amaterasu kingdom dimensionsⅥ-45-大杉栄 自叙伝Ⅱ。- Osugi Sakae : Autobiography II.
で。2026081213:09(日本時間)。
三
十幾番かではいった僕は、学年試験の結果七、八番かに席順があがった。
が、この学科の上で席順を争うということは、中学校以来僕にはまるでないことだった。一番とか二番とかいう奴は、気のきかない、糞勉強の馬鹿だときめていた。「なあに、実力では遙かに俺の方が上だ」とひそかに威張っていた。そしてただいい加減上の方の席にいることで、十分満足していた。で、学科は、前にも言ったように好きな語学に耽るほかは、ことさらに勉強する必要もなくまた碌に勉強もしなかった。
しかし腕力とか暴力とか、またはそれにもとづく勢力とかの上では最初から決して人後に落ちなかった。もっとも単なる腕力では、せいの順で右翼から十四、五人目の僕は、とても一番とは行かなかったろう。が、暴力とか勢力とかいうことになれば、それには大ぶ趣きが違って来る。それに僕には愛知県という絶対多数の背景があった。
古参生等の「仲間」にはいった僕には、まず同級生等の間で傍若無人の振舞いをした。僕と同じ寝室のものや左翼の寝室のものは黙っていた。が、中の寝室のものの中に、中村という男がいた。東京のもので、口先きばかりでなく、真から元気のいい男だった。そいつが、僕がそいつの隣りの何とかいう男のところへ夜遊びに行くのを、愚図愚図言い出した。まだ外にも二、三人それに同ずるものがあったようだった。ある晩僕は、何かのことからその中村を、そいつの寝室のみんなの見ている前でなぐりつけた。奴は腕まくりしながら黙って、なぐられて笑っていた。それでそいつは友達になってしまった。この中村はその後肺を悪くして死んだ。そしてその弟の彝[#読みは「つね」]というのが第五期にはいって来た。西洋画のあの中村彝君がそれだ。
また、同じ寝室で、僕よりも右翼に佐藤というのと河野というのとがいた。どちらも、武揚学校という名古屋での陸軍予備校から来たもので、その友達が多かった。国の名古屋のものは、大がいその友達だった。中にも、僕よりも右翼にいた浜村というのと坂田というのとがよほど親しかった。その佐藤と河野とがちょいちょい僕に敵意を見せだした。そして浜村や坂田は、そんな時には、僕の敵だか味方だか分らん変な態度を取った。その中のどの一人でも僕には強敵なのに、こう大勢で組んで来られてはとても堪らなかった。さっそく僕は浜村と坂田とを呼んで、「佐藤と河野との二人と決闘するが、君等の態度をはっきりきめろ」と言った。二人は中立を誓った。で、僕はすぐに、まず大きな方の佐藤を呼び出した。同期生じゅうで一番大きな男で、撃剣も一番うまかった。器械体操場の金棒の下へ連れて行って、そこでいきなり殴りつけた。げんこは眼にあたった。彼はほろほろ涙を流して、黙ってその眼を押えていた。そこへ浜村と坂田とが心配して見に来た。そして二人の中へはいった。河野はすぐに好意を見せて来た。そして五人は、五人組をつくって、何でもの悪いことの協同者となった。
四、五年前に、ふとこの佐藤が訪れて来た。子供の時の友達だというので、誰かと思って玄関へ出て見たら、昔のままのせいの高い顔一ぱい濃い髯の彼だった。連隊長とかと喧嘩して予備になったんだそうだが、今になって止されるくらいなら、あの時分一緒に退校されるんだったなあなどと、職業の世話を頼みながら今の僕をうらやんでいた。その後南米行き移民の監督か何かにありついたとか言っていたが、どうしたか。そしてついうっかりして、昔僕が殴った眼の中の赤い疵[#「疵」は底本では「やまいだれ+比」]のあとが、まだ残っているかどうかも見落してしまった。
撃剣は佐藤の次が僕だった。器械体操は佐藤と河野と僕とが相伯仲していた。が、駈足は僕が一人図抜けて早かった。僕等の班長をしていた河合という曹長が、これも駈足をお得意としていたが、いつも口惜しがりながら僕のあとについて来た。
学科の済んだあとで、毎日そんな遊戯をやらされていたが、そのほかにもよくフットボールや綱引をやった。そしてこの二つの遊びでは、班長が組を分けるのに困ってしまった。最初前列と後列とに分けた。すると幾度やっても僕のいる前列が勝った。で、こんどは、僕一人だけを後列の方の組に廻して見た。後列が勝った。フランス語の組とドイツ語の組とに分けても見た。が、それでもやはり僕のいるフランス語の方が勝った。仕方なしに班長は「君はそばで見ていろ」と言って、僕を列の中から出してしまったこともあった。
が、困ったのは遊泳だった。
最初の夏は、伊勢のからすという海岸へ遊泳演習に行った。
先生は観海流の何とかいう有名なお爺さんで、若い時には伊勢から向う岸の尾張の知多半島まで、よく泳いでは味噌を買いに行ったという話のある人だった。学校にはこの伊勢出身で、観海流の三里や五里という遠泳に及第したものもいた。ことに佐藤などは一番の名人だった。その他にも、名古屋出身のものは大ていみなこの観海流を泳いだ。
子供の時からよく川遊びや海遊びはやったが、ぱちゃぱちゃ騒ぎ廻るほかにまるで泳げなかった僕は、実に閉口した。そして第一日目の試験に力一ぱいでようやく二、三間泳いで、一番下の丙組へ編入された。
古参生や同期生の助手連が、僕等の足首を握って、その観海流というのを教えた。が、僕はそれを教えられるのが癪なのと、足首を握られるのがいやなのとで、いつも逃げ廻っては我流の犬泳ぎで泳いでいた。
それでも一週間目の第二回の試験には、僕はその犬泳ぎで千メートル泳いで、甲組にはいった。そして二週間目の最後の試験には、やはりその犬泳ぎで最大限の四千メートル泳いで、来年は助手ということになった。
その来年には知多半島の大野へ行った。僕は名は助手でも、観海流も何にも教えることはできなかった。そして自分の受持った丙組の幾人かをただ勝手に遊ばして置いた。が、二週間目の最後の試験の時には、その中から一人、やはり我流の犬泳ぎで四千メートル泳ぎ通したのが出た。それは僕が可愛がっていた第四期生のまだほんの子供で、途中で泣きそうになるのを絶えずそばから激励して、無理やり引っぱって行ったのだった。そしてその子は、本当のゼロから出立してそこに到達した、その年のたった一人として好成績を歌われた。
最近、汽車の中でこの男に会ったが、参謀肩章なぞをさげて立派な士官になっていた。はじめ僕はすぐ前にいるのにそれと気がつかなかったが、向うで名刺を出して見せて、「御存じでしょうな」と言われたのでやっと分った。やはり昔のように、「ハア、ハア……何とかであります」と上官にもの言うように話していた。その時にはまだ大尉だったが、この頃ではもう少佐になったろう。
四
僕の腕白は二年になってますますひどくなったが、それと同時にまた僕の頭を圧える奴が出て来た。それは、第一期生が出て行ったあとで初めてその頭をあげた、第二期生だった。
僕は第一期生の「仲間」と一緒に、外套を頭からかぶって、第二期生の左翼の寝室を襲うたこともあった。また第二期生の「少年」をちょいちょいからかったこともあった。そんなことは古参生たる第二期生どもには非常な憤慨であったに違いない。そしてその少年の一人のいた石川県人どもが、まず僕を目のかたきにしだした。
彼等は僕の「生意気」な事実をいろいろと挙げて、国の第二期生等に僕の処分を迫った。国の第二期生には浅野という「仲間」の首領がいた。が、彼にもそれをどうともすることもできなかった。また、国の第二期生の中にもひそかに僕を憎んでいる奴等があった。その結果僕はしばしば殴られた。大勢で取り囲んで、気をつけの姿勢をとらして置いて、ぽかぽか殴るんだ。石川県の奴等もよくこうして殴った。
この制裁にはいっさい手を出すことができなかった。古参生には反抗することができないのだ。僕はただ倒れないだけの用心をして黙って打たれていた。倒れると、蹴られる恐れがある。が、げんこで殴られるだけなら高が知れている。そして僕は、できるだけ落ちついて、そのげんこの飛んで来るたびに一つ二つと腹の中で勘定していた。
その勘定のできる間は、どんなにひどく打たれても我まんができた。が、どやどやと大勢が一ぺんにのしかかって来て、どいつがどう殴るんだか分らなくなると、我まんができなくなった。ことに、後ろや横からそっと蹴る奴があったりすると、そしてこれは実によくあったのだが、もうどうしても我まんができなかった。が、気をつけの姿勢のまま手出しをすることのできない僕は、ただ黙ってそいつを睨みつけることのほかに仕方がなかった。
前に班長という言葉を使ったが、これは下士官で、生徒監の士官を助けて、生徒の監督をしていた。それが一級に曹長一人と軍曹一人といた。
河合軍曹は僕を可愛がって、大がいのことは大目に見てくれた。よくいろんな犯行を見つけたが、いつも大きな声で怒鳴るだけで、めったにそれを生徒監に報告することはなかった。
が、間もなくこの河合軍曹が転任になって、何とかいうばかに長っ細い曹長が来た。この曹長はよく妙な手帳をひろげては、自習室を廻ってみんなの顔とそれを見くらべていた。ある時僕はそっとその手帳をのぞきこんで見た。そこには、勇敢とか粗暴とか寛仁とか卑劣とかいうような言葉がならんでいて、その下に二、三行ずつその説明らしい文句がついていた。曹長はきっと、この手帳の中にある二字ずつのどれかの言葉によって、みんなの性格をきめていたのだ。
曹長は来るとすぐ僕を変な目で見だした。またこの曹長が来ると同時に、それまで僕等が坊ちゃん軍曹だとかガルソン軍曹だとかあだ名していたほどおとなしかった、もう一人の班長の稲熊軍曹が、急に意地悪くなり出した。そして二人で僕のあとを嗅ぎ廻っては、何やかやと生徒監に報告した。
その結果はほとんどのべつ幕なしの外出止めとなった。一週間にたった一日の日曜の外出を止められるんだ。それも、汚れた靴下を戸棚の奥に突っこんであったとか、昼、寝台に腰かけていたとか。その他、今ちょっと思い出せないような馬鹿馬鹿しいことばかりでだ。
二階の僕等の寝台の向いに下士官等の室があった。僕等はよくそこへ、煙草がなくなると、夜盗みに行った。夜は週番の下士が一人その下の室に寝ていた。
ある時もみんなの煙草が切れてしまった。河野が一番に盗みに行った。その次に僕が行った。が、僕はその室へはいって行って机の引き出しに手をかけた時、「コラ」と言って捕まってしまった。それは週番の稲熊軍曹だった。
僕は当直の生徒監の室へ引っぱって行かれた。
「実は数日前から、もっともその以前にもちょいちょいあったのですが、下士室でみんなの煙草がよくなくなりましてことにきのうは私の金が少々なくなったのです。で、きょうは是非その犯人を取りおさえようと待ち構えていましたが、はたしてこの大杉が室へ忍びこむのを見まして、今取りおさえて来ました。」
軍曹は勝ち誇ったようにして吉田中尉に報告した。中尉は僕等第三期生の受持で、国の出身で、そして僕を可愛がっていた唯一の士官だった。中尉は青くなった。そして軍曹には詳しい報告書を書いて来るようにと言ってその出て行ったあとで僕を訊問し出した。
「煙草なぞ盗ったことはありません。金も勿論のことです。きょうはズボンのボタンが一つなくなったので、今晩じゅうにつけて置こうと思ってそれを取りに行ったのです。」
僕はあくまで泥棒の事実は否認した。
「そのズボンというのはどのズボンか。」
「今はいているこのズボンです。」
僕はそう言って、軍曹に引っぱられて来る途中にあらかじめ引きちぎって置いた、ボタンのあとを見せた。
「うん……」
中尉はこううなずいたまましばらく黙って何か考えていた。金でも煙草でも、とにかく盗んだとあれば、勿論すぐさま退校だ。また、単にボタンを取りにはいったとしても、夜無断ではいるべからざる室へはいったのだから、重営倉は免れない。それに、ただそうとして処分して置いても、下士からの報告の嫌疑は免れない。それでは本人の将来にもかかわる。また自分の責任にもなる。
中尉は軍曹を呼んだ。そしてこういったその考えを、僕にも聞かせるようにして話して、本人の将来のためにその報告書を破ってくれないかと頼むように言った。
軍曹は不承不承に承知した。が、それ以来軍曹や曹長の目はますます僕の上に鋭くなった。
"from【全話配信中】巨人の星⚾第127~132話「テストされる川上監督」「必殺の大リーグボール二号」「一徹の秘策」「左門の挑戦」「消える魔球の推理」「天才・花形の敗北」"
で。2026081304:36(日本時間)。
五
第二期生付の何とかという中尉は、自分の受持でない僕に対しては、ほとんど無関心だった。が、第四期生付の北川大尉は、そのまだ第一期生付であった頃から、妙に僕を憎みだした。
学校の前庭で彼に会う。僕はその頃の停止敬礼というのをやる。一間ばかり前で止まって、挙手の礼をするのだ。すると彼はきまってしばらく僕を睨みつけて、帽子のひさしに当てた指先の位置がどうの、掌の向けかたがどうのと、何かの小言を言った。そしてうまく上衣かズボンのボタンでもはずれているのを見つければ、すぐその次の日曜日は外出止めと来た。また、めずらしく今日は外出ができると思って喜んでいると、銃器の検査だとか清潔検査だとか触れて寝室にはいって来て、銃の手入が足りないとか靴に埃がかかっているとか言って、せっかく服まで着換えているのを外出止めにした。
ある日大尉は、夕飯の時に、きょうの月は上弦か下弦かという質問を出した。
「大杉!」
僕は自分の名を呼ばれて立った。それが下弦だということは勿論僕は知っていた。けれども僕には、そのかという音が、どうしても出て来なかった。吃りにはか行とた行、ことにか行が一番禁物なのだ。いわんや、さらにその下にもう一つか行のげが続くのだ。
「上弦でありません。」
仕方なしに僕はそう答えた。
「それでは何だ?」
「上弦でありません。」
「だから何だと言うんだ?」
「上弦でありません。」
「だから何だ?」
「上弦でありません。」
「何?」
「上弦でありません。」
問い返されればますます言葉の出て来ない僕は、軍人らしく即答するためには、どうしてもそう答えるよりほかに仕方がなかった。それを知っているみんなはくすくす笑った。
「よろしい。あしたは外出止めだ。」
大尉はそう言い棄てて、「直れ!」の号令でみんなが直立不動の姿勢をとっている間を、さっさと出て行ってしまった。
吃りのことのついでに、僕の吃りをもう少しここに書いて見よう。
母はそれを小さい時にわずらった気管支のせいにしていた。が、父方の親戚に大勢吃りのあることは前にも言った。生れつきの吃りであったらしい。そして小学校の頃には半分唖のようだったことを記憶している。その吃るたんびに母に叱られて殴られたこともやはり前に言った。
父はそれを非常に心配して、「吃音矯正」というような薬を本の広告で見ると、きっとそれを買って僕にためして見た。が、いつもその効は少しもなかった。
こう言うとよく人は笑うが、僕には一種ごく内気な恥かしやのところがある。ちょっとしたことですぐ顔を赤くする。人前でもじもじする。これも生れつきではあろうと思うが、吃りの影響も決して少なくはあるまい。また、言いたいことがなかなか言えないので、じりじりする。いら立つ。気も短かくなる。また、人が何か笑っていると、自分の吃るのを笑っているのじゃあるまいかと、すぐ気を廻す。邪推深くなる。というような精神上の影響がかなりあるように思う。
が、もう一度北川大尉の話にもどる。
ある晩、学校のすぐ裏の裁判所から火事が出た。僕等は不時呼集の訴えるようなラッパの声で目がさめた。学校の教室と塀一つで隔てて隣り合った登記所が燃えていた。
三年生はすぐポンプを出して消防に当った。
二年生はあちこちの警衛に当った。
北川大尉は、それぞれの命令を終ると、「大杉!」と僕を呼んで、さらに五、六人組の他の四人とほかに一、二名呼んで、すぐ御真影を前庭へ持ち出して、その警護をするようにと命じた。僕等はそれを非常な光栄と心得て、喜んで飛んで行った。
そこへ、しばらくして不時呼集で駈けつけた何とかいう連隊長が来て、僕等の立っている植込のそばで小便をしようとした。
「連隊長殿、ここに御真影があります。」
僕は大きな声で怒鳴りつけた。連隊長は恐縮して、敬礼して、立ち去った。僕等は非常に緊張した心持で、朝までその御真影のそばに立ち尽した。そして僕は、その間、北川大尉に対するふだんの反感をまるで忘れていた。
また、その後、と言っても僕が幼年学校を退校した後のことであるが、僕よりも一年上だった田中という男が、喧嘩で中央幼年学校を退校させられて、僕の下宿にたよって来た。田中は北川大尉と同国の伊勢だった。で、田中のおやじさんは心配して北川大尉を訪ねた。
「大杉と一緒にいるんですか。それならちっとも心配は要りません。」
田中のおやじさんは、それで安心して、息子のところへ学費を送って来た。
僕は田中のおやじさんのこの手紙を見た時、どういうつもりなのか、北川大尉の気持がちっとも分らなかった。
下士どもの僕に対する追窮はますます残酷になった。そしてついに、もう一度、あぶないところで退学されかかった。
四月の半ば頃に、全校の生徒が、修学旅行で大和巡りに出かけた。奈良から橿原神宮に詣でて、雨の中を吉野山に登って、何とかというお寺に泊った。第二期生だけがほかの宿で、第四期生と僕等とが一緒だった。
修学旅行や遊泳演習の時には、それがほとんど毎晩の仕事であったように、「仲間」のものは左翼や下級生の少年を襲うた。その晩も僕等は、坂田と一緒に、第四期生の寝室に押しかけた。
その途で僕は、稲熊軍曹がその室のふすまの隙間から、僕等を窺っているようなのを察した。が、そうした場合によくなるようになれという気になる僕は構わず目ざす方へ進んでいった。
しばらくすると、広い室の向うの障子が少し開いて、そこから軍曹らしい顔が見えた。僕はある少年の(十一字削除)いたところであった。軍曹の顔が引っこんだ。まだその辺をうろついていたらしい坂田は、急いで反対の方の側の障子から逃げた。僕は黙って軍曹の引っこんだあとを見ていた。
軍曹は曹長を連れて来た。そしていきなり僕を引っぱって行った。
その晩はそれっきりで何のこともなく過ぎた。翌日は多武峯を裏から登って、向うの麓の桜井に降りた。僕等は同期生の右翼だけでそこの小さな宿屋に泊った。おはちを三度ばかり代えさせたりして大いに騒いだ。が、まだ何のこともなかった。僕等は処分なしかなとか、学校へ帰ってからだろうとか話していた。
その翌日は長谷の観音から三輪神社に出た。そしてこの三輪神社の裏の森の中で、とうとう来なければならないことが来た。校長の山本少佐が、全生徒に半円を画かせて、厳かに僕に対する懲罰の宣告を下した。罰は、重営倉十日のところ、特に禁足三十日に処すというのだ。
六
僕はこの懲罰がどうしてあんなに僕を打撃したのかよく分らない。僕は生れて初めて、そして恐らくは絶後であろうと思うが、本当に後悔した。三十日間の禁足をほとんど黙想に暮した。そして従来の生活を一変することに決心した。
まず煙草をよした。そして今までは暴れ廻ることに費していた休憩時間を、多くは前庭の植物園に暮した。
学校の前庭は、半分が器械体操場で他の半分が立派な植物園だった。温室も大きいのが一つと小さいのが一つとあった。そしてその間に、僕等が「天文台」と呼んでいたものが立っていた。実際そこには気温、気圧、風力、雨量などを計るかなり精巧な器械や、地震計などが備えつけられてあった。
中学校の三、四年程度までしかやらない初等学校で、こんな設備のあるのは、恐らくは今でも他にはあるまいと思う。だが、この設備は、生徒のためではなくって先生のためのものだったようだ。博物と理化の先生が校長とよく知っていて、最初学校を建築する時に、その先生が設計したのだといううわさがあった。先生は一人の若い助手と一緒に、いつも、やはりこの学校の分には過ぎた立派な設備の理化学実験室や、この天文台や植物園で暮していた。が、生徒にそれを十分利用することは少しも教えなかった。そして僕等が学校を出てから、どこかからその批難が起って、この天文台は師範学校かどこかへ売ってしまった。
僕はこの植物園の中を、小さな白い板のラテン語の学名や和名などを読みながら、歩き暮した。そして絶えず今までの生活を顧みながら考えていた。
この反省はさらに、僕を改心というよりもほかの、他の方向へ導いて行った。
それは僕がはたして軍人生活に堪え得るかどうかということであった。吉野の事件では、将校会議で僕の退校処分を主張した士官もあったそうだが、そして北川大尉の代りに来た国の津田大尉と受持の吉田中尉とのお蔭でようやく助かったのだそうだが、実際僕は退校する方がいいのじゃあるまいかと考えだしたことだ。
下士どもの僕に対する犬のような嗅ぎまわりは、僕の改心に何の頓着もなく続いた。そして時々やはり、何かの落度を見つけた。僕はまず、はたしてこの下士どもの下に辛抱ができるかと思った。彼等を上官として、その下に服従して行くことができるかと思った。尊敬も親愛も何にも感じていない彼等に、その命令に従うのは、服従ではなくして盲従だと思った。
そしてこの盲従ということに気がつくと、他の将校や古参に対する今までの不平不満が続々と出て来た。
僕は初めて新発田の自由な空を思った。まだほんの子供の時、学校の先生からも遁れ、父や母の目からも遁れて、終日練兵場で遊び暮したことを思った。
僕は自由を欲しだしたのだ。
こうした気持はまた読書によってもよほど誘い出されたことと思う。
学校では、学校で渡す教科書や参考書のほかは、いっさい読書を厳禁してあった。しかしいろんな書物がひそかに持ちこまれた。
もう人の名も本の名もよくは覚えていないが、たとえば大町桂月とか塩井雨江とかいうような当時の国文科出身の新進文学士や、久保天随とか国府犀東とかいう漢文科出身の新進文学士が、しきりに古文もどきや漢文もどきの文章を発表した時代だ。僕はそんなものをしきりに耽読した。
僕が今ここに塩井雨江という名を挙げたのは、その人の何かの文章の中に「人の花散る景色面白や」とあったのが、当時の僕の読んだものの中で覚えているたった一つのことだからである。誰の何が僕にどんな影響を与えたかは何にも記憶しない。
しかしたぶん、それらの本の中には、恐らくは幼稚なしかし自由で奔放な、ロマンティズムが流れていたのではなかったかと思う。
そんな読書の影響であろうが、僕もその頃から擬古文めいたものを書いていた。これは三年になってからのことであるが、「離宮拝観記」というものを書いて、四宮憲章という漢文の先生から、「才多からざるに非ず、文巧みならざるに非ず、ただ柔弱、以て軍人の文とす可らず」という批評を貰ったことを覚えている。その前半がきっとよほどのお得意で、そして後半がよほどの不平だったのだろうと思う。
が、二年の時の何とかいう国語の先生は、僕のこの「才」を大いに愛してくれた。そしてある雪の日の作文の時間に、こんな日の練兵は「豪快」でもあろうが、しかしまた何とかでもあろうと言って、その何とかという熟字を教えてくれた。僕はさっそく僕の文章の中にその熟字を使った。
それから数日して、僕は生徒監に呼ばれて、本当にそう思ったのかと尋ねられて、よし本当でもそんなことは書くものでないと叱られた。あとで聞くと、先生もそんな字を教えるんじゃないと叱られたそうだ。
僕は先生の家へ一、二度遊びに行った。先生は、そうした(七字削除)しさや、先生が判任官なので軍曹とともに一緒に食事しなければならないことなどを、しきりにこぼして聞かした。
「君はいい時に出た。僕もとうとう出されちゃったよ。何か仕事はないかね。」
