3.勝野行

救い

「街道をゆく」によると。

若き最澄は、法相宗や唯識宗など奈良の旧仏教は""ではなく""を中心とした破片ではないか?
そのような疑問をもっていた。

もっとも釈迦以降の仏教は膨大な破片群ともいえ、ときにそれら同士がぶつかり矛盾しあっている。
さらに旧仏教は解脱中心主義で、天才のみが悟りの域に達しうるという選別主義だった。
そして最澄はついに天台宗にいきつく。

万人が仏性(仏になりうる性質)をもつ”

天台宗はそれら破片群を”救い”という思想で取捨選択して一大体系としたものだった。
この新仏教の出現は、奈良の仏教を一気に過去のものとした。
誰もが仏性をもつのなら、何を苦しんで修行をするか、当然、奈良の学僧の反発をうけた。


「空海の風景」によると

「最澄のいうことにも理がある」
奈良の学僧も、ひそかにそう思うことがあったかもしれない。

だが彼らとしては、奈良仏教を見限っているという場所(のみ)で最澄と同じ立場にいる、独裁的性格が強い桓武帝の恩寵を武器に、権力で自分達を押さえつけてくる(と感じられる)最澄に対しては態度を硬化せざるを得ない。

そしてここで悲喜劇がおこる。

実は桓武帝や朝廷の関心は天台の教えにはなかった。
それは最澄が、あくまでも(ついでとして)唐からその一部を持ち帰ったにすぎない、現世利益に験があるとうわさされていた密教に集中していた。

桓武帝は天台については何もふれず、密教をもたらしたがゆえに最澄を国師であるとし、奈良の長老たちに最澄から(洗礼のような?)灌頂を受けさせた。


また天台宗は奈良仏教と同じように国家が年度()試験によって僧を得度させる枠を二人分得た。
その一人は天台課程、一人は(粗放なものでしかない)密教課程とした。
(当時、”正式な”僧になるには国家試験を受ける必要があった)

当然、最澄は権力を得るために時代の好奇に迎合した、と、奈良からは思われた。
そんな中、真言密教第八世法王空海が都にあらわれた。

が、それはまた別の話。


で、「街道をゆく」によると、です。

法相宗は時の権力者藤原冬嗣を立会人に最澄と論争をした。
最澄は弟子一人を連れて相手の陣地?に乗り込み、並み居る学僧を論破した。
宮中での各宗の学僧とも討論して勝ち、和気氏の立会いのもとの論戦にも勝った。

これは、やっぱり、頭の良し悪しよりも宗論の構造に無理があったのでは?
負けるべくして負けたと。

極端な例えですが、現在(現代も可)の常識(空気がいいかも)を互いに共有する中で、たとえIQ300の大天才だったとしても、天動説という立場を与えられて地動説をとなえる秀才と論争させられたらいかんともしがたいでしょうし、極端ですが。

で、奈良仏教が最後の切り札としたのが会津の徳一だった。
最澄と徳一の十二年におよぶ論争は文章でおこなわれた。
最澄は激しい論争を重ねてきたことにより、相手を自分の有利な場所に引き込む論争術に長じていた。
この論争はつねに最澄の優勢勝ちだった。

そしてこの勝ちがあったからこそ、日本仏教の中に衆生すべてが仏性をもつというプラティナを刻み入れたような伝統ができた。

「街道をゆく」の中で司馬遼太郎さんも

『徳一について藤原仲麻呂の子といわれるがよくわからない、最澄の文章から弱冠(二十歳)で都をさったことだけはわかっている』
『奈良から平安に移り変わる時期に、まだ夷(ひな)の気分を残す会津に日本最高の法相学者がいたという不思議さを誰も十分には説明できない』






鎮魂

「栄原永遠男・天平の時代」によると。

反乱を起こし敗れた藤原仲麻呂。
この反乱の後、彼の家族もみな処刑されたが、六男の薩雄のみが若いときからの仏教修行を理由に許されたそうです。

もし徳一が仲麻呂の子ならこの薩雄ですか?
で、もし徳一が仲麻呂の子なら、会津にいたのは征夷と関係ないですかね?
その時期は仲麻呂が口火を切ったともいえる三十八年戦争真っ最中ですし。

この戦争におけるすべての犠牲者の鎮魂のために遠く会津に赴いたと。
あるいは、一時は太政大臣と位人臣を極めた仲麻呂の子らしく必勝・国家鎮護とか。

ん?これは都で十分か?
でも、法相宗にそんな思想があるのか知りませんが、この時期彼が会津にいたのは、たとえ仲麻呂の子でないとしても、なんとなく、双方の犠牲者の鎮魂のためな気がします。

で、どうも徳一と仲麻呂の六男薩雄は別人みたいです。
まあ元々、"よくわからない"つうくらいなんだからそりゃそうですよね。


さて、前九年の役の主要人物の一人、安倍貞任。
考えてみたら、彼は徳一より二百年ちかく後世の人なんです。
つまり貞任が一切経山にお経を埋めた(伝説)時には、すでに恵日寺は磐梯山麓にその威容を誇っていただろうと。
徳一のころ、この山はなんと呼ばれていたんだろう?


