2.浄土行

奥の細道、曇り空

松尾芭蕉、曾良、白河の(故事としての)関を越え、阿武隈川を渡る。
左に会津根をあおぎ見つつ芭蕉の俳友等窮(とうきゅう)を訪ね須賀川に到着。

そこで"白河の関いかにこえつるや"と、等窮に問われ、一句。


"風流の初やおくの田植うた"


ん、“会津根をあおぎ見つつ”って表現おかしいか?二人がどんなコースを通ったのか今わからないけど、白河→須賀川で会津の山々だとそんなに近くはないよな。

ちなみにモトの文章は、"左に会津根高く、右に岩城、相馬、三春の庄"てな感じです。(奥の細道・山本健吉訳・解説)

"高く"だから、まあいいかな?

さて、二人は等窮の家を辞し、二本松より右にきれて黒塚の岩屋を見物したりしつつ、福島に一泊。
翌日、しのぶもぢ摺(ずり)の石をたずね、忍ぶの里を訪れ、一句。


"早苗とる手もとや昔しのぶ擦"


ちなみにこの句の最初の形は、"五月乙女(さをとめ)にしかた望んしのぶ摺"
田植えをする女性を早乙女(五月乙女)というとか。

そうそう会津根高くと言いますが、猪苗代盆地の海抜って500メートル超えているんですね。
つまり猪苗代湖は台上にあり、あそこがもう会津根か、それなら近いですね。
知らずにそこに立つととてもそんな実感はわきませんでしたが、調べて少しびっくりしました。

それじゃ猪苗代湖は山上湖と言ってもいいくらいですよね。
で、お隣の福島市で海抜60メートルくらいですか。
それだけで十分気候は違いますよね。

ところで「日本の民話・福島篇(片平幸三編)」を読んでいると・・・

昔々、会津には磐梯山に腰掛けるような巨人の夫婦が住んでいた。
この夫婦は太陽の光をさえぎったり、猪苗代湖の水をふりとばしたり、散々悪さをし、会津の人たちを困らせていた。
ある日、貧しい身なりの旅の僧がやってきて、修法によりこの夫婦を壺の中に閉じ込め、磐梯山の頂上に埋めてしまった。


昔々、会津は何もない盆地だった。
ある日、貧しい身なりの旅の僧がやってきて、ある家の前で水を所望すると、その家の美女は"このへんは水不足だから"と、それを断った。
しばらくいくと、やや顔立ちのみにくい女が貴重な水を全部飲ませてくれた。

さて、次の日の朝、人々が起きてみると、盆地には一夜にして巨大な湖ができていた。
そして、断った美女の家は湖の中の孤島になって、水を全部飲ませてくれた女の家は湖のとても便利な場所になった。

そう、この貧しい身なりの旅の僧こそ、空海その人であった。


なんとなく西遊記な感じもしますし、なんとなくひどい(笑)気もしますが、以前書いた空海伝説のような昔話がいくつかのっていました。

やっぱり真言宗のひろがりとともに、このような伝説がひろく語られるようになったんですかね。
ちなみに最初の話は、 (僕が読んだ本には) 空海とは書いてありませんでした。


ところで芭蕉師匠。

"十二日、平和泉(ひらいずみ)と心ざし、あねはの松・緒()だえの橋など聞傳(ききつたへ)て、人跡稀(じんせきまれ)に、雉兎蒭蕘(ちとすうぜう)の往(ゆき)かふ道、そこともわかず、終(つひ)に路(みち)ふみたがえて、石(いし)の巻(まき)といふ湊(みなと)に出(いづ)"

平泉に行こうとして道に迷って石巻に行ってしまったんですね。
この後、思いがけず訪れた石巻の港の殷賑を極めたさまが奥の細道に描写されています。

で、この"平和泉と心ざし"
平・和泉、なんでしょうけど、平和・泉な感じもいいですね。





そういえば、猪苗代から郡山に向かう時、山道をけっこうくだったような

僕が読んでいる奥の細道の解説を書いている山本さんは、昭和十八年刊行の雑誌の中で、曾良に止められて実行はしなかったものの。


"蝦夷が千島の見ゆるあたりまでも"


そう芭蕉が蝦夷地に思いをはせたのは、義経伝説の「御曹司島わたり」の跡をたどってみたいという思いがあったのかもしれない、とお書きになられています。

そしてこれは山本さんが昭和五十年代にお書きになった文章かな?

柳田国男さんの「東北文学の研究」によると、東北地方を歩いた念仏聖をかいして、義経伝説が深く、具体的造形を持って庶民の中に浸透し、そして「義経記」がうまれた。

と、お書きになられています。
では、たぶん日本中にあるだろう空海伝説も、やっぱり念仏聖な高野聖をかいしてですかね?


