4.渡来考
①ジパング
ところで、天平の黄金発見。もともと陸奥に黄金があるらしいということはわかっていた気がするんです。
だからこそそういう探金技術に長けている渡来系の百済王敬福を陸奥守に任命して調査させたのかなと。
と、思ったら、「考古学の旅」に著者である森浩一さんのお考えとして、その可能性がサクッと書いてありました。
砂金とかは"毛外の民"の人たちには、それこそ民話の炭焼藤太の話のように当たり前にそこにあるものだったのかもしれませんね。だから彼らはそこにこれといって価値を見出していなかった。
「ああ、そんなもの、そこの沢に行けばいくらでも取れるよ」みたいな。
森さんも、敬福から届けられた大仏鍍金の900両の中には、蝦夷を介して入手した、より北方の、もしかしたら(現在の)北海道の砂金も含まれていたかも、と。
「天平の時代」によると。
聖武天皇と藤原不比等の娘、光明皇后のあいだに生まれた唯一の男子で、生後一年で亡くなった某王がいた。この男の子のために建てられた小さなお堂が後に金鐘寺(こんしゅじ)という小さな寺になり、この寺を前身として東大寺が造営されたそうです。
ちなみに、使用された鍍金は大仏のみで10,466両、約430kgとか。
さて、炭焼藤太の話。
「金(きん)?そんなん何が惜しいんだ?裏山掘ればいくらでも出てくんぞ」てな話。
あれは福島(信夫郡)の民話でしたが、「宮城の民話」を読んでいると、栗原という場所の話としてほぼ同じ話がのってました。
でも、今とりあえずその本をざっと読んだだけですが、空海話は「宮城の民話」にはなかったな。
まあ、なんでものっているわけじゃないでしょうが、そこまでは高野聖も来なかったのかな?
宮城は鎌倉幕府成立までは奥州藤原氏の勢力圏かな?それが関係してるかな?
でも、白河の関(今の福島県南方)を越えると、だもんな。
で、高橋千劔破さんの「名山の民俗史」によると、福島と茨城の境にある八溝山(やみぞさん)、ここは古くから砂金がとれることが知られていた。
"白河の八溝黄金神に奉げものをして国司に祈らせると常より数倍の砂金がとれ、遣唐使の資金がおおいに助かった"
続日本後紀、承和三年(836)の記事に、そのような記録があるそうです。
そして、そこから少し時代がくだりますが、「平泉の世紀」によると。
10世紀末、奥州が唯一の産金地で、国の金の需要はすべてそこからの貢金で賄っていた。
中国の「宋史・日本伝」にも、"東の奥州は黄金を産し"とあり、日本の黄金はその質のよさもあり、日宋貿易の重要な輸出品になっていた。しかし現在その貢金はほぼ途絶えている。
※貢金とは奥州から京都の朝廷(貴族)への献上金でしょうね。
ただ、この"現在"がいつを指すのか、現在わかりません。
おそらく奥州藤原氏が東北での地位を確立した後のことではないかと思います。
たぶん書いた時点では少なくとも自分の中ではわかっていたんでしょうけど、時間が経過してみると、自分でも何を書いているのかわからない、こうしてみると結構ありますね。
ツイッターに書いていたんで、なんとか文章を簡略化しようとしたのだろう、という言い訳はありますけど。(2013/11/21)
※朝貢貿易の、つうても、ですね。20180901。
「源平盛衰記」の中に、平重盛(平清盛の息子)が陸奥国を支配(実際は奥州藤原氏)していた時の話として。
"気仙郡から1,300両の貢金があり、それを宋から来ていた商人を介し、中国の育王山という霊山と宋の帝室にわけて送った"
そのようなくだりがあるそうです。
ちなみに「平家物語」では同じエピソードで貢金は3,500両。
ただし、こちらは金の出所が書いてないんですと。
で、その時代の出来事として、奥州藤原三代清衡(二代基衡とも)は10万5千両(四トン超?)の砂金を宋の帝室に送って7千巻以上の一切経を平泉に輸入したことがあったそうです。
(もっとも、それが記されているのは百年以上あとに書かれた文章内ですが)
さすがに量は大げさかもしれませんが、この奥州金と中国の長い結びつきが、のちに黄金の国ジパングとして結実したのではないだろうかということです。
ちなみにこの「宋史」成立は元朝後期。
つまりかなり時代をくだります。
しかし、その「日本伝」は984年に入宋した日本僧奝然(ちょうねん)がもたらした「王年代記」など日本側の資料をもとに記され、日本伝としての信頼性は高いそうです。
で、この奝然が渡宋の時同船した宋の商人の話で、公卿が彼にお土産に金を持たせたいけど、手持ちがないから奥州に貢金の催促をしたという話があるとか。
②習合
そうそう、歴史は勝者がつくるといいますが、たしか中国の王朝の正史って前王朝を滅ぼした次の王朝がつくるんですよね。
もちろん自分たちの正史も自らはつくらず、いつか天命あらたまり自分達を滅ぼすことになる誰かさんに任せると。
完全記憶たよりなんでちょいと不正確ですが、自らの滅亡も予め織り込みずみって考え方、凄いことかも。
まあ完結した正史をつくろうとしたら終わらんことには、ですかね。
それに資料は基本その王朝が作成したものを使うんでしょうし。
蜀の官僚でもあった陳寿が(一度官を退いたみたいですが)晋の官僚として「三国志」を書いたように、王朝は滅んでも官僚は引き続き次王朝に仕えて連続性はそれなりにあったとか?
