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浄土平から蓬莱山まで 9月 01, 2018
1.図書館行
①とりあえず、「日本の湖沼と渓谷」という本を読んでます
それによると、浄土平の西に、古代中国秦の時代、徐福が始皇帝の命を受け不老不死の薬を求め船で旅立ったとされる蓬莱山(ほうらいさん)て名前の山がありますね。
これは何か浄土平と関連があるのだろうか?
まあ、不老不死なありがたい(?)名前ですし、もしかしたら、○○銀座、○○富士見、みたいなノリで日本中いたるところに蓬莱山ってあるのかもしれませんけど。
で、ですね、吾妻小富士から見た、「あっちの煙だしてる山」。
浄土平の北、今も活火山の一切経山(いっさいきょうざん)。
この一切経山の名前の由来は、安倍貞任という東北の武将、最後は中央に敗れたとはいえ、その活躍(反乱)が後の奥州藤原氏の栄華につながる、が、一切経つう仏教のお経をこの山に埋めたという伝説にあるとか。
古来、このあたりの人にとって、浄土平周辺はそういう‘域’だったんですかね。
で、ですね、この「日本の湖沼と渓谷」に掲載されている浄土平周辺の地図を見ると、浄土平の北北西?烏帽子山て山があります。
烏帽子山・・・
実はですね、今僕が住んでいる佐世保にも烏帽子岳という山があるんです。
ま、そりゃ、○○銀座ほどではないにしろ、わりと全国によくある名前なのかもしれません。
ある場所から眺めるとこの山の形が烏帽子のように見えるのだろうと。
ただ、この福島の烏帽子山。
地図を見ると、ここには烏帽子山の前にニセ烏帽子山てのがそびえてるんです。
なんじゃ、ニセって。
ところで一切経山は、いっさいきょうざん、と読んだほうがしっくりくるけど、烏帽子山は、えぼしやま、とよんだほうが(僕的には)しっくりきますね。
浄土平周辺でも、蓬莱山は、ほうらいさん、吾妻山は、あずまやまだなあ。実際はどうなんだろ?
まあ、吾妻山は、あずまさん、でもしっくりくるか?
ただ、なんとなくだけど、"やま"より"さん"のほうが、より高く険しい山のイメージを持ちますね。
で、「名山の日本史」によると、磐梯山(ばんだいさん)てのは、天へと続く岩の架け橋、磐梯山(いわはしやま)てのがその名の由来とか。
もちろん一説によると、でしょうけど。
で、浄土平方面から見て、烏帽子山にかぶさるようにそびえるニセ烏帽子山。
ニセってやっぱり偽?
ん~知らないとおもわず烏帽子山だと誤認してしまうくらい似てるのか?
なら、"似せ"もあり得るな。
つうかこちらがニセになった理由はなんだろう?
前より後が本命、真打ち登場!てな感じか?
やはり浄土平目線が”域”のスタンダード、おお、浄土平強し!ということか?
ま、単純にこの方向から見ないと烏帽子には見えんということだろうな。
と、「日本の湖沼と渓谷」に掲載されている地図の▲二つをみておもいました。
実際にどんな山かは全くしりません。
でも、烏帽子山は、えぼしさん、というよりも、えぼしやま、といったほうが、僕にはしっくりくるけど、ニセ烏帽子山は、にせえぼしやま、というよりも、にせえぼしさん、といったほうが、発声の落ち着き的にも、僕にはしっくりくるな、と、思い、書いてみたら、にせえぼしやま、も、しっくりきた。
あれですかね?磐梯山。昔々、土地の人はみな「いわはしやま」と言っていたのを、唐土に留学経験のあるお坊さんあたりが、「いわはしやま?なんか野暮ったいな、それだったら磐梯山という漢字をあてて、ばんだいさん、てのはどうだ?」みたいなこと言いましたかね?
だって、"やま"より"さん"が、なんとなく高級感。
したがって、僕は"やま"にシンパシー(笑)。
で、「福島県の歴史散歩」つう本を読んでいたら、猪苗代に磐椅(いわはし)神社ってのがありますね。
中世にこの地を治めた猪苗代氏に重んじられたとか。
梯と椅。梯子(はしご)。椅子(いす)。
神社の方は神様にいてもらうから”椅”?
②病悩山
さて「名山の日本史」によるとですね。
昔々、磐梯山は病悩山と呼ばれて会津の人々を苦しめていたそうです。
もちろん伝説の話です。
もともと病悩山はさまざまな禍で会津の人々を苦しめていた。
そして今から千二百年前、ついにこの病悩山は大噴火を起こした。
それは一夜にして猪苗代湖を生んだほどの大爆発で、多大な被害をこの地にあたえた。
会津の人達の困窮もここに極まった。
それを京で伝え聞いた空海が会津に下向、秘法を修し禍を除き五穀豊穣を祈願。
そしてこの地に恵日寺を建立した。
それ以来、病悩山は穏やかな山となり、会津の人々は豊饒の地で幸せに暮らすようになった。
ちょっと作ってますが、このような伝説(縁起)が磐梯山麓の恵日寺にあるそうなんです。
もちろんこれは伝説で、猪苗代湖の成立は何万年も前であり、空海が会津を訪れたこともなく、はっきりとはしないものの恵日寺を建立したのは空海ではなく、空海や最澄と教学について論争を交わした法相宗の高僧徳一であろう。で、空海の建立という伝説は、後年恵日寺が真言宗に属するようになってつくられたものであろうと。
おそらく実際のところはそういう感じらしく、今昔物語とかにも"得一つう人が恵日寺を建てた"って書いてあるみたいです。
で、"一切経山にお経を埋めたのは安倍貞任ではなく空海だ"。
そういう伝承もあるそうですが、これもそのへんの事情からきてるんでしょうね。
一切経山も恵日寺の影響圏内で、このお寺が真言宗に属するようになってから、ま、そもそも伝説だろうし、お経を埋めた主役に空海が紛れ込んだ。
それとも逆か?
たぶんですけど、もともと違う宗派だった恵日寺がいきなり真言宗に属したりはしないだろうし、それはやっぱりその土地として真言宗の勢いが強くなり、その結果、みたいな過程をたどったと思うので。
例えば高野聖が、"実はあれを行なったのは空海その人なのだ"みたいな空海伝説を布教のために創作して広めた。または、それこそ、この地の真言宗の勢いが強くなり、空海信仰も強まり、その過程でそのような空海伝説が発生し広まった。で、その伝説が無視できないものになり、もともと違う縁起を持っていた恵日寺に影響を与えることになった。
と、書きましたが、なんにせよ、こういうことは、くんずほぐれつ、でしょうね。
さて、この恵日寺を実際に建立したといわれる徳一。
彼は孝謙太上天皇や寵愛の道鏡に対して反乱を起こし敗死した藤原仲麻呂の子であると言われ、当代屈指の名僧であるとうたわれ、その建立であると伝えられる寺は恵日寺以外にも全国に七十以上ある。
しかし、天台宗の最澄との論争に敗れた後はふるわず、その法相宗も衰えて行ったとか。
これは身勝手要約ですが、「名山の日本史」によると、平安以来、神と仏は一体であった。
明治維新以降の一連の廃仏毀釈運動により神と仏を分離、神道のみを国教とし、仏教を排斥。
これにより山岳信仰の場から仏教が排除され、あたかも昔から神のみが信仰されてきたかのような錯覚を現在の人びとに与えていると。
そう、名山とよばれる山には必ず名刹があった。
しかしそれらは消されてしまった。
仏像・仏画など膨大な文化遺産もこのとき失われた。
恵日寺も、境内社の一つであった磐梯明神を磐梯神社として独立させ、住職を同社の宮司に、恵日寺自体は廃寺とされた。
これらはまさに国家が国家としておこなった愚行であろうと。
ところで、この"磐梯"神社は前回出てきた"磐椅"神社のことだと思います。
そうすると梯と椅の使い分けはあんまり意味ないか?
で、大正二年、ようやく廃仏の過剰な熱もさめたということでしょうか、塔頭(たっちゅう)の一つである観音院が恵日寺の寺名を再興したそうです。(塔頭は本店にたいする支店のような感じ?)
