3.絶望の時代
Ⅰ:安土桃山
「駿府江戸」てのもその互いの長さの比率から無理ありすぎか?
『神話はけっしてすくないとはいえない。
もちろん、僕の大きな記憶違いで、これは坂本さんのお話ではなかったかもしれませんが、すくなくとも中国の老大人の話で「毛さん」「皇帝」「よかった」の三つのキーワードが出てくる話を以前読んだとおもいます。
×「相模湖」→"lake・sagami"
で、そこからライシャワーさんが導き出された↓は、「あ、そうか!」と僕にはコロンブスの卵でした。
でも、たとえば、曹操が袁紹との事実上の天下分け目の決勝戦「官渡の戦い」に勝利し、当時の人口密集地帯、いわゆる"中原"をおさえたのは西暦で200年ころ。
つまり500万なら500万の人口を保てる分しか食い物がない。
でですね、あくまでも、僕が先に引用した文章"のみ"、それ"のみ"、から、思ったことなんですけどね。
「安土桃山」てのは、まあ、時代区分のジャンルとしてはざっくり"文化様式"ですよね。
と、書いた、僕の頭の中には、大河ドラマとか漫画とかでかつてみたであろう、「出雲の阿国」がぼんやりと浮かんじゃっています。
「安土桃山」=「出雲の阿国」
これ、いいんですかね?
はさておき、「安土桃山」てのはまあ時代区分のジャンルとしてはざっくり"文化様式"ですよね。
鎌倉・室町・江戸の時代区分のジャンルを"首都"とするならば。
でもですね、鎌倉・室町・江戸の時代区分を"首都"というよりも"時の権力者の居場所"とするならば、「安土桃山」もそうなりませんかね?
「安土」はもちろん「安土」、信長さんの居場所。
で、「室町」てのは足利さんちがあった京都の一地区名ですよね。
「鎌倉」にももちろん源さんちや北条さんちがあって。
で、「桃山」てのは伏見とかあのへんですよね。
で、権力者になってからの秀吉さんて結構伏見城にいたんですよね、大阪城ではなく。
お亡くなりになったのも伏見城で、ではありませんでしたか?
ん?
でもそうすると、実権握ったまま隠居した後の家康さんち「駿府」の存在がネックになるか?
鎌倉・室町・安土桃山・駿府・江戸、とせんといかんようになるか?
まあ「駿府」だけではさすがに短いか?
つうてもさすがに「桃山」と「駿府」の間には"関が原"が横たわっているから「安土桃山駿府」とするわけにはいかんよな?
そもそもイメージで書いちゃったけど、駿府に隠居後の家康さんは権力握りっぱなしだったのかな?
Ⅱ:安土駿府
さて、いつ「安土桃山」という時代区分ができたのかは(僕がそれを知る努力をいっさいしないため)知りません。
が、「桃山」の秀吉さんはまごうことなき天下人。
しかし「安土」の信長さん。
彼は現実には日本の中央部分を支配したにとどまった。
しかし、その信長さんを"時の権力者"であったと認識する。
それこそ第二十七代日本国将軍であったと認識する。
これは別にシーボルトさんでなくても、たとえば現代の日本人としてもイメージとしてすごく自然な・・・
あ!
そうか!
だから「安土桃山」か!
一つの時代を、精神を、「安土」がはじめ、志なかばに未完で終わり、引き継いだ「桃山」がそれを完成させたってことか!
であるからこそ「安土」「桃山」と切り離すわけにはいかんし、「安土桃山駿府」とできるわけもないってことか!なるほどな!!
と、今日も元気に謎の自問自答をしてみました。
で
再登場。
あのですね、でもですね、例のですね、家康さんの思ひ出の殿方が信長さんだった~て話。
えっとですね、そうするとですね、秀吉さんはですね、家康さんにとって愛しい人の果実をすべて奪い去った憎んでも憎み足りない男ですよ。
と
考えると
まるで昼メロのような「安土」「桃山」「駿府」によるドロドロの愛憎劇が!!
何よ「桃山」って!!あなたなんて「安土」には不釣合いなのよ!!ほんとうに「安土」のことをわかっているのは私なのよ!!そこどきなさいよ!!