さて、芭蕉曾良の旅の空です。
芭蕉一行も福島をたち、鯖野という場所で、義経の太刀や弁慶の笈(おい)を宝物とする寺で茶を乞い、一句。


"笈も太刀も五月にかざれ紙幟(かみのぼり)"


ま、そうはいっても、これは奥の細道ではよくあることみたいですが、二人は義経所縁の石碑を参っただけで、実際は宝物を見ていず、句も後につくったもので、最初の句は、"弁慶が笈をもかざれ紙幟"だったそうです。


で、また「福島の昔話」を読みつつ。

昔々、信夫郡(伊達の辺り?)平沢村に炭焼藤太という男が住んでいた。
ある日、藤太は買い物に行ったが、その途中にある池の鴨にお金を投げつけ、そして何も買わないで帰ってきた。



京から来た妻がびっくりすると、藤太はこういった。
「裏山を掘ると金なんかいくらでもでてくる。おしくない」
この藤太、義経を奥州に連れてきた金売吉次の子であったとか。


昔々、弁慶に父を討たれ、復讐のために鎌倉から奥州にやってきた力自慢の兄弟がいた。
しかし弁慶は平泉ですでに死んでいた。
兄弟は鎌倉に帰る気にもなれず、磐梯山で盗賊になり暴れまくった。
しかし後に改心、神?に教えてもらった温泉で宿屋をはじめると、その温泉宿はとても繁盛した。
そしてこの兄弟が作ったといい伝えられている句が。

"このところ黄金千杯埋めずおく、屋敷の里のみえるところに"


昔々、倉吉という若者が磐梯山の御鏡沼で不思議な美女に頼まれごとをした。
倉吉がその願いをかなえると、毎日米三粒をあたえると金貨を生むという馬をお礼にもらった。
それから倉吉は毎日馬に米三粒をあたえ、金貨を得、裕福になった。
しかし欲が深くなり、一度に沢山の米粒をあたえると馬はいなくなってしまった。
そして倉吉の家も身もほろびた。


昔々、伊達の高子に熊坂という長者が住んでいた。
奉公人の三吉というのが、いつもずぶぬれで、へとへとになって彼の屋敷に帰ってくる。
熊坂が不思議に思い、三吉にわけをきいてみると。
「実は沼の中に黄金が輝いている、しかしどうしてもとることができない」
二人で調べた結果、これは山の黄金が沼に反射しているのだ。
そこで山を掘ってみるとおびただしい黄金が。


昔々、ほんとに昔、天平の世、奈良の都で国家をあげて大仏を作っていた時。
大仏に使用する鍍金(めっき)が足りなくなり、さしもの大業も頓挫しそうになった。
実は当時、金は日本にはないと言われていて、輸入にたよっていた。
そのとき、日本にはないとされた黄金が奥州で産出されたと報告があり、金九百両が急使でとどけられた。
これにより大仏を完成させることができたとか。





くがね花咲く

「平泉の世紀」によると、天平二一年、陸奥国守、百済王敬福(くだらのこにきしきようふく)から、"わが国初の黄金が陸奥で産出された"との報告が公式にあった。

ころも大仏建造の鍍金がなくなり、挫折感が朝廷に満ちていたとき。
天佑神助、仏のめぐみだ、ありがたや、と、この年、天平感宝、天平勝宝、と二回も元号が改まった。

越中国守、大伴家持がこれを聞き一句。

"すめろぎの御世栄えむとあづまなるみちのく山にくがね花咲く"


そして三年後(よね?)の天平勝宝四年、陸奥国多賀城以北の諸郡の調庸(ざっくり租税)は黄金で、と、制度化された。ちなみに多賀城以南は従来どおり貢布で、そして、さらに北方の地帯は貢馬とされた。

で、これは「宮城の昔話」からだったかな?そのころの昔話で。

昔々、坂上田村麿が東北地方で暴れていた賊の征伐に向かう前。
田村麿は偉いお坊さんから尊い仏像のあまりでつくったという木彫りの馬をもらった。
さて、征伐にむかった田村麿たちが賊に負けそうになったとき、どこからともなく百頭の馬がやってきた。
そして彼らはこの馬にまたがり賊を退治した。

「名山の日本史」の著者の高橋千劔破さんは、ほとんどの伝説や史書が坂上田村麻呂や源義家を東北地方を平定した”英雄”として扱っている。征服された蝦夷の側を征伐されてしかるべき”賊”としている。
しかし蝦夷からみれば、これは一方的な侵略で、賊扱いされるいわれなどないだろうと。