でも、徳一が最澄に負けて法相宗が衰えたというのは、法相宗が衰えたことからの逆流かもしれませんね、そこに理由を求めると。恵日寺が空海の建立で、都に帰る時に弟子の徳一にこの寺を託したという伝説とともに、栄えたモノが歴史を創る、でもいいですが。
実際は、どの程度かは定かではないですが、徳一は空海が東国に真言を広めることを依頼してきたのを拒否、その教義にたいする疑義を空海にただし、二人は対立関係にあったとか。
でですね、山岳信仰の場であったかどうかは知りませんが、浄土平じゃないですか、一切経という仏教のお経を埋めたという伝説を持つ一切経山じゃないですか、蓬莱山、これは道教ですかね?じゃないですか。
この感じが自然なんでしょうかね。
↑このブロックの文章、浄土平ではもともとは神道・仏教・道教が混合されていた、ということを言いたいのだと思いますが、浄土を神道と思っちゃったのか、ちょっと妙になってますね。
おそらく、日本の現在の山岳信仰は神道のみ、そしてそれは浄土平にも存在する、という自分だけの前提が頭の中にあり、それでそこをすっ飛ばして書いてしまったのかもしれません。
ちなみに、当時も今も、浄土は仏教における天国のような場所だ。
そう言う認識です。(2013/11/07)
③此土浄土
王朝時代末期、極楽疑わしくば宇治の平等院を敬え、と当時の人は言っていたそうなんです。
平等院こそ此土(しど)浄土、この世の浄土であると。
で、奥州藤原氏の本拠地平泉の無量光院はこの平等院を模して建てられている。(現存せず)
平泉文化は都の此土浄土をみちのくに再現した。
そして奥州は当時唯一と言っていい金の産地であり、実質的奥州支配を確立した藤原氏はそれを自由に使うことができた。平泉の諸堂塔はすべて金色に輝いていた。
それは都にもないものだった。
それらは自らの富を誇示するというよりも(それも当然あったのでしょうが)、この時代に流行した浄土教文化の”皆金色(かいこんじき)”、黄金でこの世に浄土を再現するという意図で建立されたものだった。
"この世はすでに末法(まっぽう)の時代に入った"
末法。
釈迦入滅からあまりにも時が経過し、もう正しい教えが行われなくなった時代。
自然災害、戦乱、疫病、この世が禍に覆いつくされる時代。
最初は都の貴族だった。
この時代、平安末期、変革の時代、彼らはそのような考え、不安におそわれていた。
そう、この時代は来るべき変革がその姿をあらわしてきた時代だった。
しかしそれはまだはっきりとしたかたちに定まっていない。
この考えは貴族以外の人たちにも急速に広まった。
そして、人々は魂の平安を求めはじめる。
"こんな世はいやだ。釈迦や仏が住むという浄土、皆金色、そのすべてが黄金色に輝いているという浄土、すべての苦悩から解放されるという浄土、私はそこに往生(生まれ変わり)したい"
で、清衡以下の奥州藤原三代がミイラとして平泉の金色堂に葬られているのも、此土浄土、浄土をこの世に再現するという思想からくるのだろうと。法華経の功徳で此土浄土が実現したとき、ミイラとして眠っている自身が浄土に、したがってこの地上に、仏として生まれ変わると。
そういうことでしょうか?
そうなると平泉は浄土を現世に呼び寄せる呼び水として建設されたんですかね?
でですね、この文章は高橋富雄さんの「奥州藤原氏」を参考にして書いています。
その中の一文で。
『藤原氏は(略)地上極楽の実現を待つべく入定相に肉体をとどめ、永生を続けておいでなのである。あるいは(略)往生を終えた入定相にかくおわすのであるかもしれない』
高橋さんはこのように書かれています。
正直、その言葉の意味が難しくてよくわからないトコもありますが、高橋さんのこの表現の仕方、いいですね。
で、話が一転、というか、ここに結び付けたかったわけですが。
"随分荒涼としているところじゃないか"
と僕が思った浄土平なんですけどね。
ほら紅葉て、そりゃ紅もありますが、やっぱり黄金色じゃないですか。
ほんとうに秋には紅葉が綺麗なとこらしいんですよ、浄土平、磐梯吾妻スカイラインは。
たぶん"皆金色""此土浄土"て感じで。
それと浄土平の蓬莱山。
蓬莱山は徐福が不老不死の薬をもとめて旅立った目的地。
不老不死。
此土浄土、現世の浄土。
思想的に無関係?
"よみがえる金色堂 日映科学映画製作所 1970年製作"
④権現
「名山の日本史」によると、日本古来の神々と仏が一体だったころ、名山には寺院が建立され、そしてともに神がまつられていた。
"仏教の神社に日本の神様、なんか変じゃないか?"
"いや、ちがうのだ、実は日本の神様もその真の姿は仏や菩薩なのだ。"
"それはこういうことだ。
いいか、仏の教えがどんなに人々を苦しみから救う素晴らしいものであるとしてもだ。
結局それは人の手によって伝えられるしかない。
そして仏の教えが生まれた天竺は日本にとって果てなく遠い西方の地、その伝来はどうしても遅くなる。"
"ではその間、うん、そりゃしょうがない、と仏は我々の苦しみを放っておくのか?
まさか、そんなことを仏がなさるわけがない。"
"そう、仏は我々を苦しみから救うために、その伝来のずっと前から、そもそもの始まりから、日本の神という権(かり)の姿で我々の前に現れていたのだ。すなわち権現として。"
どうも、このような感じだったみたいです。
で、記憶頼りで不確かですが、これはキリスト教日本伝来最初期の話。イエズス会の人達が自分たちの唯一絶対神を、やおよろずな日本人に説明しようとして、ゴッドを大日如来と訳し、結果、仏教の新しい宗派がやってきたという勘違いが発生。ある種、唯一絶対神の権現化が起こっちゃったという話となんとなく通じているような・・・
で。
権現というくらいなので、何か仏さまが海を渡ってドカドカと日本に乗り込み、日本古来の神さまを無理やり力で押さえつけたような感じもします。でも侵略者(笑)の仏さまが神さまを滅ぼさずに身内に取り込み、仲良く千年は共生したかと思えば、悪くない風景な感じもします。
ま、もともとは蘇我だ物部だと、上のほうでの思惑が戦争しちゃうくらい入り乱れまくったんでしょうが、一応日本人みずからがそれを選んだわけですし。
もしかしたらあれですかね。
廃仏毀釈を進めた人たちのなかにもあいつらは侵略者だという思いがありましたかね。
当時の国際情勢にそのまま重ねちゃったり。
そうそう、八王子の先の高尾山。(東京目線で)
僕も東京に住んでいる頃はよく初日の出を見に元日に登ってました。
山頂付近にお寺があり、関東一望、富士山も望め、いいとこです。
当然、この高尾山にも維新とともに廃仏毀釈の嵐はやってきたんです。
これも記憶頼りですが、戊辰戦争時、甲州勝沼で壊乱した新撰組の人達が潜伏したのが高尾山周辺の山々だったような。また、新撰組の故郷、八王子同心など最後まで徳川側についた人たちの本拠地として、そのあたりはもともと新政府に睨まれた土地だったような気もします、もちろん高尾山も。
で、その高尾山にも飯縄権現という"日本の神"はちゃんといました。
もともと睨まれているお寺です。
廃仏毀釈のパターンとしては、飯縄権現が神社へ昇格?そしてお寺は廃止。
そんなもんだと思います。
しかし高尾山のお寺は(このお寺、正式な名前を知りません。"高尾山"で高尾山のお寺を指す、そう思ってもらえれば)
話をもどして、しかし高尾山は、その廃仏稀釈の嵐がくる前に飯縄権現の名の使用をやめ、鳥居も撤去、跡地には石灯籠を建立、仏のみの寺に(表向き)なったそうなんです。
そして神社ではなく寺として生き残り、廃仏毀釈の嵐が過ぎ去った後、といっても大正十五年、ひそかに堂宇(どうう)の一つとして守っていた飯縄権現の名を復活、鳥居も再建、もしかしたら実質はずっとそうだったのかもしれませんが、見事に神と仏が共生する山岳信仰の場にもどったそうです。
で、ふと思いましたが、ゴッドの権現化ではなく、大日如来の権現化か?
