吉本新喜劇ってみた瞬間に殺意が湧くね。これ不思議。
が、これは中国の方ならもうわかられてるのでしょうが…。
◆王莽:前漢末の簒立(さんりつ)者。字は巨君。元帝の皇后の弟の子。儒教政治を標榜して人心を掌握、平帝を毒殺し、幼児嬰を立て、自ら摂皇帝の位に就く。ついで真皇帝と称し、国を奪って新と号した。その政策に反対する反乱軍に敗死し、後漢が復興した。(在位8~23)(前45~後23)
◆王蒙(1934~):現代中国の作家。1956年、共産党が学術・文芸・芸術の一定範囲内での自由を保障するスローガン(百家争鳴・百花斉放)を掲げたのに応え、文芸界では(現実関与の文学)が合言葉となり、王蒙は官僚主義批判の短編(組織部に新しく来た青年)を発表して注目された。しかし翌年毛沢東が反右派闘争の発動を支持したため、一転して反革命分子として失脚。文化大革命終了後、復活して(胡蝶・1980年)など不条理な政治に翻弄される高級幹部の内面を意識の流れの手法で描いて注目された。のちに文化部長(日本の大臣に相当)となるが、(血の日曜日)事件(天安門事件)後辞任。
◆王蒙(1298~1385):元末の文人画家、浙江省の出身で、明の太祖(朱元璋)のとき、謀反事件で無実の罪を着せられ、獄死した。元末四大家と称された。つまり、★"毛(おそろく劉)も王蒙"
[※あと、これも確信をもっていいますが、王莽さんも捨身です、確実に。(前45~後23)、46から一つずれ、二分の一、と言う気は、ないことはないです]
で、明の太祖(朱元璋)、これは洪武帝のことです。つまり、陳舜臣さんの「中国の歴史(五)」、"洪武帝は李善長から、漢の高祖劉邦に学べと教えられ、そのとおりにした形跡があります。前にもすこしふれましたが、彼の劉邦学習は徹底しすぎて、その師をはるかに越えたのです。趙翼は、之を学びて過ぐること甚だしき者なり。と評していますが、まさにそのとおりでした。""劉邦はたしかに功臣を粛清しましたが、いわれのない誅殺といえるのは韓信と彭越の二人だけです。欒布(らんぷ)[※LEDと(笑)]ははっきりと反旗をひるがえしたので誅殺されたのです。盧綰(ろわん)や韓王信も、謀反に追いこまれた形ですが、まったくの無実ではありませんでした。劉邦は挙兵のときから行動を共にした同志に、危害を加えようとしたことはないのです。蕭何(しょうか)、曹参などの沛(はい)の同郷人はもとより、途中で参加した張良なども最後まで健在でした。ところが、洪武帝はほとんどみな殺しといってよいありさまだったのです。おなじ庶民出身なのに、劉邦と洪武帝はどこがちがうのでしょうか?""劉邦と朱元璋(洪武帝)をくらべると、どうしても性格のちがい[※正確いれていいですか?]というしかありません。劉邦の功臣粛清は、呂后が積極的にやっています。朱元璋の場合は、まだしも馬皇后のほうがひきとめ役をつとめているのです。趙翼もやはり天性のちがい[※きちがい、禹です]であろうと結論しています。"皇帝の地位はひとり高くそびえるものになりました。誰にも権勢を渡すまいとする、洪武帝のすさまじい執念には、鬼気迫るものがあったのです。"の洪武帝。で、ここまで書いてこの劉邦とは毛沢東さんのことだと確信しました。"いわれのない誅殺といえるのは韓信と彭越の二人"。当然、劉少奇さん、ちゃんと文革のことを知らないので、あとどれほどいるのかわかりません。[※当然、相も変わらずぼんやりしてます。"いわれのない誅殺"をしたのはだから劉邦ではないとか。毛が劉邦なら洪武帝は誰だ?等、興味はあるが、現在知らん、わからん、このままで。ただ現実の洪武帝朱元璋さんは王莽さんと同じ捨身だと思います、確実に]で、おそらく読み返せばその中にも多くのカケラが含まれているのでしょうが、司馬さんの「項羽と劉邦」(新聞連載時の題は"漢の風、楚の雨")は、おそらく毛沢東さんへのオマージュなのだな、と。[※で、私たちも傷ついてる、で、何も変わらず、エタは食われ続けか?別にいいじゃん、こんな連中、どうせ間引かれるんだし、か?そりゃ状況なんも変わらんかったらそうだろう。バカだろお前ら]