そういえば、「水曜どうでしょう」の四国お遍路をみて、ちょっと興味をもっていたんですが、四国の札所にもあたりまえに廃仏毀釈の嵐はきてますね。

石鉄蔵王権現が石鎚神社となった石鎚山の六十番札所横峰寺は明治六年に廃寺。

横峰寺とともに平安以来の石鎚山の山岳信仰の中心となった前神寺。この寺は当時の住職が廃仏稀釈に激しく抵抗するも、原因不明の火災で焼失。明治八年、石鎚山の中腹にあった本寺(という言い方でいいのか?)は廃寺となり、その名は山麓の末寺に移された。ただしこの時、前神寺という表記を前上寺に変えさせられた。そして三十年以上のち、明治四十二年にやっともとの名に復した。

明治六年に廃寺となった横峰寺も、別地で大峯寺と名を変えてようやく存続することができた。そして同じく明治四十二年、こちらは元の境内を神社から譲渡され横峰寺として復することができた。


もちろん「名山の日本史」を読んでますが、横峰寺や前神寺は山岳信仰に深く関わった巨刹であるのにその歴史がよくわからない。

その大きな理由は、この神仏分離の廃仏毀釈で致命的な打撃を受けたからだろうと。


でも、もとにムチャがあったわけですが、明治四十二年てのは日露戦の勝利も気分的に関係してますかね。
勝った、勝った、もう西洋の侵略にビクビクしている時代は終わった、これからは日本もどんどん発展するさ、細かいことはもういいだろう、てな感じで。

ま、そんな時、ま、適当に書いてそんな時もないもんですが、夏目漱石は、自作の登場人物の口を借りて。

(日本は)滅びるね”

と言ったわけですが。






「蝦夷と東北戦争」によるとですね、少なくとも古代の蝦夷(えみし)は特定の人々のことをいうのではなく、自らをそう呼んだわけでもなく、あくまでヤマト側からみて、広大な日本東北部に住む、まだ”王化”されていないさまざまな”化外の民”のことを、一括して”蝦夷”と呼んだと。

そしてヤマトの朝廷の貴族は、蝦夷を蔑視しながらも、"一を以って千に当たる"といわれた戦闘力には畏敬の念をいだいていたのかもしれない。
蘇我蝦夷、小野毛人(えみし)、佐伯今毛人など、蝦夷(毛人)という名もそのためであろう。
またヤマトに服した蝦夷。
彼らは俘囚(ふしゅう)と呼ばれ、俘軍として組織された。


ところで「蝦夷と東北戦争」の著者の鈴木拓也さんは参考にした引用元を本文の中で随時表記されています。

しかし、ここでは"「蝦夷と東北戦争」によると"で一括させてください。
といいますか、他も全部そうですね、しかも基本的に俺の身勝手要約です。
くわしく、正確に、は、それら原書?たとえば鈴木拓也著「蝦夷と東北戦争」を読んでいただければ。

さて、"「蝦夷と東北戦争」によると"です。

奈良時代くらいから、本来の部族的"蝦夷"、個別に自分達の支配下にある"俘囚"
そしてそれら"蝦夷"の総称として、"夷俘(いふ)"
そのような呼び名の使い分けがあったのではないだろうか。

この文章は自分でもちょっとわかりづらいです、もちろん要約しています。
「本来の部族的"蝦夷"」、これは「まだ王化されていない"蝦夷"」、そういう意味で俺は書いていると思います。
あと、これも正確な区分けとは言えないでしょうが、大化の改新以降の日本の表記は"日本"で統一します。
(2013/11/13)

また、大化の改新以降の”化外の地”への進出は内地からの移民による郡の設置・版図拡大が主で、征夷、軍事行動はあくまで副次的なものだった。
移民に対する蝦夷の”抵抗”が予想される場合や、移民後の治安確保のために征夷がおこなわれた。

もちろん平和裏に城柵や郡が置かれた例も多い。
城柵は基本的に防御の外郭をもった役所であり、常に兵士に守られていた。
その城柵には中央から国司が派遣されて城司とよばれ、蝦夷を含んだその地方を統率した。

ぐだぐだですが、この「蝦夷を含んだ」の蝦夷は、”ヤマト(日本)に服した蝦夷“、”俘囚“のことを指す。
そう言い切っていいか今ちょっとわかりません。(2013/11/13)


日本国によるフロンティアへの"入植"は順調にすすんだ。
719年には、特定の国の守をして周囲数カ国を管轄させる按察使(あぜち)という制度がつくられた。

しかし翌20年、陸奥国でこの按察使が殺害され、史上初の蝦夷の大反乱が起きた。
これは蝦夷を力で押さえつけようとする大規模移民政策にたいしての抵抗の意思表示だった。