ま、くんずほぐれつで(笑)。
2.浄土行 9月 01, 2018
①奥の細道、曇り空
松尾芭蕉、曾良、白河の(故事としての)関を越え、阿武隈川を渡る。
左に会津根をあおぎ見つつ芭蕉の俳友等窮(とうきゅう)を訪ね須賀川に到着。
そこで"白河の関いかにこえつるや"と、等窮に問われ、一句。
"風流の初やおくの田植うた"
俺の“会津根をあおぎ見つつ”って表現おかしいか?二人がどんなコースを通ったのか今わからないけど、白河→須賀川で会津の山々だとそんなに近くはないような。
原文は、"左に会津根高く、右に岩城、相馬、三春の庄"てな感じ(奥の細道・山本健吉訳・解説)。
さて、二人は等窮の家を辞し、二本松より右にきれ、黒塚の岩屋を見物したりしつつ、福島に一泊。
翌日、しのぶもぢ摺(ずり)の石をたずね、忍ぶの里を訪れ、一句。
"早苗とる手もとや昔しのぶ擦"
この句の最初の形は、"五月乙女(さをとめ)にしかた望んしのぶ摺"。
田植えをする女性を早乙女(五月乙女)というとか。
そうそう、会津根高くと言いますが、猪苗代盆地の海抜って500メートル超えているんですね。
つまり猪苗代湖は台上にあり、あそこがもう会津根か、それなら近いですね。
知らずにそこに立つととてもそんな実感はわきませんでしたが、調べて少しびっくりしました。
それじゃ猪苗代湖は山上湖と言ってもいいくらいなんですね。
で、お隣の福島市で海抜60メートルくらいですか。
それだけで十分気候は違いますね。
ところで「日本の民話・福島篇(片平幸三編)」を読んでいると・・・
昔々、会津には磐梯山に腰掛けるような巨人の夫婦が住んでいた。
この夫婦は太陽の光をさえぎったり、猪苗代湖の水をふりとばしたり、散々悪さをし、会津の人たちを困らせていた。
ある日、貧しい身なりの旅の僧がやってきて、修法によりこの夫婦を壺の中に閉じ込め、磐梯山の頂上に埋めてしまった。
昔々、会津は何もない盆地だった。
ある日、貧しい身なりの旅の僧がやってきて、ある家の前で水を所望すると、その家の美女は"このへんは水不足だから"と、それを断った。
しばらくいくと、やや顔立ちのみにくい女が貴重な水を全部飲ませてくれた。
さて、次の日の朝、人々が起きてみると、盆地には一夜にして巨大な湖ができていた。
そして、断った美女の家は湖の中の孤島になり、水を全部飲ませてくれた女の家は湖のとても便利な場所になった。
そう、この貧しい身なりの旅の僧こそ、空海その人であった。
なんとなく西遊記な感じもしますし、なんとなくひどい(笑)気もしますが、以前書いた空海伝説のような昔話がいくつかのっていました。
やっぱり真言宗のひろがりとともに、このような伝説がひろく語られるようになったんですかね。
ちなみに最初の話は、 (僕が読んだ本には) 空海とは書いてありませんでした。
ところで芭蕉師匠。
"十二日、平和泉(ひらいずみ)と心ざし、あねはの松・緒(を)だえの橋など聞傳(ききつたへ)て、人跡稀(じんせきまれ)に、雉兎蒭蕘(ちとすうぜう)の往(ゆき)かふ道、そこともわかず、終(つひ)に路(みち)ふみたがえて、石(いし)の巻(まき)といふ湊(みなと)に出(いづ)"
平泉に行こうとして道に迷って石巻に行ってしまったんですね。
この後、思いがけず訪れた石巻の港の殷賑を極めたさまが奥の細道に描写されています。
で、この"平和泉と心ざし"。
平・和泉、なんでしょうけど、平和・泉な感じもいいですね。
②そういえば、猪苗代から郡山に向かう時、山道をけっこうくだったような
僕が読んでいる奥の細道の解説を書いている山本さんは、昭和十八年刊行の雑誌の中で、曾良に止められて実行はしなかったものの。
"蝦夷が千島の見ゆるあたりまでも"
そう芭蕉が蝦夷地に思いをはせたのは、義経伝説の「御曹司島わたり」の跡をたどってみたいという思いがあったのかもしれない、とお書きになられています。
そしてこれは山本さんが昭和五十年代にお書きになった文章?
柳田国男さんの「東北文学の研究」によると、東北地方を歩いた念仏聖をかいして、義経伝説が深く、具体的造形を持って庶民の中に浸透、そして「義経記」がうまれた。
と、お書きになられています。
では、たぶん日本中にあるだろう空海伝説も、やっぱり念仏聖な高野聖をかいしてでしょうね。
さて、芭蕉曾良の旅の空です。
芭蕉一行も福島をたち、鯖野という場所で、義経の太刀や弁慶の笈(おい)を宝物とする寺で茶を乞い、一句。
"笈も太刀も五月にかざれ紙幟(かみのぼり)"
ま、そうはいっても、これは奥の細道ではよくあることみたいですが、二人は義経所縁の石碑を参っただけで、実際は宝物を見ておらず、句も後につくったもので、最初の句は、"弁慶が笈をもかざれ紙幟"だったそうです。
で、また「福島の昔話」を読みつつ。
昔々、信夫郡(伊達の辺り?)平沢村に炭焼藤太という男が住んでいた。
ある日、藤太は買い物に行ったが、その途中にある池の鴨にお金を投げつけ、そして何も買わないで帰ってきた。
京から来た妻がびっくりすると、藤太はこういった。
「裏山を掘ると金なんかいくらでもでてくる。おしくない」
この藤太、義経を奥州に連れてきた金売吉次の子であったとか。
昔々、弁慶に父を討たれ、復讐のために鎌倉から奥州にやってきた力自慢の兄弟がいた。
しかし弁慶は平泉ですでに死んでいた。
兄弟は鎌倉に帰る気にもなれず、磐梯山で盗賊になり暴れまくった。
しかし後に改心、神?に教えてもらった温泉で宿屋をはじめると、その温泉宿はとても繁盛した。
そしてこの兄弟が作ったといい伝えられている句が。
"このところ黄金千杯埋めずおく、屋敷の里のみえるところに"
昔々、倉吉という若者が磐梯山の御鏡沼で不思議な美女に頼まれごとをした。
倉吉がその願いをかなえると、毎日米三粒をあたえると金貨を生むという馬をお礼にもらった。
それから倉吉は毎日馬に米三粒をあたえ、金貨を得、裕福になった。
しかし欲が深くなり、一度に沢山の米粒をあたえると馬はいなくなってしまった。
そして倉吉の家も身もほろびた。
昔々、伊達の高子に熊坂という長者が住んでいた。
奉公人の三吉というのが、いつもずぶぬれで、へとへとになって彼の屋敷に帰ってくる。
熊坂が不思議に思い、三吉にわけをきいてみると。
「実は沼の中に黄金が輝いている、しかしどうしてもとることができない」
二人で調べた結果、これは山の黄金が沼に反射しているのだ。
そこで山を掘ってみるとおびただしい黄金が。
昔々、ほんとに昔、天平の世、奈良の都で国家をあげて大仏を作っていた時。
大仏に使用する鍍金(めっき)が足りなくなり、さしもの大業も頓挫しそうになった。
実は当時、金は日本にはないと言われていて、輸入にたよっていた。
そのとき、日本にはないとされた黄金が奥州で産出されたと報告があり、金九百両が急使でとどけられた。
これにより大仏を完成させることができたとか。
③くがね花咲く
「平泉の世紀」によると、天平二一年、陸奥国守、百済王敬福(くだらのこにきしきようふく)から、"わが国初の黄金が陸奥で産出された"との報告が公式にあった。
ころも大仏建造の鍍金がなくなり、挫折感が朝廷に満ちていたとき。
天佑神助、仏のめぐみだ、ありがたや、と、この年、天平感宝、天平勝宝、と二回も元号が改まった。
越中国守、大伴家持がこれを聞き一句。
"すめろぎの御世栄えむとあづまなるみちのく山にくがね花咲く"
そして三年後(でしょ?)の天平勝宝四年、陸奥国多賀城以北の諸郡の調庸(ざっくり租税)は黄金で、と、制度化された。ちなみに多賀城以南は従来どおり貢布で、そして、さらに北方の地帯は貢馬とされた。
そういえば、「水曜どうでしょう」の四国お遍路をみて、ちょっと興味をもっていたんですが、四国の札所にもあたりまえに廃仏毀釈の嵐はきてますね。
石鉄蔵王権現が石鎚神社となった石鎚山の六十番札所横峰寺は明治六年に廃寺。
横峰寺とともに平安以来の石鎚山の山岳信仰の中心となった前神寺。この寺は当時の住職が廃仏稀釈に激しく抵抗するも、原因不明の火災で焼失。明治八年、石鎚山の中腹にあった本寺(という言い方でいいのか?)は廃寺となり、その名は山麓の末寺に移された。ただしこの時、前神寺という表記を前上寺に変えさせられた。そして三十年以上のち、明治四十二年にやっともとの名に復した。
明治六年に廃寺となった横峰寺も、別地で大峯寺と名を変えてようやく存続することができた。そして同じく明治四十二年、こちらは元の境内を神社から譲渡され横峰寺として復することができた。
