8.3月10日まで、そして今(2013年12月9日)

でも匈奴兵の鎧とかはなんとなく皮製っぽいイメージが僕にはあります

突然ですが、前漢初代皇帝の劉邦さんが屈辱的内容の講和をして以来、長いこと北方の脅威だった匈奴のみなさん。←ま、さくっと、匈奴を兄、漢を弟とする、みたいな感じでしたか

を、ついに撃退した、前漢第七代武帝、の衛青(えいせい)霍去病(かくきょへい)両将軍。

司馬さんは、あ、武帝時代を生きた司馬遷さんではなく、司馬遼太郎さんです。
司馬さんは、今まで戦争では劣勢一方だった漢が、とつぜん匈奴を圧倒しえたのは、衛青、霍去病、両将軍の能力の高さももちろんあったろうけど、当時漢で飛躍的に進歩した製鉄技術が一番の理由ではないだろうか、みたいなことお書きになっていなかったかな?

まあ例によって記憶たよりで書いとりますが、今までは青銅製だったかな?互いに同じような武器を持った歩兵の集団() vs 騎兵の集団(匈奴)を、騎兵の運用に適した場所でやっていたから、漢としてはいかんともしがたいところがあった。でも製鉄技術の革新により、どうにも少量しか作れなかった鉄が大量生産可能になり、それにより漢兵の装備が青銅製から鉄製にかわり、戦闘の優劣が劇的に変化したと。

早い話が、匈奴兵の青銅製の矢が漢兵にとどく前に、漢兵の鉄製の矢は匈奴兵にとどき、匈奴兵の青銅製の矛は漢兵の鉄製の盾を貫けないけど、漢兵の鉄製の矛は匈奴兵の青銅製の盾をサクサク貫くと。
ある種、織田・徳川鉄砲三千挺な、イメージとしての長篠の戦いみたいに、一方的な戦況になったのではなかろうかと。←は、僕の想像です

で、ですね、当時漢で飛躍的に進歩した製鉄技術。司馬さんが、あ、武帝時代を生きた司馬遷さんではなく、司馬遼太郎さんです。ま、司馬さんが本当にそうお書きになっていたのかあやふやですし、実際に当時漢で製鉄技術が飛躍的に進歩したのかも、僕にそれを調べる気がまったくないのでさだかでないですが、ここは飛躍的に進歩した!と言い切り話をすすめます。

では、なぜ飛躍的に進歩しえたのか?

そう、匂ってきましたね。司馬さんが、あ、司馬遼太郎さんではなく、武帝時代を生きた司馬遷さんです。司馬さんが『高后は女主にして制(詔勅)を称し、政(まつりごと)は房戸(後宮の門)を出でずして、天下は晏然(あんぜん・やすらか)たり。刑罰、用いるは罕(まれ)に、罪人、是れ希(まれ)に、稼穡(産業)を務め、衣食は滋々殖(ますますふ)えたり』と高く評価した、どうも戦争もなく平和で、刑罰も厳しくなく、庶民には悪い時代ではなかった、悪い権力者ではなかった呂后さんの時代に、その鍵があるのではないか!?と話をもっていきたいわけですよ。



で、もしもこの匈奴の敗北が、玉突き民族大移動のきっかけならば、ローマ帝国を滅ぼしたのは呂后さんだったのだ!と話をもっていきたいわけですよ(六百年後くらいですかね)
したがって、プラトン的なものが○○麻呂な日本にやってくるきっかけをつくったのは呂后さんだったのだ!と話をもっていきたいわけですよ(七百年後くらい・笑)



そういえば、司馬さんの文章の中に霍去病さんの名前に言及したトコがあった気もします

病という文字から、彼はもともと少し病弱だったのだろうか、と。
若くして亡くなってますよね。
武帝も自分の陵のすぐ近くに彼の墓をつくらせていませんでしたか。

で、それはさておき、しかしですよ、青銅製の矢と鉄製の矢、ま、矢じりですが、そこが違うだけでそんなに射程距離が、匈奴の騎兵のみなさんの突撃を無効にするほど射程距離が伸びるんかい、とも思います。
まあ、実際はそんなに伸びなくても、こちらの矢は相手を貫くけど、相手の矢はこちらを貫けない、つうんならまあいいのかな、とも思います。