で
結果
「安土駿府」
みたいな。
Ⅲ:さすがにこれは無茶苦茶です
陳舜臣さんの「小説十八史略(一)」の冒頭にですね。
『人間。ただ人間。ひたすら人間を追及する。これが古くから中国人の史観であった。
だから(中国には)神話がすくないのだ、という人がいるかもしれない。
だが、これには異議がある。』
ただ歴史の記述者が、自分たちの著書から、できるだけ神話を削ったのである。
とくに儒学が中国の思想界を牛耳ってからは、その傾向がはなはだしい-怪力乱神を語らず、というのが、孔子の姿勢であった。』
でですね、またもや↑を読んでパッと思いついたことなんですけどね。
いつものように陳舜臣さんとは一切無関係な僕の適当話なんですけどね、ざっくりいきますよ。
あれですよ、「覇者・王者・始皇帝」=「人・人・神」ですよ。
え~と、儒教(学)が読んで字の如く国としての教え、国教(学)になったのは前漢の武帝の時代でしたかね。で、それは清まで続きますよね。で、儒教(学)には多くの優れた面があるものの、"怪力乱神を語らず"に象徴されるように人の好奇心というものを否定するトコがあり、そしてそれは思想的停滞を生み・・・
ではなくてですね、あれですよ、「覇者・王者・始皇帝」=「人・人・神」ですよ。
つまり、「春秋戦国」は"人の歴史"、「始皇帝」以降の皇帝の時代は"神話"なんですよ。
中国史は思想的に動脈硬化した儒教国教化以降より「春秋戦国」時代のほうが、歴史を過去にさかのぼるほど、その史書にあらわれる人物の思想行動が現代人と相通じるとこがある、という話を聞きますが、そりゃ当然なんですよ。だってそれは"人の歴史"だから。
歴史をくだるにつれ、人が人である輪郭がぼやけてくる。
今からみて人物の思想行動がよくわからなくなってくる。てのも当然なんですよ。
だってそれは"神話"、神々の時代なんだから。
ほら、その証拠に「三国志演義」や「水滸伝」をみなさいな。
アキレスやクロノスやプロメテウスたちが元気に駆け回っているではないですか。
↑はい、「三国志演義」も「水滸伝」も「ギリシャ神話」も(ちゃんとは)読んだことないです。今後も読む予定、今んとこないです
(※「三国志演義」は"現代的な"訳ですが、それをもとにした、ではなく、「三国志演義」を最近ちゃんと読みました。ものすごくおもしろかったです・2013/12/01)
で、陳舜臣さんの「小説十八史略(一)」を読み進んだ結果
「安土」=「春秋」=「覇者」=「信長」
「桃山」=「戦国」=「王者」=「秀吉」
これ
「安土」=「春秋」=「覇者」=「信長」
「桃山」=「戦国」=「下克上」=「秀吉」
としたほうがいいですかね?
斉藤道三さんや織田信長さんも「下克上」ちゃあ「下克上」なんだろうけど、真の意味での「下克上」は豊臣秀吉さんですよね。
(※日本では下克上という言葉は15世紀後半からの戦国時代を象徴する言葉です。
それまでの貴族の地位を、その家臣、または浪人が乗っ取る。
で、この言葉はもともとは中国のこの時代の言葉であるという説明がこの小説の中にあったはずです。
で、それをもとにしてこの図式を書いたんだとおもいます。
ただし、今となってみると、自分が何を意図して書いたのか、よくわかりません・2014/06/19)
Ⅳ:ぽんぽんぽんと
というわけでですね、そんな神話の時代もラストエンペラー"愛新覚羅溥儀"をもって終了したと。
でですね、これは坂本龍一さん₍ゴミ処刑以下同文₎がラストエンペラーの撮影で中国に行ったときに聞いた話、だったような気がします。ただし、例によって記憶頼りなので、まったく違う可能性も大です。だからそのつもりで読んで欲しいです。
たしか坂本龍一さんがラストエンペラーの撮影で中国に行ったとき、普通の農民に聞いた話だったと思うんですが・・・
「毛(沢東)さんが皇帝になってくれて本当によかった。毛さんが皇帝になってから飢えるということがなくなった」そういう話を聞いたと。
で、ちょっとあやふやな感じで話を続けますが。
やっぱり、今の人ではなく、中国革命以前の空気も皮膚感覚で知っている人には、知っている庶民の人には、毛沢東さんのことを「皇帝」と捉える人も多かったんですかね?