ところで「街道をゆく」で、ですが。
奈良仏教のうち、とくに法相宗は悟りを三種類に区別していたそうです。

一番低いのが声聞(しょうもん)で自分本位の悟り。
次が縁覚(えんがく)でこれは孤高でありすぎる。
最後が菩薩で、自ら悟りをひらいたうえで利他的に他人を救済して悟りをひらかせたり利益をあたえたりする。


で、空海は徳一の疑問書への返信に「徳一菩薩」と書いていて、司馬さんは空海らしい政治感覚のリップサービスだろうと。

でも、もし薩雄が徳一のかつての名前だとしたら、菩薩の薩って薩雄の薩じゃないですかね?
と、最初書こうとしました、書いていますが。
でも当時、薩雄の薩は正確には薩という漢字表記ではなかったみたいです。
(菩薩の薩は当時薩で固定だったのかな?)


で、「名山の日本史」によると、徳一開創と伝えられる寺が関東・東北に七十以上あり、その中でも恵日寺は平安中期以降(安倍貞任が生きた時代ですか)、磐梯山がみえる範囲の農村、会津四郡を寺領とし、寺僧三百人、僧兵数千人を数えたそうです。
もちろん徳一が建立した(伝説)ころはもっと素朴だったでしょうが。

ちなみに四世紀ごろ、ヤマトの軍勢が侵略してきたときに周囲の”化外の民”が抵抗し籠ったという筑波山。ここにも桓武朝のころ徳一が建立したという中禅寺があったそうです。

得一建立伽藍諸国多、奥州石梯山建立清水寺、会津大寺是也

とくいちこんりゅうがらんしょこくおおし、おうしゅういしはしやまこんりゅうきよみずでら、あいずおおでらこれなり?清水寺が恵日寺でしょうかね?(2013/11/17


蝦夷、鎮兵、坂東からの徴兵。
う~ん、鎮魂はともかく、征夷との関係はやっぱりあるような。
ある種、督戦的な()

わりといつの時代も、侵略では、暴力と宗教はセットだろう、と思います。

しかしもし徳一が仲麻呂の子供ならば(ならば)。
父の権力闘争の果ての家族皆殺しを経験した徳一が、もちろんその時代の精神からは逃れられないとはいえ、その変わり目の前の精神に属していた人とはいえ、人びとの”救い”を祈ってもなんら不思議はない気がします。

そういえば(当初かな?)征夷のとき、征討軍と鎮撫軍の両軍を派遣していたそうなんです。
もちろん実際に蝦夷を攻めるとこには征討軍。
そこを攻めることで周囲の蝦夷が動揺しないようにとそこには鎮撫軍。

で、「蝦夷と東北戦争」によると、709年、陸奥越後の蝦夷の野心がおさまらず良民を害するため、たぶん本音は前年に新設された出羽郡の安定をはかるため、越後に征越後蝦夷将軍、陸奥に陸奥鎮東将軍を派遣したと。

征と鎮。
征が暴力なら鎮は宗教?
あ、鎮魂てありますけど、征魂てないですよね。

もちろんたとえ話です。
でも征魂て何か語感が"brainwashed" (洗脳)

やっぱり宗教だ(笑)。





継承

「天平の時代」によると。

聖武天皇は自分同様藤原氏系の皇子への皇位継承を望んでいた。(聖武天皇の母は藤原不比等の娘)
しかしいない。藤原系の皇子誕生まではと娘の安部内親王を異例の女性皇太子にするほどだった。

基本的に中継ぎとして、みたいですが、当時は女性天皇は珍しくはなかったようです。
"異例"というのは、後述のように、息子がいるのに、という意味ではないかと。
もちろんこの文章は要約しています(2013/11/18