現実問題、上から下まで総とっかえしてたら動くもんも動かん気もしますし。
なにげに官僚の保身の一環としてそういうルールを自らつくったとか(笑)
前王朝と同じ轍を踏まないためにも前王朝を知り尽くした我々の知識が必要ですよと。
もっとも「晋書」はずっと後世の唐の時代、「宋史」も元の後半に成立ですけど。
さて、話は天平の世にもどります。
同じ信仰を持つ人々や、その人々が持ち寄る財物や労働奉仕を当時知識(智職)と言ったそうです。
聖武天皇が河内国を訪れた時、そこに住む渡来系の人たちを中心とした知識で造立された智職寺や毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)を拝して深く感銘。
"そうだ、この国の知識を結集して大仏を造立しよう"
聖武天皇はそう思いたったそうです。
ちなみにこのくだりは岸俊男編「古代国家と日本」を読みつつ書いています。
で、仏教渡来以前の信仰を基層信仰(神祇信仰)というそうです。
で、708年に秩父郡より初めて銅が朝廷に献上された時、"これはわが国の神々のおかげだ"と、主に中央の貴族のみなさんでしょうが、そう口々に言っていたそうです。その風向きが変わるのは、仲麻呂登場の契機ともなった、藤原四兄弟も亡くなった737年の天然痘の大流行とか。
そのときの詔に、"病気がものすごく流行っているから神に祈りを奉げ続けているけれど、いまだに何もしてくれない"と、日本の神々に対する不満が露骨に表明されているそうです。
ただ、「古代国家と日本」の訳文?では"神仏に祈り祭れども"となっています。
日本の神々のみに不満を言っていたわけではないみたいです。
この頃はまだ神仏の神に苦情の伝え先のアクセントがあるということなのかな?
続く740年、九州で藤原広嗣の乱発生、で鎮圧。
この時、伊勢大神宮に戦勝の祈願、そして乱鎮圧後その感謝を奉幣し、同時に諸国に命じ、観世音菩薩像一体の造仏、観世音経十巻を書写させたそうです。
さらに鎮圧前、持節大将軍大野東人をして宇佐八幡宮に祈らせているそうです。
このあたりで神仏がいよいよ拮抗してきた感じですか?
で、よくよく読んでみたら、"宇佐八幡宮に祈らせて"ではなく、"宇佐八幡神に祈らせて"と書いてありました。で、この八幡神への祈願が反乱鎮圧に結びついたという認識が朝廷にもあり、翌年、宇佐八幡宮に(仏教の)経典が奉納され三重塔が作られたんですと。
神と仏の習合がはじまりましたか?