その後五、六年たって、ふと道で先生と会った時、先生はさびしそうに笑いながら言っていた。
その夏僕は、訓育(実科)では未曽有の十九点何分(二十点満点)で一番、学科では十八点何分で二番、操行ではこれまた未曽有の十四点何分で下から一番、平均して三十五番か六番かという成績表を持って、今までの僕にはなかった陰欝な少年となって新発田へ帰った。
第二期生付の何とかという中尉は、自分の受持でない僕に対しては、ほとんど無関心だった。が、第四期生付の北川大尉は、そのまだ第一期生付であった頃から、妙に僕を憎みだした。
学校の前庭で彼に会う。僕はその頃の停止敬礼というのをやる。一間ばかり前で止まって、挙手の礼をするのだ。すると彼はきまってしばらく僕を睨みつけて、帽子のひさしに当てた指先の位置がどうの、掌の向けかたがどうのと、何かの小言を言った。そしてうまく上衣かズボンのボタンでもはずれているのを見つければ、すぐその次の日曜日は外出止めと来た。また、めずらしく今日は外出ができると思って喜んでいると、銃器の検査だとか清潔検査だとか触れて寝室にはいって来て、銃の手入が足りないとか靴に埃がかかっているとか言って、せっかく服まで着換えているのを外出止めにした。
ある日大尉は、夕飯の時に、きょうの月は上弦か下弦かという質問を出した。
「大杉!」
僕は自分の名を呼ばれて立った。それが下弦だということは勿論僕は知っていた。けれども僕には、そのかという音が、どうしても出て来なかった。吃りにはか行とた行、ことにか行が一番禁物なのだ。いわんや、さらにその下にもう一つか行のげが続くのだ。
「上弦でありません。」
仕方なしに僕はそう答えた。
「それでは何だ?」
「上弦でありません。」
「だから何だと言うんだ?」
「上弦でありません。」
「だから何だ?」
「上弦でありません。」
「何?」
「上弦でありません。」
問い返されればますます言葉の出て来ない僕は、軍人らしく即答するためには、どうしてもそう答えるよりほかに仕方がなかった。それを知っているみんなはくすくす笑った。
「よろしい。あしたは外出止めだ。」
大尉はそう言い棄てて、「直れ!」の号令でみんなが直立不動の姿勢をとっている間を、さっさと出て行ってしまった。
吃りのことのついでに、僕の吃りをもう少しここに書いて見よう。
母はそれを小さい時にわずらった気管支のせいにしていた。が、父方の親戚に大勢吃りのあることは前にも言った。生れつきの吃りであったらしい。そして小学校の頃には半分唖のようだったことを記憶している。その吃るたんびに母に叱られて殴られたこともやはり前に言った。
父はそれを非常に心配して、「吃音矯正」というような薬を本の広告で見ると、きっとそれを買って僕にためして見た。が、いつもその効は少しもなかった。
こう言うとよく人は笑うが、僕には一種ごく内気な恥かしやのところがある。ちょっとしたことですぐ顔を赤くする。人前でもじもじする。これも生れつきではあろうと思うが、吃りの影響も決して少なくはあるまい。また、言いたいことがなかなか言えないので、じりじりする。いら立つ。気も短かくなる。また、人が何か笑っていると、自分の吃るのを笑っているのじゃあるまいかと、すぐ気を廻す。邪推深くなる。というような精神上の影響がかなりあるように思う。
が、もう一度北川大尉の話にもどる。
ある晩、学校のすぐ裏の裁判所から火事が出た。僕等は不時呼集の訴えるようなラッパの声で目がさめた。学校の教室と塀一つで隔てて隣り合った登記所が燃えていた。
三年生はすぐポンプを出して消防に当った。
二年生はあちこちの警衛に当った。
北川大尉は、それぞれの命令を終ると、「大杉!」と僕を呼んで、さらに五、六人組の他の四人とほかに一、二名呼んで、すぐ御真影を前庭へ持ち出して、その警護をするようにと命じた。僕等はそれを非常な光栄と心得て、喜んで飛んで行った。
そこへ、しばらくして不時呼集で駈けつけた何とかいう連隊長が来て、僕等の立っている植込のそばで小便をしようとした。
「連隊長殿、ここに御真影があります。」
僕は大きな声で怒鳴りつけた。連隊長は恐縮して、敬礼して、立ち去った。僕等は非常に緊張した心持で、朝までその御真影のそばに立ち尽した。そして僕は、その間、北川大尉に対するふだんの反感をまるで忘れていた。
また、その後、と言っても僕が幼年学校を退校した後のことであるが、僕よりも一年上だった田中という男が、喧嘩で中央幼年学校を退校させられて、僕の下宿にたよって来た。田中は北川大尉と同国の伊勢だった。で、田中のおやじさんは心配して北川大尉を訪ねた。
「大杉と一緒にいるんですか。それならちっとも心配は要りません。」
田中のおやじさんは、それで安心して、息子のところへ学費を送って来た。
僕は田中のおやじさんのこの手紙を見た時、どういうつもりなのか、北川大尉の気持がちっとも分らなかった。
下士どもの僕に対する追窮はますます残酷になった。そしてついに、もう一度、あぶないところで退学されかかった。
四月の半ば頃に、全校の生徒が、修学旅行で大和巡りに出かけた。奈良から橿原神宮に詣でて、雨の中を吉野山に登って、何とかというお寺に泊った。第二期生だけがほかの宿で、第四期生と僕等とが一緒だった。
修学旅行や遊泳演習の時には、それがほとんど毎晩の仕事であったように、「仲間」のものは左翼や下級生の少年を襲うた。その晩も僕等は、坂田と一緒に、第四期生の寝室に押しかけた。
その途で僕は、稲熊軍曹がその室のふすまの隙間から、僕等を窺っているようなのを察した。が、そうした場合によくなるようになれという気になる僕は構わず目ざす方へ進んでいった。
しばらくすると、広い室の向うの障子が少し開いて、そこから軍曹らしい顔が見えた。僕はある少年の(十一字削除)いたところであった。軍曹の顔が引っこんだ。まだその辺をうろついていたらしい坂田は、急いで反対の方の側の障子から逃げた。僕は黙って軍曹の引っこんだあとを見ていた。
軍曹は曹長を連れて来た。そしていきなり僕を引っぱって行った。
その晩はそれっきりで何のこともなく過ぎた。翌日は多武峯を裏から登って、向うの麓の桜井に降りた。僕等は同期生の右翼だけでそこの小さな宿屋に泊った。おはちを三度ばかり代えさせたりして大いに騒いだ。が、まだ何のこともなかった。僕等は処分なしかなとか、学校へ帰ってからだろうとか話していた。
その翌日は長谷の観音から三輪神社に出た。そしてこの三輪神社の裏の森の中で、とうとう来なければならないことが来た。校長の山本少佐が、全生徒に半円を画かせて、厳かに僕に対する懲罰の宣告を下した。罰は、重営倉十日のところ、特に禁足三十日に処すというのだ。
六
僕はこの懲罰がどうしてあんなに僕を打撃したのかよく分らない。僕は生れて初めて、そして恐らくは絶後であろうと思うが、本当に後悔した。三十日間の禁足をほとんど黙想に暮した。そして従来の生活を一変することに決心した。
まず煙草をよした。そして今までは暴れ廻ることに費していた休憩時間を、多くは前庭の植物園に暮した。
学校の前庭は、半分が器械体操場で他の半分が立派な植物園だった。温室も大きいのが一つと小さいのが一つとあった。そしてその間に、僕等が「天文台」と呼んでいたものが立っていた。実際そこには気温、気圧、風力、雨量などを計るかなり精巧な器械や、地震計などが備えつけられてあった。
中学校の三、四年程度までしかやらない初等学校で、こんな設備のあるのは、恐らくは今でも他にはあるまいと思う。だが、この設備は、生徒のためではなくって先生のためのものだったようだ。博物と理化の先生が校長とよく知っていて、最初学校を建築する時に、その先生が設計したのだといううわさがあった。先生は一人の若い助手と一緒に、いつも、やはりこの学校の分には過ぎた立派な設備の理化学実験室や、この天文台や植物園で暮していた。が、生徒にそれを十分利用することは少しも教えなかった。そして僕等が学校を出てから、どこかからその批難が起って、この天文台は師範学校かどこかへ売ってしまった。
僕はこの植物園の中を、小さな白い板のラテン語の学名や和名などを読みながら、歩き暮した。そして絶えず今までの生活を顧みながら考えていた。
この反省はさらに、僕を改心というよりもほかの、他の方向へ導いて行った。
それは僕がはたして軍人生活に堪え得るかどうかということであった。吉野の事件では、将校会議で僕の退校処分を主張した士官もあったそうだが、そして北川大尉の代りに来た国の津田大尉と受持の吉田中尉とのお蔭でようやく助かったのだそうだが、実際僕は退校する方がいいのじゃあるまいかと考えだしたことだ。
下士どもの僕に対する犬のような嗅ぎまわりは、僕の改心に何の頓着もなく続いた。そして時々やはり、何かの落度を見つけた。僕はまず、はたしてこの下士どもの下に辛抱ができるかと思った。彼等を上官として、その下に服従して行くことができるかと思った。尊敬も親愛も何にも感じていない彼等に、その命令に従うのは、服従ではなくして盲従だと思った。
そしてこの盲従ということに気がつくと、他の将校や古参に対する今までの不平不満が続々と出て来た。
僕は初めて新発田の自由な空を思った。まだほんの子供の時、学校の先生からも遁れ、父や母の目からも遁れて、終日練兵場で遊び暮したことを思った。
僕は自由を欲しだしたのだ。
こうした気持はまた読書によってもよほど誘い出されたことと思う。
学校では、学校で渡す教科書や参考書のほかは、いっさい読書を厳禁してあった。しかしいろんな書物がひそかに持ちこまれた。
もう人の名も本の名もよくは覚えていないが、たとえば大町桂月とか塩井雨江とかいうような当時の国文科出身の新進文学士や、久保天随とか国府犀東とかいう漢文科出身の新進文学士が、しきりに古文もどきや漢文もどきの文章を発表した時代だ。僕はそんなものをしきりに耽読した。
僕が今ここに塩井雨江という名を挙げたのは、その人の何かの文章の中に「人の花散る景色面白や」とあったのが、当時の僕の読んだものの中で覚えているたった一つのことだからである。誰の何が僕にどんな影響を与えたかは何にも記憶しない。
しかしたぶん、それらの本の中には、恐らくは幼稚なしかし自由で奔放な、ロマンティズムが流れていたのではなかったかと思う。
そんな読書の影響であろうが、僕もその頃から擬古文めいたものを書いていた。これは三年になってからのことであるが、「離宮拝観記」というものを書いて、四宮憲章という漢文の先生から、「才多からざるに非ず、文巧みならざるに非ず、ただ柔弱、以て軍人の文とす可らず」という批評を貰ったことを覚えている。その前半がきっとよほどのお得意で、そして後半がよほどの不平だったのだろうと思う。
が、二年の時の何とかいう国語の先生は、僕のこの「才」を大いに愛してくれた。そしてある雪の日の作文の時間に、こんな日の練兵は「豪快」でもあろうが、しかしまた何とかでもあろうと言って、その何とかという熟字を教えてくれた。僕はさっそく僕の文章の中にその熟字を使った。
それから数日して、僕は生徒監に呼ばれて、本当にそう思ったのかと尋ねられて、よし本当でもそんなことは書くものでないと叱られた。あとで聞くと、先生もそんな字を教えるんじゃないと叱られたそうだ。
僕は先生の家へ一、二度遊びに行った。先生は、そうした(七字削除)しさや、先生が判任官なので軍曹とともに一緒に食事しなければならないことなどを、しきりにこぼして聞かした。
「君はいい時に出た。僕もとうとう出されちゃったよ。何か仕事はないかね。」
その後五、六年たって、ふと道で先生と会った時、先生はさびしそうに笑いながら言っていた。
その夏僕は、訓育(実科)では未曽有の十九点何分(二十点満点)で一番、学科では十八点何分で二番、操行ではこれまた未曽有の十四点何分で下から一番、平均して三十五番か六番かという成績表を持って、今までの僕にはなかった陰欝な少年となって新発田へ帰った。
"【全話配信中】巨人の星⚾第127~132話「テストされる川上監督」「必殺の大リーグボール二号」「一徹の秘策」「左門の挑戦」「消える魔球の推理」「天才・花形の敗北」"
で。2026081408:22(日本時間)。
七
僕を佐渡へ旅行にやったりしてひそかに慰めてくれたらしい父は、僕がまた名古屋へ帰る前の晩に、初めて一晩ゆっくりと僕の将来を戒めた。母は何にも言わずに、大きな目に涙を一ぱい浮べて、そばで聞いていた。僕はそれで多少気をとり直して新発田を出た。
が、東京に着くとフランス語のある中学校の、学習院と暁星中学校と成城学校との規則書を貰うことは忘れなかった。そして別に『東京遊学案内』という本をも買った。
幼年学校を退校する決心ではもとよりなかった。もう自由を欲するなどというはっきりした気持ではなく、ただ何となく憂欝に襲われて仕方がなかったのだ。そしてぼんやりとそんなものを手に入れて、それを読むことによって軽い満足を感じていたのだ。
学校に帰ってからも、しばらく、そんな憂欝な気が続いた。そして一人で、夜前庭のベンチに腰をかけて、しくしく泣いているようなこともしばしばあった。
が、すぐにこんどは、兇暴な気持が襲うて来た。鞭のようなものを持っては、第四期生や新入の第五期生をおどして歩いた。下士官どもに反抗しだした。士官にも敬礼しなくなった。そして学科を休んでは、一日学校のあちこちをうろついていた。
軍医は脳神経衰弱と診察した。そして二週間の休暇をくれた。
学校の門を出た僕は、以前の僕と変らない、ただ少し何か物思いのありそうな、快活な少年だった。そしてその足ですぐ大阪へ行った。
大阪には山田の伯父が旅団長をしていた。僕は毎日、弁当と地図とを持って、摂津、河内、和泉と、ところ定めず歩き廻った。どうかすると、剣を抜いて道に立てて、その倒れる方へ行ったりもした。
そして、すっかりいい気持になって学校へ帰った。
が、帰るとまた、すぐ病気が出た。兇暴の病気だ。気ちがいだ。
その間に、何がもとだったのか、愛知県人と石川県人との間にごたごたが持ちあがった。石川県人は東京やその他の県の有力者に助けを求めた。
その頃僕はいつも大きなナイフを持っていた。ある時はそれでそばへ寄って来ようとする軍曹をおどしつけた。みんなはそれを知っているので、敵の四、五名もそのナイフを研ぎだした。
夕方僕は味方の四、五人と謀って、敵に結びついた東京の一番有力な何とかという男を、撃剣場の前へ呼び出した。彼は来るとすぐナイフを出した。味方の四、五名は後しざりした。僕がナイフを出そうかと思って、いったんポケットに手を入れたが、思い返して素手のまま向って行った。僕の研いだばかりのナイフを出せば、きっと彼を殺してしまうだろうと思ったのだ。
僕はナイフを振り上げて来る彼の腕をつかまえて、彼を前に倒した。彼は倒れながら、下からめった打ちに僕を刺した。
僕は全身が急に冷たくなったのと、左の手が動かなくなったのとで、格闘をやめて起ちあがった。彼も起きて来て、びっくりした顔をして目を見はった。そこへ八、九人の敵味方が来た。そしてみんな、びっくりした目を見はって僕を見つめた。僕はからだじゅう真赤に血に染って立っていたのだ。
「これから医務室へ行こう。」
僕はそう言って先きに立って行った。医務室には年とった看護人が一人いた。みんなで僕を裸にして傷をあらためた。頭に一つ、左の肩に一つ、左の腕に一つ、都合三つだが、どれもこれも浅くはないようだった。
「どうだ君が内しょで療治はできないか。」
僕は看護人に聞いた。
「とても駄目です。大変な傷です。」
看護人はとんでもないことをというように顔をあげて答えた。
「それじゃ仕方がない。すぐ軍医を呼んでくれ。」
僕はそこへ横になりながら言った。そして彼の名を呼んだ。
「仕方がない。二人でいっさいを負おう。」
僕は彼のうなずくのを見て、そのまま眠ってしまった。
二週間ばかりして、僕がようやく立ちあがるようになった時、父が来た。
父は最近の僕の行状を聞いて、「そんなに不埓な奴は私の方で学校に置けません」と言って、即座に退校届を出して僕を連れて帰った。
が、帰ってしばらくすると、「願の趣さし許さず、退校を命ず」という電報が来た。
彼も同時に退校を命ぜられた。
新発田にはもう雪が降り出した十一月の末だった。
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自叙伝(五)
一
父に連れて帰られた僕は、病気で面会謝絶ということにして、毎日つい近所の衛戍病院に通うほかは、もと僕の室にしていた離れの一室に引籠っていた。
この面会謝絶ということは僕自身から言いだしたのだが、父と母とはそれをごく広い意味に採用してしまった。離れには八畳と六畳とあって、奥の方の八畳は父の室になっていたのに、父はまるでその室にはいって来なかった。母も僕の室に来ることはめったになかった。そして、女中どもは勿論妹どもや弟どもにまで堅く言いつけて、決して離れへはよこさなかった。
「兄さんは少し気が変なんだからね。決して離れへは行くんじゃないよ。」
これはあとで聞いた話なんだが、母はみんなにそう言っていた。そして小さな妹どもや弟どもは、その恐いもの見たさに、よくそっと離れに通う縁側まで来ては、何かにあわててばたばたと逃げだして行った。
ていのいい座敷牢にあったのだ。
が、飯だけは母家の方へ行ってみんなと一緒に食った。みんなは黙ってじろじろ僕の顔を見ているし、僕も黙って食うだけ食って自分の室へ帰った。
僕の頭の中にはもう、学校の士官のことも下士官のことも、学友の敵味方のことも何にもなかった。したがってまた、それに附随して起って来る兇暴な気持もちっとも残っていなかった。幼年学校の過去二年半ばかりの生活は、またその最近の気ちがいじみた半年ばかりの生活は、ただぼんやりと夢のように僕のうしろに立っているだけであった。そしてその夢がまだ幾分か僕を陰鬱にしていた。が、僕の前には、新しい自由な、広い世界がひらけて来たものだ。そして僕の頭は今後の方針ということについて充ち満ちていた。
学校での僕のお得意は語学と国漢文と作文とだった。そして最近では、学課は大がいそっち除けにして、前にも言ったように当時流行のロマンティクな文学に耽っていた。そして僕はその作物や作者の自由と奔放とにひそかに憧れていたのだ。
「君等は軍人になって戦争に出たまえ。その時には僕は従軍記者になって行こう。そして戦地でまた会おう。」
僕は軍人生活がいやになった時、よく学友等とそんな話をした。が、あながち新聞記者になろうというのではなく、ただぼんやりと文学をやろうと思っていたのだ。そして戦争でもあれば、従軍記者になって出かけて行って、「人の花散る景色面白や」というような筆をふるって見たいと思っていたのだ。
僕はまず高等学校にはいって、それから大学を出ようと思った。そしてその前に、どこかの中学校の上級にはいって、その資格を得なければならないと思った。が、それには、もう英語をほとんど忘れてしまった僕は、どこかフランス語をやる中学校を選ばなければならなかった。そしてその中学校は学習院と暁星中学校と成城学校との三つしかないことを知っていた。
僕はその夏東京で買った『遊学案内』をひろげて見た。そしてそれの中学校の上級にはいるためのいろんな予備学校のあることが分った。中学校の五年の試験を受けるには僕の学力はまだ少し足りなかった。で、僕はまずすぐに上京して、どこかの予備学校にはいって、そして四月の新学年にどこか都合のいい中学校の試験を受けようと思った。
うちへ帰って二、三日の間に、これだけのことはすっかりきまった。あとはもう、時機を見て、それを父に話すだけのことだ。
僕はその時機がただちに来るだろうことも、また父がきっとそれを承知するだろうことも、楽観して、黙ってその時の来るのを待っていた。そして終日、離れの一室に籠って、近い将来の東京での自由な生活を夢みながら、自分の好ききらいには構わずに、一人で一生懸命いろんな学課の勉強をしていた。
が、その間にも、このごく平静な気持を乱すたった一つのことがあった。それは、母家の方がいつもよりはよほど客の出はいりが多くて、そして妙ににぎやかにざわついていることだった。母は、できるだけ僕の気にさわらないように自分にもまたみんなにも勤めさせて、僕にはごくやさしくしてくれながらもできるだけ口数は少なくしているくらいだのに、その顔には憂いの暗い色よりもむしろ喜びの明るい色の方が勝っていた。そしてそのお客とはしゃぎ騒ぐ声がよく離れにまで聞えた。僕はうちに何かあるんだなと思った。そして、ふと、ある日、母とお客との話の間に「礼ちゃん」という言葉を聞きとめた。
「礼ちゃんがうちからどこかへお嫁へ行くんじゃあるまいか。」
僕はすぐそう直覚した。そういえば、いろいろ思いあたることもある。汽車で柏崎を通過した時、見覚えのある丈の高い頬から顎に長い鬚をのばした礼ちゃんのお父さんが軍服姿で立っていた。
「どうした。一緒に連れて来なかったのか。」
「うん。ちょっと都合があるんで、少しのばして、親子一緒にやることにした。」
父と礼ちゃんのお父さんとの間にそんな会話が交わされた。僕は何のこととも分らない、この親子一緒というのにちょっと心を動かされながら、父の大きな黒いマントで白い病衣のからだを包んで、黙って礼ちゃんのお父さんを盗み見していた。名古屋からどこへも寄らずに、こうして汽車の中を父と二人で黙って通して来た僕には、この会話が多少気になりながらも、発車したあとでそれを父に問いただすことはできなかった。
それから、いよいようちに着いた時にも、やはりそれと関係のあるらしいあることがあった。
「おや、一緒に連れて来なかったんですか。」
僕等の俥が玄関に着いた時、あわてて出て来た母が、父と僕とを見てがっかりしたような風で言った。僕のほかに父が誰を連れて来る筈だったのか、その時には、僕はこれと柏崎でのことを結びつけて考えることができなかった。
しかし、もう事は明白になった。きっと近いうちに礼ちゃんがうちに来るのに違いない。そしてうちからどこかへお嫁に行くのに違いない。僕はそう思うと急に胸がどきどきして来るのを感じた。もう長い間まるで忘れてしまったように思いだしもしなかった、礼ちゃんのことが、わくわくと胸に浮んで来た。そして、どうしてもこれを確かめなければならないような気持になって、飯の時のほかめったに行くこともない母家の母の室へ行った。
母はどこかの女のお客と話しながら、親子で女中していた二人の客に手伝わして、何だか知らないが綺麗な模様のある布団に綿を入れていた。そして「ほんとに綺麗な模様ですわね」とか、「こんないい布団で寝たらどんなにいい気持でしょう」とかいうようなことをその女中達が言っていた。
「誰の布団?」
僕がはいって行ったことにはまるで無関心のような顔つきをしているみんなの中へ、僕は誰にともなくこう問いかけた。みんなが異常な親しみをもってその話題にしているこの布団が、誰のために、何のために造られているのか、実際僕にはちっとも見当がつかなかった。
「お前、千田さんの礼ちゃんを知っているね。こんどあの子がお嫁に行くの。そしてこのお布団はね、その時礼ちゃんが持って行くの。あしたはきっと礼ちゃんがお母さんと一緒にうちへ来るでしょう。」
母のこの返事は一ぺんに僕の顔を真赤にしてしまった。僕はその赤い顔を人に見られないうちにと思って、急いで自分の室へ逃げて帰った。そして室へはいるとすぐ、机の上に両肱を立ててしっかりと頭を押えて、今見て来た布団のはでな色を遠のけようと思って目を閉じていたが、その目からはいつの間にかあつい涙がぽたりぽたりと落ちていた。
「人の恋人をうちで世話してよそへやるのもひどいが、人の目の前でその結婚の時の布団を縫って見せるなんて実にひどい。」
