吉本新喜劇ってみた瞬間に殺意が湧くね。これ不思議。


が、これは中国の方ならもうわかられてるのでしょうが…。

王莽前漢末の簒立(さんりつ)。字は巨君。元帝の皇后の弟の子。儒教政治を標榜して人心を掌握、平帝を毒殺し、幼児嬰を立て、自ら摂皇帝の位に就く。ついで真皇帝と称し、国を奪って新と号した。その政策に反対する反乱軍に敗死し、後漢が復興した。(在位823)(45~後23)

王蒙(1934)現代中国の作家1956年、共産党が学術・文芸・芸術の一定範囲内での自由を保障するスローガン(百家争鳴・百花斉放)を掲げたのに応え、文芸界では(現実関与の文学)が合言葉となり、王蒙は官僚主義批判の短編(組織部に新しく来た青年)を発表して注目された。しかし翌年毛沢東が反右派闘争の発動を支持したため、一転して反革命分子として失脚文化大革命終了後、復活して(胡蝶・1980)など不条理な政治に翻弄される高級幹部の内面を意識の流れの手法で描いて注目された。のちに文化部長(日本の大臣に相当)となるが、(血の日曜日)事件(天安門事件)後辞任。

王蒙(12981385)元末の文人画家、浙江省の出身で、明の太祖(朱元璋)のとき謀反事件で無実の罪を着せられ獄死した。元末四大家と称された。つまり、★"(おそろく)も王蒙"

[※あと、これも確信をもっていいますが、王莽さん捨身です、確実に。(45~後23)46から一つずれ二分の一、と言う気は、ないことはないです]

で、明の太祖(朱元璋)、これは洪武帝のことです。つまり、陳舜臣さんの「中国の歴史()」、"洪武帝李善長から、漢の高祖劉邦に学べと教えられそのとおりにした形跡があります。前にもすこしふれましたが、彼の劉邦学習徹底しすぎて、そのをはるかに越えたのです。趙翼は、を学び過ぐること甚だしき者なり。と評していますが、まさにそのとおりでした。""劉邦はたしかに功臣を粛清しましたが、いわれのない誅殺といえるのは韓信と彭越の二人だけです。欒布(らんぷ)[※LED()]はっきりと反旗をひるがえしたので誅殺されたのです。盧綰(ろわん)韓王信も、謀反に追いこまれた形ですが、まったくの無実ではありませんでした。劉邦挙兵のときから行動を共にした同志に、危害を加えようとしたことはないのです。蕭何(しょうか)曹参などの(はい)の同郷人はもとより、途中で参加した張良なども最後まで健在でした。ところが洪武帝ほとんどみな殺しいってよいありさまだったのです。おなじ庶民出身なのに、劉邦洪武帝はどこがちがうのでしょうか?""劉邦朱元璋(洪武帝)をくらべると、どうしても性格のちがい[※正確いれていいですか?]というしかありません。劉邦の功臣粛清は、呂后が積極的にやっています。朱元璋の場合は、まだしも馬皇后のほうがひきとめ役をつとめているのです。趙翼もやはり天性のちがい[※きちがいです]であろうと結論しています。"皇帝の地位ひとり高くそびえるものになりました。誰にも権勢を渡すまいとする、洪武帝のすさまじい執念には、鬼気迫るものがあったのです。"の洪武帝。で、ここまで書いてこの劉邦とは毛沢東さんのことだと確信しました。"いわれのない誅殺といえるのは韓信と彭越の二人"。当然、劉少奇さん、ちゃんと文革のことを知らないので、あとどれほどいるのかわかりません。[※当然、相も変わらずぼんやりしてます。"いわれのない誅殺"をしたのはだから劉邦ではないとか。毛が劉邦なら洪武帝は誰だ?等、興味はあるが、現在知らん、わからん、このままで。ただ現実の洪武帝朱元璋さん王莽さんと同じ捨身だと思います、確実]で、おそらく読み返せばその中にも多くのカケラが含まれているのでしょうが、司馬さんのと劉邦(新聞連載時の題"漢の風の雨")は、おそらく毛沢東さんへのオマージュなのだな、と。[※で、私たちも傷ついてる何も変わらずエタは食われ続けか?別にいいじゃんこんな連中どうせ間引かれるんだし、?そりゃ状況なんも変わらんかったらそうだろう。バカだろお前ら]

