“ブルッ”ときました?(笑)←これを消そうかどうか。あ、イミナさんのことではなく。すいません。で、「見送りゃボールなションベンカーブ」「ゆるいど真ん中くるとわかってその打率」。性格悪いよ。まったくもって親近感(笑)。ホントの勝負はいなくなってからで問題なし。イチローさんがノー編集なのはだれでもわかるでしょ?
2014/03/09
18:00
"毛沢東の中国ができあがるのは、日本の敗戦から四年後の一九四九年である。その直後に、毛沢東の中国はソ連との友好同盟条約を結んだ、しかし両国の関係はほどなく軋(きし)んだ。やがて断絶同然になり、一九五六年前後、毛沢東は、ソ連式の社会主義建設と縁を切って、②中国独自の路線をうち出した。独自の路線とはいえ、⑤それに見合う具体案などはなかった。とりあえず既存の村落をそのまま「人民公社」にすることと、生産を励まして③「大躍進」させることが、毛沢東路線というものになった。いずれも蹉跌(さてつ)してしまう。ともかく①毛沢東は、その④前に、新路線がどうあるべきか⑥のヒントを得るために、「⑦百家争鳴」という大運動を⑨おこさせた。⑧政府主導で展開された。百花斉放(せいほう)・百家争鳴という対句(ついく)が連呼されるなかで、運動はツェベクマさんらの住む辺疆のフフホトにまでおよんだ。
[※日本では漢文を読むとき読み下し文という伝統が]
あくまでも、党という頂上からの運動で、最高責任者は毛沢東の意をうけた党幹部の宣伝部長陸定一(ていいつ)だった。要するに共産党のために知恵を出せ、ということであった。これより前、中国共産党はさまざまな思想をブルジョワ思想として痛烈に批判した。このため中国の学術、芸術、文芸界は、萎靡(いび)しきってしまい、たれもが党に面従するだけで日をすごしていた。党は、その空気を打破しようとした。"
◆百花斉放(せいほう)・百家争鳴:1956~57年初頭、中国共産党が提唱した学問、思想、文化、芸術などの<各分野における自由な発言を奨励した運動。
56年5月2日毛沢東が最高国務会議で、共産党と民主諸党派との「長期共存、相互監督」を提唱。
(1)学術の発展のための自由な討論、創作、批評、意見の発表の自由の保障
(2)文化、芸術と政治を同一視する偏向の排除
(3)思想問題を行政命令式に解決することの回避などを主張した。
9月の八全大会においても劉少奇副主席が政治報告のなかで、科学と芸術の発展のためには、「百花斉放・百家争鳴」の方針によって自由に論議し合い、自由に競い合うことが必要であり、行政上の命令によって指導を行うべきではないと述べた。毛沢東も(略)「大胆に発言し、批判し、論争し、まちがった議論を恐れず、毒素を含んだものを恐れず、相互の論争と批判を活発にすること」を強調。
[※あ、トンデモ批判だ(笑)。書いてますよね、好きです「ト学会」。エンターテイメントとして。それにあれ、絶対、意図的な、トンデモ批判に見せかけたトンデモありますよね?「科学的、のマスクをかぶれば、ほらこのとおり」って(笑)]
"「なんでも言え。めいめいが考えを出せ」というのがこの運動だったが、党としては積極的な社会主義建設に役立たせるための意見百出運動のつもりであって、党支配の一線を逸脱することをゆるすつもりはなかった。が、初動期、党は限定を設けなかったために、ひとびとはこれを「自由化」と錯覚し、各地や各分野で争鳴した。ほとんどが党を批判し、おだやかな場合でも、苦情や陳情をくりかえした。あわてた党は、火を消さねばならなかった。ほどなく百家争鳴運動をひっこめ、かわって「反右派闘争」というあたらしいスローガンを出し、さき争鳴した百家どもを弾圧した。見様によっては、言わせておいて「右派」をあぶり出し、こんどはその連中を「大衆」に摘発させ、排除させたということになる。"[※非無かった][※反禹派闘争]
