3.重力シンパシー
Ⅰ:美人薄命
美人薄命。
佳人薄命。
実際の言葉の意味はおいといて、僕がこの言葉を聞いて、文字を読んで、ぱっと連想するのは中国の歴史上の女性ですね。
項羽に愛された虞美人とか、玄宗皇帝をその魅力の虜にし、結果傾国の美女となった楊貴妃とか。その数奇な運命に翻弄された女性の人生の悲劇性は強く心を打ちます。
もちろん民衆的視点という見方をすれば歴史は違った風景を見せ、違った感慨も浮かぶだろうけど、ここはロマンチックにいこうじゃないですか。大丈夫です。ロマンチストは非常に異常に鬱陶しくはありますが、それ自体、別に犯罪ではありません。
そうそう、世界史を広く見渡せばクレオパトラさんやマリーアントワネットさんもいますね。
ただクレオパトラさんやアントワネットさんの人生の結末は確かに悲劇的かもしれんけど、僕的にはわりとこのお二人は"人生やったった感”があるんですね。
あんまり薄命な感じがしないんです。
「我が人生に一点の曇りなし!」というか
「女子の本懐」というか
自分の意思で生き抜いた。
よく生き、よく死んだ感じが僕の中にはあります。
たとえ嘲笑や怒声の中、ギロチンの露と消えたとしてもです。
なら「香炉峰の雪いかならむ」の中宮定子さまはどう?
中宮定子さん。
藤原定子さん。
清少納言さんの宮仕え元の一条天皇の皇后さま。
う~ん。
儚げな感じは凄くする女性だけど。
心が清らかな優しい女性みたいだし。
あくまで枕草子を(教科書とかで)読んだ感じでは、だけどね。
ただ美人かどうかまでは・・・
がだ!!
まあなんのかんの言っても美人かどうかなんて最後は個人の"好み"ですよ。
僕には僕の"ツボ"がありますよ。
どんなに他人に「!?」と言われても"ビビッ!"ときたもんはどうしようもありませんよ!!
最後は思い込みだ!!
だから人生は素晴らしいのだ!!
という無茶なまとめで今回もスタート。
Ⅱ:貴人に情なし
「馬鹿ね!パンが無か?そいならケーキば食べればよかたい!!」
と言ったといわれるのはマリーアントワネットさんでしたか。
それを遡ること何年でしょう。
中国は晋の時代。凶作で穀物が不作になり、貧しい人達が食べる物がなく苦しんでいるという話を聞いた帝国二代皇帝・孝恵帝が「え~そんならさぁ、貧乏人は肉を食えばいいじゃん」と言ったとか。
どうなんでしょ?
古来「貴人に情なし」とはいわれていますが、生まれてこの方まわりにかしずかれた生活しかしていなかったら、まあそうなっちゃうのも当然かもしれませんし。
お大名(旗本?)レベルでも「目黒のさんま」てのがありますし。
落語の噺ではありますが。
本当にそういったのかな?
アイツならそういってもおかしくはないとイメージで未来永劫いいがかりをつけられてんのなら、ちょっとかわいそう。
Ⅲ:王妃マリー・アントワネット
内容はすっかり忘れてしまいましたが、ずいぶん前に一度読んではいるんですけどね。
遠藤周作さんの「王妃マリー・アントワネット」上巻を読み始めました。
これもご縁ですかね?何かここんとこ妙に本棚のこの本と目?が合いまして。
どうも「私を読め!」と言ってるみたいだと...
ま、「フランス革命史」みたいな学術書をいきなり読むより、そこらへんがスンナリ、表情豊かに頭に入ってくる気もするので、いいのではなかろうかと。
では、そういうわけで、少々、(事実上の)オーストリア女帝マリア・テレジアさんの娘としてこの世に生をうけ、現在、「万歳、我々のプランセス!」という民衆の祝福と歓喜のなか、フランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュストさんの皇太子妃として迎え入れられた、マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌさん14歳の数奇な運命の物語の中へ行ってまいります。
はい、まだ全然序盤です。
Ⅳ:佳人薄命
でも考えてみれば、数奇な運命の物語の中にしか佳人薄命は存在し得ないですよね。
そうそう、アントワネットさんが結婚前にお母さんのマリア・テレジアさんにいつも繰り返し言われていたという
「いいですか。仏蘭西に行ったら、皇太子妃として次のことだけはお守りなさい。」
「政治に干渉しないこと」
「他人に余計な世話をやかないこと」
「この二つさえ守っていれば、あなたは誰からも憎まれません」
ての。
もちろんこれはあくまでも長いこと相争い続けてきたかつての敵国オーストリアからフランスへ、両国の末永い友好の象徴としてやって来たプランセス(て小説上の表記、ちなみに)の心構えっつうことでしょうが。
この言葉は作者である遠藤さんの創作ですかね、やっぱり。
ただマリア・テレジアさんはその生涯で16人のお子さんをお産みになったのかな?