ついさっきまではもう二、三年も思いだしもしなかった、ほんの幼な友達のことを、こうして僕はまるで自分の恋人のように考えだしたのだ。そして、それを今よそへ取られるのだというような気持にまでもなったのだ。
しかしその翌日、はたして礼ちゃん親子がやって来てからは、この失恋に似た妙な気持よりも、現に彼女と一つ家に生活しているという喜びの方が、よほど強かった。
彼女等は、僕の室の窓から二間ほどの庭を隔てた向うの座敷をその室にあてがわれた。その窓からでも、彼女等の顔は、向うの障子のガラス越しに見えるのだ。彼女は来るとすぐ、いずれ母から何とか注意があっただろうのにも構わずに、僕の室を訪ねてくれた。そしてひまさえあれば、というよりもむしろ彼女の母さんの隙を窺っては、僕の室へ遊びに来た。
彼女は今すぐ嫁に行くのだというような顔はちっともして見せなかった。僕がそんな方へ話を持って行っても、すぐ僕の口をおさえるようにして、話をほかへ移してしまった。彼女はただもうほとんど治った僕の傷だけを、始終気にした。そして学校を退学されたことについては、「いいわ、軍人よりももっとえらい人になりさえすればね」と言っただけで、かえって僕の将来を祝福しているようにすら見えた。僕も彼女には僕の将来の方針を打ちあけた。
「わたしなんか、学校の先生も師範学校へはいれって勧めて下さるし、わたしもそうしてもっと勉強する気でいたんだけれど、もう駄目だわ。あなたなぞは、これからが本当の勉強なんですもの。」
彼女はこう言って僕を励ましては、僕の少年時代の才能を賞めたてその頃の無邪気ないろんな追憶に移って行った。僕も彼女がすぐ結婚するんだということもほとんど忘れて、恋人とでも話しするような甘い気持になって、彼女と一緒にその追憶に耽っていた。
ある日僕は、彼女の室で、彼女親子と母とが何事かしきりにささやき合っているのにきき耳を立てた。
「どうして、おばさん、気が変などころじゃあるもんですか。わたし、しょっちゅう遊びに行ってお話ししているんですけれど、そんなところはこれっぱかしでも見えませんわ。そして、これからが本当の勉強だと言って、一生懸命になって勉強していらっしゃるんですもの。」
「そうかね。わたしはまた、夜いつ目をさまして見ても、きっと離れの方で本の紙をめくる音がして、はばかりへ行って見ても離れでかんかんあかりが点っているので、何だか気味がわるかったくらいよ。」
「ええそうして毎晩遅くまで勉強していらっしゃるんだわ。そして近いうちに東京へいらっしゃりたいですって。これからの方針も何もかも、もう自分一人でちゃんときめていらっしゃるんだわ。ね、おばさん、本当にしっかりしていらっしゃるんだから、わたし栄さんに代っておばさんやおじさんにお願いしますわ、早く栄さんのお望み通りに東京へ出しておやんなさるといいわ。」
「まあ、そんなに勉強しているんですかね。わたしはまた、うちで少し気が変だなんて言うから、どんなに心配していたか知れないの。そして黙って見ているんだけれど、べつにこれといって変なところもなしね。かえって変に思っていたくらいですわ。礼ちゃん、本当にありがとうよ。わたし、それですっかり安心したわ。」
僕はこの話し声を聞いて、本を閉じて、一人でしくしく泣きながら、どんなことがあってもうんと勉強して、彼女のためにだけでもえらい人間になって見せると一人で誓った。
その晩は珍らしく礼ちゃんが夜遊びに来た。が、その日の話については、彼女も何にも言わなければ、僕もまた何にも言うことができなかった。僕はただ黙って、心の中でだけ彼女に感謝しているほかはなかった。そして彼女はいつもと同じように、僕を慰さめ励まして、幼な物語に夜を更かして自分の室へ帰って行った。
その翌日は、朝早くから、うちじゅうが総がかりでごたごた騒いでいた。そして夕方に、女中どもや子供達を残して、みんなが出てしまった。僕はいよいよ礼ちゃんがお嫁に行ったのだなと思った。礼ちゃんが何にも言わずに行ってしまったことはずいぶんさびしかったが、もう恋人を人にとられたような妙な気持はちっともしなかった。そして、ただ彼女の上に幸あれと思うほかに、きのう一人で彼女に誓った言葉をまた一人で繰返していた。
僕を佐渡へ旅行にやったりしてひそかに慰めてくれたらしい父は、僕がまた名古屋へ帰る前の晩に、初めて一晩ゆっくりと僕の将来を戒めた。母は何にも言わずに、大きな目に涙を一ぱい浮べて、そばで聞いていた。僕はそれで多少気をとり直して新発田を出た。
が、東京に着くとフランス語のある中学校の、学習院と暁星中学校と成城学校との規則書を貰うことは忘れなかった。そして別に『東京遊学案内』という本をも買った。
幼年学校を退校する決心ではもとよりなかった。もう自由を欲するなどというはっきりした気持ではなく、ただ何となく憂欝に襲われて仕方がなかったのだ。そしてぼんやりとそんなものを手に入れて、それを読むことによって軽い満足を感じていたのだ。
学校に帰ってからも、しばらく、そんな憂欝な気が続いた。そして一人で、夜前庭のベンチに腰をかけて、しくしく泣いているようなこともしばしばあった。
が、すぐにこんどは、兇暴な気持が襲うて来た。鞭のようなものを持っては、第四期生や新入の第五期生をおどして歩いた。下士官どもに反抗しだした。士官にも敬礼しなくなった。そして学科を休んでは、一日学校のあちこちをうろついていた。
軍医は脳神経衰弱と診察した。そして二週間の休暇をくれた。
学校の門を出た僕は、以前の僕と変らない、ただ少し何か物思いのありそうな、快活な少年だった。そしてその足ですぐ大阪へ行った。
大阪には山田の伯父が旅団長をしていた。僕は毎日、弁当と地図とを持って、摂津、河内、和泉と、ところ定めず歩き廻った。どうかすると、剣を抜いて道に立てて、その倒れる方へ行ったりもした。
そして、すっかりいい気持になって学校へ帰った。
が、帰るとまた、すぐ病気が出た。兇暴の病気だ。気ちがいだ。
その間に、何がもとだったのか、愛知県人と石川県人との間にごたごたが持ちあがった。石川県人は東京やその他の県の有力者に助けを求めた。
その頃僕はいつも大きなナイフを持っていた。ある時はそれでそばへ寄って来ようとする軍曹をおどしつけた。みんなはそれを知っているので、敵の四、五名もそのナイフを研ぎだした。
夕方僕は味方の四、五人と謀って、敵に結びついた東京の一番有力な何とかという男を、撃剣場の前へ呼び出した。彼は来るとすぐナイフを出した。味方の四、五名は後しざりした。僕がナイフを出そうかと思って、いったんポケットに手を入れたが、思い返して素手のまま向って行った。僕の研いだばかりのナイフを出せば、きっと彼を殺してしまうだろうと思ったのだ。
僕はナイフを振り上げて来る彼の腕をつかまえて、彼を前に倒した。彼は倒れながら、下からめった打ちに僕を刺した。
僕は全身が急に冷たくなったのと、左の手が動かなくなったのとで、格闘をやめて起ちあがった。彼も起きて来て、びっくりした顔をして目を見はった。そこへ八、九人の敵味方が来た。そしてみんな、びっくりした目を見はって僕を見つめた。僕はからだじゅう真赤に血に染って立っていたのだ。
「これから医務室へ行こう。」
僕はそう言って先きに立って行った。医務室には年とった看護人が一人いた。みんなで僕を裸にして傷をあらためた。頭に一つ、左の肩に一つ、左の腕に一つ、都合三つだが、どれもこれも浅くはないようだった。
「どうだ君が内しょで療治はできないか。」
僕は看護人に聞いた。
「とても駄目です。大変な傷です。」
看護人はとんでもないことをというように顔をあげて答えた。
「それじゃ仕方がない。すぐ軍医を呼んでくれ。」
僕はそこへ横になりながら言った。そして彼の名を呼んだ。
「仕方がない。二人でいっさいを負おう。」
僕は彼のうなずくのを見て、そのまま眠ってしまった。
二週間ばかりして、僕がようやく立ちあがるようになった時、父が来た。
父は最近の僕の行状を聞いて、「そんなに不埓な奴は私の方で学校に置けません」と言って、即座に退校届を出して僕を連れて帰った。
が、帰ってしばらくすると、「願の趣さし許さず、退校を命ず」という電報が来た。
彼も同時に退校を命ぜられた。
新発田にはもう雪が降り出した十一月の末だった。
[#改頁]
自叙伝(五)
一
父に連れて帰られた僕は、病気で面会謝絶ということにして、毎日つい近所の衛戍病院に通うほかは、もと僕の室にしていた離れの一室に引籠っていた。
この面会謝絶ということは僕自身から言いだしたのだが、父と母とはそれをごく広い意味に採用してしまった。離れには八畳と六畳とあって、奥の方の八畳は父の室になっていたのに、父はまるでその室にはいって来なかった。母も僕の室に来ることはめったになかった。そして、女中どもは勿論妹どもや弟どもにまで堅く言いつけて、決して離れへはよこさなかった。
「兄さんは少し気が変なんだからね。決して離れへは行くんじゃないよ。」
これはあとで聞いた話なんだが、母はみんなにそう言っていた。そして小さな妹どもや弟どもは、その恐いもの見たさに、よくそっと離れに通う縁側まで来ては、何かにあわててばたばたと逃げだして行った。
ていのいい座敷牢にあったのだ。
が、飯だけは母家の方へ行ってみんなと一緒に食った。みんなは黙ってじろじろ僕の顔を見ているし、僕も黙って食うだけ食って自分の室へ帰った。
僕の頭の中にはもう、学校の士官のことも下士官のことも、学友の敵味方のことも何にもなかった。したがってまた、それに附随して起って来る兇暴な気持もちっとも残っていなかった。幼年学校の過去二年半ばかりの生活は、またその最近の気ちがいじみた半年ばかりの生活は、ただぼんやりと夢のように僕のうしろに立っているだけであった。そしてその夢がまだ幾分か僕を陰鬱にしていた。が、僕の前には、新しい自由な、広い世界がひらけて来たものだ。そして僕の頭は今後の方針ということについて充ち満ちていた。
学校での僕のお得意は語学と国漢文と作文とだった。そして最近では、学課は大がいそっち除けにして、前にも言ったように当時流行のロマンティクな文学に耽っていた。そして僕はその作物や作者の自由と奔放とにひそかに憧れていたのだ。
「君等は軍人になって戦争に出たまえ。その時には僕は従軍記者になって行こう。そして戦地でまた会おう。」
僕は軍人生活がいやになった時、よく学友等とそんな話をした。が、あながち新聞記者になろうというのではなく、ただぼんやりと文学をやろうと思っていたのだ。そして戦争でもあれば、従軍記者になって出かけて行って、「人の花散る景色面白や」というような筆をふるって見たいと思っていたのだ。
僕はまず高等学校にはいって、それから大学を出ようと思った。そしてその前に、どこかの中学校の上級にはいって、その資格を得なければならないと思った。が、それには、もう英語をほとんど忘れてしまった僕は、どこかフランス語をやる中学校を選ばなければならなかった。そしてその中学校は学習院と暁星中学校と成城学校との三つしかないことを知っていた。
僕はその夏東京で買った『遊学案内』をひろげて見た。そしてそれの中学校の上級にはいるためのいろんな予備学校のあることが分った。中学校の五年の試験を受けるには僕の学力はまだ少し足りなかった。で、僕はまずすぐに上京して、どこかの予備学校にはいって、そして四月の新学年にどこか都合のいい中学校の試験を受けようと思った。
うちへ帰って二、三日の間に、これだけのことはすっかりきまった。あとはもう、時機を見て、それを父に話すだけのことだ。
僕はその時機がただちに来るだろうことも、また父がきっとそれを承知するだろうことも、楽観して、黙ってその時の来るのを待っていた。そして終日、離れの一室に籠って、近い将来の東京での自由な生活を夢みながら、自分の好ききらいには構わずに、一人で一生懸命いろんな学課の勉強をしていた。
が、その間にも、このごく平静な気持を乱すたった一つのことがあった。それは、母家の方がいつもよりはよほど客の出はいりが多くて、そして妙ににぎやかにざわついていることだった。母は、できるだけ僕の気にさわらないように自分にもまたみんなにも勤めさせて、僕にはごくやさしくしてくれながらもできるだけ口数は少なくしているくらいだのに、その顔には憂いの暗い色よりもむしろ喜びの明るい色の方が勝っていた。そしてそのお客とはしゃぎ騒ぐ声がよく離れにまで聞えた。僕はうちに何かあるんだなと思った。そして、ふと、ある日、母とお客との話の間に「礼ちゃん」という言葉を聞きとめた。
「礼ちゃんがうちからどこかへお嫁へ行くんじゃあるまいか。」
僕はすぐそう直覚した。そういえば、いろいろ思いあたることもある。汽車で柏崎を通過した時、見覚えのある丈の高い頬から顎に長い鬚をのばした礼ちゃんのお父さんが軍服姿で立っていた。
「どうした。一緒に連れて来なかったのか。」
「うん。ちょっと都合があるんで、少しのばして、親子一緒にやることにした。」
父と礼ちゃんのお父さんとの間にそんな会話が交わされた。僕は何のこととも分らない、この親子一緒というのにちょっと心を動かされながら、父の大きな黒いマントで白い病衣のからだを包んで、黙って礼ちゃんのお父さんを盗み見していた。名古屋からどこへも寄らずに、こうして汽車の中を父と二人で黙って通して来た僕には、この会話が多少気になりながらも、発車したあとでそれを父に問いただすことはできなかった。
それから、いよいようちに着いた時にも、やはりそれと関係のあるらしいあることがあった。
「おや、一緒に連れて来なかったんですか。」
僕等の俥が玄関に着いた時、あわてて出て来た母が、父と僕とを見てがっかりしたような風で言った。僕のほかに父が誰を連れて来る筈だったのか、その時には、僕はこれと柏崎でのことを結びつけて考えることができなかった。
しかし、もう事は明白になった。きっと近いうちに礼ちゃんがうちに来るのに違いない。そしてうちからどこかへお嫁に行くのに違いない。僕はそう思うと急に胸がどきどきして来るのを感じた。もう長い間まるで忘れてしまったように思いだしもしなかった、礼ちゃんのことが、わくわくと胸に浮んで来た。そして、どうしてもこれを確かめなければならないような気持になって、飯の時のほかめったに行くこともない母家の母の室へ行った。
母はどこかの女のお客と話しながら、親子で女中していた二人の客に手伝わして、何だか知らないが綺麗な模様のある布団に綿を入れていた。そして「ほんとに綺麗な模様ですわね」とか、「こんないい布団で寝たらどんなにいい気持でしょう」とかいうようなことをその女中達が言っていた。
「誰の布団?」
僕がはいって行ったことにはまるで無関心のような顔つきをしているみんなの中へ、僕は誰にともなくこう問いかけた。みんなが異常な親しみをもってその話題にしているこの布団が、誰のために、何のために造られているのか、実際僕にはちっとも見当がつかなかった。
「お前、千田さんの礼ちゃんを知っているね。こんどあの子がお嫁に行くの。そしてこのお布団はね、その時礼ちゃんが持って行くの。あしたはきっと礼ちゃんがお母さんと一緒にうちへ来るでしょう。」
母のこの返事は一ぺんに僕の顔を真赤にしてしまった。僕はその赤い顔を人に見られないうちにと思って、急いで自分の室へ逃げて帰った。そして室へはいるとすぐ、机の上に両肱を立ててしっかりと頭を押えて、今見て来た布団のはでな色を遠のけようと思って目を閉じていたが、その目からはいつの間にかあつい涙がぽたりぽたりと落ちていた。
「人の恋人をうちで世話してよそへやるのもひどいが、人の目の前でその結婚の時の布団を縫って見せるなんて実にひどい。」
ついさっきまではもう二、三年も思いだしもしなかった、ほんの幼な友達のことを、こうして僕はまるで自分の恋人のように考えだしたのだ。そして、それを今よそへ取られるのだというような気持にまでもなったのだ。
しかしその翌日、はたして礼ちゃん親子がやって来てからは、この失恋に似た妙な気持よりも、現に彼女と一つ家に生活しているという喜びの方が、よほど強かった。
彼女等は、僕の室の窓から二間ほどの庭を隔てた向うの座敷をその室にあてがわれた。その窓からでも、彼女等の顔は、向うの障子のガラス越しに見えるのだ。彼女は来るとすぐ、いずれ母から何とか注意があっただろうのにも構わずに、僕の室を訪ねてくれた。そしてひまさえあれば、というよりもむしろ彼女の母さんの隙を窺っては、僕の室へ遊びに来た。
彼女は今すぐ嫁に行くのだというような顔はちっともして見せなかった。僕がそんな方へ話を持って行っても、すぐ僕の口をおさえるようにして、話をほかへ移してしまった。彼女はただもうほとんど治った僕の傷だけを、始終気にした。そして学校を退学されたことについては、「いいわ、軍人よりももっとえらい人になりさえすればね」と言っただけで、かえって僕の将来を祝福しているようにすら見えた。僕も彼女には僕の将来の方針を打ちあけた。
「わたしなんか、学校の先生も師範学校へはいれって勧めて下さるし、わたしもそうしてもっと勉強する気でいたんだけれど、もう駄目だわ。あなたなぞは、これからが本当の勉強なんですもの。」
彼女はこう言って僕を励ましては、僕の少年時代の才能を賞めたてその頃の無邪気ないろんな追憶に移って行った。僕も彼女がすぐ結婚するんだということもほとんど忘れて、恋人とでも話しするような甘い気持になって、彼女と一緒にその追憶に耽っていた。
ある日僕は、彼女の室で、彼女親子と母とが何事かしきりにささやき合っているのにきき耳を立てた。
「どうして、おばさん、気が変などころじゃあるもんですか。わたし、しょっちゅう遊びに行ってお話ししているんですけれど、そんなところはこれっぱかしでも見えませんわ。そして、これからが本当の勉強だと言って、一生懸命になって勉強していらっしゃるんですもの。」
「そうかね。わたしはまた、夜いつ目をさまして見ても、きっと離れの方で本の紙をめくる音がして、はばかりへ行って見ても離れでかんかんあかりが点っているので、何だか気味がわるかったくらいよ。」
「ええそうして毎晩遅くまで勉強していらっしゃるんだわ。そして近いうちに東京へいらっしゃりたいですって。これからの方針も何もかも、もう自分一人でちゃんときめていらっしゃるんだわ。ね、おばさん、本当にしっかりしていらっしゃるんだから、わたし栄さんに代っておばさんやおじさんにお願いしますわ、早く栄さんのお望み通りに東京へ出しておやんなさるといいわ。」
「まあ、そんなに勉強しているんですかね。わたしはまた、うちで少し気が変だなんて言うから、どんなに心配していたか知れないの。そして黙って見ているんだけれど、べつにこれといって変なところもなしね。かえって変に思っていたくらいですわ。礼ちゃん、本当にありがとうよ。わたし、それですっかり安心したわ。」
僕はこの話し声を聞いて、本を閉じて、一人でしくしく泣きながら、どんなことがあってもうんと勉強して、彼女のためにだけでもえらい人間になって見せると一人で誓った。
その晩は珍らしく礼ちゃんが夜遊びに来た。が、その日の話については、彼女も何にも言わなければ、僕もまた何にも言うことができなかった。僕はただ黙って、心の中でだけ彼女に感謝しているほかはなかった。そして彼女はいつもと同じように、僕を慰さめ励まして、幼な物語に夜を更かして自分の室へ帰って行った。
その翌日は、朝早くから、うちじゅうが総がかりでごたごた騒いでいた。そして夕方に、女中どもや子供達を残して、みんなが出てしまった。僕はいよいよ礼ちゃんがお嫁に行ったのだなと思った。礼ちゃんが何にも言わずに行ってしまったことはずいぶんさびしかったが、もう恋人を人にとられたような妙な気持はちっともしなかった。そして、ただ彼女の上に幸あれと思うほかに、きのう一人で彼女に誓った言葉をまた一人で繰返していた。
"from【全話配信中】巨人の星⚾第127~132話「テストされる川上監督」「必殺の大リーグボール二号」「一徹の秘策」「左門の挑戦」「消える魔球の推理」「天才・花形の敗北」"
で。2026081514:46(日本時間)。
二
それから四、五日経って、ある晩僕は父と母との前に呼ばれた。父の顔にはもう僕を名古屋へ迎いに来て以来の、むずかしそうな筋が一つも出ていなかった。母も僕がはいって行った時にいつもちょっとやる、そのはいって行ったのを知らないような顔つきはよして、にこにこして迎い入れてくれた。
「これからどうするつもりだ。」
父はできるだけ優しく、しかし簡単にただこれだけのことを言った。僕は一人できめていただけのことをはっきりと、しかしやはり簡単に答えた。
「文学はちょっと困るな。」
父は僕の言葉を聞き終ると、ちょっと顔をしかめて首を傾けた。
「文学って何ですの。」
母は心配そうに父の顔をのぞいた。
「それ、あの桑野の息子がやったようなものさ。」
「あの、大学を卒業して、何にもしないで遊んでいる、あの方?」
「うん、あれだ。あんなんじゃ困るからな。」
「そうね。」
僕はその桑野の息子というのがどんな男か知らなかったが、母もそう言われれば、父に賛成するほかはないらしかった。
「とにかく東京へ出して勉強はさせてやるつもりだが、文学というのだけはもう一度考え直して見てくれ。お前も七、八人の兄弟の総領なんだからな、医科とか工科とかの将来の確実なものなら、大学へでもやってやるがね。どうも文学じゃ困るな。」
父はまた顔をしかめて首を傾けた。
「でも、せっかくそうときめたことを今すぐ考え直すというわけにも行きますまいし、もう一日二日考えさして見たらどうでしょう。」
母は父にそう言ってなお僕にも附けたして言った。
「お父さんも東京へ出してやるとおっしゃるんだから、今晩はもうこれで室へ帰って、もっとよく考えて見てごらん。」
僕はそれでもう僕の目的の七、八分は達したものと思って喜んで室に帰った。
その翌日は、たぶん父に頼まれたのだろうと思うが、医学士で軍医の平賀というのが来て、しきりに医者になれと勧めて行った。これは子供の時から僕が始終世話になっている医者で、幼年学校の入学試験の時にも僕の目の悪いのを強いて合格にしてくれた人だった。が、僕にはどうしても医者になる気はなかった。その後外国語学校を出た時にも、今の平民病院長の加治ドクトルが、その息子の時雄君の連れとなってフランスへ行って医学をやったらどうかと勧めてくれたのだが、やはりどうしても医者になる気はなくって断ってしまった。そしてさらにその後、自然科学に興味を持つようになってから、いっそのことあの時に医者になっていればよかったと、時々にそして今でもまだそう思うことがある。
が、そこへ、もう一人、ちょうどいい妥協論者が出てくれた。それは父が大ぶ目をかけていた森岡という若い中尉だった。父はこの中尉にきっと僕のことを相談したに違いなかった。中尉は僕のところに来て、友達のようにして相談に乗ってくれた。
「お父さんはどうしても文学は困ると言うんだが、ほかに何か方法はないものかね。」
中尉はうちの財政上のことからいろんな話をして、僕に再考を求めた。
「そんなら語学校へ行ってもいいんです。」
僕は大学が駄目ならこうという、僕の第二案を打ちあけた。
「それやいい、それならきっとお父さんも賛成する。よし不賛成でも、きっと僕が賛成さして見せる。」
中尉は、僕が語学校と言いだしたので、急に元気づいて賛成した。
