ここに書くことないので、長ブッチーその不安は大当たりだ。


ムハンマド・レザー・シャー(Mohammad Rezà Shàh Pahlaví Àryà Mehr)(実際はhの下部に点、そして上部の線は斜めではなく水平、パソコンにこの表記なし)19191026日生まれ1980727日、カイロで亡くなる・イラン、パフラビー朝第二代の王(在位194179)パーレビ国王として知られる。「アーリヤ―・メヘル」は称号。レザーシャーの長子で、1925年皇太子となる。スイスで教育を受けイランの陸軍大学で学んだ41年連合軍イラン進駐とともにレザーシャーが退位し、代って即位50年~53年の石油国有化運動民族運動を代表したモサッデグと対立538国王はモサッデグ首相解任を命じたが、逆に国外への避難を余儀なくされた。まもなくモサッデグ首相国王派に打倒され、国王は権力を回復した。60年代に入って上からの改革である【⇒白色革命に着手73年末からの石油収入増大をとらえて急速なイランの工業化を目標とした。しかし79116イラン全土に波及した反体制デモの渦中に出国。エジプト、モロッコ、アメリカ、メキシコ、パナマを転々としたのち再びエジプトに亡命し、カイロ郊外の病院で死去。著書に"Mission for My Country"(61)がある。

白色革命(はくしょくかくめい)(Inqilàb-i Sefíd)国王と国民の革命Inqilàb-i Sefíd o Millatともいう。1963年国民投票によって承認されたイランの国王側からの改革1950年代イランは政治的に不安定であったが、ムハンマド・レザー・ャー60年代初め国王中心型の権力確立を目指して、6163議会を解散させみずからの大権で改革を準備した。631次の6項目から成る「白色革命」を国民投票にかけた。すなわち(1)農地改革(2)森林牧草地の国有化(3)国有工場の払い下げ(4)工場労働者に対する企業の利益配分(5)婦人参政権(6)⇒セパーエ・ダーシニの創設であり、特に(1)に重点がおかれた65までに(7)保健部隊(8)開発部隊(9)村落裁判所の設置加えられて、農地改革以後の農村の改造を目指した、6710にさらに、(10)水資源国有化(11)都市と地方の再開発(12)行政・教育改革が追加された。これら「十二大改革」は低開発水準から急速な社会経済文化の改革を目指した措置で、60年代後半からの経済の高度成長に支えられて実地された。他方、この改革は大きな社会、経済のひずみをもたらし、その是正のため758(13)私企業株式の一般公開(14)インフレ抑止、が勅令として発布された。127(15)教育の無料化を、同月23(16)幼児への無料給食(17)保健制度の拡充を追加したが、イラン革命でこれらは解消した[※7587.1312771.10.21]

セパーエ・ダーシニ(Sepàh-i Dànish)イランの白色革命の一つで、従来放置されてきた農村において、識字率を高めるため編成された。青年軍隊に入る代わり農村へ派遣されて読み書きを教えるかたわら看護法農村生活向上の指導を行うもの。「教育兵団とも訳される。それまでイラン国民の識字率20%であったが、1963年~73の間に220万人の農村の児童と農民がこの教育を受けたイランにおける識字率はこのため急激に高まり農村に多数の学校が急増されたが、イラン革命で中止された。

サバク(SAVAK)イランの治安機構1957ムハンマド・レザー・シャーの命令設立されたイランの秘密警察。イラン国内における国王の政策に対する批判や反対過度の取り締まりをした。この機構ヨーロッパにおけるイラン人留学生をも監視し、イランでは多数の政治犯を逮捕投獄したためイラン革命で解体され責任者は革命法廷で処刑された[※195710.12。で、日本語サバクと書くと、砂漠裁く、もありますが、◆佐幕(「は助ける意幕末、尊王攘夷・討幕に反対して幕府の政策を是認し、これを助けたこと。「―派」the supporters of the Shogunthe Shogunate party.印象としては反動派ですが、だからまさに新撰組。で、ここでは★が当時のまとめです]