これ、ふと、思い出しましたが、そういえばわりと最近、イギリスでも暴動っぽいのありませんでしたか?、で、それを思い出した理由ですが、ざっくり、ですけど、この後半の"党"の部分は"アジアの社会がはるかな過去から背負いこんでいる泥"、で、毛沢東さんも"右派(この文章の)"にふくまれると考えたほうがいいと思います、で、今、ポールマッカートニーさんの"フリーダム"を聴いてて思い出しましたが、そういえば、ジョージハリスンさんもさかんに、「歴史の裏に何かいる」とおっしゃられていませんでしたか?「彼はトンデモだ」みたいな話になることも多かったようですけど(英国の事情はわかりません)。あ、タックスマン、も何となく違う意味があるような、で、戻します[。
※時間ごっちゃです。あと自然にイギリスと英国の使いわけ]
"「百家争鳴」のとき、フフホトの内蒙古大学の教授だったブルンサインは、ひときわ争鳴した。かれはいまの中国の政治は文化をかく劃一化(かくいつか)しようとするものだ、とはげしく述べた。「モンゴル民族には、民族固有の文化がある。言語、服装、文学その他、漢民族とはちがうのです。文化を大切にせねば、民族がほろんでしまいます」翌年、かれは「右派」として槍玉(やりだま)にあげられた。ついでながら、ブルンサインは党員ではなかった。ツェベクマさんもそうで、二人とも党員になろうとも思わなかった。このことも、かれを不利にした。すでに故人になっているブルンサインの父が、以前、内蒙古で郡長程度の役についていたことも、わるい材料だった。またかれが、モンゴル文学を学生に教えることに熱心だったことも失点にあげられた。さらにはまた「外蒙古」といわれるモンゴル人民共和国から二人の学者をよんで講義させたことも、「罪状」の一つにされた。"
で、話を戻し、あくまで、俺の考えですが、"ブルンサインは、ひときわ争鳴した"、これは毛沢東さんに対してだと思います。あるいは、"たれもが党に面従するだけで日をすごしていた。党は、その空気を打破しようとした"、の"打破しようとした""党"に対して、でもいいです、"毛沢東の意をうけた党幹部の宣伝部長陸定一(ていいつ)だった"、ここにもかかると思います。
[※打破しようとした、毛沢東さん、共産党への共鳴ですね、共振]
で、"あくまでも、党という頂上からの運動"、これはこれで秘密結社な感じもしてしまいますが、で、ぽんとそれだけおくのもなんですが、「94国民はつらいよ」、"つきつめれば、改革すべきは選挙民だとおもいます(前後の文脈を無視)"、そして"アジアの後進地帯""現実主義"、は、忘れてはいけないと思います、ただ、日本の現状を考えると、日本が"アジアの先進地帯"であった、とは残念ながら俺には言えません。で、"面従するだけで日をすごしていた"の面従対象はもちろん"アジアの社会がはるかな過去から背負いこんでいる泥"。そして、毛沢東さん、江青さん、二人ともこの"泥"の党員ではなかった。二人とも党員になろうとも思わなかった。このことも、かれ(ら)を不利にした。ということだとおもいます、あくまで打破しようとした。ただ、どこでしたか司馬さんがお書きになられていた"悪魔は顕在化して語られるべきであった"と思います。
[※だから、当時は何か現実的な、とは言えないか(笑)、人類を支配しようとし続けてきた悪魔としか呼べない連中がいて、汎国家な秘密結社というか、中国の秘密結社かと思ってたかな?毛沢東さんらはそれを、あくまでも打破しようとした。その報復がいわゆる文化大革命じゃなかったのか?という考えです]
[※泥。Doro。王。皆さん十の党員ではありました。その顕在化もすべきでしょうね]。