とか書いてたら、司馬遼太郎さんの「長安から北京へ」の中に、『古代の(中国の)鉄のことを考えたい』からはじまる文章がありました。以下は司馬さんが『考え』られたものを、例によって僕が"抜き出し""入れ替え"たものです。

えっとですね、古代の中国はもともと周辺地域より金属文化の先進地帯であったと。
鉄でいえば、春秋時代の中ごろにはわずかながらも鉄器農具があったらしいと。
で、くだって戦国時代、もともと出自がそちらの遊牧民族だったらしいですが、西域から流入したすぐれた製鉄法をとりいれた秦が『列国にぬきん出て鉄器を多く生産』、それにより農業生産高が飛躍的に上昇、したがって『他の青銅器諸国よりも人口が多くなり』『軍団を多く持つことができ』『鉄製兵器をつかうことによって、切れ味のわるい列国の青銅器兵器を圧倒』『中国最初の統一帝国をつくった』と。

ちなみに『金属を鋳るには、信じがたいほどにぼう大な樹木が要る』『一山の樹を伐りたおしてそれを木炭にし、それをもって砂鉄もしくは鉄鉱石を溶かしたところで、得られる鉄の量はわずかなものである』

で、『(秦の)あとを継いだ漢帝国はさかんに製鉄をおこした』、そのため『山野の樹木は大いに伐られたであろう』『伐られると土地は急速に乾き、復元することが困難になる』が、短期的視野では、そうしてつくられた『鉄器の爆発的な普及によって山野がよく開拓され新興地主が続出』、結果『漢帝国を富ませ』『軍事においても鉄器で鎧や刀槍が作られ』ついに『武帝の時代』『漢の富強期』をむかえたと。



で、矢。

『鉄のヤジリと青銅のヤジリとは、殺傷力はくらべものにならない』『鉄のそれはノミを矢柄のさきにつけたように重くするどく固く、これを飛ばせば青銅のそれより遠く飛び、相手の堅甲を破って骨を断つ効果をもっている』と。

で、『もしかしたら漢民族よりもあるいは早くに青銅冶金を知ったかもしれない』遊牧民族の匈奴の人たちが、何故に鉄製ではなく青銅の兵器を使用していたかというと、『鉄冶金が食ってしまうばく大な樹木の量が』匈奴のみなさんの地には乏しかったからではないかと。

もっとも『かれらもまた』『こんにちのバイカル湖付近において森林を持って』はいた。しかし『これが冶金とどう結びついたかについては、私の知識は欠けている』ともお書きになられています。

さて、そういうわけで、司馬さんは"当時漢で飛躍的に進歩した製鉄技術"なんて一切書かれてません。

『有史以来』『圧迫され続けた』『騎馬民族』をついに撃退した『武帝の功業』のタネ、『鉄器の爆発的な普及』は『新興地主階級の大形成と表裏をなす』と書かれています。


おや?

が、ですよ、では、なぜ『鉄器の爆発的な普及』を呼ぶ『新興地主階級』が『大形成』できたのか?
そう、匂ってきましたね。司馬さんが、あ、司馬遼太郎さんではなく、武帝時代を生きた司馬遷さんです。司馬さんが『高后は女主にして制(詔勅)を称し、政(まつりごと)は房戸(後宮の門)を出でずして、天下は晏然(あんぜん・やすらか)たり。刑罰、用いるは罕(まれ)に、罪人、是れ希(まれ)に、稼穡(産業)を務め、衣食は滋々殖(ますますふ)えたり』と高く評価した、どうも戦争もなく平和で、刑罰も厳しくなく、庶民には悪い時代ではなかった、悪い権力者ではなかった呂后さんの時代に、その鍵があるのではないか!?

