we are amaterasu kingdom dimensionsXXVII。

Mission for My Country 9月 06, 2018

ムハンマド・レザー・シャー(Mohammad Rezà Shàh Pahlaví Àryà Mehr)(実際はhの下部に点、そして上部の線は斜めではなく水平、パソコンにこの表記なし)19191026日生まれ1980727日、カイロで亡くなる・イラン、パフラビー朝第二代の王(在位194179)パーレビ国王として知られる。「アーリヤ―・メヘル」は称号。レザーシャーの長子で、1925年皇太子となる。スイスで教育を受けイランの陸軍大学で学んだ41年連合軍イラン進駐とともにレザーシャーが退位し、代って即位50年~53年の石油国有化運動民族運動を代表したモサッデグと対立538国王はモサッデグ首相解任を命じたが、逆に国外への避難を余儀なくされた。まもなくモサッデグ首相国王派に打倒され、国王は権力を回復した。60年代に入って上からの改革である【⇒白色革命に着手73年末からの石油収入増大をとらえて急速なイランの工業化を目標とした。しかし79116イラン全土に波及した反体制デモの渦中に出国。エジプト、モロッコ、アメリカ、メキシコ、パナマを転々としたのち再びエジプトに亡命し、カイロ郊外の病院で死去。著書に"Mission for My Country"(61)がある。


白色革命(はくしょくかくめい)(Inqilàb-i Sefíd)国王と国民の革命Inqilàb-i Sefíd o Millatともいう。1963年国民投票によって承認されたイランの国王側からの改革1950年代イランは政治的に不安定であったが、ムハンマド・レザー・ャー60年代初め国王中心型の権力確立を目指して、6163議会を解散させみずからの大権で改革を準備した。631次の6項目から成る「白色革命」を国民投票にかけた。すなわち(1)農地改革(2)森林牧草地の国有化(3)国有工場の払い下げ(4)工場労働者に対する企業の利益配分(5)婦人参政権(6)⇒セパーエ・ダーシニの創設であり、特に(1)に重点がおかれた65までに(7)保健部隊(8)開発部隊(9)村落裁判所の設置加えられて、農地改革以後の農村の改造を目指した、6710にさらに、(10)水資源国有化(11)都市と地方の再開発(12)行政・教育改革が追加された。これら「十二大改革」は低開発水準から急速な社会経済文化の改革を目指した措置で、60年代後半からの経済の高度成長に支えられて実地された。他方、この改革は大きな社会、経済のひずみをもたらし、その是正のため758(13)私企業株式の一般公開(14)インフレ抑止、が勅令として発布された。127(15)教育の無料化を、同月23(16)幼児への無料給食(17)保健制度の拡充を追加したが、イラン革命でこれらは解消した[※7587.1312771.10.21]


セパーエ・ダーシニ(Sepàh-i Dànish)イランの白色革命の一つで、従来放置されてきた農村において、識字率を高めるため編成された。青年軍隊に入る代わり農村へ派遣されて読み書きを教えるかたわら看護法農村生活向上の指導を行うもの。「教育兵団とも訳される。それまでイラン国民の識字率20%であったが、1963年~73の間に220万人の農村の児童と農民がこの教育を受けたイランにおける識字率はこのため急激に高まり農村に多数の学校が急増されたが、イラン革命で中止された。

サバク(SAVAK)イランの治安機構1957ムハンマド・レザー・シャーの命令設立されたイランの秘密警察。イラン国内における国王の政策に対する批判や反対過度の取り締まりをした。この機構ヨーロッパにおけるイラン人留学生をも監視し、イランでは多数の政治犯を逮捕投獄したためイラン革命で解体され責任者は革命法廷で処刑された[※195710.12。で、日本語サバクと書くと、砂漠裁く、もありますが、◆佐幕(「は助ける意幕末、尊王攘夷・討幕に反対して幕府の政策を是認し、これを助けたこと。「―派」the supporters of the Shogunthe Shogunate party.印象としては反動派ですが、だからまさに新撰組。で、ここでは★が当時のまとめです]

"イランの白色革命の一つで、従来放置されてきた農村において、識字率を高めるために編成された。青年が軍隊に入る代わりに農村へ派遣されて読み書きを教えるかたわら看護法や農村生活向上の指導を行うもの"これ逆になりますけど"軍隊""軍隊"と捉えず、わかりやすくいえば"いひひ"要員ポールさんの"田舎から逃げ出したい軍隊に入る人間が多いそれ以外方法がない学校に行ってなかった勉強する必要がなかったそういう人間を育てるには凄くいい土壌"結びつけたいですね。[※これは俺のNOISEを聴いて下さい。まだ残ってますけど、24時間そう言う環境でしたと。で、それに関してはすでに俺なりの答えを書いています。で、パーレビ―さんが出した答え白色革命だろうと]


若い頃あなたはどんなことを目標にしていたのですか。

「まずあったのは、田舎から逃げ出したいってことだった。今だって皆そうだろう。だから軍隊に入る人間が多いのさ、それ以外方法がないじゃないか。軍隊か音楽か、どっちかよ。僕らの場合徴兵制はもうなくなっていたから―殆ど信じられないけど。モーゼが杖を振って海が割れたみたいなもんだ。ビートルズもばらばらになるところだった。エヴァリー・ブラザーズやエルヴィス、皆兵隊に取られたみたいに。ところがどうしたわけか、天がぱっと開けて、神が言ったのさ。『もう徴兵は終わりだ。この子たちには休みが必要だ』って。実は僕にとっては、徴兵制廃止は殆ど―殆どというところを強調しておきたい。完全にそうじゃないんだから―失望に近かった。何故なら僕たちの年上の兄たち―僕の兄じゃない、友だちの兄さん、ジョージの兄さんたち―皆軍隊に入ってて、戻ってきた時には日焼けしてすっかり大人になってたんだ。本物の男って感じ。全然子供じゃなかった。心の奥では、そういうの悪くないなって思ってた。「僕は男になって帰って来るんだ―真っ黒になって!」とか考えて。でもさっきも言った通り、僕らは軍隊に入る必要がなかった。それでとにかく田舎から抜け出して有名になろうとしたわけ―ごく普通の目標さ。ショー・ビジネスの世界に入ってきた人は皆そんなものだろう」

[※これは前述のポール・マッカートニーさんのインタビューです。]

初期のビートルズは、これといって芸術的な感じがしませんでしたね。

商業的にある程度の土台が出来ると、僕らはより芸術的な面を増していくようになった。ジョンはアート・スクール出身だろ。僕は一応グラマー・スクールに行ってた。ジョージもグラマースクール。リンゴ学校に行ってなかった。勉強する必要がなかった彼は人生の中で勉強していた―彼に言われば人生と言う学校でね。だから僕らは、ある意味で他のグループより1枚上を行ってたんだ。アート・スクール―そういう人間を育てるには凄くいい土壌だよ。建築のこともちょっと知ってる、絵のこともちょっと知ってる、そういうちょっとしたことが見る目を養うんだ。例えば、ある人たちなら絶対観に行かないような劇を観に行くようになるかもしれない。

イラン革命(Islamic Revolution Iran)197879イランのパフラビー朝を倒してイスラム共和制を樹立した革命ムハンマド・レザー・シャー(在位194179)は、いわゆる「白色革命によって上からの急激な近代化政策を強行し、土地改革婦人参政権識字教育などの実地を推進したが、地主層宗教指導層が反発73石油危機を契機に打出した経済成長政策失敗して、かえってインフレ農業の停滞都市のスラム化の増進極端な富のアンバランスなどのひずみをもたらした781月以降反国王デモテロ事件が全国的に続発。これに対して国王は同年11月軍人内閣を発足させ弾圧を強化したが、反政府運動は熾烈となりパリ亡命中のホメイニ師指導のもと王制打倒を叫ぶにいたった。791国王は国外に脱出王制最後のS.バクチアル内閣も瓦解した。21ホメイニ師が帰国し、211革命政府が全権力を掌握国民投票の結果、41イスラム共和制初代最高指導者ホメイニ師のもとに宣言された。初代大統領はA.バニサドル。王制打倒に結集した勢力イスラム勢力のほか、マルクス=レーニン主義の影響を受けたものから、民族主義者新左翼グループ自由主義者バザール商人などさまざまで、そのすべてがイスラムに基づく国家理念に同調していたわけではなかった革命後、国家体制のあり方をめぐって激しい抗争繰広げられたが、805国会選挙ではイスラム聖職者を中心とするイスラム共和党が圧勝し、その結果採択されたイスラム共和国憲法ではホメイニ師に三権分立をこえる国家最高指導者の地位を与えイスラム指導者たちによる超議会的な憲法監視評議会設置を定めた。その後イスラム聖職者の独裁に反対するグループは次々と粛清排除され、ホメイニ師を中心とするイスラム国家体制が固められたが、それは周辺のアラブ諸国ばかりでなく、全世界のイスラム復古運動に大きな影響を与えることになった。[※字面だけ追うと。ホント物騒ですね。謎の極端なスラム化とか、ひっくりかえしちゃったり。もちろん極端な富のアンバランス]