当時陸軍では、ことに田舎の軍隊では、再帰熱のように時々起る語学熱が流行っていた。陸軍大学へはいれなくっても、多少語学ができさえすれば、洋行を命ぜられたり要路に就かせられたりして、出世の見込が十分についた。森岡中尉も、やはり幼年学校出身で、フランス語をやっていた。そしてそのフランス語を大成さすべく、しきりに東京へ出て語学校へはいりたがっていたのだ。礼ちゃんの花婿の隅田中尉というのも、これは中学校出身で英語がお得意なので、やはり何とかして東京へ出て語学校へはいりたいと言っていた。父も、以前にはフランス語をやったりドイツ語もやったりしていたが、その頃は新しくまたロシア語をやりだしていた。
そんな時なので、語学校を出れば何になれるのかということなどはごくぼんやりと考えただけで、中尉も[#「中尉も」は底本では「中尉のも」と誤記]父もすぐ僕の第二案に賛成してくれた。が、僕は語学校を出ればすぐ大学の選科にはいれ、その選科からはさらに普通学の試験を受けて本科に移れることをよく承知していたのだった。
とにかく僕はすぐにも上京することを許された。そして自分で元日の朝早く出発することにきめた。
が、この元日には俥屋が行こうと言わないので、仕方なしに翌二日に延ばした。
元日の朝は暖かいいい天気だった。それが昼頃から曇り出して、夕方にはもう霏々として降る大雪の模様になった。その晩の十二時少し過ぎだ。もう三、四尺積もっている雪の中を、僕は橇に乗って二人の俥夫に引かれてうちを出た。
「まあ、あんなに喜んで行く。」
母は一人で玄関のそとまで僕を送りだして、自分もやはり嬉し泣きに泣いていた。
町はずれまではまだよかった。が、町を出るともう橇は一歩も進むことができなかった。俥屋のお神はあらかじめそうと知って、ゆうべの間に一度とめに来たのだ。しかし僕がどうしても聞かないので仕方なしに一番屈強な男を二人選んで寄越したのだが町を出ると、雪ですっかり埋もっている道は、その俥夫の一歩一歩の足を腿まで食いこんだ。そんなことで橇が引けて行けるものではない。それに、橇の上に乗って、僕がその中に坐っている籠は、時々横合いから強い風を受けてひっくり返りそうになる。とうとう俥夫等は立ちどまって、「もうとても駄目です」と言う。
「それじゃ歩いて行こうじゃないか。」と僕は言いだした。「君等の中の一人が真先きに歩くんだ。その足あとを伝って僕が真ん中になって行く。そのあとへまた、君等の中のもう一人が僕の荷物をかついで行く。そして先頭のものとしんがりのものとは時々交代するんだ。僕だって、時には先頭に立ったり、しんがりになって荷物を持ったりしたっていいよ。」
俥夫等はこの提案を喜んだ。
「わしらだって、うちのお神さんや奥様とお約束して、なあに大丈夫でさあって引受けて来たんですからね。今さらとても駄目でしたっておめおめ帰れもしませんよ。」
そして彼等は急いでその橇を近所のどこかへ預けて、僕の言う通りにして歩きだした。
が、道は遠いのだ。北越線の一番近い停車場の新津へ出るのに、新発田からは七、八里あるのだ。そしてその間には、半里も一里もの間家一軒もない、広い野原を幾つも通り抜けなければならんのだ。雪は降る。眼前数歩の先きは何にも見えないほどに、細かい雪がおやみなく降る。降るばかりならまだいい。時々強い風が来ては、足もとの雪を顔に吹きあげる。そんな時には、ただしっかりと踏みとどまって、その風の行ってしまうのを待っているほかはない。そしてまた、ただほかよりは少し小高くなっている道をあてに、一歩一歩腿まで埋まりながら重い雪靴の足を運んで行くのだ。
ちょうど新発田と新津との中間の、水原という町の向うの、一里ばかりの原に通りかかった時には、三人とも疲れと餓えとでへとへとになってしまって、幾度その原の中で倒れかかったか知れなかった。そして五歩歩いては休み十歩歩いては休みして、ようやくその原の真ん中の一軒家に着いた時には、みんなもうまるで死んだもののようだった。
しかし、その一軒家で大きな囲爐裡に火をうんともやして、一時間ほどそのまわりに転がって寝て、そしてあつい粥を七、八はい掻っこんだあとでは、すっかりもとの気分になっていた。
そして夕方近い頃に、一番の汽車に間に合う筈であった新津に、ようやく着くことができた。
東京に着くとすぐ、僕は牛込矢来町の、当時から予備か後備かになっていた退役大尉の、大久保のお父さんを訪ねた。上京のたんびに僕はこの大久保のうちへ遊びに行って、そのすぐ向いに下宿屋のあることを知っていたので、大尉の監督の下にそこへ下宿するように父に申し出てあったのだった。
若松屋というその下宿には、幸いに奥の方に、四畳半の一室があいていた。そして僕は、正月の休みの間に探し歩いた、猿楽町の東京学院へ(今はもうないようだが)、中学校五年級受験科というのにはいって、毎日そこから通うこととなった。そこでは僕は自分の学力の足りないと思った数学や物理化学に特に力を入れて勉強した。そして同時にまた、あるいは四月頃になってからだとも思うが、夜は、その頃四谷の箪笥町に開かれたフランス語学校というのに通った。これは、庄司(先年労働中尉と呼ばれたあの庄司何とか君の親爺さんだ)という陸軍教授が主となって、やはり陸軍教授の安藤(今は早稲田の教授)だの、何とかという高等学校の先生のフランス人だのが始めた学校だった。
こうして僕は、東京に着く早々、何もかも忘れて夜昼ただ夢中になって勉強していた。
が、何よりも僕は、僕にとってのこの最初の自由な生活を楽しんだ。すぐ向いには監督であり保証人である大尉がいるのだが、これはごくお人好の老人で、一度でも僕の室をのぞきに来るでもなし、訓戒らしいことを言うのでもなし、また僕の生活について何一つ聞いて見るというのでもなかった。僕はまったく自由に、ただ僕の考えだけで思うままに行動すればよかったのだ。
東京学院にはいったのも、またフランス語学校にはいったのも、僕は自分の存分一つできめた。そして大尉や父にはただ報告をしただけであった。僕が自分の生活や行動を自分一人だけで勝手にきめたのは、これが初めてであり、そしてその後もずっとこの習慣に従って行った。というよりもむしろだんだんそれを増長させて行った。
僕は幼年学校で、まだほんの子供の時の、学校の先生からも遁れ父や母の目からも遁れて、終日練兵場で遊び暮した新発田の自由な空を思った、その自由が今完全に得られたのだ。東京学院の先生は、生徒が覚えようと覚えまいとそんなことにはちっとも構わずに、ただその教えることだけを教えて行けばいいという風だった。出席しようとしまいと教授時間中にはいって行こうと出て行こうと、居眠りしていようと話していようとそんなことは先生には何の関係もないようだった。そしてフランス語学校の方では、生徒が僕のほかはみな大人だったので、先生と生徒とはまるで友達づき合いだった。一時間の間膝にちゃんと手を置いて、不動の姿勢のまま瞬き一つせずに、先生の顔をにらめている幼年学校と較べればまるで違った世界だった。
僕はただ僕自身にだけ責任を持てばよかったのだ。そして僕はこの自由を楽しみながら、僕自身への責任である勉強にだけただ夢中になっていた。
三
けれどもやがて、この自由を憧れ楽しむ気持がただ自分一人のぼんやりした本能的にだけではなく、さらにそれが理論づけられて社会的に拡張される機会が来た。ごく偶然にその機会が来た。
僕はその頃の僕の記憶の一断片について、かつて『乞食の名誉』の中の一篇「死灰の中から」の中に書いた。
――僕が十八の年の正月頃だった。(あるいはもう二、三カ月かもっとあとのことかも知れない。)まだ田舎から出たてのしかも学校の入学試験準備に夢中になって、世間のことなぞはまるで知りもせず、また考えても見ない時代だった。僕は牛込の矢来に下宿していた。ある寒い日の夕方、その下宿にいた五、六人のW(早稲田)大学の学生が、どやどやと出て行く。そとにも大勢待っているらしいがやがやする音がする。障子をあけて見ると、例の房のついた四角な帽子をかぶった二十人ばかりの学生が、てんでに大きなのぼりみたいな旗だの高張提灯だのを引っかついで、わいわい騒いでいる。
――「もう遅いぞ。駈足でもしなくっちゃ間に合うまい。」
――「ああ、しかしその方がかえっていいや。寒くはあるしそれにこの人数でお一二、お一二で走って行けば、ずいぶん人目にもつくだろう。」
――「そうだ。駈足だ! 駈足だ!」
――みんなは大きな声で掛声をかけて、元気よく飛んで行った。その時の「Y(谷中)村鉱毒問題大演説会」と筆太に書いたのぼり[#「のぼり」に傍点]の間に、やはり何か書きつけた高張りの赤い火影がゆらめいて行く光景と、みんなの姿が見えなくなってからもまだしばらく聞えて来るお一二、お一二の掛声とは、今でもまだはっきりと僕の記憶に浮んで来る。これがY村という名を初めて僕の頭に刻みつけた出来事であった。そしてそれ以来僕はその頃僕がとっていた唯一の新聞のY新聞(万朝報)に折々報道され評論されるY村事件の記事を多少注意して読むようになった。
――Y村問題はすぐに下火になった。今考えて見ると、ちょうどその頃がこの問題について世間が大騒ぎした最後の時であったのだ。したがってY村についての僕の注意も一時立消えになった。しかしこの問題のお蔭で、僕はY新聞のD(幸徳)やS(堺)、M(東京毎日)新聞のK(木下尚江)W大学のA(安部磯雄)などの名も知り、同時にまた新聞紙上のいろんな社会問題に興味を持つようになり、ことにDやSなどの文章に大ぶ心を引かれるようになった。そしてその翌年の春頃には、学校で「貧富の懸隔を論ず」などという論文を書いて、自分だけは一ぱしの社会改革家らしい気持になっていた。
――僕ばかりじゃない。さらにその翌年、DとSとがその非戦論のために新聞を出て一週刊新聞(平民新聞)を創めて、新しい社会主義運動を起した時、それに馳せ加わった有為の青年の大部分は、この鉱毒問題から転じて来たものか、あるいはこの問題に刺激されて社会問題に誘いこまれたものであった。
これは谷中村の鉱毒問題について書いたものの中の一断片だ。したがって、勿論その中には嘘はないのだが、多少いっさいを鉱毒問題の方へ傾けすぎた嫌いはある。それを今後は、この行を書いている最中の自由という気持の記憶の方へ、もう少し傾け直さなければならない。その方が、少なくとも今は、本当だと思うのだ。
僕はただ一番安いということだけで万朝報をとった。田舎者でしかも最近数年間は新聞を見るのを厳禁されて、世の中はただ軍隊の生活ばかりのように考えこまされていた僕は、そのほかにどんな名のどんな新聞があるのかも碌には知らなかった。その数年間の世間の出来事についても、僕が今覚えているのは、皇太子(今の天皇)[#「今の天皇」は「大正天皇」]の結婚と星亨の暗殺との二つくらいのものだ。皇太子の結婚は僕が幼年学校にはいるとすぐだった。僕等は二人が伊勢へお参りするのを停車場の構内で迎えて、二人のごく丁寧な答礼にすっかり恐縮しかつありがたがったものだ。それを思うと、これはまったくの余談ではあるが、山川均君なぞは恐ろしいほどの先輩だ。彼はすでにその頃キリスト教主義の小さな雑誌を出していて、この結婚についての何かを批評して、そして不敬罪で三年九カ月とか食っているのだ。星亨の暗殺は僕が幼年学校を出る年のことだったが、僕はそれを学校の庭で、しばらく星の家に書生をしていたという一学友から聞いただけだった。そしてそれに対してはただ、剣客伊庭某の腕の冴えに感心したくらいのものだった。星がどんな人間でどんな悪いことをしたかというようなことはまるで知らなかった。
この盲の手をほんの偶然に手引してくれたのが万朝報なのだ。僕はこの万朝報によって初めて、軍隊以外の活きたいろんな社会の生活を見せつけられた。ことにその不正不義の方面を目の前に見せつけられた。
しかしその不正不義は僕の目には、ただ世間の単なる事物として映り、単なる理論としてはいったくらいのことで、それが僕の心の奥底を沸きたたせるというほどのことはなかった。それより僕はその新聞全体の調子の自由と奔放とにむしろ驚かされた。そしてことに秋水と署名された論文のそれに驚かされた。
彼の前には、彼を妨げる、また彼の恐れる、何ものもないのだ。彼はただ彼の思うままに、本当にその名の通りの秋水のような白刃の筆を、その腕の揮うに任せてどこへでも斬りこんで行くのだ。ことにその軍国主義や軍隊に対する容赦のない攻撃は、僕にとってはまったくの驚異だった。軍人の家に生れ、軍人の間に育ち、軍人教育を受け、そして軍人生活の束縛と盲従とを呪っていた僕は、ただそれだけのことですっかり秋水の非軍国主義に魅せられてしまった。
僕は秋水の中に、僕の新しい、そしてこんどは本当の「仲間」を見出したのだ。が、たった一つ癪にさわったのは、僕が水のしたたるような刀剣を好きなところからひそかに自ら秋水と号していたのを、こんど別に秋水という有名な男のあることを知って、自分のその号を葬ってしまわなければならないことだった。
それと、もっと近くにいて僕の目をあけてくれたのは、同じ下宿のすぐそばの室にいた佐々木という男だった。彼はもう二、三年前に早稲田を出て、それ以来毎年高等文官の試験を受けては落第している、三十くらいの老学生だった。いつも薄ぎたない着物を着て、頭を坊主にして、秋田あたりのズウズウ弁で愛嬌のある大きな声をだして女中を怒鳴っていた。その顔も厳めしそうな八字髯は生やしていたが、両頬に笑くぼのある、丸々とした愛嬌面だった。友達のない僕はすぐこの老書生と話し合うようになった。彼は議論好きだった。そして僕のような子供をつかまえても議論ばかりしていた。僕も負けない気で、秋水の受売りか何かで、盛んに泡を飛ばした。
それから、この佐々木の友人で、フランス語学校で同じ高等科にいた小野寺というのと知った。これもやはり、二、三年前に早稲田を出て、その頃は研究科でたった一人で建部博士の下に社会学をやっていた、少し出歯ではあったが、からだの小さい、貴公子然とした好男子だった。
ある晩、学校からの帰りに、同じ生徒の高橋という輜重兵大尉が、彼に社会学というのはどんな学問かと尋ねた。
「たとえば国家というものが、またその下にあるいろんな制度がですね。どんなふうにして生れて、そしてどんなふうに発達して来たかというようなことを調べるんです。」
小野寺は得意になって、やはり佐々木と同じように少々ズウズウ弁ながら、多少演説口調で言った。
「それや面白そうですな。」
士官学校の馬術の教官で、縫糸を一本手綱にしただけで自由に馬を走らせるという馬術の名手の高橋大尉は、本当にうらやましそうに言った。
社会学というのは、またそれがどんなものかということは、これが僕には初耳だった。そして僕も、高橋大尉と一緒にこんな学問をしている小野寺をうらやましがった。そして小野寺や佐々木に頼んで、社会学の本だの、その基礎科学になる心理学の本だのを借りて、まるで分りもしないものを一生懸命になって読んだ。たぶん早稲田から出た遠藤隆吉の社会学であったか、それとも博文館から出た十時何とかいう人の社会学であったか、それともその両方であったかを読んだ。また、金子馬治の『最近心理学』という心理学史のようなものも読んだ、そしてついでに、同じ早稲田から出ている哲学の講義のようないろんなものも読んだ。
小野寺はまた僕に仏文のルボン著『民衆心理』というのは面白い本だから読めと言って勧めた。それも僕は、字引を引き引きしかもとうとう碌に分らないながらも読んでしまった。
学習院は欠員なしでだめ、暁星中学校もだめとあって、その四月に、僕はあとたった一つ残っている成城中学校へ試験を受けに行った。が、願書を出す時には外国語をフランス語として出して受けつけたのが、いよいよ試験の日になって「こんどの五年にはほかにフランス語の生徒がないから」というので無駄に帰されてしまった。
そして僕は九月まで待って、どこか英語の中学校の試験を受けなければならないはめになった。それで僕は急に英語の勉強を始めた。そしてユニオン読本の四が読めさえすればどこへでもはいれると聞いて、ほかの学科の方はよして、そのユニオンの四を近所の何とかいう英語の先生のところへ教わりに行った。もう幾年かまるで英語の本をのぞいて見なかったので、初めからユニオンの四にぶつかるのは実に無茶なことだった。しかし僕は先生のところでその講義を聞いて来ては、さらにうちへ帰って字引と独案内とを首っ引きにして、それこそ本当に一生懸命になって勉強した。そして一、二月するうちにはそのユニオンの四も大した苦にはならなくなった。
すると七月か八月の幾日かに、突然僕は「母危篤すぐ帰れ」という父の電報を受取った。
[#改頁]
"from【全話配信中】巨人の星⚾第127~132話「テストされる川上監督」「必殺の大リーグボール二号」「一徹の秘策」「左門の挑戦」「消える魔球の推理」「天才・花形の敗北」"
で。2026081611:55(日本時間)。
自叙伝(六)
一
父の家は尾上町のすぐ近所の西ヶ輪[#底本では「西ケ輪」]という町の、練兵場の入口の家に引越していた。もと谷岡という少佐が住んでいて、僕はその息子と中学校で同級だったので、前からよく知っている家だった。谷岡は幼年学校や士官学校の試験にいつも失敗して、とうとう軍人になりそこねて、後慶応にはいって、今はどこかの新聞の経済記者になっていると聞いた。そしてその家の裏には、先年社会主義思想を抱いているというので退職された、松下芳男中尉が住んでいた。勿論まだ当時はほんの子供で僕の弟の友達だった。
玄関にはいると、僕は知っている人達や知らない人達の大勢がみんな泣きながら、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしてうろうろしているのを見た。僕は母はもう死んだのだと思った。しかもまだ今死んだばかりのところだと思った。そしてそのうろうろしている人達の一人をつかまえて、「お母さんはどこにいます」と聞いた。が、その女の人はちょっと大きく目を見はって見て、何にも答えないで、わあと声を出して泣いて、逃げるようにして行ってしまった。僕はまたもう一人の女の人をつかまえた。が、やはりまた、前と同じ目に遭った。
仕方がないので、どこか奥の方の室だろうと思いながら、まず先きの人達の逃げこんだ玄関のすぐ次の室にはいった。その室とその奥の座敷との間の襖は取りはずされて、その二つの室一ぱいに大勢の人達が坐っていた。僕がはいって行くと、みんなは泣きはらした目をやはり先きの人達と同じように大きく見はって僕の顔を見つめていたが、僕がまた「お母さんはどこにいます」と聞くと、その中の女の人達はまたわあと声をあげて泣きだした。そして誰一人僕の問いに答えてくれる人はなかった。僕は変な気持になりながら、仕方なしに、また襖をあけて玄関の奥の一室にはいった。そこは母の居室になっていたものと見えて、箪笥だの鏡台だのがならんでいるだけで、誰もいなかった。僕はそこに突ったったまま、一体どうしたことなんだろうと思いながら、ぼんやりしていた。
そこへ、それが誰だったかはもう忘れてしまったが、とにかく母と親しくしていたそして僕も好きだったある軍人の細君がはいって来た。
「あなたはまあどうしたんです。お先きにいらっしたんですか。」
彼女もやはり目を泣きはらしながら、しかししっかりとした口調で叱るように言った。僕はその「お先きに」という言葉が何のことだか分らなかった。しかし、とにかく、
「いや、僕は今東京から来たんです。」
とだけ答えた。
「それじゃあなたは新潟へはいらっしゃらなかったんですか。」
「え、行きません、母は新潟にいるんですか。」
「ああ、それじゃあなたは何にも知らないんですね。まあ……」
と言いながら彼女はほろほろと涙を流した。
「母はもう死んだんですか。」
「ええ、きのう新潟病院でおなくなりになりました。そして、きょう、もうすぐみなさんでこちらへお帰りの筈です。」
僕はそう聞くと、なるほどうちのものは誰もいないなと気がついた。そして同時にまた、初めて自分で電報というものを受取った僕が、その差出人のところはちっとも見ずにただ中の「母危篤すぐ帰れ」というのだけを見て、驚いて向いの大久保から旅費をかりて上野の停車場へ駈けつけたことを思いついた。
「お着きです。」
という声がして、みんなが玄関へ出て行くのが聞えた。
「ああ、お着きだそうです」
彼女はぼんやりと考えている僕を促すように言って、玄関へ出て行った。僕もそのあとに随いて行った。
棺の前後に父や弟妹等やその他四、五人の人達が随いて、今車から降りたばかりのところだった。
あとで聞くと、さっき僕が車から降りた時にも、やはり「お着き」だと思って大勢出て来たのだが、僕がたった一人でしかもうろうろしながら「お母さんはどこにいます」なぞと聞くもんだから、これやきっと気でも変になったんじゃあるまいかと、みんながそう思ったんだそうだ。
母は卵巣膿腫、すなわち俗にいう脹満で死んだのだ。
その少し前に、九人目の子供を流産してからだを悪くしたので、しばらくどこかの温泉へ行っていたのだが、帰ってすぐ手術をすると言って新潟へ出かけたのだそうだ。しかも、「なあに、二週間もすればぴんぴんしたからだになって帰って来ますよ」と言って、大元気で出かけたのだそうだ。
「そんなふうでしたし、それにお母さまは栄は今試験前で勉強で忙しいんだから心配さしちゃいけないとおっしゃって、どうしてもあなたのところへお知らせするお許しが出なかったんですよ。」
母の死骸が着いた晩、三の町のお嬶といって、昔僕の家が新発田へ行ったその日から母の髪結いさんとして出はいりして、そしてその後髪結いをよしてからもずっと母の一番親しいお相手として出はいりしていた女が、お通夜をしながら僕に話しだした。僕が去年の夏、この自叙伝を書く準備に二十年目でそっと新発田へ行った時にも、僕が最初に訪ねたのはもういい婆さんになっていたこのお嬶だった。
「すると、三、四日もしないうちに、危篤という電報なんでしょう。で、私、お子さん方をみなさんお連れ申して参ったんですけれど、それやもう大変なお苦しみでしてね。注射でやっと幾時間幾時間と命をお止め申していたんです。時々、栄はまだかまだかとおっしゃりましてね、そしてあの気丈な方がもう苦しくて堪らないから早く死なしてくれ死なしてくれとおっしゃるんです。それでも、私がもうすぐお兄さまがいらっしゃいますからと言うと、うんうんとお頷き遊ばして黙っておしまいなさるんですもの。それや、どんなにかあなたをお待ち遊ばしたんですか。幾度も早く死なして死なしてとおっしゃるんですけれど、そのたびに私があなたのことを申しあげると、頷いては黙っておしまいなさるんですもの。」
お嬶は一晩じゅう、ほとんどこの話ばかり繰返して言って聞かしては、自分も泣きまた僕をも泣かした。
「それに、お母さまは、お嬶丈夫になってすぐ帰って来るからねと大きな声でおっしゃってお出かけなすったんだけれど、実はご自分でも覚悟をしていらっしたんですよ。私、お子さん方をお連れして行く時に、お召物を出しに箪笥をあけて見ますと、お母さまのお召物に何だか妙な札がついているんです。よく見ますと、それがみんな春とか菊とか松枝とかとお嬢さん方のお名前が書いてあるんでしょう。私、腹が立ちましてね。何もそんな覚悟までして、わざわざ新潟くんだりへ手術なぞしにいらっしゃらなくてもよさそうなものだと思いましてね。私、そのことはお母さまに存分お怨みを申上げましたわ。」
お嬶はまたこんな話もした。そして、母の死は実は医者の過失なので、手術後腹が痛み出してまた切開して見たら中から糸が出て来て、大変な膿を持っていたなぞとも話した。これは、そこに立ち会った人達がみんな非常に憤慨して話して、病院へなんとか掛合わなければならんなぞと言っていたが、父は悲痛な顔をしながら「いや、済んだことはもう仕方がない」と一人あきらめていた。
そんなお通夜が二晩か三晩続いて、大阪にいたお祖母さん(母の母)と僕のすぐ妹の春とが到着するとすぐ、葬式が出た。
