浄土平から蓬莱山まで

1.図書館行

とりあえず、「日本の湖沼と渓谷」という本を読んでます

それによると浄土平の西に、古代中国秦の時代、徐福が始皇帝の命を受けて不老不死の薬を求め船で旅立ったとされる蓬莱山(ほうらいさん)て名前の山がありますね。

これは何か浄土平と関連があるのかな?

まあ、不老不死なありがたい()名前ですし、もしかしたら、○○銀座、○○富士見、みたいなノリで日本中いたるところに蓬莱山ってあるのかもしれませんけど。

で、ですね、吾妻小富士から見た、「あっちの煙だしてる山」。
浄土平の北、今も活火山の一切経山(いっさいきょうざん)

ちなみに、この一切経山の名前の由来は、安倍貞任という、最後は中央に敗れたとはいえ、その活躍(反乱)が後の奥州藤原氏の栄華にもつながる東北の武将が、一切経つう仏教のお経をこの山に埋めたという伝説にあるとか。

※テイクのつながりは大切に。ついでに早送りは合成のほうがいいんじゃないか。20180901。


古来、このあたりの人にとって、浄土平周辺はそういう‘域’だったんですかね。


で、ですね、この「日本の湖沼と渓谷」に掲載されている浄土平周辺の地図を見ると、浄土平の北北西かな?烏帽子山て山があります。

烏帽子山・・・
実はですね、今僕が住んでいる佐世保にも烏帽子岳という山があるんです。
ま、そりゃ、○○銀座ほどではないにしろ、わりと全国によくある名前なのかな?とも思います。
ある場所から眺めるとこの山の形が烏帽子のように見えるのだろうと。

ただ、この福島の烏帽子山。
地図を見ると、ここには烏帽子山の前にニセ烏帽子山てのがそびえてるんです。

なんじゃ、ニセって。

ところで一切経山は、いっさいきょうざん、と読んだほうがしっくりくるけど、烏帽子山は、えぼしやま、とよんだほうが(僕的には)しっくりきますね。


浄土平周辺でも蓬莱山は、ほうらいさん、吾妻山は、あずまやまだなあ。実際もそうかな?
まあ、吾妻山は、あずまさん、でもしっくりくるか?
ただ、なんとなくだけど、"やま"より"さん"のほうが、より高く険しい山のイメージを持ちますね。

で、「名山の日本史」によると、磐梯山(ばんだいさん)てのは、天へと続く岩の架け橋、磐梯山(いわはしやま)てのがその名の由来とか。

もちろん一説によると、でしょうけど。

で、浄土平方面から見て、烏帽子山にかぶさるようにそびえるニセ烏帽子山。
ニセってやっぱり偽だよな?
ん~未知だとおもわず烏帽子山だと誤認してしまうくらい似ているのかな?
なら、"似せ"もあるかな?
つうかこちらがニセになった理由はなんだろう?

あれかな?
前より後が本命、真打ち登場!て感じなのかな?
ということはやはり浄土平目線が”域”のスタンダード、おお、浄土平強し!ということなのかな?

ま、単純にこの方向から見ないと烏帽子には見えんということだろうな。
ちなみに烏帽子てのは、平安時代のドラマとかで頭にかぶってる帽子です。

と、「日本の湖沼と渓谷」に掲載されている地図の▲二つをみておもいました。
実際にどんな山かは全くしりません。


でも、烏帽子山は、えぼしさん、というよりも、えぼしやま、といったほうが、僕にはしっくりくるけど、ニセ烏帽子山は、にせえぼしやま、というよりも、にせえぼしさん、といったほうが、発声の落ち着き的にも、僕にはしっくりくるな、と、思い、書いてみたら、にせえぼしやま、も、しっくりきた。

あれかな?磐梯山。昔々、土地の人はみな「いわはしやま」と言っていたのを、唐土に留学経験のあるお坊さんあたりが、「いわはしやま?なんか野暮ったいな、それだったら磐梯山という漢字をあてて、ばんだいさん、てのはどうだ?」みたいなこと言いましたかね?

