ここに書くことないので、長ブッチーその不安は大当たりだ。
◆ムハンマド・レザー・シャー(Mohammad
Rezà Shàh Pahlaví Àryà
Mehr)(実際はhの下部に点、そして上部の線は斜めではなく水平、パソコンにこの表記なし)1919年10月26日生まれ、1980年7月27日、カイロで亡くなる・イラン、パフラビー朝第二代の王(在位1941~79)。パーレビ国王として知られる。「アーリヤ―・メヘル」は称号。レザーシャーの長子で、1925年皇太子となる。スイスで教育を受け、イランの陸軍大学で学んだ。41年連合軍のイラン進駐とともにレザーシャーが退位し、代って即位。50年~53年の石油国有化運動で民族運動を代表したモサッデグと対立。53年8月国王はモサッデグ首相の解任を命じたが、逆に国外への避難を余儀なくされた。まもなくモサッデグ首相は国王派に打倒され、国王は権力を回復した。60年代に入って上からの改革である【⇒白色革命】に着手。73年末からの石油収入増大をとらえて急速なイランの工業化を目標とした。しかし79年1月16日、イラン全土に波及した反体制デモの渦中に出国。エジプト、モロッコ、アメリカ、メキシコ、パナマを転々としたのち再びエジプトに亡命し、カイロ郊外の病院で死去。著書に"Mission
for My Country"(61)がある。
◆白色革命(はくしょくかくめい)(Inqilàb-i
Sefíd)「国王と国民の革命」Inqilàb-i
Sefíd o
Millatともいう。1963年国民投票によって承認されたイランの国王の側からの改革。1950年代イランは政治的に不安定であったが、ムハンマド・レザー・ジャーは60年代初めに国王中心型の権力確立を目指して、61~63年に議会を解散させみずからの大権で改革を準備した。63年1月、次の6項目から成る「白色革命」を国民投票にかけた。すなわち(1)農地改革、(2)森林、牧草地の国有化、(3)国有工場の払い下げ、(4)工場労働者に対する企業の利益配分、(5)婦人参政権、(6)⇒セパーエ・ダーシニの創設であり、特に(1)に重点がおかれた。65年までに(7)保健部隊、(8)開発部隊、(9)村落裁判所の設置が加えられて、農地改革以後の農村の改造を目指した、67年10月にさらに、(10)水資源国有化、(11)都市と地方の再開発、(12)行政・教育改革が追加された。これら「十二大改革」は低開発水準から急速な社会、経済、文化の改革を目指した措置で、60年代後半からの経済の高度成長に支えられて実地された。他方、この改革は大きな社会、経済のひずみをもたらし、その是正のため、75年8月、(13)私企業株式の一般公開、(14)インフレ抑止、が勅令として発布された。12月7日、(15)教育の無料化を、同月23日、(16)幼児への無料給食、(17)保健制度の拡充、を追加したが、イラン革命でこれらは解消した[※758、7.13、127、71.10.21]
◆セパーエ・ダーシニ(Sepàh-i
Dànish)イランの白色革命の一つで、従来放置されてきた農村において、識字率を高めるために編成された。青年が軍隊に入る代わりに農村へ派遣されて読み書きを教えるかたわら看護法や農村生活向上の指導を行うもの。「教育兵団」とも訳される。それまでイラン国民の識字率は20%であったが、1963年~73年の間に220万人の農村の児童と農民がこの教育を受けた。イランにおける識字率はこのため急激に高まり、農村には多数の学校が急増されたが、イラン革命で中止された。
◆サバク(SAVAK)イランの治安機構。1957年、ムハンマド・レザー・シャーの命令で設立されたイランの秘密警察。イラン国内における国王の政策に対する批判や反対に過度の取り締まりをした。この機構はヨーロッパにおけるイラン人留学生をも監視し、イランでは多数の政治犯を逮捕、投獄したため、イラン革命で解体され責任者は革命法廷で処刑された。[※1957、10.12。で、日本語でサバクと書くと、砂漠、裁く、もありますが、◆佐幕(「佐」は助ける意)幕末、尊王攘夷・討幕に反対して幕府の政策を是認し、これを助けたこと。「―派」the
supporters
of the Shogun、the
Shogunate party.印象としては反動派ですが、だからまさに新撰組。で、ここでは★が当時のまとめです]