もちろん「名山の日本史」を読んでますが、横峰寺や前神寺は山岳信仰に深く関わった巨刹であるのにその歴史がよくわからない。
その大きな理由は、この神仏分離の廃仏毀釈で致命的な打撃を受けたからだろうと。
でも、もとにムチャがあったわけですが、明治四十二年てのは日露戦の勝利も気分的に関係してますかね。
勝った、勝った、もう西洋の侵略にビクビクしている時代は終わった、これからは日本もどんどん発展するさ、細かいことはもういいだろう、てな感じで。
ま、そんな時、ま、適当に書いてそんな時もないもんですが、夏目漱石さんは、自作の登場人物の口を借りて。
“(日本は)滅びるね”
と言ったわけですが。
④夷
「蝦夷と東北戦争」によるとですね、少なくとも古代の蝦夷(えみし)は特定の人々のことをいうのではなく、自らをそう呼んだわけでもなく、あくまでヤマト側からみて、広大な日本東北部に住む、まだ”王化”されていないさまざまな”化外の民”のことを、一括して”蝦夷”と呼んだと。
そしてヤマトの朝廷の貴族は、蝦夷を蔑視しながらも、"一を以って千に当たる"といわれた戦闘力には畏敬の念をいだいていたのかもしれない。
蘇我蝦夷、小野毛人(えみし)、佐伯今毛人など、蝦夷(毛人)という名もそのためであろう。
またヤマトに服した蝦夷。
彼らは俘囚(ふしゅう)と呼ばれ、俘軍として組織された。
ところで「蝦夷と東北戦争」の著者の鈴木拓也さんは参考にした引用元を本文の中で随時表記されています。
しかし、ここでは"「蝦夷と東北戦争」によると"で一括させてください。
といいますか、他も全部そうですね、しかも基本的に俺の身勝手要約です。
くわしく、正確に、は、それら原書?たとえば鈴木拓也著「蝦夷と東北戦争」を読んでいただければ。
さて、"「蝦夷と東北戦争」によると"です。
奈良時代くらいから、本来の部族的"蝦夷"、個別に自分達の支配下にある"俘囚"。
そしてそれら"蝦夷"の総称として、"夷俘(いふ)"。
そのような呼び名の使い分けがあったのではないだろうか。
※この文章は自分でもちょっとわかりづらいです、もちろん要約しています。
「本来の部族的"蝦夷"」、これは「まだ王化されていない"蝦夷"」、そういう意味で俺は書いていると思います。
あと、これも正確な区分けとは言えないでしょうが、大化の改新以降の日本の表記は"日本"で統一します。
(2013/11/13)
また、大化の改新以降の”化外の地”への進出は内地からの移民による郡の設置・版図拡大が主で、征夷、軍事行動はあくまで副次的なものだった。
移民に対する蝦夷の”抵抗”が予想される場合や、移民後の治安確保のために征夷がおこなわれた。
もちろん平和裏に城柵や郡が置かれた例も多い。
城柵は基本的に防御の外郭をもった役所であり、常に兵士に守られていた。
その城柵には中央から国司が派遣されて城司とよばれ、蝦夷を含んだその地方を統率した。
※この「蝦夷を含んだ」の蝦夷は、”ヤマト(日本)に服した蝦夷“、”俘囚“のことだ。
そう言い切っていいか今ちょっとわかりません。(2013/11/13)
日本国によるフロンティアへの"入植"は順調にすすんだ。
719年には、特定の国の守をして周囲数カ国を管轄させる按察使(あぜち)という制度がつくられた。
しかし翌20年、陸奥国でこの按察使が殺害され、史上初の蝦夷の大反乱が起きた。
これは蝦夷を力で押さえつけようとする大規模移民政策にたいしての抵抗の意思表示だった。
“夷を以って夷を撃つは古の上計なり、賊を持って賊を伐つは軍国の利なり”
この反乱の鎮圧には国家側の蝦夷の武力ももちいられた。
ただし、単純に利用された、そういうわけではない。
この乱のあと、功があった蝦夷、その通訳も勲位を受けている。
当然、反乱後の蝦夷への慰撫という意味もあったろう、とは思います。
⑤再編
この反乱は当時の日本国の指導者たちに様々な征夷への教訓をあたえたようだ。
そのころの日本国の兵制は、その分国の住人が六十日程度の勤務を交代でくりかえす半農半兵だった。
しかしこの反乱を受け、陸奥国ではそれを令外(りょうげ・律令の外)という常備兵制に変えた。
そしてもう一つ。
この反乱の前、陸奥国の領域は征夷の進展によりすでに広大なものとなっていた。
日本国はそれを征夷の最前線と比較的治安が安定している地域とに三分割、それぞれに国司、そしてそれを統括する按察使(あぜち)を置いていた。
しかし、この反乱では最初にその按察使が殺害された。
それにより情報や命令の伝達など指揮系統に混乱が生じ、当初、この反乱への対応が後手後手に回ることになった。
その反省をふまえ、反乱鎮圧後、日本国は陸奥国を再統合。
按察使というクッションを取り除き、陸奥国司のもと統一迅速に事態に対応できるようにした。
※陸奥按察使から陸奥国司に名前が変わっただけでは?という気はします。統一後も当然地区責任者はいたでしょうから。下に少し記しているように、権限から何から抜本的組織改変が行われたのかもしれません。ま、そうであったとしても・・・という気はします。(2013/11/14)
令外の兵は主に東国(東北ではなく)の兵士から選出され陸奥国に派遣、鎮兵とよばれた。
それを統括する任を主として創設されたのが鎮守府という令外官で、その長である鎮守将軍はほぼ按察使や陸奥守(国司?)が兼任した。これにより中央からの征討使が将軍ではなく大使と呼称されるようになった。そして再統合された陸奥国を統治するかなめの国府兼鎮守府としてつくられたのが多賀城だった。
※今読み返すと、なにかと言葉を放り出していて、自分でもよくわからない点が多いです。
“按察使”?と、僕も思います。陸奥国を含む数カ国を統率する、だったらそれこそ迅速な対応は・・・ですし。
もしかしたら何度か組織体制が変わったのかも。
あと、“征討使”、その実際、そしてその役割の変化、たとえば派遣将軍から軍監察官になったとか、などは、今わかりません。(2013/11/14)
実質は、単純に組織の長のガードを固くしたということかも。(2014/06/21)
さて、720年に発生した大反乱の傷もようやく癒えた、ということか、東国の兵士で構成された鎮兵は746年に一旦廃止される(しかし757年に復活され、800年代初頭まで廃止されることはなかった)。
美濃以東から幅広く徴兵されていた征夷軍はこの時期以降この鎮兵が主力となり、その動員は、相模、安房、上総、下総、常陸、上野、武蔵、下野、東国八カ国にほぼ固定された。これらは相模の足柄坂、上野の碓氷坂より東として”坂東”と呼称された。そして同時に、これら東国の兵士は天皇のそばにも侍し、その武力への貴種の期待は信仰に近いものがあった。
これが源氏vs奥州藤原へと続く戦いのはじまりでしょうか?
※「その分国の住人が六十日程度の勤務を交代でくりかえす半農半兵」
これがその国の治安維持の為の常備兵ですね、常備兵"制"ではなく。
で、"征夷"のときにはそれとは別に美濃以東から広く兵を動員していた。
その征夷軍の将軍の名称が征討使でしょうか?
で、この大反乱の後、臨戦体制ということで、あくまで征夷の最前線に限り、その長に権力を集中、兵も平等な負担よりも精鋭に重点をおいたと。(2013/11/14)
で、その長が常駐する要塞が”多賀城”ですかね。(2014/06/21)
ところで、この反乱で捕虜となった蝦夷は、伊予や筑紫など各地に分散して送られた。
これは東北の蝦夷勢力の弱体化を意図したものと思われる。
しかし同時に、現地蝦夷の待遇改善など、そのような点での日本国の反省もみられた。
また蝦夷の人たちのなかでの疫病の流行もあったようだ。
それらにより、この反乱の後は日本国による陸奥支配は順調に進み、目立った征夷が行われることはなかった。
「もうそんな世ではない」746年、百済王族の後裔である陸奥守百済王敬福はついに鎮兵を廃止した。
しかし様相は一変する。
757年、法相宗の高僧徳一の父親ともいわれる藤原仲麻呂が鎮兵を復活。
彼は自分の息子を按察使や鎮守将軍を兼任の陸奥守に任命、版図拡大の征夷を再開した。
その後の政権にもこの政策は受け継がれ、774年から811年まで、ついに三十八年戦争といわれる蝦夷と日本の血みどろの征夷戦がはじまる。
さて、ところで鎮兵が廃止された746年から復活した757年までの間に奥州でなにがあったのか?