もちろん、劉邦毛沢東さん項羽蒋介石さん、というわけではなく(というほど蒋介石さんのことをしりません)[※ただ蒋介石さん商介石さんかな?という気はします]

ただですね、陳さんの秘本三国志」。これ、途中から劉備呂布におわれ曹操のもとに身を寄せるようになってからかな?やたら各陣営同士の密約多くなるんです、もう談合小説と呼びたいくらいに、最初曹操劉備に「何としてもこの乱世を終わらせねばならん、しかし現在、この中国大陸にはあまりにも群雄が多すぎる、だから二人で組んで、その群雄を潰していこう」みたいに持ちかけ、それで劉備がある種エージェントとして袁紹のもとにいき、うまい具合に袁紹陣営をかく乱し、みたいな。読んでるときもちょっとこれは無理ないかな?と思ってましたが、もちろん、劉備が働けば働くほど曹操の力が巨大になる、劉備曹操のたんなるエージェントで終わる気はまったくなく、この密約はすぐに破たんします。
その後談合はひんぱんにおこなわれます、ただ、その理由のすべて"民を苦しめないため"
[※◆エージェントagent】①代理店。代理人。仲介業者。②秘密情報組織の協力者。諜報員。
(広辞苑第六版より)。これ字面を無理やりangel()]

陳さんは、小説ではなく歴史書の「中国の歴史」の中で、当時の史書を紹介し、"漢書』の「地理志」によると、前漢の時代平帝元始二年(西暦2年)の中国全土の人口は、五千九百五十九万余"で、前漢滅亡時の戦乱(王莽の時代)を経たせいでしょう、"後漢初代皇帝光武帝が死んだ建武中元二年(西暦57年の人口二千百万余と激減"しかし、"後漢第質帝の死んだ本初元年(西暦146年)には、それが四千七百五十六万余まで回復"しかし、それから約140年後晋が天下統一した呉の滅亡、呉"四代皇帝孫皓が晋に版図を献じたとき、戸数五十二万、男女人口二百三十万であった"といわれているそうです、ちなみに晋は"人口五百五十万"、つまり中国全土の人口が八百万そこそこだった、4756万余の人口140年後に800万そこそこまで激減、『三国の乱世は(略)けっして光彩陸離たる時代ではありません。獣性この世を支配し、光のとぼしい、絶望の時代だったのです』と。

この秘本三国志の中では"人があまりにも死にすぎた""民を苦しめないため"に、英雄たちが談合しまくります、孔明北伐前の足固めのため南征しますが、これ孟獲とのやらせ、でした、孟獲事前に孔明打ち合わせわざと七回捕虜になるという醜態を演じて見せます、そのことによって戦乱の拡大被害をおさえようとします、時期はかなりさかのぼりますが、同じようなことが袁紹陣営滅ぼしたあと曹操の北伐でもあります、だれでしたか、どうあがいても曹操にはかなわないしかし自分の部下(部族)はその力の差を理解できないだから自分が曹操に派手に負け(なるべく犠牲がでないよう)死ぬことによって力の差を理解させよう、ただし、自分が死んだ後の我が部下たちの処遇はちゃんと考えてくれ民が安心して暮らせる平和な世をつくってくれ、みたいな。そして、孔明の北伐これ司馬懿との間で"ひきわけ勝負無し"事前にとりきめられます、とうぜん、いくらなんでも無理ないだろう?、と、読んでおもいました、が、20世紀という人が人を一番殺した時代を生きてきた陳さんは人の死を書きたくなかったのかな、ともおもっていました。もちろん、ここから導き出される結論は、あまりにも荒唐無稽ですが[※今となってはそうでもないですが()]自分の現状も含めて考えると、司馬さんがお書きになった、"アジアの共産主義というのは、アジアの社会がはるかな過去から背負いこんでいる泥の中からひょいと足抜けをするための最も簡単な方法だということは、つねに忘れずにおきたいと思っている。"という言葉は重いな、と感じます

[※◆談合】(ダンコウとも)①話し合うこと。談じ合うこと。相談。②談合行為のこと。◆だん‐こう【断交】‥カウ交際をたつこと。特に、国交をたつこと。「経済―」(広辞苑第六版より)]