『稼穡(産業)を務め』ここ重要!ではないのか!?と話をもっていきたいわけですよ。

んで、ここでユーラシア大陸の反対側に飛びまして、以前も書きましたが、昔、僕が「こんなん今読んでんだよ~」とイタリアの方に塩野七生さんの「ローマ人の物語」をみせたら、「ローマ(帝国)が何で滅んだか知ってるかい?ローマの皇帝がキリスト教徒を迫害し、その行為に怒った神に滅ぼされたのさ」と(たぶん)言われてました。ええ、英語だからようわからんかったんです。


つまりローマ帝国を滅ぼした怒れる神とはr(略)



なかなか「ゴジラ対ヘドラ」にたどりつきませんな

え~しれっと書いておりますが、呂后さんについての司馬遷さんの記述は、読み方もふくめ、陳舜臣さんの「中国の歴史(二)」から引用させていただいております。

んでもってですね、そのまま武帝さんのあたりを拾い読みしていたら、どうして『ほかの歴戦の将軍が、あまり戦果をあげずに』、衛青・霍去病、『衛皇后の縁者の二人の将軍だけが、はなばなしい軍功を立てたの』か?

それは『武帝はこの二人に、選り抜きの精兵を与えたの』だ、と。

そう衛青さんと霍去病さんは、後宮ン千人(かどうかは知りませんが)の美女の中で、武帝が最も愛した衛皇后の弟と甥なんです。


『高祖(漢初代皇帝劉邦さん)の遺訓として、原則的には、戦功の無い者は列侯になれない』だから『愛する皇后の弟や甥を列侯にとり立てるには、戦争に勝つ機会を与えなければな』らない。

で、『二人の将軍はそれを生かし』たので『凡庸の才能ではなかった』だろうけど、『最高の装備(鉄器兵器でしょうな)と最強の精兵を与えられていたの』だから、『軍事的天才という評価は、いくらか割引かねばな』らないと。

あと高祖時代の漢を圧倒し、屈辱的講和を結ばせた英雄冒頓単于(ぼくとつぜんう)さんのころとは違い、当時の匈奴は、単于の座をめぐってなのかな?内紛がおこり、『活力は、すでに下り坂になっていた』と。


さて、ここで、またユーラシアの端から端にとびまして、昨日登場のイタリアの方。

一度「あなた、話す、何ヶ国語?」と聞いたことあるんです。
すると伊、仏、英、と確かスペインが少々と。
で、僕が「ドイツ語は?」と聞くと、「わけわかんね」と。←たぶん

一人の人に聞いただけで話を進めますが、これってあれですかね、ローマ帝国内外ですかね。

で、ドイツ語は日本人には結構発音しやすいって話があった気がしますが、なにげにちょいと地面掘ったあたりで、匈奴の人たちがいたモンゴルあたりがぼんやりと浮かんじゃったりはしませんかね。
もちろん民族の話ではなくて。




:廖承志さん

ところで、話はまたかわりまして、司馬さんの「長安から北京へ」は、ざっくり、1975年に司馬さんが"日本作家代表団"の一員として中国に行かれたときの旅行記です。ちなみに当時の中国は、その末期ではありますが、文化大革命、まだまだ四人組のみなさんがブイブイいわしていたコロかと思われます。

廖承志さん。

『はるかに優勢な国民党軍と戦闘しながらの』1万2500キロの『陣地転換』、とはいえ『敗走にはまちがいなく』、『終了したときは、十人のうち一人しか生き残っていなかった』、"長征"に参加。中国革命を『日本の明治維新にことさら翻訳(直訳はむろんできないが・ママ)すれば、元勲でないにしても、幕末以来の生き残りの元老の一人といえる』。

父親は孫文さんの同志で、孫文さんを通じて、宮崎滔天さんとも縁が深かった。
後年、文化大革命発生時の「大変だ!皇帝(毛沢東さん)が宮殿に宦官(四人組さん)を引き込んだ」な思い出話を、僕が読んだ気がする方です。

で、北京滞在時のホテルの夜。

みんなが集まっていた団長である井上靖さんの部屋を、まだ三十代の唐家璇さん一人を連れ、廖さんが訪ねて来られたそうです。しばらく雑談して『辞すべくドアのそばまで行ってから、廖氏は重大なことを思い出したように、立ちどまり、井上靖氏のほうへむきなおった』

