we are amaterasu kingdom dimensionsLII。
で、これらの本は、祖父母が住んでいた有田の原明の家の物置から「うわ~懐かしいな」と引っ張りだしてきた本たちです。
ちなみにわが家の住所は佐世保市島地町7-1ですが、本籍としては島地町33です。で、ですね、原明、はらあけ、HARA・AKE、H・A、ヒトラー・アドルフ…から発展し、今は俺がはずしましたけど、ウチの3階の玄関前に額に入れて飾られてる“書”があったんです(現在原明の家にある)。
「何これ?」と母に聞くと、「私が書の展覧会に出品した作品だ」みたいなことを
ちなみにわが家の住所は佐世保市島地町7-1ですが、本籍としては島地町33です。で、ですね、原明、はらあけ、HARA・AKE、H・A、ヒトラー・アドルフ…から発展し、今は俺がはずしましたけど、ウチの3階の玄関前に額に入れて飾られてる“書”があったんです(現在原明の家にある)。
「何これ?」と母に聞くと、「私が書の展覧会に出品した作品だ」みたいなことを
ま、それはそうみたいなんです。
たしかに、べったり糊付けされた母のアルバムにその時の写真が。
で、「なんて書いてあるの?読めん」と言うと
「有名な言葉だ、故郷の山に向かいいうことなし、故郷の山はありがたきかな」みたいなことを
で、「ほ~」と。が、よくよく見ると「この赤い印つうの、これ何?」
「これは書道の先生に作ってもらった、久美子の崩し文字だ」「え?これで久美子と読むか?」これ(ローマ字書きで)、アドルフヒトラー、ADORUFU HITTRA-の組み合わせ文字じゃないか?
つうか、となりの「ありがたきかな」の"な"、これ"な"?
これもADORUFU HITTRA-の組み合わせ文字じゃないか?十十、ダブルクロス、卍
で、「ふるさと」の“ふ”
佐世保市市民体育館と佐世保市コミュニティーセンター。
で、佐世保図書館とかがヒトラーさん設計らしいのですが。根拠は直感。あと、そういえば。
その場所で、というわけではないのですが、散歩中この市民体育館の近くで出会った猫が異様に凛々しかった(笑)「ニャ」ではなく「ニヤ」みたいな。
で、ここは俺が通った小学校の近所でもあり、その光園小学校(現在祗園小学校)は俺が在学中新校舎になったのですが…。
この校舎の設計もヒトラーさんのようで、で、俺も在学中参加した50周年記念の人文字写真。24.7月5日、あさのさんぽ・島地山から祇園(光園)小学校へ 9月 13, 2018
で、ここは俺が通った小学校の近所でもあり、その光園小学校(現在祗園小学校)は俺が在学中新校舎になったのですが…。
これまた、よくよく見てみれば…。
ただ、本当にヒトラーさん設計として、そんなことするか?という疑問には「ニャ」ではなく「ニヤ」みたいな。で、念のため、そのことによる不便は全くなかったと断言します。校内テレビ放送設備(放送スタジオがある)を備えた当時としては最先端の小学校だったと思います。
で、これは現在の佐世保市祇園中学校区の人たちに。20210921。
これはおれの高校の卒業アルバムの裏表紙(最終ページ)なんだけど。8月 04, 2018
なんとなく変じゃない?
※右側か(笑)?校舎は建て替わってるとおもう(合併の為か、祇園小の体育館は建て替わって当時と向きが変わってる)。20211005。
確かに角度でこう見えるのかもしれんけど、当時の旭中学の存在する場所がないというか。今現在、おれが通っていた花園中学と合併して祇園中学になってるけど、花園中学は廃校で、女子校になるの?で、その光園小学校は戸尾小学校と合併して祇園小学校。 で、とにかく、なんか空間がくっついちゃってる。現在(1990年ころ)の佐世保のようで現在の佐世保でないとか。
※右側中段の壁みたいになってるすぐ反対側におれの父も卒業した旭中学校があるんだけど(その向こう側はアドルフヒットラー!光園小学校、で、これだけのスペースがあるんだから)、が、これは、わからん、何にせよ坂の上だけど、光園小学校はさらにちょっと台上、旭中学校は、運動場とかは、たしか少し低地で、こう見えるのかもしれん。もっと右側、は、ないとおもう。以上閑話休題(笑)。20210921。
九州文化学園小学校・九州文化学園中学校
で。
左側の昭和12年の鉄道省の写真(祖父勤務)。何かこの時代にあってはおかしいものが写ってるという噂も、俺の脳内で、あるのですが、ま、そこはとりあえずおいておいて、右側の方たち。
この二女、多美子さんとそのお父さんと思われる写真の裏には何もなし。
当然、光園小学校の歴史に関するいろいろな資料などがおさめられているのですが、卒業生名簿も収録されていまして、そこを何気に見ていると。
161(は161。当然、911ではないですね)ページの第24回卒業生(昭和33年度)の所に永野多美子さんのお名前を発見。名簿に収録されているお名前で多美子さんはこの方だけだったと思います。
158ページ、第19回卒業生(昭和28年度)、左から3列、下から8番目に永野臣俊さんのお名前が。
そこに永野米穀店の広告。実は、この前後に永野さんはこのお二人だけだったのですが(戦後一時期の校区合併?のためだと思いますが、艶子さんのお名前はありませんでした)、俺の同級生にも永野さんがいて、その永野さんのお店か?とも思いつつ、8ページめくると。
麻生歯科医院、院長麻生真さんの広告が。で、また祖父のアルバムにもどり。
T☁15.12. 入営前の記念、としての写真に麻生さんのお名前。
一応、三人の方が胸ポケットに差しているのは万年筆であり、この後20年は存在しないボールペンではないと思うんですが(斉藤さんのは万年筆だと思いますけど・笑)。
この二女、多美子さんとそのお父さんと思われる写真の裏には何もなし。
で、ですね、前述しました、光園小学校、創立50周年記念の本が当時作られていまして。
で、ですね、その少し前。
158ページ、第19回卒業生(昭和28年度)、左から3列、下から8番目に永野臣俊さんのお名前が。
で、ですね、この創立50周年本の4割は、50周年記念行事のため(?)寄付をされた卒業生、保護者の方などの広告ページなのですが。
麻生歯科医院、院長麻生真さんの広告が。で、また祖父のアルバムにもどり。
T☁15.12. 入営前の記念、としての写真に麻生さんのお名前。
一応、三人の方が胸ポケットに差しているのは万年筆であり、この後20年は存在しないボールペンではないと思うんですが(斉藤さんのは万年筆だと思いますけど・笑)。
アルバムから剥すと丸まってワイドスコープのようになってしまいましたが、これは祖父の
『過ぎし道乃里』にも書いてある、祖父が十代後半の時の脱線事故の現場写真。
(白手ぬぐいが鉄道関係の仕事を始めていた祖父なのかどうかは、ちょっとわかりません。)
で、これではちょっとわかりづらいですが、大正時代後半の写真としてはな妙なクリアさ、とかは思いのほかそんなものなのかもしれません、ボールペンとかも…。
あとから書き入れたのだろうと。が、延々俺に付き合ってる方はパッと見で思われるでしょうが
☆だの、10だの、3Ⅲだの、右端のスコップと木の組み合わせはⅤにも見えれば、十十にも
こじつければいろいろ怪しさ満点で(笑)。"十二台の機関車"とかはおいといて、この機関車は問題いいんですかね?
