7.誠
Ⅰ:子母澤さん、お生まれは石狩かぁ
最初の刊行は昭和三年でいいのかな?
新聞記者だった子母澤寛さんが、大正のはじめくらいから当時まだ存命だった隊士など、新選組関係者に取材したものをまとめた「新選組始末記」。
司馬さんも新選組について小説を書こうといろいろ調べるも、どうしても「新選組始末記」から離れられない、内容以上のものが出てこない。
だから小説を書く資料として子母澤さんの「新選組始末記」を使わせてくださいと、司馬さんは直接子母澤さんに会ってお願いをされていますね。
が、子母澤さんが取材内容をまとめたノンフィクションと思われてきた「新選組始末記」。
現在では、その中にかなり子母澤さんの創作がまぎれこんでいるのではないか、フィクション、ある種小説ではないか、とも言われているみたいです。
でも昭和42年の「中央公論」での子母澤さんと司馬さんの対談。
司馬『とにかく、新選組というのはいまになると、もう調べようがございませんね』
子母澤『われわれが始めた時分は、少しイカれていても、何とか多少はあった。しかし今でも、ときどき何か調べ残しているところがあるんじゃないかと思うことがあるんです。彰義隊でも意外な人が、私の実父は上野の彰義隊でしたとかいう。行ってみると何か話があるものですね。嘘、本当、それは別としましてもね。それに、少しホラ吹くぐらいの人の話のほうが面白いですね(笑)』
もちろん子母澤さんが取材を始められた当時としても、新選組は五十年は昔の話。
別に"ホラ話"でなくても、まあ"ホラ話"もあったのかもしれませんが、ふつうに関係者の方の記憶違いはあると思うんです。で、それを少々本当かなぁ、胡散臭いなぁと思いつつも、証言は証言としてそのまま「始末記」に載せた、ということもありませんかね?
それが、北海道生まれではあるけれど、幕臣の孫である子母澤さんの中に流れる江戸っ子の「だってそっちがおもしれえじゃん」つう粋なのか、司馬さんがいう
『(始末記は)学問の新しい方法だと思ったわけです。つまり植物採集とか昆虫採集とかいう方法を、違った分野で使ったのが民俗学、柳田国男さんとか、折口信夫さんの民俗学でございますね。それと同じ方法で採集して回られた』ということなのか。
で、それを受けた子母澤さんの『わたしただ怠け者ですからね。自分で勉強しないで人の話を聞いているほうが気楽だから、そういう方法をとったわけですよ』つうのが謙遜でもなんでもなく真実だったのか。
「俺はとにかく新選組の話を集められるだけ集めたよ。そりゃ胡散臭い話も中にはあるけどさ、でも嘘のような真てのもあるかもしれないじゃん。まあ、それらの真贋は誰かやってよ。俺はめんどくさいわ」てな感じで。
で、ふと思いましたが、アウトテイクというか、子母澤さんが"採集"するも、さすがにこれはどうだろうと「新選組始末記」に載せなかった話もあるんですかね?