"決定的にわるかったのは、(ブルンサインさんが)日本で教育をうけて、日本語が達者だったということである。集会で吊(つる)しあげられ、壁新聞で攻撃され、毎日が碾臼(ひきうす)でひかれるようにさいなまれた。ツェベクマさんという人が、こういう状態に耐えられるはずがなかった。彼女は、何事にも意見をもっていたし、しかも即座に、ナイフをきらめかすように切りかえすことができた。そういう彼女でも耐えた。なにかいえば、殺されるかもしれないという恐怖があった。ある夜、「日本語を覚えたことで、どうしてこんなひどい目に遭うのか」と、独りで叫び、身の不運をのろったこともあったらしい。ついには、身辺に危機を感ずるようになった。彼女はここで打ちひしがれればよかった。しかし彼女の性格のしくみは、絶望という休眠の機能をもっていないようで、川の岩を跳びながら渉(わた)るように、つぎの岩にむかって身をひるがえすひとであった。私的にいえば、騎馬民族の末裔(まつえい)としか言いようがない。この間のことは、ツェベクマさんの話が錯綜(さくそう)していて、私にはうまく整理できない。"
[※これも文化大革命時代のツェベクマさんご夫妻のことであり、そして毛沢東さん江青さんご夫妻、四人組のみなさんもかも、の何事かを表している気がします(騎馬民族の末裔、アッティラ・U・ゲルマニア、俺もでしたかね・笑)。しかし現状、話が錯綜(さくそう)していて、《※顕在化はできても》私にはうまく整理できない。でですね、とりあえず今から考えて過去、少し前に俺が書いた文章をここに掲載、ま、もうしてるんですけど(笑)、だから、今となってはもう違う考え、明らかに間違いだと確信してることは消したり文章変更しています。これはそりゃそうです酷い誹謗中傷ですから。申し訳ありません。でですね、そのお名前を消したせいで、結局、すべてがヌエのようになってしまっているかもしれませんが、現在、行きつくところは幻魔大戦としか思えないので、だからヌエであってるんじゃないのか?この世界的には、とも思います(笑)。だから(笑)じゃないんですけど。すいません。でですね、その過去文章も時系列ではなく、何かと錯綜しますし、重複も多いです。が、そこは強調したい、重要だ、ということで、なるべくそのままで。重要さの中には、俺のかん違いぶりも含まれ、だから、俺の露骨な間違いや、勘違い、とまでは言えなくても、考えの右往左往ぶりも…ま、時系列ではないんですけど(笑)、こう読んでおいて欲しいなと。重複になりますが、「これを読んでいないと、今後この世界の話についてこれません」から。そうなると思います。もうなってるのかな?本当は。あ、今布袋さんが「王言え!」「オウイエ―」と(笑)あ、書いたら「カモーン」だ(笑)《※この注は第一稿、今日は15年1月14日、ヌエのように、はそうでもないかも。で「あなたが王だ」というわりには天使の皆さんの俺に対する扱いが酷いような…。「こういうの食らわします」と、サンプルか何か知らんが、瞬間的なものですが、「殺す気か」という突然の痛みや「わかりやすく表現、地獄とはこういうトコ」というどえらい悪夢(ありふれた日常の中に己を食おうとするバケモノが出てくる)に、何でか俺も襲われる。そういう平等性は求めていないんですけど(笑)。ちなみに二日ほど前、サンプルとして、皆さん見てませんかね、そんな夢。あれですヒトラーさんが政権とる前ドイツの人みんな同じ夢見たとか言う。ベルセルクでグリフィスさん(?・笑)が転生する前みんな同じ夢見たみたいな。で、印象としては巨大な犬。ただし俺の場合は巨大なクモ。に喰われるそれが終わりなき日常として続くのが地獄。であれですよ、食われず、じゃれてきた感じでしたけど、どうもやっぱりズルはいかんらしく、お前もちゃんと味わっとけと恐怖くらいましたよ。で因果応報。あくまでサンプル。あんまり気にしなくていいと。そりゃ怖い映画を見た後とか、怖い夢見ることあるでしょう。ただ、ハメはずし過ぎるとそう言う場所送りになりますよと。何ならもう三日連続くらいでそう言う夢見てる人らいますよね?と》。