で、749年、初めて黄金が献上された時。
聖武天皇は造立中の大仏に三宝(仏・法・僧)のおかげで黄金がみつかったと喜びを伝え、さらに自分は三宝のしもべで、仏教こそ国家守護の大本であるという考えをしめしたそうです。
で、この大仏造立から、日本の神々は仏を護り従う存在だという神仏習合思想が本格的に広がりはじめるそうです。
ところで、「仏教民俗学」によると。
※山折哲雄さんのご本です。20180901。
明治四十年、大仏殿修理のために数ヶ所穴を掘ったところ、そこからさまざまな遺宝が出てきた。
そしてそれら宝に混じって歯と骨の断片が発見された。
聖武天皇は葬儀は盛大であったものの、どのように葬られたのか実はよくわかっていない。
しかしその歯と骨はすぐに行方知れずとなった。
そうです。
③渡来
当時、今の山口県や対岸の北九州のあたりには(おそらく)新羅系の渡来氏族が多く住んでいて、そこは銅を産する地でもあったそうです。で、大仏にも山口県産?の銅が使用されていることは確実である。
つまり、かれらは銅鉱山開発の技術者集団ではなかったかと。
ならば百済系の百済王(くだらのこきし)氏、奥州で金を発見した陸奥守敬福の出身氏族である、が、金産出の技術者集団ではなかったのか?てのは無理?
「帰化人と古代国家」を読むと。
鋳造は新羅・加羅方面から渡来したらしい秦(はた)氏と新羅人によって、その技術が日本に伝えられたと言われているそうです。ただ、彼らは主に銅を加工し、鉄の鍛造は五世紀末に渡来した百済系の人たちによって行われていたみたいです。
ちなみに新羅人が新羅から渡来したのは当然ですが、秦の始皇帝の末裔と称した秦氏が新羅・加羅方面から渡来したと考えられるのは、中国の「北史」や「梁書」などに、新羅について"ここは秦人が住むところだから、わが国と言語風俗が似ている"という記述がある。そして、それより以前の「魏志」にも"新羅の言葉はとなりの百済にではなく秦人に似ている"とあると。
そして、もちろん日本国内で、秦氏がいた地域と新羅系瓦の分布がかさなるそうです。
※中国の史書に出てくる秦人とは、もちろん、ではないかもしれないけど、中国最初の帝国を作った秦国に住んでいた人たちの末裔のことでしょう。で、"加羅"をさくっと流してますが、加羅も羅がついてるから近い地域なのかな?みたいな。今、よくわかりません、(2013/11/23)
なにげに長崎県の松浦も末羅とか(2014/06/21)
で、以下のことは天平の世から少し時代が下り、七世紀はじめのことです。
「隋書」の中に隋の使節の渡航の経路として、"壱岐、対馬、竹斯(筑紫)、秦王国、十余国、海岸(難波)"と書かれていて、この秦王国とは周防国の同音異字。
そしてこの史書の記事では、その秦王(周防)国に住んでいる人たちのことが"自分達と同じだ"と書かれていて、これは「隋書新羅伝」の表現と重なると。
※と、書いていますが、現在、これが正しいかどうか自分で確認できません。(2013/11/23)
ところで百済王氏。
この氏族は、上記の五世紀末に渡来したという百済系の人たちのことではない。663年の百済滅亡時、日本にいた最後の百済王義慈王の二王子のうちの一人、禅広王が持統天皇に百済王の姓を賜ったことによるそうです。桓武帝など天皇家とのつながりも深く、敬福以外にもこの氏族からは陸奥鎮守府将軍としての活躍が目立つとか。
今、「帰化人と古代国家」を抜き出しつつ読んでいます、それによると。
日本と朝鮮が"同源同祖"ということはない。
その理由はさまざまだろうけど、鮮烈な異文化を保持した人たちが自らの意思で日本に来て、新しい文化を日本にもたらした、日本王権もそれを積極的に受容した。
そして長い年月をかけて、彼ら帰化人は私達日本人の祖先そのものになった。
なぜ渡来人と言わず帰化人と言うのかや、このあたりに関しましては詳しくは平野邦雄「帰化人と古代国家」を読んでいただければ。
※なぜだったか、すっかりわすれました。(2014/06/03)
で、"あ、そうか"と思ったのは、向こうから人がくるだけではなく、日本(倭)から百済などへの帰化も普通にあったわけですね。倭人で百済の官位をもつ人も多いそうです。