当時、朝廷の実権を握っていた藤原不比等の四人の息子があいついで天然痘で死亡。
橘諸兄(たちばなのもろえ)が大納言になり、新興の藤原氏の勢力は後退をよぎなくされていた。
そんな中、聖武天皇の唯一の皇子で、大伴家持や橘諸兄など反藤原勢力の期待を一身に集めていた安積(あさか)親王が急死した。

これは暗殺の可能性があった。

聖武天皇は藤原系の皇子誕生を待つことなく、痛み分けのような形で譲位。
そして聖武の藤原系の皇女、安部皇太子が孝謙天皇として即位、元号を天平勝宝と改めた。
この即位の前年、橘諸兄らを支援する反藤原勢力の最大の大物、聖武の姉、元正太上天皇が亡くなっていた。


1痛み分け、と書いていますが、我が子を亡くした聖武天皇の気持ちはもちろんわかりません。マリーアントワネットに関する別の文章で同様なことを書きましたが、「この権力闘争の中では、我が子たちが幸せになるにはこれが一番いいのだ」。娘を皇太子にした時から、そのような思いが聖武天皇にはあったのかも。(2013/11/18
あと太上天皇とは法皇、大御所みたいな感覚ではないかと。
その保持した権力は、それぞれさまざま、でしょうけど。(2014/06/21

そしてこの孝謙天皇即位のとき、参議だった藤原仲麻呂は中納言を飛ばし大納言となった。
兄の豊成は右大臣に、そして藤原氏からあと二人あらたに参議となった。
藤原氏の巻き返しが開始された。

しかし同時に橘諸兄の子の奈良麻呂も参議となり、朝廷での両勢力の対立はいよいよ激しくなった。

749年、聖武太上天皇の皇太后である光明皇太后のために紫微中台(しびちゅうだい)という官司が新たに設置され、その長官に仲麻呂が就任した。この官司は、実際には皇太后のためというよりも立場が不安定な孝謙天皇を支えるためのもので、藤原氏と関係深い中衛大将への就任とあわせ、仲麻呂は名実ともに藤原氏のトップにたった。

(中衛大将は、簡単に言えば聖武天皇治世中の728年に発足した天皇近衛軍、中衛府300人の長官)


さて、この頃は大仏建立や東大寺の造営などがあり、表面上は平穏な日々が続く。

「我が主、橘諸兄が反逆を考えている」
しかし755年、聖武太上天皇が重い病におかされていた時、そのような密告が諸兄の従者からもたらされた。

「彼はそのような人物ではない」
聖武太上天皇はその密告を信ぜず握りつぶした。

が、これにより左大臣橘諸兄は辞職に追い込まれ、失脚を狙ったこの密告は結局は成功だった。


ちょっと話はかわりますが、連想したので

唐の則天武后の治世の末期。
彼女が寵愛している若い美貌の兄弟がいた。
当然、彼らは非常な権力を持つことになった。

「なんだあいつらはいい気になって。ちょっとこらしめてやるか」

則天武后の甥や姪がそう不満を言った。
それを伝え聞いた兄弟は彼女にそれを伝えた。
すると彼女は自分の甥や姪を殺してしまった。

このあと、この兄弟の自儘はますますひどくなった。
当然、多くの人達は彼らに媚びへつらった。

しかし、彼らを露骨に無視、軽蔑する人々もいた。
当時の朝廷の中心人物たちがそうだった。

「なんだあいつらはいい気になって。ちょっとこらしめてやるか」

兄弟は則天武后に彼らへの不満をのべた。

「彼らは私が見込んだ人物だ。お前たちは政治のことに口をだすな」

しかし彼女はそれを一切とりあわなかった。
この後、玄宗皇帝治世の初期、唐は空前の隆盛期を迎える。
その中心となったのが則天武后によって見出されたこの人たちだった。

そして、この兄弟は則天武后の死の直前に殺された。
彼らはその死の時まで、則天武后の病床にはり付き続けていた。

みたいな。(2013/11/19

へ。m(略)20180901。



仲麻呂

756年、聖武太上天皇と先の左大臣橘諸兄があいついで亡くなり、状況はさらに混迷を深めてきた。

この直後、朝廷を誹謗し臣として礼を失したとして、橘氏と共に反藤原氏の有力な一角である大伴氏の重鎮が逮捕された。彼はすぐに釈放されるも土佐に左遷され、のちにそのまま流刑となる。
そしてこの逮捕、左遷を機に、大伴氏内部の急進派は反仲麻呂の陰謀に突き進むようになる。