形状とか、この時代のこの場所で。
で、突然ですが。
すでに1歳ずれてしまった。あのですね、お二人とも祖父と親交がおありになったようですが。
永野さん。
麻生さん。
え~俺の光園小学校の先輩、昭和28年度第19回卒業生(911ではないですよ当然)、永野臣俊さん、麻生太郎さんだろう、と。
で、ですね、この50周年本に。
この昭和28年度の卒業生、八田淑子さん(6年14組)、姓は違いますが俺の同級生のお母さん、の卒業当時の文章が転載されていまして、で
133(311じゃないですよ当然)ページのこのクラス写真に子供時代の永野臣俊さん、麻生太郎さんがいらっしゃるのではなかろうかと[※おそらく先生の二つ隣り]。で、ですね。
どうもうちの母と普通にお知り合いみたいなんですが、永野多美子さん。
え~、実はネット環境がないのでお名前わからないんですが(笑)、現在の韓国朴大統領ではなかろうかと。
写真の麻生さんは麻生家の先代の方、少年少女時代、臣俊さんは麻生家の、多美子さんは朴家の養子になられたのではないかと。その養子縁組は法的にもきっちりしていてなんら問題ないと。
"新日本紀行 第27巻 筑豊 ~福岡県~ S44 3放送"
※そういえば、おれの兄は福岡の麻生電子ビジネス専門学校卒です。20210426。
※麻生さんこれは質問ではありません。"AKBゴミ処刑文責俺"に"何がいいんだあんなもん"と吐き捨てられていたのは、選挙対策でオフレコでしょうか?20211209。
原明の家に永野臣俊名義でのお店の広告が載ってた佐世保市関連の本がありましたが、捨てました。8月 04, 2018
そうだ、私信ですが、朴さんのお母さんて朴槿恵さん?11月 17, 2018
"天草諸島は島原の乱の起きる前、肥前唐津藩の飛び地として唐津藩主寺沢氏の支配下にありました"
ところが寺沢氏は大名としての格の高さを幕府に誇示するため、二万石程度しかない石高を四万二千石と水増しして報告します。"
"こういう自領の水増し評価と言うのは、当時の大名の財政常識からいって非常識極まりないものであった。むしろ幕府にたいしては過小評価の額を示しておくのが常識であった。""今日、月収15万円の人が税務署から30万円とされて課税されるようなものである。しかも所定の納税をしなければ刑罰をもって処断される。収めても収めなくても生存が不可能というものである。この唐津の寺沢氏がやった凶暴としかいいようのない愚かさは、江戸初期に島原半島をもらって入部した松倉重政の場合にも割れた下駄をあわせたように符合する。"
"島原の乱が起きる四年ほど前から凶作が続き餓死する人が出る一方で、年貢の取り立ては一層厳しさをましていきます。この領主による農民への搾取が島原の乱の直接の原因になったと司馬さんは考えています。"
"空気は圧縮されてすでに熱をおびている、どういう可燃物をほうりこんでも爆発するまでになっていた。"
"寛永十四年十月、代官を農民が殴り殺す事件がおこります、この事件を発端に農民たちの蜂起が始まりました。"
"ともかくも海を挟んで島原、天草が相呼応したのである、日本史上の圧巻といっていいであろう。"
このあと番組は"天草の農民たちは海をわたり島原半島に上陸、島原の農民と合流してかつてのキリシタン大名有馬氏の居城原城にたてこもり・・・"と続くわけですが、ここで一時停止します。
"有明海、島原湾は大海ではないが、海産物も多く、ときに潮が激しく、じゅうぶんに力のみなぎった海である。朝の太陽は天草諸島の山々からのぼり、やがて原城の上を通り、低い山なみの向こうに沈んでゆく。原城にいれば終日海景と山景に厭きることはない。そのため日暮城といわれた。この景色はただいるだけで人を楽天家にするのではないか。ただし、それも有馬氏の盛時だけのことで、東方からやってきた松倉氏がこの城の建物をこわし、石垣をはぎ、もとの孤立大地にしてからは、まわりの景観は変わらないといえ、歴史が陰惨で、たどるにしのびない。"
で、この『島原・天草の諸道』、これは30分番組なので当然といえば当然なんですけど、この回のほとんどが切支丹、そして天草島原の乱についての話題で占められています。しかし.。
"原城は、いまから360年ほど前、江戸時代の初めに起きた島原の乱の激戦地となったところです。領主の圧政とキリシタン弾圧にたえかねた三万七千の農民たちがこの城に立てこもり幕府軍と戦って全滅しました。""司馬さんは島原市内を散策中に武家屋敷の佇まいが残る一角、通称鉄砲町をたずねました。このあたりは徒歩(かち)と呼ばれる下級武士が暮していたところです。"
"こんにち萩などでも比較的上級の藩士の屋敷は残っているが、城下の徒歩階級の屋敷が区画ごと残っているのは島原の鉄砲町ぐらいのものではないか。"
"むろんそれらは偶然残っているのではなく、「文明とは秩序美である」ということを頭と身体で知っている住人たちの意思と犠牲によって懸命に残されてるといっていい。"
と、思ったら、「考古学の旅」に著者である森浩一さんのお考えとして、その可能性がサクッと書いてありました。
砂金とかは"毛外の民"の人たちには、それこそ民話の炭焼藤太の話のように当たり前にそこにあるものだったのかもしれませんね。だから彼らはそこにこれといって価値を見出していなかった。
「ああ、そんなもの、そこの沢に行けばいくらでも取れるよ」みたいな。
森さんも、敬福から届けられた大仏鍍金の900両の中には、蝦夷を介して入手した、より北方の、もしかしたら(現在の)北海道の砂金も含まれていたかも、と。
「天平の時代」によると。
聖武天皇と藤原不比等の娘光明皇后のあいだに生まれた唯一の男子で、生後一年で亡くなった某王がいた。この男の子のために建てられた小さなお堂が後に金鐘寺(こんしゅじ)という小さな寺になり、この寺を前身として東大寺が造営されたそうです。
使用された鍍金は大仏のみで10,466両、約430kgとか。
さて、炭焼藤太の話。
「金(きん)?そんなん何が惜しいんだ?裏山掘ればいくらでも出てくんぞ」てな話。
あれは福島(信夫郡)の民話でしたが、「宮城の民話」を読んでいると、栗原という場所の話としてほぼ同じ話がのってました。
でも、今とりあえずその本をざっと読んだだけですが、空海話は「宮城の民話」にはなかったな。
そこまでは高野聖も来なかったのか?まあ、なんでものっているわけじゃないでしょうが。
宮城は鎌倉幕府成立までは奥州藤原氏の勢力圏?それが関係してるのかもしれませんね。
でも、白河の関(今の福島県南方)を越えると、だもんな。
で、高橋千劔破さんの「名山の民俗史」によると、福島と茨城の境にある八溝山(やみぞさん)、ここは古くから砂金がとれることが知られていた。
"白河の八溝黄金神に奉げものをして国司に祈らせると常より数倍の砂金がとれ、遣唐使の資金がおおいに助かった"。
続日本後紀、承和三年(836)の記事に、そのような記録があるそうです。
そして、そこから少し時代がくだりますが、「平泉の世紀」によると。
10世紀末、奥州が唯一の産金地で、国の金の需要はすべてそこからの貢金で賄っていた。
中国の「宋史・日本伝」にも、"東の奥州は黄金を産し"とあり、日本の黄金はその質のよさもあり、日宋貿易の重要な輸出品になっていた。しかし現在その貢金はほぼ途絶えている。
※貢金とは奥州から京都の朝廷(貴族)への献上金でしょうね。
ただ、この"現在"がいつのことだか、現在わかりません。
おそらく奥州藤原氏が東北での地位を確立した後のことではないかと思います。
たぶん書いた時点では少なくとも自分の中ではわかっていたんでしょうが、時間が経過してみると、自分でも何を書いているのかわからない、こうしてみると結構ありますね。
ツイッターに書いていたんで、なんとか文章を簡略化しようとしたのだろう、という言い訳はありますけど。(2013/11/21)
※朝貢貿易の、つうても、ですね。20180901。なんとか文章を(略・笑)。20200806。
「源平盛衰記」の中に、平重盛(平清盛の息子)が陸奥国を支配(実際は奥州藤原氏)していた時の話として。
"気仙郡から1,300両の貢金があり、それを宋から来ていた商人を介し、中国の育王山という霊山と宋の帝室にわけて送った"、そのようなくだりがあるそうです。
「平家物語」では同じエピソードで貢金は3,500両。
ただし、こちらは金の出所が書いてないんですと。
で、その時代の出来事として、奥州藤原三代清衡(二代基衡とも)は10万5千両(四トン超?)の砂金を宋の帝室に送り、7千巻以上の一切経を平泉に輸入したことがあったそうです(もっとも、それが記されているのは百年以上あとに書かれた文章内ですが)。
さすがに量は大げさかもしれませんが、この奥州金と中国の長い結びつきが、のちに黄金の国ジパングとして結実したのではないだろうかということです。
ところで、この「宋史」成立は元朝後期、かなり時代をくだります。
しかし、その「日本伝」は、984年にに入宋した日本僧奝然(ちょうねん)がもたらした「王年代記」など日本側の資料をもとに記され、日本伝としての信頼性は高いそうです。
で、この奝然が渡宋の時同船した宋の商人の話で、公卿が彼にお土産に金を持たせたいけど手持ちがないから奥州に貢金の催促をしたという話があるとか。
もちろん自分たちの正史も自らはつくらず、いつか天命あらたまり自分達を滅ぼすことになる誰かさんに任せると。
完全記憶たよりなんでちょいと不正確ですが、自らの滅亡も予め織り込みずみって考え方、凄いことかも。
まあ完結した正史をつくろうとしたら終わらんことには、でしょうね。
それに資料は基本その王朝が作成したものを使うんでしょうし。
蜀の官僚でもあった陳寿が(一度官を退いたみたいですが)晋の官僚として「三国志」を書いたように、王朝は滅んでも官僚は引き続き次王朝に仕えて連続性はそれなりにあったとか?
現実問題、上から下まで総とっかえしてたら動くもんも動かん気もしますし。
なにげに官僚の保身の一環としてそういうルールを自らつくったとか(笑)。
前王朝と同じ轍を踏まないためにも前王朝を知り尽くした我々の知識が必要ですよと。
もっとも「晋書」はずっと後世の唐の時代、「宋史」も元の後半に成立ですけど。
さて、話は天平の世にもどります。
同じ信仰を持つ人々や、その人々が持ち寄る財物や労働奉仕を当時知識(智職)と言ったそうです。
聖武天皇が河内国を訪れた時、そこに住む渡来系の人たちを中心とした知識で造立された智職寺や毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)を拝して深く感銘。
"そうだ、この国の知識を結集して大仏を造立しよう。"
聖武天皇はそう思いたったそうです。
ちなみにこのくだりは岸俊男編「古代国家と日本」を読みつつ書いています。
で、仏教渡来以前の信仰を基層信仰(神祇信仰)というそうです。
で、708年に秩父郡より初めて銅が朝廷に献上された時、"これはわが国の神々のおかげだ"と、主に中央の貴族のみなさんでしょうが、そう口々に言っていたそうです。その風向きが変わるのは、仲麻呂登場の契機ともなった、藤原四兄弟も亡くなった737年の天然痘の大流行とか。
そのときの詔に、"病気がものすごく流行っているから神に祈りを奉げ続けているけれど、いまだに何もしてくれない"と、日本の神々に対する不満が露骨に表明されているそうです。
ただ、「古代国家と日本」の訳文?では"神仏に祈り祭れども"となっています。
日本の神々のみに不満を言っていたわけではないみたいです。
この頃はまだ神仏の神の方に苦情の伝え先のアクセントがあるということでしょうか?