もしもあるんならそれ読んでみたいです。
※おれのこれに関しては、消滅した、と、おもっていただいていいです。今後は打ち込みに打ち込もうかとも。20180830。
Ⅱ:微妙な話ではありますが
「俺はとにかく新選組の話を集められるだけ集めたよ。そりゃ胡散臭い話も中にはあるけどさ。でも嘘のような真てのもあるかもしれないじゃん。まあ、それらの真贋は誰かやってよ。俺はめんどくさいわ」
つうのを、
「俺はとにかく新選組の体臭が嗅げそうな話を集められるだけ集めたよ。そりゃ胡散臭い話も中にはあるけどさ。でも嘘のような真てのもあるかもしれないじゃん。まあ、それらの真贋は誰かやってよ。俺はめんどくさいわ」にしときます。
でですね、司馬さんは「新選組始末記」を使わせてもらって、「新選組始末記」によって、と、おっしゃられています(よね)が、もちろんご自身でもいろいろ調べられています。
たとえば、おや?昭和四十年前後はそんなこともはっきりしなかったの?ともちょっと思いますが。
司馬さんは土方さんの故郷の日野に行き、地元の方に「土方歳三さんの歳三は、としぞうと読むのでしょうか、さいぞうと読むのでしょうか」「このあたりの人間はみなトシさんと呼んでいますね」「ああ、やっぱり、としぞうでいいんですね」と確認したり・・・
うん、まあ、確認、これは念のための確認ですよね。
ああ、で、そうしていろいろご自身で調べた結果、どうにも「新選組始末記」にたどり着いてしまうということか、なるほどな。
と、自問自答をくりひろげましたが、『少しホラ吹くぐらいの人の話のほうが面白い』かどうかはおいといて、面白エピソード満載の「新選組始末記」、やっぱり司馬さんも『私が新選組のことを書こうと思ったとき、これはどうしても「始末記」を離れられない。ですから先生のところに来て、あれをひとつ使わしていただきますと・・・』てことになったのだと思います。
がですね、たとえばこないだの「燃えよ剣」のラスト。
もちろん世紀の軍艦乗っ取り作戦、"アボルダージュ"宮古湾海戦とかありますが、「新選組始末記」の中であのラストに対応する部分は
『土方歳三は、勇の捕らえられると共に、ひそかに流山を脱出し、会津に走り、更に函館へ行って、榎本武揚の幕下に参じ、陸軍奉行並となったが、武揚の人となりを察し、ついには官軍と和することを予知して極度に悲観し、合戦のたびに、自ら危地に出動して死を希(こ)う風であったが、明治二年五月十一日の激戦で馬上弾丸に当たって戦死した。年三十五、勇より一つの年下である。常に同僚に語って、「ああわが輩は死に遅れた。もしわが軍官兵と和する事あれば、地下に近藤と相見(まみ)ゆるを得ない」といっていたという』
てトコなんですね。
つうかこの漢文のよみくだし風な文章、簡潔でいい文章ですよね。
昔の人はみなさん漢文の素養があったんですかね。
は、さておき、だから「新選組始末記」の中で、僕が要約をした「燃えよ剣」のラストに対応する部分はここだけだと思うんですね。
で、ほんとうにあれはしょっぱい要約なんですね。
そりゃ、実際には他の資料を使ってもいるのでしょうが、この「始末記」の文章を元手に、司馬さんがどれだけ想像の翼をひろげてあのラストシーンを創られたか、是非「燃えよ剣」を読んで確かめてほしいんですね。
つまり結論は、あのラストシーンは面白い、「燃えよ剣」は面白い、なんです。
「新選組始末記」も面白い、なんです。
お暇でしたら是非読んでみてください、なんです。
で、しれっと、あくまで僕の想像の「俺はとにかく新選組の体臭が嗅げそうな話を集められるだけ集めたよ。そりゃ胡散臭い話も中にはあるけどさ。でも嘘のような真てのもあるかもしれないじゃん。まあ、それらの真贋は誰かやってよ。俺はめんどくさいわ」てのを大肯定するとすると・・・
ん?するとするとって言い回し、何か変?そうでもない?
ま、今問題にすべきはそこではない、というわけで、大肯定するとすると、司馬さんが子母澤さんに『(始末記)をひとつ使わしていただきます』とおっしゃったのは、子母澤さん的にも「おお!お前みたいな奴が現れるのを待っていたぜ!」てなトコもありましたかね。
で、明治維新後は、正義の志士をバッサバッサと切りまくる、悪逆無道な悪者という地位を確立した新選組の土方歳三さん。←想像です
なにげに雰囲気としてその名を口にするのもはばかられ、気づいたときにはその名が"としぞう"なんだか"さいぞう"なんだか、はっきりとはようわからんのだ、てなトコもあったのかな?
