敬王とか、あれ?その前なんだっけ?
“1590年、八王子城が豊臣秀吉によって小田原城と共に落城します。
武蔵の国の新たな支配者になったのは、秀吉の命で駿河から移ってきた徳川家康でした。”
“北条氏は関八州二百八十五万石、士卒七万、この勢力の瓦解は関東の村々で大混乱を起こしたであろう。七月に落城して、家康はその動揺の中を江戸に入ったわけである。北条の落ち武者が在所々々に隠れたり、盗賊や乞食僧になったりして、物情は必ずしも静まらなかったに違いない。それらの落ち武者やら浮浪人やらが武蔵の西の端の八王子あたりに集まり、小屋掛けして住み着いた。”
“江戸入城のおり、甲州街道を上り武蔵の国に足を踏み入れた家康を待っていたのは、戦果で荒れ果てた城下町八王子の姿でした。家康は城下に潜む北条氏の落ち武者たちをその支配下に入れ、八王子を宿場町として再建しようとしました。”
“家康は関東に入って身代が大きくなったため、新規に人を召し抱えねばならない。彼らを放逐して治安を悪くするより、むしろ召し抱えて徳川家臣団の中に組み入れてしまう方が一挙両得であると思ったに違いない。落穂集によると、家康公が武州八王子にて新たに五百人ばかり召し抱えられた、とある。
八王子千人同心と言われる特殊な徳川直臣団はこのようにしてできた。“[※仙人?]
“八王子千人同心は武蔵野国の国境警備を目的に組織された、幕府直属の家臣団です。百人ずつ十組、合わせて千人の組織でした。千人同心は禄高は低く、普段は農業で生活をたて有事に備える屯田兵のような存在でした。”
“武蔵の国で最初に召し抱えられた直臣としての誇りを持ち、勇猛果敢な武士団でした。幕末、千人同心は新撰組とならんで最後まで徳川家に忠誠を尽し続け、その一部、彰義隊と共に寛永寺に立てこもり、戦いました。”
[※ちなみに八王子城について番組の説明は、“町(八王子)の中心部から北西に7キロ。関東平野を一望に見渡す標高460メートルの山中に八王子城があります。関東一の規模を持つこの山城は戦国時代に北条氏照によって築城され、関八州を100年にわたり支配した北条氏最大の軍事拠点でした。1590年、八王子城は豊臣秀吉によって小田原城と共に落城します。”
北条氏最大の軍事拠点は小田原城ではなく八王子城だったととれる説明でした。もちろん…。
◆やま‐じろ【山城】山頂や山腹に築いた城。古代には朝鮮の影響を受けた朝鮮式山城や神籠(こうご)石がある。中世、特に室町・戦国時代に発達した。さんじょう。⇔平城(ひらじろ)
◆ひら‐じろ【平城】平地に築いた城。ひらじょう。⇔山城(やまじろ)
◆へいじょう【平城】‥ジヤウ‥①北魏前期(398~493)の都。現在の山西省大同市。
②(ヘイゼイとも)奈良の古称。
◆かん‐とう【関東】クワン‥①東関。㋐昔、鈴鹿・不破・愛発(あらち)の三つの関所以東の諸国。また逢坂関以東の国。㋑箱根関以東の地。坂東ばんどう。関東八州。関八州。㋒東京都と茨城・栃木・群馬・埼玉・千葉・神奈川の6県との総称。⇔関西。②㋐鎌倉幕府のこと。㋑関東管領の所轄地方。㋒江戸幕府のこと。③(Guangdong)㋐中国で、函谷関または潼関(どうかん)以東の地。今の山東・河南等の地。
㋑中国で、山海関以東の地方の称。すなわち中国東北部。[広辞苑第六版より]
[※クワンは食わんと頭に入れておいてください。人肉食わん、です。]