"ムハンマドレザーシャー(在位194179)は、いわゆる「白色革命」によって上からの急激な近代化政策を強行し、土地改革、婦人参政権、識字教育などの実地を推進したが、地主層や宗教指導層が反発。73年の石油危機を契機に打出した経済成長政策も失敗して、かえってインフレ農業の停滞都市のスラム化の増進極端な富のアンバランスなどのひずみをもたらした"

これは、"(歴史上の、遊牧国家の遠征)補給は家族ぐるみ付いてゆくため(、定住型の農業国家からすれば)どの戦闘にも攻勢の終末点というものがないという始末のわるいものである"たとえばある都市に命無料取り換え自由奴隷で食料、が、100人単位で組織的に入ってくれば、その都市を混乱させることは十分に可能ですね、"三千円のもの輸送料かけ七百円で出しドドーッと積んで制覇しようとしたわけです。集中豪雨"、的に。[※"最初"は、お金をばらまいて仲間と言う名の奴隷をふやし]

で、俺はムハンマド・レザー・シャーさんとホメイニさんは同志だとおもいます。"サバク(SAVAK)イランの治安機構1957、ムハンマド・レザー・シャーの命令で設立されたイランの秘密警察。イラン国内における国王の政策に対する批判や反対に過度の取り締まりをした。この機構はヨーロッパにおけるイラン人留学生をも監視し、イランでは多数の政治犯を逮捕投獄したため、イラン革命で解体され責任者は革命法廷で処刑された"、の、"責任者は革命法廷で処刑された"は、"学徒出陣の一兵士として陸軍士官学校出の正規将校いかに頭がよく責任感がつよく犠牲的観念が旺盛だったかということを知っている"、の、"責任感""犠牲的観念"につながる部分があるような気がします。また、「イラン革命の項目をみると、"その後イスラム聖職者の独裁に反対するグループは次々と粛清排除され、ホメイニ師を中心とするイスラム国家体制が固められた"結局"サバク(SAVAK)"と同じことをしてる(もしかしたらそれ以上)"勝てば官軍(Might is right/力は正義)"な感じですが、どうも、そう考えるべきではないような気がかなりします、が、ここは先にいきます。

ホメイニ(al-KhomeiníRuh-allah al-Mùsawí;Ayatollah Ruhollah Khomeini)1902924ホメインで生まれる198963テヘランで亡くなる[※平成元年63日は兄の誕生日]
イランの宗教・政治活動指導者。イランの小村ホメインで祖父父ともにイスラム教シーア派の聖職者の家系に生まれる幼少のとき父母を失い叔母に育てられ聖都コムでイスラム神学教育を受ける26年からコムの神学校で教え哲学法学倫理などに関する多くの書を著わす63国王ムハンマド・レザー・シャー(パーレビ)近代化政策反対投獄されたのち、64国外追放となり、トルコへ移る65イラクに移りシーア派の聖地ナジャフで「ヴェラーヤテ・ファギ-フ」(イスラム法学者による統治)論を説き反王制運動を呼びかける。78イラクから追放され、パリ郊外に居を定め反王制運動をさらに活発化7921、国王退去後のイランに帰国し、イスラム革命を指導7912月に成立したイスラム共和国憲法により、国家の最高指導者の地位についたが、これは「ヴェラーヤテ・ファギ―フ論を実現したもの。その後、国内の反対勢力を一掃して聖俗両面で頂点に立つ。809月に始まった対イラク戦国家間の戦争ではなく、イスラムの信者と不信心なやからとの戦いと規定し、フセイン政権打倒まで徹底的に戦う決意を示す。しかし88720、「毒を飲むような決断」との特別声明を発表して国連安保理停戦決議を受諾89214インド出身のイギリス人作家S.ラシュディ(ゴミ処刑)が書いた小説『悪魔の詩』がイスラムを冒とくするものとして、ラシュディの処刑を全イスラム教徒に呼びかける。徹底したイスラムへの回帰の主張カリスマ性により、世界中のイスラム復古主義運動に大きな影響を与えた

パフラビー朝(Paflavíyah)イランの王朝(192579)1919年、英仏協定によってイランを保護領にしようとしイギリスに対して、イランの民族運動高揚ソビエト赤軍の援助を受け革命政権北部諸州に樹立された。この事態にかされたイランの保守勢力とイギリスは当時カズビーンのペルシア・コサック旅団長であったレザー・ハーンを動かした。彼はテヘランに進軍21221クーデターによって実権掌握した。彼は23年首相となり、2511月にはカージャール朝を廃止、同年1216みずからレザー・シャー・パフラビーの称号をもってパフラビー朝初代皇帝に即位した(在位192541)。彼はまず軍隊を統一して軍部独裁制を確立27対外不平等条約廃棄を宣言し、35国号を従来のペルシアからイランに代え37年には隣接4ヵ国と相互不可侵条約を締結。イランの対外的地位の確立に努める一方、経済、社会、教育の各方面にわたる内政改革を強力に推進して近代国家としての自立を目指した。2次世界大戦に際して中立政策をとったが、ドイツへの接近が著しく41英ソ両軍侵入を招いて退位を強いられ、皇太子ムハンマド・レザー・パフラビー(シャー)が跡を継いだ53年の石油国有化運動の高揚は、英米の利権や国王の地位さえ危うくしたが、538月の国王軍によるムハンマド・モサッデグ内閣打倒クーデターの成功によってこの危機を回避、以後、王権は強化され、60年代には六点改革あるいは白色革命と称する内政改革および数回の年次計画を遂行して、地主貴族階級勢力削減産業振興をはかった。一方、中東石油産出諸国のリーダーとして重きをなし、またソ連との関係も好転させつつ、中国の承認に踏み切るという積極的かつ柔軟性に富んだ外交政策を推進した。しかし近代化・工業化政策の急激な推進は国内経済の危機を招き、人心の動揺をもたらし78年からは反体制デモが繰返されストライキが多発する事態となった。国王は経済テクノクラートのアムゼガル、宗教界に影響力をもつシャリーフ・エマーミー、統合参謀総長のアズハリ―、旧国民戦線系のバフティヤルに次々と組閣を命じ事態の収拾をはかったが失敗。79211日、反体制勢力のテヘラン市制圧によってパフラビー朝は崩壊した。

[※地主貴族階級、もちろんそのままとるべきではないと思います。この事態に脅かされた、脅迫]

"この事態に脅かされたイランの保守勢力とイギリスは当時カズビーンのペルシア・コサック旅団長であったレザー・ハーンを動かした。彼はテヘランに進軍21221日クーデターによって実権を掌握した。彼は23首相となり、2511月にはカージャール朝を廃止、同年1216日みずからレザー・シャー・パフラビーの称号をもってパフラビー朝初代皇帝に即位した"とりあえずパフラビー朝、のことである、ということを一旦わすれてくださいイランイギリスペルシア・コサックテヘランわすれてください[※ただチンギス・ハーンさんのことのような()2015/01/08 11:58]"

でですね。これは司馬さんの「草原の記214ページから215ページ文革時代の話です。

文化大革命】‥クワ‥1966に始まる中国の政治思想文化闘争毛沢東林彪(りんぴょう)らを主導者とし、大衆を直接組織することによって、行政機関の実権を劉少奇らから奪った。その極左的傾向弊害を生み、毛沢東の死後江青らいわゆる四人組が責任者として逮捕され、77年終了が宣言された。文革。[広辞苑第六版より][※禹ようそぴょん][※禹よ理非]◆り‐ひ【理非】道理と非理。道理にかなっていることはずれていること是非。大鏡[時平]「王威の限りなくおはしますによりて―を示させ給へるなり」。◆理も非もない(りもひもない)道理に合っていようがいまいがかまわない事を進めるのに精一杯で道理を考える余裕がない。◆り【】①物事の筋道。ことわり。「―にかなう」②〔仏〕普遍的な絶対・平等の真理・理法。⇔事()。③中国哲学宇宙の本体。[広辞苑第六版より]

で、ですねまずこれも以前書いた文章基に予告編として再構成させてください。ただ昔の文章なので、今と違う考え多いと思いますが(そもそも俺が禹だとか言ってませんでしたし・笑)、なるべく昔の文章をそのまま使う形にしたいと思います。“思います”というのは、読み直すのはそれ以来なので、何書いたかちゃんと憶えていないんです。

2014/03/05 2035
さて、「草原の記」、文化大革命、"毛沢東の主導によるプロレタリア文化大革命は、後世の歴史家から紀元前の秦の始皇帝の焚書坑儒以上の政治悪としてあつかわれてゆくにちがいない。イデオロギーというものは、まず国内の人間を選別して「を創作し、その者を殺すか、痛めつけるか、屈辱をあたえつづけることからはじめるもののようである。たとえば、毛沢東のあとを承けて国家主席になった劉少奇は、毛沢東による「大躍進政策のあやまりのあとの経済のゆき詰まりを打開すべく現実的な路線をとった。そのことがわるかった
[※国内の人間を選別してを創作。これは、はっきりいって、今の俺ですね。止める気もないし。「玉石ともにいう気も、ないことはない()だらだらいったら人類滅ぶぞ。2015/01/1018:39]