★"イランの白色革命の一つで、従来放置されてきた農村において、識字率を高めるために編成された。青年が軍隊に入る代わりに農村へ派遣されて読み書きを教えるかたわら看護法や農村生活向上の指導を行うもの"、これ逆になりますけど"軍隊"を"軍隊"と捉えず、わかりやすくいえば"いひひ"要員、ポールさんの、"田舎から逃げ出したい、軍隊に入る人間が多い、それ以外方法がない、学校に行ってなかった、勉強する必要がなかった、そういう人間を育てるには凄くいい土壌"と結びつけたいですね。[※これは俺のNOISEを聴いて下さい。まだ残ってますけど、24時間そう言う環境でしたと。で、それに関してはすでに俺なりの答えを書いています。で、パーレビ―さんが出した答えが白色革命だろうと]
▼若い頃あなたはどんなことを目標にしていたのですか。
「まずあったのは、田舎から逃げ出したいってことだった。今だって皆そうだろう。だから軍隊に入る人間が多いのさ、それ以外方法がないじゃないか。軍隊か音楽か、どっちかだよ。僕らの場合徴兵制はもうなくなっていたから―殆ど信じられないけど。モーゼが杖を振って海が割れたみたいなもんだ。ビートルズもばらばらになるところだった。エヴァリー・ブラザーズやエルヴィス、皆兵隊に取られたみたいに。ところがどうしたわけか、天がぱっと開けて、神が言ったのさ。『もう徴兵は終わりだ。この子たちには休みが必要だ』って。実は僕にとっては、徴兵制廃止は殆ど―殆ど、というところを強調しておきたい。完全にそうじゃないんだから―失望に近かった。何故なら僕たちの年上の兄たち―僕の兄じゃない、友だちの兄さん、ジョージの兄さんたち―皆軍隊に入ってて、戻ってきた時には日焼けしてすっかり大人になってたんだ。本物の男って感じ。全然子供じゃなかった。心の奥では、そういうの悪くないなって思ってた。「僕は男になって帰って来るんだ―真っ黒になって!」とか考えて。でもさっきも言った通り、僕らは軍隊に入る必要がなかった。それでとにかく田舎から抜け出して有名になろうとしたわけ―ごく普通の目標さ。ショー・ビジネスの世界に入ってきた人は皆そんなものだろう」
[※これは前述のポール・マッカートニーさんのインタビューです。]
▼初期のビートルズは、これといって芸術的な感じがしませんでしたね。
商業的にある程度の土台が出来ると、僕らはより芸術的な面を増していくようになった。ジョンはアート・スクール出身だろ。僕は一応グラマー・スクールに行ってた。ジョージもグラマースクール。リンゴは学校に行ってなかった。勉強する必要がなかったのさ。彼は人生の中で勉強していた―彼に言わせれば人生と言う学校でね。だから僕らは、ある意味で他のグループより1枚上を行ってたんだ。アート・スクール―そういう人間を育てるには凄くいい土壌だよ。建築のこともちょっと知ってる、絵のこともちょっと知ってる、そういうちょっとしたことが見る目を養うんだ。例えば、ある人たちなら絶対観に行かないような劇を観に行くようになるかもしれない。
[※ところで彼は人生の中で勉強していた、これ俺だ。43にしてだけど(笑)。で、白色革命の、特に"教育の無料化""幼児への無料給食""保健制度の拡充"重要ですね。そして勘違いしてはいけないのは、この“命タダの当たり屋”撲滅任務の主力部隊は、そう部隊、イラン国軍「教育兵団」。
◆イラン革命(Islamic
Revolution
Iran)1978~79年イランのパフラビー朝を倒してイスラム共和制を樹立した革命。ムハンマド・レザー・シャー(在位1941~79)は、いわゆる「白色革命」によって上からの急激な近代化政策を強行し、土地改革、婦人参政権、識字教育などの実地を推進したが、地主層や宗教指導層が反発。73年の石油危機を契機に打出した経済成長政策も失敗して、かえってインフレ、農業の停滞、都市のスラム化の増進、極端な富のアンバランスなどのひずみをもたらした。78年1月以降反国王デモやテロ事件が全国的に続発。これに対して国王は同年11月軍人内閣を発足させ弾圧を強化したが、反政府運動は熾烈となり、パリ亡命中のホメイニ師の指導のもとに王制打倒を叫ぶにいたった。79年1月国王は国外に脱出、王制最後のS.バクチアル内閣も瓦解した。2月1日ホメイニ師が帰国し、2月11日革命政府が全権力を掌握、国民投票の結果、4月1日イスラム共和制が初代最高指導者ホメイニ師のもとに宣言された。初代大統領はA.バニサドル。