り回し、艦内を偵察するかのごとくだったため軍艦頭並(副艦長)・澤太郎左衛門が「イギリス艦艇は、高貴な人がこちらにおわすらしいのを疑って、探りを入れているのに違いありません。しばらく隠れておられ給わりますよう」というので、慶喜らはしばらく船室に閉じこもっていた。

船中でのやりとり
慶喜は東帰する開陽丸船中でも、紀州沖あたりで板倉勝静へ「予は、さきに会津藩・桑名藩の二藩や旗本などがどれほど騒ぎたっても、泰然として動かず、一歩も天皇の下を去るべきではなかった。だが大勢に抗する事ができず、『なんじらのなさんと欲するところをなせ』と放任し、遂に鳥羽・伏見の変を引き起こしたのは、くれぐれも失策だった。予は江戸へ着いたら、飽くまで天皇家へ恭順謹慎し朝廷からの裁きを待つ決心なので、なんじらもその心づもりであるべきだ」と語りきかせた。板倉は「仰せの事もその通りでございますが、関東役人の見込みのほども承らなければ、まだ、にわかにはお請け致すのも難しい事でございます」と論じたてたものの、慶喜は断然として一向に恭順を主張した。

徳川慶喜の逃亡
1月8日の夜、開陽丸が大阪湾を出発、紀州大島をへて5、6里のころ、北西からの風が起きて刻一刻と猛烈になり、船は風に流された。船は普段の航路をとれなくなったため、蒸気をとめると由良に寄港しようとしたが、風任せに沖合へ流された。暴風雨がやっとおさまった10日の暁ころ、一行の船は八丈島の北、5、6里の沖に漂っていた。船中の人々はだからといって安心もできず、その日の夕方にはなんとか事なきを得て浦賀湾に入りえた。慶喜は金200両をあたえ船員をねぎらった。11日には艦艇が品川沖に入った。慶喜は12日未明を待って、浜御殿に上陸し、午前11時頃には騎馬で江戸城の西丸に入った。

幕臣・勝海舟の日記によると、「11日開陽丸が品川沖に錨を下すと、使い(の船)が有り、あかつきころに(上様、慶喜公一向は)浜の海軍所に至った。そこで私は始めて伏見の顛末を聴いた。会津候(松平容保公)、桑名候(松平定敬公)ともに、上様のお供のなかにいらっしゃった。私は詳しいことを問おうとしたが、一同の顔色は土のごとくで、互いに目配せをするばかりで口を開く者はいなかった。わずかに板倉閣老(ご老中・板倉勝静翁)から鳥羽・伏見の戦いの概略を聞くことができた」と、ひどく沈んだ様子の、江戸上陸時の慶喜一行の状況だった。

親子内親王による徳川宗家の存続嘆願
慶喜は大阪城で既に、天皇へ恭順謹慎と決心していたが、本心は秘めてひとに語っていなかった。このため人々はみな、東帰は再挙の為だとばかり思い込んでいた。慶喜は開陽丸の船中ではじめて老中・板倉勝静へその本心を告げたが、板倉以外の人は、慶喜の心にある尊王の本心を誰も知らなかった。from wiki.

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