だって、"やま"より"さん"が、なんとなく高級感。

したがって、僕は"やま"にシンパシー(笑)


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で、「福島県の歴史散歩」つう本を読んでいたら、猪苗代に磐椅(いわはし)神社ってのがありますね。
中世にこの地を治めた猪苗代氏に重んじられたとか。

梯と椅。梯子(はしご)。椅子(いす)。
神社の方は神様にいてもらうから”椅”?




病悩山

さて「名山の日本史」によるとですね。

昔々、磐梯山は病悩山と呼ばれて会津の人々を苦しめていたそうです。
もちろん伝説の話です。

もともと病悩山はさまざまな禍で会津の人々を苦しめていた。
そして今から千二百年前、ついにこの病悩山は大噴火を起こした。
それは一夜にして猪苗代湖を生んだほどの大爆発で、多大な被害をこの地にあたえた。
会津の人達の困窮もここに極まった。

それを京で伝え聞いた空海が遥か会津に下向、秘法を修し禍を除き五穀豊穣を祈願。
そして、この地に恵日寺を建立した。
それ以来、病悩山は穏やかな山となり、会津の人々は豊饒の地で幸せに暮らすようになった。

ちょっと作ってますが、このような伝説(縁起)が磐梯山麓の恵日寺にあるそうなんです。

もちろんこれは伝説で、猪苗代湖の成立は何万年も前であり、空海が会津を訪れたこともなく、はっきりとはしないものの恵日寺を建立したのは空海ではなく、空海や最澄と教学について論争を交わした法相宗の高僧徳一であろう。で、空海の建立という伝説は、後年恵日寺が真言宗に属するようになってつくられたものであろうと。

おそらく実際のところはそういう感じらしく、今昔物語とかにも"得一つう人が恵日寺を建てた"って書いてあるみたいです。

で、"一切経山にお経を埋めたのは安倍貞任ではなく空海だ"
そういう伝承もあるそうですが、これもそのへんの事情からきてるんですかね。


一切経山も恵日寺の影響圏内で、このお寺が真言宗に属するようになってから、ま、そもそも伝説でしょうし、お経を埋めた主役に空海が紛れ込んだ。

それとも逆かな?

たぶんですけど、もともと違う宗派だった恵日寺がいきなり真言宗に属したりはしないだろうし、それはやっぱりその土地として真言宗の勢いが強くなり、その結果、みたいな過程をたどったと思うので。

例えば高野聖が、"実はあれを行なったのは空海その人なのだ"みたいな空海伝説を布教のために創作して広めた。または、それこそ、この地の真言宗の勢いが強くなり、空海信仰も強まり、その過程でそのような空海伝説が発生し広まった。で、その伝説が無視できないものになり、もともと違う縁起を持っていた恵日寺に影響を与えることになった。

と、書きましたが、なんにせよ、こういうことは、くんずほぐれつ、でしょうね。

ちなみに恵日寺を実際に建立したといわれる徳一。
彼は孝謙太上天皇や寵愛の道鏡に対して反乱を起こし敗死した藤原仲麻呂の子であると言われ、当代屈指の名僧であるとうたわれ、その建立であると伝えられる寺は恵日寺以外にも全国に七十以上ある。
しかし、天台宗の最澄との論争に敗れた後はふるわず、その法相宗も衰えて行ったとか。


これは身勝手要約ですが、「名山の日本史」によると、平安以来、神と仏は一体であった。
明治維新以降の一連の廃仏毀釈運動により神と仏を分離、神道のみを国教とし、仏教を排斥。
これにより山岳信仰の場から仏教が排除され、あたかも昔から神のみが信仰されてきたかのような錯覚を現在の人びとに与えていると。

そう、名山とよばれる山には必ず名刹があった。
しかしそれらは消されてしまった。
仏像・仏画など膨大な文化遺産もこのとき失われた。
恵日寺も、境内社の一つであった磐梯明神を磐梯神社として独立させ、住職を同社の宮司にし、恵日寺自体は廃寺とされた。
これらはまさに国家が国家としておこなった愚行であろうと。

ちなみに、この"磐梯"神社は前回出てきた"磐椅"神社ですよね?
そうすると梯と椅の使い分けはあんまり関係ないのかな?
で、大正二年、ようやく廃仏の過剰な熱もさめたということですかね、塔頭(たっちゅう)の一つである観音院が恵日寺の寺名を再興したそうです。(塔頭は本店にたいする支店のような感じでしょうか)