王制打倒に結集した勢力はイスラム勢力のほか、マルクス=レーニン主義の影響を受けたものから、民族主義者、新左翼グループ、自由主義者、バザール商人などさまざまで、そのすべてがイスラムに基づく国家理念に同調していたわけではなかった。革命後、国家体制のあり方をめぐって激しい抗争が繰広げられたが、80年5月の国会選挙ではイスラム聖職者を中心とするイスラム共和党が圧勝し、その結果採択されたイスラム共和国憲法ではホメイニ師に三権分立をこえる国家最高指導者の地位を与え、イスラム指導者たちによる超議会的な憲法監視評議会の設置を定めた。その後イスラム聖職者の独裁に反対するグループは次々と粛清、排除され、ホメイニ師を中心とするイスラム国家体制が固められたが、それは周辺のアラブ諸国ばかりでなく、全世界のイスラム復古運動に大きな影響を与えることになった。[※字ズラだけ追うと。ホント物騒ですよね。謎の極端なスラム化とかひっくりかえしちゃったり。もちろん極端な富のアンバランス]
★"ムハンマド・レザー・シャー(在位1941~79)は、いわゆる「白色革命」によって上からの急激な近代化政策を強行し、土地改革、婦人参政権、識字教育などの実地を推進したが、地主層や宗教指導層が反発。73年の石油危機を契機に打出した経済成長政策も失敗して、かえってインフレ、農業の停滞、都市のスラム化の増進、極端な富のアンバランスなどのひずみをもたらした"
これは、"(歴史上の、遊牧国家の遠征の)補給は羊と家族ぐるみ付いてゆくため(、定住型の農業国家からすれば、)どの戦闘にも攻勢の終末点というものがないという始末のわるいものである"、たとえば、ある都市に、命無料、取り換え自由、家族は食糧兼人質、な100人単位で組織的に入ってくれば、その都市を混乱させることは十分に可能ですよね、"三千円のものを輸送料かけて七百円で出してドドーッと積んで、制覇しようとしたわけです。集中豪雨"、的に。[※持ち帰った50冊、大概司馬さんの本ですが、あちらこちらからの引用です。で、こんな感じで、"最初"は、お金をばらまいて、仲間と言う名の奴隷をふやして]
で、俺はムハンマド・レザー・シャーさんとホメイニさんは同志だとおもいます。"サバク(SAVAK)イランの治安機構。1957年、ムハンマド・レザー・シャーの命令で設立されたイランの秘密警察。イラン国内における国王の政策に対する批判や反対に過度の取り締まりをした。この機構はヨーロッパにおけるイラン人留学生をも監視し、イランでは多数の政治犯を逮捕、投獄したため、イラン革命で解体され責任者は革命法廷で処刑された"、の、"責任者は革命法廷で処刑された"は、"私は学徒出陣の一兵士として、陸軍士官学校出の正規将校がいかに頭がよく、責任感がつよく、犠牲的観念が旺盛だったかということを知っている"、の、"責任感""犠牲的観念"につながる部分があるような気がします。また、「イラン革命」の項目をみると、"その後イスラム聖職者の独裁に反対するグループは次々と粛清、排除され、ホメイニ師を中心とするイスラム国家体制が固められた"、結局、"サバク(SAVAK)"と同じことをしてる(もしかしたらそれ以上)、"勝てば官軍(Might
is right/力は正義)"な感じですが、どうも、そう考えるべきではないような気がかなりします、が、ここは先にいきます。
◆ホメイニ(al-Khomeiní,Ruh-allah
al-Mùsawí;Ayatollah Ruhollah
Khomeini)1902年9月24日、ホメインで生まれる、1989年6月3日、テヘランで亡くなる。[※平成元年。6月3日は兄の誕生日]
イランの宗教・政治活動指導者。イランの小村ホメインで祖父、父ともにイスラム教シーア派の聖職者の家系に生まれる。幼少のとき父母を失い、叔母に育てられ、聖都コムでイスラム神学教育を受ける。26年からコムの神学校で教え、哲学、法学、倫理などに関する多くの書を著わす。63年国王ムハンマド・レザー・シャー(パーレビ)の近代化政策に反対、投獄されたのち、64年国外追放となり、トルコへ移る。65年イラクに移り、シーア派の聖地ナジャフで「ヴェラーヤテ・ファギ-フ」(イスラム法学者による統治)論を説き、反王制運動を呼びかける。78年イラクから追放され、パリ郊外に居を定めて反王制運動をさらに活発化。79年2月1日、国王退去後のイランに帰国し、イスラム革命を指導。79年12月に成立したイスラム共和国憲法により、国家の最高指導者の地位についたが、これは「ヴェラーヤテ・ファギ―フ」論を実現したもの。その後、国内の反対勢力を一掃して聖俗両面で頂点に立つ。80年9月に始まった対イラク戦を国家間の戦争ではなく、イスラムの信者と不信心なやからとの戦いと規定し、フセイン政権打倒まで徹底的に戦う決意を示す。しかし88年7月20日、「毒を飲むような決断」との特別声明を発表して国連安保理停戦