続く740年、九州で藤原広嗣の乱発生、で鎮圧。
この時、伊勢大神宮に戦勝の祈願、そして乱鎮圧後その感謝を奉幣し、同時に諸国に命じ、観世音菩薩像一体の造仏、観世音経十巻を書写させたそうです。
さらに鎮圧前、持節大将軍大野東人をして宇佐八幡宮に祈らせているそうです。
このあたりで神仏がいよいよ拮抗してきた感じですか?
で、よくよく読んでみたら、"宇佐八幡宮に祈らせて"ではなく、"宇佐八幡神に祈らせて"と書いてありました。で、この八幡神への祈願が反乱鎮圧に結びついたという認識が朝廷にもあり、翌年、宇佐八幡宮に(仏教の)経典が奉納され三重塔が作られたんですと。
神と仏の習合がはじまりましたか?
で、749年、初めて黄金が献上された時。
聖武天皇は造立中の大仏に三宝(仏・法・僧)のおかげで黄金がみつかったと喜びを伝え、さらに自分は三宝のしもべで、仏教こそ国家守護の大本であるという考えをしめしたそうです。
で、この大仏造立から、日本の神々は仏を護り従う存在だという神仏習合思想が本格的に広がりはじめるそうです。
ところで、「仏教民俗学」によると。※山折哲雄さんのご本です。20180901。
明治四十年、大仏殿修理のために数ヶ所穴を掘ったところ、そこからさまざまな遺宝が出てきた。
そしてそれら宝に混じって歯と骨の断片が発見された。
聖武天皇は葬儀は盛大であったものの、どのように葬られたのか実はよくわかっていない。
しかしその歯と骨はすぐに行方知れずとなった。
そうです。
つまり、かれらは銅鉱山開発の技術者集団ではなかったかと。
ならば百済系の百済王(くだらのこきし)氏、奥州で金を発見した陸奥守敬福の出身氏族である、が、金産出の技術者集団ではなかったのか?てのは無理?
「帰化人と古代国家」を読むと。
鋳造は新羅・加羅方面から渡来したらしい秦(はた)氏と新羅人によって、その技術が日本に伝えられたと言われているそうです。ただ、彼らは主に銅を加工し、鉄の鍛造は五世紀末に渡来した百済系の人たちによって行われていたみたいです。
ちなみに新羅人が新羅から渡来したのは当然ですが、秦の始皇帝の末裔と称した秦氏が新羅・加羅方面から渡来したと考えられるのは、中国の「北史」や「梁書」などに、新羅について"ここは秦人が住むところだから、わが国と言語風俗が似ている"という記述がある。そして、それより以前の「魏志」にも"新羅の言葉はとなりの百済にではなく秦人に似ている"とあると。
そして、もちろん日本国内で、秦氏がいた地域と新羅系瓦の分布がかさなるそうです。
※中国の史書に出てくる秦人とは、もちろん、ではないかもしれないけど、中国最初の帝国を作った秦国に住んでいた人たちの末裔のことでしょう。で、"加羅"をさくっと流してますが、加羅も羅がついてるから近い地域なんだろうな?みたいな。今、よくわかりません。(2013/11/23)
なにげに長崎県の松浦も末羅とか。(2014/06/21)
で、以下のことは天平の世から少し時代が下り、七世紀はじめのことです。
「隋書」の中に隋の使節の渡航の経路として、"壱岐、対馬、竹斯(筑紫)、秦王国、十余国、海岸(難波)"と書かれていて、この秦王国とは周防国の同音異字。
そしてこの史書の記事では、その秦王(周防)国に住んでいる人たちのことが"自分達と同じだ"と書かれていて、これは「隋書新羅伝」の表現と重なると。
ところで百済王氏。
この氏族は、上記の五世紀末に渡来したという百済系の人たちのことではない。663年の百済滅亡時、日本にいた最後の百済王義慈王の二王子のうちの一人、禅広王が持統天皇に百済王の姓を賜ったことによるそうです。桓武帝など天皇家とのつながりも深く、敬福以外にもこの氏族からは陸奥鎮守府将軍としての活躍が目立つとか。
今、「帰化人と古代国家」を抜き出しつつ読んでいます、それによると。
日本と朝鮮が"同源同祖"ということはない。
その理由はさまざまだろうけど、鮮烈な異文化を保持した人たちが自らの意思で日本に来て、新しい文化を日本にもたらした、日本王権もそれを積極的に受容した。
そして長い年月をかけて、彼ら帰化人は私達日本人の祖先そのものになった。
なぜ渡来人と言わず帰化人と言うのかや、このあたりに関しましては詳しくは平野邦雄さんの「帰化人と古代国家」を読んでいただければ。
※なぜだったか、すっかりわすれました。(2014/06/03)
で、"あ、なるほど"と思ったのは、向こうから人がくるだけではなく、日本(倭)から百済などへの帰化も普通にあったわけですね。倭人で百済の官位をもつ人も多いそうです。
で、七世紀末、隋や唐帝国の出現、新羅による半島の統一、日本も古代国家を形成という段階に入り、安定した政府と外交関係を背景に、その交流は人々の移動・移住から外交使節団の往来に変わったのだろうと。
ただ、僕の読み間違い、要約するときの意味のとり違えなど普通にありえるので、くどいですが正確には原書を。
しかしこの安倍比羅夫は三年後の白村江の艦隊司令官で、おそらくこの艦隊がそうであり、これはその軍事演習であるとも考えられるそうです。
で、これは「天平の時代」によると。
実行はされなかったものの、唐の安史の乱のとき、藤原仲麻呂は渤海国とともに新羅を挟撃する計画を立てている。
そしてその派遣将軍の中に敬福の名がみえる。
百済王氏が陸奥鎮守府将軍として活躍というのは、来るべき対新羅戦の軍事演習て意味合いも少しはありましたかね。
660年の百済滅亡後、百済王国重臣鬼室腹信(きしつふくしん)は日本に亡命。
そして日本にいた百済王義慈王の二王子のうちの宝璋王を立てて国家回復を計るも、両者の間は上手くいかず、彼は宝璋王に殺される。
そして宝璋王も白村江での大敗で唐の捕虜となり百済復興の夢は潰える。
このとき日本にいたもう一人の王子、禅広王の孫である敬福には強い思いがあっても。
白村江の敗北と、同時期高句麗が滅んだことにより、特に百済から王族から庶民にいたるまであらゆる人たちが日本に渡来した。
そして日本は唐・新羅連合軍の来襲をおそれ国防を強化、それにともない国家権力も強化。
同時に唐や没交渉に近かった新羅との文化交流にも積極的に乗り出す。
な流れでしょうか?
唐との交流は白村江の敗戦の後、天智天皇の十年間がもっともさかんで、唐から六回、日本からは三回使節が使わされている。
新羅とも天智以降三代のあいだに、それ以前には皆無に近かった僧の往来が増えた。
この時代の小金銅仏や北九州で発掘された新羅瓦をもつ寺院、京都妙心寺の梵鐘などに、今もその交流がうかがえるそうです。
そして、ここから遣唐使の時代が本格的にはじまります。
遣唐使は絁(あしぎぬ)や綿、布などを、その身分によって規定の数量入唐費用として支給されたそうです。
ちなみに入唐費用と言いますが、この支給品は旅装の品ではなく、(唐での生活費?)唐土での私的交易のための対価であろうと。で、同じ理由で各々私物を持ち込んだであろうが、船の積載量には当然限界があるために、その量は制限されただろうとのことです。
「空海の風景」に、空海の時ではないが、第九次遣唐使は唐から絹を二十五疋と時服を毎年支給されていた、しかしこれだけではとても食べていけない、というような記述がありました。
で、話をもどして、これとは別に唐滞在中のいろいろな謝礼、唐土内の旅行の費用などのための"土産"として砂金や日本産の貨物があったそうです。
あ、また読み間違い、土産品の意味で"土物"でした。
で、この“土物”というのがこれまた身分によって各々支給されたのか(僕には)よくわかりませんが、“土物”として普遍的なのは砂金で、遣唐使は中国の市中で砂金を銅銭に交換したそうです。
その砂金は大宰府に貯蔵されていて、砂金と綿は重さの割に高価で船荷に適していたと。
が、最後の遣唐使(838)のとき、長安での外国人の交易はすでに禁じられ、錦や絹、金なども禁制品になってしまっていたそうです。大使一行は長安で私的交易ができなかったため、楚州までくると残りの人員がいた揚州に人を遣わしまとめて売買しようとしたそうですが、しかしそこでも勅断の品を買った、売ったとしてひと騒動がおこったそうです。
で、おそらく最後の遣唐使の時の記録だと思うのですが、砂金大一両は小三両にあたり、銅銭として九貫四百文にあたったそうです。この時入唐した僧円仁は滞在中途で日本から砂金の補給を受けているとか。
で、ちなみに唐から支給されていた、毎年一人当たりの絹二十五疋と時服。
ネットで調べたら、一疋で二反。もしかしたら時代地域により規格に変動があるのかもしれませんが、現在だいたい一疋20メートル強くらいみたいです。
※一疋20メートル強とすると、絹二十五疋で500メートル以上?