夷を以って夷を撃つは古の上計なり、賊を持って賊を伐つは軍国の利なり”

この反乱の鎮圧には国家側の蝦夷の武力ももちいられた。
ただし、単純に利用された、そういうわけではない。
この乱のあと、功があった蝦夷、その通訳も勲位を受けている。

当然、反乱後の蝦夷への慰撫という意味もあったろう、とは思います。






再編

この反乱は当時の日本国の指導者たちに様々な征夷への教訓をあたえたようだ。
そのころの日本国の兵制は、その分国の住人が六十日程度の勤務を交代でくりかえす半農半兵だった。
しかしこの反乱を受け、陸奥国ではそれを令外(りょうげ・律令の外)という常備兵制に変えた。

そしてもう一つ。
この反乱の前、陸奥国の領域は征夷の進展によりすでに広大なものとなっていた。
日本国はそれを征夷の最前線と比較的治安が安定している地域とに三分割、それぞれに国司、そしてそれを統括する按察使(あぜち)を置いていた。

しかし、この反乱では最初にその按察使が殺害された。
それにより情報や命令の伝達など指揮系統に混乱が生じ、当初、この反乱への対応が後手後手に回ることになった。

その反省をふまえ、反乱鎮圧後、日本国は陸奥国を再統合。
按察使というクッションを取り除き、陸奥国司のもと統一迅速に事態に対応できるようにした。

陸奥按察使から陸奥国司に名前が変わっただけでは?という気はします。統一後も当然地区責任者はいたでしょうから。下に少し記しているように、権限から何から抜本的組織改変が行われたのかもしれません。ま、そうであったとしても・・・という思いは残ります。(2013/11/14)


令外の兵は主に東国(東北ではなく)の兵士から選出され陸奥国に派遣、鎮兵とよばれた。
それを統括する任を主として創設されたのが鎮守府という令外官で、その長である鎮守将軍はほぼ按察使や陸奥守(国司?)が兼任した。これにより中央からの征討使が将軍ではなく大使と呼称されるようになった。そして再統合された陸奥国を統治するかなめの国府兼鎮守府としてつくられたのが多賀城だった。

今読み返すと、なにかと言葉を放り出していて、自分でもよくわからない点が多いです。
按察使”?と、僕も思います。陸奥国を含む数カ国を統率する、だったらそれこそ迅速な対応は・・・ですし。
もしかしたら何度か組織体制が変わったのかも。
あと、“征討使”、その実際、そしてその役割の変化、たとえば派遣将軍から軍監察官になったとか、などは、今わかりません。(2013/11/14
実質は、単純に組織の長のガードを固くしたということかも。(2014/06/21


さて、720年に発生した大反乱の傷もようやく癒えた、ということか、東国の兵士で構成された鎮兵は746年に一旦は廃止される(しかし757年に復活され、800年代初頭まで廃止されることはなかった)。

美濃以東から幅広く徴兵されていた征夷軍はこの時期以降この鎮兵が主力となり、その動員は、相模、安房、上総、下総、常陸、上野、武蔵、下野、東国八カ国にほぼ固定された。これらは相模の足柄坂、上野の碓氷坂より東として”坂東”と呼称された。そして同時に、これら東国の兵士は天皇のそばにも侍し、その武力への貴種の期待は信仰に近いものがあった。

え~これが源氏vs奥州藤原へと続く戦いのはじまりでしょうか?

だらだらと書いていますが。
「その分国の住人が六十日程度の勤務を交代でくりかえす半農半兵」
これがその国の治安維持の為の常備兵ですね。
常備兵""ではなく、めんどくさい書き方してますけど。

で、"征夷"のときにはそれとは別に美濃以東から広く兵を動員していた。
その征夷軍の将軍の名称が征討使でしょうか?
で、この大反乱の後、臨戦体制ということで、あくまで征夷の最前線に限り、その長に権力を集中、兵も平等な負担よりも精鋭に重点をおいたと。(2013/11/14

で、その長が常駐する要塞が”多賀城”ですかね。(2014/06/21


ところで、この反乱で捕虜となった蝦夷は、伊予や筑紫など各地に分散して送られた。
これは東北の蝦夷勢力の弱体化を意図したものと思われる。
しかし同時に、現地蝦夷の待遇改善など、そのような点での日本国の反省もみられた。
また蝦夷の人たちのなかでの疫病の流行もあったようだ。

