◆EXTRA


この「福島旅行記」「浄土平から蓬莱山まで」のツイッターでの初出時の文章です。
ちなみに“そのまま“なので逆になっています。


914kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
最澄も渡唐時通訳をつれていった。で、これは記憶たよりで書きます。街道をゆくでだと思いますが、この通訳の人、最澄と唐の僧侶の通訳、教義についての質疑とか、の仲立ちをした結果、最終的に、天台宗を日本にもたらしたのは最澄ではなく自分だ、という考えにいたった、という話を読んだような。

914kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
さらに、印刷技術が発達する前、書物を手書きで写していた頃、日本が中国の書物を書き写した写本には似たような形の漢字への書き間違いが多い。でも敦煌や西域の写本では同じ音の漢字への書き間違いが多い。当時の日本人(貴族や官吏が主ですかね)には中国語は耳ではなく目から入っていた。

914kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
そういえば、遣唐使船によるとですね、マルコポーロより以前、イスラムアッバース朝に仕えたイラン人イブンフルダ-ズビフによって九世紀後半に書かれた諸道路と諸国の書の中に、シーンの東にワークワークの地があり、そこには豊富な黄金がある、みたいな記述があるそうです。

914kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
ま、それはさすがに対応はやすぎですね。でも仮に以前から蝦夷の人たちから砂金を入手していたとしても、そこがその頃は蝦夷の”国”だったとしたら、聖武天皇がいう大倭国は天地の開闢より以来、斯の地には無き物、てのと別に矛盾はしませんよね。都からは匈奴の奥地みたいな感覚で。

914kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
717年の遣唐使は翌718年帰国。蝦夷と東北戦争によると同年陸奥国を現在の福島県域である石城国、石背国と蝦夷対策の最前線としての陸奥国に三分割。翌719年、特定の国の守をして周囲三、四カ国を管轄させる按察使制度が発足。そして720年、(小)陸奥国で史上初の蝦夷の大反乱がおきると。

914kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
本書き写し聖武天皇詔:此の大倭国は天地の開闢より以来に黄金は人国より献ことは有れども斯の地には無き物と念えるに聞看す食国中の東の方陸奥国守従五位上百済王敬福い部内の小田郡に黄金在りと奏して献れり此を聞食し驚き悦び貴び念おさくは盧舎那仏の慈み賜い福わえ賜う物に有と念え受け賜わり恐り

914kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
あれですかね、この勅による金輸出禁止を受けて国内での金探査が急務になりましたかね。この禁止が正確にはいつからいつまで続いたのか、どれほど厳格だったのか俺にはわかりませんが、唐からの金輸入が絶望的だったとしたら、大仏鍍金用の金枯渇への悲嘆と749年の発見時の歓喜がよくわかるような。

913kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
717年、その時の遣唐使が買い物の許可を皇帝に求め、輸出規制品以外という条件で許された記録がある。長安には世界の物産が集まる官営の市があるも、外国人はそこでの買い物は許されていない。まとまった記録はないが714年には皇帝の勅で高級織物や黄金、鉄など(あと数点)輸出禁止されている。

913kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
遣唐使が渡海に有利な季節風が吹く秋を無視してわざわざ台風シーズンの夏を選んで日本を出発するのは、気象の無知からではなく、長安での正月の朝賀の儀に参列するよう唐側に期待されていたからかもしれない。さらに渡航の前倒しは保護接待する唐の負担が増える。渤海とは上手く季節風を利用していた。

913kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
渤海から日本への使節船は多くて百人程度、新羅使も一隻百人くらい。777年の遣唐使は五百人以上が四隻に分乗。そして帰路の嵐、行動をともにした二隻のうち唐使が分乗した第一船に船が二つに割れるなど被害が集中したのは、百六十人の乗員と答礼品などその荷、重量過多に原因があったかもしれない。

913kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
中国や朝鮮とくらべて日本の造船技術の未熟さが遣唐使の遭難の多さにつながったと言われる。技術の未熟は確かにそうかもしれない。しかし中国が船での遠隔地貿易にのりだすのは唐末以降のことで、この当時、外洋航海、しかも定員百人以上の大型船を作る技術は中国や朝鮮にもなかったのかもしれない。

913kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
そういえば遣隋使小野妹子を送って来日した隋史裵世清(はいせいせい)は晋以来の名家の出で、唐に変わっても順調に出世しているんですと。あれですかね、帝国内の実力者が内側から帝室を倒すのか、まったく無縁なところからやってきて倒すのか、変わり方もちょっとはその辺に影響するんですかね。

913kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
安史の乱勃発から三年後、渤海国から帰国した小野田守により、官賊両方からの強い援軍要請に渤海が対応に苦慮しているなど、初めて乱の情報が日本に伝えられ、白村江の敗戦が頭にありましたかね、その波及をおそれて大宰府に厳戒態勢をとらせたと。幻の新羅出兵は能動的作戦計画ではなかったのかも。

913kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
749年、国内で黄金が発見された。正史を読んでいるとこの発見は本当に突然のようだが、おそらくもっと早くから黄金の探索を全国規模でおこなっていたのだろう。敬福も黄金発見まで通算六年以上陸奥の国司を務めている。遣唐使が中止になったのも国内での産金の目処がある程度ついたからではないか。

912kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
大仏造立の時、唐から黄金を輸入するための遣唐使が計画されたという伝承がある。しかし一概に伝承とは言えず、正倉院文章に746年に遣唐使を任命したと読める記載があり、懐風藻という漢詩集の中にちょうどその頃石上乙麻呂という貴族が遣唐大使に任命されながらとりやめになったという記事がある。

912kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
東野治之・遣唐使船によると、804年の遣唐使では大使副使以下砂金を支給されて渡唐している。額は大使二百両(もちろん大でしょう)、副使百五十両で、つぎの838年の遣唐使でもほぼ同額があたえられていて、制度化されていたのだろう。資料で確認はできないが、それより遡るかもしれない。

912kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
留学僧惟暁(ゆいぎょう)らは法衣を作った料としての絹と縫手の功銭として計一貫七百文を支払い、惟正(ゆいしょう)らも坐具を作るための絁と作手の功銭に五百文を支払った。ただそれが何人分とかよくわかりません。大使も寺の一閣の修築料として銭五十貫を寄進してる。

912kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
あ、大使が帰国に先立ち留学層に東絁三十五疋、砂金二十五大両などを学問料として与え、円仁ら長安にこれから行こうとするものにその資として金二十大両を与えたとちゃんと書いてありました。あと、留学中の円仁らに学問料として届けようとした砂金二百大両が行方不明になる事件もあったみたいです。

912kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
ネットで調べたら、一疋で二反。もしかしたら時代により規格に変動があるのかもしれませんが、現在だいたい20メートル強くらいみたいです。で、これまた時代によりその重さに変動はあるみたいですが、銅銭千文(枚)で一貫だと。で、当時の唐の一文が現在の日本円でいくらくらいかというのは?です。

912kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
ちなみに唐から支給されていた絹二十五疋と時服は一人につきです。で、おそらく最後の遣唐使の時の記録だと思うのですが、帰化人と古代国家によると、砂金大一両は小三両にあたり、銅銭として九貫四百文にあたったそうです。この時入唐した僧円仁は滞在中途で日本から砂金の補給を受けているとか。

911kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
最後の遣唐使(838)のとき、長安での外国人の交易は禁じられ、錦や絹、金なども禁制品になっていた。大使一行は長安で私的交易ができなかったため、楚州までくると残りの人員がいた揚州に人を遣わしまとめて売買しようとした。しかしそこでも勅断の品を買った、売ったとして騒動がおこった。営利?

911kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
あ、また読み間違い。土産品の意味で”土物”でした。で、この土物というのがこれまた身分によって各々支給されたのか(俺には)よくわかりませんが、土物として普遍的なのは砂金で、遣唐使は中国の市中で砂金を銅銭に交換した。砂金は大宰府に貯蔵され、砂金と綿は重さの割に高価で船荷に適していた。

911kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
空海の風景には、空海の時ではないが第九次遣唐使は唐から絹を二十五疋と時服を毎年支給されていた。しかしこれだけではとても食べていけないという記述がありました。で、話をもどして、これとは別に唐滞在中のいろいろな謝礼、旅行の費用などのための”土産”として砂金や日本産の貨物があった。

911kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
遣唐使は絁(あしぎぬ)や綿、布などをその身分によって規定の数量入唐費用として支給された。これは旅装の品ではなく、(唐での生活費ということですかね?)私的交易のための対価だろう。同じ理由で各々私物を持ち込んだであろうが、船の積荷のためその量は制限されたであろうと。

911kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
唐との交流は白村江の敗戦の後、天智天皇の十年間がもっともさかんで、唐から六回、日本からは三回使節が使わされている。新羅とも天智以降三代のあいだに皆無に近かった僧の往来が増えた。この時代の小金銅仏や北九州での発掘された新羅瓦をもつ寺院、京都妙心寺の梵鐘などにその交流が今もうかがえる

911kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
白村江の敗北と、同時期高句麗が滅んだことにより、特に百済から王族から庶民にいたるまであらゆる人たちが渡来した。そして日本は唐・新羅連合軍の来襲をおそれ国防を強化、それにともない国家権力も強化、同時に唐や没交渉に近かった新羅との文化交流にも積極的に乗り出す。な流れですかね?

910kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
660年の百済滅亡後、鬼室腹信(きしつふくしん)は日本に亡命して日本にいた百済王義慈王の二王子のうち宝璋王を立てて国家回復をはかるも、のちに仲たがい?して宝璋王に殺され、そして宝璋王も白村江での大敗で唐の捕虜となり百済復興の夢は潰える。禅広王の孫の敬福には強い思いがあっても。

910kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
天平の時代によると実行はされなかったものの唐の安史の乱とき藤原仲麻呂は渤海国とともに新羅を挟撃する計画を立てている。その派遣将軍の中に敬福が。百済王氏が陸奥鎮守府将軍として活躍というのは何か守だった敬福いらいの慣例もありそうですが、対新羅戦の軍事演習てとこも少しはありましたかね。

910kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
平泉の世紀によると、伝承とされているものの、日本書紀に七世紀半ば越国守安倍比羅夫が二百隻近い艦隊を率い日本海を北上、行く先々に郡を建て渡嶋(北海道)の蝦夷郡に及んだとの記述がある。しかし安倍比羅夫は三年後の白村江の艦隊司令官で、おそらくこの艦隊がそうであり軍事演習とも考えられる。

910kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
七世紀末、隋や唐帝国の出現、新羅の統一、日本も古代国家を形成という段階に入り、安定した政府と外交関係を背景にその交流は人々の移動・移住から外交使節団の往来に変わったのだろうと。ただ、俺の読み間違い、要約するときの意味のとり違えなど普通にありえるので、くどいですが正確には原書を。

99kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
なぜ渡来人と言わず帰化人と言うのかや、このあたりに関しましては詳しくは平野邦雄・帰化人と古代国家を読んでいただければ。で、あ、そうか、と思ったのは、向こうから人がくるだけではなく、日本(倭)から百済などへの帰化も普通にあったわけですね。倭人で百済の官位をもつ人も多いそうです。

99kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
今、抜き出しつつ読んでいますが、日本と朝鮮が”同源同祖”ということはなく、理由はさまざまでしょうが鮮烈な異文化を保持した人たちが自らの意思で日本に来て新しい文化を日本にもたらし、それを日本王権も積極的に受容し、そして長い年月をかけて帰化人は私達の祖先そのものになったと

99kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
時代が下り七世紀はじめ、隋書の中に隋史の渡航の経路として、壱岐、対馬、竹斯(筑紫)、秦王国、十余国、海岸(難波)、としめされていて、秦王国とは周防国の同名異字であろう。そしてそこにすんでいる人たちを自分達と同じだと書いていて、これは隋書新羅伝の表現と重なると。

99kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
ちなみに百済王氏というのはこの五世紀末に渡来したという百済系の人たちではなく、663年の百済滅亡時、日本にいた最後の百済王義慈王の二王子のうち禅広王が持統天皇に百済王の姓を賜ったそうです。桓武帝など天皇家とのつながりも深く、敬福以外にも陸奥鎮守府将軍としての活躍が目立つそうです。

99kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
新羅・加羅方面から渡来したらしいというのは、中国の北史や梁書などに新羅について秦人が住むところだからわが国と言語風俗が似ているという記述があり、それより以前の魏志にも新羅の言葉はとなりの百済にではなく秦人に似ているとあると。そして秦氏がいた地域と新羅系瓦の分布がかさなるそうです。

99kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
帰化人と古代国家を読むと、鋳造は新羅・加羅方面から渡来したらしい秦氏と新羅人によってその技術が日本に伝えられたといわれているそうです。ただ主に銅を加工し、鉄の鍛造は五世紀末に渡来した百済系の人たちによって行われていたみたいです。

99kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
仏教民俗学によると、明治四十年、大仏殿修理のために数ヶ所穴を掘ったところ、そこからさまざまな遺宝が出てきた。そしてそれら宝に混じって歯と骨の断片が発見された。聖武天皇は葬儀は盛大であったもののどのように葬られたのか実はよくわかっていない。しかしその歯と骨はすぐに行方知れずとなった

99kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
当時、今の山口県や対岸の九州のあたりには(おそらく)新羅系の渡来氏族が多く、そこは銅を産する地でもあった。大仏にも山口県産?の銅が使用されていることは確実である。かれらは銅鉱山開発の技術者集団ではなかったかと。ならば百済系の百済王氏が金産出の技術者集団ではなかったか?てのは無理?

98kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
で、749年、初めて黄金が献上された時、聖武は大仏に三宝(仏法僧)のおかげで黄金がみつかったと喜びを伝え、さらに自分は三宝のしもべで、仏教こそ国家守護の大本であるという考えをしめした。大仏造立から、日本の神々は仏を護り従う存在だという神仏習合思想が本格的に広がりはじめるそうです。

98kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
で、よくよく読んでみたら、八幡宮に祈らせて、ではなく、八幡神に祈らせてと書いてありました。で、この八幡神への祈願が反乱鎮圧に結びついたという認識が国家にもあり、翌年、宇佐八幡宮に(仏教の)経典が奉納され三重塔が作られたんですと。神と仏の習合がはじまりましたか?

98kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
続く740年、九州で藤原広嗣の乱発生時、伊勢大神宮に戦勝の祈願とその感謝を奉幣し、同時に諸国に観世音菩薩像一体と観世音経十巻を書写させている。さらに持節大将軍大野東人をして宇佐八幡宮に祈らせていると。このあたりで神仏がいよいよ拮抗してきた感じですか?

98kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
そのときの詔に、病気がものすごく流行っているから神に祈りを奉げ続けているけどいまだに何もしてくれない、と、日本の神々に対する不満が露骨に表明されているそうです。ただ、本文中の訳文?では”神仏に祈り祭れども”となっていますが、まだ神仏の神にアクセントがあるということですかね?

98kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
岸俊男編・古代国家と日本を読みつつです。仏教渡来以前の信仰を基層信仰(神祇信仰)というそうです。で、708年に秩父郡より初めて銅が献上された時、これはわが国の神々のおかげだと口々に言っていた風向きが変わるのは、仲麻呂登場の契機?藤原四兄弟も亡くなった737年の天然痘の大流行とか。

98kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
同じ信仰を持つ人々や、人々が持ち寄る財物や労働奉仕を知識(智職)というそうです。聖武天皇が河内国を訪れた時、そこに住む渡来系の人たちを中心とした知識で造立された智職寺や毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)を拝して深く感銘、国の知識を結集して大仏を造立しようと思いたったそうです。

97kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
現実問題、上から下まで総とっかえしてたら動くもんも動かん気もしますし。なにげに官僚の保身の一環としてそういうルールを自らつくったとか(笑)前王朝と同じ轍を踏まないためにも前王朝を知り尽くした我々の知識が必要ですよと。もちろん晋書はずっと後世の唐の時代、宋史も元の後半に成立ですが。

97kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
まあ完結した正史をつくろうとしたら終わらんことには、ですかね。それに資料は基本その王朝が作成したものを使うんでしょうし。蜀の官僚でもあった陳寿が(一度官を退いたみたいですが)晋の官僚として三国志を書いたように王朝は滅んでも官僚は引き続き次王朝に仕えて連続性はそれなりにあったとか?

97kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
歴史は勝者がつくるといいますが、たしか中国の帝国正史って前王朝を滅ぼした次の王朝がつくるんですよね。もちろん自分たちの正史も自らはつくらず、いつか天命革まり、自分達を滅ぼす誰かさんに任せると。完全記憶たよりなんでちょいと不正確ですが、自らの滅亡も予め織り込みずみって凄いことかも。

97kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
宋史成立は元後期ですが、日本伝は984年に入宋した日本僧奝然(ちようねん)がもたらした王年代記など日本側の資料をもとに記され、日本伝としての信頼性は高いそうです。で、同船した宋の商人の話で、公卿がお土産に金をもたせたいけど手持ちがないから奥州に貢金の催促をしたという話があるとか。

96kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
百年以上あとの文章ですが、奥州藤原三代清衡(二代基衡とも)は10万5千両(四トン超?)の砂金を宋の帝室に送って7千巻以上の一切経を平泉に輸入したそうです。流石に量は大げさかもしれませんが、この奥州金と中国の長い結びつきがのちに黄金の国ジパングとして結実したのではないだろうかと。

96kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
源平盛衰記に平重盛が陸奥国を支配(実際は奥州藤原氏)していた時、気仙郡から1,300両の貢金があり、それを宋から来ていた商人をかいし、中国の育王山という霊山と宋の帝室にわけて送ったという物語がある。平家物語では3,500両だけど、こちらは金の出所が書いてないんですと。

96kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
時代がくだりますが、平泉の世紀によると、10世紀末、奥州が唯一の産金地で、国の金の需要はすべてそこからの貢金で賄っていた。中国の宋史・日本伝にも、東の奥州は黄金を産しとあり、日本の黄金はその質のよさもあり日宋貿易の重要な輸出品になっていた。しかし現在その貢金はほぼ途絶えている。

96kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
高橋千劔破さんの名山の民俗史によると、福島と茨城の境にある八溝山(やみぞさん)、ここは古くから砂金がとれることが知られていた。続日本後紀、承和三年(836)の記事に、白河の八溝黄金神に奉げものをして国司に祈らせると常より数倍の砂金がとれ、遣唐使の資金がおおいに助かったと。

96kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
炭焼藤太の話。金?そんなん何が惜しいんだ?裏山掘ればいくらでも出てくんぞ、てな話。あれは福島(信夫郡)の民話でしたが、宮城の民話を読んでると栗原というとこの話としてほぼ同じ話がのってました。でもざっと読んだだけですが、空海話はなかったな。なんでものっているわけじゃないでしょうが。

96kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
天平の時代によると、聖武天皇と光明皇后のあいだに生まれた唯一の男子で、生後一年で亡くなった某王のために建てられた小さなお堂が後に金鐘寺(こんしゅじ)という小さな寺になり、この寺を前身として東大寺が造営されたと。ちなみに使用された鍍金は大仏のみで10,466両、約430kgとか。

96kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
砂金とかは”毛外の民”の人たちには、それこそ民話の炭焼藤太の話のように当たり前にそこにあるものだったのかも。ああ、そこの沢に行けばいくらでも取れるよ、みたいな。森さんも、大仏鍍金の九百両の中には蝦夷をかいして入手した、より北方の、もしかしたら北海道の砂金も含まれていたかもと。

96kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
天平の黄金発見。もともと陸奥に黄金があるらしいということはわかっていた気がするんです。だからこそそういう探金?技術に長けている渡来系の百済王敬福を陸奥守に任命して調査させたのかなと。と、思ったら、考古学の旅に著者である森浩一さんのお考えとしてその可能性がさくっと書いてありました。

95kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
でも権力を握った後の仲麻呂は、疲弊していたふつうのひとびとの負担が軽くなるような政策を次々とおこない、もちろん人気取りということもあったでしょうが、本当に世の中をよくしたいという理想主義に燃えていたのかも。そのためにも何が何でも権力を握らねばと。ん?それを独裁者というか?(笑)

95kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
兄弟をも踏み台に謀略の限りをつくして己の野望に邁進する仲麻呂と、そんな仲麻呂に追い詰められる大伴氏の長老として、決して軽はずみなことをして罠にはまり大伴氏を滅ぼすことがないようにと氏族内の血気さかんな若者を諭す家持。

95kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
で、ですね、天平の時代に大伴家持と仲麻呂の直筆という写真が小さくですが掲載されていてですね。家持は文章で仲麻呂は署名のみなんですが、なんというか家持の大人の文字にたいして仲麻呂はなんとなく子供っぽい文字なんですね。単純に上手い・下手かもしれませんが。

95kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
仲麻呂はついに挙兵した。しかし追い詰められたすえの挙兵だった。つねに孝謙側に先手をとられた。琵琶湖湖西の勝野という場所で最後の戦いを挑み敗北。捕らえられていた妻子などと共にその地で処刑された。ただ六男の薩雄のみが若年からの仏教修行を理由に命を助けられた。

95kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
同じころ、以前の銭貨とほぼ同じものに十倍の額面価値をつけた万年通宝が流通しはじめ物価が急上昇。それに飢饉や疫病の流行がかさなった。特に近畿や近江はひどかった。仲麻呂は追い詰められた。764年、自らを守る兵を集めるため国家の命令書を偽造。部下の密告によりこの致命的行為が発覚した。

95kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
藤原氏からも見限られつつあるなか、長く仲麻呂派が独占してきた官に反仲麻呂派が就任することがふえてきた。保良宮がある近江も764年、仲麻呂が信頼する女婿で按察使の御楯(みたて)が亡くなり反仲麻呂派の手にほぼ落ち、京の僧や尼を管轄する官からも排除された。

95kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
この孝謙の宣言で仲麻呂の権力の衰退はいよいよあきらかになってきた。しかし半年後、(たぶん)あせった仲麻呂は次男に続き三男四男を参議に任命、国の最高機関である太政官を血縁や自派でかためるという露骨なことをした。これに対して同じ藤原氏の中からも仲麻呂を暗殺しようと思うものがでてきた。

95kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
あ、神事的なことを抜くと、で。あと、これに限らず、歴史ではわりと都合よく人がいなくなる気がします。そしてそれを機に歴史が動きだす。もちろんたまたまなんでしょうが。歴史の流れのつっかえ棒になってた人がいなくなるんだから動き出すのは当然だ。ただ、仲麻呂のところだけでも何か多いなと。

95kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
ん~仲麻呂が独裁者といっても孝謙の一言で吹っ飛ぶんだからたいしたことは、というか、孝謙自身の今後のことも考えると、天皇個人(ここでは太上天皇ですが)ではなく天皇それ自体の権威が貴族のなかではまだまだ凄かったんですかね。もちろん藤原氏も含め。本家の当主みたいな感じ?

95kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
二人とも平城京に帰り、孝謙は出家したとして法基尼(ほうきに)と名乗り、今後国家の運営は自分がおこなう、淳仁は天皇の日常の些事のみをおこなえ、と宣言した。淳仁は仲麻呂の権力の裏書でもあった。そしてこの宣言と同じ月、後宮の女官の長だった仲麻呂の正室が亡くなった。

95kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
仲麻呂は近畿周辺を一族でかため、同じ年、融和の機会をつくろうと思ったのか、藤原氏の勢力圏の近江に保良宮(ほらのみや)を急ぎ完成させて孝謙太上天皇と淳仁天皇の二人を迎え入れた。しかし翌年、孝謙が自分の病を治した(と思った)道鏡を寵愛しはじめた影響もあり、二人は決定的に決裂した。

95kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
761年、東国に対する近畿周辺の重要軍事拠点でもある三関(三カ国の関所)を主とする按察使が置かれ、仲麻呂の次男と女婿が任命された。次男が就任していた大和守は三男にかわり、平城京を管轄する左京右京両大夫(たいふ)も左右京尹(きょういん)として統合、これも三男が兼任した。

95kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
並ぶもののいない権力を握った仲麻呂は版図拡大の東北政策を再開。760年、ついに祖父不比等も固辞し続けた太政大臣の地位についた。しかし同じ年、天皇家の支柱であった光明皇太后がなくなり、これにより孝謙太上天皇と淳仁天皇の不和が表面化、仲麻呂の権力に微妙な影が差しはじめた。

95kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
そのすぐ後、実際には難波にとどまったものの兄の豊成が息子の逮捕に連座して九州に左遷され、仲麻呂は祖父不比等をこえる独裁権力を手に入れた。そして翌758年、孝謙天皇が譲位、大炊皇太子が即位、淳仁天皇となった。そして仲麻呂は恵美押勝(えみおしかつ)という姓名と強大な経済力を得た。

95kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
仲麻呂は新設の紫微内相に就任し軍事権を握り、反仲麻呂派を降格や地方に追い粛清した。これに対し反仲麻呂派はクーデターを計画するも、意思の統一もなく事前に露見、自白や密告で次々と逮捕された。中心人物であった大伴古麻呂は拷問で殺され、不明だが橘奈良麻呂も獄中で殺された可能性が高い。

95kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
しかし道祖王は皇太子にふさわしくないとすぐに皇太子を追われた。そして仲麻呂の亡き長男の妻と結婚し仲麻呂の邸宅に住んでいた、同じ天武系の大炊王が皇太子に選ばれた。そして藤原や君子(天皇)の姓を久須波良や吉美候に改めさせ、天皇・皇后の名と共に鎌足や不比等の名の使用が禁止された。

95kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
聖武太上天皇は遺言で、自分の祖父草壁皇子の兄弟である(天武天皇の第七皇子)新田部親王の子、道祖(ふなど)王を皇太子に指名した。文武・聖武と続いてきた草壁皇子からの皇統の流れは孝謙天皇で止まるも、同じ天武天皇の血脈から選んだ。

95kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
翌756年、聖武太上天皇と橘諸兄があいついでなくなり、状況はさらに混迷を深めてきた。この直後、朝廷を誹謗し臣として礼を失したと大伴氏の重鎮が逮捕された。すぐに釈放されるも土佐に左遷され、のちにそのまま流刑となる。この逮捕、左遷を気に、大伴氏の急進派は反仲麻呂の陰謀に突き進む。

94kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
大仏建立や東大寺の造営などがあり表面上は平穏な日々が続くも、755年、聖武太上天皇が重い病におかされていた時、橘諸兄が反逆を考えていると、その従者から密告があった。しかし聖武太上天皇はその密告を握りつぶした。しかし橘諸兄は辞職。失脚を狙ったこの密告は結局は成功だった。

94kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
749年、聖武太上天皇の皇太后である光明皇太后のために紫微中台(しびちゅうだい)という官司が設置され、仲麻呂が長官となった。この官司は立場が不安定な孝謙天皇を支えるためのもので、藤原氏と関係深い中衛大将の就任とあわせ、仲麻呂は藤原氏のトップにたった。

94kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
この即位の前年、橘諸兄を支援する反藤原の最大勢力である元正太上天皇がなくなった。そしてこの即位のとき、参議だった藤原仲麻呂は中納言を飛ばし大納言となった。兄の豊成は右大臣に、あと二人藤原氏から参議となるも、諸兄の子の奈良麻呂も参議となり、朝廷での両者の対立はいよいよ激しくなった。

94kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
ちなみに天平の時代によると、です。で、そんな中、聖武天皇の唯一の皇子で、大伴家持や橘諸兄など反藤原勢力の期待を一身に集めていた安積親王が急死した。暗殺の可能性があった。痛み分けのような形で聖武天皇は譲位、藤原系の安部皇太子が孝謙天皇として即位し元号を天平勝宝と改めた。

94kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
聖武天皇は自分同様藤原系の皇子への皇位継承を望んでいた。しかしいない。皇子誕生まではと娘の安部内親王を異例の女性皇太子にするほどだった。当時、朝廷の実権を握っていた藤原不比等の四人の息子があいついで天然痘で死亡、橘諸兄が大納言になり、新興の藤原氏の勢力は後退をよぎなくされていた。

94kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
もちろんたとえ話です。でも征魂て何かbrainwashed。やっぱり宗教だ(笑)で、蝦夷と東北戦争によると、709年、陸奥越後の蝦夷の野心がおさまらず良民を害するため、たぶん本音は前年に新設された出羽郡の安定をはかるため、越後に征越後蝦夷将軍、陸奥に陸奥鎮東将軍を派遣したと。

94kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
そういえば(当初かな?)征夷のとき、ざっくり征討軍と鎮撫軍を派遣してたそうなんです。もちろん実際に蝦夷を攻めるとこには征討軍、そこを攻めることで周囲の蝦夷が動揺しないようにとそこには鎮撫軍。征と鎮。征が暴力なら鎮は宗教?あ、鎮魂てありますけど、征魂てないですよね(笑)

94kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
侵略で、暴力と宗教はセットだろう、とも思いますが、徳一が仲麻呂の子供ならば(ならば)、父の権力闘争の果ての家族皆殺しを経験した徳一が、もちろん時代の精神からは逃れられないとはいえ、それの変わり目の前の精神に属していたとはいえ、人びとの”救い”を祈ってもなんら不思議はなかろうと。

93kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
四世紀ごろヤマトの軍勢が侵略してきたとき周囲の”化外の民”が抵抗しこもったという筑波山。ここにも桓武朝のころ徳一が建立したという中禅寺があった。得一建立伽藍諸国多、奥州石梯山建立清水寺、会津大寺是也。蝦夷、鎮兵、坂東からの徴兵。う~ん、鎮魂はともかく征夷との関係はやっぱり(笑)

93kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
名山の日本史によると、徳一開創と伝えられる寺が関東・東北に七十以上あり、その中でも恵日寺は平安中期以降(貞任が生きた時代ですか)、磐梯山がみえる範囲の農村、会津四郡を寺領とし、寺僧三百人、僧兵数千人を数えたそうです。もちろん徳一が建立した(伝説)ころはもっと素朴だったでしょうが。

93kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
で、空海は徳一の疑問書の返信に徳一菩薩と書いていて、司馬さんは空海らしい政治感覚のリップサービスだろうと。でも、もし薩雄が徳一のかつての名前としたら、薩って最初薩摩かと思いましたが、菩薩の薩ってないですかね?と、最初書こうとしました。薩も薩という漢字というわけでもないみたいです。

93kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
奈良仏教のうち、とくに法相宗は悟りを三種類に区別していて、一番低いのが声聞(しょうもん)で自分本位の悟り、次が縁覚(えんがく)でこれは孤高でありすぎる、最後が菩薩で自ら悟りをひらいたうえで利他的に他人を救済して悟りをひらかせたり利益をあたえたりする。

93kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
どうも徳一と薩雄は別人みたいです。まあよくわからないつうくらいなんだからそりゃそうですね。で、前九年の役の主要人物の一人、安倍貞任て考えてみたら徳一より二百年ちかく後世の人なんですよね。貞任が一切経山にお経を埋めた(伝説)ときには恵日寺は磐梯山麓にその威容を誇っていたと。

92kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
仲麻呂が口火を切ったともいえる三十八年戦争真っ最中ですし。ヤマト・エミシ、犠牲者の鎮魂のために遠く会津に赴いたと。あるいは一時は太政大臣と位人臣を極めた仲麻呂の子らしく必勝・国家鎮護とか。ん?これは都で十分か?法相宗にそんなのがあるかは知りませんが双方の犠牲者の鎮魂な気がします。

92kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
栄原永遠男・天平の時代によると、反乱を起こし敗れた仲麻呂の家族もみな処刑され、六男の薩雄のみが若いときから仏教修行をしてきたからと許されたと。もし徳一が仲麻呂の子ならこの薩雄ですか。で、もし徳一が仲麻呂の子なら、会津にいたのは征夷と関係ないですかね?

92kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
街道をゆくで司馬遼太郎さんも徳一について藤原仲麻呂の子といわれるがよくわからない、最澄の文章から弱冠(二十歳)で都をさったことだけはわかっている。奈良から平安に移り変わる時期に、まだ夷(ひな)の気分を残す会津に日本最高の法相学者がいたという不思議さを誰も十分には説明できないと。

92kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
最澄と徳一の十二年におよぶ論争は文章でおこなわれた。最澄は激しい論争を重ねてきたことにより相手を自分の有利な場所に引き込む論争術に長じていた。つねに優勢勝ちだった。そしてこの勝ちがあったからこそ、日本仏教の中に衆生すべてが仏性をもつというプラティナを刻み入れたような伝統ができた。

92kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
極端な例えですが、現在(現代も可)の常識(空気がいいかも)を互いに共有する中で、たとえIQ300の大天才だったとしても天動説という立場を与えられ地動説をとなえる秀才と論争させられたらいかんともしがたいでしょうし。極端ですが。で、奈良仏教が最後の切り札としたのが会津の徳一だったと。

92kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
街道をゆくです。法相宗は藤原冬嗣を立会人に最澄と論争をした。最澄は弟子一人を連れのりこみ、なみいる学僧を論破した。宮中での各宗の学僧とも討論して勝ち、和気氏の立会いのもとの論戦にも勝った。これは、やっぱり、頭の良し悪しよりも宗論の構造に無理があったのでは?負けるべくして負けたと。

92kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
天台宗は奈良仏教と同じように国家が試験によって僧を得度させる枠を二人分得た。一人は天台課程、一人は(粗放なものでしかない)密教課程とした。最澄は権力を得るために時代の好奇に迎合した、と、奈良からはおもわれた。そんな中、真言密教第八世法王空海が都にあらわれた。が、それはまた別の話。

92kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
しかし桓武帝や朝廷の関心は天台にはなく、あくまで唐からその一部を持ち帰ったにすぎない、現世利益に験がある(と思われていた)密教に集中した。桓武帝は天台については何もふれず、密教をもたらしたがゆえに最澄を国師であるとし、奈良の長老たちに最澄から(洗礼のような?)灌頂を受けさせた。

92kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
空海の風景では、奈良の学僧も最澄のいうことにも理がある、ひそかにそう思うことがあったかもしれない。しかし奈良仏教を見限っているという場所(のみ)で最澄と同じ立場にいる、独裁的性格が強い桓武帝の恩寵を武器に権力で自分達を押さえつける(と感じられる)最澄には態度を硬化せざるを得ない。

92kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
最澄は天台宗にいきつく。万人が仏性(仏になりうる性質)をもつ。天台宗はそれら破片群を”救い”という思想で取捨選択して一大体系としたものだった。この新仏教の出現は、奈良の仏教を一気に過去のものとした。誰もが仏性をもつのなら何を苦しんで修行をするか、当然、奈良の学僧の反発をうけた。

92kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
街道をゆくで、最澄は法相宗や唯識宗など奈良の旧仏教は教ではなく論を中心とした破片ではないかと疑問をもっていた。もっとも釈迦以降の仏教は膨大な破片群ともいえ、ときにそれら同士がぶつかり矛盾しあってる。さらに旧仏教は解脱中心主義で、天才のみが悟りの域に達しうるという選別主義だった。

92kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
この納骨習慣というのが山中浄土と結びつき各地の霊山に納骨されるようになった。山にのぼった霊魂が再び自らの体に出会えると信じられていた。で、適当に書きますが、安倍貞任が一切経山に埋めたのは(伝説)、お経ではなく、自らの遺骨では。あと、ともに戦い亡くなった多くの反乱兵士の遺骨とか。

92kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
万葉集でも死者の霊魂は山やたかいところにおもむくということをうたう。しかし残された”体”についての言及はない。納骨という習慣は十一、二世紀ごろから天皇や貴族が高野山に納骨するということからはじまり、それが庶民にひろがった。高野聖が遺骨を高野山に納骨すれば浄土に往生できると説いた。

91kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
かんがえてみたら別に荒涼とした場所が山頂というわけでもないし、一切経山てのはまだよくわかりませんが、たとえば、荒涼とした地獄を抜け、不老不死の楽園蓬莱山(とこよのくに)にたどり着く。めでたしめでたし。みたいな。でも、本当に、神道、仏教、道教、仲良くやってますね。

91kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
浄土平。どちらかといえば山中の皆金色な紅葉の極楽浄土を抜け山頂の賽の河原へのぼっていってしまうような気がします。と思ったら、霊山は必ず浄土が原とか地獄谷とか賽の河原とかの地名をもつとか。地獄谷や賽の河原が地名としてあるかどうかはわかりませんが(地獄谷ぽいつばくろ谷なら)なるほど。

91kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
インド仏教が思考した浄土は果てなく遠い西方の地にある楽園というものだった。これが仏教渡来以前から日本にある死者の霊がのぼる場所であり神がおりてくる場所でもあるという山岳信仰と結びつきこれを変容、おそらく平安中期には身近な山の中にこそ浄土は存在するという観念を成立させた。

91kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
日本人は人が死ねば霊魂は山にのぼり浄められて祖霊になると(ここで区切りをいれるべきかも)、山中の地獄谷や賽の河原を抜け、山頂の極楽浄土へのぼっていくと信じてきた。仏を信じる者の臨終の場に極楽へと迎えに来てくれる阿弥陀来迎図のほとんどは(逆に)山の斜面を如来がおりてくるものだ。

91kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
彼岸は日本で変質し、インドの仏教徒が思考した悟りの岸とは異なる意味ももった。そこには神道と仏教の出会い以外に道教の影響もあった。記紀神話では浦島が助けた亀に連れられていった海の彼方の竜宮という常世は、蓬莱山(とこよのくに)という字があてられていた。彼岸も常世も生であり死であった。

91kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
仏教民俗学(本)によると、古代、常世(とこよ)とは神道のテリトリーであり、海の彼方にある不老不死の国と考えられてきた。かつ常夜でもあり、死者の国でもあった。彼岸は仏教的世界観で此岸(しがん)に対するアチラ側、悟りの岸、であったが、いつからか生のアチラ側、死の岸、ともなった。

831kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
さて、鎮兵が廃止された746年から復活した757年までの間に奥州でなにがあったか?すめろぎの御世栄えむとあづまなるみちのく山にくがね花咲く。749年、ないといわれていたわが国初の黄金が陸奥で産出されたと陸奥守百済王敬福から公式に報告。まるでOILのような黄金利権の影が(笑)

831kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
しかし757年、法相宗の高僧徳一の父親といわれる藤原仲麻呂が鎮兵を復活。息子を按察使や鎮守将軍を兼任の陸奥守に任命し、版図拡大の征夷を再開。その後の政権にも受け継がれ、774年から811年まで、三十八年戦争といわれるエミシとヤマトの血みどろの征夷戦がはじまる。

831kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
反乱で捕虜となった蝦夷は、伊予や筑紫など各地に分散して送られた。これは東北の蝦夷勢力の弱体化を意図したものと思われる。しかしその後、支配強化とともに現地蝦夷の待遇改善や疫病の流行などもあり目立った征夷もなく、百済王族の後裔である陸奥守百済王敬福は746年に鎮兵を廃止した。

831kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
美濃以東から幅広く徴兵されていた征夷軍はこれ以降鎮兵が主力となり、他国からの動員は、相模、安房、上総、下総、常陸、上野、武蔵、下野、八カ国にほぼ固定された。これらは相模の足柄坂、上野の碓氷坂より東として坂東と呼称された。鎮兵も含め、源氏vs奥州藤原へと続く戦いのはじまり?

831kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
再統合された陸奥国を統治するかなめの国府兼鎮守府として多賀城がつくられた。東国の兵士で構成された鎮兵は746年に一度廃止されるも757年に復活され、800年代初頭まで廃止されることはなかった。これら東国の兵士は天皇のそばにも侍し、その武力への貴種の期待は信仰に近いものがあった。

831kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
令外(りょうげ・律令の外)の兵は主に東国の兵士から選出され陸奥国に派遣、鎮兵とよばれた。それを統括する任を主として創設されたのが鎮守府という令外官で、長である鎮守将軍はほぼ按察使や陸奥守(国司?)が兼任した。これにより中央からの征討使が将軍ではなく大使と呼称されるようになった。

831kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
この反乱を受け、自国より徴発し六十日程度の勤務を交代でくりかえす従来の半農半兵を令外という常備兵制にかえ、”征夷”の最前線と比較的治安が安定している地域とに三分割していた陸奥国を再統合。按察使というクッションを取り除き、陸奥国司のもと統一迅速に事態に対応できるようにした。

830kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
この反乱の鎮圧には国家側の蝦夷(俘軍?)の武力ももちいられた。夷を以って夷を撃つは古の上計なり、賊を持って賊を伐つは軍国の利なり、といわれた。ただし、この乱のあと、功があった蝦夷、その通訳も勲位を受けている。当然、反乱後の蝦夷への慰撫という意味もあったろう。と、思います。

830kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
719年に、特定の国の守をして周囲数カ国を管轄させる按察使(あぜち)という制度がつくられたが、翌20年、陸奥国で按察使が殺害され、史上初の蝦夷の大反乱が起きた。蝦夷を力で押さえつけようとする大規模移民政策にたいしての抵抗の意思表示だった。

830kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
移民に対する蝦夷の”抵抗”が予想される場合や、移民後の治安確保のために征夷がおこなわれた。もちろん平和裏に城柵や郡が置かれた例も多い。城柵は基本的に防御の外郭をもった役所であり、常に兵士に守られていた。城柵には国司が派遣され城司とよばれ、蝦夷を含んだその地方を統率した。

830kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
奈良時代くらいから、本来の部族的蝦夷、個別に自分達の支配下にある俘囚、それら”蝦夷”の総称として夷俘(いふ)という呼び名の使い分けがあったのではないだろうか。で、大化の改新以降の”化外の地”への進出は内地からの移民による郡の設置・版図拡大が主で、征夷はあくまで副次的なものだった。

830kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
ちなみに蝦夷と東北戦争の著者の鈴木拓也さんは参考にした引用元を随時表記されていますが、ここでは”蝦夷と東北戦争によると”で。といいますか、他も全部そうですね。しかも基本俺の身勝手要約です。くわしく、正確に、は、それら原書?を読んでいただければ。

830kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
朝廷の貴族は、蝦夷を蔑視しながらも一を以って千に当たるといわれた戦闘力には畏敬の念をいだき、蘇我蝦夷、小野毛人(えみし)、佐伯今毛人など、蝦夷(毛人)という名もそのためであろう。また国家に服した蝦夷・俘囚(ふしゅう)も俘軍として組織された。

830kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
蝦夷と東北戦争によるとですね、少なくとも古代の蝦夷(えみし)は特定の人々のことをいうのではなく、自らをそう呼んだわけでもなく、あくまでヤマト側からみて、広大な日本東北部に住む、まだ”王化”されていないさまざまな”化外の民”のことを、一括して”蝦夷”と呼んだと。

829kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
勝った、勝った、もう西洋の侵略にビクビクしている時代は終わった、これからは日本もどんどん発展するさ、細かいことはもういいだろう、てな感じで。ま、そんな時、ま、適当に書いてそんな時もないもんですが、夏目漱石は、自作の登場人物の口を借りて(日本は)滅びるね、と言ったわけですが。

829kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
もちろん名山の日本史を読んでますが、横峰寺や前神寺が山岳信仰に深く関わった巨刹であるのにその歴史がよくわからないのは、この神仏分離の廃仏毀釈で致命的な打撃を受けたからだろうと。でも、もとにムチャがあったわけですが、明治四十二年てのは日露戦の勝利も気分的に関係してますかね。

829kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
石鎚山の中腹にあった前神寺は山麓の末寺に移り、前上寺と名を変えさせられたが明治四十二年にもとの名に復することができた。横峰寺も別地で大峯寺と名を変えようやく存続し、同じく明治四十二年にこちらは元の境内を神社から譲渡され横峰寺として復することができた。

829kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
そういえば、四国札所にもあたりまえに廃仏毀釈の嵐はきてますね。石鉄蔵王権現が石鎚神社となった石鎚山の六十番札所横峰寺は明治六年に、横峰寺とともに平安以来の石鎚山の山岳信仰の中心となった前神寺は当時の住職が激しく抵抗するも原因不明の火災で焼失、明治八年に廃寺となった。

828kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
さて、名山の日本史の著者の高橋千劔破さんは、ほとんどの伝説や史書が東北地方を平定した”英雄”として田村麻呂や源義家を扱っている。征服された蝦夷の側を征伐されてしかるべき”賊”としている。しかし蝦夷からみれば一方的な侵略で、賊扱いされるいわれなどないだろうと。

828kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
昔々、これは昔々、坂上田村麿が東北地方の賊を征伐に向かう前、偉いお坊さんから、尊い仏像のあまりでつくったという木彫りの馬をもらった。さて、征伐にむかった田村麿たちが賊に負けそうになったとき、どこからともなく百頭の馬がやってきて、この馬にまたがり賊を退治した。

828kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
越中国守、大伴家持が、すめろぎの御世栄えむとあづまなるみちのく山にくがね花咲く、とよんだのはこのときで、天平勝宝四年には陸奥国多賀城以北の諸郡の調庸は黄金で、と、制度化された。以南は従来どおり貢布で、さらに北方の地帯は貢馬とされた。

828kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
平泉の世紀によると、天平二一年、陸奥国守、百済王敬福(くだらのこにきしきようふく)から、わが国初の黄金が陸奥で産出されたと公式に報告があった。ころも大仏建造の鍍金がなくなり挫折感が朝廷に満ちていたとき。天佑神助、仏のめぐみだと、この年、天平感宝、天平勝宝、と二回も元号が改まった。

828kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
昔々、ほんとに昔、天平の世、奈良の都で国家をあげて大仏を作っていた時、大仏に使用する鍍金(めっき)が足りなくなり、さしもの大業も頓挫しそうになった。そのとき、日本にはないとされた黄金が奥州で産出されたと報告があり、金九百両が急使でとどけられ、大仏を完成させることができたとか。

827kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
昔々、伊達の高子に熊坂という長者が住んでいた。奉公人の三吉というのが、いつもずぶぬれで、へとへとになって帰ってくる。わけをきいてみると、沼の中に黄金が輝いている、しかしどうしてもとることができない。調べた結果、これは山の黄金が沼に反射しているのだ。掘ってみるとおびただしい黄金が。

827kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
昔々、倉吉という若者が磐梯山の御鏡沼で美女に頼まれごとをした。かなえると、倉吉は毎日米三粒をあたえると金貨を生むという馬をお礼にもらった。それから倉吉は米を三粒あたえ、金貨を得、裕福になった。しかし欲が深くなり、一度に沢山の米粒をあたえると馬はいなくなり、倉吉の家も身もほろびた。

827kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
昔々、弁慶に父を討たれ、復讐のために鎌倉から奥州にきた力自慢の兄弟がいた。しかし弁慶はすでに死んでいた。帰る気にもなれず磐梯山で盗賊になり暴れまくった。後に改心、神?に教えてもらった温泉で宿屋をはじめ、繁盛した。伝兄弟作に、このところ黄金千杯埋めずおく、屋敷の里のみえるところに。

827kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
はしょります。昔々、信夫郡(伊達の辺り?)平沢村に炭焼藤太という男が住んでいた。買い物に行き、池の鴨にお金を投げつけて何も買わないで帰ってきた。京から来た妻がびっくりすると、裏山をほると金なんかいくらでもでてくる。おしくない。義経を奥州に連れてきた金売吉次は藤太の子であったとか。

827kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
芭蕉も福島をたち、鯖野の義経の太刀や弁慶の笈(おい)を宝物とする寺で茶を乞い、笈も太刀も五月にかざれ紙幟(のぼり)、と一句よまれてます。といっても、よくあることみたいですが、義経所縁の石碑を参っただけで実際は宝物も見ていず、句も後につくったもので、最初は、弁慶が笈をもかざれ紙幟。

827kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
山本さんが昭和五十年代にお書きになった文章かな?柳田国男さんの東北文学の研究によると、東北地方を歩いた念仏聖をかいして、義経伝説が深く、具体的造形を持って庶民の中に浸透し、そして「義経記」がうまれた。では、たぶん日本中にあるだろう空海伝説も、やっぱり念仏聖な高野聖をかいして?

826kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
山本さんは、昭和十八年刊の雑誌の中で、曾良に止められて実行はしなかったものの、蝦夷が千島の見ゆるあたりまでも、と芭蕉が思いをはせたのは、義経伝説の「御曹司島わたり」の跡をたどってみたいという思いがあったのかもしれない(は俺がはしょり、言葉をかえましたが)とお書きになってますね。

826kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
芭蕉師匠、平泉に行こうとして道に迷って石巻にいってしまったんですね。思いがけず訪れた石巻の港の殷賑を極めたさまが奥の細道に描写されています。でも、平泉が、平和泉と心ざし、と書かれていて、平・和泉、なんでしょうが、平和・泉な感じもいいですね。

826kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
断った美女の家は、湖の中の孤島になって、水を全部飲ませてくれた女の家は、湖のとても便利な場所になった。そして、この貧しい身なりの旅の僧こそ、空海その人であった。のような、西遊記な感じもしますし、なんとなくひどい(笑)気もしますが、昔話がありました。

826kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
昔々、会津は何もない盆地だった。ある日、貧しい身なりの旅の僧がやってきて、ある家の前で水を所望すると、その家の美女は、このへんは水不足だからと断った。しばらくいくと、やや顔立ちのみにくい女が貴重な水を全部飲ませてくれた。次の日、人々が起きてみると、一夜にして巨大な湖ができていた。

826kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
日本の民話・福島篇(片平幸三編)を読んでると、昔々、会津には磐梯山に腰掛けるような巨人の夫婦が住んでいて、太陽の光をさえぎったり、猪苗代湖の水をふりとばしたり、散々悪さをした。ある日、貧しい身なりの旅の僧がやってきて、この夫婦を壺の中に閉じ込め、磐梯山の頂上に埋めてしまった。

826kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
そうそう会津根高くといいますが、猪苗代盆地の海抜って500メートルこえているんですよね。知らずにそこに立つととてもそんな実感はわきませんでしたが、猪苗代湖は山上湖と言ってもいいくらいですよね。で、お隣の福島市で60メートルくらいですかね。それだけで十分気候はちがいますよね。

825kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
等窮の家を辞し、二本松より右にきれて黒塚の岩屋を見物したりしつつ、福島に一泊。翌日、しのぶもぢ摺(ずり)の石をたずねて忍ぶの里を訪れ一句。早苗とる手もとや昔しのぶ擦。ちなみに最初の形は、五月乙女(さをとめ)にしかた望んしのぶ摺。田植えをする女性を早乙女(五月乙女)というとか。

825kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
ん?あおぎ見つつって表現おかしいか?どんなコースを通ったのか今わからないけど、白河→須賀川で会津の山々だとそんなに近くはないよな。ちなみにモトは、左に会津根高く、右に岩城、相馬、三春の庄、てな感じです(山本健吉訳・解説)。高く、だから、まあいいかな?

825kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
奥の細道。曇り空。松尾芭蕉、曾良、白河の(故事としての)関を越え、阿武隈川を渡る。左に会津根をあおぎ見つつ芭蕉の俳友等窮(とうきゅう)を訪ね須賀川に到着。そこで白河の関いかにこえつるや、と、等窮に問われ、一句。風流の初やおくの田植うた。

825kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
そして神社ではなく寺として生き残り、廃仏毀釈の嵐が過ぎ去った後、といっても大正十五年、ひそかに堂宇の一つとして守っていた飯縄権現の名を復活、鳥居も再建、もしかしたら実質はずっとそうだったのかもしれませんが、見事に神と仏が共生する山岳信仰の場にもどったそうです。

825kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
で、高尾山。当然、維新とともに廃仏毀釈の嵐はやってきたんです。この山にも飯縄権現という”神”はちゃんといました。しかし嵐がくる前に飯縄権現の名前を使うのをやめ、鳥居も撤去、跡地には石灯籠を建立、仏のみの寺に(表向き)なったそうなんです。

824kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
ま、蘇我だ物部だと、もともとは上のほうでの思惑が戦争しちゃうくらいいりみだれまくったんでしょうが、一応日本人みずからそれを選んだわけですし。もしかしたらあれですかね、廃仏毀釈を進めた人たちのなかにもあいつらは侵略者だという思いがありましたかね。当時の国際情勢に重ねちゃったり。

824kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
権現というくらいなので、何か仏さまが海を渡ってドカドカと日本に乗り込み、日本古来の神さまを無理やり力で押さえつけたような感じもしますが、侵略者(笑)の仏さまが神さまを滅ぼさずに身内に取り込み、仲良く千年は共生したかと思えば、悪くない風景な感じもします。

824kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
名山の日本史によると、神と仏が一体だったころ、名山には寺院が建立され、ともに神がまつられた。その神は真は仏や菩薩で、人々を救うために神という権(かり)の姿で現れている。すなわち権現であると。記憶頼りで不確かですが、キリスト教伝来時、ゴッドと大日如来がごっちゃになったという話と。

823kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
で、藤原氏は(略)地上極楽の実現を待つべく入定相に肉体をとどめ、永生を続けておいでなのである。あるいは(略)往生を終えた入定相にかくおわすのであるかもしれない。高橋さんのこの書き方、いいな。んで、浄土平の蓬莱山。不老不死。此土浄土に往生。思想的に無関係かな?

823kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
清衡以下の藤原三代がミイラとして金色堂に葬られているのも、此土浄土、浄土をこの世に再現するという思想からくると。法華経の功徳で此土浄土が実現したとき、ミイラとして眠っている自身が浄土に、したがってこの地上に、仏として生まれ変わると。という要約でいいですかね?

823kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
で、俺が随分荒涼としているところじゃないかとおもった浄土平なんですけどね。ほら紅葉て、そりゃ紅もありますが、黄金色じゃないですか。ほんとうに紅葉がきれいなところらしいんですよ。たぶん”皆金色””此土浄土”て感じの。

823kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
奥州は金の産地であり、実質的奥州支配を確立した藤原氏はそれを自由に使うことができた。平泉の諸堂塔はすべて金色に輝いていた。しかしそれは自らの富を誇示するというよりも(それもあったんでしょうが)、平安末期の浄土教文化の”皆金色”、黄金で浄土をこの世に再現するというものだった。

823kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
高橋富雄さんの奥州藤原氏を読みはじめていますが、王朝時代、極楽疑わしくば宇治の平等院を敬え、と当時の人はいっていたそうなんです。平等院こそ此土(しど)浄土、この世の浄土であると。で、平泉の無量光院はこの平等院を模して建てられている。平泉文化は都の此土浄土をみちのくに再現した。

822kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
でですね、ま、山岳信仰の場であったかどうかはしりませんが、浄土平じゃないですか、一切経という仏教のお経を埋めたという伝説を持つ一切経山じゃないですか、蓬莱山、これは道教ですかね?じゃないですか。この感じが自然なんでしょうかね。

822kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
そこに理由を求めると。恵日寺が空海の建立で、都に帰る時に弟子の徳一(実際は、どの程度かは定かではないですが、空海が東国に真言をひろめることを依頼してきたのを拒否、その教義にたいする疑義をただし対立関係にあったとか)に託したという伝説とともに、栄えたモノが歴史を創るでもいいですが。

822kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
磐梯神社は磐椅神社ですよね?梯と椅はあんまり関係ないんでしょうね。で、大正二年に、ようやく過剰な熱もさめたということですかね、塔頭の一つである観音院が恵日寺の寺名を再興したそうです。んで、徳一が最澄に負けて法相宗が衰えたというのは、法相宗が衰えたことからの逆流かもしれませんよね。

822kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
名山とよばれる山には必ず名刹があった。それらは消されてしまった。仏像・仏画など膨大な文化遺産もこのとき失われた。恵日寺も、境内社の一つであった磐梯明神を磐梯神社として独立させ、住職を同社の宮司にし、恵日寺自体は廃寺とされた。これらは文革のごとき、国家がおこなった愚行であろうと。

822kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
身勝手要約ですが、名山の日本史によると、平安以来、神と仏は一体であった。明治維新以降の一連の廃仏毀釈運動により神と仏を分離、神道のみを国教とし、仏教を排斥。これにより山岳信仰の場から仏教が排除され、あたかも昔から神のみが信仰されてきたかのような錯覚を現在の人びとにあたえていると。

822kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
ちなみに徳一は孝謙太上天皇や寵愛の道鏡に対して反乱を起こし敗死した藤原仲麻呂の子であるといわれ、当代屈指の名僧であるとうたわれ、その建立であると伝えられる寺は恵日寺以外にも全国に七十以上あるとか。しかし、天台宗の最澄との論争に敗れた後はふるわず、その法相宗も衰えていったとか。

821kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
今昔物語とかに得一つう人が恵日寺を建てたって書いてあるみたいです。で、一切経山にお経を埋めたのは安倍貞任ではなく空海だという伝承もあるそうですが、このへんからきてるんですかね。それとも高野聖がそういう空海伝説を創作し、それが恵日寺の縁起に影響をあたえたりもしたんですかね。

821kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
もちろん猪苗代湖の成立は何万年も前であり、空海が会津を訪れたこともなく、はっきりとはしないものの恵日寺を建立したのは空海ではなく、空海や最澄と教学について論争を交わした法相宗の高僧徳一であろうと。空海の建立という伝説は恵日寺が真言宗に属するようになってつくられたものであろうと。

821kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
名山の日本史によるとですね、昔々、磐梯山は病悩山と呼ばれて会津の人々を苦しめていた。今から千二百年前の大噴火では一夜にして猪苗代湖を生んだ。それを京で伝え聞いた空海が遥か会津に下向、秘法を修し五穀豊穣を祈願、ここに恵日寺を建立したという伝説(縁起)があるそうなんです。

821kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
もちろん坊さん話は適当です。で、福島県の歴史散歩つう本を読んでたら猪苗代に磐椅(いわはし)神社ってのがありますね。中世にこの地を治めた猪苗代氏に重んじられたとか。梯と椅。梯子。椅子。神社の方は神様にいてもらうから”椅”?ちなみに▲な地図がのっている本は日本の湖沼と渓谷です。

820kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
磐梯山。昔々、土地の人はみな、いわはしやま、といっていたのを、唐土に留学経験のあるお坊さんあたりが、なんか野暮ったいな、それだったら磐梯山という漢字をあてて、ばんだいさん、てのはどうだ?みたいな。やま、より、さん、が、なんとなく高級感。したがって俺は、やま、に、シンパシー(笑)

820kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
でも、烏帽子山は、えぼしさん、というよりも、えぼしやま、といったほうが、俺にはしっくりくるけど、ニセ烏帽子山は、にせえぼしやま、というよりも、にせえぼしさん、といったほうが、発声の落ち着き的にも、俺にはしっくりくるな、と、おもい、書いてみたら、にせえぼしやま、も、しっくりきた。

820kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
あれかな?前より後が本命、真打ち登場!て感じなのかな?ということは浄土平目線が”域”のスタンダード、おお、浄土平強し!ということかな?ま、単純にこちら方面からみないと烏帽子にはみえんということだろーな。と、本の掲載地図の▲二つをみておもいました。実際にどんな山かは全くしりません。

819kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
もちろん一説によると、でしょうが。んでも、浄土平からみて、烏帽子山にかぶさるようにそびえるニセ烏帽子山。ニセってやっぱり偽だよな。ん~未知だとおもわず烏帽子山だと誤認してしまうくらい似ているのかな?なら、似せ、もあるかな?つうかこちらがニセになった理由は?よくわかりません。

819kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
吾妻山は、あずまさん、でもしっくりくるかな?ただ、なんとなくだけど、やま、より、さん、のほうが、より高くけわしい山のイメージを俺はもちます。で、名山の日本史によると、磐梯山(ばんだいさん)てのは、天へとつづくいわのかけはし、磐梯山(いわはしやま)てのがその名の由来なんだって。

819kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
烏帽子てのは、平安時代のドラマとかで頭にかぶってる帽子です。んでも一切経山は、いっさいきょうざん、とよんだほうがしっくりくるけど、烏帽子山は、えぼしやま、とよんだほうが(俺的には)しっくりきますね。浄土平周辺でも蓬莱山は、ほうらいさん、吾妻山は、あずまやまだなあ。実際もそうかな?

819kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
一切経山は、いっさいきょうざん、でいいみたいです。んで、浄土平の北北西かな?烏帽子山て山がありまして、ま、全国よくある名前だとおもうんです。ある場所からながめるとこの山が烏帽子のようにみえるのだろうと。ただ地図を見ると、ここには烏帽子山の前にニセ烏帽子山てのがそびえてるんです。

819kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
吾妻小富士とは違い、浄土平の北、今も活火山の一切経山。この山の名の由来は、最後は中央に敗れたとはいえ、その活躍が奥州藤原氏の栄華にもつながる(かな?)安倍貞任が、一切経つう仏教のお経をこの山に埋めたという伝説にあるとか。古来、人にとって浄土平周辺はそういう‘域’だったんですかね。

819kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
日本の湖沼と渓谷という本を読んでますが、浄土平の西に、古代中国秦の時代、徐福が始皇帝の命を受け不老不死の薬を求めて船で旅立ったとされる(よね?)蓬莱山て山がありますね。ま、もしかしたら、○○銀座、○○富士見、みたいなノリで日本中いたるところに蓬莱山ってあるのかもしれませんが(笑)

818kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
わ、雨むちゃ降ってる。な、帰り道でした○

818kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
ほーここが開成山公園。ここに野球場もあるんだよね?あるよ、何で?いや、朝のラジオでここで甲子園の予選の準決勝をやっててさ、まあ、もう試合全部終わってるか。で、どうする、飯でも食ってく?いや、このまま帰るよ。でも二日間どうもありがとう。おう、気をつけて。そっちも事故るなよ、またね。

818kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
ほら、あのへんの屋根。ほんとだ、すごい急勾配。ま、雪国ならではということで。ほー。ところでさ、野口英世のお母さんの、息子にあいたいという思いを切々と書いた直筆の手紙の文の末尾の巨大な○、あれって多分句読点の丸だよね。句読点っていつからあるんだろう?

816kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
ありがとうございました、肝に銘じます(笑)んで、どうする、そこでラーメンでも食う?まだ入らんよ。んじゃ、郡山に向かうか?今から向かえばちょうど4時前後に着くんじゃないかな。そうしよう、でも結局雨降らんでよかったよね。

816kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
なあ、この、ボタンを押すと身振り手振りでいろいろ説明してくれる、妙にリアルでちょっと怖い野口英世ロボット。ここ押すと、何か毎回違う人生のアドバイスをくれるらしいぞ。マジですか。んでは早速ポチッとなと。

816kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
福島の中だけでもかなり気候って違うもんなんだ。このへんの民家って雪が屋根の上に積もらないように三角形、すごい急勾配になってるよ。へー。んでも、この野口さん紹介のビデオ、随分と、これから、ってところで終わらない?ここから成し遂げた業績は展示室で観てくれってことじゃない?

815kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
ほー、でも、これが、当時のこのあたりの農家の一般的な大きさなのかな?あれかな?柱とか梁とか太いけど、このくらいの大きさの家じゃないと冬の積雪にたえられないのかな?どうだろう?でも、俺らが今越えてきた山の向こうの福島市とかはそうでもないけど、このあたりは確かに雪結構積もるよ。

815kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
まあ、もちろん、来た時の季節とか天候とか時代によってイメージなんて変わるもんなんだろうけどね、ずいぶん明るい感じがするところじゃないか。しかも思ったよりも家でかいし。ん、ここに書いてあるよ。この家屋はだいたい二百年前の江戸時代につくられたみたい。

815kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
え?これ野口英世の生家?移築とか再現とかでなくここがそうなの?んで、あれが、かの有名な囲炉裏?ほー、いやね、ま、そんなにね、野口英世のイメージてないんだけどね、もっと、なんつうかね、雪深い山奥の小さな家を想像してたんだけどね、まさか猪苗代湖畔のこんな開放的な場所にあるなんてね。

814kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
だってこんなこと一度で十分すぎるだろ。そこは肝に銘じた上でさ、快適で豊かな生活を追求してほしいよ。さて、ここに来る途中に野口英世記念館てのがあったじゃん、ちょいあそこによろうよ。

814kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
もちろんわかるよ、そのおかげで現在こんなに快適で豊かな生活ができてるって。それはわかる。だからさ、俺はさ、あの福島の原発をさ、世界遺産に登録してほしいよ(笑)豊かで便利な生活を追求した結果、人間はこんなことをやらかしちゃいましたって、世界遺産に登録して永遠に後世に残してさ。

814kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
しかし、いいとこだね、福島。ん、いいとこだよ。でもね、やっぱり考えるよ、もう一度原発で爆発があったらどうしようって。俺は福島好きだからさ、ここで頑張るよ。放射能なんかに負けねえって。でも、もし、また、あの水素爆発みたいなことがあったらさ、それでもそう言えるのか、やっぱり考えるよ。

813kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
あ、ヒグラシ鳴いてんな。これヒグラシって言うんだ?うん、秋のセミなんだけどさ、このへんは涼しいからね。ふーん、東京はさ、7月も終わろうつうのにセミ鳴いてないんだよね、蚊もあんまいない。ま、それはいいんだけど。 http://pic.twitter.com/uAISOCr 画像を表示する

813kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
このへんヘビでるからさ、って、ヘビじゃねえか。うわマジだ、おいおい。あとマムシもでるから気をつけろ。んーでも水は温かいな、泳げるよ。何か遠浅な感じでよさげだね。いや、いきなりストンと深くなったりするんで、指定された場所以外で泳ぐのは結構危険だよ。

813kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
しかし、福島はどこに行っても田園風景だね。米どころだからね、みんな夜明け前から大切に育ててるんだ。お、ほら、目の前、あれ猪苗代湖だよ。ほー。で、あの山の向こうが会津だよ。また山越えるのか、やっぱり福島はでかいな。ちょっと猪苗代湖畔を走るか?ぐるっと一周とか。できねえよ、でけえぞ。

813kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
もう少し行けば猪苗代湖見えてくるから。あれ?お。今とまってたパトカー石川県警って書いてなかったかな?ああ、応援で来てくれてるんだよ。震災直後はもっと多かったけど、今でも原発の避難区域の警備で県内の警察は人手不足なんじゃないのかな。

813kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
熊の方がでられても困ると思うけど。大丈夫だよ、よっぽど腹減ってないと人間なんて襲わないよ。しかし猿がこんなところにいるか?もしかしたら車の交通量が減って猿が進出してきたとか。いや、そもそもここ猿がいるには標高高すぎだろ。上に行くにしたがって餌少なくなるんだからさ。ほーなるほど。

813kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
あ、猿。え、猿?ほら、猿。ほんとだ猿。ん、あそこにも猿。あれ?あれも猿?うわ、猿。猿。猿。すげーいる。顔赤。え、でもなんで猿。猿だから猿だろ。いや、何でこんなところに猿?だってここ熊でるんでしょ?猿がでてもおかしくは。熊はでるよ、でも猿がでるなんて聞いたことないよ。

813kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
放射線量の高低てさ、山とかも関係するの?んーどうだろう、関係ないことはないだろうけど、やっぱり風と雨じゃないかな。水素爆発の時に大気中にばらまかれた放射能が風で運ばれて、雨で地面に落ちて、低いところに水たまりとしてたまって、それを土が吸収してしまったってのがほとんどじゃないかな。

811kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
猪苗代って、会津とかにも行けるのかな?4時前後に郡山にいたいんだよね?会津はちょっと遠いな。それにこないだ遊びに行ったばかりなんだ。まあ閑散として閑古鳥鳴いてた。観光客いなかったよ。会津は放射能関係ないんだけどね。少なくとも関東とかとたいしてかわらないよ。

811kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
いつもここにくるとソースカツ丼食べちゃうんだよね。ほーじゃあ俺もそれにするか、でもいまんとこ雨降らんでよかったね。何か降りそうではあるんだけどね、後はここ下っていけば猪苗代に出るから。しかし昨日から考えると福島ってデカイよね、九州なら何県突き抜けてるんだか。まあ上の方の話だけど。

811kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
見た感じよりよっぽど深いのだんだ。 http://pic.twitter.com/u8nfpOY 画像を表示する

811kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
浄土平は自然豊でね。あとはまあ、ここから見る紅葉がホントにきれい。まあまだ夏もこれからだけどだ。ところで何でそんなへっぴり腰で写真撮ってんの?もっと近づいて撮れば?大丈夫、落ちねえよ。つうか落ちたってそのへんにひっかかるって。

811kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
こうして見ると隕石でも落下したみたいだけど、これってもともと火口なんだよね?だろ、あっちの山はまだ噴煙あげてるけど。でも昔の人の浄土のイメージってこんなんなのかな?どちらかと言えば賽の河原のような。このあたりだけじゃないからさ。湿原があったり、五色沼って不思議な沼があったり。

811kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
この駐車場も無料か、ホントにどこも無料なんだな。でも、それなりに車はとまってる、ん、やっぱり福島ナンバーが多いか?つうても県外もちらほら、どこも割合的にはこんなもんかな?このスカイラインが現在無料とか県外の人に知られているのかね?で、どうする?とりあえず登ろうよ、あれだよね。

811kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
なるほど、危険!火山性ガス発生!みたいな看板もたくさんあるし、風景一変、荒涼としてきましたな。うん、ここで窓あけるとガスで危険だよ。もうちょい行くとレストハウスあるからそこの2階のレストランで飯食おう。何かあるの?吾妻小富士つうて、富士山のミニチュアみたいな山?に登れるよ。

811kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
でだな、ちょうどのぼりきったあたりに浄土平という、あ、ここらあたり熊でるから。え!熊出んの?普通に出るよ。で、浄土平という場所があってだな、火山性のガスが発生してるせいで樹木が生きていけないんだ。結構幻想的な風景だよ。ほー。そこにレストランあるからさ、そこで飯食おうよ。

810kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
命がけの一枚。 http://pic.twitter.com/ytDdgHV 画像を表示する

810kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
あれ?簡単になった? http://pic.twitter.com/9pUOmue 画像を表示する

89kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
なに橋の上をあっちこっちとフラフラ徘徊してんだよ、あらぬ誤解を受けるんじゃないかと心配したじゃないか。まあ、物凄いへっぴり腰で手だけ伸ばして下の写真撮ってる姿見て、ああ、大丈夫だと思ったけどな。で、撮れたん?うん、欄干がばっちし。素晴らしい生への執着だな。おう、百まで生きるよ。

89kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
おお、すげー、つうか、こえー、この谷どんくらいあんの?バンジーできそ、百メートルくらい?もっと?つうか、目測ってなにげにあんまりあてにならんよね、んー確かに紅葉の時に来たらさらによさそー、でもさーああいうとこにあんなデカイ橋架けるんだから凄いよねー。ちょい橋から写真撮ってくるー。

89kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
んーあんまり車走ってないな、無料なのにな。まあ平日だしね。でもここは観光地なんだよ。でだな、ここをもう少しいくと、つばくろ谷という、紅葉が非常に美しい、まあ夏もこれからだけど。それもあるんじゃない?まあシーズンではないな。で、風光明媚な場所があるからさ、ちょっとそこに寄ろうや。

89kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
で、これが鳴っているんだ、と、気づいたけど、何で鳴っているのかわからなくて、しばらくするとおさまったから、不思議だなと思いつつも、まあいいかと扉をしめて、しばらくすると揺れがはじまって、そりゃこっちに比べたら全然だろうけど、でかいし長いし、コレハヤバイと声にだしていっちゃったよ。

89kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
あ、そうだ、なんつうの、ちょうど扉のロックをわざと出して、半開きじゃないけど引っ掛ける状態にしてたのね。両手ふさがってても足とかで開けられるように。そしたらいきなりドリルで穴開けてるような振動音がし始めてさ、最初どこで音がなっているのかわからなかったんだ。

89kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
でもさ、最初に原発の事故を知った時はどう思ったの?それどころじゃなかったよ。ライフラインが全部駄目で食べるものもない。今日明日を生きることで精一杯だったから原発の事故を気にする余裕なんてなかったよ。あくまで俺はね。そーいえばさ、地震の時お前はどうだったの?無茶苦茶怖かったよ。

88kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
で、4時過ぎくらいに郡山にいたいんだよな。できればね。つうわけでだ、磐梯吾妻スカイラインつう紅葉がきれいな、まあ夏もこれからだけど、有料道路があるんだが、今無料開放されてるんだ、そこ通って猪苗代湖に行って、ぐるっとまわって郡山に行けばちょうどいい時間になると思うんだ。

88kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
まだ来てないか、しかし暑いね福島。んーでも昨日のお店の人、避難所や仮設住宅でこれから必要になる物資のことをかなり詳しく話てくれたけど、こっちから話をふらなかったらそんな話たぶん自分からはしなかったよな。みんな個々で当たり前に出来ることやってるんだろーな。あ、来た。

88kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
さて、ラジオ。高校野球福島予選準決勝。郡山の球場で、昨日の雨をうけての再試合と。あ、やっぱりかなり降ったんだ。んで、今日も局地的な大雨が予想されると。まあ局地的つうてんだから、そこにぶちあたらないことを期待しよう。んでは出かけますかね。

87kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
しかし今日は早朝からひたすら移動し続けたから結構きてるな。明日はどうする?まあ何か考えとくよ。じゃあ運転代行呼んで帰るから。おう、今日はありがとう。おやすみ。

87kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
でもさ、もしかしたらさ、微量の放射線は体にいいって話あるじゃん。何十年かしたら福島だけ異様に長寿になってるかもしれないよ。長生きしたけりゃ福島にいけ!って世界中の人が我も我もと福島大人気になるかもしれないよ。て、俺も無責任なこと言ってるな。お前は国じゃないからいいだろ。だな。

87kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
でもいいとこだね。いいとこだよ。あ、ここのお菓子すげーおいしいんだよ。ほー有名なの?ここさ、俺が生まれた町なんだ。小学校入ったくらいまでここにいた。そうなんだ、あれ?あっちの空だけ異様に明るいね。ああ原発のほうだね。へーやっぱり昼夜たがわずか?いや、さすがに違うだろ。別の光だよ。

87kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
最後の焼きそばはいらなかったんじゃないか?かもしれん。今11時すぎくらいか、酔い醒ましにそのへん散歩しないか。ん、いいよ。あのさ、たとえばさ、あの側溝のとことか放射線量高かったりするのかな?はかったわけじゃないからあれだけど、可能性はあるよね。放射能は溜まったまま消えないからね。

87kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
ありがとうございました。がんばって下さい。な、もうちょい飲もうぜ。あんまり人歩いてないな。田舎の平日の夜だぜ、こんなもんだろ。かな?んじゃ、そこに飲み屋あるからさ、そこ行こうぜ。ああ、いいよ。

87kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
自殺する人も増えてるんだ。でも怖いのはこれからだよ。まだ心に残っている希望が完全に壊れた時が。生きるすべを全部奪われたら死ぬしかないよね。だから国とかさ、無責任にできもしないことだけは言って欲しくないよ。眉唾だと思っても、もうそこに希望を持つ、持たざる得ない人が沢山いるんだよ。

87kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
仙台、街に活気あったよね。うん、復興に向けてね。福島はさ、どうしても原発の問題があるから、先が見えないんだよ。俺はまだいいよ、仕事も問題ないし、逆に忙しくなったくらいだし。でもほとんどの人はさ、先が見えないんだよ。とにかく事故を何とかして欲しいよ。放射能漏れ続けて復興できるかよ。

87kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
瞬間死を意識したよね。で、揺れも随分長かったけど、ようやくおさまって、外に出ると、ガラスは散乱してるわ、路上にうずくまって泣き叫ぶ人はいるわ、これは現実か?と。で、どの建物も中は結構ひどかったと思うんだ。でも建物自体はあの地震をはね返したからね。日本の今の耐震技術は凄いよ。

87kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
そういえばさ、俺、地震の時、仙台市内のビルの七階にいたんだけどさ、もうすごい揺れで、電気は切れるは、天井は落ちるわ、でも、ほら、少し前に結構でかい地震あったじゃん、俺、最初、あれの余震だと思ったんだよ。で、近くにいた人にそれを言うと、まったく揺れが違います、駄目だ!て。

87kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
困った時はお互い様ですからね。がんばりましょう。ほら、福島東北人はあったかいんだよ(笑)とりあえず生ビール二つ。はい。おい、何食べる?ん−、牛タン食ってからたいして時間たってないが、あ、壁、ちょっとヒビ入ってる、つうても表面の塗装が剥げちゃってるだけか、シシャモある?

87kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
今着ているこのTシャツ(後ろにがんばろう福島だったかな?)もチャリティで買ったんですよ。このお店は地震大丈夫だったんですか?いえ、もう大変でしたよ。その時はとてもまた営業できるようになるとは思いませんでした。でもみんなが協力してくれて。助け合いですよね。

87kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
あ、彼、俺の昔からの友達で東京から来てくれたんですよ。一緒に相馬まで行ってきたんです。ボランティアで来られたんですか?いえ、遊びに。あ、津波の被害にあった場所を遊びで来たとか、何か失礼な言い方ですけど・・・。いいえ、ちゃんと見ていって下さいね。

86kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
除染は?現状自分らでは厳しいよ。うん、あと5分くらいでホテルつくから。

86kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
ま、そのピンポイントが庭に何カ所かあるんだけどさ。でもそれ以外は本当にそこまででもないんだよ。家の中は線量ガクッとさがってさ、0.2マイクロシーベルト位。外は呼吸してるレベルでそれの約6倍くらいかな。まあ、あくまで俺の生活環境レベルの話だけどね。

86kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
で、自分で家の線量はかったんだよね。うん、検査するやつ人に借りてね。結構値段高いんだよ。で、45マイクロシーベルト。はかり間違いじゃないの?だって数値で出るんだよ。体温計みたいなもんだよ。つうても本当に庭のごく一部、吹き溜まりみたいなとこがピンポイントで高くなっているんだけど。

86kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
だからさ風通しがいい場所で放射線量はかってもあんま意味ない気もするんだよね。もう地べたの風通しが悪そうな場所ではかんないと。そういうとこが高いんだから。テレビとかで今日の放射線量とか細かくやるわけ?細かくはないね、かなり大まかだよ、細かくは町内会の回覧板とかでやるしかないみたい。

86kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
とりあえずホテルに行って、近くに馴染みの居酒屋があるからそこで飲もうよ。車は代行頼むから。そのへんだとやっぱある程度線量高いのかな?ん−基本的に水素爆発前の三十倍くらいかな?今、俺が頭で計算してみてだけど。もちろん溜まっちゃうとこはもっと高いと思うよ。

86kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
やっぱり電気とかライフラインは全部駄目だったの?ん−場所によって違いはあると思うけど、俺んとこは電気三日、水道一週間、ガソリン一ヶ月てとこかな?やっとこさ家に帰り着いてロウソクの灯で生活するのはまだよくて、水がとにかく貴重で一週間手も洗えなかったのがきつかったね。

86kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
スムーズに流れてんじゃん。だね。でもね、この高速道も地震で被害うけたんだけど、この道が文字通り震災直後の福島の生命線だったんだ。この道を運ばれてくる物資で生きのびた、みたいな。もちろん今でもさ。もう俺が限界だよ。今日は早朝から延々移動し続けてるし、とりあえず落ち着きたいよ。

86kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
帰りの高速は災証があるから無料になるけど、どうかな、みんな無料だと高速使って渋滞してないかな。状況がわからないんだよね、俺も災証貰って初めて使うから。県民一律で貰えるからさ、結構な人が、ま、俺もだけど、ワッと高速に大集合しちゃってる可能性があるんだよね。平日だし、大丈夫じゃない?

86kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
あ、お前YouTube消した?あれ移動したんだ。東京帰ったらアドレスメールするよ。ま、別に新しい曲アップしたわけでもないから無理して聴かんでもいいけど。で、アップして何か世間的に反応あったの?海外から小反響があったよ。ほぼスパムだけど。でも三四人は本当に気に入ってくれたみたい。

86kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
うん、別にやんなくていいと思うよ。んでさ、俺も基本フォローしてる人のツイートを読むくらいなんだけどさ、そこに、リツイートでだったかな?音楽に疲れたらビートルズを聴く、てのがあってさ、我々は疲れているのでしょうか?疲れているだろ。そりゃそうだ(笑)

86kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
ここでいい?いいよ。あ、ビートルズかかってる。しかも中期。あれかね、その再結成てので皆思わず、な、わけないよな。うん、当然好きで聴いてるんじゃない?まあこれは店のBGMだけど。そりゃそうだよね。あ、そういえばツイッターでさ。あれ?やってんの?俺は何が楽しいのかわかんないんだけど。

86kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
今日は車降りると雨止んで乗ると降るな、逆じゃなくてよかった。でも仙台、地震直後の話聞いてたからもっと被害が残っていると思ってたよ。この辺は中心地だからね、復興は早かったよ。それに日本の建物は基本地震には強かったんじゃない?ほー。さて、タン食いますか?タンかね?タンでしょ。

86kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
仙台も津波の被害凄かったんだよね。うん、すぐそこまで被害にあってるよ。そういうのって・・・。わかんないよ、市内も地震直後は混乱しまくってたし、俺はわからなかった。じゃあ、もう本当にわけもわからないうちに津波に巻き込まれた人も沢山いたんだろうね。

85kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
地震ですぐに街全体が停電になっちゃったけど、俺が停めてた駐車場のゲートが手動で開くとこでラッキーだったよ。でも急いで福島帰ろうとしたんだけどさ、道路も被害うけてるし、大渋滞だし、でかい余震は続くし、電話は通じないし、ホントに何が何やら、仙台空港に向かう道には凄い数の警官がいるし。

85kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
雨降ってきたな。じゃあとりあえず仙台に行くってことで。遠いの?んーこのまま六号線北上して四号線に入って二時間くらいかな?仙台も被害すごかったんだよね。うん、地震の時仙台市内にいたんだけどさ、もうわけわからなかったよ。本震だけじゃなくて余震もでかいのが次々とおこってさ。

84kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
でもあれだね、このあたりはまだ道路通行止めって多いんだね。え?ああ、あの看板?あれ違うよ、震災直後に道路を通行止めにして、そのままなんだよ。え?そうなの?だって普通に車通ってるじゃん、看板よけながら。ほんとだ。さて、もう被災地はいいよね、何か車でウロウロするのは悪い気がするよ。

84kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
車の残骸などがあちらこちらに点在していましたが、瓦礫などはかなり片付けられていました。海まで何もありませんでした。松でしょうか?海沿いに何本かたっているのが遠望できました。ひしゃげた信号機を見て、少なくともあんな高さまで水が来たんだと思いました。海水浴場に行くと海は穏やかでした。

84kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
やっぱり道路工事そこここでやってるね。でも道路はずいぶん綺麗になったよ。震災直後はどこも酷かった。で、このままいくと六号線てのにぶつかるんだ。右に曲がると原発に向かうんだけど、その六号線を挟んで向こうとこっちで津波の被害がまったく、もちろん場所にもよるんだけどさ。そこ越えたり。

83kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
ん、ちょっと待って。空き巣ってさ、へたすりゃ高濃度に汚染された盗品がどこかに流出してるかもってことか?物盗りは金になれば放射能は関係ないからね。うーん大丈夫と思いたいね。そんなに空き巣増えてるの?

83kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
このあたりに住んでる人はみんな避難されてるのかな?のはずだよ、でもさ最近は避難した家を狙った空き巣がふえてるんだよね。そうじゃなくてもさ、家とか土地とか財産全部を放射能に汚染されてさ、へたすりゃ全部駄目になるんだよ。除染とか・・・。できればいいんだけどね。

83kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
でも、公表されてるホットスポットは数ヵ所だけどさ、実際は福島市内とかも含めてもっとあるよ、俺ん家とかね(笑)やっぱりそれは自主的に調べてわかったの?ま、俺もそうだけどさ、自分の命が危険にさらされりゃ、誰だって真剣に調べるよね。

83kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
そういえばビートルズ再結成って話あるよね。え!?そうなの!?最近うとくて、でもポールとリンゴでビートルズ?それもなんだかなー。じゃあ再結成しても観たくないか?むちゃ観たいよ。何だよ、あ、このへんホットスポット。ここ?うん。全くわかんないね。そりゃそうだよ、放射能目に見えないし。

83kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
あのさ、俺はいいんだけどさ(カーナビを操作して)海に行くにはここ通るしかないんだけど(計画的避難区域と同じレベルだったかな)放射能の溜まり場になってて今でも高いんだよ。あのクルっと回った円なんてあんま関係ないからね、高いとこは高いよ、マジでいいの?いいよ。

82kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
地元の新聞(だったかな)に身元不明者の情報、服装とか、凄く細かくのってるんだ。毎日、目をこらして読んでたよ。でも、そんな人多かったよ、俺だけじゃなく。とにかく何かわかれば。でもね、あの日は寒かったんだけどね、着ていた服装とかを読むだけでかわいそうになるよ。

82kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
今まで何回くらい行ったの?一度も行ってないよ。ん。震災からは一度も行ってない。その前はよく行ったよ、このへんだと遊びに行く場所なんて限られるしさ。知り合いとかみんな無事だったの?いや。よく飯を食べに行ってたお店の人が消息不明。全くわからず。お店も自宅も海のすぐそばだったからね。

82kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
結局、こんだけ放射能漏れた、まだ止まってないけどさ、その影響なんて、俺ら自身の体で今後あきらかにするしかないんだよね。だってこんな事故今までなかったんだからさ。つうわけで海目指していいかい?いいよ。ホットスポット通るよ。いいよ。ビートルズでいいかい?が、いいよ。

82kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
あとその道、放射線量結構高いから、こう道ぞいに風が原発のほうから流れてきちゃうんだよ。やっぱり普段から放射能は気になるよね?んーでもねー段々慣れるっつうか麻痺してきちゃうとこもあるんだよね、大丈夫じゃないかって、よくないんだろうけどね。でも神経質になりすぎても生活できないしさ。

82kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
あ、最近はグッドナイトが異常に好きだわ。ホワイトアルバムが好きなん?いやそーいうわけでも、で、かかってるのはサージェント、青盤か。うん、このへん、つうか中期ビートルズがどんどん好きになっていくね、で、どうする?んーやっぱり海のほうかな?遠いの?いや、そうでもないよ、山道だけど。

82kumatarou @hansei0923 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く
よ、久しぶり!お、ようこそ福島へ。あれ?五年ぶり?ま、車乗りなよ。あ、ビートルズ。ん、何か聴きたくなってさ。そ、俺もちょうどビートルズ聴きながら来たんだよ。え、何?アルバムだとリボルバーとマジカル、あとはワイルマイギターとかドライブマイカーとかちょこちょこ。


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