『井上氏の母堂は長命され、数年前に亡くなられた。重大なことというのは、そのことについての弔慰であった。』

『私も、母を亡くしました。
母親というものは、子供がいい年になっても、ずっと居てほしいものです。』



:蠡

司馬さんが中国にいかれたのは1975年の5月ですか。
で、司馬さんも音楽学院の見学時に、説明者の方から『江青(ジャンチン)同志にみちびかれて』という『おべっかというにおいの中に入る』言葉を聞いた、千万単位の人が犠牲になったといわれる文化大革命を推し進めた「四人組」の事実上のトップ(ですよね)、毛沢東夫人江青さん。


いまちょこっと調べたら、翌1976年10月逮捕、1981年に死刑判決。
後に無期に減刑されるも自殺されたと。

が、「来年のことをいうと~」もありますし、ここは司馬さんの旅にもどります。

え~と、これは解放以来、今に至る共産中国の一貫した史観なのか、この文化大革命時にとりわけ強調された史観なのか、よくわかりませんが、「匈奴について」。

『匈奴とは、数十万の騎兵をもつ奴隷制』であると、司馬さんは霍去病さんの墳墓の責任者の方に説明を受けたそうです

ここで司馬さんは、匈奴について『漢民族の農業社会に対し、単に商売ちがいの社会だと私は思ってきた』とお書きになられています。

『が、奴隷制社会であるとすれば』『漢帝国という新興地主勢力による「封建制社会」よりも前段階の社会』で、『あたらしい史観では』『克服されてゆくべき旧体制である』と。

そして『これによって、武帝の戦争の性格』は『奴隷制と封建制の制度の矛盾であり』『当時の段階では』『あたらしい封建制にとっては、正義の戦い』であったと。


さて、話は変わり、司馬さんが旅行中、太湖の湖畔の無錫市を訪れたときのこと。
司馬さんは蠡園(れいえん)という庭園のなかの宿館に泊まったそうです。
この蠡園は、春秋時代の名臣と名高い越国の范蠡(はんれい)さんが、主君を助け、仇の呉国を滅ぼし復讐を遂げた後、隠棲した館跡と言われているそうです。

ちなみに范蠡さんは日本人好みの悲劇の復讐者ではなく、伝説ですが、復讐後、主君の狭量さを恐れとっとと引退、他国で商人になり、巨万の富をきずいたそうです。
で、伝説はそこで終わらず、春秋一の美女といわれる西施さんと結ばれ、この太湖の湖畔で二人悠々自適な生涯をおくられたそうです。

『播州赤穂の浪士が復讐のあと四十七人がぜんぶ切腹してしまうという不条理な美学を二百年以上芝居として見つづけてきた社会に属している』司馬さん。

そんなん『大石内蔵助を商人にさせて巨富を得させ、野尻湖畔にでも別荘をつくらせて横にお軽でも侍らせた』ようなものではないかと『范蠡は復讐のあと、そういうことをしておったのですか』と、『けしからんといったような顔で(もちろん冗談でしょうが)』中国人の同行者の方にいったそうです。


で、春秋時代というのは、司馬さんが「長安から北京へ」をお書きになった""の中国の史観では「奴隷制社会」になり、范蠡(はんれい)さんは非難されるべき奴隷主の代表であるだろうと。

しかしこの同行者の方は、『いかにもこの伝説が可笑しくて仕様がないといった表情で』


『まあ、伝説ですけれども』



風神の門

ん~「風神の門」だったかな~どうだったかな~。

いえね、昨日范蠡さんの伝説書いてて思い出したんですけどね。
ただこれは司馬さんの小説「風神の門」のラストシーンだったとおもうんですが、これまたン十年前に読んだ記憶のみで書きますので、まあフワフワしとります。

えっとですね、主人公の伊賀忍者霧隠才蔵さん、真田十勇士の一人として、打倒徳川に活躍します。

が、才蔵さんがどれだけ忍術を駆使して獅子奮迅の活躍をしようが、現実に過ぎ去った歴史が転覆するわけもなく、物語のクライマックス大阪夏の陣で豊臣家は滅亡。
才蔵さんの主君真田幸村さんや仲間の猿飛佐助さんたちはみな死んでしまいます。

己や仲間が命をかけた夢や野望はすべて潰え、仇敵である徳川が絶対的に確立した太平の世を生きることになった伊賀忍者霧隠才蔵さん。

さぞや無念だったことでしょう。


と、おもいきや、「風神の門」のラストシーン。
この方ももとはくノ一でしたか、ともに暮らしはじめた恋人に焚いてもらった風呂にゆっくりつかりながら、もう忍者はやめだ、そんな時代じゃねえ、というわけで