そういう劉少奇毛沢東一九六六年八月大字報などで攻撃し、そのあと紅衛兵とよばれる少年少女を使ってかれをつるしあげさせ、さらにはその著作を「大毒草」とよばせ、党から永久除名する処分へと事態を追いこんだ。ほどなく劉少奇衰死した。また中国における代表的作家として海外にも知られていた老舎も、同様の運命になった。老舎は、革命の成立後、「人民芸術家」の称号をもらい、中国作家協会副主席になるほど優遇されたが、右の時期毛沢東反対したという難癖をつけられ紅衛兵の攻撃をうけ、やがて死体になって発見された。死因は、こんにちでもなお不明のままである。()十年つづいたこの弾圧運動は、毛沢東死とともにおわった。”

そして、毛沢東さんと劉少奇さんのこの間の関係について、司馬さんは「人間の集団について"この間の機敏は、中国にもある毛沢東氏と劉少奇氏の関係がそう[※うそ]であろう。中国近代的産業をおこすという路線においては劉少奇にまさる指導者はいないようにおもうが、しかし失脚した劉少奇がついに新中国の代表たりえなかったのは、ひとことでいえばかれ聖人の印象から程遠い存在であったということだろう。その有能官僚組織の中で勢力があるということのために、聖人の印象の濃い、もしくは中国大衆にとって聖人そのものである毛沢東の光芒を、ともすればおおうきらいがあったという機敏によるものかと思われる。"[※なにいうとるか王禹きらい()]

アジア的"聖人"、みかけだおしのでくのぼう毛沢東による思いつきの空想的政策[※つまり、今の現実]により大被害を受けた中国経済[※生命コロニーとしての地球]。その行き詰まり打開を目指し、政策を現実路線[※つまりre-カナン()]に引き戻すことでそれに成功しようとしていた有能な指導者劉少奇。しかしそのことが悪かった、彼は毛沢東に嫉妬され陰湿な攻撃をうけ失脚死に追い込まれた、と。

[※魔王毛沢東の面目躍如な話ですが、これ“予告編としても甘い、ぼんやりしすぎだと思います。アジア的"聖人"とは何ぞや?がないし。それがいかんのか。ま、何にしろ借り物なんですけど()。が、ここはこのまま読んでください][※この1216かな?今は11111:27このまま読んで下さい。]

[※で、ですね、これ司馬さんの文章読むとたまに感じるオトナの部分と言うか、「人間の集団56ページ中国人毛沢東の出現を「聖人出」と受けとっているということを外して中国の事情を理解することはできないと私は思うが、これ(※ざっくり、その他魔王毛沢東と受けとっている)は政府側が間断なくおこなっている宣伝の成果であるとは思えない大衆というのは、どの人老苦力であるかということが、日本人西郷をいまなお愛しつづけているように、感覚でわかるのである”、とお書きになられています。

(※この注も12月)(※俺がということを外して現在の事情理解することはできない)

で、その前のページに、これアジア的"聖人"の定義かもしれませんが、“苦力の生活は、人間以下のものであった。仕事はつらく賃銀(金ではない)やっと生きられる程度しかもらえず、明日に希望がなく、国の政治に何の期待ももてないそういう状況の中で、苦力聖者をつくるのである。心がやさしく聡明老苦力をえらびその老苦力の仕事をみなで分担し、老苦力をひとり遊ばせておき、遊ばせておくことに集団の重大な意味たがいに感じあうのである。重大な意味とはどういうものかということになると、私もうまく説明できない。”とあり、ま、筆者の司馬さんがうまく説明できないものを俺が説明できなくても何の問題も()。が、なら司馬さんが説明できない理由は「何故なら本当のことが言えないから」だと思いますが、これ、明らかに、違う何かの話、俺が言う…いや、これ、人間、みんなですね、何故にこの人の世に王権ができたのか?の一番正しい見方なのかも。そして今も残る王権の実態(※ただ、檀君神話の流れで考えて、王権の実態は、大統領、かもしれませんね。商王大統領。で、禹も網膜。これ◆もう‐まく網膜】マウ‥眼球壁の最内層。多数の視細胞が並び、これに視神経線維が分布。細胞光の刺激を受け変化を起こし、これが大脳皮質に伝わって視覚となる。視細胞には杆体(かんたい)細胞と錐体(すいたい)細胞とがあり、錐体細胞網膜の中央に多く集まって最も鋭敏に光を感じる黄斑(おうはん)を作る。神経が入ってくる部分には細胞がなくこの部分では見えないので、盲点または盲斑という。[広辞苑第六版より]

(※司馬さんからこの世界は君のものだ言われましたが、あきらかに意味合いは“アパートの管理人でしたけどね。これだな◆cáretàker公共施設・家屋などの》管理人,差配人;世話人,後見人[リーダーズ英和辞典第2版より])ま、だから老苦力俺が書いてるでくのぼう”とは何となくイメージが一致し、やめときゃいいのに現実政治に口を出し案の定中国社会に大打撃を、持っていけますが、“毛沢東の主導によるプロレタリア文化大革命は、後世の歴史家から紀元前の秦の始皇帝焚書坑儒以上の政治悪としてあつかわれてゆくにちがいない。イデオロギーというものは、まず国内の人間を選別して「を創作し、その者を殺すか、痛めつけるか、屈辱をあたえつづけることからはじめるもののようである。”おっちょこちょい魔王この二つは、まったく質が違い、だから、こう一方で、“中国人は毛沢東氏の出現を聖人出ヅと受けとっている大衆というのはどの人が老苦力であるかということが、感覚でわかるのである”、みたいなことを書きつつ、“毛沢東の主導によるプロレタリア文化大革命は、後世の歴史家から紀元前の秦の始皇帝の焚書坑儒以上の政治悪としてあつかわれてゆくにちがいない。”本音と建て前油断したところに?快心の一撃司馬さん大人だ甘くないぜ、みたいな(※頑張って読んで下さい()これこのままなら焚書坑儒以上の政治悪としてあつかわれてしまう)。しかし]

劉少奇。中国の政治家。モスクワに留学し、1921中国共産党に入党労働運動を中心に革命運動を指導人民共和国成立後国家副主席59首席文化大革命で批判され党籍剥奪一切の公職から追われた。 (18981969)。◆59毛沢東辞任に伴い国家主席に就任65国防委員会主席となった。社会主義建設について重工業優先技術優先エリート尊重などの考え方は次第に毛沢東と対立するにいたり、66年からの文化大革命で「資本主義の道を歩む党内最大の実権派」「中国のフルシチョフ」として徹底的な批判を受け6810月の8十二中全会正式に党から除名され、党内外のすべての公職を解任された。69年監獄につながれ、失意のうちに病死8031日五中全会で名誉回復。で。

司馬さんは「草原の記の中で"毛沢東のあとを承けて国家主席になった劉少奇"表現されています。

【一】①受けて、それをいただく、従い守る②受けつぐひきつぐ③次第④たすけるふせぐ、【二】とどめる。また、こりる [※そう毛沢東路線を受け継いだ劉少奇さん][※李承晩さん



[※まず、みなさん捨身です。で、97(ページ)213司馬さんが“亡くなられた”のは96212]、“大兄もよきおとしを(ちょっと早目ですが。)”重要です。あ、そうそう、“ちょっと早目ですが。”福島さんからの手紙の方が司馬さんの返信より日付けが1日後(日本時間でしょう、そりゃ)

2年前に昭和天皇が"亡くなられて"いるわけですが。でですね、これ、〈十行ほど減らした〉〈このことばをよく知っていたのでしょう「新」〉と、何でかおれが〈〉を付け加えた上で、ですけど(笑)。20200731。

まず"一行十五字だったのが、一月から一行十四文字になる予定です"

十四文字で分離して①又々うつくしいワープロをよご②しました。こんどはちょっと長③かったので、<十行ほど減らし④た>のです。かえって、ひきし⑤まったと思います。新年らしく⑥、苟日新日日新又日新というこ⑦とばを、読者に送りたかったの⑧です。私の家の近所に、大正時⑨代の私立商業校(いまは市立高⑩校)である日新高校があります⑪。又、神戸新聞の前身の一つが⑫、又新日報でした。むかしの人⑬は、<このことばをよく知って⑭いたのでしょう「新」>解字す⑮ると、木と斤から成りますが、⑯辛という字をつけることで、音⑰を決めています。だから、辛や⑱斤木よりも、新らしい文字でし⑲ょう。これで、小生もぶじ新年⑳をむかえられます。大兄も、よ㉑きおとしを。(ちょっと、早目㉒ですが。)十二月十三日司馬生㉓福島靖夫様

で、それを今度は後ろから10行採り

いたのでしょ「新」>解字す⑮ると、木と斤から成りますが、⑯辛とい字をつけることで、音⑰を決めています。だから、辛や⑱斤木より、新らしい文字でし⑲ょ。これで、小生ぶじ新年⑳をむかえられます。大兄、よ㉑きとしを。(ちょっと、早目㉒ですが。)十二月十三日司馬生㉓福島靖夫様