"イランの白色革命の一つで、従来放置されてきた農村において、識字率を高めるために編成された。青年が軍隊に入る代わりに農村へ派遣されて読み書きを教えるかたわら看護法や農村生活向上の指導を行うもの"これ逆になりますけど"軍隊""軍隊"と捉えず、わかりやすくいえば"いひひ"要員ポールさんの"田舎から逃げ出したい軍隊に入る人間が多いそれ以外方法がない学校に行ってなかった勉強する必要がなかったそういう人間を育てるには凄くいい土壌"結びつけたいですね。[※これは俺のNOISEを聴いて下さい。まだ残ってますけど、24時間そう言う環境でしたと。で、それに関してはすでに俺なりの答えを書いています。で、パーレビ―さんが出した答え白色革命だろうと]



若い頃あなたはどんなことを目標にしていたのですか。
「まずあったのは、田舎から逃げ出したいってことだった。今だって皆そうだろう。だから軍隊に入る人間が多いのさ、それ以外方法がないじゃないか。軍隊か音楽か、どっちかだよ。僕らの場合徴兵制はもうなくなっていたから―殆ど信じられないけど。モーゼが杖を振って海が割れたみたいなもんだ。ビートルズもばらばらになるところだった。エヴァリー・ブラザーズやエルヴィス、皆兵隊に取られたみたいに。ところがどうしたわけか、天がぱっと開けて、神が言ったのさ。『もう徴兵は終わりだ。この子たちには休みが必要だ』って。実は僕にとっては、徴兵制廃止は殆ど―殆どというところを強調しておきたい。完全にそうじゃないんだから―失望に近かった。何故なら僕たちの年上の兄たち―僕の兄じゃない、友だちの兄さん、ジョージの兄さんたち―皆軍隊に入ってて、戻ってきた時には日焼けしてすっかり大人になってたんだ。本物の男って感じ。全然子供じゃなかった。心の奥では、そういうの悪くないなって思ってた。「僕は男になって帰って来るんだ―真っ黒になって!」とか考えて。でもさっきも言った通り、僕らは軍隊に入る必要がなかった。それでとにかく田舎から抜け出して有名になろうとしたわけ―ごく普通の目標さ。ショー・ビジネスの世界に入ってきた人は皆そんなものだろう」
[※これは前述のポール・マッカートニーさんのインタビューです。]

初期のビートルズは、これといって芸術的な感じがしませんでしたね。
商業的にある程度の土台が出来ると、僕らはより芸術的な面を増していくようになった。ジョンはアート・スクール出身だろ。僕は一応グラマー・スクールに行ってた。ジョージもグラマースクール。リンゴ学校に行ってなかった。勉強する必要がなかった彼は人生の中で勉強していた―彼に言われば人生と言う学校でね。だから僕らは、ある意味で他のグループより1枚上を行ってたんだ。アート・スクール―そういう人間を育てるには凄くいい土壌だよ。建築のこともちょっと知ってる、絵のこともちょっと知ってる、そういうちょっとしたことが見る目を養うんだ。例えば、ある人たちなら絶対観に行かないような劇を観に行くようになるかもしれない。

[※ところで彼は人生の中で勉強していた、これだ。43にしてだけど()。で、白色革命の、特に"教育の無料化""幼児への無料給食""保健制度の拡充"重要ですね。そして勘違いしてはいけないのは、この“命タダの当たり屋撲滅任務主力部隊は、そう部隊イラン国軍教育兵団」。

イラン革命(Islamic Revolution Iran)197879イランのパフラビー朝を倒してイスラム共和制を樹立した革命ムハンマド・レザー・シャー(在位194179)は、いわゆる「白色革命によって上からの急激な近代化政策を強行し、土地改革婦人参政権識字教育などの実地を推進したが、地主層宗教指導層が反発73石油危機を契機に打出した経済成長政策失敗して、かえってインフレ農業の停滞都市のスラム化の増進極端な富のアンバランスなどのひずみをもたらした781月以降反国王デモテロ事件が全国的に続発。これに対して国王は同年11月軍人内閣を発足させ弾圧を強化したが、反政府運動は熾烈となりパリ亡命中のホメイニ師指導のもと王制打倒を叫ぶにいたった。791国王は国外に脱出王制最後のS.バクチアル内閣も瓦解した。21ホメイニ師が帰国し、211革命政府が全権力を掌握国民投票の結果、41イスラム共和制初代最高指導者ホメイニ師のもとに宣言された。初代大統領はA.バニサドル。王制打倒に結集した勢力イスラム勢力のほか、マルクス=レーニン主義の影響を受けたものから、民族主義者新左翼グループ自由主義者バザール商人などさまざまで、そのすべてがイスラムに基づく国家理念に同調していたわけではなかった革命後、国家体制のあり方をめぐって激しい抗争繰広げられたが、805国会選挙ではイスラム聖職者を中心とするイスラム共和党が圧勝し、その結果採択されたイスラム共和国憲法ではホメイニ師に三権分立をこえる国家最高指導者の地位を与えイスラム指導者たちによる超議会的な憲法監視評議会設置を定めた。その後イスラム聖職者の独裁に反対するグループは次々と粛清排除され、ホメイニ師を中心とするイスラム国家体制が固められたが、それは周辺のアラブ諸国ばかりでなく、全世界のイスラム復古運動に大きな影響を与えることになった。[※字ズラだけ追うと。ホント物騒ですよね。謎の極端なスラム化とかひっくりかえしちゃったり。もちろん極端な富のアンバランス]

