Mission for My Country 9月 06, 2018
◆ムハンマド・レザー・シャー(Mohammad Rezà Shàh Pahlaví Àryà Mehr)(実際はhの下部に点、そして上部の線は斜めではなく水平、パソコンにこの表記なし)1919年10月26日生まれ、1980年7月27日、カイロで亡くなる・イラン、パフラビー朝第二代の王(在位1941~79)。パーレビ国王として知られる。「アーリヤ―・メヘル」は称号。レザーシャーの長子で、1925年皇太子となる。スイスで教育を受け、イランの陸軍大学で学んだ。41年連合軍のイラン進駐とともにレザーシャーが退位し、代って即位。50年~53年の石油国有化運動で民族運動を代表したモサッデグと対立。53年8月国王はモサッデグ首相の解任を命じたが、逆に国外への避難を余儀なくされた。まもなくモサッデグ首相は国王派に打倒され、国王は権力を回復した。60年代に入って上からの改革である【⇒白色革命】に着手。73年末からの石油収入増大をとらえて急速なイランの工業化を目標とした。しかし79年1月16日、イラン全土に波及した反体制デモの渦中に出国。エジプト、モロッコ、アメリカ、メキシコ、パナマを転々としたのち再びエジプトに亡命し、カイロ郊外の病院で死去。著書に"Mission for My Country"(61)がある。
◆白色革命(はくしょくかくめい)(Inqilàb-i Sefíd)「国王と国民の革命」Inqilàb-i Sefíd o Millatともいう。1963年国民投票によって承認されたイランの国王の側からの改革。1950年代イランは政治的に不安定であったが、ムハンマド・レザー・ジャーは60年代初めに国王中心型の権力確立を目指して、61~63年に議会を解散させみずからの大権で改革を準備した。63年1月、次の6項目から成る「白色革命」を国民投票にかけた。すなわち(1)農地改革、(2)森林、牧草地の国有化、(3)国有工場の払い下げ、(4)工場労働者に対する企業の利益配分、(5)婦人参政権、(6)⇒セパーエ・ダーシニの創設であり、特に(1)に重点がおかれた。65年までに(7)保健部隊、(8)開発部隊、(9)村落裁判所の設置が加えられて、農地改革以後の農村の改造を目指した、67年10月にさらに、(10)水資源国有化、(11)都市と地方の再開発、(12)行政・教育改革が追加された。これら「十二大改革」は低開発水準から急速な社会、経済、文化の改革を目指した措置で、60年代後半からの経済の高度成長に支えられて実地された。他方、この改革は大きな社会、経済のひずみをもたらし、その是正のため、75年8月、(13)私企業株式の一般公開、(14)インフレ抑止、が勅令として発布された。12月7日、(15)教育の無料化を、同月23日、(16)幼児への無料給食、(17)保健制度の拡充、を追加したが、イラン革命でこれらは解消した[※758、7.13、127、71.10.21]
◆セパーエ・ダーシニ(Sepàh-i Dànish)イランの白色革命の一つで、従来放置されてきた農村において、識字率を高めるために編成された。青年が軍隊に入る代わりに農村へ派遣されて読み書きを教えるかたわら看護法や農村生活向上の指導を行うもの。「教育兵団」とも訳される。それまでイラン国民の識字率は20%であったが、1963年~73年の間に220万人の農村の児童と農民がこの教育を受けた。イランにおける識字率はこのため急激に高まり、農村には多数の学校が急増されたが、イラン革命で中止された。
◆サバク(SAVAK)イランの治安機構。1957年、ムハンマド・レザー・シャーの命令で設立されたイランの秘密警察。イラン国内における国王の政策に対する批判や反対に過度の取り締まりをした。この機構はヨーロッパにおけるイラン人留学生をも監視し、イランでは多数の政治犯を逮捕、投獄したため、イラン革命で解体され責任者は革命法廷で処刑された。[※1957、10.12。で、日本語でサバクと書くと、砂漠、裁く、もありますが、◆佐幕(「佐」は助ける意)幕末、尊王攘夷・討幕に反対して幕府の政策を是認し、これを助けたこと。「―派」the supporters of the Shogun、the Shogunate party.印象としては反動派ですが、だからまさに新撰組。で、ここでは★が当時のまとめです]
★"イランの白色革命の一つで、従来放置されてきた農村において、識字率を高めるために編成された。青年が軍隊に入る代わりに農村へ派遣されて読み書きを教えるかたわら看護法や農村生活向上の指導を行うもの"、これ逆になりますけど"軍隊"を"軍隊"と捉えず、わかりやすくいえば"いひひ"要員、ポールさんの、"田舎から逃げ出したい、軍隊に入る人間が多い、それ以外方法がない、学校に行ってなかった、勉強する必要がなかった、そういう人間を育てるには凄くいい土壌"と結びつけたいですね。[※これは俺のNOISEを聴いて下さい。まだ残ってますけど、24時間そう言う環境でしたと。で、それに関してはすでに俺なりの答えを書いています。で、パーレビ―さんが出した答えが白色革命だろうと]
▼若い頃あなたはどんなことを目標にしていたのですか。
「まずあったのは、田舎から逃げ出したいってことだった。今だって皆そうだろう。だから軍隊に入る人間が多いのさ、それ以外方法がないじゃないか。軍隊か音楽か、どっちかだよ。僕らの場合徴兵制はもうなくなっていたから―殆ど信じられないけど。モーゼが杖を振って海が割れたみたいなもんだ。ビートルズもばらばらになるところだった。エヴァリー・ブラザーズやエルヴィス、皆兵隊に取られたみたいに。ところがどうしたわけか、天がぱっと開けて、神が言ったのさ。『もう徴兵は終わりだ。この子たちには休みが必要だ』って。実は僕にとっては、徴兵制廃止は殆ど―殆ど、というところを強調しておきたい。完全にそうじゃないんだから―失望に近かった。何故なら僕たちの年上の兄たち―僕の兄じゃない、友だちの兄さん、ジョージの兄さんたち―皆軍隊に入ってて、戻ってきた時には日焼けしてすっかり大人になってたんだ。本物の男って感じ。全然子供じゃなかった。心の奥では、そういうの悪くないなって思ってた。「僕は男になって帰って来るんだ―真っ黒になって!」とか考えて。でもさっきも言った通り、僕らは軍隊に入る必要がなかった。それでとにかく田舎から抜け出して有名になろうとしたわけ―ごく普通の目標さ。ショー・ビジネスの世界に入ってきた人は皆そんなものだろう」
[※これは前述のポール・マッカートニーさんのインタビューです。]
▼初期のビートルズは、これといって芸術的な感じがしませんでしたね。
商業的にある程度の土台が出来ると、僕らはより芸術的な面を増していくようになった。ジョンはアート・スクール出身だろ。僕は一応グラマー・スクールに行ってた。ジョージもグラマースクール。リンゴは学校に行ってなかった。勉強する必要がなかったのさ。彼は人生の中で勉強していた―彼に言わせれば人生と言う学校でね。だから僕らは、ある意味で他のグループより1枚上を行ってたんだ。アート・スクール―そういう人間を育てるには凄くいい土壌だよ。建築のこともちょっと知ってる、絵のこともちょっと知ってる、そういうちょっとしたことが見る目を養うんだ。例えば、ある人たちなら絶対観に行かないような劇を観に行くようになるかもしれない。
◆イラン革命(Islamic Revolution Iran)1978~79年イランのパフラビー朝を倒してイスラム共和制を樹立した革命。ムハンマド・レザー・シャー(在位1941~79)は、いわゆる「白色革命」によって上からの急激な近代化政策を強行し、土地改革、婦人参政権、識字教育などの実地を推進したが、地主層や宗教指導層が反発。73年の石油危機を契機に打出した経済成長政策も失敗して、かえってインフレ、農業の停滞、都市のスラム化の増進、極端な富のアンバランスなどのひずみをもたらした。78年1月以降反国王デモやテロ事件が全国的に続発。これに対して国王は同年11月軍人内閣を発足させ弾圧を強化したが、反政府運動は熾烈となり、パリ亡命中のホメイニ師の指導のもとに王制打倒を叫ぶにいたった。79年1月国王は国外に脱出、王制最後のS.バクチアル内閣も瓦解した。2月1日ホメイニ師が帰国し、2月11日革命政府が全権力を掌握、国民投票の結果、4月1日イスラム共和制が初代最高指導者ホメイニ師のもとに宣言された。初代大統領はA.バニサドル。王制打倒に結集した勢力はイスラム勢力のほか、マルクス=レーニン主義の影響を受けたものから、民族主義者、新左翼グループ、自由主義者、バザール商人などさまざまで、そのすべてがイスラムに基づく国家理念に同調していたわけではなかった。革命後、国家体制のあり方をめぐって激しい抗争が繰広げられたが、80年5月の国会選挙ではイスラム聖職者を中心とするイスラム共和党が圧勝し、その結果採択されたイスラム共和国憲法ではホメイニ師に三権分立をこえる国家最高指導者の地位を与え、イスラム指導者たちによる超議会的な憲法監視評議会の設置を定めた。その後イスラム聖職者の独裁に反対するグループは次々と粛清、排除され、ホメイニ師を中心とするイスラム国家体制が固められたが、それは周辺のアラブ諸国ばかりでなく、全世界のイスラム復古運動に大きな影響を与えることになった。[※字面だけ追うと。ホント物騒ですね。謎の極端なスラム化とか、ひっくりかえしちゃったり。もちろん極端な富のアンバランス]