う、う、も、う、も、も、お、もうもおうもう、毛も王莽。そして日本語読みshin、これがなので、新も当然shin、そして中国最後の王朝清shin。つまり毛沢東は漢王朝を簒奪した王莽のように清王朝の皇位を簒奪した男

これ、おうもう、この文字を抜き出せば、こういう文章になるな、で(意志の勝利・笑)。20200731。

[※清王朝の簒奪、“最終的”にという意味で捉えてください。そして商王辛昭和天皇という考えがまだないころです]

が、これは中国の方ならもうわかられてるのでしょうが…。

王莽前漢末の簒立(さんりつ)。字は巨君。元帝の皇后の弟の子。儒教政治を標榜して人心を掌握、平帝を毒殺し、幼児嬰を立て、自ら摂皇帝の位に就く。ついで真皇帝と称し、国を奪って新と号した。その政策に反対する反乱軍に敗死し、後漢が復興した。(在位823)(45~後23)

王蒙(1934)現代中国の作家1956年、共産党が学術・文芸・芸術の一定範囲内での自由を保障するスローガン(百家争鳴・百花斉放)を掲げたのに応え、文芸界では(現実関与の文学)が合言葉となり、王蒙は官僚主義批判の短編(組織部に新しく来た青年)を発表して注目された。しかし翌年毛沢東が反右派闘争の発動を支持したため、一転して反革命分子として失脚文化大革命終了後、復活して(胡蝶・1980)など不条理な政治に翻弄される高級幹部の内面を意識の流れの手法で描いて注目された。のちに文化部長(日本の大臣に相当)となるが、(血の日曜日)事件(天安門事件)後辞任。

王蒙(12981385)元末の文人画家、浙江省の出身で、明の太祖(朱元璋)のとき謀反事件で無実の罪を着せられ獄死した。元末四大家と称された。つまり、★"(おそらく)も王蒙"

[※あと、これも確信をもっていいますが、王莽さん捨身です、確実に。(45~後23)46から一つずれ二分の一、と言う気は、ないことはないです]

で、明の太祖(朱元璋)、これは洪武帝のことです。つまり、陳舜臣さんの「中国の歴史()」、"洪武帝李善長から、漢の高祖劉邦に学べと教えられそのとおりにした形跡があります。前にもすこしふれましたが、彼の劉邦学習徹底しすぎて、そのをはるかに越えたのです。趙翼は、を学び過ぐること甚だしき者なり。と評していますが、まさにそのとおりでした。""劉邦はたしかに功臣を粛清しましたが、いわれのない誅殺といえるのは韓信と彭越の二人だけです。欒布(らんぷ)はっきりと反旗をひるがえしたので誅殺されたのです。盧綰(ろわん)韓王信も、謀反に追いこまれた形ですが、まったくの無実ではありませんでした。劉邦挙兵のときから行動を共にした同志に、危害を加えようとしたことはないのです。蕭何(しょうか)曹参などの(はい)の同郷人はもとより、途中で参加した張良なども最後まで健在でした。ところが洪武帝ほとんどみな殺しいってよいありさまだったのです。おなじ庶民出身なのに、劉邦洪武帝はどこがちがうのでしょうか?""劉邦朱元璋(洪武帝)をくらべると、どうしても性格のちがい[※正確いれていいですか?]というしかありません。劉邦の功臣粛清は、呂后が積極的にやっています。朱元璋の場合は、まだしも馬皇后のほうがひきとめ役をつとめているのです。趙翼もやはり天性のちがいであろうと結論しています。"皇帝の地位ひとり高くそびえるものになりました。誰にも権勢を渡すまいとする、洪武帝のすさまじい執念には、鬼気迫るものがあったのです。"の洪武帝。で、ここまで書いてこの劉邦とは毛沢東さんのことだと確信しました。"いわれのない誅殺といえるのは韓信と彭越の二人"。当然、劉少奇さん、ちゃんと文革のことを知らないので、あとどれほどの方がいるのかわかりません。[※当然、相も変わらずぼんやりしてます。"いわれのない誅殺"をしたのはだから劉邦ではないとか。毛が劉邦なら洪武帝は誰だ?等、興味はあるが、現在知らん、わからん、このままで。ただ現実の洪武帝朱元璋さん王莽さんと同じ捨身だと思います、確実]で、おそらく読み返せばその中にも多くのカケラが含まれているのでしょうが、司馬さんのと劉邦(新聞連載時の題"漢の風の雨")は、おそらく毛沢東さんへのオマージュなのだな、と。

もちろん、劉邦毛沢東さん項羽蒋介石さん、というわけではなく(というほど蒋介石さんのことを現在しりません)[※ただ蒋介石さん商介石さんかな?という気はします]

が、ですね、陳さんの秘本三国志」。これ、途中から劉備呂布におわれ曹操のもとに身を寄せるようになってから、だったか、やたら各陣営同士の密約多くなるんです、もう談合小説と呼びたいくらいに、最初曹操劉備に「何としてもこの乱世を終わらせねばならん、しかし現在、この中国大陸にはあまりにも群雄が多すぎる、だから二人で組んで、その群雄を潰していこう」みたいに持ちかけ、それで劉備がある種エージェントとして袁紹のもとにいき、うまい具合に袁紹陣営をかく乱し、みたいな。読んでるときもちょっとこれは無理では?と思ってましたが、もちろん、劉備が働けば働くほど曹操の力が巨大になる、劉備曹操のたんなるエージェントで終わる気はまったくなく、この密約はすぐに破たんします。
その後談合はひんぱんにおこなわれます、ただ、その理由のすべて"民を苦しめないため"

[※◆エージェントagent】①代理店。代理人。仲介業者。②秘密情報組織の協力者。諜報員。(広辞苑第六版より)]

陳さんは、小説ではなく歴史書の「中国の歴史」の中で、当時の史書を紹介し、"漢書』の「地理志」によると、前漢の時代平帝元始二年(西暦2年)の中国全土の人口は、五千九百五十九万余"で、前漢滅亡時の戦乱(王莽の時代)を経たせいでしょう、"後漢初代皇帝光武帝が死んだ建武中元二年(西暦57年の人口二千百万余と激減"しかし、"後漢第質帝の死んだ本初元年(西暦146年)には、それが四千七百五十六万余まで回復"しかし、それから約140年後晋が天下統一した呉の滅亡、呉"四代皇帝孫皓が晋に版図を献じたとき、戸数五十二万、男女人口二百三十万であった"といわれているそうです、ちなみに晋は"人口五百五十万"、つまり中国全土の人口が八百万そこそこだった、4756万余の人口140年後に800万そこそこまで激減、『三国の乱世は(略)けっして光彩陸離たる時代ではありません。獣性この世を支配し、光のとぼしい、絶望の時代だったのです』と。

この秘本三国志の中では"人があまりにも死にすぎた""民を苦しめないため"に、英雄たちが談合しまくります、孔明北伐前の足固めのため南征しますが、これ孟獲とのやらせ、でした、孟獲事前に孔明打ち合わせわざと七回捕虜になるという醜態を演じて見せます、そのことによって戦乱の拡大被害をおさえようとします、時期はかなりさかのぼりますが、同じようなことが袁紹陣営滅ぼしたあと曹操の北伐でもあります、だれでしたか、どうあがいても曹操にはかなわないしかし自分の部下(部族)はその力の差を理解できないだから自分が曹操に派手に負け(できるだけ犠牲がでない様)死ぬことによって力の差を理解させよう、ただし、自分が死んだ後の我が部下たちの処遇は必ず考えてくれ民が安心して暮らせる平和な世をつくってくれ、みたいな。そして、孔明の北伐これ司馬懿との間で"ひきわけ勝負無し"事前にとりきめられます、とうぜん、それはさすがに無理ないだろう?、と、読んで思いました、が、20世紀という人が人を一番殺した時代を生きてきた陳さんは人の死を書きたくなかったんだろうな、とも、思っていました。もちろん、ここから導き出される結論は、あまりにも荒唐無稽ですが[※今となってはそうでもないですが()]自分の現状も含めて考えると、司馬さんがお書きになった、"アジアの共産主義というのは、アジアの社会がはるかな過去から背負いこんでいる泥の中からひょいと足抜けをするための最も簡単な方法だということは、つねに忘れずにおきたいと思っている。"という言葉意味わかりかけてきた気がします

[※◆談合】(ダンコウとも)①話し合うこと。談じ合うこと。相談。②談合行為のこと。◆だん‐こう【断交】‥カウ交際をたつこと。特に、国交をたつこと。「経済―」(広辞苑第六版より)]

あと、陳さんの「中国の歴史()」は、王莽の漢簒奪までですが、最初"大統一時代"という章で、秦の始皇帝天下統一の時代から始まります。で、記憶だよりなのですが、天安門事件のあと東欧の民主化が進む中(正直まったく詳しくないのですが、民族紛争はまだはっきりと形になっていないころでしたか)鄧小平さんが、"共産中国が存在する限り世界の人口の五分の一は共産主義者""魔術的"国家中国の面目躍如な発言されたような気がします。当時そう思いましたこれ"共産中国が存在する限り世界の人口の五分の一は人食いに屈していない"という、毛沢東さん劉少奇さん、もしかしたら蒋介石さんも、の""の同志(当然、もっと多くの)としての気概だったんだろうなと、、すこし思います