で、そういう人たちは正直イデオロギーとかはワキに置いといて、とにかくもう毛さんが天下とってからは飯が食えると、少なくとも毛さんは国民に飯を食わせたと、人間飯食わんと死ぬぞと、この圧倒的なリアリティと、よかったではないかと。
もちろん"今の"話ではないですし、もちろん時と場所によっては例外も、もしかしたらかなり深刻な例外もあったでしょうけど。
でですね、これは司馬遼太郎さんのご本で読んだのは間違いないんですが、それがいったいどの本だったかわからないんですね。だからこれも僕の記(略)なんですが。
たしか司馬さんが中国滞在時に、中国革命の元勲の一人、廖承志(りょうしょうし)さんに聞いた話だったと思います(まったく違う人の可能性もあります)。
で、たしか廖承志さんの文化大革命発端時の思い出として、廖さんの部屋に、たしか劉少奇(りゅうしょうき)さんがあわてて飛び込んできて(これは、まったく違う人の可能性高いです)。
「大変だ!皇帝が宮殿に宦官を引き込んだ!」と。
いつものように、僕の大きな記憶違いで、それは廖承志さんのお話ではなかった、劉少奇さんのお話ではなかった、かもしれませんが、すくなくとも「皇帝」「宦官」の二つのキーワードが出てくる話を以前読んだ記憶が確かにあります。
でですね、もちろん「皇帝」は毛沢東さん、「宦官」は四人組さんなんですね。まあ、だから、毛さんの「皇帝」というのはニックネームではないですが、結構みんな(たぶん本人がいないとこで)そう呼んでいたんですかね。
わかりやすいということで。
でですね、これは柄谷行人さんのご発言の抜き出し引用なので書いてあるのは確実です。
ただし無責任抜き出し引用。
『批評家っていうのはやっぱりほうっておくとすごい権力意識があるんですよ』
『テクストを解放するなどといっても同じだね。解放する人は支配するのだから』
『文芸批評家の権力意識っていうのはものすごいわけ。普通の政治家よりも格段に強いです』
『中国における文革は何をめぐって発生したと思いますか。文芸評論をめぐってだ』
Ⅴ:まあ僕のしょっぼいヒアリングなんでアテにはなんないですよ
いやいや、確かにおかしな兆候は以前からありましたが、ついにPCの電源自体が一切入らなくなりました。さてはてどうしたものかと思いましたが、別にPC無いなら無いでいいやと思ったまま放置しようかとも思いましたが、電源ユニット(5cm四方くらいかな)を交換したら復旧しました。
まあ考えてみたら、ケースをのぞけば、この電源ユニットが我が家の自作PCを最初に作ったときから使用している最後のパーツでしたので、そりゃくたびれていますわね。
これでとりあえず問題解決かな?そう願いましょう。
んでもって、最近ちょっと個人的に「へ~」と思ったことなどを。
「高尾山薬王院」→"takaosan・yakuouin・temple"
これは何となくわかります。
で
×「浅草寺」→"sensou・temple"
○「浅草寺」→"sensouzi・temple"
こうなるのね。「浅草寺」寺みたいな。
んで
○「相模湖」→"lake・sagamiko"
「相模湖」湖と。
ということは
「鎌倉市」→"kamakurashi・city"
「鎌倉市」市だろう。
とおもいきや
「鎌倉市」→"kamakura・city"
なんですよね。
まあ鎌倉は「鎌倉市」より「鎌倉」の方が通りがいいからこれは当然なのかな?
いえね、これはたぶん、来日中の日本語の知識があまり無い人たちへの、観光地説明の場合限定の話なんだろうとは思うんですけどね。
ん?
"temple"は「てら」だろう?
"lake"は「みずうみ」だろう?
おいちがうのかい?
何だ?
「じ」が"temple"?
「こ」が"lake"?
そんなんきいとらんぞ。しらんぞ。わからんぞ。と。
そんなら、"sensou
temple" "lake sagami"として妙な混乱おこすより
"sensouzi
temple" "lake sagamiko"と言い切ったほうがざっくりわかりやすいだろうと。
ああ「市」はあくまで「し」じゃないですか。
そりゃ"kamakurashi
city"とするよりも、"kamakura
city"としたほうが混乱しませんよね。
みたいな。
以上、最近個人的に「へ~」と思ったことでした。
↑ええ、当然、適当適当。
でも実際の浅草寺にはどう表記されてるのかな?
"sensouzi
temple"?
"sensou
temple"?