で、七世紀末、隋や唐帝国の出現、新羅による半島の統一、日本も古代国家を形成という段階に入り、安定した政府と外交関係を背景に、その交流は人々の移動・移住から外交使節団の往来に変わったのだろうと。
ただ、僕の読み間違い、要約するときの意味のとり違えなど普通にありえるので、くどいですが正確には原書を。
④使節
「平泉の世紀」によると、伝承であろうが、「日本書紀」に七世紀半ば越国守安倍比羅夫が二百隻近い艦隊を率い日本海を北上、行く先々に郡を建て渡嶋(北海道)の蝦夷郡に及んだとの記述がある。
しかしこの安倍比羅夫は三年後の白村江の艦隊司令官で、おそらくこの艦隊がそうであり、これはその軍事演習であるとも考えられるそうです。
で、これは「天平の時代」によると。
実行はされなかったものの、唐の安史の乱のとき、藤原仲麻呂は渤海国とともに新羅を挟撃する計画を立てている。
そしてその派遣将軍の中に敬福の名がみえる。
百済王氏が陸奥鎮守府将軍として活躍というのは、来るべき対新羅戦の軍事演習てとこも少しはありましたかね。
660年の百済滅亡後、百済王国重臣鬼室腹信(きしつふくしん)は日本に亡命。
そして日本にいた百済王義慈王の二王子のうちの宝璋王を立てて国家回復を計るも、両者の間は上手くいかず、彼は宝璋王に殺される。
そして宝璋王も白村江での大敗で唐の捕虜となり百済復興の夢は潰える。
このとき日本にいたもう一人の王子、禅広王の孫である敬福には強い思いがあっても。
白村江の敗北と、同時期高句麗が滅んだことにより、特に百済から王族から庶民にいたるまであらゆる人たちが日本に渡来した。
そして日本は唐・新羅連合軍の来襲をおそれ国防を強化、それにともない国家権力も強化。
同時に唐や没交渉に近かった新羅との文化交流にも積極的に乗り出す。
な流れでしょうか?
ちなみに唐との交流は白村江の敗戦の後、天智天皇の十年間がもっともさかんで、唐から六回、日本からは三回使節が使わされている。
新羅とも天智以降三代のあいだに、それ以前には皆無に近かった僧の往来が増えた。
この時代の小金銅仏や北九州で発掘された新羅瓦をもつ寺院、京都妙心寺の梵鐘などにその交流が今もうかがえるそうです。
そして、ここから遣唐使の時代が本格的にはじまります。
遣唐使は絁(あしぎぬ)や綿、布などを、その身分によって規定の数量入唐費用として支給されたそうです。
ちなみに入唐費用と言いますが、この支給品は旅装の品ではなく、(唐での生活費ということですかね?)唐土での私的交易のための対価であろうと。で、同じ理由で各々私物を持ち込んだであろうが、船の積載量には当然限界があるために、その量は制限されただろうとのことです。
「空海の風景」に、空海の時ではないが、第九次遣唐使は唐から絹を二十五疋と時服を毎年支給されていた、しかしこれだけではとても食べていけない、というような記述がありました。
で、話をもどして、これとは別に唐滞在中のいろいろな謝礼、唐土内の旅行の費用などのための"土産"として砂金や日本産の貨物があったそうです。
あ、また読み間違い、土産品の意味で"土物"でした。
で、この“土物”というのがこれまた身分によって各々支給されたのか(僕には)よくわかりませんが、“土物”として普遍的なのは砂金で、遣唐使は中国の市中で砂金を銅銭に交換したそうです。
その砂金は大宰府に貯蔵されていて、砂金と綿は重さの割に高価で船荷に適していたと。
が、最後の遣唐使(838)のとき、長安での外国人の交易はすでに禁じられ、錦や絹、金なども禁制品になってしまっていたそうです。大使一行は長安で私的交易ができなかったため、楚州までくると残りの人員がいた揚州に人を遣わしまとめて売買しようとしたそうですが、しかしそこでも勅断の品を買った、売ったとしてひと騒動がおこったそうです。
⑤費用
「帰化人と古代国家」によると。
で、おそらく最後の遣唐使の時の記録だと思うのですが、砂金大一両は小三両にあたり、銅銭として九貫四百文にあたったそうです。この時入唐した僧円仁は滞在中途で日本から砂金の補給を受けているとか。
で、ちなみに唐から支給されていた、毎年一人当たりの絹二十五疋と時服。
ネットで調べたら、一疋で二反。もしかしたら時代により規格に変動があるのかもしれませんが、現在だいたい一疋20メートル強くらいみたいです。
※一疋20メートル強とすると、絹二十五疋で500メートル以上?