"劉邦朱元璋(洪武帝)くらべると、どうしても性格のちがいというしかありません。劉邦の功臣粛清は、呂后積極的にやっています。朱元璋の場合は、まだしも馬皇后のほうがひきとめ役つとめているのです。趙翼もやはり天性のちがいであろうと結論しています。"

で、毛沢東さんを劉邦になぞらえると、当然、江青さんが呂后ということになります。ああ、やっぱりそうなのだな、と納得できますが、「草原の記」からのピンポイント抜出"夫妻とも生命があぶないという客観的状態存在したようであった"(これは文章としては文革暴力の渦に巻き込まれたツェベクマさん夫妻のこと)、から連想しなくても、どうも、そうではない、江青さんも被害者なのだ、と、司馬さんはお書きになられています(もちろん、組み合わせで)[※ツェベクマさん。一言で言えば、70年代中盤司馬さんが街道をゆくモンゴルを訪れたときに、通訳として知り合ったモンゴルの女性]

江青(jiang qing)中国の政治家。本名、李進。山東諸城の人。1930年代上海の新劇界で活躍39毛沢東と結婚文化大革命で台頭76年、毛沢東の死後逮捕され、無期懲役で服役中自殺(19141991)

[※◆理も非もない事を進めるのに精一杯で、道理を考える余裕がない(広辞苑第六版より)]

そんなに弱い方たちではない。20201222。

江青[こうせい](Jiang Qing)19143山東諸城生まれ1991514日没 中国の政治家毛沢東夫人。本名李進、号は雲鶴、旧名李青雲1930年代に藍蘋の芸名上海演劇映画界に活躍し、革命的演劇を通じて政治に関心をもち、中国共産党に入党38延安のマルクス・レーニン学院に入学39毛沢東と結婚江青と改名4910月中ソ友好協会理事。50年文化省映画事業指導会委員。62スカルノ訪中の際初めて毛夫人として公式の席に出席64年第3回全国人民代表大会山東省代表。この頃演劇映画を中心とする文化芸術活動の調査を進め、張春橋姚文元らと協力して京劇改革の指導をし、文化芸術戦線から文化大革命の指導的地位に進んだ。662林彪委託され解放軍部隊で文芸座談会を開き「綱要」を発表。同年8月中央文革小組第一副組長。同8紅衛兵大集会を司会。陳伯達らとともに紅衛兵指導にあたった。674解放軍文革小組顧問694月九全大会で中央政治局委員に選ばれた。極左路線を推進するうち、7610月、故毛沢東の方針政策を改竄し歪曲したうえ党主席の地位をねらったとの理由で張春橋王洪文姚文元とともに逮捕され、「四人組集団一人として777十期三中全会党籍を永久に剥奪され、党内外のすべての職務を解任された。「林彪江青集団」裁判で811月死刑判決(執行猶予2)を受け、服役中自ら命を絶った
[※反革、日本語発音Han-Kaku反核・集団]

四人組(si-ren zu)文革派上海グループとも呼ばれる。中国の文化大革命(196576)実質的に指導したとされる上海を基盤とする左派的な権力集団19668中国共産党中央文化革命小組第一副長に就任した江青・毛沢東夫人を中心に王洪文党副主席張春橋党政治局常務委員兼副首相姚文元政治局委員らは、毛の命を奉じると称して文革を推進反対派を次々に失脚させ追放した。しかし毛の没後わずかに1ヵ月7610江青ら4を含む多数の幹部が、毛の命令を偽造クーデターを企てたとして逮捕された。

藤原仲麻呂さんもその様な失脚理由でしたか?20201222。

ちなみに司馬さんは「草原の記の中で文化大革命のことを、"ほどなく中国にプロレタリア文化大革命とよばれるえたいの知れぬ政治的暴風吹き荒れることになる。毛沢東という創業の英雄が、祭りあげられたあと、退隠して牛を飼うことをせず、かつての仲間つくりあげつつあった現実主義的政権を不満としこれを倒すべく千万といわれる少年少女を使嗾(そう)した。"と書かれています、つまり政治的暴風のえたいはかつての仲間に嫉妬した毛沢東氏である知れているので、この文章少し妙です。
[※そうしそう][※うそ、もちろん毛沢東さんに]

えたい(一説に「為体(ていたらく)」の音読イタイの転。「得体」とも書く)正体(しょうたい)本性(ほんしょう)/ほんとうの姿や性質。実体正体[※禹よ痛いし][※禹よ真ホシ大帝いた撃とう]
[※大帝革韋听121歳日本時間本日2015/01/13 12:11:11病死中国山東省安冀2--11]

使嗾・しそう(「嗾」は、そそのかす意)指図してそそのかすこと。けしかけること。◆嗾①犬をけしかけて相手にむかわせるそそのかすおだてる扇動する[※()][※阻止][※禹中の話気にしない]

江青1930年代に藍蘋芸名上海演劇映画界活躍し、革命的演劇を通じて政治に関心をもち、中国共産党に入党38年延安のマルクス・レーニン学院に入学39毛沢東と結婚4910中ソ友好協会理事50文化省映画事業指導会委員64第3回全国人民代表大会山東省代表この頃演劇、映画を中心とする文化芸術活動の調査を進め張春橋姚文元らと協力して京劇改革の指導をし、文化芸術戦線から文化大革命の指導的地位に進んだ。

百花斉放(せいほう)百家争鳴195657年初頭、中国共産党が提唱した学問思想文化芸術など<各分野における自由な発言を奨励した運動。
5652毛沢東最高国務会議で、共産党民主諸党派との「長期共存相互監督」を提唱
(1)学術の発展のための自由な討論創作批評意見の発表の自由の保障
(2)文化芸術と政治を同一視する偏向の排除
(3)思想問題を行政命令式に解決することの回避などを主張した。
9月の八全大会においても劉少奇副主席政治報告のなかで、科学と芸術の発展のためには、「百花斉放百家争鳴の方針によって自由に論議し合い自由に競い合うことが必要であり、行政上の命令によって指導を行うべきではないと述べた。毛沢東も57227日の最高国務会議における講演人民内部の矛盾を正しく処理する問題についてのなかこの方針に触れており、312日の全国宣伝工作会議における講話でも、「大胆に発言し、批判し、論争し、まちがった議論を恐れず毒素を含んだものを恐れず相互の論争と批判を活発にすること」を強調

[※でですね、民主諸党派。中国国内の方には逆に分かりづらいかもしれませんが、中国は共産党独裁、これは悪い意味ではないです、党として存在するのは共産党のみ、そういう印象が国外では強いかもしれません。知られていない]

で、ここで、すこし離れ、「草原の記」のツェベクマさんの話にうつります。ツェベクマさんは、"シベリアのバイカル湖の近くブリヤート・モンゴルの村にうまれ""幼児ロシア革命の余波を経験""両親につれられて「満州」のホロンバイル草原にのがれ満州事変の砲声を遠くで""その後も「満州国」の西辺住みつづけた""やがて、日本満州支配瓦解(かい)""その後、草原にやってきた中国共産党の世青春をすごしよき連れ合いを得伊敏(イミン)川のほとりで一児をもうけた""まことに半生は数奇だった"うまれたときロシア国籍で、ついで満州国籍なり、らに中国国籍転じさせられた"。そしてツェベクマさん夫妻文化大革命政治的暴風巻き込まれ"紅衛兵運動といわれるこの政治的狂気は、孔子などの古典的権威ひきずりおろす一方、九世紀末の義和団のように国内の親外国分子迫撃し、少数民族としてのツェベクマさん(つら)くした。

[※俺は満州国も当時の現実の中での緊急避難的存在だったと思います。戦闘(先頭)溥儀さん宣統含めすべてsentou][※応援燕王][※で、危機政変人食い支配の瓦解開始][※辛楽した溥儀楽した][※辛らしく溥儀らしく悟りの畔で生きた][※燕王円王商王]

ついにはその拉致(らち)されるはめになった。その後ツェベクマさんは、中国を去る幼女の手をひきモンゴル人だけの国(外蒙古(そとモンゴル)モンゴル人民共和国)をめざすことになるのだが、私はこの身の上ばなしを彼女からきいた一九七三年の八月、彼女が馬上幼女を抱いてゴビ砂漠(さばく)を越えた、というイメージ勝手につくった実際は散文的で、汽車を乗りついでのことでたらしい。「ツェベクマさんは、に騎()ることができますか」「あたりまえでしょ」そんなやりとりのあとだったために、単騎ゴビ砂漠を越える彼女を想像した。新潟からシベリアの岸まで泳ぐようなものだろう。”

[※これは俺がイメージを勝手に作り上げますが、◆えた/ほんとうの姿や性質。実体。正体、を持ち出すのは失礼だと思いますが、この司馬さんによるツェベクマさんの話の中にでてくる、伊敏(イミン)川、砂漠(さばく)やはり(※まず頑張って読んで下さいこの注12。ついでに紀元前973年汽車あったらしい)