ん~単に"sensouzi"か?
何気に"sensou
temple" "lake sagami"と言うと、「お!通だね!」みたいな感じがあったりして。
↑ええ、当(略)
Ⅵ:これは太平洋戦争という文化パラダイムの衝突の結果ですかね?
不完全きわまりないけれど、無意識のうちにメタ・ランゲージを志向するみたいな
さて、ここでエドウィン・O・ライシャワーさん著「ライシャワーの日本史・JAPAN
The Story of a Nation」(國弘正雄さん訳)からの引用を。
『中国の文字は、長い期間にわたって、しかも、さまざまな方言地域から日本に入ってきたため、日本では、一つの漢字が二つ以上の発音をもつということもめずらしくないのである』
『漢字は、中国からの借用語にだけ使われたのではなく、同じ意味をもつ在来の日本語にもあてはめられた。たとえていうならば、waterに相当する「水」という漢字を、英語のwaterの代わりに使用し、しかも、aquaticの構成要素であるaquaのかわりにも使おう、というようなものである。』
『中国語としての漢字は、いくつかの異なった日本語の意味をあわせもっているものが多い。』
『たとえば、中国語shangは漢字で書くと「上」であるが、日本語では最も普通に使われるものを挙げただけでも、ウエ、カミ、アガル、アゲル、ノボル、とさまざまな読み方になる。あたかも、「上」が英語でon、above、upper、to
mount、to
presentの同義語として使われるようなものである。』
『(漢字を使用した技術用語・学術用語など)合成語は日本にひじょうに多いが、北ヨーロッパでも、地中海言語を語源にして、terephoneのような新造語がつくられている。』
『まことに具合のわるいことには、このようにして中国語からつくられた(日本の)複合語には、同音異義語が多い。はやい話が、普通の国語辞典の一冊を開いてみても、コーコーという発音をもつ漢語風の言葉がずらりと並んでおり、その数は二十を下らない。』
『現代では日本語の新語や古い言葉の代替語が、より異質な英語から盛んにとりいれられている理由の一つがここにある。』
でも、そのきっかけはやっぱり敗戦・占領ですかね?
別にそれがなくても、縮んでゆく地球、結局ソッチに流れて行きましたかね?
つうか1940年前後の日本がちょっと特殊なだけで、幕末の開国以来そもそも日本にはそのケがありましたかね?
これは太平洋戦争という文化パラダイムの衝突の結果ですかね?
不完全きわまりないけれど、無意識のうちにメタ・ランゲージを志向する、みたいな。
つうか地球の"袋小路"として、そもそも日本には昔から"メタ"に対する憧れがありましたかね?
なんならその可能性も。
つうか海、そう海、日本をぐるりと取り囲んでいる海。
この海って早い話が"メタ"そのものじゃないですか。
(※?・2014/06/19)
Ⅶ:基本、陳舜臣さんの「中国の歴史(三)」の中の文章で構成されています
さて、アキレスやクロノスやプロメテウスたちが元気に駆け回っている「三国志」。
の呉の国。
その版図は最大時で揚子江沿岸から現在の広東、さらにベトナム北部まで、荊、揚、交、広の四州、四十三郡、三百十三県、面積だけなら蜀をあわせる前の魏にほぼ匹敵と。←ちなみに今の日本とは逆で、県より郡が大きい
ただし、人口は少なく、蜀をあわせる前の魏のほぼ半分くらい。
そのため呉の初代皇帝孫権は、即効性の人口増加政策として、海の彼方、夷州(いしゅう)及び亶州(たんしゅう)と呼ばれる島(琉球・台湾・日本諸説アリだとか)に兵一万人での"人狩り"遠征を実地しています。
が、亶州は遠すぎてたどりつけず、なんとか夷州の人たち数千人を連れてかえるも、これは疫病によるものと推察されているそうですが、遠征軍十人のうち八、九人を失うという多大な人的損害をだし、結果は失敗といっていいものだったそうです。
で、その呉の滅亡時。
すでに蜀をあわせた魏も晋にとってかわられていましたが、四代皇帝孫皓が晋に版図を献じたとき、呉の戸数52万、男女人口230万であったといわれているそうです。
ちなみに晋は人口550万、つまり中国全土の人口が800万そこそこだったと。
ほ~現在人口十ン億の中国も(単純に"中国"の規模の違いをおいといても)三世紀中ごろはそんなもんだったんだな。
産業革命以降なのかな?