もちろん、劉邦が毛沢東さん、項羽が蒋介石さん、というわけではなく(というほど蒋介石さんのことをしりません)。[※ただ蒋介石さん、商介石さんかな?という気はします]
ただですね、陳さんの「秘本三国志」。これ、途中から、劉備が呂布におわれて曹操のもとに身を寄せるようになってからかな?やたら各陣営同士の密約が多くなるんです、もう談合小説と呼びたいくらいに、最初は曹操が劉備に「何としてもこの乱世を終わらせねばならん、しかし現在、この中国大陸にはあまりにも群雄が多すぎる、だから二人で組んで、その群雄を潰していこう」みたいに持ちかけ、それで劉備がある種エージェントとして袁紹のもとにいき、うまい具合に袁紹陣営をかく乱し、みたいな。読んでるときもちょっとこれは無理ないかな?と思ってましたが、もちろん、劉備が働けば働くほど曹操の力が巨大になる、劉備も曹操のたんなるエージェントで終わる気はまったくなく、この密約はすぐに破たんします。
が、その後も談合はひんぱんにおこなわれます、ただ、その理由のすべてが"民を苦しめないため"
[※◆エージェント【agent】①代理店。代理人。仲介業者。②秘密情報組織の協力者。諜報員。
(広辞苑第六版より)。これ字面を無理やりangelと(笑)]
陳さんは、小説ではなく歴史書の「中国の歴史」の中で、当時の史書を紹介し、"『漢書』の「地理志」によると、前漢の時代、平帝元始二年(西暦2年)の中国全土の人口は、五千九百五十九万余。"で、前漢滅亡時の戦乱(王莽の時代)を経たせいでしょう、"後漢初代皇帝光武帝が死んだ建武中元二年(西暦57年)の人口は二千百万余と激減。"しかし、"後漢第十代質帝の死んだ本初元年(西暦146年)には、それが四千七百五十六万余まで回復"しかし、それから約140年後、晋が天下統一した呉の滅亡時、呉"四代皇帝孫皓が晋に版図を献じたとき、戸数五十二万、男女人口二百三十万であった"といわれているそうです、ちなみに晋は"人口五百五十万"、つまり中国全土の人口が八百万そこそこだった、4756万余の人口が140年後に800万そこそこまで激減、『三国の乱世は(略)けっして光彩陸離たる時代ではありません。獣性がこの世を支配し、光のとぼしい、絶望の時代だったのです』と。
この秘本三国志の中では"人があまりにも死にすぎた""民を苦しめないため"に、英雄たちが談合しまくります、孔明は北伐前の足固めのため南征しますが、これは孟獲とのやらせ、でした、孟獲は事前に孔明と打ち合わせ、わざと七回捕虜になるという醜態を演じて見せます、そのことによって戦乱の拡大、被害をおさえようとします、時期はかなりさかのぼりますが、同じようなことが袁紹陣営を滅ぼしたあとの曹操の北伐でもあります、だれでしたか、どうあがいても曹操軍にはかなわない、しかし自分の部下(部族)はその力の差を理解できない、だから自分が曹操に派手に負け(なるべく犠牲がでないように)、死ぬことによって、力の差を理解させよう、ただし、自分が死んだ後の我が部下たちの処遇はちゃんと考えてくれ、民が安心して暮らせる平和な世をつくってくれ、みたいな。そして、孔明の北伐、これも司馬懿との間で"ひきわけ・勝負無し"と事前にとりきめられます、とうぜん、いくらなんでも無理ないだろうか?、と、読んでおもいました、が、20世紀という人が人を一番殺した時代を生きてきた陳さんは、人の死を書きたくなかったのかな、ともおもっていました。もちろん、ここから導き出される結論は、あまりにも荒唐無稽ですが[※今となってはそうでもないですが(笑)]、自分の現状も含めて考えると、司馬さんがお書きになった、"アジアの共産主義というのは、アジアの社会がはるかな過去から背負いこんでいる泥の中からひょいと足抜けをするための最も簡単な方法だということは、つねに忘れずにおきたいと思っている。"という言葉は重いな、と感じます。
[※◆【談合】(ダンコウとも)①話し合うこと。談じ合うこと。相談。②談合行為のこと。◆だん‐こう【断交】‥カウ‥交際をたつこと。特に、国交をたつこと。「経済―」(広辞苑第六版より)]