移民(イミン)①凶作のとき困った人を救済する方法で、の地の住民他の地方に移し、その地の穀物を凶作の地にって老人子供救うこと。②人口の多い土地の人民人口の少ない土地に移すこと。[※間引き民意]③[]労働に従事し生活するために外国に移住する人々。

遺民(イミン)①生き残っている人民。②ほろんだ国の人民で、新しい朝廷仕えない人亡国の民

拉致(らち)されるはめになった。[※がちつれさられる][※目には目歯には歯]

不ㇾ可ㇾ諱(いむべからず)死ぬこと。死は人のいみさけることができないものであるからいう。(戦国策、)[※もちろん北朝鮮被害者である拉致問題の真実のことだとおもいますが、まだぼんやりです]

拉致被害者、家族全員死刑つうことで。そーいえば、被爆二世、三世、四世、ン世、優生保護法(連合国占領下の日本、そんなファッショ極まる問題法案GHQは何考えて通したの?押し付けられたんじゃない?日本国憲法同様・笑)、楽して金盗ろうと必死だね。処刑されるまで真っ当に働けゴミ。つうてもそんな(同文)。(8月 05, 2018)

ツェベクマさんご夫妻のお子さんのお名前はイミナ

】17画[言]部[音];キ[意]いみな/いむ[パーソナル版漢字辞典より]◆【忌む】禁忌だから決して口にしてはならぬ、触れてはならぬなどとして、避ける[広辞苑第六版より]

[※犬ら離してはならぬ][※意味ないいない]
[※いては花ならぬいらぬ][※決して忘れてはならぬ][※果てしき無]

サバク(SAVAK)イランの治安機構1957年、ムハンマド・レザー・シャーの命令で設立されたイランの秘密警察。イラン国内における国王の政策に対する批判反対過度の取り締まりをした。この機構はヨーロッパにおけるイラン人留学生をも監視し、イランでは多数政治犯逮捕投獄したため、イラン革命で解体され責任者は革命法廷で処刑された。[※日本語でサバクと書くと、砂漠裁く、もありますが、佐幕(「」は助ける意)幕末、尊王攘夷・討幕反対して幕府の政策を是認し、これを助けたこと。「―派」the supporters of the Shogunthe Shogunate party.印象としては反動派ですが、だから新撰組

とっこう【特高】「特別高等警察」の略。もと,政治・社会運動をとりしまった警察組織。  
とっこう【篤厚{名詞}{形容動詞}{文章語}人情にあつく誠実なこと。
とっこう【徳行{文章語}道徳にかなった行い{類義語}善行。virtuous conduct
とっこう【篤行{文章語}まごころのこもった行い{類義語}徳行。善行。[パーソナル現代国語辞典より]
[※暴く][※特高魂をとりしまる警察][※目には死を]
[]労働に従事し生活するために外国に移住する人々

ここは実は人類はずっと以前からすでにひとつで、お願いします。

でですね、俺はツェベクマさんご夫妻のお話を、夫妻の歴史を、現実にこの方だ、という方の人生を、例によって、これ誰々の何々で、と、書きます。それは、これらを踏まえての事。捨身真実を伝えようとそうされた。そしてそれ確かにツェベクマさんご夫妻の身に起ったことであり、そしてまた同時代だけではなく多くの人の身に起ったことでもあるという象徴性も含まれる俺はそう理解して書いています。



例えばですが、この199ページ

江青1930年代に藍蘋の芸名で上海演劇映画界に活躍し、革命的演劇を通じて政治に関心をもち、中国共産党に入党。38年延安のマルクス・レーニン学院に入学39毛沢東と結婚

そういう目的によって中国は黒竜江省のチチハル(斉斉哈爾)軍事政治大学という臨時の教育機関をつくったブルンサインもツェベクマさんもここに二ヶ年学ばれた。「たがいに好意をもちあっているということは十分わかっていましたが」と、ツェベクマさんはいう。まだ前途を言いかわすまでにはいたっていなかったらしい。ツェベクマさんは、右の臨時学校を出たあと、中国の統一のつよまりつつあったハイラルにもどり新中国のもとでの小学校の先生になった彼女がおどろいたのは、ブルンサイン青年が、ハイラルの中学校に赴任してきたことである。「私のために来たらしいですよ」と、ツェベクマさんは言い乾いた笑い声をたてたソ連圏うまれたせいか、(女はロシア人が冗談を言うときの表情になる。)”

俺は、これはブルンサインさんツェベクマさんご夫妻のなれそめの話であり、毛沢東さんと江青さんのなれそめ(かどうかはわかりませんが)の話だとしか思えません。「ああ、なるほど、毛沢東さんは江青さん会いたさにマルクス・レーニン学院にしょっちゅう顔出されていたのか」と。それに、お生まれはわかりませんが、江青さん女優として活躍された上海は当時日本の文化の影響が強い場所だったと思います。そしてこれ司馬さんが直接江青さんからお聞きになったこと、そして“イミナは、ハイラルでうまれたモンゴル人は、父の名前を姓とするから、この少女は正しくは、「ブルンサインイミン[すいません]呼ばれるようになった。ついでながら、イミナは、イミン愛称付きのよび方である。”

つまり忌み名ではない

無理あるかな?ご夫妻でV()Library of Congress,Washington,,D.C.(neg.no.LC-USZ62-126856)

これも、Washingtonwa shing tong◆tong1—n 《中国の》党協会結社在米中国人の秘密結社《俗》 学生社交クラブハウス.[Chin](リーダーズ英和辞典第2版より)
秘密結社、ここ流しますよ、もうあらゆる秘密結社(に限らないけど)禹の外郭団体(という言い方でいいのかわからないけど)ですから。和新党()新党()

chieftain山賊などの首領頭目Highland clanなどの首長族長リーダー《詩》 指揮官.
Il Duceイル・ドゥーチェ《ファシスト党首 Mussolini の称号
führer, fueh- /—n 指導者; [der F‐, the F‐] 総統Adolf Hitler称号; cf. IL DUCE独裁者.
gránd máster[G‐ M‐] 騎士団の団長Freemasons本部長《政治結社 Orangemen首領;
◆gránd wízard[OG‐ W‐] 《秘密結社 Ku Klux Klan首領総統.
jefe /—n 南西部》 首領指導者スペイン語圏諸国の[政界]指導者.
leader /—n英国の政党の党首総務幹事; LEADER OF THE HOUSE; 総統首領,
chíefly—adv 主としてもっぱら (mainly); 概して多く() (mostly); 特になかんずく.
patriarch /—n1a 家長族長長老古老 (cf. MATRIARCH).b [pl] 【聖】 族長1)イスラエル人の祖としての Abraham, Isaac, Jacobおよび彼らの祖先 2) イスラエル12支族の祖としてのJacob12 人の子たち.c 大祖 (antediluvian patriarchs) AdamからNoahまでの人類の祖.
《教団・学派などの》創始者開祖鼻祖.3a 【カト】 ローマ教皇総大司教.
【キ教】 総主教世紀以後 ConstantinopleAlexandriaAntiochJerusalemRome の大主教のち Rome は教皇と呼ぶようになった現在 東方正教会ではロシア・ルーマニア・セルビアなどの主教も指すまたコプト・アルメニア・シリア教会などの総主教.c モルモン教会】 ()祝福師.
(リーダーズ英和辞典第2版より)

でですね、“中国としては、もし外と内のモンゴル独立すれば、広大な領土をうしなう上に、モンゴル人民共和国ソ連つよい影響下にあったため、ソ連の版図が、大きく中国に食いこむことにもなる。もしそんなことになれば中国の青海省や新疆(しんきょう)、あるいは西蔵(チベット)にいる諸民族もだまっていなくなる。ついには、漢民族王朝だった(ミン)王朝版図にまでもどらざるをえないウランフーはこまったのではないか。中国ゆるすはずもなかった。”

今、違う観点で考えれば、版図ハント

hunt /hʌˊnt/—vt, vi1a 狩る狩猟する遊猟する《特に》狐狩りをする《米では獣にも鳥にも用いるが英では鳥には shoot を用いる》〈馬・猟犬を〉狐狩りに使う獲物のいる場所を〉狩り立てる.
hunt for deer.hunt big game 《ライオンなどの》大物狩りをする.hunt ivory
《象牙を得るために》象狩りをする.hunt heads 首狩りをする.go (out) hunting 狩りに出かける.
追跡する追い払うaway, out; 迫害する悩ます.(リーダーズ英和辞典第2版より)

ソ聯(ソ連ではなく)hunt大きく中国に食いこむことにもなる”もあれば、漢民族ソ連の名前は捨身として忘れてください、「このままではせっかく築き上げた我が人食いの”天下(4千年)が瓦解してしまう」。かれ今の中国の政治は文化を劃一化(かくいつか)しようとするものだ”の“怪しいし。