Ⅲ:マイナス・ゼロ
でもあれですよね。
言葉は悪いですが、司馬さんも子母澤さんが使われた意味での"ホラ吹き"は嫌いじゃないですよね。
井上ひさしさんが「手鎖心中」で直木賞をとられたとき、選考委員だった司馬さんの選評は『(井上さんの)うそのあざやかさには目をみはるおもいがした』『これを書いた才腕の前には、たれもが叩頭せざるをえないのではないか』『いかにも上質の滑稽であった』ですし。
それに早逝された作家、広瀬正さんのSF小説が直木賞候補(1970)になったとき、委員の中で、司馬さんのみが熱心にその作品を推されたそうです。
司馬さんは、広瀬正さんの「マイナス・ゼロ」について。
『一読者として一番面白かったのは、広瀬正氏の「マイナス・ゼロ」であった。
SFには読み方が要る。頭から空想譚に騙される姿勢で読まねばならないが、それにしてもこの人の空想能力と空想構築の堅固さにおどろいた』
『「ツィス」には圧倒的な感銘をうけた。ごく平均的にいって、人間は五官によって生存を認識している。そのうち聴覚に、外部からほんの小さな変化を、持続的そしてひろく社会一般に加えるとすれば、人間はどうなるのであろうかという空想的な実験意識が、着想になっている』
『この空想上の実験によって、人間が、簡単に個のわくをこわして集団の大わくに入り、そのわくの中で似た反応を交換しあってやがては恐慌をおこすという結果を生む』
『このときSFは、重大なリアリティを持つのである』
広瀬正さんの「エロス」について。
『私は広瀬正氏の「エロス」を推した。深読みかもしれないが、愛というこの人間現象に奇怪な衝撃力をもつものを、作者は化学的物質としてそれを抽出し、合成し、それをこの小説に登場する数人の人間の過去に対し、実験的に添加した場合、「過去」がどのように化学変化をおこすかということをSF風に考えてみた文学であるように思える』
『(この作品は)三度目の候補作である。このあまりにも現実離れした遊びの世界は二作ともおおかたの共感を得ず、こんどもそうであった』
ん~でも、司馬さんは『SF』『現実離れした遊びの世界』を『遊戯としてわりきってしまえばじつにおもしろい』と書かれていますが、本当に『遊戯としてわりきって』いたのか、すこし疑問です。
ええ、かなうことなら一度、紅茶でも飲みながら、司馬さんから『東北にあるという、ヘブライの遺跡について』の話をお聞きしたかったです。
はたしてキリストは日本に来ていたのか!!
で、いきなり話を矮小化しますが、イエスさんご自身が日本に来ていたことはないかもしれませんが、アチラで異端として排斥され、唐で大流行したネストリウス派かどうかはしりませんが、人としてか文物としてかはたまた両方か、かどうかはしりませんが、キリスト的なものが○○麻呂な時代の日本に来ていても、別に不思議ではないですよね。
井筒さんは司馬さんとの対談で『古代ギリシアの思想を持ち込んでくると、実にはっきりと解明されるところが東洋思想には多々あるんです』『歴史的に影響があったかなかったかには全然関係なく、思想構造的に必然的な相互照明の問題なんです』とおっしゃられています。
でも司馬さんが『長安に入った空海は、当然なことですけれども、ネストリアンのキリスト教の教会は見たらしいですし、ゾロアスター教の火のお祭りも見たはずです。ですから当然、プラトン的なものが来ていないということは、いえませんですね』といわれると、『いえません。絶対いえないと思います』と。
ま、もちろん、「~とはいえない」といいだすと、もうなんでもありじゃないか、と僕も思いますが、キリスト的なもの、ヘブライ的なものが、○○麻呂な時代の日本に来ていても、別に不思議ではないですよね。
だって嘘のような真てのもあるかもしれないし。
Ⅳ:そういえば、つうかそもそも、厩戸皇子て方がいましたね
そうそう、いやいやありました。
司馬さんの、しかも広瀬正さんの「ツィス」の選評の中にありました。
『(陳舜臣さんと)はなしが中国の詩のことになったとき、氏がなにか出典を示して、男子の詩は志をのべるもので女子の詩は怨みをのべるものだ、という意味のことをいったような記憶がある』
『むろんこんにち、女子が志をのべてもよく、男子が怨みをのべてもいい』
『薪をたたき割ったような粗論だけに、小説にもそれが大きい場所であてはまるような気がする』
『怨みものべず志ものべず、どういう衝動に駆られてか、営々として小説を書くというのは、なにかをやたらに空費するという意味で一種の壮観であるにせよ、一面なんだかつまらないような感じがしないでもない』
『江戸期の日本人の持論で、志が高く涼やかであれば技巧の拙さはかえって覆われて逆に強さを出すことさえある、というのを読んだことがある。これも小説の分野にあてはまるかもしれない』
『広瀬正氏の「ツィス」という作品は、自分の空想をどれほど精緻に計数化しうるかということに挑んだ作品で、この作業そのものが志であり、さらには社会心理学的なリアリティもあって、変に魅かれるものがあった』
でした。
いやいや司馬さん、広瀬さんの作品に変に魅かれたのは、自分と同じものを、志といってもいいですが、それをその中にみたからではないのですか?と、僕がまた勝手にいっときます。
でもこの選評は『しかしこの種のものが受賞作になるには多少先例と筋合いがちがうし、なるにしてもあと数年かかるかもしれないと思った』としめられています。
この選評を司馬さんが書いて四十年。
『この種のもの』が受賞できる時代に現在はなったのでしょうかね?