★"ムハンマド・レザー・シャー(在位1941~79)は、いわゆる「白色革命」によって上からの急激な近代化政策を強行し、土地改革、婦人参政権、識字教育などの実地を推進したが、地主層や宗教指導層が反発。73年の石油危機を契機に打出した経済成長政策も失敗して、かえってインフレ、農業の停滞、都市のスラム化の増進、極端な富のアンバランスなどのひずみをもたらした"
これは、"(歴史上の、遊牧国家の遠征の)補給は羊と家族ぐるみ付いてゆくため(、定住型の農業国家からすれば、)どの戦闘にも攻勢の終末点というものがないという始末のわるいものである"、たとえば、ある都市に、命無料、取り換え自由、奴隷で食料、が、100人単位で組織的に入ってくれば、その都市を混乱させることは十分に可能ですね、"三千円のものを輸送料かけて七百円で出してドドーッと積んで、制覇しようとしたわけです。集中豪雨"、的に。[※"最初"は、お金をばらまいて、仲間と言う名の奴隷をふやして]
で、俺はムハンマド・レザー・シャーさんとホメイニさんは同志だとおもいます。"サバク(SAVAK)イランの治安機構。1957年、ムハンマド・レザー・シャーの命令で設立されたイランの秘密警察。イラン国内における国王の政策に対する批判や反対に過度の取り締まりをした。この機構はヨーロッパにおけるイラン人留学生をも監視し、イランでは多数の政治犯を逮捕、投獄したため、イラン革命で解体され責任者は革命法廷で処刑された"、の、"責任者は革命法廷で処刑された"は、"私は学徒出陣の一兵士として、陸軍士官学校出の正規将校がいかに頭がよく、責任感がつよく、犠牲的観念が旺盛だったかということを知っている"、の、"責任感""犠牲的観念"につながる部分があるような気がします。また、「イラン革命」の項目をみると、"その後イスラム聖職者の独裁に反対するグループは次々と粛清、排除され、ホメイニ師を中心とするイスラム国家体制が固められた"、結局、"サバク(SAVAK)"と同じことをしてる(もしかしたらそれ以上)、"勝てば官軍(Might is right/力は正義)"な感じですが、どうも、そう考えるべきではないような気がかなりします、が、ここは先にいきます。
◆ホメイニ(al-Khomeiní,Ruh-allah al-Mùsawí;Ayatollah Ruhollah Khomeini)1902年9月24日、ホメインで生まれる、1989年6月3日、テヘランで亡くなる。[※平成元年。6月3日は兄の誕生日]
イランの宗教・政治活動指導者。イランの小村ホメインで祖父、父ともにイスラム教シーア派の聖職者の家系に生まれる。幼少のとき父母を失い、叔母に育てられ、聖都コムでイスラム神学教育を受ける。26年からコムの神学校で教え、哲学、法学、倫理などに関する多くの書を著わす。63年国王ムハンマド・レザー・シャー(パーレビ)の近代化政策に反対、投獄されたのち、64年国外追放となり、トルコへ移る。65年イラクに移り、シーア派の聖地ナジャフで「ヴェラーヤテ・ファギ-フ」(イスラム法学者による統治)論を説き、反王制運動を呼びかける。78年イラクから追放され、パリ郊外に居を定めて反王制運動をさらに活発化。79年2月1日、国王退去後のイランに帰国し、イスラム革命を指導。79年12月に成立したイスラム共和国憲法により、国家の最高指導者の地位についたが、これは「ヴェラーヤテ・ファギ―フ」論を実現したもの。その後、国内の反対勢力を一掃して聖俗両面で頂点に立つ。80年9月に始まった対イラク戦を国家間の戦争ではなく、イスラムの信者と不信心なやからとの戦いと規定し、フセイン政権打倒まで徹底的に戦う決意を示す。しかし88年7月20日、「毒を飲むような決断」との特別声明を発表して国連安保理停戦決議を受諾。89年2月14日、インド出身のイギリス人作家S.ラシュディ(ゴミ処刑)が書いた小説『悪魔の詩』がイスラムを冒とくするものとして、ラシュディの処刑を全イスラム教徒に呼びかける。徹底したイスラムへの回帰の主張とカリスマ性により、世界中のイスラム復古主義運動に大きな影響を与えた。
◆パフラビー朝(Paflavíyah)イランの王朝(1925~79)。1919年、英仏協定によってイランを保護領にしようとしたイギリスに対して、イランの民族運動が高揚、ソビエト赤軍の援助を受けた革命政権が北部諸州に樹立された。この事態に脅かされたイランの保守勢力とイギリスは当時カズビーンのペルシア・コサック旅団長であったレザー・ハーンを動かした。彼はテヘランに進軍、21年2月21日クーデターによって実権を掌握した。彼は23年首相となり、25年11月にはカージャール朝を廃止、同年12月16日みずからレザー・シャー・パフラビーの称号をもってパフラビー朝初代皇帝に即位した(在位1925~41)。彼はまず軍隊を統一して軍部独裁制を確立、27年対外不平等条約の廃棄を宣言し、35年国号を従来のペルシアからイランに代え、37年には隣接4ヵ国と相互不可侵条約を締結。イランの対外的地位の確立に努める一方、経済、社会、教育の各方面にわたる内政改革を強力に推進して近代国家としての自立を目指した。第2次世界大戦に際して中立政策をとったが、ドイツへの接近が著しく、41年英ソ両軍の侵入を招いて退位を強いられ、皇太子ムハンマド・レザー・パフラビー(シャー)が跡を継いだ。53年の石油国有化運動の高揚は、英米の利権や国王の地位さえ危うくしたが、53年8月の国王軍によるムハンマド・モサッデグ内閣打倒クーデターの成功によってこの危機を回避、以後、王権は強化され、60年代には六点改革あるいは白色革命と称する内政改革および数回の年次計画を遂行して、地主貴族階級の勢力削減と産業振興をはかった。一方、中東石油産出諸国のリーダーとして重きをなし、またソ連との関係も好転させつつ、中国の承認に踏み切るという積極的かつ柔軟性に富んだ外交政策を推進した。しかし近代化・工業化政策の急激な推進は国内経済の危機を招き、人心の動揺をもたらし、78年からは反体制デモが繰返され、ストライキが多発する事態となった。国王は経済テクノクラートのアムゼガル、宗教界に影響力をもつシャリーフ・エマーミー、統合参謀総長のアズハリ―、旧国民戦線系のバフティヤルに次々と組閣を命じ、事態の収拾をはかったが失敗。79年2月11日、反体制勢力のテヘラン市制圧によってパフラビー朝は崩壊した。
[※地主貴族階級、もちろんそのままとるべきではないと思います。この事態に脅かされた、脅迫]
★"この事態に脅かされたイランの保守勢力とイギリスは当時カズビーンのペルシア・コサック旅団長であったレザー・ハーンを動かした。彼はテヘランに進軍、21年2月21日クーデターによって実権を掌握した。彼は23年首相となり、25年11月にはカージャール朝を廃止、同年12月16日みずからレザー・シャー・パフラビーの称号をもってパフラビー朝初代皇帝に即位した"、とりあえず、パフラビー朝、のことである、ということを一旦わすれてください、イランもイギリスもペルシア・コサックもテヘランもわすれてください。[※ただ、チンギス・ハーンさんのことのような(笑)。2015/01/08 11:58]"
でですね。これは司馬さんの「草原の記」214ページから215ページ、文革時代の話です。
◆【文化大革命】‥クワ‥1966年に始まる中国の政治・思想・文化闘争。毛沢東・林彪(りんぴょう)らを主導者とし、大衆を直接組織することによって、党・行政機関の実権を劉少奇らから奪った。その極左的傾向が弊害を生み、毛沢東の死後、江青らいわゆる四人組が責任者として逮捕され、77年終了が宣言された。文革。[広辞苑第六版より][※禹よ、うそぴょん][※禹よ、理非、有]◆り‐ひ【理非】道理と非理。道理にかなっていることとはずれていること。是非。大鏡[時平]「王威の限りなくおはしますによりて―を示させ給へるなり」。◆理も非もない(りもひもない)道理に合っていようがいまいが、かまわない。事を進めるのに精一杯で、道理を考える余裕がない。◆り【理】①物事の筋道。ことわり。「―にかなう」②〔仏〕普遍的な絶対・平等の真理・理法。⇔事(じ)。③中国哲学で宇宙の本体。[広辞苑第六版より]
で、ですねまずこれも以前書いた文章を基に“予告編”として再構成させてください。ただ昔の文章なので、今とは違う考えも多いと思いますが(そもそも、俺が禹だとか言ってませんでしたし・笑)、なるべく昔の文章をそのまま使う形にしたいと思います。“思います”というのは、読み直すのはそれ以来なので、何書いたかちゃんと憶えていないんです。
2014/03/05 20:35