随分、長いような、とも思いますが、生活費と考えるとそうでもないのか?(2013/11/24)
で、これまた時代によりその重さに変動はあるみたいですが、銅銭千文(枚)で一貫だと。
で、当時の唐の一文が現在の日本円でいくらくらいかというのは"?"です。
※つまり砂金大一両が9400文、が、そもそも"砂金大一両"がなんでいきなりでてきたのか?今となってはよくわかりません。と、今書きましたが(2013/11/24)
あ、遣唐大使が帰国に先立ち、留学層に東絁三十五疋、砂金二十五大両などを学問料として与え、円仁ら長安にこれから行こうとするものにその資として金二十大両を与えた、とちゃんと書いてありました。
あと、先に書いた、留学中の円仁らに学問料として新たに届けようとした砂金二百大両が行方不明になる事件もあったみたいです。
※留学期間は二十年以上てのが普通だったはずです(2013/11/26)
留学僧惟暁(ゆいぎょう)らは法衣を作った料として絹、そして縫手の功銭として計一貫七百文を支払い、惟正(ゆいしょう)らも坐具を作るための絁と作手の功銭に五百文を支払った。
ただそれが何人分とか、詳しい事はよくわかりません。
で、遣唐大使も寺の一閣の修築料として銭五十貫を寄進したりしてるみたいです。
東野治之さんの「遣唐使船」によると、804年の遣唐使では大使副使以下砂金を支給されて渡唐している。
額は大使二百両(もちろん大でしょう)、副使百五十両で、つぎの838年の遣唐使でもほぼ同額が与えられていて、おそらく制度化されていたのだろうとのことです。
で、現存する資料での確認はできないが、この支給制度はそれより遡るかもしれないと。
ところで、大仏造立時。
唐から黄金を輸入するための遣唐使が計画されたという伝承がある。
しかしこれは一概に伝承とは言えず、正倉院文書に746年に遣唐使を任命したと読める記載があり、「懐風藻」という漢詩集の中に、ちょうどその頃石上乙麻呂という貴族が遣唐大使に任命されながら取止めになったという記事があるそうです。
そして749年、日本国内には存在しないといわれていた黄金が発見された。
正史を読んでいるとこの発見は本当に突然のようだが、おそらくもっと早くから黄金の探索を全国規模でおこなっていた可能性がある。
敬福も黄金発見まで通算六年以上陸奥の国司を務めている。
遣唐使が中止になったのも国内での産金の目処がある程度ついたからではないかと。
どうやらこの乱勃発直後、日本にその情報は全くもたらされていなかったようです。
乱勃発から三年後、渤海国から帰国した小野田守により、"官賊両方からの強い援軍要請への対応に渤海国が苦慮している"など、初めて乱の情報が日本に伝えられたそうです。
で、その波及をおそれて大宰府に厳戒態勢をとらせたと。
もしかしたら幻となった渤海国との新羅挟撃計画は能動的作戦計画ではなかったのかも。
そういえば、いきなり話はかわりますが。
遣隋使小野妹子を送って来日した隋史裵世清(はいせいせい)は晋以来の名家の出で、唐に変わっても順調に出世しているんですと。
あれですかね、帝国内の実力者が内側から帝室を倒すのか、まったく無縁なところからやってきて倒すのか、変わり方もちょっとはその辺に影響するんですかね。
確か隋を滅ぼした唐の李氏は、もともと隋の煬氏と共に北周(隋に滅ぼされた)の有力貴族で、姻戚関係にあったはずです。
で、また話はかわりますが、遣唐使船の強度の話です。
僕だけではないと思いますが、遣唐使船はよく難破してるイメージがあります。
で、これは中国や朝鮮とくらべての、当時の日本の造船技術の未熟さが遣唐使の遭難の多さにつながったと言われています。
技術の未熟は確かにそうかもしれない。
しかし、中国が船での遠隔地貿易にのりだすのは唐末以降のことで、この当時、外洋航海、しかも定員百人以上の大型船を作る技術は、もしかしたら中国や朝鮮にもなかったのかもしれない、とのことです。
渤海から日本への使節船は多くて百人程度。
新羅使も一隻百人くらい。
しかし、例えば777年の日本の遣唐使は五百人以上が四隻に分乗。
つまり一隻平均百二十五人オーバー。
そして帰路の嵐。
行動をともにした二隻のうち、唐の使節が分乗した第一船に船が二つに割れるなどの被害が集中したのは、百六十人の乗員と答礼品などその荷、重量過多に原因があった可能性も高いそうです。
で、さらに、遣唐使は渡海に有利な季節風が吹く秋を何故か無視、わざわざ台風シーズンの夏を選んで日本を出発する。
これは気象の無知からではなく、長安での正月の朝賀の儀に参列するよう唐側に期待されていたからかもしれない、とのことです。
その時期に日本を出発すれば、ちょうどいい頃合いに長安に到着する。
さらにそこからの渡航の前倒しは、保護接待する唐の負担が増える。
日本と渤海とは上手く季節風を利用して行き来していたそうです。
長安には世界の物産が集まる官営の市があるも、外国人はそこでの買い物は許されていない。
そしてこの三年前、714年には皇帝の勅で高級織物や黄金、鉄など(あと数点)輸出禁止されている。
※この官営の市での買い物が許可されたのか?正確なことは今わかりません。(2013/11/26)
あれですかね、この勅による金輸出禁止を受けて、国内での金探査が急務になりましたかね。
この禁止が正確にはいつからいつまで続いたのか?
どれほど厳格だったのか?
それは僕にはわかりませんが、唐からの金輸入がその時点で絶望的だったとしたら、聖武天皇の、大仏鍍金用の金枯渇への悲嘆と749年の発見時の歓喜がよくわかるような。
その時の聖武天皇詔
此の大倭国は天地の開闢より以来に黄金は人国より献ことは有れども斯の地には無き物と念えるに聞看す食国中の東の方陸奥国守従五位上百済王敬福い部内の小田郡に黄金在りと奏して献れり此を聞食し驚き悦び貴び念おさくは盧舎那仏の慈み賜い福わえ賜う物に有と念え受け賜わり恐り
↑で、いいとおもうんですけどね(笑)。20180901。
ところで、この報をもたらしたであろう、717年の遣唐使は翌718年帰国。
「蝦夷と東北戦争」によると、同年、陸奥国を現在の福島県域である石城国、石背国、そして蝦夷対策の最前線としての陸奥国に三分割。
翌719年、特定の国の守をして周囲三、四カ国を管轄させる按察使制度が発足。
そして720年、(小)陸奥国で史上初の蝦夷の大反乱がおきる。
予断は持ちますが、これはさすがに対応、展開速すぎでしょうか?