が、ここ矛盾(そういえば、読んだことはないのですが毛沢東さん矛盾論ありましたね。というかあの「人民内部の」、がそうなのか?)も気にせず、とりあえず現実の国境紛争などに関しては、103ページからの、20世紀初頭の話ですが、“当時の帝政ロシア中国に遠慮をし、結局、外モンゴルの範囲内で自治だけを支援することにした。ロシアはさらに中国と交渉し、キャフタ協定(一九一五年)をむすんだこの協定が、今のモンゴル人民共和国の版図の上での原形になっており、モンゴル側にもべつだんの不服はなさそうである。”、結局のところ真実なのだろうな、でもちろん、人類自決(self‐determination)当たり前前提で。

2014/03/09 18:00
"毛沢東の中国できあがるのは、日本の敗戦から四年後の一九四九年である。その直後に、毛沢東の中国ソ連との友好同盟条約を結んだ、しかし両国の関係ほどなく(きし)んだ。やがて断絶同然になり、一九五六年前後、毛沢東は、ソ連式の社会主義建設縁を切って、②中国独自の路線をうち出した。独自の路線とはいえ、⑤それに見合う具体案などはなかった。とりあえず既存の村落をそのまま「人民公社」にすることと、生産を励まして③「大躍進させることが、毛沢東路線というものになった。いずれも蹉跌(さてつ)してしまう。ともかく①毛沢東は、その④前に、新路線がどうあるべきか⑥のヒントを得るために、「⑦百家争鳴という大運動をおこさせた。⑧政府主導で展開された。百花斉放(せいほう)・百家争鳴という対句(ついく)が連呼されるなかで、運動ツェベクマさんらの住む辺疆のフフホトにまでおよんだ

[※日本では漢文を読むとき読み下し文という伝統が]

あくまでもという頂上からの運動で、最高責任者毛沢東の意をうけた党幹部の宣伝部長陸定一(ていいつ)だった。要するに共産党のために知恵を出せということであった。これより前、中国共産党さまざまな思想ブルジョワ思想として痛烈に批判した。このため中国の学術芸術文芸界は、萎靡(いび)しきってしまい、たれもがに面従するだけで日をすごしていた。党は、その空気打破しようとした。"

百花斉放(せいほう)百家争鳴195657年初頭、中国共産党が提唱した学問思想文化芸術など<各分野における自由な発言を奨励した運動。
5652毛沢東最高国務会議で、共産党民主諸党派との「長期共存相互監督」を提唱
(1)学術の発展のための自由な討論創作批評意見の発表の自由の保障
(2)文化芸術と政治を同一視する偏向の排除
(3)思想問題を行政命令式に解決することの回避などを主張した。
9月の八全大会においても劉少奇副主席政治報告のなかで、科学と芸術の発展のためには、「百花斉放百家争鳴の方針によって自由に論議し合い自由に競い合うことが必要であり、行政上の命令によって指導を行うべきではないと述べた。毛沢東も()大胆に発言し、批判し、論争し、まちがった議論を恐れず毒素を含んだものを恐れず相互の論争批判を活発にすること」を強調

"なんでも言えめいめいが考えを出せ」というのがこの運動だったが、党としては積極的な社会主義建設に役立たせるための意見百出運動のつもりであって、党支配の一線を逸脱することをゆるすつもりはなかった。が、初動期、党は限定を設けなかったために、ひとびとはこれを「自由化」と錯覚し、各地や各分野で争鳴したほとんどが批判し、おだやかな場合でも苦情や陳情をくりかえしたあわてたを消さねばならなかった。ほどなく百家争鳴運動をひっこめかわって右派闘争というあたらしいスローガンを出し、さき争鳴した百家ども弾圧した。見様によっては、言わせておいて右派をあぶり出し、こんどはその連中を大衆」に摘発させ、排除させたということになる。"[※非無かった][※反禹派闘争]

"百家争鳴のとき、フフホトの内蒙古大学の教授だったブルンサインは、ひときわ争鳴した。かれはいまの中国の政治は文化をかく劃一化(かくいつか)しようとするものだ、とはげしく述べた。「モンゴル民族民族固有の文化ある言語服装文学その他漢民族はちがうのです。文化大切にせねば民族ほろんでしまいます」翌年、かれは「右派」として槍玉(やりだま)にあげられた。ついでながら、ブルンサイン党員ではなかったツェベクマさんそうで、二人とも党員になろうとも思わなかったこのことも、かれ不利にしたすでに故人になっているブルンサインの父、以前、内蒙古で郡長程度の役についていたことも、わるい材料だった。またかれが、モンゴル文学学生に教えることに熱心だったことも失点にあげられた。さらにはまた「外蒙古」といわれるモンゴル人民共和国から二人の学者をよんで講義させたことも、「罪状」の一つにされた。"

で、話を戻し、あくまで、俺の考えですが、"ブルンサインは、ひときわ争鳴した"これ毛沢東さんに対してだと思います。あるいは、"たれもが党に面従するだけで日をすごしていた党はその空気打破しようとした"、の"打破しようとした"""に対してでもいいです、"毛沢東の意をうけた党幹部の宣伝部長陸定一(ていいつ)だった"ここにもかかると思います。

[※打破しようとした毛沢東さん共産党への共鳴ですね、共振]

で、"あくまでも、党という頂上からの運動"これはこれで秘密結社な感じもしてまいますが、で、ぽんとそれだけおくのもなんですが、「94国民はつらいよ」、"つきつめれば、改革すべきは選挙民だとおもいます(前後の文脈を無視)"そして"アジアの後進地帯""現実主義"、は、忘れてはいけないと思います、ただ、日本の現状を考えると、日本が"アジアの先進地帯"であった、とは残念ながら俺には言えません。で、"面従するだけで日をすごしていた"面従対象もちろん"アジアの社会がはるかな過去から背負いこんでいる泥"。そして、毛沢東さん江青さん二人ともこの""の党員ではなかった。二人とも党員になろうとも思わなかったこのこともかれ()を不利にした。ということだとおもいます、あくまで打破しようとした。ただ、どこでしたか司馬さん福田定一さんがお書きになられていた"悪魔は顕在化して語られるべきであった"と思います

["決定的にわるかったのは、(ブルンサインさん)日本で教育をうけて、日本語が達者だったということである。集会で吊(つる)しあげられ壁新聞で攻撃され毎日が碾臼(ひきうす)でひかれるようにさいなまれたツェベクマさんという人がこういう状態に耐えられるはずがなかった彼女は何事にも意見をもっていたし、しかも即座にナイフをきらめかすように切りかえすことができた。そういう彼女でも耐えたなにかいえば殺されるかもしれないという恐怖があった。ある夜、「日本語を覚えたことでどうしてこんなひどい目に遭うのか」と、独りで叫び身の不運をのろったこともあったらしい。ついには、身辺に危機を感ずるようになった彼女ここで打ちひしがれればよかったしかし彼女の性格のしくみは、絶望という休眠の機能をもっていないようで、川の岩を跳びながら渉(わた)るように、つぎの岩にむかって身をひるがえすひとであった。私的にいえば騎馬民族の末裔(まつえい)としか言いようがないこの間のことは、ツェベクマさんの話が錯綜(さくそう)ていて、私にはうまく整理できない"

でですね◆江青38年延安のマルクス・レーニン学院に入学。「おい、なんか夏学だ幻魔大戦だ不老不死だ、と言っててマルクス・レーニン学院に入学か?」はですね、矛盾をこれまた恐れずに、だから、人の世亡ぼすのはボタン押すだけで済むけれど、ま、ないですけどね、それぞれ別の人格があり、があり、自由ある、この人の世を幸福にするためにはやっぱりそう簡単にはいかんのだろう。現実主義、で。つまり、毛沢東さんと、当然江青さんも含まれる仲間がつくりあげつつあっ現実主義的な政権不満とし、これを倒すべく千万といわれる少年少女を使嗾(しそう)した"

[※いないんですけどね][※そうはいかん][※ウソはいかん]
[※そうはいかん][※ウソはいかん()][※製造そうはいかん]

ぬえ【・鵺】頭は,胴はたぬき,手足は,尾はに似るという伝説上の動物(パーソナル現代国語辞典より)
ぬえ【鵺】a chimera(怪獣).~的な mysterious(解な).(パーソナル和英辞典より)
【鵺】19画[]部[音];[意]ぬえ (パーソナル版漢字辞典より)

でもですね、確信を持って言いますけど、俺を守ってくれてるんです。ヌエじゃないけど、カラスも「~」と、いつも()


2014/03/03 17:00
もどります、「草原の記」単行本1992(平成4)年刊、文庫1995(平成7)年刊、からの抜出です、201ページ"毛沢東の中国ができあがるのは、日本の敗戦から四年後の一九四九年である。その直後に、<毛沢東の中国><ソ連との友好同盟条約を結んだ>、しかし<両国の関係ほどなく軋(きし)んだ>。やがて断絶同然なり、一九五六年前後、毛沢東は、ソ連式の社会主義建設縁を切って中国独自の路線をうち出した。独自の路線とはいえ、それに見合う具体案などはなかった。とりあえず既存の村落をそのまま「人民公社」にすることと、生産を励まして「大躍進」させることが、毛沢東路線というものなった。いずれも蹉跌(さてつ)してしまう"

[※これ色分け途中ですが、“とりあえず既存の村落をそのまま人民公社にすることと生産を励まして大躍進させること”。これだから◆líve bírth/生児出生生産(せいざん); 生産児 (cf. STILLBIRTH)人民公社成立そもそもは大躍進でもなんでもなく、だから創価学会と同じ防衛”では?]