"すめろぎの御世栄えむとあづまなるみちのく山にくがね花咲く"
749年、日本には存在しないと思われていた黄金が、陸奥で産出されたと陸奥守百済王敬福から公式に報告。
まるでOILのような黄金利権の影が(笑)。
⑥とこよのくに
「仏教民俗学(本)」によると、古代、常世(とこよ)とは神道のテリトリーであり、海の彼方にある不老不死の国と考えられてきた。
かつ常世は常夜でもあり、死者の国でもあった。
彼岸は仏教的世界観で此岸(しがん)、煩悩?に対するアチラ側、悟りの岸、であったが、いつからか生のアチラ側、死の岸、ともなった。
そう、彼岸は日本で変質し、インドの仏教徒が思考した悟りの岸とは異なる意味をもった。
そこにはまた、神道と仏教の出会い以外に道教の影響もあっただろう。
浦島が助けた亀に連れられていった海の彼方の常世の国、竜宮。
日本の記紀神話では、この竜宮には蓬莱山(とこよのくに)という字があてられていた。
彼岸も常世も生であり死であった。
古来、日本人は人が死ねば霊魂は山にのぼり浄められて祖霊になると信じていた。
(ここで、一つ区切りをいれるべきかも)
山中の地獄谷や賽の河原を抜け、山頂の極楽浄土へのぼっていくと信じていた。
例えば、仏を信じる者の臨終の場に、如来が極楽へと迎えに来てくれる場面をえがいた阿弥陀来迎図。
そのほとんどは(逆に)山の斜面を如来がおりてくるものだ。
浄土。
インド仏教が思考した浄土は果てなく遠い西方の地にある楽園というものだった。
これが仏教渡来以前から日本にある、死者の霊がのぼる場所であり神がおりてくる場所でもあるという山岳への信仰と結びつき、変容。
おそらく平安中期には身近な山の中にこそ浄土は存在するという観念を成立させた。
浄土平。
ここはどちらかといえば、山中の皆金色な紅葉の極楽浄土を抜け、山頂の賽の河原へのぼっていってしまう、そんな気がします。
と思ったら、霊山は必ず浄土が原とか地獄谷とか賽の河原とかの地名をもつとか。
浄土平に地獄谷や賽の河原が地名としてあるかどうかはわかりませんが(地獄谷ぽいつばくろ谷なら)、考えてみたら別に荒涼とした場所が山頂というわけでもないし、一切経山てのはまだよくわかりませんが、たとえば、荒涼とした地獄を抜け、不老不死の楽園蓬莱山(とこよのくに)にたどり着く。
めでたしめでたし。
みたいな、でも、本当に、神道、仏教、道教、仲良くやってますね。
万葉集でも死者の霊魂は山や高いところにおもむくということをうたう。
しかし残された"体"についての言及はない。
霊魂が離れたあとの体は当時の日本人にとってはもうただのモノだったのかもしれない。
霊魂こそが重要だった。
納骨という習慣は十一、二世紀ごろから天皇や貴族が高野山に納骨するということにはじまり、それが庶民にひろがった。
これには高野聖が遺骨を高野山に納骨すれば浄土に往生できると説いたことが一役買っているだろう。
この納骨という新しい習慣が山中浄土と結びつき、やがて各地の霊山に納骨されるようになった。
その頃には、そうすることで山にのぼった霊魂が再び自らの体に出会えると信じられていた。
※山から天にのぼった、そう書いていいか、今わかりません(2013/11/16)
※高野山、比叡山も、真言・天台、当時の日本としては新渡来の最新の仏教だったと思うのですが、その“本山”成立自体が日本の山岳信仰の影響にあったのか?今わかりません(2014/06/02)
で、思いつきで書きますが、安倍貞任が一切経山に埋めたのは(伝説)、お経ではなく、自らの遺骨では。
あと、ともに戦い亡くなった多くの反乱兵士の遺骨とか。
3.勝野行 9月 01, 2018
①救い
「街道をゆく」によると。
若き最澄は、法相宗や唯識宗など奈良の旧仏教は"教"ではなく"論"を中心とした破片ではないか?そのような疑問をもっていた。
もっとも釈迦以降の仏教は膨大な破片群ともいえ、ときにそれら同士がぶつかり矛盾しあっている。
さらに旧仏教は解脱中心主義で、天才のみが悟りの域に達しうるという選別主義だった。
そして最澄はついに天台宗にいきつく。
“万人が仏性(仏になりうる性質)をもつ”
天台宗はそれら破片群を”救い”という思想で取捨選択して一大体系としたものだった。
この新仏教の出現は、奈良の仏教を一気に過去のものとした。
誰もが仏性をもつのなら、何を苦しんで修行をするか、当然、奈良の学僧の反発をうけた。
「空海の風景」によると
「最澄のいうことにも理がある」
奈良の学僧も、ひそかにそう思うことがあったかもしれない。
だが彼らとしては、奈良仏教を見限っているという場所(のみ)で最澄と同じ立場にいる、独裁的性格が強い桓武帝の恩寵を武器に、権力で自分達を押さえつけてくる(と感じられる)最澄に対しては態度を硬化せざるを得ない。
そしてここで悲喜劇がおこる。
実は桓武帝や朝廷の関心は天台の教えにはなかった。
それは最澄が、あくまでも(ついでとして)唐からその一部を持ち帰ったにすぎない、現世利益に験があるとうわさされていた密教に集中していた。
桓武帝は天台については何もふれず、密教をもたらしたがゆえに最澄を国師であるとし、奈良の長老たちに最澄から(洗礼のような?)灌頂を受けさせた。
また天台宗は奈良仏教と同じように、国家が年度(?)試験によって僧を得度させる枠を二人分得た。
その一人は天台課程、一人は(粗放なものでしかない)密教課程とした。
(当時、”正式な”僧になるには国家試験を受ける必要があった。)
当然、最澄は権力を得るために時代の好奇に迎合した、と、奈良からは思われた。
そんな中、真言密教第八世法王空海が都にあらわれた。
が、それはまた別の話。
で、「街道をゆく」によると、です。
法相宗は時の権力者藤原冬嗣を立会人に最澄と論争をした。
最澄は弟子一人を連れて相手の陣地?に乗り込み、並み居る学僧を論破した。
宮中での各宗の学僧とも討論して勝ち、和気氏の立会いのもとの論戦にも勝った。
これは、やっぱり、頭の良し悪しよりも宗論の構造に無理があったのでは?
負けるべくして負けたと。
極端な例えですが、現在(現代も可)の常識(空気がいいかも)を互いに共有する中で、たとえIQ300の大天才だったとしても、天動説という立場を与えられて地動説をとなえる秀才と論争させられたらいかんともしがたいでしょうし、極端ですが。
で、奈良仏教が最後の切り札としたのが会津の徳一だった。
最澄と徳一の十二年におよぶ論争は文章でおこなわれた。
最澄は激しい論争を重ねてきたことにより、相手を自分の有利な場所に引き込む論争術に長じていた。
この論争はつねに最澄の優勢勝ちだった。
そしてこの勝ちがあったからこそ、日本仏教の中に衆生すべてが仏性をもつというプラティナを刻み入れたような伝統ができた。
「街道をゆく」の中で司馬遼太郎さんも。
『徳一について藤原仲麻呂の子といわれるがよくわからない、最澄の文章から弱冠(二十歳)で都をさったことだけはわかっている』
『奈良から平安に移り変わる時期に、まだ夷(ひな)の気分を残す会津に日本最高の法相学者がいたという不思議さを誰も十分には説明できない』
②鎮魂
「栄原永遠男・天平の時代」によると。
反乱を起こし敗れた藤原仲麻呂。
この反乱の後、彼の家族もみな処刑されたが、六男の薩雄のみが若いときからの仏教修行を理由に許されたそうです。
もし徳一が仲麻呂の子ならこの薩雄ですか?
で、もし徳一が仲麻呂の子なら、会津にいたのは征夷と関係ないですかね?
その時期は仲麻呂が口火を切ったともいえる三十八年戦争真っ最中ですし。
この戦争におけるすべての犠牲者の鎮魂のために遠く会津に赴いたと。
あるいは、一時は太政大臣と位人臣を極めた仲麻呂の子らしく必勝・国家鎮護とか。
これは都で十分か?
でも、法相宗にそんな思想があるのか知りませんが、この時期彼が会津にいたのは、たとえ仲麻呂の子でないとしても、なんとなく、双方の犠牲者の鎮魂のためな気がします。
で、どうも徳一と仲麻呂の六男薩雄は別人みたいです。
まあ元々、"よくわからない"つうくらいなんだからそりゃそうですね。
さて、前九年の役の主要人物の一人、安倍貞任。
考えてみたら、彼は徳一より二百年ちかく後世の人なんです。
つまり貞任が一切経山にお経を埋めた(伝説)時には、すでに恵日寺は磐梯山麓にその威容を誇っていただろうと。
徳一のころ、この山はなんと呼ばれていたんだろう?