ちなみにこの翌年に亡くなられた広瀬正さんの作品への選評は、司馬さんのエッセイ「不思議な世界を構築した天才」で読めます。
(注:僕は広瀬さんの作品自体は、たぶん赤羽の本屋で少し立ち読みをしたくらいです・2013/12/05)
Ⅴ:思いつきは大切にしましょう
しかしまあなんですね。
○○麻呂な時代の日本にキリスト的なものが来てたとして、なんで次の「いごよくひろまるきりすときょう」まで来なかったのか?おかしいではないか!と無理やり疑問に思うことにして、これあれですよね、早い話が両方とも民族大移動の時代ですよね。
ほらネストリアンの方たちが地中海世界で異端として排斥されたころ。
そのころ。
それはモンゴルにいた匈奴が漢との戦争に破れ、西方に逃れたのがそのスタートラインとなる、民族大移動の時代じゃないですかね?
AがBを襲い、それを逃れたBがCを襲いと、玉突きの民族大移動のあおりでローマ帝国が滅んだ時代じゃないですかね?
んで、石もて追われた、かどうかはしりませんが、ネストリアンの方たちが唐に到達したのも、そんな民族大移動の巨大な玉突きエネルギーの一環ではなかったんですかね?
異端として排斥された、その事実自体とは一切無関係に。
当時は未知の世界に飛び出すのは時代の気分として当たり前だったのではないですかね?
ま、いいや、ここが駄目ならよそにいけばいいじゃないか、みたいな。
んで、そのエネルギーが徐々に冷め、混乱も収まり、地中海世界もそれなりに安定してくると、その中で充足し、わざわざ未知の世界にでていく必要が・・・いや、この話の流れはいかん。
とにかく膨大なエネルギーを使い果たし、出ていきたい人たちは出ていって、で、休息の時代として、自らの世界に閉じこもるようになったと。
ユーラシア大陸の反対側までやってくるエネルギーはとてもなかったと。
んで、もしかしたら次の民族大移動もモンゴル、こんどはチンギス・ハーンの自発的な西への遠征が発端かもしれませんが。発端つうか意識としてのきっかけかもしれませんが。
まあそこらへんはゴニョゴニョでおいといて、自らの世界に閉じこもっていた地中海世界も徐々にエネルギーを溜め込みはじめ、あらたなるイスラム世界との戦争を含めた交流もあり、そのすぐれた文化に刺激もうけ、さらにエネルギーを溜め込み、溜め込み、溜め込み、そしてついに海にあふれ出た「いごよくひろまるきりすときょう」。
と、話をもっていきたいわけですよ。
Ⅵ:『会(たまた)ま』てのは、"たまたま"ですか
そうそう、諸葛亮さんが亡くなったときって本当に星が。
あ、これまた陳舜臣さんの「秘本三国志(六)」によりかかりまくりなんですけどね、正史「晋書・宣帝紀」の中に諸葛亮さんが亡くなったときのこととして『会(たまた)ま長星有り、亮の塁に堕つ』という記述があるそうです。
ちなみに宣帝というのは、諸葛亮さんが魏への遠征中に五丈原で病没したとき、その軍と対峙していた魏の重臣司馬懿仲達さんのことです。
で、諸葛亮さん率いる蜀軍が陣を敷いた五丈原はかなり切り立った(想像)台地で、ま、ある程度距離をとって台地下に布陣していた(想像)魏軍からは、見上げる五丈原に流れ星が吸い込まれるように見えたんでしょうね。
が、「晋陽秋」という書によるとそんなもんではなく、『星有り、赤くして芒角(ぼうかく)、東北より西南流し、亮の営に投じ、三投再還、往(おう)は大、還は少。俄かにして亮卒(しゅっ)す』、もうまるで、しし座流星群のように星が五丈原めがけて流れ堕ちたと。