あと、陳さんの「中国の歴史(二)」は、王莽の漢簒奪までですが、最初は"大統一時代"という章で、秦の始皇帝の天下統一の時代から始まります。で、記憶だよりなのですが、天安門事件のあと、東欧の民主化が進む中で(正直まったく詳しくないのですが、民族紛争はまだはっきりと形になっていないころでしたか)、鄧小平さんが、"共産中国が存在する限り世界の人口の五分の一は共産主義者だ"と"魔術的"国家中国の面目躍如な発言をされたような気がします。当時、そう思いました。が、これは"共産中国が存在する限り、世界の人口の五分の一は人食いに屈していない"という、毛沢東さんや劉少奇さん、もしかしたら蒋介石さんも、の"志"の同志(当然、もっと多くの)としての、気概だったのかなと、今、すこし思います。
"劉邦と朱元璋(洪武帝)をくらべると、どうしても性格のちがいというしかありません。劉邦の功臣粛清は、呂后が積極的にやっています。朱元璋の場合は、まだしも馬皇后のほうがひきとめ役をつとめているのです。趙翼もやはり天性のちがいであろうと結論しています。"
で、毛沢東さんを劉邦になぞらえると、当然、江青さんが呂后ということになります。ああ、やっぱりそうなのだな、と納得できますが、「草原の記」からのピンポイント抜出、"夫妻とも生命があぶないという客観的状態が存在したようであった"(これは文章としては文革の暴力の渦に巻き込まれたツェベクマさん夫妻のこと)、から連想しなくても、どうも、そうではない、江青さんも被害者なのだ、と、司馬さんはお書きになられています(もちろん、組み合わせで)。[※ツェベクマさん。一言で言えば、70年代中盤司馬さんが街道をゆくでモンゴルを訪れたときに、通訳として、知り合ったモンゴルの女性]。
◆江青(jiang
qing)中国の政治家。本名、李進。山東諸城の人。1930年代上海の新劇界で活躍。39年毛沢東と結婚。文化大革命で台頭。76年、毛沢東の死後逮捕され、無期懲役で服役中、自殺。(1914~1991)
1991、大統一時代、です。
[※◆理も非もない・事を進めるのに精一杯で、道理を考える余裕がない。(広辞苑第六版より)]
◆江青[こうせい](Jiang
Qing)1914年3月山東諸城生まれ、1991年5月14日没
中国の政治家。毛沢東夫人。本名李進、号は雲鶴、旧名李青雲。1930年代に藍蘋の芸名で上海演劇、映画界に活躍し、革命的演劇を通じて政治に関心をもち、中国共産党に入党。38年延安のマルクス・レーニン学院に入学。39年毛沢東と結婚、江青と改名。49年10月中ソ友好協会理事。50年文化省映画事業指導会委員。62年スカルノ訪中の際、初めて毛夫人として公式の席に出席。64年第3回全国人民代表大会山東省代表。この頃演劇、映画を中心とする文化芸術活動の調査を進め、張春橋、姚文元らと協力して京劇改革の指導をし、文化芸術戦線から文化大革命の指導的地位に進んだ。66年2月林彪に委託され、解放軍部隊で文芸座談会を開き「綱要」を発表。同年8月中央文革小組第一副組長。同8月紅衛兵大集会を司会。陳伯達らとともに紅衛兵の指導にあたった。67年4月解放軍文革小組顧問。69年4月九全大会で中央政治局委員に選ばれた。極左路線を推進するうち、76年10月、故毛沢東の方針、政策を改竄し歪曲したうえ党主席の地位をねらったとの理由で、張春橋、王洪文、姚文元とともに逮捕され、「四人組」反党集団の一人として77年7月の十期三中全会で党籍を永久に剥奪され、党内外のすべての職務を解任された。「林彪・江青反革命集団」裁判で81年1月死刑判決(執行猶予2年)を受け、服役中に自ら命を絶った。
[※反革、日本語発音でHan-Kaku、反核・集団]
◆四人組(si-ren
zu)文革派、上海グループとも呼ばれる。中国の文化大革命(1965~76)を実質的に指導したとされる上海を基盤とする左派的な権力集団。1966年8月中国共産党中央文化革命小組第一副長に就任した江青・毛沢東夫人を中心に王洪文党副主席、張春橋党政治局常務委員兼副首相、姚文元政治局委員らは、毛の命を奉じると称して文革を推進、反対派を次々に失脚させ、追放した。しかし毛の没後わずかに1ヵ月、76年10月江青ら4名を含む多数の幹部が、毛の命令を偽造、クーデターを企てたとして逮捕された。[※歯切れの悪いのは覚悟で、四人組逮捕は緊急避難では]