「商人にでもなるか~」

な、感じだったと思うんです。


もちろん、あ、この「風神の門」は司馬さんの中国旅行より前に書かれております、で、もちろん、これは太平洋戦争に敗北した日本、んで、もう軍人はやめだ、そんな時代じゃねえ、「商人にでもなるか~」な見方もありかな?と思います。司馬さんがこの小説を書かれた時代のぼんやりとした気分として。

でも、僕は、そういうことはすべておいといて、ホ~ホケキョとウグイスがまぬけに鳴いてるような、今後の人生への妙なウキウキ感があるラストが好きでした、ような気がします。

ええ""です。


さて、話がかわります

安田喜憲さんの「地中の花粉」によるとですね、『昔の花粉の化石』を地中から取り出して調べると、モアイ像でおなじみ『イースター島には昔、ヤシの森があった』『この島は、深い森の島だった』そうなんです。

で、イースター島は溶岩でできている絶海の孤島ですが、島に一か所だけやわらかい『凝灰岩が噴出しているところがあ』るそうなんです。

で、そこで各村々のリーダに似せてモアイ像がつくられていた。

で、その『モアイ像を運ぶため』『コロを使』う。
そのため『たくさんの木が要』る。
同時に、最大で二万人ですか、増えた人口を養うため『タロイモやバナナを作る畑を耕作して森を破壊し』『どんどん木を切った』。

結果、全島を覆っていた(僕の想像)森は消滅。

『雨が降ると』、水を吸収する木々がないために(という言い方でいいのでしょうか)『表土が全部流され』『土地はやせ』『主食のバナナやタロイモが獲れなくな』った。

また、木がないために海にでて魚を獲るための船も作れず、『結果、十六世紀から十七世紀のこのイースター島は、大飢饉に直面した』と。

そう、人びとは『島の森を食べつくしてしまった』。

しかし絶海の孤島であるためにどこにもいけず、最後は『人間が人間を食う事態が引き起こされ』、イースター島の文明は滅んだ。


安田さんは『地球というのは、宇宙という広大な海の中にぽっかり浮かぶ島です』『地球の森を食べつくしてしまったら、どういうことが起こるか』『イースター島ときっと同じことが起こる』だからこそ『宇宙という海の中の小さな島、命の森の島である地球を守っていかなければならない』と話をしめられています。

おや?そういえばここにあるのは東宝特撮映画DVDコレクション第38号「ゴジラ対へドラ」ではないですか!



でも「風神の門」での霧隠才蔵さん。真田幸村さんの部下ではなく、ちょっと一匹狼みたいな感じだったかも

さて、東宝特撮映画DVDコレクション第38号「ゴジラ対へドラ」(昭和46年7月公開)ですよ。

円谷英二さんがお亡くなりになり、なおかつ『邦画の衰退が強くささやかれ』て『潤沢な予算は望』むべくもない状況での『新しいゴジラ』の船出ですよ。

「公害」という重いテーマを作品の軸としたため、『その内容は暗いトーンで統一され』『一種のドキュメンタリー映画の観をも呈し』『シリーズの中でも最も異色な趣が強い作品のため』『熱狂的なファンも多く』『後年の作品への影響も非常に大きなものとなって』いるそうですよ。

で、僕も観て、なるほどそうだろうな、と思いましたよ。

もちろん詳しい人が観たら他にもたくさんあるのでしょうが、ゴジラさんが宇宙生物&ヘドロから生まれたへドラさんの体に手を突っ込み、中からへドラさんの存在の核でもある球体をとりだしたり、自衛隊の人たちが中部地区の電力をすべてとめて、対へドラさんな兵器にそれをまわしたりしたとこは、「おお、エヴァンゲリオン」と思いましたよ。

で、ここからぽんぽんぽんと。

やっぱり当時の学生運動には、こういった「公害」ってのも関係していたんですかね。
でも柴本俊夫(現・柴俊夫)さんが演じた若者、毛内行夫さんは、そういった運動とは無関係のノンポリということでいいんですよね。