でも、徳一が最澄に負けて法相宗が衰えたというのは、法相宗が衰えたことからの逆流かもしれませんよね、そこに理由を求めると。恵日寺が空海の建立で、都に帰る時に弟子の徳一にこの寺を託したという伝説とともに、栄えたモノが歴史を創る、でもいいですが。

実際は、どの程度かは定かではないですが、徳一は空海が東国に真言を広めることを依頼してきたのを拒否、その教義にたいする疑義を空海にただし、二人は対立関係にあったとか。


でですね、山岳信仰の場であったかどうかはしりませんが、浄土平じゃないですか、一切経という仏教のお経を埋めたという伝説を持つ一切経山じゃないですか、蓬莱山、これは道教ですかね?じゃないですか。
この感じが自然なんでしょうかね。

このブロックの文章、浄土平ではもともとは神道・仏教・道教が混合されていた、ということを言いたいのだと思いますが、ちょっと妙になってますね。浄土を神道と思っちゃったのかな?
おそらく、日本の現在の山岳信仰は神道のみ、そしてそれは浄土平にも存在する、という自分だけの前提が頭の中にあり、それでそこをすっ飛ばして書いてしまったのかもしれません。
ちなみに、当時も今も、浄土は仏教における天国のような場所だ。
そう言う認識です。(2013/11/07)




此土浄土

王朝時代末期、極楽疑わしくば宇治の平等院を敬え、と当時の人は言っていたそうなんです。
平等院こそ此土(しど)浄土、この世の浄土であると。

で、奥州藤原氏の本拠地平泉の無量光院はこの平等院を模して建てられている。(現存せず)
平泉文化は都の此土浄土をみちのくに再現した。

そして奥州は当時唯一と言っていい金の産地であり、実質的奥州支配を確立した藤原氏はそれを自由に使うことができた。平泉の諸堂塔はすべて金色に輝いていた。

それは都にもないものだった。

それらは自らの富を誇示するというよりも(それも当然あったのでしょうが)、この時代に流行した浄土教文化の”皆金色(かいこんじき)”、黄金でこの世に浄土を再現するという意図で建立されたものだった。


"この世はすでに末法(まっぽう)の時代に入った"

末法。
釈迦入滅からあまりにも時が経過し、もう正しい教えが行われなくなった時代。
自然災害、戦乱、疫病、この世が禍に覆いつくされる時代。


最初は都の貴族だった。
この時代、平安末期、変革の時代、彼らはそのような考え、不安におそわれていた。
そう、この時代は来るべき変革がその姿をあらわしてきた時代だった。
しかしそれはまだはっきりとしたかたちに定まっていない。

この考えは貴族以外の人たちにも急速に広まった。
そして、人々は魂の平安を求めはじめる。

"こんな世はいやだ。釈迦や仏が住むという浄土、皆金色、そのすべてが黄金色に輝いているという浄土、すべての苦悩から解放されるという浄土、私はそこに往生(生まれ変わり)したい"

で、清衡以下の奥州藤原三代がミイラとして平泉の金色堂に葬られているのも、此土浄土、浄土をこの世に再現するという思想からくるのだろうと。法華経の功徳で此土浄土が実現したとき、ミイラとして眠っている自身が浄土に、したがってこの地上に、仏として生まれ変わると。

そういうことですかね?
そうなると平泉は浄土を現世に呼び寄せる呼び水として建設されたのかな?

ちなみにこの文章は高橋富雄さんの「奥州藤原氏」を参考にして書いています。
その中の一文で

『藤原氏は(略)地上極楽の実現を待つべく入定相に肉体をとどめ、永生を続けておいでなのである。あるいは(略)往生を終えた入定相にかくおわすのであるかもしれない』

高橋さんはこのように書かれています。
正直、その言葉の意味が難しくてよくわからないトコもありますが、高橋さんのこの表現の仕方、いいですよね。


で、話が一転、というか、ここに結び付けたかったわけですが。


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"随分荒涼としているところじゃないか"

と僕が思った浄土平なんですけどね。
ほら紅葉て、そりゃ紅もありますが、やっぱり黄金色じゃないですか。
ほんとうに秋には紅葉が綺麗なところらしいんですよ、浄土平、磐梯吾妻スカイラインは。

たぶん"皆金色""此土浄土"て感じで。

それと浄土平の蓬莱山。
蓬莱山は徐福が不老不死の薬をもとめて旅立った目的地。

不老不死。
此土浄土、現世の浄土。

思想的に無関係かな?