車輪が摩擦して音をたてる争う匈奴の刑罰の一つ車で骨を引き砕くとも、刀で顔面を切るともいうふみつけるいずれも蹉跌(さてつ)してしまう
蹉跌[さてつ]つまずく失敗する
物に足をとられてたおれる、しくじる、失敗する②すぎる③まちがう。
つまずく②はしる、③過ぎる()度をすごす、また、ほしいまま④足のうら。

理が非でも(りがひでも)ぜひともむりにでも是が非でも[広辞苑第六版より]

失礼な言い方だとおもいますが、だから"講"とかも全部そうでしょうけど、おれは、創価学会発足のそもそもは、戦略の一過程として、社会的弱者という立場を演じなければいけない、つまり、色々な意味で標的にされるひとたちを護るため自衛するためだった、とおもってます。

ちなみに、池田大作さんを信頼したのはパッと見です(ごめんなさい・笑)。


<毛沢東の中国><ソ連との友好同盟条約を結んだ>が、<両国の関係はほどなく軋(きし)んだ>、「人間の集団について」にも、"中国①は五千年の歴史からみて、辺境が中国化し⑥ないかぎり自国⑦の安泰はないという外政的⑧伝統がある北ベトナム(同様)中国にとって安全になったが、(中国は)カンボジアは親(で親心中・笑)政権③であるためにシアヌーク(さんが)という貴族②政治家をけしかけて南ベトナムにおける解放戦線のような性格の愛国戦線をつく(ることによって)らせ、③間断なく戦闘させているのである。①ソ連はソ連で、南北ベトナム②戦乱がおさまることかならずしも③欲していない。④もし中国の望むかたち⑤おさまれば⑦ソ連にとって⑪中国⑧を安泰にするだけであり、⑥むしろ④混乱がつづくことによって中国の辺境を⑤不安たらしめ、より強力な中国として成長することをはばみたい⑨という気持ちのほうがつよい"とあります。

おそらくこのような思惑はあったのでしょう、が、とりあえず、中国ソ連、すべての主語をわすれてください。[※とりあえず、頑張って読んで下さい()。で、中国を必ず、中夏人類社会として読んで下さい。そもそも、そういう意味で書かれてあります。いわゆる“己のみを尊しとなす”な中華思想と読むのは、①~⑧です。ま、ありますけど()]

で「草原の記」から、二十世紀初頭の話です。“一九一一年秋辛亥革命によって清国が倒れると、モンゴル人たち独立を宣言した。ただし、ロシア頼って独立であった。当時のモンゴル人たちこの勢いに乗じ中国に組み入れられている内モンゴルまでをふくめた大モンゴル国家の建設をねがった。この、大モンゴリアの構想は、その後、草原の妖怪のように四方を歩き、ときにあっては、鼓吹された。主としてモンゴル人がいうのではなく日本のような外界からの工作者が、冗談()まぎ(らせ)れに—あるいはしばしば本気で—吹き入れたのである。モンゴル人草原をモンゴル人に返せ、ということになると、中国の青海省も新疆(しんきょう)地区も中国領ではなくなる。さらにはロシアそのものもほとんど存在しなくなってしまう。が、内モンゴル[※中華人民共和国ちモンゴルちく]ばかり(狩場ばかり)匈奴以来固有の地で、領土権の主張としては成立する。しかし土地利用の仕方が、自生の草を動物(人間を)食べさせだけというのではその土を()きまわして草(穀物や野菜)を育てるという農民の土地所有権の深刻さを上まわることができない中国の領土権は、その深刻な社会史の基盤の上に立っている。”

[※当初は主としてモンゴル人そう主張するわけではなかったが外界からやってきた世直志士熱情を込めて夜明けは近いぜよ!(直感、親戚)」と説いた結果、当時のモンゴル人たち”も大モンゴル国家の建設心から願うようになったこの文章成り立ちますけど胡散臭いですね。それとも現実主義的?な戦略として「モンゴル人の草原をモンゴル人に返せ、ということを旗印にしてしまうと、中国領の青海省や新疆地区はともかく、ロシアそのものも“この”理屈では存在しなくなってしまう。これはいくらなんでも無理だ。何と言ってもロシアを頼っての独立だ。スポンサー怒らせてどうする。というわけで“内モンゴルは匈奴以来、我々固有の領土です。返しなさい”領土権の主張としてはこれも成立する。これでいこうじゃないか!みたいな。

[※当然、北方領土。直感で書きますけど“自治区”の区分けとしては実は現状が自然なのでは?で、酷いこと書きますよ“すべてがひとつにひとつがすべてに石になり転がらなくなる”。この後世界が一変することでこの問題は解決するでしょう。当然個人的見解ですが、今までの流れで考えると、イスラエル12部族最後の末裔が住むこの島国の北の守りを固めてくださっていたのは、もちろん自衛隊米軍そしてソ連軍今はロシア軍ですよね。どう考えても。終戦直前“満州国を楽々蹂躙できた、ま、してない、“できてない”、でしょうけど強力な軍隊北海道(夏の地)進攻できないなんて、ねえ?何?米軍の兼ね合い?原爆?ねえ?島には上陸てて]

当然中国ソ連と共に、モンゴル日本等この主語はわすれてください何故なら<当時の帝政ロシア中国遠慮>をし、結局外モンゴルの範囲内での自治だけ支援することにした<ロシアはさらに中国交渉>し、<キャフタ協定(一九一五年)をむすんだ>この協定が、<いまのモンゴル人民共和国の版図の上での原型>になっており、<モンゴル側にもべつだんの不服はなさそう>である。

[※うそあるで]
[※うそうそはなさそう]

その後も、モンゴルは時勢の流れのなかで、木屑(きくず)のようにもまれた。キャフタ協定から二年後に、当の支援者の帝政ロシアが倒れた。そのあと、ロシアに革命政権がおこり、そのどさくさに中国はふたたび草原に統治権を入れようとしたモンゴル人には、<漢人すべて高利貸にみえる>かれらは悲鳴をあげロシアの革命政権頼らざるをえなかった。曲折のすえ、一九二四年、ソ連に次いで世界で二番目の社会主義国家をつくるはめになった。かれらが社会主義をえらんだのは、マルクスのいう歴史の発展の結果ではなく、ただ漢人草原をまもりたかっただけだった。

<漢人がすべて高利貸にみえる>この言葉の説明この文章の前にありますが、ここでは省略させてもらいます、ただ、18世紀におけるお互いの文化の違いにより、と。

誤解はないとおもいますが(笑)、人民の海を泳げるもんなら泳いでみろ、つうことですよ。

で、「司馬遼太郎の遺産・街道をゆくの鼎談で、姜在彦(かん・じぇおん、盧泰愚さんとも親しい)さんが、"われわれ歴史家というのは、歴史を考える場合は、年代の前後関係とか、これが抜けたらたたかれるとか、こういうふうに考えるでしょう。そうじゃなくて、自分のイメージに強く焼きつけられたものをクローズアップして、明快なイメージをつくっていくんですね。""(司馬さんは)史実の細かな間違いは構わない"とおっしゃられています。で、この文章がそうだというわけではなく(そうかもしれません)、ただ、このような事実だとして、それを説明する時司馬さんは<当時の帝政ロシア中国遠慮><ロシアはさらに中国交渉><キャフタ協定(一九一五年)をむすんだ><いまのモンゴル人民共和国の版図の上での原型><モンゴル側にもべつだんの不服はなさそう>、という表現を選択された、と。

でですね、やはり“当時の帝政ロシア中国に遠慮をし結局外モンゴルの範囲内での自治だけを支援することにした。”やっぱりここまででセットで考えたい、というか、だから、本当にこれは、中国に遠慮モンゴル平原との歴史的関係性であったかもしれませんけど、それこそ辺境が中国化しないかぎり自国の安泰はないという外政的伝統を尊重した、も、あったかもしれませんけど、本当にそのまま、当時のモンゴルが国家として円滑にスタートできるよう自治の手助けを遠慮がちにモンゴル国権の侵害にならないようにしたということじゃないかと。

そしてそれら全てにモンゴル側もべつだんの不服はなかったなぜならモンゴル国の建設領土欲でもなんでもなくただ奸人(漢人ではないここ肝心冗談ではなく)から草原[※尊厳]をまもりたかっただけだったから。

でですね、これは重要だとおもうので(特に英語圏以外の人に)。20200801。

Gang of Four 英語で四人組のこと。なお、英語のgangには、日本語の「ギャング」の意味もあるが、一般的な「グループ」の意味でも用いられる。【ウィキペディアより引用

◆gang {名詞}一組,群れ,一団;(悪党の)一味,ギャング団;(よからぬ)グループ,連中;遊び仲間.
{動詞}(自動詞)団結する(up).
gang up on[against]  …に集団で対抗する.【パーソナル英和辞典より引用】

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