ところで「街道をゆく」で、ですが。
奈良仏教のうち、とくに法相宗は悟りを三種類に区別していたそうです。
一番低いのが声聞(しょうもん)で自分本位の悟り。
次が縁覚(えんがく)でこれは孤高でありすぎる。
最後が菩薩で、自ら悟りをひらいたうえで利他的に他人を救済して悟りをひらかせたり利益をあたえたりする。
で、空海は徳一の疑問書への返信に「徳一菩薩」と書いていて、司馬さんは空海らしい政治感覚のリップサービスだろうと。
でも、もし薩雄が徳一のかつての名前だとしたら、菩薩の薩って薩雄の薩じゃないですかね?
と、最初書こうとしました、書いていますが。
でも当時、薩雄の薩は正確には薩という漢字表記ではなかったみたいです。
(菩薩の薩は当時薩で固定だったのだろうか?)
で、「名山の日本史」によると、徳一開創と伝えられる寺が関東・東北に七十以上あり、その中でも恵日寺は平安中期以降(安倍貞任が生きた時代ですか)、磐梯山がみえる範囲の農村、会津四郡を寺領とし、寺僧三百人、僧兵数千人を数えたそうです。
もちろん徳一が建立した(伝説)ころはもっと素朴だったでしょうが。
ちなみに四世紀ごろ、ヤマトの軍勢が侵略してきたときに周囲の”化外の民”が抵抗し籠ったという筑波山。ここにも桓武朝のころ徳一が建立したという中禅寺があったそうです。
得一建立伽藍諸国多、奥州石梯山建立清水寺、会津大寺是也
※とくいちこんりゅうがらんしょこくおおし、おうしゅういしはしやまこんりゅうきよみずでら、あいずおおでらこれなり?清水寺が恵日寺でしょうかね?(2013/11/17)
蝦夷、鎮兵、坂東からの徴兵。
う~ん、鎮魂はともかく、征夷との関係はやっぱりあるのでは?
ある種、督戦的な(笑)。
わりといつの時代も、侵略では、暴力と宗教はセットだろう、と思います。
しかしもし徳一が仲麻呂の子供ならば(ならば)。
父の権力闘争の果ての家族皆殺しを経験した徳一が、もちろんその時代の精神からは逃れられないとはいえ、その変わり目の前の精神に属していた人とはいえ、人びとの”救い”を祈ってもなんら不思議はない気がします。
そういえば(当初かな?)征夷のとき、征討軍と鎮撫軍の両軍を派遣していたそうなんです。
もちろん実際に蝦夷を攻めるとこには征討軍。
そこを攻めることで周囲の蝦夷が動揺しないようにとそこには鎮撫軍。
で、「蝦夷と東北戦争」によると、709年、陸奥越後の蝦夷の野心がおさまらず良民を害するため、たぶん本音は前年に新設された出羽郡の安定をはかるため、越後に征越後蝦夷将軍、陸奥に陸奥鎮東将軍を派遣したと。
征と鎮。
征が暴力なら鎮は宗教?
あ、鎮魂てありますけど、征魂てないですよね。
もちろんたとえ話です。
でも征魂て何か語感が"brainwashing" (洗脳)。
やっぱり宗教だ(笑)。
③継承
「天平の時代」によると。
聖武天皇は自分同様藤原氏系の皇子への皇位継承を望んでいた。(聖武天皇の母は藤原不比等の娘。)
しかしいない。藤原系の皇子誕生まではと娘の安部内親王を異例の女性皇太子にするほどだった。
※基本的に中継ぎとして、みたいですが、当時は女性天皇は珍しくはなかったようです。
"異例"というのは、後述のように、息子がいるのに、という意味ではないかと。
もちろんこの文章は要約しています(2013/11/18)
当時、朝廷の実権を握っていた藤原不比等の四人の息子があいついで天然痘で死亡。
橘諸兄(たちばなのもろえ)が大納言になり、新興の藤原氏の勢力は後退をよぎなくされていた。
そんな中、聖武天皇の唯一の皇子で、大伴家持や橘諸兄など反藤原勢力の期待を一身に集めていた安積(あさか)親王が急死した。
これは暗殺の可能性があった。
聖武天皇は藤原系の皇子誕生を待つことなく、痛み分けのような形で譲位。
そして聖武の藤原系の皇女、安部皇太子が孝謙天皇として即位、元号を天平勝宝と改めた。
この即位の前年、橘諸兄らを支援する反藤原勢力の最大の大物、聖武の姉、元正太上天皇が亡くなっていた。
※痛み分け、と書いていますが、我が子を亡くした聖武天皇の気持ちはもちろんわかりません。マリーアントワネットに関する別の文章で同様なことを書きましたが、「この権力闘争の中では、我が子たちが幸せになるにはこれが一番いいのだ」。娘を皇太子にした時から、そのような思いが聖武天皇にはあったのかも。(2013/11/18)
※あと太上天皇とは法皇、大御所みたいな感覚ではないかと。
その保持した権力は、それぞれさまざま、でしょうけど。(2014/06/21)
そしてこの孝謙天皇即位のとき、参議だった藤原仲麻呂は中納言を飛ばし大納言となった。
兄の豊成は右大臣に、そして藤原氏からあと二人あらたに参議となった。
藤原氏の巻き返しが開始された。
しかし同時に橘諸兄の子の奈良麻呂も参議となり、朝廷での両勢力の対立はいよいよ激しくなった。
749年、聖武太上天皇の皇太后である光明皇太后のために紫微中台(しびちゅうだい)という官司が新たに設置され、その長官に仲麻呂が就任した。この官司は、実際には皇太后のためというよりも立場が不安定な孝謙天皇を支えるためのもので、藤原氏と関係深い中衛大将への就任とあわせ、仲麻呂は名実ともに藤原氏のトップにたった。
(中衛大将は、簡単に言えば聖武天皇治世中の728年に発足した天皇近衛軍、中衛府300人の長官)
さて、この頃は大仏建立や東大寺の造営などがあり、表面上は平穏な日々が続く。
「我が主、橘諸兄が反逆を考えている」
しかし755年、聖武太上天皇が重い病におかされていた時、そのような密告が諸兄の従者からもたらされた。
「彼はそのような人物ではない」
聖武太上天皇はその密告を信ぜず握りつぶした。
が、これにより左大臣橘諸兄は辞職に追い込まれ、失脚を狙ったこの密告は結局は成功だった。
※ちょっと話はかわりますが、連想したので
唐の則天武后の治世の末期。
彼女が寵愛している若い美貌の兄弟がいた。
当然、彼らは非常な権力を持つことになった。
「なんだあいつらはいい気になって。ちょっとこらしめてやるか」
則天武后の甥や姪がそう不満を言った。
それを伝え聞いた兄弟は彼女にそれを伝えた。
すると彼女は自分の甥や姪を殺してしまった。
このあと、この兄弟の自儘はますますひどくなった。
当然、多くの人達は彼らに媚びへつらった。
しかし、彼らを露骨に無視、軽蔑する人々もいた。
当時の朝廷の中心人物たちがそうだった。
「なんだあいつらはいい気になって。ちょっとこらしめてやるか」
兄弟は則天武后に彼らへの不満をのべた。
「彼らは私が見込んだ人物だ。お前たちは政治のことに口をだすな」
しかし彼女はそれを一切とりあわなかった。
この後、玄宗皇帝治世の初期、唐は空前の隆盛期を迎える。
その中心となったのが則天武后によって見出されたこの人たちだった。
そして、この兄弟は則天武后の死の直前に殺された。
彼らはその死の時まで、則天武后の病床にはり付き続けていた。
みたいな。(2013/11/19)
④仲麻呂
756年、聖武太上天皇と先の左大臣橘諸兄があいついで亡くなり、状況はさらに混迷を深めてきた。
この直後、朝廷を誹謗し臣として礼を失したとして、橘氏と共に反藤原氏の有力な一角である大伴氏の重鎮が逮捕された。彼はすぐに釈放されるも土佐に左遷され、のちにそのまま流刑となる。
そしてこの逮捕、左遷を機に、大伴氏内部の急進派は反仲麻呂の陰謀に突き進むようになる。
さて、聖武太上天皇は遺言で、自分の祖父草壁皇子の兄弟である新田部親王の子、道祖(ふなど)王を皇太子に指名した。
これにより、文武・聖武と続いてきた草壁皇子を租とする皇統の流れは自分の娘、孝謙天皇で止まることになる。しかし自らと同じ、壬申の乱の勝利者である天武天皇の血脈から後継者を選んだ。
※聖武天皇の祖父、草壁皇子は天武天皇の第一王子、新田部親王は天武天皇の第七皇子。
ちなみに聖武天皇は文武天皇の息子だが、文武天皇は若くしてなくなり、その時聖武天皇はまだ幼少だった。
そのため、草壁皇子の妃であり文武天皇の母である元明天皇、その娘(文武天皇の兄妹)元正天皇が短い期間ではあるが女性天皇として即位した。(2013/11/18)