で女子としては末っ子になるアントワネットさんのことは、アントワネットさんがフランス皇太子妃となってからも本当に心配で、度々その日頃の行いを諌める母親としての手紙をフランスに送ってたみたいですね(現存してます)。
もちろんそこには母親としての娘への愛情以外にも、というかそれ以上に、両国の(政治的)友好の確保という政略的意味合いがあったのでしょうが。
遠藤さんの創作かもしれないけど、上の言葉も早い話が「お前の人格ではなく、お前の存在、ただそれだけがオーストリアとフランスの友好には必要なのだ。お前はフランスに行ったら人形としてただただニコニコしていればいいのだ。それ以外の行動は一切するな」てな感じですし...
う~ん、でもそれこそが母親の愛情かなぁ。
何と言っても女帝マリア・テレジアですからね、政治や宮廷の化け物のことは誰よりもわかっていたでしょうし。
選ばれた者の不幸。
それでも何とか幸せになって欲しいと。
そのためにも人形でいろと。
Ⅴ:臨界点
世の矛盾が臨界点を越えようとするとき、どこまでも善良な絶対権力者は、それ自体が罪なのでしょうか?
つうか、当時のフランスの財政の破綻はアメリカ独立戦争に肩入れしたとこから?
それとも根源的にもういろいろシステムとして無理がきてたの?
適当に書くけど、当時欧州で一番文化的に爛熟していたフランスだからこそ、その矛盾が一番早く表面化してきたの?耐えられなくなったの?
で”人道的な処刑方法”ということでギロチンの開発を最終的に裁可したのは、後にそれで自身が処刑されることになるアントワネットさんの旦那さんルイ16世さんつうのは史実?
そもそも統治システムはどんなんなん?
政治家はいたの?官僚のみ?全部貴族?
政府と王の関係は?軍と王の関係は?貴族と王の関係は?民と王の関係は?「朕は国家なり」って方もいたけど王によってそのパワーバランスは違うの?それともあくまで法遵守?そのあげく身動きとれず、これといった改革もできず、矛盾は臨界点を越え、おびただしい血を流す事になる革命へとなだれ込んでいったの?
んで、それはよかったの?
というわけで、遠藤周作さん「王妃マリー・アントワネット」下巻へ。
マリー・アントワネット・ド・フランスさん。ん?現在彼女はお幾つだ?の数奇な運命の物語もいよいよ革命の渦の中へと!
かな?
Ⅵ:わたくしたちは最後まで、心をちゃんといたしましょう
革命後、狂気と殺戮と暴力の紆余曲折を経て、国民議会により一市民として”タンプルの塔”に幽閉された、ルイ16世国王御一家。
「わたくしたちは最後まで、心をちゃんといたしましょう」
「これはもう運命だと考えるようになりました」
「わたくしたちが国王であり王妃なら、立派に、潔く、この運命を引き受けようと、美しさと優雅とを・・・守り・・・」
と、心に秘めたプラトニックな恋の相手、スエーデン貴族フェルセン伯爵による、これが最後の機会になるだろう救出計画を自ら断わったアントワネットさん。
いよいよ物語りも佳境に入ってまいりました。
はたしてその行き着く先、罵声と嘲笑の断頭台に僕は「人生やったった感」をみることができるのか!?
ご期待は、請いません
Ⅶ:Tutto a te me guida(なべては我をおん身にみちびく)
死が続いております。
あくまでパリの一市民、ルイ・カペーさん。
「人は罪なきものとしては王たりえない」と言うのなら、ルイ・カペーとしてではなく、フランス国王ルイ16世として処刑すればいいのに。
この善良すぎた小太りの男を。
もちろん、それはどちらにしろ形式的なものだし、そもそも僕の知る情報は現在この小説のみだけど。
1792年8月10日 革命広場にてルイ・カペー処刑。
Ⅷ:革命
『レボリユシオン(革命)とはラ・ゲール(戦争)なんだよ』
『戦争である以上、相手を情け容赦なく倒さねばならん』
『あれは反革命の象徴なのだ。元国王のルイ・カペーが処刑されたあとも、仏蘭西の国内には依然として反動派、王党派の連中が蠢動している。それはカペーの家族がまだ生きているからだ』
『正義遂行のために殺すのだ』
『私は昔、医者だった。だから体全体のためには腐った足を切らねばならぬことをよく知っている。そう、腐った足はギロチンにかける必要がある。』
『医者は血を怖れていては手術はできんよ』
Ⅸ:永遠の愛
ルイ・カペーさんの処刑後「どんな事態になりましょうとも、わたしはあなたの妻であり仏蘭西の王妃だった気品を失いませぬから」と呟くカペー未亡人とその家族を嘲笑うかのように、彼女達のもとには次々と過酷な現実が襲いかかります。
"元王子ルイに自分の血すじという観念を失わしめるため、その家族から遠ざける"という巴里公安委員会の命令が発令。
この時九歳の、残された家族が幽閉されているタンプル塔からのカペー未亡人単独での脱走計画も、彼女が「息子なしでは」と拒否するほど彼女の心の最後のよりどころとなっていた最愛の息子は、永遠に彼女の元から引き離され、タンプル塔の別の場所でシモンという靴屋の夫婦に預けられます。