さて、「草原の記」、文化大革命、"毛沢東の主導によるプロレタリア文化大革命は、後世の歴史家から紀元前の秦の始皇帝の焚書坑儒以上の政治悪としてあつかわれてゆくにちがいない。イデオロギーというものは、まず国内の人間を選別して「悪」を創作し、その者を殺すか、痛めつけるか、屈辱をあたえつづけることからはじめるもののようである。たとえば、毛沢東のあとを承けて国家主席になった劉少奇は、毛沢東による「大躍進」政策のあやまりのあとの経済のゆき詰まりを打開すべく現実的な路線をとった。そのことがわるかった。
[※国内の人間を選別して「悪」を創作。これは、はっきりいって、今の俺ですね。止める気もないし。「玉石ともに」いう気も、ないことはない(笑)。だらだらいったら人類滅ぶぞ。2015/01/1018:39]
“そういう劉少奇を毛沢東は一九六六年八月「大字報」などで攻撃し、そのあと紅衛兵とよばれる少年少女を使ってかれをつるしあげさせ、さらにはその著作を「大毒草」とよばせ、党から永久除名する処分へと事態を追いこんだ。ほどなく劉少奇は衰死した。また中国における代表的作家として海外にも知られていた老舎も、同様の運命になった。老舎は、革命の成立後、「人民芸術家」の称号をもらい、中国作家協会の副主席になるほど優遇されたが、右の時期、党と毛沢東に反対したという難癖をつけられて紅衛兵の攻撃をうけ、やがて死体になって発見された。死因は、こんにちでもなお不明のままである。(略)十年つづいたこの弾圧運動は、毛沢東の死とともにおわった。”
そして、毛沢東さんと劉少奇さんのこの間の関係について、司馬さんは「人間の集団について」で、"この間の機敏は、新中国にもある。毛沢東氏と劉少奇氏の関係がそう[※うそ]であろう。新中国に近代的な産業をおこすという路線においては劉少奇氏にまさる指導者はいないようにおもうが、しかし彼は失脚した。劉少奇氏がついに新中国の代表たりえなかったのは、ひとことでいえばかれが聖人の印象から程遠い存在であったということだろう。その彼が有能で官僚組織の中で勢力があるということのために、聖人の印象の濃い、もしくは中国大衆にとって聖人そのものである毛沢東氏の光芒を、ともすればおおうきらいがあったという機敏によるものかと思われる。"[※なにいうとるか。王禹きらい(笑)]
アジア的"聖人"、みかけだおしのでくのぼう毛沢東による思いつきの空想的政策[※つまり、今の現実]により大被害を受けた中国経済[※生命コロニーとしての地球]。その行き詰まりの打開を目指し、政策を現実路線[※つまりre-カナン(笑)]に引き戻すことでそれに成功しようとしていた有能な指導者劉少奇。しかしそのことが悪かった、彼は毛沢東に嫉妬され、陰湿な攻撃をうけ失脚、死に追い込まれた、と。
[※魔王毛沢東の面目躍如な話ですが、これ“予告編”としても甘い、ぼんやりしすぎだと思います。アジア的"聖人"とは何ぞや?がないし。それがいかんのか?も。ま、何にしろ借り物なんですけど(笑)。が、ここはこのまま読んでください][※この注は12月16日かな?今は1月11日11:27。このまま読んで下さい。]
[※で、ですね、これ司馬さんの文章読むとたまに感じるオトナの部分と言うか、「人間の集団」56ページ“中国人は毛沢東氏の出現を「聖人出ヅ」と受けとっているということを外して中国の事情を理解することはできないと私は思うが、これ(※ざっくり、その他は魔王毛沢東と受けとっている)は政府側が間断なくおこなっている宣伝の成果であるとは思えない。大衆というのは、どの人が老苦力であるかということが、日本人が西郷をいまなお愛しつづけているように、感覚でわかるのである”、とお書きになられています。
(※この注も12月)(※俺が、禹ということを外して、現在の事情を理解することはできない)
で、その前のページに、これがアジア的"聖人"の定義かもしれませんが、“苦力の生活は、人間以下のものであった。仕事はつらく、賃銀(金ではない)はやっと生きられる程度しかもらえず、明日に希望がなく、国の政治に何の期待ももてない。そういう状況の中で、苦力は聖者をつくるのである。心がやさしくて聡明な老苦力をえらび、その老苦力の仕事をみなで分担し、老苦力をひとり遊ばせておき、遊ばせておくことに集団の重大な意味をたがいに感じあうのである。重大な意味とはどういうものかということになると、私もうまく説明できない。”とあり、ま、筆者の司馬さんがうまく説明できないものを俺が説明できなくても何の問題も(笑)。が、今なら司馬さんが説明できない理由は「何故なら本当のことが言えないから」だと思いますが、これ、明らかに、違う何かの話、俺が言う…いや、これ、人間、みんなですね、何故にこの人の世に王権ができたのか?の一番正しい見方なのかも。そして今も残る王権の実態。(※ただ、檀君神話の流れで考えて、王権の実態は、大統領、かもしれませんね。商王も大統領。で、禹も網膜。これ◆もう‐まく【網膜】マウ‥眼球壁の最内層。多数の視細胞が並び、これに視神経線維が分布。視細胞は光の刺激を受けて変化を起こし、これが大脳皮質に伝わって視覚となる。視細胞には杆体(かんたい)細胞と錐体(すいたい)細胞とがあり、錐体細胞は網膜の中央に多く集まって最も鋭敏に光を感じる黄斑(おうはん)を作る。視神経が入ってくる部分には視細胞がなく、この部分では見えないので、盲点または盲斑という。[広辞苑第六版より]
(※司馬さんから「この世界は君のものだと言われましたが、あきらかに意味合いは“アパートの管理人”でしたけどね。これだな◆cáre・tàker《公共施設・家屋などの》管理人,差配人;世話人,後見人[リーダーズ英和辞典第2版より])ま、だから老苦力。俺が書いてる“でくのぼう”とは何となくイメージが一致し、やめときゃいいのに現実政治に口を出して案の定中国社会に大打撃を、とは持っていけますが、“毛沢東の主導によるプロレタリア文化大革命は、後世の歴史家から紀元前の秦の始皇帝の焚書坑儒以上の政治悪としてあつかわれてゆくにちがいない。イデオロギーというものは、まず国内の人間を選別して「悪」を創作し、その者を殺すか、痛めつけるか、屈辱をあたえつづけることからはじめるもののようである。”おっちょこちょいと魔王。この二つは、まったく質が違い、だから、こう一方で、“中国人は毛沢東氏の出現を「聖人出ヅ」と受けとっている。大衆というのは、どの人が老苦力であるかということが、感覚でわかるのである”、みたいなことを書きつつ、“毛沢東の主導によるプロレタリア文化大革命は、後世の歴史家から紀元前の秦の始皇帝の焚書坑儒以上の政治悪としてあつかわれてゆくにちがいない。”本音と建て前、油断したところに?快心の一撃。司馬さん大人だ甘くないぜ、みたいな(※頑張って読んで下さい(笑)。これ“このままなら”焚書坑儒以上の政治悪としてあつかわれてしまうだ)。しかし]
◆劉少奇。中国の政治家。モスクワに留学し、1921年中国共産党に入党。労働運動を中心に革命運動を指導。人民共和国成立後、国家副主席、59年首席。文化大革命で批判され、党籍剥奪、一切の公職から追われた。 (1898~1969)。◆59年毛沢東辞任に伴い国家主席に就任、65年国防委員会主席となった。社会主義建設についての重工業優先、技術優先、エリート尊重などの考え方は次第に毛沢東と対立するにいたり、66年からの文化大革命で「資本主義の道を歩む党内最大の実権派」「中国のフルシチョフ」として徹底的な批判を受け、68年10月の8期十二中全会で正式に党から除名され、党内外のすべての公職を解任された。69年監獄につながれ、失意のうちに病死、80年3月1日五中全会で名誉回復。で。
司馬さんは「草原の記」の中で、"毛沢東のあとを承けて国家主席になった劉少奇"と表現されています。
◆承【一】①受けて、それをいただく、従い守る②受けつぐ、ひきつぐ③次第④たすける⑤ふせぐ、【二】とどめる。また、こりる⇒懲 [※そう毛沢東路線を受け継いだ劉少奇さん][※李承晩さん]
[※まず、みなさん捨身です。で、十、97(ページ)年2月13日、司馬さんが“亡くなられた”のは96年2月12日]、“大兄も、よきおとしを。(ちょっと早目ですが。)”重要です。あ、そうそう、“ちょっと早目ですが。”福島さんからの手紙の方が司馬さんの返信より日付けが1日後(日本時間でしょう、そりゃ)。
2年前に昭和天皇が"亡くなられて"いるわけですが。でですね、これ、〈十行ほど減らした〉〈このことばをよく知っていたのでしょう「新」〉と、何でかおれが〈〉を付け加えた上で、ですけど(笑)。20200731。
まず"一行十五字だったのが、一月から一行十四文字になる予定です"
十四文字で分離して①又々うつくしいワープロをよご②しました。こんどはちょっと長③かったので、<十行ほど減らし④た>のです。かえって、ひきし⑤まったと思います。新年らしく⑥、苟日新日日新又日新というこ⑦とばを、読者に送りたかったの⑧です。私の家の近所に、大正時⑨代の私立商業校(いまは市立高⑩校)である日新高校があります⑪。又、神戸新聞の前身の一つが⑫、又新日報でした。むかしの人⑬は、<このことばをよく知って⑭いたのでしょう「新」>解字す⑮ると、木と斤から成りますが、⑯辛という字をつけることで、音⑰を決めています。だから、辛や⑱斤木よりも、新らしい文字でし⑲ょう。これで、小生もぶじ新年⑳をむかえられます。大兄も、よ㉑きおとしを。(ちょっと、早目㉒ですが。)十二月十三日司馬生㉓福島靖夫様
