明示、対象、商倭、平和成る。



およそ千年前の武蔵の国の様子が「更級日記」に描かれています。作者である菅原考標(すがわらのたかすえ)の女(むすめ)は、父とともに上総の国から京に向かう途中、武蔵の国をとおりました。背丈ほどの葦の草原で作者が見たのは、「馬に騎()りて弓持ちたるの姿でした。”


この更級日記の状景のなかに登場するところの、馬に騎りて弓持ちたる、という無名の騎人が重大であろう。丈なす草のあいだに隠れていったこの草原の生活風俗を象徴する住人こそ、後世、日本を震撼せしめる板東武者となって歴史に登場するのである。”


方、世紀後半には、白村村の戦いにやぶれた二千人の百済人が日本に渡り東国に入植したと日本書紀に記されています。司馬さんはこの百済人集団と、更級日記に登場する馬に騎りて弓もちたる人との関係を推理しています。” [※芝思うに、後世。丈なす草のあいだに隠れていった孔の背()71、足して]


更級日記の作者である女性が馬に乗りて弓持ちたるひとに出会ったという、その騎人なる者は、おそらく土着人と混血した百済人の後裔だったにちがいない。”


大和から西日本一帯馬には極めて不熟練である、第一馬そのものがあまりいなかった。そういう日本列島にあって、その東の辺陬(へんすう)に、突如騎馬文化が成立するというのは百済人二千の入植という事実をはずしては考えられない。”
[※◆【変数】数式で,条件により値が変化する数。Variable(パーソナル現代国語辞典より]1121021]


この集団が、日本史上われわれが誇るもっとも典型的な日本人集団とされる板東武者に変わってゆくことを思うと、東アジアの人間の交流や文化の発生にかぎりない面白さをおぼえる。兵は東国にかぎりもうし候、と後世新撰組の近藤勇にさえ言わしめる武の国の原型は、東アジア的な規模で言えば、このようにしてできあがったようにおもえる。”で、ここで早送り、16世紀末期、そして幕末の武の国へと。

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