ちょうど新発田の町のほとんど端から端までの一番賑やかな大通りを通って、僕が位牌を持たせられて、宝光寺という旧藩主の菩提寺まで練って行った。新発田にもう十幾年もいて、それに母はそとへ出ると新発田言葉で大きな声で会う人ごとに挨拶して歩くというほどだったので、見送りの人もずいぶん多かった。そしてほとんど通りの町じゅうの人がそとへ出て見送ってくれた。
「あんなご立派なお葬式はまだ見たことがありません。」
と言って、三の町のお嬶なぞは今でもまだ、その人並すぐれた小さなからだを揺すりながら、おかめのような顔を皺くちゃにして自慢にしている。
葬式が済んでから、母の棺を六人ばかりの人足にかつがして、僕と弟の伸とが引っついて、五十公野山という僕等がよく遊びに行った小さな山の奥の方へ火葬に行った。人足どもはその場所まで行くと、まず藁を敷いて、その上へあたりの松の枝を折って来ては積み重ねて、そしてその上へ棺を載せてまた松の枝を積み重ねた。そして自分等はそこから二、三間離れたところに蓆を敷いて、車座になって、持って来た大きな徳利だの重箱だのを幾つか並べたてた。こうして朝まで飲みあかしながら、死骸がすっかり骨になってしまうまで待つんだという。
僕はその人足どもの言うままに、一束の藁に火をつけて、その火を棺の一番下に敷いてある藁の屑に移した。藁はすぐに燃えあがった。その火はさらに、その上の松の枝や葉に燃え移った。そして僕はその焔々として燃えあがる炎の中に、ふだんのようにやはり肉づきのいい、ただ夏のさ中に幾日もそのまま置いたせいかもう大ぶ紫色がかりながらも、眠ったようにして棺の中に横たわっている母の顔を見た。僕はその棺箱が焼けて、母の顔か手か足かが現れて出たら、堪らないと思った。それでも僕はじっとしてその炎を見つめていた。
人足どもの一人は急いで僕等兄弟をわきへ連れて行って、すぐ帰るようにと勧めた。もう日も大ぶ暮れていたのだ。そして僕はその場所へ行ったらすぐ帰るようにとあらかじめ言いつけられて来たのだ。僕等はその人足に送られて山の麓まで出て、そこから車に乗って帰った。
二
母の死体がうちへ着いた時に、僕はその棺のそばに、礼ちゃんが立っているのを見た。礼ちゃんも二、三日前から新潟の母のところへ行っていたのだ。たしかその晩だったと思うが、夜遅くなってから、お通夜をするというのを無理やりにみんなに帰れ帰れと勧められてうちへ帰った。そして、高級副官の父のもとにやはり旅団副官をしていた何とかいう中尉の細君が、これはまだ若いそうして連隊じゅうで一番綺麗な細君で、僕は前からずいぶん親しくしていたのだったが、そっと僕の肩を突っついて、しかし高い声で、僕に礼ちゃんを送って行くようにと勧めた。ほかの人達も、それと一緒になって、同じように僕に勧めた。僕は急に胸をどきどきさせながら、ちょっとためらった。礼ちゃんはもじもじしながら、にこにこして、僕が座を立つのを待っているようだった。綺麗な細君もやはりにこにこして、僕の顔を見ているようだった。僕はこの二人の若い細君の微笑みに妙に心をそそられた。
僕はすぐ提灯を持って、礼ちゃんと一緒にうちを出た。そとは真暗だった。礼ちゃんと僕とはほとんどからだを接せんばかりに引っついて行った。二人がこんなにして歩くのはこれが初めてだったのだ。僕はもう母が死んだことも何もかも忘れてしまった。そして提灯のぼんやりした明りを二人の真ん中の前にさし出して、ますます引っついて歩いて行った。二人は何か声高に話しながら笑い興じていたようだった。
「あら、斎藤さんじゃありませんか。」
二人は向うから軍服を着て勢いよく歩いて来る男にぶつかりそうになって、礼ちゃんはその男の顔を見あげながら叫ぶようにして言った。それは礼ちゃんのうちと同僚の斎藤中尉だったのだ。この中尉は、僕がまだ幼年学校にはいる前、彼がまだ見習士官だった頃から、僕もよく知っていた。が、中尉の方ではちょっと僕等が分らないらしかった。
「君は何だ。」
中尉は礼ちゃんの方へ食ってかかるように怒鳴った。
「いや、僕ですよ。」
僕は礼ちゃんをかばうようにして一足前へ出て言った。中尉はじっと僕の顔を見つめていたが、
「やあ、君でしたか。これはどうも失礼。僕はまた……いや、これからお宅へ行くところなんです。どうも失礼。」
と、多少言葉は和らげながらも、まだぷりぷりしたような様子で行ってしまった。
「まあ、ほんとにいやな斎藤さん。お酒の臭いなぞぷんぷんさして。」
礼ちゃんはもう大ぶ行ってしまった後ろをふり返りながら呟いた。
「でもきっと、僕等があんまりふざけて来たもんだから、この辺の何かと間違えたかも知れないね。」
僕は少々気がさして言った。僕等が歩いていた西ヶ輪[#底本では「西ケ輪」]の通りというのは、その裏のお小人町と一緒に、主として軍人をお得意とする魔窟だったのだ。
「そうね。けれど、それじゃあんまり失礼だわ。」
礼ちゃんはまだ多少憤慨しながらも、しかし自分を省みない訳には行かなかった。
二人はしばらく黙って、しかし相変らずほとんど接触せんばかりに引っついて歩いて行った。
「ねえ、栄さん、私お嫁に行ってずいぶんつらいのよ。」
礼ちゃんはしんみりした調子で口を切った。
「どうして?」
「おしゅうとさんがそれやひどいのよ。お母さんの方はまだそうでもないんですが、お父さんがそれやむずかしい方でね。本当に箸のあげ下ろしにもお小言なんだけれど、そんなことはまだ何でもないわ。私がちょっとうちを留守にすると、その間に私のお針箱から何やかまで引掻き廻して何か探すんですもの。私もうそれが何よりもつらいわ。」
「へえ、そんなことをするんかね。」
僕は驚いて彼女の顔を見た。彼女は黙ってうつむいていた。が、僕にはそれ以上何といって話していいのか分らなかった。僕も仕方なしに黙ってしまった。
道は川のそばだのあまり家のこんでいないところだのでずいぶん寂しかった。それでも二人はまたしばらく黙って、引っつき合って歩いて行った。
礼ちゃんはまた口を切って、東京での僕の学校の様子を聞いた。僕は去年の暮に、この礼ちゃんのためにだけでも偉い人間になって見せるとひそかに決心したことを思い出した。が、そんなことを話そうとも思わず、またよし思ったとしても話しすることはできずに、ただ礼ちゃんの聞くままに受け答えしていた。そしてとうとう礼ちゃんのうちのすぐ近くまで行った。
僕はもう帰ると言いだした。礼ちゃんはぜひちょっと寄って行けと引きとめた。
「僕はいやだ。さっきの斎藤さんのように、また隅田さんに変に思われるかも知れないからね。」
僕はそんなことを言うつもりでもなく、ふいと戯談のように言ってしまった。
「あら、いやな栄さん。それじゃいいわ。」
礼ちゃんは手をあげて打つまねをしながら、ちょっと僕をにらんだかと思うと、そのままばたばたと駈けだしてうちへはいってしまった。
僕はぼんやりしたようになってうちへ帰った。
翌日、礼ちゃんはまたうちへ来た。そしてその後も、毎日、日に一度はきっとやって来た。
母の死骸がうちにあった間は、二人とも顔を見合わしても先夜のことなどまるで忘れたようにしていたが、そしてまた実際いろんなほかの人達と一緒に母の死についての歎きに胸を一ぱいにしていたが、葬式が済んだ翌日からは、二人とも顔さえ合せれば、もう母の死のことなどは忘れたようになって、そしてまだほんの子供のような気になって、先夜二人で門を出た時と同じように、一緒に笑い興じたり騒いだりばかりしていた。
例の綺麗な細君もほとんど毎日のように見舞いに来た。そして二人のそんなふうなのをそばで黙ってにこにこしながら眺めていて、時々、本当にお二人は仲善さそうね、なぞとからかっていた。
お祖母さんは苦々しそうにして、いつも顔をしかめていた。
この綺麗な細君は、その後、日露戦争の留守中に何か不都合なことがあったとかで離縁になったというように聞いたが、そしてそれから間もなく一度銀座でたしかにその人らしい顔をちょっと見たのだが、どこにどうしていることか。
しかし、学校の入学試験をすぐ目の前に控えていた僕は、いつまでもそうしていることができなかった。母の葬式が済んでから一週間目くらいで、僕はまた上京した。そしてまた、母のことも礼ちゃんのことも綺麗な細君のことも、何もかも忘れたようになって、勉強しだした。
"from【全話配信中】巨人の星⚾第127~132話「テストされる川上監督」「必殺の大リーグボール二号」「一徹の秘策」「左門の挑戦」「消える魔球の推理」「天才・花形の敗北」"
で。2026081705:08(日本時間)。
三
十月の初めになって、僕は東京中学校(今はもうないようだ)と順天中学校との五年の試験を受けた。
今はどうか知らないが、その頃の東京の私立のへぼ中学校では、ほとんど毎学年毎学期に各級の入学試験をやった。そしてその毎学期の初めに二、三度生徒募集をして、そのたびに試験を受けさしては受験料を儲けるのを例としていた。東京中学校のも順天中学校のもその最後の第三回目の生徒募集の時だった。
僕はそのどっちかにどうしてもはいらなければならないと思った。が、その試験は二つともほとんど同時に行われるのだった。僕はもう自分の学力には自信があった。しかし、万一の時にはと思って、少し早くからはじまる東京中学校のは自分で受けて、順天中学校のは換玉を使うことにきめた。それには、ちょうどいい、下宿の息子の友人で僕もそれを通じて知っていた早稲田中学卒業の何とかいう男があった。
ところが、僕自身が受けた東京中学校の方は、僕の大嫌いな用器画が三題ともちっとも分らないで、その日でもう落第となった。換玉の方はうまく行って、しまいまで通過して行って、及第となった。そして僕はそのお蔭で順天中学校の五年級にはいった。
しかし僕は、こうして話を年代通りに進めて行く前に、さっきの礼ちゃんのことが少し気にかかるので、というのは、あんな甘いしかも実も何にもない初恋の話の続きを今後まだあちこちに挾んで行くのは少し気が引けるので、少々年代を飛ばして、今ここで、話しついでにその後のいきさつをも一と思いにみんな話してしまおうと思うのだ。そしてこんどは、礼ちゃんの夫の隅田が死んだ時の二人の関係の場面になるのだから、前の話のいい対照になると思う。で、なおさらそれをまず書きたいのだ。
礼ちゃんとはその後三度会う機会を持った。最初の一度は、ほとんど一度とも言えないくらいなので、その後四年ばかりして、僕が外国語学校を出て社会主義運動にまったく身を投じようとした頃のことだった。堺君や田川大吉郎君や故山路愛山君などが一緒になって、すなわち当時の社会民主主義者や国家社会主義者なぞが一緒になって、電車の値上反対運動をやった。そして日比谷で市民大会というのを開いて、そこで集まった群集の力で電車会社や市会なぞへ押しかけた。その前日だ。僕は堺君の家からあしたの市民大会のビラを抱えて、麹町三丁目あたりからそれを撒き歩きはじめた。その時僕はふと礼ちゃんらしい姿を道の向う側に認めた。ただそれだけのことなのだ。
が、あとで聞くと、それは本当に礼ちゃんだったので、その市民大会のすぐあとで兇徒聚集という恐ろしい罪名で未決監に入れられた時に、礼ちゃんが僕の留守宅に見舞いに来てくれたそうだ。その頃僕は僕よりも二十歳ばかり上のある女と一緒に下六番町に住んでいたのだ。
その次の二度目は、それからまた二、三年してからのことと思うが、彼女とその夫とを東京衛戍病院に訪ねた。どうして彼女等がそこにいることを知ったのか、また隅田がどんな病気でそこにいたのかも忘れてしまったが、僕がその病室にはいるといきなり礼ちゃんはそとへ飛び出して行ってしばらく姿を見せなかった。そして隅田はマッサージをやらしていた。
「はあ、奴、知らないお客だと思って逃げ出したんだ。」
隅田は笑いながらそう言って、そのマッサージ師に彼女を呼びにやった。
彼女は「まあ」と言って、びっくりしたような顔をしてはいって来た。
その時隅田は、前に東京へ出て英語を勉強したいために憲兵になって、憲兵何とかいう学校にはいっていたが、その後どこかへ転任して、今病気で東京に帰っているんだというような話をしていた。そして僕が社会主義者になってもう二、三度入獄していることについても、困ったものだがしかし君の性格上仕方があるまいというようなことを言って、礼ちゃんはそれに「ええ、あんまりできすぎるからだわ」と弁解して附け加えていた。
が、その時には僕は三十分ばかりで帰って、その後また彼女夫婦がどうなったかはしばらくちっとも知らなかった。
すると、それからまた四、五年して、僕が例の神近や伊藤との複雑な恋愛関係にはいり始めた頃のこと、最後の三度目に、また突然と礼ちゃんが現れて来た。
ある日僕は、僕がフランス語の講習会をやっていた牛込の芸術倶楽部へ行った。そして僕が借りていた一室のドアを開けると、そこの長椅子に礼ちゃんが一人しょんぼりと腰をかけているので、実にびっくりした。
「隅田は大変肺を悪くしましてね、熊本の憲兵隊長をしていたのをよして、今はこちらに来ているんです。そして寝たっきりでいるんですが、あなたが前に肺が大変悪かったのに今はお丈夫だということを聞きましてね、ぜひあなたにお会いして、あなたの肺のお話を聞きたいって言うんですの。お医者もいろんなことを言ってちっとも分りませんし、隅田ももう長い間の病気ですっかり弱りこんでいるんです。」
礼ちゃんが、いろいろと詳しく話しているうちに、もうフランス語の時間が来て、生徒も二、三人やって来た。
「え、それじゃ明日お宅へ参ります。」
と言って、僕は礼ちゃんを入口まで送り出した。
翌日行って見ると、隅田の病気は話で聞いたよりもよほど悪いように見えた。今まで僕が見た、肺で死んだ幾人かの人の、もう末期に幾ばくもない時のような、いろんな徴候を持っていた。僕はこれやもう一月とは持つまいと思った。それでも、僕が悪かった時の容体やそれに対する手当などをいろいろと聞かれるので、僕も詳しくいろんな話をして、何大丈夫ですよなぞと慰めた。が、話しているうちにだんだん咳がひどくなるので、僕はあんまり長く話ししていてはいけまいと思って、みんながしきりにとめるのも聞かずに、礼ちゃんにだけそっと僕の思った通りのことを話して、いい加減に切りあげて帰った。
その後も折々見舞おうとは思ったのだが、僕は伊藤の行っている九十九里の御宿へ行ったり来たりしていて、そのひまがちっともなかった。そして、そうこうしているうちに、礼ちゃんから隅田死亡という知らせを受けとった。
さっそく行って見ると、隅田の死骸のそばでは、大勢の男女が集まって、大きな珠数のような綱のようなものをみんなでぐるぐる廻しては、ナムアミダー、ナムアミダーと夢中になって怒鳴っていた。下のほかの室にも僕の知らない大勢の人がいた。礼ちゃんはすぐ僕を二階へ案内して行った。
僕は今でもまだそうだが、死んだ人の家へ行ってどうお悔みを言っていいか知らなかった。で、黙ってただお辞儀をした。
「やっぱりあなたのおっしゃった通りでしたわ。」
礼ちゃんはすっかりやつれて泣顔をしながらも、それでもいつもの生々としたはっきりした声で話しだした。
「私こんなことを言っちゃいけないんでしょうけれど、隅田のなくなることはもうとうから覚悟していましたし、今じゃ隅田のなくなった悲しみよりも私のこれからのからだの方がよっぽど心配なんですの。」
僕は来る早々意外なことを聞くものだと思った。
「経済上の心配じゃないんです。それはどうとかしてやって行けます。けれど、隅田がなくなって方々から親戚のものが集まって来てから、私今までまるでいじめられ通しでいるんです。そしてこれからもたぶん一生いじめられ通しで行くんだと思うんです。」
僕はますます意外なことを聞くものだと思った。そしてやはり黙ったまま聞いていた。
「隅田の国の方の人が来るとすぐ、私をつかまえて、おやお前はまだ髪を切らずにいるんかい、と言うんでしょう。私、今時まだこんなことを言う人があるのかと思って、何とも返事ができなかったくらいですわ。するとこんどは、壁にかけてあるヴァイオリンを見つけて、ああこれは何とかさんにすぐあげておしまい、後家さんにはもう鳴物などいっさい要らないんだから、と言うんですもの。私、髪なんか切ることは何とも思いませんわ。また、ヴァイオリンなどもちっとも欲しかありませんわ。けれども今そんなにして、みんなの言うように本当の尼さんのようになったところで、それがいつまで辛棒できるかと思うと、自分でも恐ろしくなりますの。私今まで軍人の奥さんで、ことに日露戦争の間に、旦那が戦死してすぐ髪を切った方をたくさん知っていますわ。そしてそれが二、三年か四、五年かしてどうなったかもよく知っていますわ。そのまま立派な未亡人で通した方はまるでないんですもの。そして本当の尼さんのような生活にはいった人ほど、それがひどいんですもの。」
僕はただの平凡な軍人の細君と思っていた彼女が、これほどはっきりと、いわゆる未亡人生活を見透しているのに驚いた。
「それであなたはどうしてもその辛棒ができないというんですか。」
僕は彼女がそれについてどこまで決心しているのかを問いただそうと思った。
「いいえ、どこまでも辛棒して見るつもりです。今私は隅田の郷里に帰って、世間とのいっさいの交渉を断って、ただ一人の子供を育てあげることと、隅田の位牌を守って行くこととの、本当の尼さんのような生活をするように、毎日みなさんから責められています。しかしそれも辛棒して見るつもりです。どこまでそれで辛棒できるか知りませんが、とにかくできるだけどこまでも辛棒して行きます。」
「けれどもその辛棒ができなくなる恐れがあるんでしょう。その時にはどうするつもりなんです。」
「え、それが心配なんですの、恐ろしいんですの。けれど、やっぱり、どこまででも辛棒しますわ。」
「で、あなたの方のお父さんやお母さんはどう言っているんです。」
「私には可哀相だ可哀相だと言っていますが、やはりいったん隅田家へやった以上は、隅田家の言う通りにしなければならんと言っています。」
「あなたがそうまで決心しているんなら、それでもいいでしょう。しかし、できるだけやはり辛棒はしない方がいいです。辛棒はしても、もうとてもできないと思う以上のことは決して辛棒しちゃいけません。それが堕落の一番悪い原因なんです。」
「でも、それでも辛棒しなきゃならん時にはどうしましょう。」
「いや、辛棒しなきゃならん理窟はちっともないんです。そんな場合には、もういっさいをなげうって、飛び出すんです。すぐ東京へ逃げていらっしゃい。僕がいる以上は、どんなことがあっても、あなたを勝たして見せます。」
「ええ、ありがとうございます。私本当にあなたをたった一人の兄さんと思っていますわ。けれど私、どうしても辛棒します。どこまでも辛棒します。ただね、本当に栄さん、私あなたをたった一人の兄さんと思っていますから、どうぞそれだけ忘れないで下さいね。」
僕は彼女とほとんど手を握らんばかりにして、また近いうちに会う約束で別れた。
その翌日、隅田の葬式があったのだが、僕は着て行く着物も袴も何にもなし、また借りるところもないので、わざと遠慮して、そこから余り遠くない麻布の神近の家で一日遊んで暮した。
それから幾日目だったか、ある日、礼ちゃんが麹町の僕の下宿に訪ねて来た。
いよいよあすとかあさってとか、隅田の郷里に帰るので、牛込のある親戚へ用のあったのを幸いに、内緒で立ち寄ったとのことだった。話はやはり、いつかの彼女の家での話を、もう少し詳しくして繰返したに過ぎなかった。が、そうして彼女と話している間に、僕は幾度彼女の手を握ろうとする衝動に駆られたか知れなかった。
しかし、彼女もいつまでそうしていられる訳でもなく、また僕ももう芸術倶楽部へ行く時間が迫っていたので、下宿を出て、一緒に倶楽部のすぐ近くまで行った。そして無事に、お互いに「ご機嫌よう」と言って別れてしまった。
四
順天中学校というのは、もっともほかにもそんなのが幾つもあったのだろうが、ちょっと妙な学校だった。
僕のはいった五年は三組で二百人か二百五十人かいた。四年は二組で百五十人、三年は百人、二年一年は四、五十人というように、級がさがるに従って生徒の数が減っていた。わざわざこんな学校に一年や二年かではいるものはないんだ。そしてたいがいのはすぐと四年か五年かへはいるんだ。
僕等の組には、哲学院(東洋大学の前身)を出たものだの、早稲田を出たものだの、その他いろんな専門学校を出たものがいた。そんなのは何かの必要からただ中学校卒業の免状だけを貰いに来たのだ。また、顔を見ただけでも秀才らしいまだ年少の、あるいはぼんやりとした年かさの、独学の人もかなりいた。それからまた、僕達と同じように、どこかの学校で退学させられた不良連もずいぶんいた。そして僕と同じように、換玉ではいったのもこの不良連の中に多かった。
僕と一緒にこの順天中学校へはいった友人に登坂というのがいた。やはり僕とほとんど同時頃に、男色で、仙台の幼年学校から逐われて来たのだった。
この登坂とは、その年の一月、すなわち僕が東京へ出て来るとすぐ、市ヶ谷[#底本では「市ケ谷」]の幼年学校の面会室で出遭った。そして彼から、新発田での旧友で同時に幼年学校へはいった谷という男ともう一人とが、やはり彼と一緒に退学させられたことを知った。四人はすぐ友達になった。ほかにもまだ、やはり同時頃に同じような理由で大阪の幼年学校を退学させられた、島田というのともう一人と、どこかで落ち合って、これもすぐ友達になった。みんな、名古屋、仙台、大阪と所は違うが、同じ幼年学校の同期生だったのだ。
みんなはその名誉恢復のためというので、互いに戒めて勉強を誓った。そしてその年の九月十月にはみんなどこかの中学校の五年にはいった。
その中でも登坂と僕とは、最初に出遭った関係からか、またお互いに文学好きで露伴と紅葉との優劣を論じ合ったりしていたせいか、一番近しくなった。ことに一緒に順天中学へはいるとすぐ、本郷の壱岐坂下に一室をかりてそこに一緒に住んだ。
二人とも、学校の方もよく勉強したが、小説もずいぶんよく読んだ。坂上にちょっとした、貸本屋があった。そこから借りて来るのだが、しばらくの間にその、貸本屋の本をほとんどみな読んでしまった。
後には島田もこの下宿に仲間入りした。島田は撃剣が御自慢で、真黒な顔をして巌丈なからだの男で、いつも僕等が小説なぞを読むのを苦々しそうにしていた。そこで、登坂と僕とが一策を案じて、そのいやがるのを無理押しつけに、『不如帰』を借りて来て読ました。先生、最初の間はむずかしそうな顔をしてページをめくっていたが、だんだん眉の間の皺をのばして来た、とうとうしまいにはそのさざえ[#「さざえ」に傍点]のような握拳でほろほろと落ちる涙をぬぐいはじめた。「それ見ろ」というので、その後二人は島田の喜びそうなものを選んでは読ましていたが、島田は浪六の『五人男』がすっかりお気に召して、「俺は黒田だ、大杉貴様は倉なんとかだ」というようなことを言って一人で喜んでいた。
浪六物や弦斎物はとうの昔に卒業して、紅葉、露伴のものまでももう物足りなくなっていた僕等は、島田のそんな話には相手にならなかった。しかし僕は、その「倉なんとかだ」と言われたのが、内心はよほどの不平だった。
「なるほど、僕は倉なんとかのように、一面にはごく謹厳着実に済ましている。しかし、それだけ他のもう一面には、黒田のような豪放がひそかに燃えているんだ。貴様なんかのえせ[#「えせ」に傍点]豪放が何のあてになるもんか。」
僕は自分で自分にそう叫んで、「今に見ろ」と腹の中で一人で力んでいた。