でも仮に749年以前から、日本の人たちが蝦夷の人たちから砂金を入手していたとしても、そこがその頃は蝦夷の"国"だったとしたら、聖武天皇がいう黄金は"大倭国は天地の開闢より以来斯の地には無き物"てのと別に矛盾はしませんね。
そういえば、「遣唐使船」によるとですね。
マルコポーロより以前、イスラムアッバース朝に仕えたイラン人イブンフルダ-ズビフによって九世紀後半に書かれた「諸道路と諸国の書」の中に、"シーンの東にワークワークの地があり、そこには豊富な黄金がある"みたいな記述があるそうです。
さらに、印刷技術が発達する前、書物を手書きで写していた頃、日本が中国の書物を書き写した写本には似たような形の漢字への書き間違いが多い。
でも敦煌や西域の写本では同じ音の漢字への書き間違いが多い。当時の日本人(貴族や僧侶官吏が主ですかね)には、すでに中国語は耳ではなく目から入っていたのだろうと。
さらにそういえば、これは記憶たよりで書きます、「街道をゆく」でだと思いますが。
最澄も渡唐時、通訳をつれていった。
で、この通訳の人、最澄と唐の僧侶との通訳、教義についての質疑とか、の仲立ちをした結果、最終的に、天台宗を日本にもたらしたのは最澄ではなく自分だ、という考えにいたった、という話を読んだような。
これに対する司馬さんの結論は。
"たしかにそうともいえるのかもしれない。"
"ただ、別の考え方をする人なら、決してそうはおもわない、というだけのことだ。"
だったような。
"こんにち萩などでも比較的上級の藩士の屋敷は残っているが、城下の徒歩階級の屋敷が区画ごと残っているのは島原の鉄砲町ぐらいのものではないか。"
"むろんそれらは偶然残っているのではなく、「文明とは秩序美である」ということを頭と身体で知っている住人たちの意思と犠牲によって懸命に残されてるといっていい。"
で、またウロウロしますが、ここで残った4つの1つ『奈良散歩』。
ちなみにNARAとは(現代の?)韓国・朝鮮語では国という意味だ、みたいなのを読んだ記憶がありますが、「つうかすべて商倭だ、つうか夏だ、高句麗もイスラエル12部族の人始皇帝と同じ秦人の国だ」みたいなことを言っている今となっては、どうでもいいちゃ、どうでもいいのですが(笑)。
"奈良がおおいなる街であるのは、草木から建造物にいたるまでそれらが保たれてるということである。"
"世界中の国々で千年五百年単位の古さの木造建築が奈良ほど密集して保存されているところはない。奇跡といえるのではないか。"
"唐招提寺本堂は、一説では天平宝亀三年759年の造営であって、唐に会っては玄宗皇帝の晩期である。唐の運命にかげりがきざしているとはいえ、長安の都市文化は爛熟しきっていた時期といえる。"
"奈良に都があった時代は、都市設計から宮殿官衙にいたるまで長安の造形と技術のつよい影響をうけていた。奈良はある意味では長安の都が冷凍保存された存在ともいえる。"
あ、そうだ、あ、麻生だ、ではないですよ、と親父ギャグはおいておいて、高句麗、高麗、朝鮮半島を象徴する漢字と言ってもいいと思いますが、"高"。英語でKOREAの"KO"、これ孔子、孔家の"孔"ですよ。ただし、この"孔"、現在、ご自身たちの意志によって、朝鮮半島で賤姓とされる"康"と表記されてます。早い話"康"は孔子家の"孔"。賤姓は先生、全部孔子さんとそのお弟子さんにつながる。自ら引き受けられたんですね。と、とりあえず放り投げておいて、ここで今度は。
"およそ千年前の武蔵の国の様子が「更級日記」に描かれています。作者である菅原考標(すがわらのたかすえ)の女(むすめ)は、父とともに上総の国から京に向かう途中、武蔵の国をとおりました。背丈ほどの葦の草原で作者が見たのは、「馬に騎(の)りて弓持ちたる」男の姿でした。"
"この更級日記の状景のなかに登場するところの、馬に騎りて弓持ちたる、という無名の騎人が重大であろう。丈なす草のあいだに隠れていったこの草原の生活風俗を象徴する住人こそ、後世、日本を震撼せしめる板東武者となって歴史に登場するのである。"
"一方、七世紀後半には、白村村の戦いにやぶれた二千人の百済人が日本に渡り東国に入植したと日本書紀に記されています。司馬さんは、この百済人集団と、更級日記に登場する馬に騎りて弓もちたる人との関係を推理しています。" [※後世。丈なす草のあいだに隠れていった孔の背(笑)。71、足して十。]"更級日記の作者である女性が馬に乗りて弓持ちたるひとに出会ったという、その騎人なる者は、おそらく土着人と混血した百済人の後裔だったにちがいない。"
"大和から西日本一帯は馬には極めて不熟練である、第一馬そのものがあまりいなかった。そういう日本列島にあって、その東の辺陬(へんすう)に、突如騎馬文化が成立するというのは百済人二千の入植という事実をはずしては考えられない。"
[※◆【変数】数式で,条件により値が変化する数。Variable(パーソナル現代国語辞典より]。112、1021]
"この集団が、日本史上われわれが誇るもっとも典型的な日本人集団とされる板東武者に変わってゆくことを思うと、東アジアの人間の交流や文化の発生にかぎりない面白さをおぼえる。兵は東国にかぎりもうし候、と後世新撰組の近藤勇にさえ言わしめる武の国の原型は、東アジア的な規模で言えば、このようにしてできあがったようにおもえる。"4.渡来考 9月 01, 2018
①ジパング
ところで、天平の黄金発見。もともと陸奥に黄金があるらしいということはわかっていた気がするんです。だからこそ、そういう探金技術に長けている渡来系の百済王敬福を陸奥守に任命して調査させたんだろうなと。と、思ったら、「考古学の旅」に著者である森浩一さんのお考えとして、その可能性がサクッと書いてありました。
砂金とかは"毛外の民"の人たちには、それこそ民話の炭焼藤太の話のように当たり前にそこにあるものだったのかもしれませんね。だから彼らはそこにこれといって価値を見出していなかった。
「ああ、そんなもの、そこの沢に行けばいくらでも取れるよ」みたいな。
森さんも、敬福から届けられた大仏鍍金の900両の中には、蝦夷を介して入手した、より北方の、もしかしたら(現在の)北海道の砂金も含まれていたかも、と。
聖武天皇と藤原不比等の娘光明皇后のあいだに生まれた唯一の男子で、生後一年で亡くなった某王がいた。この男の子のために建てられた小さなお堂が後に金鐘寺(こんしゅじ)という小さな寺になり、この寺を前身として東大寺が造営されたそうです。
使用された鍍金は大仏のみで10,466両、約430kgとか。
さて、炭焼藤太の話。
「金(きん)?そんなん何が惜しいんだ?裏山掘ればいくらでも出てくんぞ」てな話。
あれは福島(信夫郡)の民話でしたが、「宮城の民話」を読んでいると、栗原という場所の話としてほぼ同じ話がのってました。
でも、今とりあえずその本をざっと読んだだけですが、空海話は「宮城の民話」にはなかったな。
そこまでは高野聖も来なかったのか?まあ、なんでものっているわけじゃないでしょうが。
宮城は鎌倉幕府成立までは奥州藤原氏の勢力圏?それが関係してるのかもしれませんね。
でも、白河の関(今の福島県南方)を越えると、だもんな。
で、高橋千劔破さんの「名山の民俗史」によると、福島と茨城の境にある八溝山(やみぞさん)、ここは古くから砂金がとれることが知られていた。
"白河の八溝黄金神に奉げものをして国司に祈らせると常より数倍の砂金がとれ、遣唐使の資金がおおいに助かった"。
続日本後紀、承和三年(836)の記事に、そのような記録があるそうです。
そして、そこから少し時代がくだりますが、「平泉の世紀」によると。
10世紀末、奥州が唯一の産金地で、国の金の需要はすべてそこからの貢金で賄っていた。
中国の「宋史・日本伝」にも、"東の奥州は黄金を産し"とあり、日本の黄金はその質のよさもあり、日宋貿易の重要な輸出品になっていた。しかし現在その貢金はほぼ途絶えている。
※貢金とは奥州から京都の朝廷(貴族)への献上金でしょうね。
ただ、この"現在"がいつのことだか、現在わかりません。
おそらく奥州藤原氏が東北での地位を確立した後のことではないかと思います。
たぶん書いた時点では少なくとも自分の中ではわかっていたんでしょうが、時間が経過してみると、自分でも何を書いているのかわからない、こうしてみると結構ありますね。
ツイッターに書いていたんで、なんとか文章を簡略化しようとしたのだろう、という言い訳はありますけど。(2013/11/21)
※朝貢貿易の、つうても、ですね。20180901。なんとか文章を(略・笑)。20200806。
「源平盛衰記」の中に、平重盛(平清盛の息子)が陸奥国を支配(実際は奥州藤原氏)していた時の話として。
"気仙郡から1,300両の貢金があり、それを宋から来ていた商人を介し、中国の育王山という霊山と宋の帝室にわけて送った"、そのようなくだりがあるそうです。
「平家物語」では同じエピソードで貢金は3,500両。
ただし、こちらは金の出所が書いてないんですと。
で、その時代の出来事として、奥州藤原三代清衡(二代基衡とも)は10万5千両(四トン超?)の砂金を宋の帝室に送り、7千巻以上の一切経を平泉に輸入したことがあったそうです(もっとも、それが記されているのは百年以上あとに書かれた文章内ですが)。
さすがに量は大げさかもしれませんが、この奥州金と中国の長い結びつきが、のちに黄金の国ジパングとして結実したのではないだろうかということです。
ところで、この「宋史」成立は元朝後期、かなり時代をくだります。
しかし、その「日本伝」は、984年にに入宋した日本僧奝然(ちょうねん)がもたらした「王年代記」など日本側の資料をもとに記され、日本伝としての信頼性は高いそうです。
で、この奝然が渡宋の時同船した宋の商人の話で、公卿が彼にお土産に金を持たせたいけど手持ちがないから奥州に貢金の催促をしたという話があるとか。
②習合
そうそう、歴史は勝者がつくるといいますが、たしか中国の王朝の正史って前王朝を滅ぼした次の王朝がつくるという伝統?があったと思います。もちろん自分たちの正史も自らはつくらず、いつか天命あらたまり自分達を滅ぼすことになる誰かさんに任せると。
完全記憶たよりなんでちょいと不正確ですが、自らの滅亡も予め織り込みずみって考え方、凄いことかも。
まあ完結した正史をつくろうとしたら終わらんことには、でしょうね。
それに資料は基本その王朝が作成したものを使うんでしょうし。
蜀の官僚でもあった陳寿が(一度官を退いたみたいですが)晋の官僚として「三国志」を書いたように、王朝は滅んでも官僚は引き続き次王朝に仕えて連続性はそれなりにあったとか?