地獄、ジ監獄。
あとですね、引用してる文章元の画像で掲載していますが、細かく引用してるのは、テンポも大事にしたいので、基本、そのまま流すカタチで。もちろん◆絶版(ぜっぱん)・書物の原版を廃して以後重版をしないこと”“そもそもない”も考えられますけど、基本的にもの凄く多く世の中に出回っている本たちだと思いますし。ただ、だから改版、わざと字を大きくしたりして、ページ数を変更、俺以外には分からないようにしてる、は、あるかもしれません。内容少しだけ変更したり。ガンダムも水曜どうでしょうも。水曜どうでしょうのDVDは、友達に貰ったテレビ録画ですけど、少なくとも秒単位で意味ありそうですし。と、それに“最高責任者は毛沢東の意をうけた党幹部の宣伝部長陸定一(ていいつ)だった。”陸はりく、六、6に通じ、帝位を表す鹿に通じます。そして司馬遼太郎さんの本名は福田定一(ていいち)。ふくだ、ふだ、札、符、く、九、9、ロックはどうでしょう?と。
[※そうそう司馬さんは音痴で音楽なんか聴きもしない、ということになっていますが、少なくともロックミュージック。ビートルズはファンだと思います]
でですね◆江青、38年延安のマルクス・レーニン学院に入学。「おい、なんか夏学だ、幻魔大戦だ、不老不死だ、と言ってて、マルクス・レーニン学院に入学か?」はですね、矛盾をこれまた恐れずに、だから、人の世を亡ぼすのはボタン一つ押すだけで済むけれど、ま、ないんですけどね、それぞれ別の人格があり、夢があり、自由がある、この人の世を幸福にするためには、やっぱりそう簡単にはいかんのだろう。現実主義、で。つまり、毛沢東さんと、当然江青さんも含まれる、仲間がつくりあげつつあった現実主義的な政権を不満とし、これを倒すべく千万といわれる少年少女を使嗾(しそう)した。"
[※ま、いないんですけどね][※そうはいかん][※ウソはいかん]
[※そうはいかん][※ウソはいかん(笑)][※製造、そうはいかん、も]
◆ぬえ【・鵺】頭は猿,胴はたぬき,手足は虎,尾は蛇に似るという伝説上の動物。(パーソナル現代国語辞典より)◆ぬえ【鵺】a
chimera(怪獣).~的な
mysterious(不可解な).(パーソナル和英辞典より)
[※今流れるは“霊長類とは一致しない”]
◆【鵺】19画[鳥]部[音];ヤ[意]ぬえ
(パーソナル版漢字辞典より)。
でもですね、信念なく確信を持って言いますけど、鳥は俺を守ってくれてるんです。ヌエじゃないけど、カラスも「夏~夏~」と、いつも(笑)。で、ですね・2014/12/17
12:24←ほら、今日もぴったり←ここで12:25へ]
2014/03/03
17:00
で、もどります、「草原の記」単行本1992(平成4)年刊、文庫1995(平成7)年刊、からの抜出です、201ページ、"毛沢東の中国ができあがるのは、日本の敗戦から四年後の一九四九年である。その直後に、<毛沢東の中国>は<ソ連との友好同盟条約を結んだ>、しかし<両国の関係はほどなく軋(きし)んだ>。やがて断絶同然になり、一九五六年前後、毛沢東は、ソ連式の社会主義建設と縁を切って、中国独自の路線をうち出した。独自の路線とはいえ、それに見合う具体案などはなかった。とりあえず既存の村落をそのまま「人民公社」にすることと、生産を励まして「大躍進」させることが、毛沢東路線というものになった。いずれも蹉跌(さてつ)してしまう。"
[※これ色分け途中ですが、“とりあえず既存の村落をそのまま「人民公社」にすることと、生産を励まして「大躍進」させること”。これだから◆líve
bírth/生児出生,
生産(せいざん);
生産児
(cf.
STILLBIRTH)。人民公社成立のそもそもは“大躍進”でもなんでもなく、だから創価学会と同じ“救出”では?]