決議を受諾。89年2月14日、インド出身のイギリス人作家S.ラシュディ(ゴミ)が書いた小説『悪魔の詩』がイスラムを冒とくするものとして、ラシュディの処刑を全イスラム教徒に呼びかける。徹底したイスラムへの回帰の主張とカリスマ性により、世界中のイスラム復古主義運動に大きな影響を与えた。
天田浩(てんだんひろ)。08067004000。2016/08/19
13:17
死刑。池袋グラントパレス1317。
◆パフラビー朝(Paflavíyah)イランの王朝(1925~79)。1919年、英仏協定によってイランを保護領にしようとしたイギリスに対して、イランの民族運動が高揚、ソビエト赤軍の援助を受けた革命政権が北部諸州に樹立された。この事態に脅かされたイランの保守勢力とイギリスは当時カズビーンのペルシア・コサック旅団長であったレザー・ハーンを動かした。彼はテヘランに進軍、21年2月21日クーデターによって実権を掌握した。彼は23年首相となり、25年11月にはカージャール朝を廃止、同年12月16日みずからレザー・シャー・パフラビーの称号をもってパフラビー朝初代皇帝に即位した(在位1925~41)。彼はまず軍隊を統一して軍部独裁制を確立、27年対外不平等条約の廃棄を宣言し、35年国号を従来のペルシアからイランに代え、37年には隣接4ヵ国と相互不可侵条約を締結。イランの対外的地位の確立に努める一方、経済、社会、教育の各方面にわたる内政改革を強力に推進して近代国家としての自立を目指した。第2次世界大戦に際して中立政策をとったが、ドイツへの接近が著しく、41年英ソ両軍の侵入を招いて退位を強いられ、皇太子ムハンマド・レザー・パフラビー(シャー)が跡を継いだ。53年の石油国有化運動の高揚は、英米の利権や国王の地位さえ危うくしたが、53年8月の国王軍によるムハンマド・モサッデグ内閣打倒クーデターの成功によってこの危機を回避、以後、王権は強化され、60年代には六点改革あるいは白色革命と称する内政改革および数回の年次計画を遂行して、地主貴族階級の勢力削減と産業振興をはかった。一方、中東石油産出諸国のリーダーとして重きをなし、またソ連との関係も好転させつつ、中国の承認に踏み切るという積極的かつ柔軟性に富んだ外交政策を推進した。しかし近代化・工業化政策の急激な推進は国内経済の危機を招き、人心の動揺をもたらし、78年からは反体制デモが繰返され、ストライキが多発する事態となった。国王は経済テクノクラートのアムゼガル、宗教界に影響力をもつシャリーフ・エマーミー、統合参謀総長のアズハリ―、旧国民戦線系のバフティヤルに次々と組閣を命じ、事態の収拾をはかったが失敗。79年2月11日、反体制勢力のテヘラン市制圧によってパフラビー朝は崩壊した。
[※地主貴族階級、もちろんそのままとるべきではないと思います。この事態に脅かされた、脅迫]
★"この事態に脅かされたイランの保守勢力とイギリスは当時カズビーンのペルシア・コサック旅団長であったレザー・ハーンを動かした。彼はテヘランに進軍、21年2月21日クーデターによって実権を掌握した。彼は23年首相となり、25年11月にはカージャール朝を廃止、同年12月16日みずからレザー・シャー・パフラビーの称号をもってパフラビー朝初代皇帝に即位した"、とりあえず、パフラビー朝、のことである、ということを一旦わすれてください、イランもイギリスもペルシア・コサックもテヘランもわすれてください。[※ただ、チンギス・ハーンさんのことのような(笑)。2015/01/08
11:58]"11月にはカージャール朝を廃止、同年12月16日みずからレザー・シャー・パフラビーの称号をもってパフラビー朝初代皇帝に即位した"、これは89年以降の日本の真実の歴史を反映していると(が、これは、これに対応している、とはっきりと指摘はできません)、が、"地主貴族階級の勢力削減"、たとえば、俺が東京にいた最後のころに起こった、まだ未解決の、板橋(散歩コースの途中でした)の資産家(大地主)ご夫婦殺人事件、このような資産家の方の未解決殺人事件、失踪は実は多いのではないでしょうか?(よくわかりませんが)。
でですね。