で、それを今度は後ろから10行採り。
⑭いたのでしょう「新」>解字す⑮ると、木と斤から成りますが、⑯辛という字をつけることで、音⑰を決めています。だから、辛や⑱斤木よりも、新らしい文字でし⑲ょう。これで、小生もぶじ新年⑳をむかえられます。大兄も、よ㉑きおとしを。(ちょっと、早目㉒ですが。)十二月十三日司馬生㉓福島靖夫様
う、う、も、う、も、も、お、もうもおうもう、毛も王莽。そして辛、日本語読みでshin、これが音なので、新も当然shin、そして中国最後の王朝清もshin。つまり毛沢東は漢王朝を簒奪した王莽のように清王朝の皇位を簒奪した男。
これ、おうもう、この文字を抜き出せば、こういう文章になるな、で(意志の勝利・笑)。20200731。
[※清王朝の簒奪、“最終的”にという意味で捉えてください。そして辛、商王辛、昭和天皇という考えがまだないころです]
が、これは中国の方ならもうわかられてるのでしょうが…。
◆王莽:前漢末の簒立(さんりつ)者。字は巨君。元帝の皇后の弟の子。儒教政治を標榜して人心を掌握、平帝を毒殺し、幼児嬰を立て、自ら摂皇帝の位に就く。ついで真皇帝と称し、国を奪って新と号した。その政策に反対する反乱軍に敗死し、後漢が復興した。(在位8~23)(前45~後23)
◆王蒙(1934~):現代中国の作家。1956年、共産党が学術・文芸・芸術の一定範囲内での自由を保障するスローガン(百家争鳴・百花斉放)を掲げたのに応え、文芸界では(現実関与の文学)が合言葉となり、王蒙は官僚主義批判の短編(組織部に新しく来た青年)を発表して注目された。しかし翌年毛沢東が反右派闘争の発動を支持したため、一転して反革命分子として失脚。文化大革命終了後、復活して(胡蝶・1980年)など不条理な政治に翻弄される高級幹部の内面を意識の流れの手法で描いて注目された。のちに文化部長(日本の大臣に相当)となるが、(血の日曜日)事件(天安門事件)後辞任。
◆王蒙(1298~1385):元末の文人画家、浙江省の出身で、明の太祖(朱元璋)のとき、謀反事件で無実の罪を着せられ、獄死した。元末四大家と称された。つまり、★"毛(おそらく劉)も王蒙"
[※あと、これも確信をもっていいますが、王莽さんも捨身です、確実に。(前45~後23)、46から一つずれ、二分の一、と言う気は、ないことはないです]
で、明の太祖(朱元璋)、これは洪武帝のことです。つまり、陳舜臣さんの「中国の歴史(五)」、"洪武帝は李善長から、漢の高祖劉邦に学べと教えられ、そのとおりにした形跡があります。前にもすこしふれましたが、彼の劉邦学習は徹底しすぎて、その師をはるかに越えたのです。趙翼は、之を学びて過ぐること甚だしき者なり。と評していますが、まさにそのとおりでした。""劉邦はたしかに功臣を粛清しましたが、いわれのない誅殺といえるのは韓信と彭越の二人だけです。欒布(らんぷ)ははっきりと反旗をひるがえしたので誅殺されたのです。盧綰(ろわん)や韓王信も、謀反に追いこまれた形ですが、まったくの無実ではありませんでした。劉邦は挙兵のときから行動を共にした同志に、危害を加えようとしたことはないのです。蕭何(しょうか)、曹参などの沛(はい)の同郷人はもとより、途中で参加した張良なども最後まで健在でした。ところが、洪武帝はほとんどみな殺しといってよいありさまだったのです。おなじ庶民出身なのに、劉邦と洪武帝はどこがちがうのでしょうか?""劉邦と朱元璋(洪武帝)をくらべると、どうしても性格のちがい[※正確いれていいですか?]というしかありません。劉邦の功臣粛清は、呂后が積極的にやっています。朱元璋の場合は、まだしも馬皇后のほうがひきとめ役をつとめているのです。趙翼もやはり天性のちがいであろうと結論しています。"皇帝の地位はひとり高くそびえるものになりました。誰にも権勢を渡すまいとする、洪武帝のすさまじい執念には、鬼気迫るものがあったのです。"の洪武帝。で、ここまで書いてこの劉邦とは毛沢東さんのことだと確信しました。"いわれのない誅殺といえるのは韓信と彭越の二人"。当然、劉少奇さん、ちゃんと文革のことを知らないので、あとどれほどの方がいるのかわかりません。[※当然、相も変わらずぼんやりしてます。"いわれのない誅殺"をしたのはだから劉邦ではないとか。毛が劉邦なら洪武帝は誰だ?等、興味はあるが、現在知らん、わからん、このままで。ただ現実の洪武帝朱元璋さんは王莽さんと同じ捨身だと思います、確実に]で、おそらく読み返せばその中にも多くのカケラが含まれているのでしょうが、司馬さんの「項羽と劉邦」(新聞連載時の題は"漢の風、楚の雨")は、おそらく毛沢東さんへのオマージュなのだな、と。
もちろん、劉邦が毛沢東さん、項羽が蒋介石さん、というわけではなく(というほど蒋介石さんのことを現在しりません)。[※ただ蒋介石さん、商介石さんかな?という気はします]
が、ですね、陳さんの「秘本三国志」。これ、途中から、劉備が呂布におわれて曹操のもとに身を寄せるようになってから、だったか、やたら各陣営同士の密約が多くなるんです、もう談合小説と呼びたいくらいに、最初は曹操が劉備に「何としてもこの乱世を終わらせねばならん、しかし現在、この中国大陸にはあまりにも群雄が多すぎる、だから二人で組んで、その群雄を潰していこう」みたいに持ちかけ、それで劉備がある種エージェントとして袁紹のもとにいき、うまい具合に袁紹陣営をかく乱し、みたいな。読んでるときもちょっとこれは無理では?と思ってましたが、もちろん、劉備が働けば働くほど曹操の力が巨大になる、劉備も曹操のたんなるエージェントで終わる気はまったくなく、この密約はすぐに破たんします。
が、その後も談合はひんぱんにおこなわれます、ただ、その理由のすべてが"民を苦しめないため"
[※◆エージェント【agent】①代理店。代理人。仲介業者。②秘密情報組織の協力者。諜報員。(広辞苑第六版より)。]
陳さんは、小説ではなく歴史書の「中国の歴史」の中で、当時の史書を紹介し、"『漢書』の「地理志」によると、前漢の時代、平帝元始二年(西暦2年)の中国全土の人口は、五千九百五十九万余。"で、前漢滅亡時の戦乱(王莽の時代)を経たせいでしょう、"後漢初代皇帝光武帝が死んだ建武中元二年(西暦57年)の人口は二千百万余と激減。"しかし、"後漢第十代質帝の死んだ本初元年(西暦146年)には、それが四千七百五十六万余まで回復"しかし、それから約140年後、晋が天下統一した呉の滅亡時、呉"四代皇帝孫皓が晋に版図を献じたとき、戸数五十二万、男女人口二百三十万であった"といわれているそうです、ちなみに晋は"人口五百五十万"、つまり中国全土の人口が八百万そこそこだった、4756万余の人口が140年後に800万そこそこまで激減、『三国の乱世は(略)けっして光彩陸離たる時代ではありません。獣性がこの世を支配し、光のとぼしい、絶望の時代だったのです』と。
この秘本三国志の中では"人があまりにも死にすぎた""民を苦しめないため"に、英雄たちが談合しまくります、孔明は北伐前の足固めのため南征しますが、これは孟獲とのやらせ、でした、孟獲は事前に孔明と打ち合わせ、わざと七回捕虜になるという醜態を演じて見せます、そのことによって戦乱の拡大、被害をおさえようとします、時期はかなりさかのぼりますが、同じようなことが袁紹陣営を滅ぼしたあとの曹操の北伐でもあります、だれでしたか、どうあがいても曹操軍にはかなわない、しかし自分の部下(部族)はその力の差を理解できない、だから自分が曹操に派手に負け(できるだけ犠牲がでない様に)、死ぬことによって、力の差を理解させよう、ただし、自分が死んだ後の我が部下たちの処遇は必ず考えてくれ、民が安心して暮らせる平和な世をつくってくれ、みたいな。そして、孔明の北伐、これも司馬懿との間で"ひきわけ・勝負無し"と事前にとりきめられます、とうぜん、それはさすがに無理ないだろうか?、と、読んで思いました、が、20世紀という人が人を一番殺した時代を生きてきた陳さんは、人の死を書きたくなかったんだろうな、とも、思っていました。もちろん、ここから導き出される結論は、あまりにも荒唐無稽ですが[※今となってはそうでもないですが(笑)]、自分の現状も含めて考えると、司馬さんがお書きになった、"アジアの共産主義というのは、アジアの社会がはるかな過去から背負いこんでいる泥の中からひょいと足抜けをするための最も簡単な方法だということは、つねに忘れずにおきたいと思っている。"という言葉の意味はわかりかけてきた気がします。
[※◆【談合】(ダンコウとも)①話し合うこと。談じ合うこと。相談。②談合行為のこと。◆だん‐こう【断交】‥カウ‥交際をたつこと。特に、国交をたつこと。「経済―」(広辞苑第六版より)]
あと、陳さんの「中国の歴史(二)」は、王莽の漢簒奪までですが、最初は"大統一時代"という章で、秦の始皇帝の天下統一の時代から始まります。で、記憶だよりなのですが、天安門事件のあと、東欧の民主化が進む中で(正直まったく詳しくないのですが、民族紛争はまだはっきりと形になっていないころでしたか)、鄧小平さんが、"共産中国が存在する限り世界の人口の五分の一は共産主義者だ"と"魔術的"国家中国の面目躍如な発言をされたような気がします。当時、そう思いました。が、これは"共産中国が存在する限り、世界の人口の五分の一は人食いに屈していない"という、毛沢東さんや劉少奇さん、もしかしたら蒋介石さんも、の"志"の同志(当然、もっと多くの)としての、気概だったんだろうなと、今、すこし思います。