◆理が非でも(りがひでも)ぜひとも。むりにでも。是が非でも。[広辞苑第六版より]
<毛沢東の中国><ソ連との友好同盟条約を結んだ>が、<両国の関係はほどなく軋(きし)んだ>、「人間の集団について」にも、"中国①は五千年の歴史からみて、辺境が中国化し⑥ないかぎり自国⑦の安泰はない、という外政的⑧伝統がある。①北ベトナム(同様)は⑥中国にとって安全になったが、(中国は)、②カンボジアは親米(で親中、心中・笑)政権③であるために④シアヌーク(さんが)という貴族②政治家をけしかけて⑤南ベトナムにおける解放戦線のような性格の愛国戦線をつく(ることによって)らせ、③間断なく戦闘させているのである。①ソ連はソ連で、南北ベトナムに⑦②戦乱がおさまること⑧をかならずしも③欲していない。④もし中国の望むかたちで⑨⑤おさまれば⑦ソ連にとって⑪中国⑧を安泰にするだけであり、⑩⑥むしろ④混乱がつづくことによって中国の辺境を⑤不安たらしめ、より強力な中国として成長することをはばみたい⑫⑨という気持ちのほうがつよい。"とあります。
おそらくこのような思惑はあったのでしょう、が、とりあえず、中国、ソ連、すべての主語をわすれてください。[※とりあえず、頑張って読んで下さい(笑)。で、中国を必ず、中夏、人類社会として読んで下さい。そもそも、そういう意味で書かれてあります。いわゆる“己のみを尊しとなす”な中華思想と読むのは、①~⑥です。ま、俺、ありますけど(笑)]
で「草原の記」から、二十世紀初頭の話です。“一九一一年秋に辛亥革命によって清国が倒れると、モンゴル人たちは独立を宣言した。ただし、ロシアを頼っての独立であった。当時のモンゴル人たちはこの勢いに乗じて、中国に組み入れられている内モンゴルまでをふくめた大モンゴル国家の建設をねがった。この、「大モンゴリア」の構想は、その後、草原の妖怪のように四方を歩き、ときにあっては、鼓吹された。主としてモンゴル人がいうのではなく、日本のような外界からの工作者が、冗談(に)まぎ(らせ)れに—あるいはしばしば本気で—吹き入れたのである。モンゴル人の草原をモンゴル人に返せ、ということになると、中国の青海省も新疆(しんきょう)地区も中国領ではなくなる。さらにはロシアそのものもほとんど存在しなくなってしまう。が、内モンゴル[※中華人民共和国うちモンゴルじちく]ばかり(狩場ばかり)は匈奴以来の固有の地で、領土権の主張としては成立する。しかし土地利用の仕方が、自生の草を動物(人間を)に食べさせるだけというのでは、その土を掻(か)きまわして草(穀物や野菜)を育てるという農民の土地所有権の深刻さを上まわることができない。中国の領土権は、その深刻な社会史の基盤の上に立っている。”
[※当初は主としてモンゴル人がそう主張するわけではなかったが、外界からやってきた世直し志士が熱情を込めて「夜明けは近いぜよ!(直感、親戚)※ご本人はね。20180805」と説いた結果、当時のモンゴル人“たち”も大モンゴル国家の建設を心から願うようになった。この文章成り立ちますけど胡散臭いですよね。それとも現実主義的?な戦略として「モンゴル人の草原をモンゴル人に返せ、ということを旗印にしてしまうと、中国領の青海省や新疆地区はともかく、ロシアそのものも“この”理屈では存在しなくなってしまう。これはいくらなんでも無理だ。何と言ってもロシアを頼っての独立だ。スポンサー怒らせてどうする。というわけで“内モンゴルは匈奴以来、我々固有の領土です。返しなさい”領土権の主張としてはこれも成立する。これでいこうじゃないか!みたいな。