"ムハンマドレザーシャー(在位194179)は、いわゆる「白色革命」によって上からの急激な近代化政策を強行し、土地改革、婦人参政権、識字教育などの実地を推進したが、地主層や宗教指導層が反発。73年の石油危機を契機に打出した経済成長政策も失敗して、かえってインフレ農業の停滞都市のスラム化の増進極端な富のアンバランスなどのひずみをもたらした"
これは、"(歴史上の、遊牧国家の遠征)補給は家族ぐるみ付いてゆくため(、定住型の農業国家からすれば)どの戦闘にも攻勢の終末点というものがないという始末のわるいものである"たとえばある都市に命無料取り換え自由家族は食糧兼人質100人単位で組織的に入ってくれば、その都市を混乱させることは十分に可能ですよね、"三千円のもの輸送料かけ七百円で出しドドーッと積んで制覇しようとしたわけです。集中豪雨"、的に。[※持ち帰った50大概司馬さんの本ですが、あちらこちらからの引用です。で、こんな感じで、"最初"は、お金をばらまいて仲間と言う名の奴隷をふやし]

で、俺はムハンマド・レザー・シャーさんとホメイニさんは同志だとおもいます。"サバク(SAVAK)イランの治安機構1957、ムハンマド・レザー・シャーの命令で設立されたイランの秘密警察。イラン国内における国王の政策に対する批判や反対に過度の取り締まりをした。この機構はヨーロッパにおけるイラン人留学生をも監視し、イランでは多数の政治犯を逮捕投獄したため、イラン革命で解体され責任者は革命法廷で処刑された"、の、"責任者は革命法廷で処刑された"は、"学徒出陣の一兵士として陸軍士官学校出の正規将校いかに頭がよく責任感がつよく犠牲的観念が旺盛だったかということを知っている"、の、"責任感""犠牲的観念"につながる部分があるような気がします。また、「イラン革命の項目をみると、"その後イスラム聖職者の独裁に反対するグループは次々と粛清排除され、ホメイニ師を中心とするイスラム国家体制が固められた"結局"サバク(SAVAK)"と同じことをしてる(もしかしたらそれ以上)"勝てば官軍(Might is right/力は正義)"な感じですが、どうも、そう考えるべきではないような気がかなりします、が、ここは先にいきます。

ホメイニ(al-KhomeiníRuh-allah al-Mùsawí;Ayatollah Ruhollah Khomeini)1902924ホメインで生まれる198963テヘランで亡くなる[※平成元年63日は兄の誕生日]
イランの宗教・政治活動指導者。イランの小村ホメインで祖父父ともにイスラム教シーア派の聖職者の家系に生まれる幼少のとき父母を失い叔母に育てられ聖都コムでイスラム神学教育を受ける26年からコムの神学校で教え哲学法学倫理などに関する多くの書を著わす63国王ムハンマド・レザー・シャー(パーレビ)近代化政策反対投獄されたのち、64国外追放となり、トルコへ移る65イラクに移りシーア派の聖地ナジャフで「ヴェラーヤテ・ファギ-フ」(イスラム法学者による統治)論を説き反王制運動を呼びかける。78イラクから追放され、パリ郊外に居を定め反王制運動をさらに活発化7921、国王退去後のイランに帰国し、イスラム革命を指導7912月に成立したイスラム共和国憲法により、国家の最高指導者の地位についたが、これは「ヴェラーヤテ・ファギ―フ論を実現したもの。その後、国内の反対勢力を一掃して聖俗両面で頂点に立つ。809月に始まった対イラク戦国家間の戦争ではなく、イスラムの信者と不信心なやからとの戦いと規定し、フセイン政権打倒まで徹底的に戦う決意を示す。しかし88720、「毒を飲むような決断」との特別声明を発表して国連安保理停戦
決議を受諾89214インド出身のイギリス人作家S.ラシュディ(ゴミ)が書いた小説『悪魔の詩』がイスラムを冒とくするものとして、ラシュディの処刑を全イスラム教徒に呼びかける。徹底したイスラムへの回帰の主張カリスマ性により、世界中のイスラム復古主義運動に大きな影響を与えた