それらにより、この反乱の後は日本国による陸奥支配は順調に進み、目立った征夷が行われることはなかった。

「もうそんな世ではない」746年、百済王族の後裔である陸奥守百済王敬福はついに鎮兵を廃止した。

しかし様相は一変する。
757年、法相宗の高僧徳一の父親ともいわれる藤原仲麻呂が鎮兵を復活。
彼は自分の息子を按察使や鎮守将軍を兼任の陸奥守に任命、版図拡大の征夷を再開した。

その後の政権にもこの政策は受け継がれ、774年から811年まで、ついに三十八年戦争といわれる蝦夷と日本の血みどろの征夷戦がはじまる。

さて、ところで鎮兵が廃止された746年から復活した757年までの間に奥州でなにがあったのか?


"すめろぎの御世栄えむとあづまなるみちのく山にくがね花咲く"


749年、日本には存在しないと思われていた黄金が、陸奥で産出されたと陸奥守百済王敬福から公式に報告。

まるでOILのような黄金利権の影が(笑)





とこよのくに

「仏教民俗学(本)」によると、古代、常世(とこよ)とは神道のテリトリーであり、海の彼方にある不老不死の国と考えられてきた。
かつ常世は常夜でもあり、死者の国でもあった。

彼岸は仏教的世界観で此岸(しがん)、煩悩?に対するアチラ側、悟りの岸、であったが、いつからか生のアチラ側、死の岸、ともなった。
そう、彼岸は日本で変質し、インドの仏教徒が思考した悟りの岸とは異なる意味をもった。
そこにはまた、神道と仏教の出会い以外に道教の影響もあっただろう。

浦島が助けた亀に連れられていった海の彼方の常世の国、竜宮。

日本の記紀神話では、この竜宮には蓬莱山(とこよのくに)という字があてられていた。
彼岸も常世も生であり死であった。

古来、日本人は人が死ねば霊魂は山にのぼり浄められて祖霊になると信じていた。
(ここで、一つ区切りをいれるべきかも)
山中の地獄谷や賽の河原を抜け、山頂の極楽浄土へのぼっていくと信じていた。

例えば、仏を信じる者の臨終の場に、如来が極楽へと迎えに来てくれる場面をえがいた阿弥陀来迎図。
そのほとんどは(逆に)山の斜面を如来がおりてくるものだ。

浄土。
インド仏教が思考した浄土は果てなく遠い西方の地にある楽園というものだった。
これが仏教渡来以前から日本にある、死者の霊がのぼる場所であり神がおりてくる場所でもあるという山岳への信仰と結びつき、変容。
おそらく平安中期には身近な山の中にこそ浄土は存在するという観念を成立させた。


浄土平。
ここはどちらかといえば、山中の皆金色な紅葉の極楽浄土を抜け、山頂の賽の河原へのぼっていってしまう、そんな気がします。

と思ったら、霊山は必ず浄土が原とか地獄谷とか賽の河原とかの地名をもつとか。

浄土平に地獄谷や賽の河原が地名としてあるかどうかはわかりませんが(地獄谷ぽいつばくろ谷なら)、考えてみたら別に荒涼とした場所が山頂というわけでもないし、一切経山てのはまだよくわかりませんが、たとえば、荒涼とした地獄を抜け、不老不死の楽園蓬莱山(とこよのくに)にたどり着く。

めでたしめでたし。

みたいな、でも、本当に、神道、仏教、道教、仲良くやってますね。


万葉集でも死者の霊魂は山や高いところにおもむくということをうたう。
しかし残された""についての言及はない。

(俺が)そこまで言っていいかわからないが、霊魂が離れたあとの体は当時の日本人にとってはもうただのモノだったのかもしれない。

霊魂こそが重要だった。

納骨という習慣は十一、二世紀ごろから天皇や貴族が高野山に納骨するということにはじまり、それが庶民にひろがった。

これには高野聖が遺骨を高野山に納骨すれば浄土に往生できると説いたことが一役買っているだろう。
この納骨という新しい習慣が山中浄土と結びつき、やがて各地の霊山に納骨されるようになった。
その頃には、そうすることで山にのぼった霊魂が再び自らの体に出会えると信じられていた。

山から天にのぼった、そう書いていいか、今わかりません(2013/11/16
高野山、比叡山も、真言・天台、当時の日本としては新渡来の最新の仏教だったと思うのですが、その“本山”成立自体が日本の山岳信仰の影響にあったのか?今わかりません(2014/06/02


で、適当に書きますが、安倍貞任が一切経山に埋めたのは(伝説)、お経ではなく、自らの遺骨では。
あと、ともに戦い亡くなった多くの反乱兵士の遺骨とか。


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