さて、聖武太上天皇は遺言で、自分の祖父草壁皇子の兄弟である新田部親王の子、道祖(ふなど)王を皇太子に指名した。


これにより、文武・聖武と続いてきた草壁皇子を租とする皇統の流れは自分の娘、孝謙天皇で止まることになる。しかし自らと同じ、壬申の乱の勝利者である天武天皇の血脈から後継者を選んだ。

聖武天皇の祖父、草壁皇子は天武天皇の第一王子、新田部親王は天武天皇の第七皇子。
ちなみに聖武天皇は文武天皇の息子だが、文武天皇は若くしてなくなり、その時聖武天皇はまだ幼少だった。
そのため、草壁皇子の妃であり文武天皇の母である元明天皇、その娘(文武天皇の兄妹)元正天皇が短い期間ではあるが女性天皇として即位した。(2013/11/18)


しかし聖武の死後、道祖王はその行状が皇太子にふさわしくないとして、すぐに皇太子の座を追われた。
そして仲麻呂の亡き長男の妻と結婚し、その時仲麻呂の邸宅に住んでいた、同じ天武系の大炊(おおい)王が新たに皇太子に選ばれた。

大炊王は舎人親王の第七王子。
舎人親王は天武天皇の第三王子。(2013/11/18)


翌757年、仲麻呂は大本営的?な新設の紫微内相(しびないしょう)にも就任し、国家の軍事権を握った。

彼はこれらの権力を背景に反仲麻呂派の勢力を降格や地方に追い粛清した。
これに対し反仲麻呂派はクーデターを計画するも、それは追いつめられた末のもので意思の統一もなく事前に露見、自白や密告で次々と逮捕された。

中心人物であった大伴古麻呂は拷問で殺され、不明だが橘奈良麻呂も獄中で殺された可能性が高い。

そのすぐ後、実際には難波にとどまったものの、仲麻呂の兄の豊成が息子の逮捕に連座して九州に左遷され、仲麻呂は祖父不比等をこえる独裁権力を手に入れた。
彼はたとえ身内でも、自分の上となる存在をゆるさないようになっていた。

そしてこの頃、藤原や君子(天皇)の姓を久須波良や吉美候に改めさせ、天皇・皇后の名と共に鎌足や不比等の名の使用が禁止された。

藤原や君子(天皇)の姓。
当時、庶民には姓はなかったと思いますが、仲麻呂系の藤原一族以外の藤原氏という意味でしょうか?君子というのは、吉美候から考えて、天皇の姓、ではなく、君子という字面が天皇を連想するから駄目だ、ということですかね?(2013/11/19)


そして758年、孝謙天皇が譲位、大炊皇太子が即位、淳仁天皇となった。
そして仲麻呂は恵美押勝(えみおしかつ)という姓名と強大な経済力を得た。

この後、並ぶもののいない権力を握った仲麻呂は版図拡大の東北政策を再開。

760年、仲麻呂はついに祖父不比等も固辞し続けた太政大臣の地位につき、その権勢は絶頂に達した。
しかし同じ年、天皇家の支柱であった光明皇太后(聖武天皇の后)が亡くなり、これにより孝謙太上天皇と淳仁天皇の不和がしだいに表面化。絶対的に見えた仲麻呂の権力に、微妙な影が差しはじめた。

761年、東国に対する近畿周辺の重要軍事拠点でもある三関(三カ国の関所)の統轄を主とする按察使が置かれ、仲麻呂の次男と女婿が任命された。
この時、次男が就任していた大和守は三男にかわり、平城京を管轄する左京右京両大夫(たいふ)も左右京尹(きょういん)として統合し、これも三男が兼任、仲麻呂は近畿周辺を身内で固めた。

同じ年、融和の機会をつくろうと思ったのか、仲麻呂は藤原氏の勢力圏の近江に保良宮(ほらのみや)を急ぎ完成させ、孝謙太上天皇と淳仁天皇の二人を迎え入れた。

しかし翌762年、孝謙が自分の病を治した(と思った)道鏡を寵愛しはじめた影響もあり、ここ保良宮で二人は決定的に決裂した。


太政大臣は律令の最高位で定員一名、適任者がいなければ欠員でよかったそうです。
徳川幕府の大老のような感じかも。
で、次に、左大臣、右大臣、定員両一名、ときますが、立場としては左大臣が上だそうです。基本的にはこの左大臣が最高位だったみたいです。
そして大納言、一応定員は4名ですが、これは時代によって多少の変遷がある。
で、その下に中納言、これの定員も一時期8名と定められたことはあるが、一定はしなかったそうです。
ちなみに大納言は左右両大臣不在の時にかわって政務を執り行うことができたが、中納言にはその権限はなかったとか。
で、この下に参議、これも定員は一応8名ですが、やはり一定はしなかった。
もともとはここまでの人を公卿と呼んだようです。
天皇に近侍したのは中納言以上みたいですが、よくわかりません。
参議は、すくなくとも最初は、国政の審議にのみ参加していたそうです。(2013/11/19)