現実問題、上から下まで総とっかえしてたら動くもんも動かん気もしますし。
なにげに官僚の保身の一環としてそういうルールを自らつくったとか(笑)。
前王朝と同じ轍を踏まないためにも前王朝を知り尽くした我々の知識が必要ですよと。
もっとも「晋書」はずっと後世の唐の時代、「宋史」も元の後半に成立ですけど。
さて、話は天平の世にもどります。
同じ信仰を持つ人々や、その人々が持ち寄る財物や労働奉仕を当時知識(智職)と言ったそうです。
聖武天皇が河内国を訪れた時、そこに住む渡来系の人たちを中心とした知識で造立された智職寺や毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)を拝して深く感銘。
"そうだ、この国の知識を結集して大仏を造立しよう。"
聖武天皇はそう思いたったそうです。
ちなみにこのくだりは岸俊男編「古代国家と日本」を読みつつ書いています。
で、仏教渡来以前の信仰を基層信仰(神祇信仰)というそうです。
で、708年に秩父郡より初めて銅が朝廷に献上された時、"これはわが国の神々のおかげだ"と、主に中央の貴族のみなさんでしょうが、そう口々に言っていたそうです。その風向きが変わるのは、仲麻呂登場の契機ともなった、藤原四兄弟も亡くなった737年の天然痘の大流行とか。
そのときの詔に、"病気がものすごく流行っているから神に祈りを奉げ続けているけれど、いまだに何もしてくれない"と、日本の神々に対する不満が露骨に表明されているそうです。
ただ、「古代国家と日本」の訳文?では"神仏に祈り祭れども"となっています。
日本の神々のみに不満を言っていたわけではないみたいです。
この頃はまだ神仏の神の方に苦情の伝え先のアクセントがあるということでしょうか?
続く740年、九州で藤原広嗣の乱発生、で鎮圧。
この時、伊勢大神宮に戦勝の祈願、そして乱鎮圧後その感謝を奉幣し、同時に諸国に命じ、観世音菩薩像一体の造仏、観世音経十巻を書写させたそうです。
さらに鎮圧前、持節大将軍大野東人をして宇佐八幡宮に祈らせているそうです。
このあたりで神仏がいよいよ拮抗してきた感じですか?
で、よくよく読んでみたら、"宇佐八幡宮に祈らせて"ではなく、"宇佐八幡神に祈らせて"と書いてありました。で、この八幡神への祈願が反乱鎮圧に結びついたという認識が朝廷にもあり、翌年、宇佐八幡宮に(仏教の)経典が奉納され三重塔が作られたんですと。
神と仏の習合がはじまりましたか?
で、749年、初めて黄金が献上された時。
聖武天皇は造立中の大仏に三宝(仏・法・僧)のおかげで黄金がみつかったと喜びを伝え、さらに自分は三宝のしもべで、仏教こそ国家守護の大本であるという考えをしめしたそうです。
で、この大仏造立から、日本の神々は仏を護り従う存在だという神仏習合思想が本格的に広がりはじめるそうです。
ところで、「仏教民俗学」によると。※山折哲雄さんのご本です。20180901。
明治四十年、大仏殿修理のために数ヶ所穴を掘ったところ、そこからさまざまな遺宝が出てきた。
そしてそれら宝に混じって歯と骨の断片が発見された。
聖武天皇は葬儀は盛大であったものの、どのように葬られたのか実はよくわかっていない。
しかしその歯と骨はすぐに行方知れずとなった。
そうです。
③渡来
当時、今の山口県や対岸の北九州のあたりには(おそらく)新羅系の渡来氏族が多く住んでいて、そこは銅を産する地でもあったそうです。で、大仏にも山口県産?の銅が使用されていることは確実である。つまり、かれらは銅鉱山開発の技術者集団ではなかったかと。
ならば百済系の百済王(くだらのこきし)氏、奥州で金を発見した陸奥守敬福の出身氏族である、が、金産出の技術者集団ではなかったのか?てのは無理?
「帰化人と古代国家」を読むと。
鋳造は新羅・加羅方面から渡来したらしい秦(はた)氏と新羅人によって、その技術が日本に伝えられたと言われているそうです。ただ、彼らは主に銅を加工し、鉄の鍛造は五世紀末に渡来した百済系の人たちによって行われていたみたいです。
ちなみに新羅人が新羅から渡来したのは当然ですが、秦の始皇帝の末裔と称した秦氏が新羅・加羅方面から渡来したと考えられるのは、中国の「北史」や「梁書」などに、新羅について"ここは秦人が住むところだから、わが国と言語風俗が似ている"という記述がある。そして、それより以前の「魏志」にも"新羅の言葉はとなりの百済にではなく秦人に似ている"とあると。
そして、もちろん日本国内で、秦氏がいた地域と新羅系瓦の分布がかさなるそうです。
※中国の史書に出てくる秦人とは、もちろん、ではないかもしれないけど、中国最初の帝国を作った秦国に住んでいた人たちの末裔のことでしょう。で、"加羅"をさくっと流してますが、加羅も羅がついてるから近い地域なんだろうな?みたいな。今、よくわかりません。(2013/11/23)
なにげに長崎県の松浦も末羅とか。(2014/06/21)
で、以下のことは天平の世から少し時代が下り、七世紀はじめのことです。
「隋書」の中に隋の使節の渡航の経路として、"壱岐、対馬、竹斯(筑紫)、秦王国、十余国、海岸(難波)"と書かれていて、この秦王国とは周防国の同音異字。
そしてこの史書の記事では、その秦王(周防)国に住んでいる人たちのことが"自分達と同じだ"と書かれていて、これは「隋書新羅伝」の表現と重なると。
ところで百済王氏。
この氏族は、上記の五世紀末に渡来したという百済系の人たちのことではない。663年の百済滅亡時、日本にいた最後の百済王義慈王の二王子のうちの一人、禅広王が持統天皇に百済王の姓を賜ったことによるそうです。桓武帝など天皇家とのつながりも深く、敬福以外にもこの氏族からは陸奥鎮守府将軍としての活躍が目立つとか。
今、「帰化人と古代国家」を抜き出しつつ読んでいます、それによると。
日本と朝鮮が"同源同祖"ということはない。
その理由はさまざまだろうけど、鮮烈な異文化を保持した人たちが自らの意思で日本に来て、新しい文化を日本にもたらした、日本王権もそれを積極的に受容した。
そして長い年月をかけて、彼ら帰化人は私達日本人の祖先そのものになった。
なぜ渡来人と言わず帰化人と言うのかや、このあたりに関しましては詳しくは平野邦雄さんの「帰化人と古代国家」を読んでいただければ。
※なぜだったか、すっかりわすれました。(2014/06/03)
で、"あ、なるほど"と思ったのは、向こうから人がくるだけではなく、日本(倭)から百済などへの帰化も普通にあったわけですね。倭人で百済の官位をもつ人も多いそうです。
で、七世紀末、隋や唐帝国の出現、新羅による半島の統一、日本も古代国家を形成という段階に入り、安定した政府と外交関係を背景に、その交流は人々の移動・移住から外交使節団の往来に変わったのだろうと。
ただ、僕の読み間違い、要約するときの意味のとり違えなど普通にありえるので、くどいですが正確には原書を。
④使節
「平泉の世紀」によると、伝承であろうが、「日本書紀」に七世紀半ば越国守安倍比羅夫が二百隻近い艦隊を率い日本海を北上、行く先々に郡を建て渡嶋(北海道)の蝦夷郡に及んだとの記述がある。しかしこの安倍比羅夫は三年後の白村江の艦隊司令官で、おそらくこの艦隊がそうであり、これはその軍事演習であるとも考えられるそうです。
で、これは「天平の時代」によると。
実行はされなかったものの、唐の安史の乱のとき、藤原仲麻呂は渤海国とともに新羅を挟撃する計画を立てている。
そしてその派遣将軍の中に敬福の名がみえる。
百済王氏が陸奥鎮守府将軍として活躍というのは、来るべき対新羅戦の軍事演習て意味合いも少しはありましたかね。
660年の百済滅亡後、百済王国重臣鬼室腹信(きしつふくしん)は日本に亡命。
そして日本にいた百済王義慈王の二王子のうちの宝璋王を立てて国家回復を計るも、両者の間は上手くいかず、彼は宝璋王に殺される。
そして宝璋王も白村江での大敗で唐の捕虜となり百済復興の夢は潰える。
このとき日本にいたもう一人の王子、禅広王の孫である敬福には強い思いがあっても。
白村江の敗北と、同時期高句麗が滅んだことにより、特に百済から王族から庶民にいたるまであらゆる人たちが日本に渡来した。
そして日本は唐・新羅連合軍の来襲をおそれ国防を強化、それにともない国家権力も強化。
同時に唐や没交渉に近かった新羅との文化交流にも積極的に乗り出す。
な流れでしょうか?