が、毛内さんが仲間と共に富士山麓で開いた野外フェスティバルの会場?に突如あらわれたヘドラさん。
「奴の体はヘドロだ。乾燥に弱い。火だ!火が奴の弱点だ!!」と毛内さんは仲間と、このあまりに巨大な敵めがけて、まるで石か火炎瓶でも投げつけるように火のついた木切れを次々と投げつけます。


が、まったく効果はなく、逆にヘドラさんに毒性をもったヘドロを吹き付けられあっさり一掃されます。

え~これはへドラさんが登場する前、都市から来た毛内さんたち若者が、火を焚き、「えじゃないか、えじゃないか、えぇじゃないか」とばかりに、バンドの演奏に合わせて踊っているのを、草むらの中から醒めた目でみつめる地元の老人たち、というシーンもふくめ、そういうことですかね。


で、この「ゴジラ対へドラ」は数字がかなり細かく出てくる気がします。
○○地区、死者何人、行方不明者何人、みたいな、怪獣による被害状況であったり、いろいろ。

他の作品もそんな感じでしたっけ?

そういえば僕が子供のころは、排気ガスとかの現在の数値が細かく出る電光掲示板があった気がします(今もあるかもしれないし、昔もなかったかも。ええ、あやふやです)。

んでそんな""で押しきりますが、そういうことですかね。


で、ゆっくりと向こうからやってくるヘドラさんをみてて、何かににてるな~と思ったら、あれでした、水木しげるさんが描く妖怪に(僕的には)にてました。

んでゴジラさん、ヘドラさんの攻撃にやられて片目が開かなくなっているじゃないですか。
おもわず「おい!鬼太郎!」と思いましたよ。

というわけで、今ちょいと調べたら、漫画連載もアニメも二年くらい前に終わっているけれど「ゲゲゲの鬼太郎」ちょうど大人気じゃないですか。

だってこの「ゴジラ対へドラ」公開年にアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」の第二シリーズが始まり、それにあわせ漫画連載も(掲載誌をかえて)再開してるし。

んで、めんどくさいんでいいですよね、そういうことですかね。


で、ほら、今って、やっぱり空気とか川や海の水とか、当時と比べたら絶対によくなっていると思うんですよ。
全体にならして考えれば。

だから僕は人間そんなにすてたもんじゃないって思っちゃうんですよね。



自衛隊の人たちが中部地区の電力をすべてとめて、これ自衛隊の人たちが関東、中部地区の電力をすべてとめて、でした

でもですよ、たとえ『江青(ジャンチン)同志にみちびかれて』という発言に『おべっかというにおい』があったとしてもですよ、これしょうがないですよね。だって誰が何を聞いているかわからないんだもん。実際によその国のお人とはいえ、司馬さんも、中国で見聞したものをこうして詳細に文章におこされているわけですし。

反革命。
ある日、ある時、今まで存在していた人がいきなりいなくなる。
の、いなくなる人には誰だってなりたくないですよね。

といいますかね、これまったく確かめず、雰囲気で書きますけどね、司馬さんが最初に「長安から北京へ」としてまとめられる旅行記を中央公論に発表したのは、1975年11月から翌76年7月までなんですね。四人組のみなさんが失脚する前なんですね。で、ほんとうに雰囲気で書きますけどね、司馬さんが中国滞在中に接した中国のみなさん。

あ、ちょっと話かわりますが、これも記憶たよりですが、「街道をゆく」で、でしたよね、最初に司馬さんが韓国に行ったのは朴政権下。んで、とある人に「韓国に行ったら旅行中ずっとKCIAにマークされるらしいよ」と忠告を受けたそうです。

KCIA。映画「KT」のイメージ"のみ"で書きますが、KT・金大中さんを東京のホテルで拉致し、暗殺しようとした、拷問、謀殺、なんでもござれのKCIAさんですね。ま、KCIAという固有名詞ではなく、諜報機関みたいな言い方だったかもしれませんけどね。んで、それを聞いて司馬さんは「へ~ずっと隠れてついてくるんだ。俺についてきても何もないのに。暇なのかな?」と思われたそうなんですね。これはポーズではなく、本当にあまり気にしない人だったと僕は思うんですね。