"劉邦と朱元璋(洪武帝)をくらべると、どうしても性格のちがいというしかありません。劉邦の功臣粛清は、呂后が積極的にやっています。朱元璋の場合は、まだしも馬皇后のほうがひきとめ役をつとめているのです。趙翼もやはり天性のちがいであろうと結論しています。"
で、毛沢東さんを劉邦になぞらえると、当然、江青さんが呂后ということになります。ああ、やっぱりそうなのだな、と納得できますが、「草原の記」からのピンポイント抜出、"夫妻とも生命があぶないという客観的状態が存在したようであった"(これは文章としては文革の暴力の渦に巻き込まれたツェベクマさん夫妻のこと)、から連想しなくても、どうも、そうではない、江青さんも被害者なのだ、と、司馬さんはお書きになられています(もちろん、組み合わせで)。[※ツェベクマさん。一言で言えば、70年代中盤司馬さんが街道をゆくでモンゴルを訪れたときに、通訳として、知り合ったモンゴルの女性]。
◆江青(jiang qing)中国の政治家。本名、李進。山東諸城の人。1930年代上海の新劇界で活躍。39年毛沢東と結婚。文化大革命で台頭。76年、毛沢東の死後逮捕され、無期懲役で服役中、自殺。(1914~1991)
[※◆理も非もない・事を進めるのに精一杯で、道理を考える余裕がない。(広辞苑第六版より)]
そんなに弱い方たちではない。20201222。
◆江青[こうせい](Jiang Qing)1914年3月山東諸城生まれ、1991年5月14日没 中国の政治家。毛沢東夫人。本名李進、号は雲鶴、旧名李青雲。1930年代に藍蘋の芸名で上海演劇、映画界に活躍し、革命的演劇を通じて政治に関心をもち、中国共産党に入党。38年延安のマルクス・レーニン学院に入学。39年毛沢東と結婚、江青と改名。49年10月中ソ友好協会理事。50年文化省映画事業指導会委員。62年スカルノ訪中の際、初めて毛夫人として公式の席に出席。64年第3回全国人民代表大会山東省代表。この頃演劇、映画を中心とする文化芸術活動の調査を進め、張春橋、姚文元らと協力して京劇改革の指導をし、文化芸術戦線から文化大革命の指導的地位に進んだ。66年2月林彪に委託され、解放軍部隊で文芸座談会を開き「綱要」を発表。同年8月中央文革小組第一副組長。同8月紅衛兵大集会を司会。陳伯達らとともに紅衛兵の指導にあたった。67年4月解放軍文革小組顧問。69年4月九全大会で中央政治局委員に選ばれた。極左路線を推進するうち、76年10月、故毛沢東の方針、政策を改竄し歪曲したうえ党主席の地位をねらったとの理由で、張春橋、王洪文、姚文元とともに逮捕され、「四人組」反党集団の一人として77年7月の十期三中全会で党籍を永久に剥奪され、党内外のすべての職務を解任された。「林彪・江青反革命集団」裁判で81年1月死刑判決(執行猶予2年)を受け、服役中に自ら命を絶った。
[※反革、日本語発音でHan-Kaku、反核・集団]
◆四人組(si-ren zu)文革派、上海グループとも呼ばれる。中国の文化大革命(1965~76)を実質的に指導したとされる上海を基盤とする左派的な権力集団。1966年8月中国共産党中央文化革命小組第一副長に就任した江青・毛沢東夫人を中心に王洪文党副主席、張春橋党政治局常務委員兼副首相、姚文元政治局委員らは、毛の命を奉じると称して文革を推進、反対派を次々に失脚させ、追放した。しかし毛の没後わずかに1ヵ月、76年10月江青ら4名を含む多数の幹部が、毛の命令を偽造、クーデターを企てたとして逮捕された。
藤原仲麻呂さんもその様な失脚理由でしたか?20201222。
ちなみに司馬さんは「草原の記」の中で、文化大革命のことを、"ほどなく中国にプロレタリア文化大革命とよばれる“えたい”の知れぬ政治的暴風が吹き荒れることになる。毛沢東という創業の英雄が、祭りあげられたあと、退隠して牛を飼うことをせず、かつての仲間がつくりあげつつあった現実主義的な政権を不満とし、これを倒すべく千万といわれる少年少女を使嗾(しそう)した。"と書かれています、つまり、政治的暴風のえたいはかつての仲間に嫉妬した毛沢東氏であると知れているので、この文章は少し妙です。
[※禹、そうしそう][※うそ、もちろん毛沢東さんに]
◆えたい(一説に「為体(ていたらく)」の音読イタイの転。「得体」とも書く)正体(しょうたい)。本性(ほんしょう)/ほんとうの姿や性質。実体。正体[※禹よ、痛いし][※禹よ、真ホシ、大帝いた、撃とう]
[※大帝革韋听121歳、日本時間本日2015/01/13 12:11:11病死、中国山東省安冀2-3-11]
◆使嗾・しそう(「嗾」は、そそのかす意)指図してそそのかすこと。けしかけること。◆嗾①犬をけしかけて、相手にむかわせる②そそのかす、おだてる、扇動する。[※(笑)][※禹、阻止][※禹中の話、気にしない]
◆江青、1930年代に藍蘋の芸名で上海演劇、映画界に活躍し、革命的演劇を通じて政治に関心をもち、中国共産党に入党。38年延安のマルクス・レーニン学院に入学。39年毛沢東と結婚。49年10月中ソ友好協会理事。50年文化省映画事業指導会委員。64年第3回全国人民代表大会山東省代表。この頃演劇、映画を中心とする文化芸術活動の調査を進め、張春橋、姚文元らと協力して京劇改革の指導をし、文化芸術戦線から文化大革命の指導的地位に進んだ。
◆百花斉放(せいほう)・百家争鳴:1956~57年初頭、中国共産党が提唱した学問、思想、文化、芸術などの<各分野における自由な発言を奨励した運動。
56年5月2日毛沢東が最高国務会議で、共産党と民主諸党派との「長期共存、相互監督」を提唱。
(1)学術の発展のための自由な討論、創作、批評、意見の発表の自由の保障。
(2)文化、芸術と政治を同一視する偏向の排除。
(3)思想問題を行政命令式に解決することの回避などを主張した。
9月の八全大会においても劉少奇副主席が政治報告のなかで、科学と芸術の発展のためには、「百花斉放・百家争鳴」の方針によって自由に論議し合い、自由に競い合うことが必要であり、行政上の命令によって指導を行うべきではないと述べた。毛沢東も57年2月27日の最高国務会議における講演「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」のなかでこの方針に触れており、3月12日の全国宣伝工作会議における講話でも、「大胆に発言し、批判し、論争し、まちがった議論を恐れず、毒素を含んだものを恐れず、相互の論争と批判を活発にすること」を強調。
[※でですね、民主諸党派。中国国内の方には逆に分かりづらいのかもしれませんが、中国は共産党独裁、これは悪い意味ではないです、党として存在するのは共産党のみ、そういう印象が国外では強いかもしれません。知られていない]
で、ここで、すこし離れ、「草原の記」のツェベクマさんの話にうつります。ツェベクマさんは、"シベリアのバイカル湖の近くのブリヤート・モンゴルの村にうまれ""幼児にロシア革命の余波を経験""両親につれられて「満州」のホロンバイル草原にのがれ、満州事変の砲声を遠くでき"き、"その後も「満州国」の西辺に住みつづけた""やがて、日本の満州支配が瓦解(がかい)し""その後、草原にやってきた中国共産党の世で青春をすごし、よき連れ合いを得、伊敏(イミン)川のほとりで一児をもうけた""まことに半生は数奇だった"うまれたときはロシア国籍で、ついで満州国籍になり、さらに中国国籍に転じさせられた"。そしてツェベクマさん夫妻は文化大革命の政治的暴風に巻き込まれます。"紅衛兵運動といわれるこの政治的狂気は、孔子などの古典的権威をひきずりおろす一方、十九世紀末の義和団のように国内の親外国分子を迫撃し、少数民族としてのツェベクマさんの生き方を辛(つら)くした。
[※俺は満州国も当時の現実の中での緊急避難的存在だったと思います。戦闘(先頭)帝溥儀さん。宣統含めすべてsentou][※応援、燕王][※で、危機、政変人食い支配の瓦解開始][※辛楽した。溥儀楽した][※辛らしく溥儀らしく悟りの畔で生きた][※辛、燕王・円王、商王]
“ついにはその夫が拉致(らち)されるはめになった。その後、ツェベクマさんは、中国を去る。幼女の手をひき、モンゴル人だけの国(外蒙古(そとモンゴル)・モンゴル人民共和国)をめざすことになるのだが、私はこの身の上ばなしを彼女からきいた一九七三年の八月、彼女が馬上幼女を抱いてゴビ砂漠(さばく)を越えた、というイメージを勝手につくった。実際は散文的で、汽車を乗りついでのことであったらしい。「ツェベクマさんは、馬に騎(の)ることができますか」「あたりまえでしょ」そんなやりとりのあとだったために、単騎ゴビ砂漠を越える彼女を想像した。新潟からシベリアの岸まで泳ぐようなものだろう。”