唐との交流は白村江の敗戦の後、天智天皇の十年間がもっともさかんで、唐から六回、日本からは三回使節が使わされている。
新羅とも天智以降三代のあいだに、それ以前には皆無に近かった僧の往来が増えた。
この時代の小金銅仏や北九州で発掘された新羅瓦をもつ寺院、京都妙心寺の梵鐘などに、今もその交流がうかがえるそうです。
そして、ここから遣唐使の時代が本格的にはじまります。
遣唐使は絁(あしぎぬ)や綿、布などを、その身分によって規定の数量入唐費用として支給されたそうです。
ちなみに入唐費用と言いますが、この支給品は旅装の品ではなく、(唐での生活費?)唐土での私的交易のための対価であろうと。で、同じ理由で各々私物を持ち込んだであろうが、船の積載量には当然限界があるために、その量は制限されただろうとのことです。
「空海の風景」に、空海の時ではないが、第九次遣唐使は唐から絹を二十五疋と時服を毎年支給されていた、しかしこれだけではとても食べていけない、というような記述がありました。
で、話をもどして、これとは別に唐滞在中のいろいろな謝礼、唐土内の旅行の費用などのための"土産"として砂金や日本産の貨物があったそうです。
あ、また読み間違い、土産品の意味で"土物"でした。
で、この“土物”というのがこれまた身分によって各々支給されたのか(僕には)よくわかりませんが、“土物”として普遍的なのは砂金で、遣唐使は中国の市中で砂金を銅銭に交換したそうです。
その砂金は大宰府に貯蔵されていて、砂金と綿は重さの割に高価で船荷に適していたと。
が、最後の遣唐使(838)のとき、長安での外国人の交易はすでに禁じられ、錦や絹、金なども禁制品になってしまっていたそうです。大使一行は長安で私的交易ができなかったため、楚州までくると残りの人員がいた揚州に人を遣わしまとめて売買しようとしたそうですが、しかしそこでも勅断の品を買った、売ったとしてひと騒動がおこったそうです。
⑤費用
「帰化人と古代国家」によると。で、おそらく最後の遣唐使の時の記録だと思うのですが、砂金大一両は小三両にあたり、銅銭として九貫四百文にあたったそうです。この時入唐した僧円仁は滞在中途で日本から砂金の補給を受けているとか。
で、ちなみに唐から支給されていた、毎年一人当たりの絹二十五疋と時服。
ネットで調べたら、一疋で二反。もしかしたら時代地域により規格に変動があるのかもしれませんが、現在だいたい一疋20メートル強くらいみたいです。
※一疋20メートル強とすると、絹二十五疋で500メートル以上?
随分、長いような、とも思いますが、生活費と考えるとそうでもないのか?(2013/11/24)
で、これまた時代によりその重さに変動はあるみたいですが、銅銭千文(枚)で一貫だと。
で、当時の唐の一文が現在の日本円でいくらくらいかというのは"?"です。
※つまり砂金大一両が9400文、が、そもそも"砂金大一両"がなんでいきなりでてきたのか?今となってはよくわかりません。と、今書きましたが(2013/11/24)
あ、遣唐大使が帰国に先立ち、留学層に東絁三十五疋、砂金二十五大両などを学問料として与え、円仁ら長安にこれから行こうとするものにその資として金二十大両を与えた、とちゃんと書いてありました。
あと、先に書いた、留学中の円仁らに学問料として新たに届けようとした砂金二百大両が行方不明になる事件もあったみたいです。
※留学期間は二十年以上てのが普通だったはずです(2013/11/26)
留学僧惟暁(ゆいぎょう)らは法衣を作った料として絹、そして縫手の功銭として計一貫七百文を支払い、惟正(ゆいしょう)らも坐具を作るための絁と作手の功銭に五百文を支払った。
ただそれが何人分とか、詳しい事はよくわかりません。
で、遣唐大使も寺の一閣の修築料として銭五十貫を寄進したりしてるみたいです。
東野治之さんの「遣唐使船」によると、804年の遣唐使では大使副使以下砂金を支給されて渡唐している。
額は大使二百両(もちろん大でしょう)、副使百五十両で、つぎの838年の遣唐使でもほぼ同額が与えられていて、おそらく制度化されていたのだろうとのことです。
で、現存する資料での確認はできないが、この支給制度はそれより遡るかもしれないと。
ところで、大仏造立時。
唐から黄金を輸入するための遣唐使が計画されたという伝承がある。
しかしこれは一概に伝承とは言えず、正倉院文書に746年に遣唐使を任命したと読める記載があり、「懐風藻」という漢詩集の中に、ちょうどその頃石上乙麻呂という貴族が遣唐大使に任命されながら取止めになったという記事があるそうです。
そして749年、日本国内には存在しないといわれていた黄金が発見された。
正史を読んでいるとこの発見は本当に突然のようだが、おそらくもっと早くから黄金の探索を全国規模でおこなっていた可能性がある。
敬福も黄金発見まで通算六年以上陸奥の国司を務めている。
遣唐使が中止になったのも国内での産金の目処がある程度ついたからではないかと。
⑥海
安史の乱。どうやらこの乱勃発直後、日本にその情報は全くもたらされていなかったようです。
乱勃発から三年後、渤海国から帰国した小野田守により、"官賊両方からの強い援軍要請への対応に渤海国が苦慮している"など、初めて乱の情報が日本に伝えられたそうです。
で、その波及をおそれて大宰府に厳戒態勢をとらせたと。
もしかしたら幻となった渤海国との新羅挟撃計画は能動的作戦計画ではなかったのかも。
そういえば、いきなり話はかわりますが。
遣隋使小野妹子を送って来日した隋史裵世清(はいせいせい)は晋以来の名家の出で、唐に変わっても順調に出世しているんですと。
あれですかね、帝国内の実力者が内側から帝室を倒すのか、まったく無縁なところからやってきて倒すのか、変わり方もちょっとはその辺に影響するんですかね。
確か隋を滅ぼした唐の李氏は、もともと隋の煬氏と共に北周(隋に滅ぼされた)の有力貴族で、姻戚関係にあったはずです。
で、また話はかわりますが、遣唐使船の強度の話です。
僕だけではないと思いますが、遣唐使船はよく難破してるイメージがあります。
で、これは中国や朝鮮とくらべての、当時の日本の造船技術の未熟さが遣唐使の遭難の多さにつながったと言われています。
技術の未熟は確かにそうかもしれない。
しかし、中国が船での遠隔地貿易にのりだすのは唐末以降のことで、この当時、外洋航海、しかも定員百人以上の大型船を作る技術は、もしかしたら中国や朝鮮にもなかったのかもしれない、とのことです。
渤海から日本への使節船は多くて百人程度。
新羅使も一隻百人くらい。
しかし、例えば777年の日本の遣唐使は五百人以上が四隻に分乗。
つまり一隻平均百二十五人オーバー。
そして帰路の嵐。
行動をともにした二隻のうち、唐の使節が分乗した第一船に船が二つに割れるなどの被害が集中したのは、百六十人の乗員と答礼品などその荷、重量過多に原因があった可能性も高いそうです。
で、さらに、遣唐使は渡海に有利な季節風が吹く秋を何故か無視、わざわざ台風シーズンの夏を選んで日本を出発する。
これは気象の無知からではなく、長安での正月の朝賀の儀に参列するよう唐側に期待されていたからかもしれない、とのことです。
その時期に日本を出発すれば、ちょうどいい頃合いに長安に到着する。
さらにそこからの渡航の前倒しは、保護接待する唐の負担が増える。
日本と渤海とは上手く季節風を利用して行き来していたそうです。
⑦まとめはここまで
そうそう、それを遡ること六十年、717年の遣唐使が(おそらく)長安での買い物の許可を皇帝に求め、"輸出規制品以外"という条件で許されたという記録があるそうです。長安には世界の物産が集まる官営の市があるも、外国人はそこでの買い物は許されていない。
そしてこの三年前、714年には皇帝の勅で高級織物や黄金、鉄など(あと数点)輸出禁止されている。
※この官営の市での買い物が許可されたのか?正確なことは今わかりません。(2013/11/26)
あれですかね、この勅による金輸出禁止を受けて、国内での金探査が急務になりましたかね。
この禁止が正確にはいつからいつまで続いたのか?
どれほど厳格だったのか?
それは僕にはわかりませんが、唐からの金輸入がその時点で絶望的だったとしたら、聖武天皇の、大仏鍍金用の金枯渇への悲嘆と749年の発見時の歓喜がよくわかるような。
その時の聖武天皇詔
此の大倭国は天地の開闢より以来に黄金は人国より献ことは有れども斯の地には無き物と念えるに聞看す食国中の東の方陸奥国守従五位上百済王敬福い部内の小田郡に黄金在りと奏して献れり此を聞食し驚き悦び貴び念おさくは盧舎那仏の慈み賜い福わえ賜う物に有と念え受け賜わり恐り
↑で、いいとおもうんですけどね(笑)。20180901。
ところで、この報をもたらしたであろう、717年の遣唐使は翌718年帰国。
「蝦夷と東北戦争」によると、同年、陸奥国を現在の福島県域である石城国、石背国、そして蝦夷対策の最前線としての陸奥国に三分割。
翌719年、特定の国の守をして周囲三、四カ国を管轄させる按察使制度が発足。
そして720年、(小)陸奥国で史上初の蝦夷の大反乱がおきる。
予断は持ちますが、これはさすがに対応、展開速すぎでしょうか?