やっぱり地球の人口は近代になって物凄い上昇曲線を描くようになったのだな。
と、おもいきや
「漢書」の中の「地理志」によると、前漢の時代、平帝元始二年(西暦2年)の中国全土の人口は、5959万余。しかし前漢滅亡時の戦乱を経たせいでしょう。後漢初代皇帝光武帝が死んだ建武中元二年(西暦57年)の人口は半分以下の2100万余と激減。が、後漢成立後は”基本的に”太平の世。第十代質帝の死んだ本初元年(西暦146年)には、それが4756万余まで回復する。
で、それから約140年後、晋が天下統一した時点での中国全土の人口は800万そこそこ。
4756万余の人口が800万そこそこ。
いや、後漢滅亡のきっかけとなった黄巾の乱が勃発したのは西暦で184年。
本初元年の40年後なので、その時点での人口はもっと増えていたことでしょう。
つまり5000万前後の人口が100年で800万そこそこ。
いや、最初は僕も800万といってもそれは長引く戦乱のせいで人口が流動的になり行政組織も弱体化、単に正確な人口調査ができなかっただけじゃないの?と思ったんです。
本当はもっと人口多かったろうと。
これは呉の滅亡の80年前。
で、この80年間、"中原"はそれなりに平和、そこまで大規模な戦争はおこっていないと思います。
これは乱世に翻弄された普通の人たちが、少しでもと平和や治安をもとめて集まってくるには、そこに定着するには、十分を通り越した期間だと思います。
それに後漢から続く行政組織が復旧、正常に機能しはじめるにも十分を通り越した期間だと思います。
(ノウハウは各”英雄”のトコに残っていたでしょうし)
それに、なにより、たぶんですが、どの国でも戦争をするには、作戦計画を立てるには、徴兵にしろ輜重にしろなんにしろ、自国の人口の把握が一番大事な気がします。
時は乱世、人口調査をいい加減にやったとは思えず、かなり厳密に調べた気がします。
『三国の乱世は(略)けっして光彩陸離たる時代ではありません。獣性がこの世を支配し、光のとぼしい、絶望の時代だったのです』
※当時の人口とはいわゆる”市民”、ローマ帝国的なものかもしれませんが、それとしても、で。20180829。
Ⅷ:五百万というのは流石に極端ですかね
さて、5000万前後の人口が100年で800万そこそこに。
つうても、晋による中国統一当時のこの800万て数字は、実はこれでも結構回復してきている数字だと思うんです。黄巾の乱から董卓の乱、でもって官渡の戦いってあたり、西暦180~200年あたりが、想像ですが一番人口の落ち込みがひどかった気がするんです。とくにその舞台となった"中原"の落ち込みが。
で、(あくまで僕の想像をもとにですが)もしも20年の戦乱で5000万の人口が500万へとかなら。
日本の人口て今、1億2000万でしたっけ?これが20年で1200万とかになったら。
こりゃ地獄ですよ。
やっぱりあれですかね。
天の声ではないですが、これは食糧事情。
確かに5000万の人たちがいた。
現にいる。
でも現状5000万人分の食い物がない。
だって食い物を作る人たちは戦争にとられ、戦争に殺され、戦争を逃れ、みんないなくなってしまったのだ。
では何人分ならあるのだ?
500万人分だ。
ああそうか、ならしょうがない。
人口を500万人に調整しようではないか。
なに、ほっといても人間飯食える範囲に自然に落ち着くさ。
なんといっても食い物がないのだからな、無い袖はふれんよ。
ほらみてみろ、あそこの数少ない食い物をもとめて戦争がアチラコチラからやってきてるではないか。
ああ、あそこはもう戦争をする元気もないか。
いや~いろんな人間模様があるね~。
みたいな感じで20年で4500万人消滅。
こりゃ地獄ですよ。
で、これはあくまで冗談なんですけどね。
4756万人が800万人へ。←ここはちゃんとした数で
つまり1億2000万人が2018万人へ。←だいたい
ほら、歴史が証明しています。
人口の減少は十分とりもどせますよ。
ええ、もちろん冗談それ自体の質とは別に、この発想は"人"を"人"と認めない、きわめていやらしい考え方だと自分でも思います。
※人肉が重要な栄養補給源という憐れな連中”系”限定で。20180829。
※まどろっこしいのは嫌いだ。20180829。