その頃、僕よりも一期上でやはり名古屋出身の田中というのが、中央幼年学校から逐い出されて、これも僕等の下宿にころがりこんだ。その他にも、登坂の仲間の何とかいうのと、島田の仲間の何とかいうのと、これも一時僕等の下宿に来たが、この二人は僕等の「謹厳着実」な生活に堪えきれないですぐほかへ出て行ってしまった。
また、僕等よりもやはり一期上で、そして僕等よりも一年ほど前に仙台を出た箱田というのが、その年に高等学校へはいって、ちょいちょい僕等の下宿に遊びに来た。僕等よりも一期二期あとの、その後に退校させられた[#底本では「退校せられた」]二、三のものも、学校やその他のいろんなことについて、僕等のところに相談に来た。
こうして、幼年学校の落武者どもが、ほとんどみな僕等の下宿を中心として集まった。そしてその次の年には、みんな無事に中学校を終えて、僕と島田とは外国語学校に、登坂と田中とは水産講習所に、谷は商船学校に、みなかなりの好成績ではいった。
谷は今郵船の船長をしている筈だ。田中はどこかの県の技師になっていると聞いた。島田は、もう大ぶ古い頃に、どこかの田舎の連隊の将校集会所でドイツ語を教えているという話だった。登坂は一時水産で大ぶ儲けて、山陰道のどこかで土地の芸者を二人ばかりかこっていたというほどの勢いだったそうだが、十年ばかり前に失敗してアメリカへ行った。そして今でもまだ失意の境遇にいるらしい。箱田は朝鮮で検事か判事かをやっている。
僕はまた、壱岐坂上の貸本屋のほかに、神保町あたりのある貸本屋のお得意にもなっていた。そこには、小説本のほかに、いろんな種類のむずかしい本があった。僕は矢来町の下宿にいた時から引続いて、そこから哲学だの宗教だの社会問題だのの本を借りて来ては読んでいた。矢野竜溪の『新社会』は矢来町時代に、丘博士の『進化論講話』は壱岐坂時代かあるいはその少し後かに、幾度も繰返しては愛読した。
『新社会』は少し早く読みすぎたせいか、その読後の感興というほどのものは今何にも残っていない。しかし『進化論講話』は実に愉快だった。読んでいる間に、自分のせいがだんだん高くなって、四方の眼界がぐんぐん広くなって行くような気がした。今まで知らなかった世界が、一ページごとに目の前に開けて行くのだ。僕はこの愉快を一人で楽しむことはできなかった。そして友人にはみな、強いるようにして、その一読をすすめた。自然科学に対する僕の興味は、この本で初めて目覚めさせられた。そして同時にまた、すべてのものは変化するというこの進化論は、まだ僕の心の中に大きな権威として残っていたいろんな社会制度の改変を叫ぶ、社会主義の主張の中へ非常にはいりやすくさせた。
「何でも変らないものはないのだ。旧いものは倒れて新しいものが起るのだ。今威張っているものが何だ。すぐにそれは墓場の中へ葬られてしまうものじゃないか。」
しかし、僕にはまだ、何かの物足りなさがあった。母が死んだ、というようなこともほとんど忘れたようにはしていたが、次意識の中ではよほどさびしかったに違いない。また、礼ちゃんのことはやはり同じように忘れたようにはしていたが、幾年も続けて来た同性のいわゆる恋をまったく棄てた僕は、その方面でもよほどさびしかったに違いない。友人といえば、さっき言った幼年学校の落武者連だけだったが、それもただ同じ境遇から互いに励み合ったというほどのことで、本当に打解け合った親しい間柄ではなかった。
たぶんそんな餓えを充たすのだったろう。僕はよく飯倉の親戚の家へ出かけた。従兄の山田良之助(今陸軍の少将で憲兵司令官をやっている)の細君の家だ。山田は当時陸軍大学校の学生で、この飯倉の邸内の小さな家に住んでいた。僕はそれらの人のしんみ[#「しんみ」に傍点]な親しみの中にもひたりたかった。その邸のかなり贅沢な適位な生活の中にもひたりたかった。そしてまた、そこのいろんな綺麗な女の人達の笑い顔も見たかった。しかし、その人達はみな、男も女も綺麗ではあったが、その顔も心も冷たかった。ことに、僕が幼年学校を逐いだされてからは、なおさらそうのような気がした。僕よりも二つ三つ年下の何とかさんという娘なぞは、僕の幼年学校時代にはずいぶんよく一緒に遊びもしふざけもして、僕は心中ひそかに「僕が任官したら」という望みをすら持っていたんだったが、もう大ぶ娘らしくなってツンと済ましていた。
そんな寂しさがきっと主になって、そしてそのほかにもまだ、新しい進歩思想を求める要求なぞが手伝って、順天中学校を終る少し前から僕はあちこちの教会へ行き始めた。そして下宿から一番近い、またそのお説教の一番気にいった、海老名弾正の本郷会堂で踏みとどまった。
海老名弾正の国家主義には気がついたのかつかなかったのか、それともまだ僕の心の中にたぶん残っていたいわゆる軍人精神とそれとが合ったのか、それは分らない。とにかく僕は先生の雄弁にすっかり魅せられてしまった。まだ半白だった髪の毛を後ろへかきあげて、長い髯をしごいては、その手を高くさしあげて「神は……」と一段声をはりあげるそのいい声に魅せられてしまった。僕は他の信者等と一緒に、先生が声をしぼって泣くと、やはり一緒になって泣いた。
先生はよく「洗礼を受けろ」と勧めた。「いや、まだキリスト教のことがよく分らんでもいい。洗礼を受けさえすれば、ただちに分るようになる」と勧めた。僕はかなり長い間それを躊躇していたが、ついに洗礼を受けた。その注がれる水のよく浸みこむようにと思って、わざわざ頭を一厘がりにして行って、コップの水を受けた。
このキリスト教は、僕を「謹厳着実」な一面に進めるのに、大ぶ力があったようだ。しかしそれも長くは続かなかった。
十月の初めになって、僕は東京中学校(今はもうないようだ)と順天中学校との五年の試験を受けた。
今はどうか知らないが、その頃の東京の私立のへぼ中学校では、ほとんど毎学年毎学期に各級の入学試験をやった。そしてその毎学期の初めに二、三度生徒募集をして、そのたびに試験を受けさしては受験料を儲けるのを例としていた。東京中学校のも順天中学校のもその最後の第三回目の生徒募集の時だった。
僕はそのどっちかにどうしてもはいらなければならないと思った。が、その試験は二つともほとんど同時に行われるのだった。僕はもう自分の学力には自信があった。しかし、万一の時にはと思って、少し早くからはじまる東京中学校のは自分で受けて、順天中学校のは換玉を使うことにきめた。それには、ちょうどいい、下宿の息子の友人で僕もそれを通じて知っていた早稲田中学卒業の何とかいう男があった。
ところが、僕自身が受けた東京中学校の方は、僕の大嫌いな用器画が三題ともちっとも分らないで、その日でもう落第となった。換玉の方はうまく行って、しまいまで通過して行って、及第となった。そして僕はそのお蔭で順天中学校の五年級にはいった。
しかし僕は、こうして話を年代通りに進めて行く前に、さっきの礼ちゃんのことが少し気にかかるので、というのは、あんな甘いしかも実も何にもない初恋の話の続きを今後まだあちこちに挾んで行くのは少し気が引けるので、少々年代を飛ばして、今ここで、話しついでにその後のいきさつをも一と思いにみんな話してしまおうと思うのだ。そしてこんどは、礼ちゃんの夫の隅田が死んだ時の二人の関係の場面になるのだから、前の話のいい対照になると思う。で、なおさらそれをまず書きたいのだ。
礼ちゃんとはその後三度会う機会を持った。最初の一度は、ほとんど一度とも言えないくらいなので、その後四年ばかりして、僕が外国語学校を出て社会主義運動にまったく身を投じようとした頃のことだった。堺君や田川大吉郎君や故山路愛山君などが一緒になって、すなわち当時の社会民主主義者や国家社会主義者なぞが一緒になって、電車の値上反対運動をやった。そして日比谷で市民大会というのを開いて、そこで集まった群集の力で電車会社や市会なぞへ押しかけた。その前日だ。僕は堺君の家からあしたの市民大会のビラを抱えて、麹町三丁目あたりからそれを撒き歩きはじめた。その時僕はふと礼ちゃんらしい姿を道の向う側に認めた。ただそれだけのことなのだ。
が、あとで聞くと、それは本当に礼ちゃんだったので、その市民大会のすぐあとで兇徒聚集という恐ろしい罪名で未決監に入れられた時に、礼ちゃんが僕の留守宅に見舞いに来てくれたそうだ。その頃僕は僕よりも二十歳ばかり上のある女と一緒に下六番町に住んでいたのだ。
その次の二度目は、それからまた二、三年してからのことと思うが、彼女とその夫とを東京衛戍病院に訪ねた。どうして彼女等がそこにいることを知ったのか、また隅田がどんな病気でそこにいたのかも忘れてしまったが、僕がその病室にはいるといきなり礼ちゃんはそとへ飛び出して行ってしばらく姿を見せなかった。そして隅田はマッサージをやらしていた。
「はあ、奴、知らないお客だと思って逃げ出したんだ。」
隅田は笑いながらそう言って、そのマッサージ師に彼女を呼びにやった。
彼女は「まあ」と言って、びっくりしたような顔をしてはいって来た。
その時隅田は、前に東京へ出て英語を勉強したいために憲兵になって、憲兵何とかいう学校にはいっていたが、その後どこかへ転任して、今病気で東京に帰っているんだというような話をしていた。そして僕が社会主義者になってもう二、三度入獄していることについても、困ったものだがしかし君の性格上仕方があるまいというようなことを言って、礼ちゃんはそれに「ええ、あんまりできすぎるからだわ」と弁解して附け加えていた。
が、その時には僕は三十分ばかりで帰って、その後また彼女夫婦がどうなったかはしばらくちっとも知らなかった。
すると、それからまた四、五年して、僕が例の神近や伊藤との複雑な恋愛関係にはいり始めた頃のこと、最後の三度目に、また突然と礼ちゃんが現れて来た。
ある日僕は、僕がフランス語の講習会をやっていた牛込の芸術倶楽部へ行った。そして僕が借りていた一室のドアを開けると、そこの長椅子に礼ちゃんが一人しょんぼりと腰をかけているので、実にびっくりした。
「隅田は大変肺を悪くしましてね、熊本の憲兵隊長をしていたのをよして、今はこちらに来ているんです。そして寝たっきりでいるんですが、あなたが前に肺が大変悪かったのに今はお丈夫だということを聞きましてね、ぜひあなたにお会いして、あなたの肺のお話を聞きたいって言うんですの。お医者もいろんなことを言ってちっとも分りませんし、隅田ももう長い間の病気ですっかり弱りこんでいるんです。」
礼ちゃんが、いろいろと詳しく話しているうちに、もうフランス語の時間が来て、生徒も二、三人やって来た。
「え、それじゃ明日お宅へ参ります。」
と言って、僕は礼ちゃんを入口まで送り出した。
翌日行って見ると、隅田の病気は話で聞いたよりもよほど悪いように見えた。今まで僕が見た、肺で死んだ幾人かの人の、もう末期に幾ばくもない時のような、いろんな徴候を持っていた。僕はこれやもう一月とは持つまいと思った。それでも、僕が悪かった時の容体やそれに対する手当などをいろいろと聞かれるので、僕も詳しくいろんな話をして、何大丈夫ですよなぞと慰めた。が、話しているうちにだんだん咳がひどくなるので、僕はあんまり長く話ししていてはいけまいと思って、みんながしきりにとめるのも聞かずに、礼ちゃんにだけそっと僕の思った通りのことを話して、いい加減に切りあげて帰った。
その後も折々見舞おうとは思ったのだが、僕は伊藤の行っている九十九里の御宿へ行ったり来たりしていて、そのひまがちっともなかった。そして、そうこうしているうちに、礼ちゃんから隅田死亡という知らせを受けとった。
さっそく行って見ると、隅田の死骸のそばでは、大勢の男女が集まって、大きな珠数のような綱のようなものをみんなでぐるぐる廻しては、ナムアミダー、ナムアミダーと夢中になって怒鳴っていた。下のほかの室にも僕の知らない大勢の人がいた。礼ちゃんはすぐ僕を二階へ案内して行った。
僕は今でもまだそうだが、死んだ人の家へ行ってどうお悔みを言っていいか知らなかった。で、黙ってただお辞儀をした。
「やっぱりあなたのおっしゃった通りでしたわ。」
礼ちゃんはすっかりやつれて泣顔をしながらも、それでもいつもの生々としたはっきりした声で話しだした。
「私こんなことを言っちゃいけないんでしょうけれど、隅田のなくなることはもうとうから覚悟していましたし、今じゃ隅田のなくなった悲しみよりも私のこれからのからだの方がよっぽど心配なんですの。」
僕は来る早々意外なことを聞くものだと思った。
「経済上の心配じゃないんです。それはどうとかしてやって行けます。けれど、隅田がなくなって方々から親戚のものが集まって来てから、私今までまるでいじめられ通しでいるんです。そしてこれからもたぶん一生いじめられ通しで行くんだと思うんです。」
僕はますます意外なことを聞くものだと思った。そしてやはり黙ったまま聞いていた。
「隅田の国の方の人が来るとすぐ、私をつかまえて、おやお前はまだ髪を切らずにいるんかい、と言うんでしょう。私、今時まだこんなことを言う人があるのかと思って、何とも返事ができなかったくらいですわ。するとこんどは、壁にかけてあるヴァイオリンを見つけて、ああこれは何とかさんにすぐあげておしまい、後家さんにはもう鳴物などいっさい要らないんだから、と言うんですもの。私、髪なんか切ることは何とも思いませんわ。また、ヴァイオリンなどもちっとも欲しかありませんわ。けれども今そんなにして、みんなの言うように本当の尼さんのようになったところで、それがいつまで辛棒できるかと思うと、自分でも恐ろしくなりますの。私今まで軍人の奥さんで、ことに日露戦争の間に、旦那が戦死してすぐ髪を切った方をたくさん知っていますわ。そしてそれが二、三年か四、五年かしてどうなったかもよく知っていますわ。そのまま立派な未亡人で通した方はまるでないんですもの。そして本当の尼さんのような生活にはいった人ほど、それがひどいんですもの。」
僕はただの平凡な軍人の細君と思っていた彼女が、これほどはっきりと、いわゆる未亡人生活を見透しているのに驚いた。
「それであなたはどうしてもその辛棒ができないというんですか。」
僕は彼女がそれについてどこまで決心しているのかを問いただそうと思った。
「いいえ、どこまでも辛棒して見るつもりです。今私は隅田の郷里に帰って、世間とのいっさいの交渉を断って、ただ一人の子供を育てあげることと、隅田の位牌を守って行くこととの、本当の尼さんのような生活をするように、毎日みなさんから責められています。しかしそれも辛棒して見るつもりです。どこまでそれで辛棒できるか知りませんが、とにかくできるだけどこまでも辛棒して行きます。」
「けれどもその辛棒ができなくなる恐れがあるんでしょう。その時にはどうするつもりなんです。」
「え、それが心配なんですの、恐ろしいんですの。けれど、やっぱり、どこまででも辛棒しますわ。」
「で、あなたの方のお父さんやお母さんはどう言っているんです。」
「私には可哀相だ可哀相だと言っていますが、やはりいったん隅田家へやった以上は、隅田家の言う通りにしなければならんと言っています。」
「あなたがそうまで決心しているんなら、それでもいいでしょう。しかし、できるだけやはり辛棒はしない方がいいです。辛棒はしても、もうとてもできないと思う以上のことは決して辛棒しちゃいけません。それが堕落の一番悪い原因なんです。」
「でも、それでも辛棒しなきゃならん時にはどうしましょう。」
「いや、辛棒しなきゃならん理窟はちっともないんです。そんな場合には、もういっさいをなげうって、飛び出すんです。すぐ東京へ逃げていらっしゃい。僕がいる以上は、どんなことがあっても、あなたを勝たして見せます。」
「ええ、ありがとうございます。私本当にあなたをたった一人の兄さんと思っていますわ。けれど私、どうしても辛棒します。どこまでも辛棒します。ただね、本当に栄さん、私あなたをたった一人の兄さんと思っていますから、どうぞそれだけ忘れないで下さいね。」
僕は彼女とほとんど手を握らんばかりにして、また近いうちに会う約束で別れた。
その翌日、隅田の葬式があったのだが、僕は着て行く着物も袴も何にもなし、また借りるところもないので、わざと遠慮して、そこから余り遠くない麻布の神近の家で一日遊んで暮した。
それから幾日目だったか、ある日、礼ちゃんが麹町の僕の下宿に訪ねて来た。
いよいよあすとかあさってとか、隅田の郷里に帰るので、牛込のある親戚へ用のあったのを幸いに、内緒で立ち寄ったとのことだった。話はやはり、いつかの彼女の家での話を、もう少し詳しくして繰返したに過ぎなかった。が、そうして彼女と話している間に、僕は幾度彼女の手を握ろうとする衝動に駆られたか知れなかった。
しかし、彼女もいつまでそうしていられる訳でもなく、また僕ももう芸術倶楽部へ行く時間が迫っていたので、下宿を出て、一緒に倶楽部のすぐ近くまで行った。そして無事に、お互いに「ご機嫌よう」と言って別れてしまった。
四
順天中学校というのは、もっともほかにもそんなのが幾つもあったのだろうが、ちょっと妙な学校だった。
僕のはいった五年は三組で二百人か二百五十人かいた。四年は二組で百五十人、三年は百人、二年一年は四、五十人というように、級がさがるに従って生徒の数が減っていた。わざわざこんな学校に一年や二年かではいるものはないんだ。そしてたいがいのはすぐと四年か五年かへはいるんだ。
僕等の組には、哲学院(東洋大学の前身)を出たものだの、早稲田を出たものだの、その他いろんな専門学校を出たものがいた。そんなのは何かの必要からただ中学校卒業の免状だけを貰いに来たのだ。また、顔を見ただけでも秀才らしいまだ年少の、あるいはぼんやりとした年かさの、独学の人もかなりいた。それからまた、僕達と同じように、どこかの学校で退学させられた不良連もずいぶんいた。そして僕と同じように、換玉ではいったのもこの不良連の中に多かった。
僕と一緒にこの順天中学校へはいった友人に登坂というのがいた。やはり僕とほとんど同時頃に、男色で、仙台の幼年学校から逐われて来たのだった。
この登坂とは、その年の一月、すなわち僕が東京へ出て来るとすぐ、市ヶ谷[#底本では「市ケ谷」]の幼年学校の面会室で出遭った。そして彼から、新発田での旧友で同時に幼年学校へはいった谷という男ともう一人とが、やはり彼と一緒に退学させられたことを知った。四人はすぐ友達になった。ほかにもまだ、やはり同時頃に同じような理由で大阪の幼年学校を退学させられた、島田というのともう一人と、どこかで落ち合って、これもすぐ友達になった。みんな、名古屋、仙台、大阪と所は違うが、同じ幼年学校の同期生だったのだ。
みんなはその名誉恢復のためというので、互いに戒めて勉強を誓った。そしてその年の九月十月にはみんなどこかの中学校の五年にはいった。
その中でも登坂と僕とは、最初に出遭った関係からか、またお互いに文学好きで露伴と紅葉との優劣を論じ合ったりしていたせいか、一番近しくなった。ことに一緒に順天中学へはいるとすぐ、本郷の壱岐坂下に一室をかりてそこに一緒に住んだ。
二人とも、学校の方もよく勉強したが、小説もずいぶんよく読んだ。坂上にちょっとした、貸本屋があった。そこから借りて来るのだが、しばらくの間にその、貸本屋の本をほとんどみな読んでしまった。
後には島田もこの下宿に仲間入りした。島田は撃剣が御自慢で、真黒な顔をして巌丈なからだの男で、いつも僕等が小説なぞを読むのを苦々しそうにしていた。そこで、登坂と僕とが一策を案じて、そのいやがるのを無理押しつけに、『不如帰』を借りて来て読ました。先生、最初の間はむずかしそうな顔をしてページをめくっていたが、だんだん眉の間の皺をのばして来た、とうとうしまいにはそのさざえ[#「さざえ」に傍点]のような握拳でほろほろと落ちる涙をぬぐいはじめた。「それ見ろ」というので、その後二人は島田の喜びそうなものを選んでは読ましていたが、島田は浪六の『五人男』がすっかりお気に召して、「俺は黒田だ、大杉貴様は倉なんとかだ」というようなことを言って一人で喜んでいた。
浪六物や弦斎物はとうの昔に卒業して、紅葉、露伴のものまでももう物足りなくなっていた僕等は、島田のそんな話には相手にならなかった。しかし僕は、その「倉なんとかだ」と言われたのが、内心はよほどの不平だった。
「なるほど、僕は倉なんとかのように、一面にはごく謹厳着実に済ましている。しかし、それだけ他のもう一面には、黒田のような豪放がひそかに燃えているんだ。貴様なんかのえせ[#「えせ」に傍点]豪放が何のあてになるもんか。」
僕は自分で自分にそう叫んで、「今に見ろ」と腹の中で一人で力んでいた。
その頃、僕よりも一期上でやはり名古屋出身の田中というのが、中央幼年学校から逐い出されて、これも僕等の下宿にころがりこんだ。その他にも、登坂の仲間の何とかいうのと、島田の仲間の何とかいうのと、これも一時僕等の下宿に来たが、この二人は僕等の「謹厳着実」な生活に堪えきれないですぐほかへ出て行ってしまった。
また、僕等よりもやはり一期上で、そして僕等よりも一年ほど前に仙台を出た箱田というのが、その年に高等学校へはいって、ちょいちょい僕等の下宿に遊びに来た。僕等よりも一期二期あとの、その後に退校させられた[#底本では「退校せられた」]二、三のものも、学校やその他のいろんなことについて、僕等のところに相談に来た。
こうして、幼年学校の落武者どもが、ほとんどみな僕等の下宿を中心として集まった。そしてその次の年には、みんな無事に中学校を終えて、僕と島田とは外国語学校に、登坂と田中とは水産講習所に、谷は商船学校に、みなかなりの好成績ではいった。
谷は今郵船の船長をしている筈だ。田中はどこかの県の技師になっていると聞いた。島田は、もう大ぶ古い頃に、どこかの田舎の連隊の将校集会所でドイツ語を教えているという話だった。登坂は一時水産で大ぶ儲けて、山陰道のどこかで土地の芸者を二人ばかりかこっていたというほどの勢いだったそうだが、十年ばかり前に失敗してアメリカへ行った。そして今でもまだ失意の境遇にいるらしい。箱田は朝鮮で検事か判事かをやっている。
僕はまた、壱岐坂上の貸本屋のほかに、神保町あたりのある貸本屋のお得意にもなっていた。そこには、小説本のほかに、いろんな種類のむずかしい本があった。僕は矢来町の下宿にいた時から引続いて、そこから哲学だの宗教だの社会問題だのの本を借りて来ては読んでいた。矢野竜溪の『新社会』は矢来町時代に、丘博士の『進化論講話』は壱岐坂時代かあるいはその少し後かに、幾度も繰返しては愛読した。
『新社会』は少し早く読みすぎたせいか、その読後の感興というほどのものは今何にも残っていない。しかし『進化論講話』は実に愉快だった。読んでいる間に、自分のせいがだんだん高くなって、四方の眼界がぐんぐん広くなって行くような気がした。今まで知らなかった世界が、一ページごとに目の前に開けて行くのだ。僕はこの愉快を一人で楽しむことはできなかった。そして友人にはみな、強いるようにして、その一読をすすめた。自然科学に対する僕の興味は、この本で初めて目覚めさせられた。そして同時にまた、すべてのものは変化するというこの進化論は、まだ僕の心の中に大きな権威として残っていたいろんな社会制度の改変を叫ぶ、社会主義の主張の中へ非常にはいりやすくさせた。
「何でも変らないものはないのだ。旧いものは倒れて新しいものが起るのだ。今威張っているものが何だ。すぐにそれは墓場の中へ葬られてしまうものじゃないか。」
しかし、僕にはまだ、何かの物足りなさがあった。母が死んだ、というようなこともほとんど忘れたようにはしていたが、次意識の中ではよほどさびしかったに違いない。また、礼ちゃんのことはやはり同じように忘れたようにはしていたが、幾年も続けて来た同性のいわゆる恋をまったく棄てた僕は、その方面でもよほどさびしかったに違いない。友人といえば、さっき言った幼年学校の落武者連だけだったが、それもただ同じ境遇から互いに励み合ったというほどのことで、本当に打解け合った親しい間柄ではなかった。