[※これは俺が“イメージを勝手に”作り上げますが、◆えたい/ほんとうの姿や性質。実体。正体、を持ち出すのは失礼だと思いますが、この司馬さんによるツェベクマさんの話の中にでてくる、伊敏(イミン)川、砂漠(さばく)はやはり…(※まず頑張って読んで下さい。この注は12月。ついでに紀元前973年、汽車あったらしいも)。
◆移民(イミン)①凶作のとき、困った人を救済する方法で、凶作の地の住民を他の地方に移し、その地の穀物を凶作の地に送って老人や子供を救うこと。②人口の多い土地の人民を人口の少ない土地に移すこと。[※間引き、民意]③[国](の)労働に従事し生活するために外国に移住する人々。
◆遺民(イミン)①生き残っている人民。②ほろんだ国の人民で、新しい朝廷に仕えない人。亡国の民。
夫が拉致(らち)されるはめになった。[※がち、つれさられる][※目には目、歯には歯]
◆不ㇾ可ㇾ諱(いむべからず)死ぬこと。死は人のいみさけることができないものであるからいう。(戦国策、魏)。義。[※もちろん北朝鮮も被害者である拉致問題の真実のことだとおもいますが、まだぼんやりです]
拉致被害者、家族全員死刑つうことで。そーいえば、被爆二世、三世、四世、ン世、優生保護法(連合国占領下の日本、そんなファッショ極まる問題法案GHQは何考えて通したの?押し付けられたんじゃない?日本国憲法同様・笑)、楽して金盗ろうと必死だね。処刑されるまで真っ当に働けゴミ。つうてもそんな(同文)。(8月 05, 2018)
※ツェベクマさんご夫妻のお子さんのお名前はイミナ。
◆【諱】17画[言]部[音];キ[意]いみな/いむ[パーソナル版漢字辞典より]◆【忌む】禁忌だから決して口にしてはならぬ、触れてはならぬ、などとして、避ける[広辞苑第六版より]な。
[※犬ら、離してはならぬ][※意味ない、皆、いない]
[※いては、花ならぬ、いらぬ][※涙、決して忘れてはならぬ][※果てしき無]
◆サバク(SAVAK)イランの治安機構。1957年、ムハンマド・レザー・シャーの命令で設立されたイランの秘密警察。イラン国内における国王の政策に対する批判や反対に過度の取り締まりをした。この機構はヨーロッパにおけるイラン人留学生をも監視し、イランでは多数の政治犯を逮捕、投獄したため、イラン革命で解体され責任者は革命法廷で処刑された。[※日本語でサバクと書くと、砂漠、裁く、もありますが、佐幕(「佐」は助ける意)幕末、尊王攘夷・討幕に反対して幕府の政策を是認し、これを助けたこと。「―派」the supporters of the Shogun、the Shogunate party.印象としては反動派ですが、だから新撰組。
◆とっこう【特高】「特別高等警察」の略。もと,政治・社会運動をとりしまった警察組織。
◆とっこう【篤厚】{名詞}{形容動詞}{文章語}人情にあつく誠実なこと。
◆とっこう【徳行】{文章語}道徳にかなった行い。{類義語}善行。virtuous conduct
◆とっこう【篤行】{文章語}まごころのこもった行い。{類義語}徳行。善行。[パーソナル現代国語辞典より]
[※暴く][※禹、特高、魂をとりしまる警察][※目には死を]
◆[国](の)労働に従事し生活するために外国に移住する人々。
ここは実は人類はずっと以前からすでにひとつで、お願いします。
でですね、俺はツェベクマさんご夫妻のお話を、夫妻の歴史を、現実に、この方だ、という方の人生を、例によって、これは誰々の何々で、と、書きます。それは、これらを踏まえての事。捨身。真実を伝えようとそうされた。そしてそれは確かにツェベクマさんご夫妻の身に起ったことであり、そしてまた同時代、だけではなく、多くの人の身に起ったことでもあるという象徴性も含まれる。俺はそう理解して書いています。
例えばですが、この199ページ。
◆江青、1930年代に藍蘋の芸名で上海演劇、映画界に活躍し、革命的演劇を通じて政治に関心をもち、中国共産党に入党。38年延安のマルクス・レーニン学院に入学。39年毛沢東と結婚。
“そういう目的によって中国は黒竜江省のチチハル(斉斉哈爾)に「軍事政治大学」という臨時の教育機関をつくった。ブルンサインもツェベクマさんも、ここに二ヶ年学ばれた。「たがいに好意をもちあっているということは十分わかっていましたが」と、ツェベクマさんはいう。まだ前途を言いかわすまでにはいたっていなかったらしい。ツェベクマさんは、右の臨時学校を出たあと、中国の統一のつよまりつつあったハイラルにもどり、新中国のもとでの小学校の先生になった。彼女がおどろいたのは、ブルンサイン青年が、ハイラルの中学校に赴任してきたことである。「私のために来たらしいですよ」と、ツェベクマさんは言い、乾いた笑い声をたてた。ソ連圏でうまれたせいか、彼(女はロシア人が冗談を言うときの表情になる。)”
俺は、これはブルンサインさんツェベクマさんご夫妻のなれそめの話であり、毛沢東さんと江青さんのなれそめ(かどうかはわかりませんが)の話だ、としか思えません。「ああ、なるほど、毛沢東さんは江青さん会いたさにマルクス・レーニン学院にしょっちゅう顔出されていたのか」と。それに、お生まれはわかりませんが、江青さんが女優として活躍された上海は当時、日本の文化の影響が強い場所だったと思います。そしてこれは司馬さんが直接江青さんからお聞きになったこと、そして“イミナは、ハイラルでうまれた。モンゴル人は、父の名前を姓とするから、この少女は、正しくは、「ブルンサイン・イミン」[すいません]と呼ばれるようになった。ついでながら、イミナは、イミンの愛称付きのよび方である。”
つまり忌み名ではない。
無理あるかな?ご夫妻でV(笑)。Library of Congress,Washington,,D.C.(neg.no.LC-USZ62-126856)
これも、Washington、wa shing tong◆tong1—n 《中国の》党, 協会, 結社; 《在米中国人の》秘密結社; 《俗》 学生社交クラブハウス.[Chin堂](リーダーズ英和辞典第2版より)
秘密結社、ここ流しますよ、もうあらゆる秘密結社(に限らないけど)が禹の外郭団体(という言い方でいいのかわからないけど)ですから。和新党、羽(わ)新党(笑)。
◆chief・tain《山賊などの》首領, 頭目; 《Highland clanなどの》首長, 族長; リーダー; 《詩》 指揮官.
◆Il Du・ceイル・ドゥーチェ《ファシスト党首 Mussolini の称号
◆füh・rer, fueh- /—n 指導者; [der F‐, the F‐] 総統《Adolf Hitlerの称号; cf. IL DUCE》; 独裁者.
◆gránd máster[G‐ M‐] 《騎士団の》団長, 《Freemasonsの》本部長, 《政治結社 Orangemenの》首領;
◆gránd wízard[OG‐ W‐] 《秘密結社 Ku Klux Klanの》首領, 総統.
◆je・fe /—n 《南西部》 首領, 指導者; 《スペイン語圏諸国の》軍[政界]の指導者.
◆lead・er /—n《英国の政党の》党首; 総務, 幹事; LEADER OF THE HOUSE; 総統, 首領,
◆chíef・ly—adv 主として, もっぱら (mainly); 概して, 多く(は) (mostly); 特に, なかんずく.
◆pa・tri・arch /—n1a 家長, 族長; 長老, 古老 (cf. MATRIARCH).b [pl] 【聖】 族長《1)イスラエル人の祖としての Abraham, Isaac, Jacobおよび彼らの祖先 2) イスラエル12支族の祖としてのJacobの12 人の子たち》.c 大祖 (antediluvian patriarchs) 《AdamからNoahまでの人類の祖》.
2 《教団・学派などの》創始者, 開祖, 鼻祖.3a 【カト】 ローマ教皇, 総大司教.
b 【キ教】 総主教《5 世紀以後 Constantinople, Alexandria, Antioch, Jerusalem, Rome の大主教; のち Rome は教皇と呼ぶようになった; 現在 東方正教会ではロシア・ルーマニア・セルビアなどの主教も指す; またコプト・アルメニア・シリア教会などの総主教》.c 【モルモン教会】 (大)祝福師.
(リーダーズ英和辞典第2版より)。
でですね、“中国としては、もし外と内のモンゴルが独立すれば、広大な領土をうしなう上に、モンゴル人民共和国がソ連のつよい影響下にあったため、ソ連の版図が、大きく中国に食いこむことにもなる。もしそんなことになれば中国の青海省や新疆(しんきょう)、あるいは西蔵(チベット)にいる諸民族もだまっていなくなる。ついには、漢民族王朝だった明(ミン)王朝の版図にまでもどらざるをえない。ウランフーはこまったのではないか。中国がゆるすはずもなかった。”
今、違う観点で考えれば、版図、ハント。
◆hunt /hʌˊnt/—vt, vi1a 狩る, 狩猟する, 遊猟する, 《特に》狐狩りをする《米では獣にも鳥にも用いるが, 英では鳥には shoot を用いる》; 〈馬・猟犬を〉狐狩りに使う; 〈獲物のいる場所を〉狩り立てる.