しかし聖武の死後、道祖王はその行状が皇太子にふさわしくないとして、すぐに皇太子の座を追われた。
そして仲麻呂の亡き長男の妻と結婚し、その時仲麻呂の邸宅に住んでいた、同じ天武系の大炊(おおい)王が新たに皇太子に選ばれた。
※大炊王は舎人親王の第七王子。
舎人親王は天武天皇の第三王子。(2013/11/18)
翌757年、仲麻呂は大本営的?な新設の紫微内相(しびないしょう)にも就任し、国家の軍事権を握った。
彼はこれらの権力を背景に反仲麻呂派の勢力を降格や地方に追い粛清した。
これに対し反仲麻呂派はクーデターを計画するも、それは追いつめられた末のもので、意思の統一もなく事前に露見、自白や密告で次々と逮捕された。
中心人物であった大伴古麻呂は拷問で殺され、不明だが橘奈良麻呂も獄中で殺された可能性が高い。
そのすぐ後、実際には難波にとどまったものの、仲麻呂の兄の豊成が息子の逮捕に連座して九州に左遷され、仲麻呂は祖父不比等をこえる独裁権力を手に入れた。
彼はたとえ身内でも、自分の上となる存在をゆるさないようになっていた。
そしてこの頃、藤原や君子(天皇)の姓を久須波良や吉美候に改めさせ、天皇・皇后の名と共に鎌足や不比等の名の使用が禁止された。
※藤原や君子(天皇)の姓。
当時、庶民には姓はなかったと思いますが、仲麻呂系の藤原一族以外の藤原氏という意味でしょうか?君子というのは、吉美候から考えて、天皇の姓、ではなく、君子という字面が天皇を連想するから駄目だ、ということですかね?(2013/11/19)
そして758年、孝謙天皇が譲位、大炊皇太子が即位、淳仁天皇となった。
そして仲麻呂は恵美押勝(えみおしかつ)という姓名と強大な経済力を得た。
この後、並ぶもののいない権力を握った仲麻呂は版図拡大の東北政策を再開。
760年、仲麻呂はついに祖父不比等も固辞し続けた太政大臣の地位につき、その権勢は絶頂に達した。
しかし同じ年、天皇家の支柱であった光明皇太后(聖武天皇の后)が亡くなり、これにより孝謙太上天皇と淳仁天皇の不和がしだいに表面化。絶対的に見えた仲麻呂の権力に、微妙な影が差しはじめた。
761年、東国に対する近畿周辺の重要軍事拠点でもある三関(三カ国の関所)の統轄を主とする按察使が置かれ、仲麻呂の次男と女婿が任命された。
この時、次男が就任していた大和守は三男にかわり、平城京を管轄する左京右京両大夫(たいふ)も左右京尹(きょういん)として統合し、これも三男が兼任、仲麻呂は近畿周辺を身内で固めた。
同じ年、融和の機会をつくろうと思ったのか、仲麻呂は藤原氏の勢力圏の近江に保良宮(ほらのみや)を急ぎ完成させ、孝謙太上天皇と淳仁天皇の二人を迎え入れた。
しかし翌762年、孝謙が自分の病を治した(と思った)道鏡を寵愛しはじめた影響もあり、ここ保良宮で二人は決定的に決裂した。
※太政大臣は律令の最高位で定員一名、適任者がいなければ欠員でよかったそうです。
徳川幕府の大老のような感じかも。
で、次に、左大臣、右大臣、定員両一名、ときますが、立場としては左大臣が上だそうです。基本的にはこの左大臣が最高位だったみたいです。
そして大納言、一応定員は4名ですが、これは時代によって多少の変遷がある。
で、その下に中納言、これの定員も一時期8名と定められたことはあるが、一定はしなかったそうです。
ちなみに大納言は左右両大臣不在の時にかわって政務を執り行うことができたが、中納言にはその権限はなかったとか。
で、この下に参議、これも定員は一応8名ですが、やはり一定はしなかった。
もともとはここまでの人を公卿と呼んだようです。
天皇に近侍したのは中納言以上みたいですが、よくわかりません。
参議は、すくなくとも最初は、国政の審議にのみ参加していたそうです。(2013/11/19)
⑤宴のあと
仲麻呂が宥和をはかるも、孝謙太上天皇と淳仁天皇の仲は決定的に決裂。
二人とも相次いで平城京に帰ってしまった。
そして孝謙太上天皇は「私は出家した」として法基尼(ほうきに)と名乗り、「今後国家の運営は自分がおこなう、淳仁は天皇の日常の些事のみをおこなえ」と宣告した。
この淳仁天皇こそが仲麻呂の権力の裏書であった。
そして同じ月、後宮の女官の長だった仲麻呂の正室が亡くなった。
う~ん、仲麻呂が独裁者といっても孝謙太上天皇の一言で吹っ飛ぶんだからたいしたことは・・・
というか、孝謙太上天皇自身の今後のことも考えると、天皇個人(ここでは太上天皇ですが)ではなく、天皇それ自体の権威が貴族のなかではまだまだ凄かったんですかね?
もちろん藤原氏も含め。本家の当主みたいな感じ?
※もちろん孝謙太上天皇による道鏡問題です。(2013/11/20)
あと、これに限らず、歴史ではわりと都合よく人がいなくなる気がします。
そしてそれを機に歴史が動きだす。
もちろんそれが当然なんですけど。
だって歴史の流れのつっかえ棒になってた人がいなくなるんだから、動き出すのは当然。
ただ、仲麻呂のところだけでも、何か多い気はしますね。
それがすべて仲麻呂に有利に働いた、というわけではなく。
この孝謙太上天皇の宣言で仲麻呂の権力の衰退はいよいよあきらかになってきた。
しかし半年後、(たぶん)あせった仲麻呂は次男に続き三男四男を参議に任命。
国の最高機関である太政官を血縁や自派で固めるという露骨なことをした。
これに対して同じ藤原氏の中からも仲麻呂を暗殺しようと思うものがでてきた。
このように同族からも見限られつつあるなか、長く仲麻呂派が独占してきた官吏に反仲麻呂派が就任することもふえてくる。
764年、保良宮がある近江も、仲麻呂が信頼する女婿で按察使の御楯(みたて)が亡くなった後は反仲麻呂派の手中にほぼ落ち、京の僧や尼を管轄する官からも排除された。
同じころ、以前の銭貨とほぼ同じものに十倍の額面価値をつけた万年通宝が流通しはじめ物価が急上昇。それに飢饉や疫病の流行がかさなった、特に近畿や近江はひどかった。
「これはすべて仲麻呂の悪政による」
そのような声が天下に満ちた。
仲麻呂は追い詰められた。
同764年、自らを守る兵を集めるため、彼は国家の命令書を偽造。
そして部下の密告によりこの致命的行為が発覚、仲麻呂はついに挙兵した。
しかしこれは、かつて自分が死に追いやった人たちと同じように、追い詰められたすえの挙兵だった。
当然、仲麻呂は孝謙太上天皇側に常に先手をとられることとなった。
琵琶湖湖西の勝野という場所で仲麻呂は最後の戦いを挑みあえなく敗北。
捕らえられていた妻子などと共にその地で処刑され、この乱は終息した。
ただ六男の薩雄のみが若年からの仏教修行を理由に命を助けられた。
で、ですね、「天平の時代」に大伴家持と仲麻呂の直筆という写真が小さくですが掲載されていてですね。
家持は文章で仲麻呂は署名のみなんですが、なんというか家持の大人の文字にたいして、仲麻呂はなんとなく子供っぽい文字なんですね。
単純に上手い・下手かもしれませんが。
兄弟をも踏み台に、謀略の限りをつくして己の野望に邁進する仲麻呂。
そんな仲麻呂に追い詰められる大伴氏の長老として、「決して軽はずみなことをして罠にはまり大伴氏を滅ぼすことがないように」と氏族内の血気さかんな若者を諭す家持。
でも権力を握った後の仲麻呂は、疲弊していた普通のひとびとの負担が軽くなるような政策を次々とおこない、もちろん人気取りということもあったでしょうが、本当に世の中をよくしたいという理想主義に燃えていたのかも。
そのためにも何が何でも権力を握らねばと。
それを独裁者というのかもしれませんが。
Guernica、or Siege extinction operation for the childrens of the future. 2月 01, 2019
Sunday, 10 March 2013
there is good news
Castle of Tokugawa called "Chiyoda Jyou (castle). 千代田城"
(The current Imperial Palace.)