権現

「名山の日本史」によると、日本古来の神々と仏が一体だったころ、名山には寺院が建立され、そしてともに神がまつられていた。

"仏教の神社に日本の神様、なんか変じゃないか?"←変だ(笑)。20180901。
"いや、ちがうのだ、実は日本の神様もその真の姿は仏や菩薩なのだ。"

"それはこういうことだ。
いいか、仏の教えがどんなに人々を苦しみから救う素晴らしいものであるとしてもだ。
結局それは人の手によって伝えられるしかない。
そして日本は仏の教えが生まれた天竺から遥か彼方、海もある、どうしてもその伝来は遅くなる。"

"ではその間、うん、そりゃしょうがない、と仏は我々の苦しみを放っておくのか?
まさか、そんなことを仏がなさるわけがない。"

"そう、仏は我々を苦しみから救うために、その伝来のはるか以前から、日本の神という権(かり)の姿で我々の前に現れていたのだ。すなわち権現として。"


どうも、このような感じだったみたいです。

で、記憶頼りで不確かですが、これはキリスト教日本伝来最初期の話。イエズス会の人達が自分たちの唯一絶対神を、やおよろずな日本人に説明しようとして、ゴッドを大日如来と訳し、結果、仏教の新しい宗派がやってきたという勘違いが発生。ある種、唯一絶対神の権現化が起こっちゃったという話となんとなく通じているような・・・


で、上記は建前として。

権現というくらいなので、何か仏さまが海を渡ってドカドカと日本に乗り込み、日本古来の神さまを無理やり力で押さえつけたような感じもします。でも侵略者(笑)の仏さまが神さまを滅ぼさずに身内に取り込み、仲良く千年は共生したかと思えば、悪くない風景な感じもします。

ま、もともとは蘇我だ物部だと、上のほうでの思惑が戦争しちゃうくらい入り乱れまくったんでしょうが、一応日本人みずからがそれを選んだわけですし。

もしかしたらあれですかね。
廃仏毀釈を進めた人たちのなかにもあいつらは侵略者だという思いがありましたかね。
当時の国際情勢にそのまま重ねちゃったり。


そうそう、八王子の先の高尾山。(東京目線で)
僕も東京に住んでいる頃はよく初日の出を見に元日に登ってました。
山頂付近にお寺があり、関東一望、富士山も望め、いいとこです。

当然、この高尾山にも維新とともに廃仏毀釈の嵐はやってきたんです。

これも記憶頼りですが、戊辰戦争時、甲州勝沼で壊乱した新撰組の人達が潜伏したのが高尾山周辺の山々だったような。また、新撰組の故郷、八王子同心など最後まで徳川側についた人たちの本拠地として、そのあたりはもともと新政府に睨まれた土地だったような気もします、もちろん高尾山も。

で、その高尾山にも飯縄権現という"日本の神"はちゃんといました。

もともと睨まれているお寺です。
廃仏毀釈のパターンとしては、飯縄権現が神社へ昇格?そしてお寺は廃止。
そんなもんだと思います。


しかし高尾山のお寺は(このお寺、正式な名前を知りません。"高尾山"で高尾山のお寺を指す、そう思ってもらえれば)

話をもどして、しかし高尾山は、その廃仏稀釈の嵐がくる前に飯縄権現の名の使用をやめ、鳥居も撤去、跡地には石灯籠を建立、仏のみの寺に(表向き)なったそうなんです。

そして神社ではなく寺として生き残り、廃仏毀釈の嵐が過ぎ去った後、といっても大正十五年、ひそかに堂宇(どうう)の一つとして守っていた飯縄権現の名を復活、鳥居も再建、もしかしたら実質はずっとそうだったのかもしれませんが、見事に神と仏が共生する山岳信仰の場にもどったそうです。


で、ふと思いましたが、ゴッドの権現化ではなく、大日如来の権現化か?
ま、くんずほぐれつで()








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