・hunt for deer.・hunt big game 《ライオンなどの》大物狩りをする.・hunt ivory
《象牙を得るために》象狩りをする.・hunt heads 首狩りをする.・go (out) hunting 狩りに出かける.
b 追跡する; 追い払う〈away, out〉; 迫害する; 悩ます.(リーダーズ英和辞典第2版より)
“ソ聯(ソ連ではなく)のhuntが、大きく中国に食いこむことにもなる”もあれば、漢民族、ソ連の名前は捨身として忘れてください、「このままでは、せっかく築き上げた我が“人食いの”天下(4千年?)が瓦解してしまう」。“かれは今の中国の政治は文化を劃一化(かくいつか)しようとするものだ”の“劃”怪しいし。
が、ここは矛盾(そういえば、読んだことはないのですが毛沢東さんに矛盾論てありましたね。というかあの「人民内部の」、がそうなのか?)も気にせず、とりあえず現実の国境紛争などに関しては、103ページからの、20世紀初頭の話ですが、“当時の帝政ロシアは中国に遠慮をし、結局、外モンゴルの範囲内での自治だけを支援することにした。ロシアはさらに中国と交渉し、キャフタ協定(一九一五年)をむすんだ。この協定が、今のモンゴル人民共和国の版図の上での原形になっており、モンゴル側にもべつだんの不服はなさそうである。”が、結局のところ真実なのだろうな、で。もちろん、人類自決(self‐determination?)が当たり前、前提で。
2014/03/09 18:00
"毛沢東の中国ができあがるのは、日本の敗戦から四年後の一九四九年である。その直後に、毛沢東の中国はソ連との友好同盟条約を結んだ、しかし両国の関係はほどなく軋(きし)んだ。やがて断絶同然になり、一九五六年前後、毛沢東は、ソ連式の社会主義建設と縁を切って、②中国独自の路線をうち出した。独自の路線とはいえ、⑤それに見合う具体案などはなかった。とりあえず既存の村落をそのまま「人民公社」にすることと、生産を励まして③「大躍進」させることが、毛沢東路線というものになった。いずれも蹉跌(さてつ)してしまう。ともかく①毛沢東は、その④前に、新路線がどうあるべきか⑥のヒントを得るために、「⑦百家争鳴」という大運動を⑨おこさせた。⑧政府主導で展開された。百花斉放(せいほう)・百家争鳴という対句(ついく)が連呼されるなかで、運動はツェベクマさんらの住む辺疆のフフホトにまでおよんだ。
[※日本では漢文を読むとき読み下し文という伝統が]
あくまでも、党という頂上からの運動で、最高責任者は毛沢東の意をうけた党幹部の宣伝部長陸定一(ていいつ)だった。要するに共産党のために知恵を出せ、ということであった。これより前、中国共産党はさまざまな思想をブルジョワ思想として痛烈に批判した。このため中国の学術、芸術、文芸界は、萎靡(いび)しきってしまい、たれもが党に面従するだけで日をすごしていた。党は、その空気を打破しようとした。"
◆百花斉放(せいほう)・百家争鳴:1956~57年初頭、中国共産党が提唱した学問、思想、文化、芸術などの<各分野における自由な発言を奨励した運動。
56年5月2日毛沢東が最高国務会議で、共産党と民主諸党派との「長期共存、相互監督」を提唱。
(1)学術の発展のための自由な討論、創作、批評、意見の発表の自由の保障。
(2)文化、芸術と政治を同一視する偏向の排除。
(3)思想問題を行政命令式に解決することの回避などを主張した。
9月の八全大会においても劉少奇副主席が政治報告のなかで、科学と芸術の発展のためには、「百花斉放・百家争鳴」の方針によって自由に論議し合い、自由に競い合うことが必要であり、行政上の命令によって指導を行うべきではないと述べた。毛沢東も(略)「大胆に発言し、批判し、論争し、まちがった議論を恐れず、毒素を含んだものを恐れず、相互の論争と批判を活発にすること」を強調。
"「なんでも言え。めいめいが考えを出せ」というのがこの運動だったが、党としては積極的な社会主義建設に役立たせるための意見百出運動のつもりであって、党支配の一線を逸脱することをゆるすつもりはなかった。が、初動期、党は限定を設けなかったために、ひとびとはこれを「自由化」と錯覚し、各地や各分野で争鳴した。ほとんどが党を批判し、おだやかな場合でも、苦情や陳情をくりかえした。あわてた党は、火を消さねばならなかった。ほどなく百家争鳴運動をひっこめ、かわって「反右派闘争」というあたらしいスローガンを出し、さき争鳴した百家どもを弾圧した。見様によっては、言わせておいて「右派」をあぶり出し、こんどはその連中を「大衆」に摘発させ、排除させたということになる。"[※非無かった][※反禹派闘争]
"「百家争鳴」のとき、フフホトの内蒙古大学の教授だったブルンサインは、ひときわ争鳴した。かれはいまの中国の政治は文化をかく劃一化(かくいつか)しようとするものだ、とはげしく述べた。「モンゴル民族には、民族固有の文化がある。言語、服装、文学その他、漢民族とはちがうのです。文化を大切にせねば、民族がほろんでしまいます」翌年、かれは「右派」として槍玉(やりだま)にあげられた。ついでながら、ブルンサインは党員ではなかった。ツェベクマさんもそうで、二人とも党員になろうとも思わなかった。このことも、かれを不利にした。すでに故人になっているブルンサインの父が、以前、内蒙古で郡長程度の役についていたことも、わるい材料だった。またかれが、モンゴル文学を学生に教えることに熱心だったことも失点にあげられた。さらにはまた「外蒙古」といわれるモンゴル人民共和国から二人の学者をよんで講義させたことも、「罪状」の一つにされた。"
で、話を戻し、あくまで、俺の考えですが、"ブルンサインは、ひときわ争鳴した"、これは毛沢東さんに対してだと思います。あるいは、"たれもが党に面従するだけで日をすごしていた。党は、その空気を打破しようとした"、の"打破しようとした""党"に対して、でもいいです、"毛沢東の意をうけた党幹部の宣伝部長陸定一(ていいつ)だった"、ここにもかかると思います。
[※打破しようとした、毛沢東さん、共産党への共鳴ですね、共振]
で、"あくまでも、党という頂上からの運動"、これはこれで秘密結社な感じもしてしまいますが、で、ぽんとそれだけおくのもなんですが、「94国民はつらいよ」、"つきつめれば、改革すべきは選挙民だとおもいます(前後の文脈を無視)"、そして"アジアの後進地帯""現実主義"、は、忘れてはいけないと思います、ただ、日本の現状を考えると、日本が"アジアの先進地帯"であった、とは残念ながら俺には言えません。で、"面従するだけで日をすごしていた"の面従対象はもちろん"アジアの社会がはるかな過去から背負いこんでいる泥"。そして、毛沢東さん、江青さん、二人ともこの"泥"の党員ではなかった。二人とも党員になろうとも思わなかった。このことも、かれ(ら)を不利にした。ということだとおもいます、あくまで打破しようとした。ただ、どこでしたか司馬さん福田定一さんがお書きになられていた"悪魔は顕在化して語られるべきであった"と思います。
["決定的にわるかったのは、(ブルンサインさんが)日本で教育をうけて、日本語が達者だったということである。集会で吊(つる)しあげられ、壁新聞で攻撃され、毎日が碾臼(ひきうす)でひかれるようにさいなまれた。ツェベクマさんという人が、こういう状態に耐えられるはずがなかった。彼女は、何事にも意見をもっていたし、しかも即座に、ナイフをきらめかすように切りかえすことができた。そういう彼女でも耐えた。なにかいえば、殺されるかもしれないという恐怖があった。ある夜、「日本語を覚えたことで、どうしてこんなひどい目に遭うのか」と、独りで叫び、身の不運をのろったこともあったらしい。ついには、身辺に危機を感ずるようになった。彼女はここで打ちひしがれればよかった。しかし彼女の性格のしくみは、絶望という休眠の機能をもっていないようで、川の岩を跳びながら渉(わた)るように、つぎの岩にむかって身をひるがえすひとであった。私的にいえば、騎馬民族の末裔(まつえい)としか言いようがない。この間のことは、ツェベクマさんの話が錯綜(さくそう)していて、私にはうまく整理できない。"
でですね◆江青、38年延安のマルクス・レーニン学院に入学。「おい、なんか夏学だ、幻魔大戦だ、不老不死だ、と言ってて、マルクス・レーニン学院に入学か?」はですね、矛盾をこれまた恐れずに、だから、人の世を亡ぼすのはボタン一つ押すだけで済むけれど、ま、ないんですけどね、それぞれ別の人格があり、夢があり、自由がある、この人の世を幸福にするためには、やっぱりそう簡単にはいかんのだろう。現実主義、で。つまり、毛沢東さんと、当然江青さんも含まれる、仲間がつくりあげつつあった現実主義的な政権を不満とし、これを倒すべく千万といわれる少年少女を使嗾(しそう)した。"
[※ま、いないんですけどね][※そうはいかん][※ウソはいかん]
[※そうはいかん][※ウソはいかん(笑)][※製造、そうはいかん]
◆ぬえ【・鵺】頭は猿,胴はたぬき,手足は虎,尾は蛇に似るという伝説上の動物。(パーソナル現代国語辞典より)
◆ぬえ【鵺】a chimera(怪獣).~的な mysterious(不可解な).(パーソナル和英辞典より)
◆【鵺】19画[鳥]部[音];ヤ[意]ぬえ (パーソナル版漢字辞典より)。
でもですね、確信を持って言いますけど、鳥は俺を守ってくれてるんです。ヌエじゃないけど、カラスも「夏~夏~」と、いつも(笑)。
2014/03/03 17:00
もどります、「草原の記」単行本1992(平成4)年刊、文庫1995(平成7)年刊、からの抜出です、201ページ、"毛沢東の中国ができあがるのは、日本の敗戦から四年後の一九四九年である。その直後に、<毛沢東の中国>は<ソ連との友好同盟条約を結んだ>、しかし<両国の関係はほどなく軋(きし)んだ>。やがて断絶同然になり、一九五六年前後、毛沢東は、ソ連式の社会主義建設と縁を切って、中国独自の路線をうち出した。独自の路線とはいえ、それに見合う具体案などはなかった。とりあえず既存の村落をそのまま「人民公社」にすることと、生産を励まして「大躍進」させることが、毛沢東路線というものになった。いずれも蹉跌(さてつ)してしまう。"
[※これ色分け途中ですが、“とりあえず既存の村落をそのまま「人民公社」にすることと、生産を励まして「大躍進」させること”。これだから◆líve bírth/生児出生, 生産(せいざん); 生産児 (cf. STILLBIRTH)。人民公社成立のそもそもは“大躍進”でもなんでもなく、だから創価学会と同じ“防衛”では?]