佐藤浩市、香川照之、ゴミ。20180830。

が、これはあくまで司馬さん当人の問題。つうわけで、ほんとうに雰囲気"のみ"で書きますが、司馬さんが中国滞在中に接した中国のみなさん。名前が出てくる人と、出てこない人(同行者みたいな言い方)がいるんですね。たぶん名前が出てくる人の名前が出てこない場合もあると思うんですね。

で、これはあくまで僕の思いつきです。

司馬さん、もしかしたらむちゃくちゃ相手の立場に配慮して文章書かれていませんかね。もちろん権力持っている人が本気で調べりゃすぐわかることなんでしょうが、文化大革命時の体制の"公式見解"に則っている、抵触しない、てのはお相手の名前を書き、則っていない、抵触している、とまではまったく言えなくても、抵触していると揚げ足をとられる可能性が少しでもある、てのは同行者みたいな言い方で名前を出さない。という使い分けを意図的にされていませんかね。

だって誰が何を読んでいるかわからないんだもん。
つうか読むに決まっている。

司馬さんも旅の終わりに、江青さんとともに逮捕、失脚した『中国における要人を六、七人あげれば十分その中に入る』姚文元さんの『礼見』を受けている。かといって日本人の司馬さんに文化大革命時の中国の体制の"公式見解"に則った文章を書かねばならん義務はまったくない、書く気もない。

でも反革命。
ある日、ある時、今まで存在していた人がいきなりいなくなる。
は、避けたいですよね。

いえ、まったく。個人的見解です。20180830。




さて『文革で中央に出てきた。というよりも、文革ののろしをあげた闘将』。『一九六五年、「"海瑞罷官"を評す」によって北京市副市長 呉晗氏を攻撃し、文革の口火をき』り、『「三家村を評す」によって彭真氏らの北京派が崩壊するきっかけをつくり』『「労働者階級は必ずすべてを指導せよ」でもって文革派の政治的方向を明示した、といわれる』姚文元さん。

この姚さんの『接見』を、その逮捕失脚の一年半くらい前ですかね、司馬さんたち"日本作家代表団"のみなさんが受けられた顛末ですが・・・

えっとですね、旅ももうあとわずか、今いる上海近辺を見学してあとは帰国を待つばかり、のはずが、庭園を参観中に「偉い政治家があなた達と会うから急いで北京にもどってくれ」という伝言が来たそうです。で、「その政治家は誰ですか」と聞いても、「まだ名前はわからない、しかし急いで北京にもどっていなければ、先方が(不意に)指定してくる日時に間に合わない」、と言われます。

司馬さんは、そんな接見など『どうでもいいではないか』『客に対して、失礼ではないか』と思うも、『公式の招待旅行である以上』『勝手なことはいえず』、それに『個々の意思を停止させ、思いもよらぬ所へひっぱられてゆく』"命令"というふしぎなものの感覚を、軍隊以来ひさしぶりに『体験するのも、旅の楽しみに繰り入れてもいい』かなと、たぶん無理やり思うことにされたみたいです。


で、まだ日が高いうちに北京にもどり、午後八時をすぎたころ、『会見は、中国共産党中央委員の姚文元氏です』との伝達がきて、『「むずかしい話題を持ち出されないよう、お願いします」と、くりかえし、注意』されつつ人民大会堂に向かいます。

司馬さんは『むずかしい話題とは政治むきのことらしく』『このことは、よく理解できた』『姚氏ひとりが独自の判断で答えるというわけにはいかないからであろう』、つまり『会見はあくまで儀礼』なのである。『礼とは、本来、内容のないもので、内容があれば礼にはならない』。

しかし『姚文元氏と私は、近代精神からいえば、個と個にすぎず、相手に失礼にならないかぎり、あらかじめ話題の制約をうけることはあるまいとも思い』、文革でさかんに礼教を排撃しているのに、姚文元さんはその尖兵であるはずなのに、『やはり、中国は礼教の国であるのか』『と、不思議な思いを持』たれたそうです。