あと、陳さんの「中国の歴史()」は、王莽の漢簒奪までですが、最初"大統一時代"という章で、秦の始皇帝天下統一の時代から始まります。で、記憶だよりなのですが、天安門事件のあと東欧の民主化が進む中(正直まったく詳しくないのですが、民族紛争はまだはっきりと形になっていないころでしたか)鄧小平さんが、"共産中国が存在する限り世界の人口の五分の一は共産主義者""魔術的"国家中国の面目躍如な発言されたような気がします。当時そう思いましたこれ"共産中国が存在する限り世界の人口の五分の一は人食いに屈していない"という、毛沢東さん劉少奇さん、もしかしたら蒋介石さんも、の""の同志(当然、もっと多くの)としての気概だったのかなと、、すこし思います

"劉邦朱元璋(洪武帝)くらべると、どうしても性格のちがいというしかありません。劉邦の功臣粛清は、呂后積極的にやっています。朱元璋の場合は、まだしも馬皇后のほうがひきとめ役つとめているのです。趙翼もやはり天性のちがいであろうと結論しています。"

で、毛沢東さんを劉邦になぞらえると、当然、江青さんが呂后ということになります。ああ、やっぱりそうなのだな、と納得できますが、「草原の記」からのピンポイント抜出"夫妻とも生命があぶないという客観的状態存在したようであった"(これは文章としては文革暴力の渦に巻き込まれたツェベクマさん夫妻のこと)、から連想しなくても、どうも、そうではない、江青さんも被害者なのだ、と、司馬さんはお書きになられています(もちろん、組み合わせで)[※ツェベクマさん。一言で言えば、70年代中盤司馬さんが街道をゆくモンゴルを訪れたときに、通訳として知り合ったモンゴルの女性]

江青(jiang qing)中国の政治家。本名、李進。山東諸城の人。1930年代上海の新劇界で活躍39毛沢東と結婚文化大革命で台頭76年、毛沢東の死後逮捕され、無期懲役で服役中自殺(19141991)
1991大統一時代、です。
[※◆理も非もない事を進めるのに精一杯で、道理を考える余裕がない(広辞苑第六版より)]

江青[こうせい](Jiang Qing)19143山東諸城生まれ1991514日没 中国の政治家毛沢東夫人。本名李進、号は雲鶴、旧名李青雲1930年代に藍蘋の芸名上海演劇映画界に活躍し、革命的演劇を通じて政治に関心をもち、中国共産党に入党38延安のマルクス・レーニン学院に入学39毛沢東と結婚江青と改名4910月中ソ友好協会理事。50年文化省映画事業指導会委員。62スカルノ訪中の際初めて毛夫人として公式の席に出席64年第3回全国人民代表大会山東省代表。この頃演劇映画を中心とする文化芸術活動の調査を進め、張春橋姚文元らと協力して京劇改革の指導をし、文化芸術戦線から文化大革命の指導的地位に進んだ。662林彪委託され解放軍部隊で文芸座談会を開き「綱要」を発表。同年8月中央文革小組第一副組長。同8紅衛兵大集会を司会。陳伯達らとともに紅衛兵指導にあたった。674解放軍文革小組顧問694月九全大会で中央政治局委員に選ばれた。極左路線を推進するうち、7610月、故毛沢東の方針政策を改竄し歪曲したうえ党主席の地位をねらったとの理由で張春橋王洪文姚文元とともに逮捕され、「四人組集団一人として777十期三中全会党籍を永久に剥奪され、党内外のすべての職務を解任された。「林彪江青集団」裁判で811月死刑判決(執行猶予2)を受け、服役中自ら命を絶った
[※反革、日本語発音Han-Kaku反核・集団]

四人組(si-ren zu)文革派上海グループとも呼ばれる。中国の文化大革命(196576)実質的に指導したとされる上海を基盤とする左派的な権力集団19668中国共産党中央文化革命小組第一副長に就任した江青・毛沢東夫人を中心に王洪文党副主席張春橋党政治局常務委員兼副首相姚文元政治局委員らは、毛の命を奉じると称して文革を推進反対派を次々に失脚させ追放した。しかし毛の没後わずかに1ヵ月7610江青ら4を含む多数の幹部が、毛の命令を偽造クーデターを企てたとして逮捕された。[※歯切れの悪いのは覚悟で、四人組逮捕緊急避難では]

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