◆軋①車輪が摩擦して音をたてる、争う②昔、匈奴の刑罰の一つ。車で骨を引き砕くとも、刀で顔面を切るともいう③ふみつける。いずれも蹉跌(さてつ)してしまう。
◆蹉跌[さてつ]つまずく、失敗する。
◆蹉①物に足をとられてたおれる、しくじる、失敗する②すぎる③まちがう。
◆跌①つまずく②はしる、③過ぎる(過)、度をすごす、また、ほしいまま④足のうら。
◆理が非でも(りがひでも)ぜひとも。むりにでも。是が非でも。[広辞苑第六版より]
失礼な言い方だとおもいますが、だから"講"とかも全部そうでしょうけど、おれは、創価学会発足のそもそもは、戦略の一過程として、社会的弱者という立場を演じなければいけない、つまり、色々な意味で標的にされるひとたちを護るため自衛するためだった、とおもってます。
ちなみに、池田大作さんを信頼したのはパッと見です(ごめんなさい・笑)。
<毛沢東の中国><ソ連との友好同盟条約を結んだ>が、<両国の関係はほどなく軋(きし)んだ>、「人間の集団について」にも、"中国①は五千年の歴史からみて、辺境が中国化し⑥ないかぎり自国⑦の安泰はない、という外政的⑧伝統がある。①北ベトナム(同様)は⑥中国にとって安全になったが、(中国は)、②カンボジアは親米(で親中、心中・笑)政権③であるために④シアヌーク(さんが)という貴族②政治家をけしかけて⑤南ベトナムにおける解放戦線のような性格の愛国戦線をつく(ることによって)らせ、③間断なく戦闘させているのである。①ソ連はソ連で、南北ベトナムに⑦②戦乱がおさまること⑧をかならずしも③欲していない。④もし中国の望むかたちで⑨⑤おさまれば⑦ソ連にとって⑪中国⑧を安泰にするだけであり、⑩⑥むしろ④混乱がつづくことによって中国の辺境を⑤不安たらしめ、より強力な中国として成長することをはばみたい⑫⑨という気持ちのほうがつよい。"とあります。
おそらくこのような思惑はあったのでしょう、が、とりあえず、中国、ソ連、すべての主語をわすれてください。[※とりあえず、頑張って読んで下さい(笑)。で、中国を必ず、中夏、人類社会として読んで下さい。そもそも、そういう意味で書かれてあります。いわゆる“己のみを尊しとなす”な中華思想と読むのは、①~⑧です。ま、俺、ありますけど(笑)]
で「草原の記」から、二十世紀初頭の話です。“一九一一年秋に辛亥革命によって清国が倒れると、モンゴル人たちは独立を宣言した。ただし、ロシアを頼っての独立であった。当時のモンゴル人たちはこの勢いに乗じて、中国に組み入れられている内モンゴルまでをふくめた大モンゴル国家の建設をねがった。この、「大モンゴリア」の構想は、その後、草原の妖怪のように四方を歩き、ときにあっては、鼓吹された。主としてモンゴル人がいうのではなく、日本のような外界からの工作者が、冗談(に)まぎ(らせ)れに—あるいはしばしば本気で—吹き入れたのである。モンゴル人の草原をモンゴル人に返せ、ということになると、中国の青海省も新疆(しんきょう)地区も中国領ではなくなる。さらにはロシアそのものもほとんど存在しなくなってしまう。が、内モンゴル[※中華人民共和国うちモンゴルじちく]ばかり(狩場ばかり)は匈奴以来の固有の地で、領土権の主張としては成立する。しかし土地利用の仕方が、自生の草を動物(人間を)に食べさせるだけというのでは、その土を掻(か)きまわして草(穀物や野菜)を育てるという農民の土地所有権の深刻さを上まわることができない。中国の領土権は、その深刻な社会史の基盤の上に立っている。”
[※当初は主としてモンゴル人がそう主張するわけではなかったが、外界からやってきた世直し志士が熱情を込めて「夜明けは近いぜよ!(直感、親戚)」と説いた結果、当時のモンゴル人“たち”も大モンゴル国家の建設を心から願うようになった。この文章成り立ちますけど胡散臭いですね。それとも現実主義的?な戦略として「モンゴル人の草原をモンゴル人に返せ、ということを旗印にしてしまうと、中国領の青海省や新疆地区はともかく、ロシアそのものも“この”理屈では存在しなくなってしまう。これはいくらなんでも無理だ。何と言ってもロシアを頼っての独立だ。スポンサー怒らせてどうする。というわけで“内モンゴルは匈奴以来、我々固有の領土です。返しなさい”領土権の主張としてはこれも成立する。これでいこうじゃないか!みたいな。
[※当然、北方領土。直感で書きますけど“自治区”の区分けとしては実は現状が自然なのでは?で、酷いこと書きますよ“すべてがひとつに、ひとつがすべてに、石になり、転がらなくなる”。この後、世界が一変することでこの問題は解決するでしょう。当然個人的見解ですが、今までの流れで考えると、イスラエル12部族最後の末裔が住むこの島国の北の守りを固めてくださっていたのは、もちろん自衛隊、米軍、そしてソ連軍、今はロシア軍ですよね。どう考えても。終戦直前“満州国”を楽々と蹂躙できた、ま、してない、“できてない”、でしょうけど、強力な軍隊が北海道(夏の地)に進攻できないなんて、ねえ?何?米軍との兼ね合い?原爆?ねえ?島には上陸してて]。
で、当然、中国、ソ連と共に、モンゴル、日本等この主語はわすれてください。何故なら<当時の帝政ロシアは中国に遠慮>をし、結局、外モンゴルの範囲内での自治だけを支援することにした。<ロシアはさらに中国と交渉>し、<キャフタ協定(一九一五年)をむすんだ>。この協定が、<いまのモンゴル人民共和国の版図の上での原型>になっており、<モンゴル側にもべつだんの不服はなさそう>である。
[※うそ、あるで]
[※うそ、うそはなさそう]
その後も、モンゴルは時勢の流れのなかで、木屑(きくず)のようにもまれた。キャフタ協定から二年後に、当の支援者の帝政ロシアが倒れた。そのあと、ロシアに革命政権がおこり、そのどさくさに中国はふたたび草原に統治権を入れようとした。モンゴル人には、<漢人がすべて高利貸にみえる>。かれらは悲鳴をあげ、ロシアの革命政権に頼らざるをえなかった。曲折のすえ、一九二四年、ソ連に次いで世界で二番目の社会主義国家をつくるはめになった。かれらが社会主義をえらんだのは、マルクスのいう歴史の発展の結果ではなく、ただ漢人から草原をまもりたかっただけだった。
<漢人がすべて高利貸にみえる>、この言葉の説明はこの文章の前にありますが、ここでは省略させてもらいます、ただ、18世紀におけるお互いの文化の違いにより、と。
誤解はないとおもいますが(笑)、人民の海を泳げるもんなら泳いでみろ、つうことですよ。
で、「司馬遼太郎の遺産・街道をゆく」の鼎談で、姜在彦(かん・じぇおん、盧泰愚さんとも親しい)さんが、"われわれ歴史家というのは、歴史を考える場合は、年代の前後関係とか、これが抜けたらたたかれるとか、こういうふうに考えるでしょう。そうじゃなくて、自分のイメージに強く焼きつけられたものをクローズアップして、明快なイメージをつくっていくんですね。""(司馬さんは)史実の細かな間違いは、構わない"とおっしゃられています。で、この文章がそうだ、というわけではなく(そうかもしれません)、ただ、このような事実だとして、それを説明する時に司馬さんは<当時の帝政ロシアは中国に遠慮><ロシアはさらに中国と交渉><キャフタ協定(一九一五年)をむすんだ><いまのモンゴル人民共和国の版図の上での原型><モンゴル側にもべつだんの不服はなさそう>、という表現を選択された、と。
でですね、やはり“当時の帝政ロシアは中国に遠慮をし、結局、外モンゴルの範囲内での自治だけを支援することにした。”やっぱりここまででセットで考えたい、というか、だから、本当にこれは、中国に遠慮もモンゴル平原との歴史的関係性であったかもしれませんけど、それこそ辺境が中国化しないかぎり自国の安泰はない、という外政的伝統を尊重した、も、あったかもしれませんけど、本当にそのまま、当時のモンゴルが国家として円滑にスタートできるよう自治の手助けを遠慮がちに、モンゴル国権の侵害にならないように、した、ということじゃないかと。
そしてそれら全てにモンゴル側にもべつだんの不服はなかった。なぜならモンゴル国の建設は領土欲でもなんでもなく、ただ奸人(漢人ではない、ここ肝心、冗談ではなく)から草原[※尊厳]をまもりたかっただけだったから。