7.ハトってあんなに首を振って歩いて酔わないのだろうか?


最終戦争論

石原莞爾さんの「最終戦争論・戦争史大観」を読んでいると、この最終戦争論てある、石原莞爾さん言うところの"日蓮聖人の宗教"に基づく「世界日本化計画」な気もしちゃいます。

と思ったら、質疑応答の中に「最終戦争の必然性を宗教的に説明されているが、科学的に説明されない限り現代人には了解できない」つうのがあり、それに対して「私は日蓮聖人の信者として、聖人の予言を確信するものであり、この信仰を全国民に伝えたい熱望を持っている。」「しかし()この論は私の軍事科学的考察を基礎とするもので、仏の予言は政治史の大勢、科学・産業の進歩とともに、私の軍事研究をするために挙げた一例に過ぎない」と仰られてますね。

で、まあ、この稿の内容に関してはいろいろ思うとこはありますが、そこらへんは小ずるく回避いたします。ただ、本稿は昭和15年5月29日京都義方会における石原さんの講演を下敷きにしているみたいですが、この時期なら原子爆弾の開発・実用化は、ある程度の知識がある、それを持てる環境にある方にはもう十分予想できたんじゃないですかね。

で、またぼんやりと思い出したんですが、当時まだブイブイ言わしてたヒットラーさん。石原さんも"英雄ヒットラー"と表現されていますが、これはまあ人は人であり神ではないので。

で、たま~に、「ヒットラーがもし戦争を始める前に死んでいたら、第一次大戦の敗戦で底の底まで落っこちたドイツを見事に甦らせ、奇跡の経済復興を成し遂げたそれこそ英雄として語り継がれていたに違いない」みたいな話もちらほら聞く気もします。

これは児島襄さんの「ヒトラーの戦い」で読んだのかな?どうだったかな?
あのドイツ第三帝国の奇跡的な経済復興には色々無理があり、もともと経済も含めたすべてのベクトルが"開戦"に向けてのもので、それは止めれるもんじゃなく、もしかしたらいろいろ危険なドーピングをやりまくってる感じで、もう戦争を始めん事には第三帝国は最終的に破綻するしかない状態だったってのは。(超あやふや)

まあ、どちらにしろ、当時には当時の空気、状況があったのだ、それを""の感覚で一方的に裁くのも・・・と言うことで、この話放り投げさせてもらいます。


平和

今先、1977~8年くらいに西ドイツでハイネ賞(て何でしょう?←ま、いちおう)を受賞されたセバスチャン・ハフナーさん著・赤羽龍夫さん訳の「ヒトラーとは何か(原題・ヒトラー注釈)」を手に取り、とりあえず開けたトコを読んだら

『つまり戦争が主権国家からなる世界では避けられず、他方で技術時代の人類にとってその生存を脅かすものとなっているのであれば、一切の戦争を終わらせるための戦争というものが、このような人類の状況から必然的に生じてこなければならないということになる。』
『そうだとすると、制度としての戦争を廃絶する唯一の方法は世界国家であろう。そして世界国家への道はおそらく世界征服戦争に成功する以外にはないだろう。とにかく歴史上の経験はそれ以外の道をわれわれに示していない』

別に石原莞爾さんじゃなくても、最終戦争による絶対平和(とはローマ帝国とかみても絶対に言えんけど)の確立ってのは、普通に考えていけば当然たどり着く結論なんですかね。
敵をすべて滅ぼせば戦争をする相手がいなくなり、結果として平和になると。
んで、その後、いかなる手段を使っても敵の存在を許さなければ、その平和は永遠なものになると。

が、世の中はうつろうので今後どうなるかは知りませんが、あくまで現在、冷戦終了後「主権国家からなる世界」の激突つう発想がちと古いものになってしまったと(アジアではまったく古くないのかも、ほんと世界の時間はどこも均等に流れているわけではないですね)

今の監視・管理技術では「世界征服戦争に成功」した結果の世界は争いのない平和な世界ではなく、テロリズムがしまくりの世界ではなかろうかと。

石原さんは「最終戦争論」(べつにこの本が世界的に古典になっているってわけではないですよね)の中で、(石原さん的に)思考の当然の帰結として、テロのを予測されていた気もしますが、この「ヒトラーとは何か」はココしか読んでいないんで、ハフナーさんがそのあたりどうお考えかはわかりません。