たぶんそんな餓えを充たすのだったろう。僕はよく飯倉の親戚の家へ出かけた。従兄の山田良之助(今陸軍の少将で憲兵司令官をやっている)の細君の家だ。山田は当時陸軍大学校の学生で、この飯倉の邸内の小さな家に住んでいた。僕はそれらの人のしんみ[#「しんみ」に傍点]な親しみの中にもひたりたかった。その邸のかなり贅沢な適位な生活の中にもひたりたかった。そしてまた、そこのいろんな綺麗な女の人達の笑い顔も見たかった。しかし、その人達はみな、男も女も綺麗ではあったが、その顔も心も冷たかった。ことに、僕が幼年学校を逐いだされてからは、なおさらそうのような気がした。僕よりも二つ三つ年下の何とかさんという娘なぞは、僕の幼年学校時代にはずいぶんよく一緒に遊びもしふざけもして、僕は心中ひそかに「僕が任官したら」という望みをすら持っていたんだったが、もう大ぶ娘らしくなってツンと済ましていた。
そんな寂しさがきっと主になって、そしてそのほかにもまだ、新しい進歩思想を求める要求なぞが手伝って、順天中学校を終る少し前から僕はあちこちの教会へ行き始めた。そして下宿から一番近い、またそのお説教の一番気にいった、海老名弾正の本郷会堂で踏みとどまった。
海老名弾正の国家主義には気がついたのかつかなかったのか、それともまだ僕の心の中にたぶん残っていたいわゆる軍人精神とそれとが合ったのか、それは分らない。とにかく僕は先生の雄弁にすっかり魅せられてしまった。まだ半白だった髪の毛を後ろへかきあげて、長い髯をしごいては、その手を高くさしあげて「神は……」と一段声をはりあげるそのいい声に魅せられてしまった。僕は他の信者等と一緒に、先生が声をしぼって泣くと、やはり一緒になって泣いた。
先生はよく「洗礼を受けろ」と勧めた。「いや、まだキリスト教のことがよく分らんでもいい。洗礼を受けさえすれば、ただちに分るようになる」と勧めた。僕はかなり長い間それを躊躇していたが、ついに洗礼を受けた。その注がれる水のよく浸みこむようにと思って、わざわざ頭を一厘がりにして行って、コップの水を受けた。
このキリスト教は、僕を「謹厳着実」な一面に進めるのに、大ぶ力があったようだ。しかしそれも長くは続かなかった。
"910509 60's~70's 特集「布袋寅泰 ミュージック・スクエア」/910509 60's-70's Special Feature: Hotei Tomoyasu Music Square"
de.
でですね、“中国としては、もし外と内のモンゴルが独立すれば、広大な領土をうしなう上に、モンゴル人民共和国がソ連のつよい影響下にあったため、ソ連の版図が、大きく中国に食いこむことにもなる。もしそんなことになれば中国の青海省や新疆(しんきょう)、あるいは西蔵(チベット)にいる諸民族もだまっていなくなる。ついには、漢民族王朝だった明(ミン)王朝の版図にまでもどらざるをえない。ウランフーはこまったのではないか。中国がゆるすはずもなかった。”
So, "From China's perspective, if both the outer and inner Mongolia were to gain independence, not only would China lose a vast territory, but because the Mongolian People's Republic was under strong Soviet influence, Soviet territory would also encroach significantly on China. If that were to happen, the various ethnic groups in China's Qinghai Province, Xinjiang, and Tibet would also seek independence from China under the banner of 'national self-determination,' and would not remain passive. Ultimately, China would be forced to revert to the territory of the Ming Dynasty, which was a Han Chinese dynasty. Won't Ulan Fu be in a difficult position? China would never allow it."
Showing the following search results: What is Uranium?
Original search keyword: What is Uranfū?
AI Summary
Uranium (element symbol U, atomic number 92) is the heaviest naturally occurring radioactive element and a silvery-white metal mainly used as fuel for nuclear power generation. It has the property of generating enormous thermal energy during nuclear fission, allowing for long-term power generation with small amounts of fuel. However, because it is a radioactive material, safe management is essential.
Shikoku Electric Power Company +4
More details about uranium are as follows:
1. Basic Properties
・Characteristics: A heavy metal that emits radiation through continuous radioactive decay.
・Occurrence: Found in trace amounts in the Earth's crust and seawater, and relatively abundant in granite.
・Producing: Mainly mined in Australia and Canada.
Energy Encyclopedia +4
2. Uses in Nuclear Power Generation
・Fuel: Uranium-235, which is easily fissed and contained in natural uranium, is enriched to approximately 3-5% and used.
・Energy Density: One uranium fuel pellet generates a huge amount of energy equivalent to the amount of electricity an average household generates for about 8 months.
Japan Atomic Energy Agency +1
3. Precautions and Risks
・Radiation and Toxicity: In addition to radiation damage, it has chemical toxicity as a heavy metal (especially affecting the kidneys).
・Management: Strict storage and waste disposal are required.
Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism +2
4. Other Uses
・Besides nuclear fuel, it was previously used as a glaze for ceramics and a coloring agent for glass.
Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism +1
Uranium is an important energy resource, but at the same time, it is a resource that is strictly regulated from the perspective of nuclear non-proliferation and radiation protection.
Overview
Ulanhu was a politician and military officer of the People's Republic of China. He was of Mongolian ethnicity. He held real power in the party, government, and military in the Inner Mongolia Autonomous Region, and at the central government level, he held positions such as Vice Premier of the State Council and Vice President of the People's Republic of China, the highest positions held by ethnic minorities, second only to the head of government or head of state. (Wikipedia)
AI-generated Overview
Uranium enrichment is a technology that artificially increases the proportion of fissionable "uranium-235," which is present in natural uranium at only about 0.7%, to approximately 3-5%. It is an essential process primarily for producing fuel for light water reactors (nuclear power plants), and involves physically separating and extracting the slightly lighter uranium-235 using gas diffusion or centrifugal separation methods.
Japan Nuclear Fuel Limited +3
Overview and Characteristics of Uranium Enrichment
・Purpose: To process natural uranium (uranium-235: approximately 0.7%, uranium-238: approximately 99.3%) into fuel for nuclear power plants (low-enriched uranium: 3-5%).
・Method: Primarily uses the "centrifugal separation method," utilizing the difference in weight by rapidly rotating the gasified uranium.
Applications:
◦Low-enriched uranium (20% or less): Fuel for general nuclear power plants.
◦Highly enriched uranium (over 20%, usually over 90%): Fuel for research reactors and raw materials for nuclear weapons.
・Examples in Japan: Japan Nuclear Fuel Limited (Aomori Prefecture) and the Japan Atomic Energy Agency (Okayama Prefecture) possess enrichment facilities.
Japan Atomic Energy Agency +6
Uranium enriched to over 20% is called "highly enriched uranium" and is subject to strict international scrutiny because it can be used for nuclear weapons.
Ministry of Defense Information Retrieval Service +4
AI-generated summary
Uranium glaze is a radioactive glaze primarily used before the 1940s on ceramics and glass (uranium glass) to produce yellow, orange, red, and black colors. While characterized by its vibrant colors, its use is now strictly regulated in Japan due to radiation risks. Although it remains in antique pieces, and the radiation levels are not immediately dangerous under normal use, long-term use should be avoided.
Koshin Kiln +4
Main Characteristics of Uranium Glaze
・Color: Yellow in small amounts, orange or red in larger amounts.
・Uses: Ceramic tableware (especially Fiesta Ware), tiles, and glass products (uranium glass).
・Characteristics: Many uranium glazes fluoresce green under ultraviolet light (black light), making them popular among antique collectors.
・History: Popular from the 19th to the early 20th century, but production significantly decreased or ceased from the late 1940s to the 1950s due to wartime restrictions (Manhattan Project) and post-war restrictions on nuclear power use.
Koshin Kiln +4
Radiation and Risk
・Products using uranium glaze emit alpha and gamma rays.
・Using it as tableware on a daily basis may result in internal radiation exposure. However, for products from around the 1940s, the amount is considered to be too small to cause immediate health problems.
・However, uses for long-term food storage (such as storing pickled plums) are not recommended.
Koshin Kiln +2
Modern Regulations
・Currently in Japan, raw materials and products containing uranium are regulated based on concentration and quantity under the "Act on Regulation of Nuclear Reactors, etc."
Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology
While uranium glass is still produced in small quantities in places like the Czech Republic, uranium glaze for everyday tableware, as was once common, is hardly produced today.
LAPO Corporation
Related Questions
What does Kōshin mean?
What is Kōshin? Kōshin refers to the day of Kōshin (the year of the Metal Monkey) in the Chinese zodiac. On this night, the three worms of the Sanshi (three dead bodies) that reside inside a person's body leave the body while the person is sleeping and go to the Emperor of Heaven to report the evil deeds the person has committed. Since the Emperor of Heaven is the god who governs lifespan, he shortens the lifespan of those who have done evil as punishment.
AI-generated summary: Kōshin-sama is the object of "Kōshin faith," a belief practiced by staying up all night on the night of "Kōshin Day," which occurs once every 60 days, in order to prevent the "Sanshi worms" inside a person's body from reporting their misdeeds to the Emperor of Heaven and shortening their lifespan. It is a folk belief blending Taoism, Buddhism, and Shintoism, with customs including worshipping Aomen Kongo and monkeys, and erecting Koshin towers.
ADEAC +4
Details and Characteristics of Koshin-sama:
Origin: Originating from Chinese Taoism, it became associated with Buddhism (especially Esoteric Buddhism), Shugendo, and Shinto in Japan.
Teachings of "Koshin Day": Staying awake on this night is called "Koshin-ko."
Three Corpses: Insects that escape during sleep and report evil deeds to the Emperor of Heaven.
Koshin Tower: A memorial tower for Koshin faith, enshrined at village boundaries, etc.
Sakugami (God of Agriculture): Also worshipped as a god of agriculture who prays for a bountiful harvest.
Gunma Prefecture +4
In 2026, the Koshin Grand Festival (fair) will be held on February 15th (Sunday) at Shibamata Taishakuten and other locations.
MyPre "Katsushika Ward"
で。2026041715:21(日本時間)。
『敗戦日記-大佛次郎 324-339ページ』
で。2026041715:40(日本時間)。
『街道をゆく 白河・会津のみち、赤坂散歩-司馬遼太郎 172-207ページ』
で。2026041716:02(日本時間)。
"燃えよ剣 第19話[公式]"
"燃えよ剣 第20話[公式]"
で。2026041716:38(日本時間)。
で。2026041716:24(日本時間)。
"from VOICES FROM THE LIST"
で。2026082008:21(日本時間)。
"01 OPENING"
"02 B・BLUE"
"03 ROXY"
"04 RUNAWAY TRAIN"
"05 WILD AT NIGHT"
"06 JUSTY"
"07 CLAUDIA"
"08 LONGER THAN FOREVER"
"09 BLUE VACATION"
"10 B・E・L・I・E・V・E"
"11 WELCOME TO THE TWILIGHT"
"12 MEMORY"
"13 ROUGE OF GRAY"
"14 WEEKEND SHUFFLE"
"15 NATIVE STRANGER"
"16 WILD ROMANCE"
"17 EMPHATIC LINE Featuring DAITA"
de.