天田浩(てんだんひろ)08067004000。2016/08/19 13:17 死刑。池袋グラントパレス1317。

パフラビー朝(Paflavíyah)イランの王朝(192579)1919年、英仏協定によってイランを保護領にしようとしイギリスに対して、イランの民族運動高揚ソビエト赤軍の援助を受け革命政権北部諸州に樹立された。この事態にかされたイランの保守勢力とイギリスは当時カズビーンのペルシア・コサック旅団長であったレザー・ハーンを動かした。彼はテヘランに進軍21221クーデターによって実権掌握した。彼は23年首相となり、2511月にはカージャール朝を廃止、同年1216みずからレザー・シャー・パフラビーの称号をもってパフラビー朝初代皇帝に即位した(在位192541)。彼はまず軍隊を統一して軍部独裁制を確立27対外不平等条約廃棄を宣言し、35国号を従来のペルシアからイランに代え37年には隣接4ヵ国と相互不可侵条約を締結。イランの対外的地位の確立に努める一方、経済、社会、教育の各方面にわたる内政改革を強力に推進して近代国家としての自立を目指した。2次世界大戦に際して中立政策をとったが、ドイツへの接近が著しく41英ソ両軍侵入を招いて退位を強いられ、皇太子ムハンマド・レザー・パフラビー(シャー)が跡を継いだ53年の石油国有化運動の高揚は、英米の利権や国王の地位さえ危うくしたが、538月の国王軍によるムハンマド・モサッデグ内閣打倒クーデターの成功によってこの危機を回避、以後、王権は強化され、60年代には六点改革あるいは白色革命と称する内政改革および数回の年次計画を遂行して、地主貴族階級勢力削減産業振興をはかった。一方、中東石油産出諸国のリーダーとして重きをなし、またソ連との関係も好転させつつ、中国の承認に踏み切るという積極的かつ柔軟性に富んだ外交政策を推進した。しかし近代化・工業化政策の急激な推進は国内経済の危機を招き、人心の動揺をもたらし78年からは反体制デモが繰返されストライキが多発する事態となった。国王は経済テクノクラートのアムゼガル、宗教界に影響力をもつシャリーフ・エマーミー、統合参謀総長のアズハリ―、旧国民戦線系のバフティヤルに次々と組閣を命じ事態の収拾をはかったが失敗。79211日、反体制勢力のテヘラン市制圧によってパフラビー朝は崩壊した。

[※地主貴族階級、もちろんそのままとるべきではないと思います。この事態に脅かされた、脅迫]


"この事態に脅かされたイランの保守勢力とイギリスは当時カズビーンのペルシア・コサック旅団長であったレザー・ハーンを動かした。彼はテヘランに進軍21221日クーデターによって実権を掌握した。彼は23首相となり、2511月にはカージャール朝を廃止、同年1216日みずからレザー・シャー・パフラビーの称号をもってパフラビー朝初代皇帝に即位した"とりあえずパフラビー朝、のことである、ということを一旦わすれてくださいイランイギリスペルシア・コサックテヘランわすれてください[※ただチンギス・ハーンさんのことのような()2015/01/08 11:58]"11月にはカージャール朝を廃止同年1216日みずからレザー・シャー・パフラビーの称号をもってパフラビー朝初代皇帝に即位した"これ89年以降の日本の真実の歴史を反映していると(が、これは、これに対応している、とはっきりと指摘はできません)、が、"地主貴族階級の勢力削減"、たとえば、俺が東京にいた最後のころに起こった、まだ未解決の、板橋(散歩コースの途中でした)資産家(大地主)ご夫婦殺人事件、このような資産家の方の未解決殺人事件失踪実は多いのではないでしょうか?(よくわかりませんが)

でですね。


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