まあ実際には、正史三国志「蜀書・諸葛亮伝」の井波律子さんの訳を引用させていただくと『赤くとがった星が東北より西南に流れて、諸葛亮の陣営に落ち、三たび落ちて二度は空に戻った(が、三度目は落ちたままだった)。落ちたときは大きく、戻るときは小さくなっていた。にわかに諸葛亮はなくなった』と。
陳さんも『孔明が死んだ夜には、天文に奇変があったのだ』とお書きになっています。
(注:正確ではないですが「三投再還」このような表現は、無念な思いで亡くなった人にたいする慣用句、みたいな話を読んだことあります・2013/12/05)
まあ「晋陽秋」のほうはおいとくとしても、たかだか一人の人間の死と天文がリンクするかい。
アホか。それこそ『会(たまた)ま』じゃ。とも思います。
が、天下三分という己の志に命を燃やしつくした諸葛亮さんが亡くなったとき、夜、『長星』が『有り』、諸葛亮さんの『塁に堕』ちたように人びとに見えたのも事実なんでしょう。
わざわざ正史にそう記すくらいなんだから。
もちろん『会(たまた)ま』なんでしょうけどね。
Ⅶ:井波律子さんの訳たよりで、正史三国志「蜀書・諸葛亮伝」をもとに書いております
三国分裂時代に終止符を打ち、天下を統一した晋の時代、魏・呉・蜀、残された三国の記録を「三国志」としてまとめた陳寿さん。
ちなみにこの方はもとは蜀の国の人ですが、晋の皇帝に下問され(かな?)、諸葛亮さんについてこの方自らの言葉で語ったところによると『諸葛亮は幼少より抜群の才能、英雄の器量をもった人物でありまして』『当時の人は彼を高く評価しておりました』と。
で戦乱を避け、荊州の片田舎で農業をやりながらのんびり暮らしていた時、『左将軍の劉備は諸葛亮の並はずれた器量を認めて、三度も草ぶきのいおりの中に諸葛亮を訪問いたしました』そして『諸葛亮は、劉備の傑出した勇姿に深く心を動かし』主従の『契りをかわした』と。
いわゆる「三顧の礼」てやつですね。
諸葛亮さんご自身も、つうか↑の陳寿さんの言葉は、そもそもそれをもとに書かれているのかもしれませんが、諸葛亮さんご自身も「出師(すいし)の表」の中で『臣はもともと無官の身で、南陽で農耕に従事しておりました』『先帝(劉備さん)は臣を身分卑しきものとなさらず、みずから身を屈して、三たび臣を草屋のうちにご訪問下さり、私に当代の情勢をお尋ねになりました』『これによって、感激いたしまして、先帝のもとで奔走することを承知いたしました』とお書きになっています。
実際はそんなに見た目ドラマチックではなかったのかもしれないけど、「桃園の誓い」と違い、「三顧の礼」は本当にあったことなんでしょうね。でもこの邂逅の中で本当に「天下三分の計」が話合われたとしたら、見た目のドラマチックとは一切無関係に、その歴史的ダイナミズムは凄まじいものがありますよね。
ちなみに「蜀書・諸葛亮伝」の中では、劉備さんが新野という場所にいたとき、徐庶(じょしょ)さんという方と会見したそうです。で、話してみて、劉備さんは徐庶さんを有能な人物だと思ったらしいですから、聞いてみたんでしょうね。「このへんに誰か優れた人物はいない?」と。
すると徐庶さんは「ああ、そいでしたら、おいの友人に諸葛孔明というすごか男がおってですね、こん男は臥龍(がりゅう)、まさに寝ている龍ですたい。時が来たれば、天に昇りますよ」と。
「ほんと?それは会ってみたいな。君ちょっとつれてきてよ」
「いやいや、こん男はこっちから出向けば会えるばってん、呼び出しても絶対にこんですよ。そがん男です。本当に会いたかとなら将軍自ら会いにいったほうがよかですよ」
で、頃はいよいよ曹操軍の南下がはじまりそう。
なにかと状況が切迫し、人材に飢えていたこともあったんでしょうが、不思議に"ピン"とくるところが劉備さんの中にあったんでしょう。