で、その会見自体は""つまり""なのでおいといて、事前の説明は『文芸評論家の出身です』のみだったらしい姚文元さんを司馬さんが間近でみた印象は、『かれは粗末な綿服を着、実用的な靴をはき、紺のクツシタがひどく短く』『クツシタにいたるまで、街や野で働いている人達のそれと同じものをはいていた』。
その表情は『まことに温雅で』はあるものの、『私の常識の中にある政治家(諸価値の調整者という意味での)の顔ではなかった』。

『やはり多分に思想家の顔で』『諸価値を調整するよりも一価値を思索し』『発展させ』『あるいは他の敵対的な価値と戦うといったような感じであった』。


あ、文芸評論家の文字でおもいだしました。
以前僕が引用させてもらった柄谷行人さんのご発言。

『批評家っていうのはやっぱりほうっておくとすごい権力意識があるんですよ』
『小説家を支配しようっていうね。文学運動なんかをやる人はそうよね』
『テクストを解放するなどといっても同じだね。解放する人は支配するのだから』
『文芸批評家の権力意識っていうのはものすごいわけ。普通の政治家よりも格段に強いです』
『中国における文革は何をめぐって発生したと思いますか。文芸評論をめぐってだ』


さて、この会見から約一年半後ですか、1976年10月姚文元さんは逮捕されます。

これはやっぱり彼らの権力の源泉である皇帝、その死。
つまり毛沢東さんが9月に亡くなった影響が大きいんでしょうか。
呂后さんのときもちょっとおもいましたが、僕は生まれてこの方一切無縁なので、実際のトコはわかりませんが、権力って不思議ですよね。

民衆には悪い権力者ではなかったかもな呂后さんですが、宮廷では一族あげてかなりエグイことやりたおしてます。だから呂后さんが亡くなると、そっこう呂一族の大部分が粛清されています。

でもこの老婦人が生きている間は表面上は何事もおこりませんでした。
つまりある人物が生物として生命を保っていること、それ自体が権力のオオモトであると。


そういえば、フルシチョフさんでしたか。

ソ連共産党の大幹部が集まって会議をしているところに「スターリンが死んだ」という連絡があった。
その瞬間、みんないきなり明るくなった、みたいな話をされたのは。

road gang,gang up on{against}20180830


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文章はここまでです。
次の日、東北大震災発生。

この終わりの方の文章は、中国の文革に託して当時日本で自分がおかれていた状況への不満を書いています。

今なら、確実にこうは書かないと思います。
もちろん状況自体がまったく違います。
今現在、このような文章を書く切迫性はどこにもありません。
ないから書かない、それは当然です。

しかし、今の僕なら、今の僕が、ポンと、この頃の状況にほうりこまれても、こうは書かないと思います。

それは、単に、現在の僕の立場として、気をつかう、とか、配慮、とも、ちがうとおもいます。
己の不満をのべる写し絵として、という表現が正しいかわかりませんが、そのためだけに違う何かを、よく知りもせずに利用する。

これを書いた当時、今もそう変わりませんが、僕は文革について何も知りませんでした。
何だろう?
文革肯定というわけではまったくありません。
知らずに肯定も否定もありませんが。
正直、否定する感覚のほうが僕の中では強いですが。

ただ"文革"という、いわれる時代を実際に生きた人たちがいて。

姚文元さんももちろんその一人で。
廖承志さんももちろんそうで。
唐家璇さんも。

また、「伝説ですけど」と笑った同行者の方も。
「江青同志に導かれて」と言われた方も。
もちろん江青さんも。
毛沢東さんも。
劉少奇さんも。
「毛さんが皇帝になってくれて本当に良かった」、と話された市井の老大人も。

何億という人も。

このような利用の仕方はこの人たちにあまりにも失礼だ。


これは韓国のソヌヒさんのお言葉ですが。
私が韓国以外の国について書く場合、書くべきことはもちろん書く。
ただし、その国の友人が、これはたとえ友人がいなくとも、もしもいるのなら、を含めてだと思いますが、その国の友人が、私の文章を読んだらどう思うだろう。
それを常に考えて書く。

これは気を使っているのか?()

ただ、今はそう思います。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・


そして震災。

最初は気にせず、このまま続きを書こうとしました。
実際、まだ、その書きかけの下書きは残っているかもしれません。
ただ、あることがきっかけで、それをやめました。
それからは、がんばってください、と、ずっと書いてた気がします。

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