「みんな平等なんだ。王さまも百姓もありはしない。仕事はちがっても、人間は平等さ」
「お前の父親や母親はみんなに悪いことをした。だからお前の本当の父親は俺たちだ」
それからしばらくして、この子と一緒に遊んでいたドージョンという役人は「あの淫売、まだギロチンにかけられないのかな」と、この子がカペー未亡人が幽閉されている塔を見上げ、いまいましげにそう言うのを聞くことになります。
のだ。
Ⅹ:カペー未亡人
彼女は死なねばならない
憐れで可憐な大衆に時代は変わったということをはっきりと示すため、長きにわたりフランス人民を苦しめてきた悪の象徴として、古き時代の汚物として、すべての矛盾を独り抱えこんで、彼女は死なねばならない。
そう、それは最初から決まっていたことなのだ。
奇跡など何も起こらない。
彼女は死なねばならない。
彼女を処刑するためだけの裁判。
彼女を辱めるためだけの裁判。
これは作者である遠藤周作さんの創作ではなく事実らしいですが、その裁判の中で、彼女は(永遠に引き裂かれた)我が子に対して性的虐待を加えていたという嫌疑をかけられています。
そう自分の子(九歳)が巴里市長や検事に告白したと、革命裁判所の大法廷に詰めかけた大勢の傍聴人の前で聞かされます。
それを聞き激昂する傍聴人に対し、彼女はただ毅然と「私は・・・ここにおられますすべての母親に訴えるでしょう」「母なるものに加えられたこのような疑いは自然がそれを拒むからです」
この気高い声を聞くと、それまで罵詈雑言を彼女にあびせかけていた女性達はそこに自分たちと同じ一人の母親の姿を見、磁気にうたれたように黙り込んだそうです。
が、彼女は死なねばならない。
「刑法第二部第一項第一条に即し国家反逆罪により死刑に処す」
裁判が開かれる前から出ていた判決により、彼女は彼女の夫が処刑された同じ場所でギロチンにかけられることになります。
1793年10月16日。
数えきれないほど大勢の見物人、それらに菓子や水を売る者。
これが真実だとカペー未亡人がいかに淫らな女だったのかを書き綴ったパンフレットを売る者。そう、まるで祭りのような一日。祝祭空間。
両手を後手に縛られ、ギロチンの刃の邪魔になると髪を無造作に短く切られ、古き時代の汚物に相応しく肥桶用の荷車に家畜のように乗せられ、「淫売」「裏切り者」「もうすぐお前の首はなくなるぞ」、かつて彼女に「万歳、我々のプランセス!」と叫んだ同じ人々からの罵声、嘲笑、好奇で残酷な目を一身に受けながら、彼女は処刑場所である革命広場へとゆっくりと進んでいきます。
12時15分。
拍手と喚声が渦巻く中、処刑人の助手が彼女の首を高く掲げて断頭台の周りをまわり、すべてが終わりました。
んで「人生やったった感」。
最後の瞬間に彼女の胸に果たしてそれがあったのかどうか?ということに関しては「僕にはわかりません」と言うことで。
そんなんね、わかりませんよ。本人でもないのにわかるわけないじゃないっすか。
え~結論は「知らんがな」ということで。
あ、そうそう、アレはさすがに遠藤さんの創作ですかね。
彼女の魂を辱め、この世から抹殺するためだけの裁判の予審時、名前を聞かれた彼女は「わたくしはカペー・・・」と言いかけて止め。
「わたくしの名はマリー・アントワネット・ド・ロレーヌ・ドートリッシュでした」
XI:ラストダンスは私に
男性小説家が書かれた小説を読むと、風采が上がらない(金もない)男の主人公が、何故かヒロイン(絶世の美女!)に一方的に惚れられて、最終的に熱烈な恋に落ちたりします。
ま、現実にこういったことはない話ではないけれど、随分男に都合がいい話だなぁ、女性から見たら大笑いなんじゃないのかなぁと思ったりもしてました。
が、女性小説家が書かれた小説を読むと、「けっして美人ではないが個性的」「けっして美人ではないが人目をひく」女の主人公が、格好よく、(本当は)性格もいい男に惚れられ、最終的には熱烈な恋に落ちたりしてます。
どっちもどっちですな。ところで「けっして美人ではないが」
これ、女性が女性主人公の小説を読むときの重要なポイントでは!!
(ごめんなさい、僕小心なんであやまっときます)
でも容姿に関しては、小説がもっとも適したジャンルかもしれませんね。
だって「格好よくない」「美人じゃない」って言っても、映画やドラマではたいてい演じてるのは美男美女だし、アニメや漫画でも男の方は本当に格好よくないこともたまにはあるけど・・・女性は・・・ねぇ・・・
(ごめんなさい、僕小心なんであやまっときます)
が!
がが!!
なんのかんの言っても美人・美男なんて最後は個人の"好み"ですよ!!
僕には僕の"ツボ"がありますよ!!
どんなに他人に「!?」と言われても"ビビッ!"ときたもんはどうしようもありませんよ!!
最後は思い込みだ!!!
だから人生は素晴らしいのだ!!!
という無茶なまとめで今回もフェイド・アウト。