[※当然、北方領土。直感で書きますけど“自治区”の区分けとしては実は現状が自然なのでは?で、酷いこと書きますよ“すべてがひとつに、ひとつがすべてに、石になり、転がらなくなる”。この後、世界が一変することでこの問題は解決するでしょう。当然個人的見解ですが、今までの流れで考えると、イスラエル12部族最後の末裔が住むこの島国の北の守りを固めてくださっていたのは、もちろん自衛隊、米軍、そしてソ連軍、今はロシア軍ですよね。どう考えても。終戦直前“満州国”を楽々と蹂躙できた、ま、してない、“できてない”、でしょうけど、強力な軍隊が北海道(夏の地)に進攻できないなんて、ねえ?何?米軍との兼ね合い?原爆?ねえ?島には上陸してて]。
で、当然、中国、ソ連と共に、モンゴル、日本等この主語はわすれてください。何故なら<当時の帝政ロシアは中国に遠慮>をし、結局、外モンゴルの範囲内での自治だけを支援することにした。<ロシアはさらに中国と交渉>し、<キャフタ協定(一九一五年)をむすんだ>。この協定が、<いまのモンゴル人民共和国の版図の上での原型>になっており、<モンゴル側にもべつだんの不服はなさそう>である。
[※うそ、あるで]
[※うそ、うそはなさそう]
その後も、モンゴルは時勢の流れのなかで、木屑(きくず)のようにもまれた。キャフタ協定から二年後に、当の支援者の帝政ロシアが倒れた。そのあと、ロシアに革命政権がおこり、そのどさくさに中国はふたたび草原に統治権を入れようとした。モンゴル人には、<漢人がすべて高利貸にみえる>。かれらは悲鳴をあげ、ロシアの革命政権に頼らざるをえなかった。曲折のすえ、一九二四年、ソ連に次いで世界で二番目の社会主義国家をつくるはめになった。かれらが社会主義をえらんだのは、マルクスのいう歴史の発展の結果ではなく、ただ漢人から草原をまもりたかっただけだった。
<漢人がすべて高利貸にみえる>、この言葉の説明はこの文章の前にありますが、ここでは省略させてもらいます、ただ、18世紀におけるお互いの文化の違いにより、と。
で、「司馬遼太郎の遺産・街道をゆく」の鼎談で、姜在彦(かん・じぇおん、盧泰愚さんとも親しい)さんが、"われわれ歴史家というのは、歴史を考える場合は、年代の前後関係とか、これが抜けたらたたかれるとか、こういうふうに考えるでしょう。そうじゃなくて、自分のイメージに強く焼きつけられたものをクローズアップして、明快なイメージをつくっていくんですね。""(司馬さんは)史実の細かな間違いは、構わないの"とおっしゃられています。で、この文章がそうだ、というわけではなく(そうかもしれません)、ただ、このような事実だとして、それを説明する時に司馬さんは<当時の帝政ロシアは中国に遠慮><ロシアはさらに中国と交渉><キャフタ協定(一九一五年)をむすんだ><いまのモンゴル人民共和国の版図の上での原型><モンゴル側にもべつだんの不服はなさそう>、という表現を選択された、と。
でですね、やはり“当時の帝政ロシアは中国に遠慮をし、結局、外モンゴルの範囲内での自治だけを支援することにした。”やっぱりここまででセットで考えたい、というか、だから、本当にこれは、中国に遠慮もモンゴル平原との歴史的関係性であったかもしれませんけど、それこそ辺境が中国化しないかぎり自国の安泰はない、という外政的伝統を尊重した、これも足引っ掛けられる表現かもしれませんけど、も、あったかもしれませんけど、本当にそのまま、当時のモンゴルが国家として円滑にスタートできるよう自治の手助けを遠慮がちに、モンゴル国権の侵害にならないように、した、ということじゃないかと。
そしてそれら全てにモンゴル側にもべつだんの不服はなかった。なぜならモンゴル国の建設は領土欲でもなんでもなく、ただ奸人(漢人ではない、ここ肝心、冗談ではなく)から草原[※尊厳]をまもりたかっただけだったから。で、両国の関係はほどなく軋(きし)んだ。
◆軋①車輪が摩擦して音をたてる、争う②昔、匈奴の刑罰の一つ。車で骨を引き砕くとも、刀で顔面を切るともいう③ふみつける。いずれも蹉跌(さてつ)してしまう。
◆蹉跌[さてつ]つまずく、失敗する。◆蹉①物に足をとられてたおれる、しくじる、失敗する②すぎる③まちがう
◆跌①つまずく②はしる、③過ぎる(過)、度をすごす、また、ほしいまま④足のうら。