宴のあと

仲麻呂が宥和をはかるも、孝謙太上天皇と淳仁天皇の仲は決定的に決裂。
二人とも相次いで平城京に帰ってしまった。

そして孝謙太上天皇は「私は出家した」として法基尼(ほうきに)と名乗り、「今後国家の運営は自分がおこなう、淳仁は天皇の日常の些事のみをおこなえ」と宣告した。
この淳仁天皇こそが仲麻呂の権力の裏書であった。
そして同じ月、後宮の女官の長だった仲麻呂の正室が亡くなった。

う~ん、仲麻呂が独裁者といっても孝謙太上天皇の一言で吹っ飛ぶんだからたいしたことは・・・

というか、孝謙太上天皇自身の今後のことも考えると、天皇個人(ここでは太上天皇ですが)ではなく、天皇それ自体の権威が貴族のなかではまだまだ凄かったんですかね?
もちろん藤原氏も含め。本家の当主みたいな感じ?

もちろん孝謙太上天皇による道鏡問題です。(2013/11/20)

あと、これに限らず、歴史ではわりと都合よく人がいなくなる気がします。
そしてそれを機に歴史が動きだす。

もちろんそれが当然なんですけど。
だって歴史の流れのつっかえ棒になってた人がいなくなるんだから、動き出すのは当然だ。
ただ、仲麻呂のところだけでも、何か多い気はしますね。
それがすべて仲麻呂に有利に働いた、というわけではなく。


この孝謙太上天皇の宣言で仲麻呂の権力の衰退はいよいよあきらかになってきた。
しかし半年後、(たぶん)あせった仲麻呂は次男に続き三男四男を参議に任命。
国の最高機関である太政官を血縁や自派で固めるという露骨なことをした。
これに対して同じ藤原氏の中からも仲麻呂を暗殺しようと思うものがでてきた。

このように同族からも見限られつつあるなか、長く仲麻呂派が独占してきた官吏に反仲麻呂派が就任することもふえてくる。

764年、保良宮がある近江も、仲麻呂が信頼する女婿で按察使の御楯(みたて)が亡くなった後は反仲麻呂派の手中にほぼ落ち、京の僧や尼を管轄する官からも排除された。
同じころ、以前の銭貨とほぼ同じものに十倍の額面価値をつけた万年通宝が流通しはじめ物価が急上昇。それに飢饉や疫病の流行がかさなった、特に近畿や近江はひどかった。

「これはすべて仲麻呂の悪政による」

そのような声が天下に満ちた。
仲麻呂は追い詰められた。

同764年、自らを守る兵を集めるため、彼は国家の命令書を偽造。
そして部下の密告によりこの致命的行為が発覚、仲麻呂はついに挙兵した。
しかしこれは、かつて自分が死に追いやった人たちと同じように、追い詰められたすえの挙兵だった。

当然、仲麻呂は孝謙太上天皇側に常に先手をとられることとなった。
琵琶湖湖西の勝野という場所で仲麻呂は最後の戦いを挑みあえなく敗北。
捕らえられていた妻子などと共にその地で処刑され、この乱は終息した。
ただ六男の薩雄のみが若年からの仏教修行を理由に命を助けられた。


で、ですね、「天平の時代」に大伴家持と仲麻呂の直筆という写真が小さくですが掲載されていてですね。


家持は文章で仲麻呂は署名のみなんですが、なんというか家持の大人の文字にたいして、仲麻呂はなんとなく子供っぽい文字なんですね。
単純に上手い・下手かもしれませんが。

兄弟をも踏み台に、謀略の限りをつくして己の野望に邁進する仲麻呂。
そんな仲麻呂に追い詰められる大伴氏の長老として、「決して軽はずみなことをして罠にはまり大伴氏を滅ぼすことがないように」と氏族内の血気さかんな若者を諭す家持。



でも権力を握った後の仲麻呂は、疲弊していた普通のひとびとの負担が軽くなるような政策を次々とおこない、もちろん人気取りということもあったでしょうが、本当に世の中をよくしたいという理想主義に燃えていたのかも。

そのためにも何が何でも権力を握らねばと。

それを独裁者というのかもしれませんが。


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