Its northeast、about 3 km. (about 2 miles)
There was a family temple of Tokugawa clan named "Kan'eiji. 寛永寺"
”I will refrained from going out (as punishment).
Because I want to show my obedience to the Imperial Court by it."
Yoshinobu said so and decided to move to this temple.
(Chiyoda Castle was Japan's largest fortress.)
※Today it is usually called Edo Jyou (as the name at that time). 江戸城
During his move、Shinsengumi also guarded the way.
But Shinsengumi members had greatly reduced than before.
(About 60 percent casualty rate in battle of Toba Fushimi.)
※Of course、people who are missing will also be included.
"There is good news."
There was a person who approached to Kondo at that time.
"Koshu of Tokugawa territory.
(Current Yamanashi.
The back side of Mt fuji、viewed from the Pacific Ocean.)
Tokugawa officials have been retreated from there already.
So now there is not ruler in this land.
And above all、Tokugawa will be in trouble if this land were occupied by the enemy.
If you want it、Shinsengumi can go to Koshu for that land's security.
And of course、in that case、you can have all domination of Koshu (In other words、you can become a feudal lord).
Of course Tokugawa will provides armaments and funds for Shinsengumi."
He said so to Kondo.
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"Kondo and Hijikata.
Tokugawa will appoint you to immediate follower of the Shogunate.
And Tokugawa give you the Tokugawa high-ranking vassal's last name."
At the same time、there was this notice to them.
"So as not to overshadow as ruler of Koshu.
Maybe there was such intention (on the surface).
Kondo is Okubo Yamato.
Hijikata is Naito Hayato.
After this、they called themselves so in the official place.
Immediately after this proposal、they recruited new members for Shinsengumi.
That's result several hundred of members gathered.
And they started advancing to Koshu.
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When we go to the west of the Kanto Plain、there is a mountain massif.
Beyond that massif、there is a Koshu Basin.
Before that massif、it was the hometown of Kondo and Hijikata called "Tama". 多摩
They were born as farmers child here.
But now、they were allowed to wear the lord's costume from Tokugawa.
People of their hometown were warm welcome them as hero.
"Enemy troops is approaching to Koshu."
Of course there was this information.
But they did advancing slowly.
At this time Hijikata met his big sister after an absence of several years.
He proudly boasted of his success to her.
And he added at the end.
"I do not know the future."
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"Today、Tosa troops occupied the Koshu castle.
Their numbers is about 2,000."
One day before of the arrival of Shinsengumi、that information was reported to them by the scout.
East of the Koshu castle、about 15 km、there is called "Katsunuma". 勝沼
They stoped at there and hurriedly built a defense position.
But escape of the soldiers from Shinsengumi was the one after another.
(They had just joined the Shinsengumi a few days ago.)
"Aizu's reinforcements coming soon."
They lied to their soldiers for overcome this emergency.
(But Aizu troops was returning their home country already to by Tokugawa's instruction.)
During this time、Hijikata went hurry to Kanagawa for request of reinforcements.
But this was failed、and their lies were also exposed to their soldiers.
The results、military strength of Shinsengumi has been reduced to about 100 men.
Finally they were besieged by the Tosa troops、became in a state of disorder in the battle for a few hours、and retreated to Edo.
Monday, 11 March 2013
The day of all-out attack
Road to Edo from Kyoto via Koshu、it called "Nakasendou" 中仙道.
Now、this road was completely controlled by the new government troops.
Road to Edo from Kyoto through seaside、it called "Toukaidou" 東海道.
Troops of this road was main troops of the new government and its commander-in-Chief was Saigo.
They was also approaching to Edo.
"Handing over of all military supplies of Tokugawa.
Eviction from Chiyoda castle.
Execution of responsible party who started the battle at Toba Fushimi.
If these requests are accepted、the Emperor will be take clemency to Yoshinobu."
They presented this request to Tokugawa with preparation of all-out attack against Tokugawa.
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"War might begin at Edo."
Naturally、this prediction grew within the diplomatic corps.
Foreign settlement of Yokohama was closer to Edo.
They did strengthen security and began to collect information regarding both sides positively.
Full authority of Tokugawa's negotiations against the new goverment、it had been given to Katsu at that time.
Ernest met with Katsu.
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"General commander of the West army is Saigo.
So I'm optimistic to future prospects.
I know him well.
He will not take cruel action absolutely.
A guarantee of the safety of Yosinobu kou's life ("kou 公" is a honorific title).
And of course Tokugawa's multitude vassals and all the Edo citizens.
At same time、guarantee of the safety of their lives..
If they accept this、Tokugawa to surrender meekly."
Katsu said to Ernest.
"If they don't accept this、Tokugawa will fight thoroughly."
Of course、he added so.
"I have a favor to ask to you.
War in Edo city.
This is absolutely not good for Japan.
I would like them to tell the contents of this meeting from the British Ambassador."
Katsu went on to say that.
Ernest was readily agreed.
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"We have determined all-out attackk to Edo.
Therefore、it is expected that many soldiers will be injured.
We want to make the hospital in Yokohama."
The new government troops proposed to diplomatic corps.
"Tokugawa already shows the intention of surrender.
Nevertheless you attack them、it is a questionable act in the light of international law and above all humanely.
This attack would diminish significantly the evaluation of the new government."
But British Ambassador strongly advised like that to the new government.
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Main troops arrived in Edo、Saigo was also based in the Satsuma clan residence of Edo.
The day of all-out attack to Chiyoda castle also determined.
"If this negotiations break down、we burn out Edo city.
All public-private ships near Edo.
Collect these ships right now.
We rescue Edo citizens with these ships."
Before this meeting、Katsu was preparing this.
Probably this plan had been done openly.
Tokugawa navy、they were also concentrated in Edo Bay.
Then Katsu went alone to the Satsuma clan residence.
※I don't know now where the Satsuma clan's residence in Edo was attacked by Tokugawa、basically there are multiple "clan's residences" in Edo.
Of course、it is possible that all of them were attacked and set up headquarters in the unburned house.
Or the residence was maintained by rush work.
Or the residence is not burned in the first place (lol).
で、"司馬遼太郎の跫音"より。
"映像の20世紀 第4集 ヒトラーの野望"
加古隆名義の曲はすべて佐久間正英さん作曲。
したがって加古隆という顔の男はゴミ(処刑)。
で。
一人、手を挙げてる男はゴミ処刑済ですが。
"独裁者"
そういえば、ゲーリングさんはドイツ帝国空軍パイロット(この方はヒムラーさん・笑)。
※うちの横を電車が通過する、近辺をバイクが通過する、等、で、"ズラタ~ク"とつぶやくと、さらによく死ぬぞ。ゴミは残すなよ。なんだったら君の家の近くを、で、"ズラタ~ク・zurata~ku"とつぶやくと、さらによく死ぬぞ。効果は分かるようにするぞ。無くなり次第終了。20211209。
※バリエーションで"ジャニーズ陰間の分際で・邪鬼巣kagema no bunzaide"demoよく死ぬぞ。鮮やかすぎたのは無数のジェラシー"LET'S爆裂死・LET'S BTS"とか。踊れレジスタンス。20211210。
※そうそう、あとね、今は昔だけど、原明の家の隣に介護施設の駐車場が出来て、その介護施設のパートだかなんだか、来た時と帰る時、爆音重低音でたぶん細菌の音楽かけながらしばらく車止めてる奴がいて、朝っぱらも、一度どんな奴だと顔見に行ったら、何か、己の意思の弱さで借金まみれになったような中年小太りデブだった、で、一度消え、しばらくして、また爆音重低音でたぶん細菌の音楽かけながらしばらく車止めてる奴がいて、どんな奴だとたまたま顔見たら、我欲のド塊な顔したババアだった。で、細菌は、つつましやかにやってるな(笑)。エタヒニンはちゃんと殺れよ。
そうそう、これは非常に余計なお世話だけど、細菌のパートは凄く高そうな車に乗ってるね。ファッションも七五三みたい七五三に悪いけど、貧相な我が家私と好対照。エタヒニンはちゃんと殺れよ。20211209。
※ついでに、これは単純に、朝のワイドショーの人とか全般、ジャニーズお笑い芸人その他ゴミ処刑図、お似合いだよ、いいんじゃない?そういう運命を自分で選んだ。
俺たちとは違う。20211210。