随分、長いような、とも思いますが、生活費と考えるとそうでもないのか?(2013/11/24)
で、これまた時代によりその重さに変動はあるみたいですが、銅銭千文(枚)で一貫だと。
で、当時の唐の一文が現在の日本円でいくらくらいかというのは"?"です。
※つまり砂金大一両が9400文、が、そもそも"砂金大一両"がなんでいきなりでてきたのか?今となってはよくわかりません。と、今書きましたが(2013/11/24)
あ、遣唐大使が帰国に先立ち、留学層に東絁三十五疋、砂金二十五大両などを学問料として与え、円仁ら長安にこれから行こうとするものにその資として金二十大両を与えた、とちゃんと書いてありました。
あと、先に書いた、留学中の円仁らに学問料として新たに届けようとした砂金二百大両が行方不明になる事件もあったみたいです。
※留学期間は二十年以上てのが普通だったはずです(2013/11/26)
留学僧惟暁(ゆいぎょう)らは法衣を作った料として絹、そして縫手の功銭として計一貫七百文を支払い、惟正(ゆいしょう)らも坐具を作るための絁と作手の功銭に五百文を支払った。
ただそれが何人分とか、詳しい事はよくわかりません。
で、遣唐大使も寺の一閣の修築料として銭五十貫を寄進したりしてるみたいです。
東野治之「遣唐使船」によると、804年の遣唐使では大使副使以下砂金を支給されて渡唐している。
額は大使二百両(もちろん大でしょう)、副使百五十両で、つぎの838年の遣唐使でもほぼ同額が与えられていて、おそらく制度化されていたのだろうとのことです。
で、現存する資料での確認はできないが、この支給制度はそれより遡るかもしれないと。
ところで、大仏造立時。
唐から黄金を輸入するための遣唐使が計画されたという伝承がある。
しかしこれは一概に伝承とは言えず、正倉院文書に746年に遣唐使を任命したと読める記載があり、「懐風藻」という漢詩集の中に、ちょうどその頃石上乙麻呂という貴族が遣唐大使に任命されながら取止めになったという記事があるそうです。
そして749年、日本国内には存在しないといわれていた黄金が発見された。
正史を読んでいるとこの発見は本当に突然のようだが、おそらくもっと早くから黄金の探索を全国規模でおこなっていた可能性がある。
敬福も黄金発見まで通算六年以上陸奥の国司を務めている。
遣唐使が中止になったのも国内での産金の目処がある程度ついたからではないかと。
⑥海
安史の乱。
どうもこの乱勃発直後は、日本にその情報は全くもたらされていなかったようです。
乱勃発から三年後、渤海国から帰国した小野田守により、"官賊両方からの強い援軍要請への対応に渤海国が苦慮している"等、初めて乱の情報が日本に伝えられたそうです。
で、白村江の敗戦が頭にありましたかね、その波及をおそれて大宰府に厳戒態勢をとらせたと。
もしかしたら幻となった渤海国との新羅挟撃計画は能動的作戦計画ではなかったのかも。
そういえば、いきなり話はかわりますが。
遣隋使小野妹子を送って来日した隋史裵世清(はいせいせい)は晋以来の名家の出で、唐に変わっても順調に出世しているんですと。
あれですかね、帝国内の実力者が内側から帝室を倒すのか、まったく無縁なところからやってきて倒すのか、変わり方もちょっとはその辺に影響するんですかね。
確か隋を滅ぼした唐の李氏は、もともと隋の煬氏と共に北周(隋に滅ぼされた)の有力貴族で、姻戚関係にあったはずです。
で、また話はかわりますが、遣唐使船の強度の話です。
僕だけではないと思いますが、遣唐使船はよく難破してるイメージがあります。
で、これは中国や朝鮮とくらべての、当時の日本の造船技術の未熟さが遣唐使の遭難の多さにつながったと言われています。
技術の未熟は確かにそうかもしれない。
しかし、中国が船での遠隔地貿易にのりだすのは唐末以降のことで、この当時、外洋航海、しかも定員百人以上の大型船を作る技術は、もしかしたら中国や朝鮮にもなかったのかもしれない、とのことです。
渤海から日本への使節船は多くて百人程度。
新羅使も一隻百人くらい。
しかし、例えば777年の日本の遣唐使は五百人以上が四隻に分乗。