ムーサーさん、家賃を払うお金が無いので、押入れの上段を""として借りていたそうです

ここで井筒俊彦さんと司馬遼太郎さんの対談「二十世紀の光と闇」の中から、井筒さんがお話になられたご自身の若き頃のお話(を僕が勝手に要約)。

井筒俊彦さん。
大正三年生まれ。イスラーム学ので革命前のイラン王立哲学アカデミーの教授も勤める。

この井筒さんが若い頃、時代は日中戦争中。

当時の日本には、日本の軍部の協力で西洋の軛(くびき)に苦しんでいたイスラーム諸国を糾合し、再びサラセン帝国の栄光を取り戻そうというパン・イスラミズム運動の志士の人達がたくさん来日していた。

そしてその中にさんや軍部の人等と頻繁に会合を開いていた大物がいた。
その人に井筒さん「アラビア語を教えてくれ」と頼み込む。

当時、井筒さんはアラビア語の習得に苦しんでいた。
何故ならアラビア語を教えてくれる学校も独学書もまだ日本には無かったから。
そんな折「イスラームの大学者が日本に来ている」という噂を井筒さんは人づてに聞き、そしてそれが事実だとわかった。

一も二もなく井筒さんは飛びついた、が、相手はしぶる。
それは当然、相手は日本にアラビア語の教師をしにきたわけではなく、日本の軍部と協力してヨーロッパによる植民地支配を脱し、イスラーム帝国を再興させる計画を練りにきたのだから。

が、井筒さんの熱意に負けてか、イスラーム()も一緒に勉強するという条件つきで教えてくれることになる。

彼は言う「イスラームの教えを抜きにしてアラビア語を学ぶのは不可能だ」

習い始めると井筒さんは素晴らしい生徒で、しばらくすると相手に「お前は私の息子だ」と言われるようになる。そして「お前に教えることは、私にはもう何もない」と。
でも「私など比較にならない大学者がもうすぐ日本にくる。その人に習うがいい」と言ってくれる。

その大学者、ムーサー・ジャールッラーハさん、来日。
井筒さん、早速訪ねてムーサーさんに弟子入りをする。

ただ、教えてもらうといっても、ムーサーさん着の身着のままで、本もなにもない。
どうするのだろうと井筒さんが思っていると「イスラームでやる学問の本なら何でも頭に入っているから、その場でディクテーションで教えてやる」と。

千ページ以上の本、その注釈本を一字一句間違わず暗記しているのはあくまでも前提で、それに対しての自分独自の意見がある。井筒さんはいろいろなことをムーサーさんに教えてもらったが、とにかく本は使わなかった。それがイスラームの昔からの習慣だと。


「何かを本格的に勉強したいんなら、その学問の基礎テクストを全部頭に入れ、その上で自分の意見を縦横無尽に働かせるようでないと学者じゃない」


突然ですが稗田阿礼さん。
このお方、とりあえず七世紀後半から八世紀初めにかけての人物で、古事記のに携わったといわれてるお人。
目にした、耳にしたもの総て、あますことなく記憶できたという異能の人。
ま、そんな人本当にいたんかい?とも思います。

いたかも。



続き

で、ですね、その対談の中で司馬さんが

「世界には国が百五十ほどあるそうで、一方民族は数え方によると六百ほどになるそうですね。それをひとつの国々に収めるわけにもいかない。結局は複合国家が出てきて争いが起こる。民族というのは、神様が決めたわけでもないし、たれが決めたわけでもないのに、しばしばいちばんの憎しみの対象になるのはどうしてだろうということを考えておりました」

それにたいして井筒さんは「司馬さんが考えておられるようなことを、私はあんまり考えてなかったんですけど」という前提で

「現代、国際社会ということが大きな問題になってきていますが、国際的な一元的な世界ができるには、そのなかにさまざまの要素が入ってこなければならない」

「さまざまの要素は、民族の場合には文化パターンというか、文化パラダイムで成立しているので、それが衝突するのはあたりまえで、衝突を超えてこそ、初めて本当の国際社会というものができるんじゃないか」