で。2026082006:19(日本時間)。
三
「私、平塚さんのところまで行きたいわ。」
いよいよ出かける日の前日になって、ふいと伊藤が言いだした。らいちょうは、その頃、奥村君と一緒に茅ヶ崎[#底本では「茅ケ崎」]にいた。
伊藤はその家を出る時すでにあらゆる友人から棄てられる覚悟でいた。しかし、長年の友情を自分から棄てることもできなかったものと見えて、その家を出た日に野上弥生子君を訪い、そしてらいちょうにはハガキを出した。が、その後この二人の友人が悪罵に等しい批評を彼女の行為の上に加えているのを見て、彼女もまったくその友情を棄てていたようだった。けれどもまた、長い間の親しい友人に背くということはさびしい。彼女はよく彼女等との古い友情をなつかしんでいた。
「よかろう。それじゃ茅ヶ崎[#底本では「茅ケ崎」]まで一緒に行って、葉山に一晩泊って帰るか。」
僕は彼女の心の中を推しはかって言った。しかし、らいちょうの家では、僕等はひる飯を御馳走になって二、三時間話していたが、お互いに腹の中で思っている問題にはちっとも触れずに終った。
「いいわ、もうまったく他人だわ。私もう、友達にだって理解して貰おうなどと思わないから。」
彼女はその家を出て松原にさしかかると、僕の手をしっかりと握りながら言った。彼女はその友人に求めていたものをついに見出すことができなかったのだ。
葉山に泊った翌朝は、もう秋も大ぶ進んでいるのに、ぽかぽかと暖かい、小春日和となったようないい日だった。
「きょう一日遊んで行かない?」
僕は朝飯が済むと彼女に言った。
「ええ、だけど、お仕事の邪魔になるでしょう。」
もう帰る仕度までしていた彼女はちょっと意外らしく言った。
「なあに、こんないい天気じゃ、とても仕事なぞできないね。それより、大崩れの方へでも遊びに行って見ようよ。」
「ほんとにそうなさいましな。せっかくいらっしたんですもの。そんなにすぐお帰りじゃつまりませんわ。」
年増の女中のおげんさんまでもそばからしきりと彼女に勧めた。
大崩れまで、自動車で行って、そこから秋谷辺まで、半里ほどの海岸通をぶらぶらと歩いた。その辺は遠く海中にまで岩が突き出て、その向うには鎌倉から片瀬までの海岸や江の島などを控えて、葉山から三崎へ行く街道の中でも一番景色のいいところだった。それに、もう遅すぎるセルでもちょっと汗ばむほどの、気持のいいぽかぽかする暖かさだった。僕等二人は実際、溶けるような気持になって、その間をぶらぶらと行った。正午にはいったん宿に帰って、こんどはおげんさんを誘って、すぐ前の大きな池のような静かな海の中で舟遊びをした。そしていい加減疲れて、帰って湯にはいって、夕飯を待っていた。
そこへおげんさんがあわててはいって来て、女のお客様だと知らせた。そして僕が立って行こうとすると、おげんさんの後にはもう、神近がさびしそうな微笑をたたえて立っていた。
伊藤はまだ両肌脱いだまま鏡台の前に坐って、髪を結いなおすかどうかしていた。神近の鋭い目がまずその方をさした。
「二、三日中っておっしゃったものだから、私毎日待っていたんだけれど、ちっともいらっしゃらないものだから、きょうホテルまで行って見たの。すると、お留守で、こちらだと言うんでしょう。で、私、その足ですぐこちらへ来たの。野枝さんが御一緒だとはちっとも思わなかったものですから……」
神近は愚痴のようにしかしまた言いわけのように言った。
「寄ろうと思ったんだけれど、ちょっと都合がわるかったものだから……」
と僕も苦しい弁解をするほかはなかった。
あしたは帰るんだからというので、伊藤と僕とは、いろいろ甘そうな好きな御馳走を註文してあった。僕はおげんさんにそれをもう一人前ふやすように言った。それから食事の出るまでの三十分間がほどは、ほとんど三人とも無言の行でいた。僕には何となくいよいよもうおしまいだなという予感がした。
その年の春、二度目の『近代思想』を止すと同時に、僕は一種の自暴自棄に陥っていた。先きに僕は知識階級の間に宣伝することのほとんど無駄なことを悟って、哲学や科学や文学の仮面の下に自由思想を論じた最初の『近代思想』は、要するに知識的手淫に過ぎないものと断じた。そして二年間もいつくしんで来てようやく世間から認められだしたそれを止して、僕等の本来に帰るんだと言って、別に労働者相手の『平民新聞』を創めた。それが前にも言ったように、半年間発売禁止を続けてついに倒れ、さらに半年間の準備によって再び起された『近代思想』も同じ運命の下に倒されてしまった。僕等はもうちょっと手の出しようがなかった。それでも、もし僕等同志の結束でも堅いのであったら、また何とか方法もあったのだったろう。が、ごく少数しかいない同志の間にもこれがうまく行かなかった。同志の間にはまだ運動に対する本当の熱がなかったのだ。
「僕等はまるで暖簾と腕押しをしているのだな。」
当時ほとんど一人のようになっていた荒畑寒村と僕とが、よく慨き合った言葉だった。
かくして、もう何もかも失ったような僕が、その時に恋を見出したのだ。恋と同時に、その熱情に燃えた同志を見出したのだ。そして僕はこの新しい熱情を得ようとして、ほとんどいっさいを棄ててこの恋の中に突入して行った。
その恋の対象がこの神近と伊藤とだったのだ。が、その恋ももう堕落した。僕等三人の間には、友人または同志としての関係よりも、異性または同性としての関係の方が勝って来た。そしてその関係がへたな習俗的なものになりかかっていた。
例のおげんさんによって夕飯が運ばれた。そしてこのおげんさんの寂しい顔が、みんなの気まずい引きたたない顔の中にまじった。好きなそして甘そうな料理ばかり註文したのだが、僕も伊藤もあまり進まなかった。神近もちょっと箸をつけただけで止した。
伊藤は箸を置くとすぐ、室の隅っこへ行って何かしていたがいきなり立ち上って来て、
「私帰りますわ。」
と、二人の前に挨拶をした。
「うん、そうか。」
と、僕はそれを止めることができなかった。神近もただ一言、
「そう。」
と言ったきりだった。
そして伊藤はたった一人で、おげんさんに送られて出て行った。
二人きりになると、神近はまた、前よりももっと、愚痴らしくそしてまた言いわけらしく、来た時に言った言葉を繰返した。僕も不機嫌にやはり前に言った言葉をただ繰返した。そして僕は引返して来たおげんさんにすぐ寝床を敷くようにと命じた。
朝秋谷で汗をかいたり風にふかれたりしたせいか、そしてその上に湯にはいったせいか、少し風邪気味で熱を感じたのだ。肺をわずらっていた僕には、感冒はほとんど年じゅうのつきものであり、そしてまた大禁物だった。が、ちょっとでも風邪をひくと、僕はすぐ寝床につくのを習慣としていた。
が、その時には、それよりむしろ、神近と相対して坐っていて、何か話ししなければならないのが、何よりも苦痛だった。彼女がこの室にはいって来て、伊藤の湯上り姿に鋭い一瞥を加えて以来、僕は彼女の顔を見るのもいやになっていたのだ。
彼女は疲れたからと言ってすぐ寝床にはいった。僕は少し眠ったようだった。
夜十時頃になって、もうとうに東京へ帰ったろうと思っていた伊藤から、電話がかかって来た。ホテルの室の鍵を忘れたから、逗子の停車場までそれを持って来てくれというのだ。僕は着物の上にどてらを着て、十幾町かある停車場まで行った。彼女は一人ぽつねんと待合室に立っていた。
「いったん汽車に乗ったんですけれど、鍵のことを思いだして、鎌倉から引返して来ましたの。だけどもう今日は上りはないわ。」
彼女はそう言って、一人でどこかの宿屋に泊って明日帰るからと言いだした。
僕は彼女を強いて、もう一度日蔭に帰らした。いっそ、三人でめいめいの気まずい思いを打明け合って、それでどうにでもなるようになれと思ったのだ。が、こうして彼女が帰ると、室の空気は前よりももっといけなかった。そして三人とも、またほとんど口をきかずに、床をならべて寝た。
神近も伊藤もほとんど眠らなかったようだ。が、僕は風邪をひいた上に夜ふけてそとでをしたので、熱が大ぶ高くなって、うつらうつらと眠った。そして時々目をさましては彼女等の方を見た。神近はすぐ僕のそばに、伊藤はその向うにいた。伊藤は顔まで蒲団をかぶって、向うを向いてじっとして寝ていた。僕がふと目をあけた時、僕は神近が恐ろしい顔をして、それを睨んでいるのをちらと見た。
「もしや……」
とある疑念が僕の心の中に湧いた。僕は眠らずにそっと彼女等を窺っていなければならないときめた。が、いつの間にか熱は僕を深い眠りの中に誘ってしまった。
四
目をさました時にはもうかなり日が高かった。神近も伊藤も無事でまだ寝ていた。僕はほっとした。
朝飯を済ますと、伊藤はすぐ出て行った。勿論東京へ帰ったのだ。が、神近はそれを疑っているようだった。もともと僕と一緒にずうといるつもりで来たので、今は自分が来たからちょっと近所のどこかで避けて、また自身が帰ればすぐここへ来るのだろう、というような口ぶりだった。彼女は割合に人が好くて、ごく人を信じやすいかわりには、疑い出すとずいぶん邪推深かった。僕はもう彼女の邪推と闘うには、あまりに彼女に疲れていた。そうでなくても、きのう彼女が「侵入」して来て以来の僕の気持は、とうてい静かに彼女と話しすることを許さなかった。しかしまた、彼女をすっぽぬかして伊藤と一緒にここへ来ているという弱点は、彼女に対してあまり強く出ることも許さなかった。で、彼女のそんな疑いに対しては、ただ一言「馬鹿な」と軽く受け流して、相手にせずにいた。
そして昼飯が済むとすぐ、僕は苦りきった顔をして、机に向って原稿紙をとり出した。彼女は仕方なしにおげんさんの案内で海岸へ遊びに行った。
その時はちょうど寺内内閣ができた時で、僕は『新小説』の編集者から、寺内内閣の標榜するいわゆる善政についての批評を書くことを頼まれていた。憲政会は三菱党だ。政友会は三井党だ。したがってこの二大政党には、今日の意味での善政、すなわち社会政策を行うことはとうていできない。彼等は資本家党なのだ。官僚派は資本家の援助がなければ何事もできないことはよく知っている。しかし彼にはこの資本家の上に立つ政治家だという、ともかくもの自尊がある。そしてなお、この資本家の横暴と対抗するには、労働者の援助をかりなければならない。そこでその政治は、善政は、すなわち社会政策をとるほかはない。僕はざっとそんなふうに考えていた。そして、なおそれを歴史の事実の上から論ずるつもりで、桂がその晩年熱心な社会政策論者であったことや、またドイツのビスマルクの例を詳しく書いて見ようと思っていた。
僕は誰だかの『ビスマルクと国家社会主義』をその参考に持って来ていた。で、まずざっとその本を読んで見ようと思った。
が、こうして落ちついて机の前に坐ると、急にまた風邪の熱で頭の重いことが思い出されて来た。熱でばかりではない、いろいろな雑念で重いのだ。
僕は神近とはもうどうしてもお終いだと思った。彼女とできて半年あまりの間に、このもうお終いだという言葉が、彼女の口から三、四度も出た。が、こんどは、それを初めて僕の方から言い出そうと思った。
最初は、彼女との関係後二カ月ばかりして、さらに伊藤との関係ができかかった時、彼女からずいぶん手厳しくそれを申渡された。
「きょうはきっとあなた、どこかでいいことがあったのね。顔じゅうがほんとうに喜びで光っているわ。野枝さんとでも会って?」
ある晩遅く彼女を訪ねた時、顔を見るとすぐ彼女は言った。僕はそれまではそんなに嬉しそうにしていたとも思わなかったが、そう言われて初めて、彼女の言葉通りに顔じゅうが喜びで光っているような気がした。そして実際また、彼女の言った通り、今伊藤と会って来たばかりだったのだ。しかも、いつも亭主が一緒なのが、その日は初めて二人きりで会って、初めて二人で手を握り合って歩いて、初めて甘いキスに酔うて来たのだった。僕は正直にその通りを彼女に話した。
「そう、それやよかったわね、私も一緒になってお喜びしてあげるわ。」
彼女はもうよほど以前から僕等二人がよく好き合っていることを知っていた。そして、ただ好き合っているばかりで、それ以上にちっとも進まないことをむしろ不思議がっていた。で、自分が僕等の姉さんででもあるかのようにして、ほんとうに喜んでくれたようだった。
彼女には、この姉さんというような気持が、ずいぶんにあった。そしてこの気持の上から、僕や伊藤のわがままをいつも許してくれ、また自分からも進んでいろいろなわがままをさせていた。彼女はもう三十だった。そして伊藤は彼女より七、八つ下だった。
僕が彼女と初めて手を握った時にも、彼女は伊藤に対する僕の愛を許していた。まだどうにもなっていない、今からもどうなるか見こみはちっともない、しかし僕は非常に伊藤を愛している、今こうして相抱き合っている彼女よりも以上に愛している、僕はこの事実を偽ることはできないと言った。彼女はそれを承認した。しかも、ちっともいやな顔は見せないで、笑いながら承認した。
「たとえば、僕にはいろんな男の友人がいる。そしてその甲の友人に対するのと乙の友人に対するのと、その人物の評価は違う。また尊敬や親愛の度も違う。しかし、それが僕の友人たるにおいては同一だ。そしてみんなは、各々自分に与えられた尊敬と親愛との度で満足していなければならない。俺は乙よりも尊敬されないから、あいつの友人になるのはいやだ、などという馬鹿な甲はいない。」
というのが僕の友人観兼恋愛観だった。僕は友人と恋人との間に大した区別を設けたくなかった。
が、理窟はまあどうでもいいとして、とにかく彼女は、僕の心の中での彼女と伊藤との優劣を認めたのだ。と同時にまた、その尊敬や親愛の対象となるものの、質の違っていることも認めたのだ。そして彼女は、この優越を蔽うために、年齢の上からの自分の優越を考え出したのだ。しかし反対にまた、彼女より年の多い保子に対しては、彼女は自分の知力の優越を考えていた。そしてやはりこの優越感の上から、保子に対してまでも姉さんぶった心の態度を持っていた。この姉さんぶるという態度には、彼女の性格の一種の仁侠もあるのであるが、しかし彼女がその競争者に対してどうしても持ちたい優越感がそれを非常に助けていたのだ。
実際彼女はこの優越ということをよく口にしていた。そして彼女があらゆる点において優越を感じていた保子に対しては、ただ憐憫があるばかりで、ほとんど何の嫉妬もなかった。それからもう一人、これは今ちょっとその人の名を言えないが、やはり女文士でかりにFというのがあった。そのFと僕とのごく淡い関係についても、彼女はやはり自分の優越感から何の嫉妬をも感じていなかった。むしろ一種の興味をもってすら見ていた。
その晩は僕は麻布の彼女の家に泊った。そして翌日、保子のいる逗子の家に帰った。するとたぶんその翌日の朝だ、僕は彼女から本当に三行半と言ってもいい短かい絶縁状を受取った。それは「もし本当に私を思っていてくれるのなら、今後もうお互いに顔を合せないようにしてくれ。では、永遠にさよなら」というような意味の、あまりに突然のものだった。僕はすぐ東京へ出た。そして彼女をその家に訪うた。が、彼女は僕の顔を見るや、泣いてただ、「帰れ帰れ」と叫ぶのみで、話のしようもなかった。そして僕は何かをほうりつけられて、その家を逐い出された。
僕はすぐ宮島の家へ行った。宮島の細君は彼女にとってのほとんど唯一の同性の友達だった。
「ゆうべはひどい目に会ったよ。神近君が酔っぱらって気違いのようにあばれ出してね。そして君のことを『だました! だました!』と言って罵るんだ。ようやくそれを落ちつけさして、家まで連れて行って、寝かしつけて来たがね。実際弱っちゃったよ。」
宮島は、僕が彼女の話をすると、本当に弱ったような顔をして話した。
そこへ、しばらくして、彼女がやって来た。顔色も態度も、さっきとはまるで別人のように、落ちついていた。
「私、あなたを殺すことに決心しましたから。」
彼女は僕の前に立って勝利者のような態度で言った。
「うん、それもよかろう。が、殺すんなら、今までのお馴染甲斐に、せめては一息で死ぬように殺してくれ。」
僕はその「殺す」という言葉を聞くと同時に、急に彼女に対する敵意の湧いて来るのを感じたのであったが、戯談半分にそれを受け流した。
「その時になって卑怯なまねはしないようにね。」
「ええ、ええ、一息にさえ殺していただければね。」
二人はそんな言葉を言いかわしながら、しかしもう、お互いの顔には隠しきれない微笑みがもれていた。
彼女はまたもとの姉さんに帰ったのだが、僕と伊藤とはこの姉さんにあまりに甘えすぎたようだ。あまりに無遠慮すぎたようだ。それをあまりに利用しすぎたとまでは思わないが。そしてそのたびに彼女はヒステリーを起しはじめた。
ヒステリーとまでは行かんでも、その後彼女は、その生来の執拗さがますますひつっこくなった。いろんな要求がますます激しくなった。そして、それが満足されなければされないほど、それだけまたますますひつっこくなり、ますますうるさくなるのであった。が、ここに白状して置かなければならないのは、僕はだんだんこの執拗さにいや気がさして行ったのであるが、しかしまた、その執拗さが僕にとっての一つの強い魅力ででもあったことだ。
彼女は折々その執拗さを遠慮した。が、それはいつも、さらに数倍の執拗さをもって来る前ぶれのようなものだった。そしてその執拗さが満足されないと、彼女はきまってそのヒステリーを起した。そしてそのたびに、彼女の口から、例の「殺す」という言葉が出た。その言葉を聞くと、僕は奮然として、その席を起って出た。
かくして僕は彼女から三度ばかり絶交を申渡された。が、その翌日には、彼女はきっと謝まって帰って来るのだった。そしてその最後に謝まって来た時には、僕は彼女に、もう一週間熟考して見るがいいと言って、いったんそれを斥けた。彼女はその一週間が待てないで、その翌日また謝まって来た。
「しかし、こんどはもう、断然その絶交をこっちから申渡すんだ。」
僕は原稿紙を前に置いたまま、それにはただ「善政とは何ぞや」という題を書いただけで、独り言のように言った。
「こんどもし、君が殺すと言ったり、またそんな態度を見せた場合には、即刻僕は本当に君と絶交する。」
最後の仲直りの時に僕は彼女にそう言ったのだ。そして今、ゆうべ僕は、彼女の顔の中に確かに殺意を見たのだ。
で。2026082005:44(日本時間)。
※で、そうそう忘れてた。
『美味しんぼ 第48巻 団欒の食卓』
"美味しんぼ 第31話 暑中の味 (wikiによると1989年8月14日放送)" - 鮎のふるさと 6月12日
"美味しんぼ 第42話 大豆とにがり (wikiによると1989年9月18日放送)"
どうしたこうしたで。
"美味しんぼ 第40話 真夏の氷 (wikiによると1989年8月21日放送)"17歳と10ヶ月(ハニートラップ・笑)。
で、マクラはマクラを抱いて空気感染するエイズをひたすらばら撒けつうことで、石原裕次郎ジャニーズ同類項陰間ズゴミ処刑&処刑済。2023060415:19(日本時間)。
"美味しんぼ 第32話 技巧の極致 (wikiによると1989年8月28日放送)" - ハンバーガーの要素 6月19日
"美味しんぼ 第33話 青竹の香り (wikiによると1989年9月25日放送)" - 新妻の手料理 6月26日
で。2023060410:31(日本時間)。
"【直径1億kmの泡】謎に満ちた太陽系 新解釈の歴史|解明・宇宙の仕組み (ディスカバリーチャンネル) (日本語吹替え)"
コレや多方面同時作戦はさておき。
こう(笑)。2023060410:37(日本時間)。
ちなみに。
"【滅亡と再生】宇宙の最期は意外と早く訪れるのかもしれない|解明・宇宙の仕組み (ディスカバリーチャンネル) (日本語吹替え)"
"一休の回転焼き"
1,215 回視聴 2013/12/22
佐世保でお馴染みの回転焼きといったら一休さん相変わらずの人気です!from りんどうくんのサイト。
一休の回転焼はこう(笑)。
イエローモンキー(バンド)ゴミ処刑。2023060410:00(日本時間)。
"【425 ららぽーと福岡で公開!】実物大ν (ニュー) ガンダム立像 壁面演出特別映像 先行PV"
"from Amadeus: Audio Commentary Version"
"Devilman Crybaby OST - D. V. M. N. (Main Theme)"
amaterasu kingdom dimensionsⅣ‐18-6-THE DAEMONS EXIST、RIGHT THERE、BY YOUR SIDE☺️
"DEVILMAN crybaby ORIGINAL SOUNDTRACK 電気グルーヴ"
"Devilman crybaby"
"デビルマンのうた"
"「DEVILMAN crybaby」 ダイジェスト映像"
"Devilman Crybaby Multi-Audio Clip Devilman's Savage Power Netflix Anime"
"デビルマン - 不動明参上 Devilman Crybaby Netflix Japan"
"DEVILMAN crybaby PV第2弾"
"伝説のコミックが過激に甦る!『DEVILMAN crybaby』PV第3弾"
"Devilman Crybaby Ryo speaking english"
"Devilman Crybaby - The Prophecy"
"ryo learns truth"
"Devilman Crybaby Sad Scene Death of Taro and Miki's parents, Akira cries"
"Devilman Crybaby - Akira defends humans (I'm a Devilman too!)"
"Devilman Crybaby - Best scene from episode 9"
"Devilman Crybaby - Akira ultimate punches Ryo"
"Devilman Crybaby - Akira Death"
"Devilman Crybaby - Baton Pass"
おれは全話みましたが、現在持っていません。
さておき。2026082304:47(日本時間)。
I believe the American people are mistaken in their view that the American Republic has turned into an American Empire.
A decisive lack of initiative.
You, the American people, do not currently possess the agency to make such a claim.
You are a conquered people living in the Central American colony of the Trump Empire.
The United States today is—both in reality and from an external perspective—a colony of a violent empire.
I think we should have that understanding.
推古伝、エリザベスさんなどとかおられますし、イエスなどどうでもよい、まざーめありー、早い話がおかあさんは神聖にして侵すべからずなのだ、という、基本男性社会のジェンダー差別マザコン発露減少じゃないんでしょ?





















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