つまり一隻平均百二十五人オーバー。
そして帰路の嵐。
行動をともにした二隻のうち、唐の使節が分乗した第一船に船が二つに割れるなどの被害が集中したのは、百六十人の乗員と答礼品などその荷、重量過多に原因があった可能性も高いそうです。
で、さらに、遣唐使は渡海に有利な季節風が吹く秋を何故か無視、わざわざ台風シーズンの夏を選んで日本を出発する。
これは気象の無知からではなく、長安での正月の朝賀の儀に参列するよう唐側に期待されていたからかもしれない、とのことです。
その時期に日本を出発すれば、ちょうどいい頃合いに長安に到着する。
さらにそこからの渡航の前倒しは、保護接待する唐の負担が増える。
日本と渤海とは上手く季節風を利用して行き来していたそうです。
⑦まとめはここまで
そうそう、それを遡ること六十年、717年の遣唐使が(おそらく)長安での買い物の許可を皇帝に求め、"輸出規制品以外"という条件で許されたという記録があるそうです。
長安には世界の物産が集まる官営の市があるも、外国人はそこでの買い物は許されていない。
そしてこの三年前、714年には皇帝の勅で高級織物や黄金、鉄など(あと数点)輸出禁止されている。
※この官営の市での買い物が許可されたのか?正確なことは今わかりません。(2013/11/26)
あれですかね、この勅による金輸出禁止を受けて、国内での金探査が急務になりましたかね。
この禁止が正確にはいつからいつまで続いたのか?
どれほど厳格だったのか?
それは僕にはわかりませんが、唐からの金輸入がその時点で絶望的だったとしたら、聖武天皇の、大仏鍍金用の金枯渇への悲嘆と749年の発見時の歓喜がよくわかるような。
その時の聖武天皇詔
此の大倭国は天地の開闢より以来に黄金は人国より献ことは有れども斯の地には無き物と念えるに聞看す食国中の東の方陸奥国守従五位上百済王敬福い部内の小田郡に黄金在りと奏して献れり此を聞食し驚き悦び貴び念おさくは盧舎那仏の慈み賜い福わえ賜う物に有と念え受け賜わり恐り
↑で、いいとおもうんですけどね(笑)。20180901。
ところで、この報をもたらしたであろう、717年の遣唐使は翌718年帰国。
「蝦夷と東北戦争」によると、同年、陸奥国を現在の福島県域である石城国、石背国、そして蝦夷対策の最前線としての陸奥国に三分割。
翌719年、特定の国の守をして周囲三、四カ国を管轄させる按察使制度が発足。
そして720年、(小)陸奥国で史上初の蝦夷の大反乱がおきる。
ま、これはさすがに対応、展開速すぎですかね?
でも仮に749年以前から、日本の人たちが蝦夷の人たちから砂金を入手していたとしても、そこがその頃は蝦夷の"国"だったとしたら、聖武天皇がいう黄金は"大倭国は天地の開闢より以来斯の地には無き物"てのと別に矛盾はしませんよね。
都からは、そこは漢土における匈奴の奥地みたいな感覚で(ちょっと時代感覚むちゃくちゃですけど)。
そういえば、「遣唐使船」によるとですね。
マルコポーロより以前、イスラムアッバース朝に仕えたイラン人イブンフルダ-ズビフによって九世紀後半に書かれた「諸道路と諸国の書」の中に、"シーンの東にワークワークの地があり、そこには豊富な黄金がある"みたいな記述があるそうです。
さらに、印刷技術が発達する前、書物を手書きで写していた頃、日本が中国の書物を書き写した写本には似たような形の漢字への書き間違いが多い。
でも敦煌や西域の写本では同じ音の漢字への書き間違いが多い。当時の日本人(貴族や官吏が主ですかね)には、すでに中国語は耳ではなく目から入っていたのだろうと。
さらにそういえば、これは記憶たよりで書きます、「街道をゆく」でだと思いますが。
最澄も渡唐時、通訳をつれていった。
で、この通訳の人、最澄と唐の僧侶との通訳、教義についての質疑とか、の仲立ちをした結果、最終的に、天台宗を日本にもたらしたのは最澄ではなく自分だ、という考えにいたった、という話を読んだような。
これに対する司馬さんの結論は。
"たしかにそうともいえるのかもしれない"
"ただ、別の考え方をする人なら、決してそうはおもわない、というだけのことだ"
だったような。