でも仮に749年以前から、日本の人たちが蝦夷の人たちから砂金を入手していたとしても、そこがその頃は蝦夷の"国"だったとしたら、聖武天皇がいう黄金は"大倭国は天地の開闢より以来斯の地には無き物"てのと別に矛盾はしませんね。
そういえば、「遣唐使船」によるとですね。
マルコポーロより以前、イスラムアッバース朝に仕えたイラン人イブンフルダ-ズビフによって九世紀後半に書かれた「諸道路と諸国の書」の中に、"シーンの東にワークワークの地があり、そこには豊富な黄金がある"みたいな記述があるそうです。
さらに、印刷技術が発達する前、書物を手書きで写していた頃、日本が中国の書物を書き写した写本には似たような形の漢字への書き間違いが多い。
でも敦煌や西域の写本では同じ音の漢字への書き間違いが多い。当時の日本人(貴族や僧侶官吏が主ですかね)には、すでに中国語は耳ではなく目から入っていたのだろうと。
さらにそういえば、これは記憶たよりで書きます、「街道をゆく」でだと思いますが。
最澄も渡唐時、通訳をつれていった。
で、この通訳の人、最澄と唐の僧侶との通訳、教義についての質疑とか、の仲立ちをした結果、最終的に、天台宗を日本にもたらしたのは最澄ではなく自分だ、という考えにいたった、という話を読んだような。
これに対する司馬さんの結論は。
"たしかにそうともいえるのかもしれない。"
"ただ、別の考え方をする人なら、決してそうはおもわない、というだけのことだ。"
だったような。
で、ここで、16世紀末期、そして幕末の武の国へと。
◆Chríst・lìke《性格・心が》キリストのような. [リーダーズ英和辞典第2版より]
◆み【身】(古形ムの転)⑥その人の生き方。⑦人の全力。まごころ[広辞苑第六版より]
"1590年、八王子城が豊臣秀吉によって小田原城と共に落城します。
武蔵の国の新たな支配者になったのは、秀吉の命で駿河から移ってきた徳川家康でした。""北条氏は関八州二百八十五万石、士卒七万、この勢力の瓦解は関東の村々で大混乱を起こしたであろう。七月に落城して、家康はその動揺の中を江戸に入ったわけである。北条の落ち武者が在所々々に隠れたり、盗賊や乞食僧になったりして、物情は必ずしも静まらなかったに違いない。それらの落ち武者やら浮浪人やらが武蔵の西の端の八王子あたりに集まり、小屋掛けして住み着いた。"
"江戸入城のおり、甲州街道を上り武蔵の国に足を踏み入れた家康を待っていたのは、戦果で荒れ果てた城下町八王子の姿でした。家康は城下に潜む北条氏の落ち武者たちをその支配下に入れ、八王子を宿場町として再建しようとしました。"
"家康は関東に入って身代が大きくなったため、新規に人を召し抱えねばならない。彼らを放逐して治安を悪くするより、むしろ召し抱えて徳川家臣団の中に組み入れてしまう方が一挙両得であると思ったに違いない。落穂集によると、家康公が武州八王子にて新たに五百人ばかり召し抱えられた、とある。
八王子千人同心と言われる特殊な徳川直臣団はこのようにしてできた。""八王子千人同心は武蔵野国の国境警備を目的に組織された、幕府直属の家臣団です。百人ずつ十組、合わせて千人の組織でした。千人同心は禄高は低く、普段は農業で生活をたて有事に備える屯田兵のような存在でした。"
"武蔵の国で最初に召し抱えられた直臣としての誇りを持ち、勇猛果敢な武士団でした。幕末、千人同心は新撰組とならんで最後まで徳川家に忠誠を尽し続け、その一部、彰義隊と共に寛永寺に立てこもり、戦いました。"
[※八王子城について番組の説明は、"町(八王子)の中心部から北西に7キロ。関東平野を一望に見渡す標高460メートルの山中に八王子城があります。関東一の規模を持つこの山城は戦国時代に北条氏照によって築城され、関八州を100年にわたり支配した北条氏最大の軍事拠点でした。1590年、八王子城は豊臣秀吉によって小田原城と共に落城します。"
北条氏最大の軍事拠点は小田原城ではなく八王子城だった、ともとれる説明でした。もちろん。
◆やま‐じろ【山城】山頂や山腹に築いた城。古代には朝鮮の影響を受けた朝鮮式山城や神籠(こうご)石がある。中世、特に室町・戦国時代に発達した。さんじょう。⇔平城(ひらじろ)
◆ひら‐じろ【平城】平地に築いた城。ひらじょう。⇔山城(やまじろ)
◆へいじょう【平城】‥ジヤウ‥①北魏前期(398~493)の都。現在の山西省大同市。
②(ヘイゼイとも)奈良の古称。
◆かん‐とう【関東】クワン‥①東関。㋐昔、鈴鹿・不破・愛発(あらち)の三つの関所以東の諸国。また逢坂関以東の国。㋑箱根関以東の地。坂東ばんどう。関東八州。関八州。㋒東京都と茨城・栃木・群馬・埼玉・千葉・神奈川の6県との総称。⇔関西。
②㋐鎌倉幕府のこと。㋑関東管領の所轄地方。㋒江戸幕府のこと。
③(Guangdong)㋐中国で、函谷関または潼関(どうかん)以東の地。今の山東・河南等の地。㋑中国で、山海関以東の地方の称。すなわち中国東北部。[広辞苑第六版より]
[※クワンは食わんと頭に入れておいてください。本気で言ってます、人肉食わん、です。]
"(略)近藤勇という人も妙な人だったなあと、この幕末きっての勇者についてそう思わざるをえない。"
"討幕の嵐が吹き荒れる幕末にあって、新撰組を率いる近藤勇は時代の流れに抵抗するかのように幕府への忠誠を尽し、倒幕勢力の鎮圧にあたりました。"
"近藤をはじめとする新撰組の幹部の多くは、甲州街道沿いの村々の農家の出身者でした。近藤は調布に生れ、土方歳三は日野に生まれ育っています。沖田総司らが近藤土方と共に剣術の修行に励んだ道場も日野に在りました。"
◆tree/・The [A] tree is known by its fruit. 《諺》 木はその実によって知られる《人はことばよりも行動によって判断される;cf.Matt12:33》.《古・詩》絞首台,《特にキリストの》十字架.
◆Chríst・lìke《性格・心が》キリストのような. [リーダーズ英和辞典第2版より]
"武士以上に武士らしく、農民の子として生れた近藤勇の天然理心流の剣法は、太平の世の中で形式化していった他の剣法とは一線を画し、真剣で戦うための剣法でした。甲州街道の村々には、八王子千人同心にはじまる武を尊ぶ気風がありました。幕末、農家の子弟は武士に憧れ、道場の門を叩いていったのです。"
"新撰組もまた、近藤勇、土方歳三、沖田総司らの出身地が甲州街道沿いで、要するに武蔵の辺境から興った。"
"甲州街道沿いの農民のあがりである新撰組幹部と、同じく甲州街道沿いの屯田兵が江戸の幕府が瓦解しようとする時身を挺して戦ったということが、風土というものの妙趣であるかもしれない。"
◆身を挺する・自分の身を犠牲にして投げ出す。一身をかけて事に当たる。「身を挺して守る」
◆み【身】(古形ムの転)⑥その人の生き方。⑦人の全力。まごころ[広辞苑第六版より]
"街道をゆく 第19回 甲州街道"
8月 15, 2019 皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ
"2017年08月14日 NHKスペシャル 「樺太地上戦 ~終戦後7日間の悲劇~」 (2月 23, 2019)"
で、あのですね、ロシアの人たちへの悪口で、彼らは一度やって来ると、の様な話があったとおもいますが、モンゴルはモンゴル、中国東北地方は中国東北地方、北朝鮮は北朝鮮、北海道は北海道。
北方領土問題の解決は、kingdome come。
8月 16, 2019 cry me a river
おれも新制高校の時とかに聞いたことあるので。11月 08, 2018
常識なんでしょうけど。
そうそう、柔道ってその耳でいいの(特にトップの現役が)?9月 24, 2018
井上靖さんの自伝的小説というのを読んでて思ったんだけど。
井上さんの耳、右側は普通だと思うけど。
おれも一応高校の体育で。
ラグビーも。
一応←重要(笑)。
ラグビーってあんなにトロかったっけ?9月 18, 2018
全日本だかなんだかの映像をちょろっとみて思ったんだけど。
監督も含めて頭の悪さが顔に出まくってるし。
サッカーも。
美談、珍談、奇談、感じ、頭が悪い、幼稚な、タレント養成所の、生徒みたい。
早送りも完璧なカット割りも特撮も、もういいぞ。
わるけりゃわるいで実力本位。
後腐れないのはこれが一番、何かとゴミは皆殺だよ。
どうなるんだろうね。
あのですね、これ出来るなら、見世物として少々見てみたいですが、"コイツ等"は、人外魔境会議で"絶対に許すな"確定なので確実に酷い死に方をすることでしょう。
あ、スポーツライターだか辛口コメンテーターだかで似てる感じのゴミ処刑いるね。
↓
なんかねぇ、いい拷問あるんだよ、コンクリートの壁に死ぬまで全力疾走させるって。
すぐに誰か分らなくなるそうだから、他力変形好きなオマエ等にちょうどいいんじゃない、その機会があったら。
"日本人"では自称100メートル9秒台の奴とか、2019年度男子ラグビーサッカー日本A代表監督含め全員とか(ラグビーは2015年からワンチームなんだろ?サッカーは、正確には、うちの長谷部誠と本田圭佑待ち。)。
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但し、ラグビーサッカーコーチスタッフは違う、ここが最優秀じゃないと、対戦相手に失礼通り越したシャレにならない迷惑がかかる(この文章が、十分失礼だとおもいますが、理解していただけると信じます。)。←20200523。
"日本代表"に何の興味も無い。
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