「そこにいたる過渡期として、いま非常な危機を経ている」

「私は、危機を経てもいいんじゃないかとおもうんです」

で、ですね、この対談のすぐあとに井筒さんは亡くなられています。

これは僕の記憶頼りで書きますが、井筒さんへの追悼文の中で司馬さんは「井筒さんは『危機を経てもいいんじゃないか』とおっしゃっていたが、私は井筒さんは『本当の国際社会というものができるためには、人類は衝突という危機を経るべきだ』とおっしゃりたかったんじゃないだろうか」という趣旨のことをお書きになっていたような気がします。

もちろん、あくまで、僕の記憶頼りの""です。

この対談がおこなわれたのは(たぶん)1992年。
冷戦の終結、つまり恐怖のによる平和の終結。そして湾岸戦争、民族紛争。

そして今。ちょうど今。
ほんと、やっぱり、世界の時間はどこも均等に流れているわけではないですね。

ちなみにこの対談がおこなわれた当時はまだまだインターネットは当たり前なものとして世界を覆ってはいませんでした。



あらかじめ失われた革命

あらかじめ失われた革命。

まあ、12月はこれで行こうかな?って思ってるんですけどね。
まあ、これまた中谷美紀さん(ゴミ)の「砂の果実」の歌詞を200%くらいパクってるんですけどね。
まあ、11月のテーマだった「接近・展開・連続」は結局ドコ行った?つう噂もあるんですけどね。
まあ、些細なことだ気にすんなって感じなんですけどね。


さて話を変えまして、随分前に僕は冗談で『ブルジョアとプロレタリアの真の対決の世紀となるであろう21世紀』と書きました。

もしかしたら21世紀後半から22世紀初頭にかけてくらいで本当にそうなるんじゃないかい?て気がちょっびっとせんでもないですな。
もちろんそんな適当予想が大ハズレでも、僕はこの世を「バイなら」してるだろうからあんま問題はないですな。
つうか逆に国境を越えた身分階級が形成され固定、ジョージ・オーウェルさんの「1984」も真っ青な地球規模のド管理社会になってる可能性もありますわな。
そうなると突破口はテロリズムくらいしかなくなりますかね?


でも科学技術は日進月歩、もしかしたらテロを行なう余地もないくらいの人類ド管理システムが構築されてるかもしれませんな。

う~ん、テロをおこなう余地の一切無い、完璧に管理された社会を生きる人たちは幸福なのだろうか?どうだろう?

もちろんこれはテロを肯定する発言では決してありませんよ。
そんなん当たり前です。それをさらに上回るだろう"悪意による平和"への違和感です。

つうても「万国のプロレタリアよ、団結せよ!」とアジるつもりはないですよ。
僕はノンポリです。

それに『僕は人が人に対して一番残忍になれるのは、自分の正義を確信した時だと思います。自分に絶対的な正義があると思ったとき、人は人へどんな残酷な事でもできるようになるのだと思います』という思いは変わりませんからね。



えとせとらえとせとら

文字を考えついた人は偉い!
文字を見つけた人でも偉い!
いるんだったら偉い!

だって文字を発明・発見したおかげで世代を超えた知識の蓄積ができ、その積み重ねで現在の文明の発達をみることができたわけだし。
いつまでも稗田阿礼(この人の時代は文字あったけど)頼り、つうか口伝では、そりゃなにかと限界ありまくりですわな。

ま、もちろん「地球を破壊しかねない文明なんて発達する必要はなかったのだ!」つう考え方もあるでしょうが、僕は「人間はそこまで馬鹿ではないだろう」と思ってしまうクチなんで。

ただ、文字による知識の蓄積でソフトは随分進化しまくったけど、それを利用するハード、つまり人間自身は何千年も前からたいして進歩してない気がしないでもないですよね。

差別、戦争、嫉妬、誤解、えとせとらえとせとら・・・
魔女狩りだって今でも普通に身近なトコでやってるしね。



つがい

そういえばハトってさ、たしか求婚行動でオスが追っかけ、メスがとりあえず逃げる(ハトの集団よく見てると〈暇人〉確かにやってる気がする)らしいけど、いったん"つがい"になったらほとんど一生添い遂げるらしいね、な文章をむかし読んだ気がします。


ええ""です。






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