拉致被害者、家族、全員死刑つうことで。そーいえば、被爆二世、三世、優生保護法(連合国占領下の日本、そんなファッショ極まる問題法案GHQは何考えて通したの?押し付けられたんじゃない?日本国憲法同様・笑)、楽して金盗ろうと必死だね。処刑されるまで真っ当に働けゴミ。つうてもそんな(同文)。
例えばですが、この199ページ。
◆江青、1930年代に藍蘋の芸名で上海演劇、映画界に活躍し、革命的演劇を通じて政治に関心をもち、中国共産党に入党。38年延安のマルクス・レーニン学院に入学。39年毛沢東と結婚。
“そういう目的によって中国は黒竜江省のチチハル(斉斉哈爾)に「軍事政治大学」という臨時の教育機関をつくった。ブルンサインもツェベクマさんも、ここに二ヶ年学ばれた。「たがいに好意をもちあっているということは十分わかっていましたが」と、ツェベクマさんはいう。まだ前途を言いかわすまでにはいたっていなかったらしい。ツェベクマさんは、右の臨時学校を出たあと、中国の統一のつよまりつつあったハイラルにもどり、新中国のもとでの小学校の先生になった。彼女がおどろいたのは、ブルンサイン青年が、ハイラルの中学校に赴任してきたことである。「私のために来たらしいですよ」と、ツェベクマさんは言い、乾いた笑い声をたてた。ソ連圏でうまれたせいか、彼(女はロシア人が冗談を言うときの表情になる。)”
俺は、これはブルンサインさんツェベクマさんご夫妻のなれそめの話であり、毛沢東さんと江青さんのなれそめ(かどうかはわかりませんが)の話だ、としか思えません。「ああ、なるほど、毛沢東さんは江青さん会いたさにマルクス・レーニン学院にしょっちゅう顔出されていたのか」と。それに、お生まれはわかりませんが、江青さんが女優として活躍された上海は当時、これは付けなくていいと思うんですけど、良い悪いは別として、日本の文化の影響が強い場所だったと思います。そしてこれは司馬さんが直接江青さんからお聞きになったこと、そして“イミナは、ハイラルでうまれた。モンゴル人は、父の名前を姓とするから、この少女は、正しくは、「ブルンサイン・イミン」[※すいません]と呼ばれるようになった。ついでながら、イミナは、イミンの愛称付きのよび方である。”
つまり忌み名ではない。それはイミン[人類](の)労働に従事し生活するために外国に移住する人々。
「やっぱり人類のために戦わないと駄目だ」のサイン。