『その結果、先主は諸葛亮を訪れ、およそ三度の訪問のあげく、やっと会えた』という流れになったみたいです。
そういえば司馬遼太郎さんは、劉備さんと諸葛亮さん、互いの出身地域から、もしかしたら最初は互いの言葉が通じず、筆談で話し合ったのかもしれないな、とお書きになられていましたよね。
つうても諸葛亮さんの友人、すくなくとも知人だろう徐庶さんとは劉備さんつつがなく会見できているので、あんまり問題はなかったんでしょうけど、もちろん通訳がいたのかもしれませんが。
あ、でも司馬さんがおっしゃったのは、日常会話ではなく、二人っきりで「天下三分の計」みたいに重要でいりくんだ話をするには、互いの出身地域から、もしかしたら互いの言葉が通じがたい部分があり、だから筆談で話し合ったかもしれないな、という話だったかも。
なぜなら、話し言葉は違っても、漢字、書き言葉は全国共通だから。
(※そうなのかな?・2013/12/05)
Ⅷ:戸籍
でも、ですね。
「魏略」という書には、劉備さんと諸葛亮さんの出会いは、劉備さんが諸葛亮さんのもとを訪ねたわけではなく、諸葛亮さんのほうから、劉備さんに会いに行ったと書いてありますな。
当時、河北地域をついに平定した曹操さん。
荊州在野の諸葛亮さんは、こりゃいよいよここに曹操軍が大挙来襲するぞ、と予期します。
次のターゲットはここだ、と。
しかし荊州領主の劉表さんはいまいちぼんやり、この亡国の危機に頼りないことこの上ありません。
そうだ、あの男にこの危急を伝えてもどうしようもない。
そういうわけで、諸葛亮さんは、荊州北方の樊城(はんじょう)に劉表さんの客分として駐屯している、「あの男はあくまでも反曹操だ」と評判の劉備さんのもとを訪ねます。
もちろん自分の売り込みもかねています。
が、諸葛亮さんはまだ若く、劉備さんと初対面でもあったので、なかなかまともに相手をしてもらえません。
しかしなんとか機知をはたらかせて、劉備さんに自分の話を聞かせることに成功します。
「ところで劉将軍は劉表さまを曹公と比較してどう思われます?」
「およばないな」
「ではご自身と比較してはどうですか?」
「ん、やはり孟徳にはおよばないな」
「ええ天下広しといえども、今、曹公におよぶ者などおりません。その曹公が自ら大軍を率いてこの地を襲ったとき、劉将軍のたかだか数千の軍勢でどうやって戦おうというのですか?無謀すぎませんか?それとも戦わずにさっさと降伏しますか?」
「まさか誰が孟徳なぞに・・・しかしワシも軍勢の少なさは心配しておるのだ。孔明君といったな。何かいい手立てがあるだろうか?」
きた!ここだ!
野心ギラギラの「魏略」での諸葛亮さん、おもわず身をのりだして。
「劉将軍!よくぞ訊いてくださいました!」
え~昨日から書きはじめて、やっと本題にたどりつきました。
ちなみに「魏略」では、諸葛亮さんのほうから劉備さんに会いにいったと書いてあります。
しかし諸葛亮さんご自身により、劉備さんの息子さん(蜀漢二代皇帝)宛に書かれた「出師の表」の中に『三たび臣を草屋のうちにご訪問下さり』とありますし、『(劉備さんに仕えてから)二十一年が経過しました』とありますから、まだ普通にそのあたりの事情を知っている人は沢山いたと思いますので、やはり僕は劉備さんが諸葛亮さんのもとを訪ねたのだと思います。
が、ここで問題とすべきはそこではなく、「孔明君といったな。何かいい手立てがあるだろうか?」への諸葛亮さんの返答なんです。
『現在、荊州は人口が少なくないのに、戸籍にのっている者は少しです』←当時、荊州は比較的平和で、諸葛亮さんみたいによそから避難してきた人も多かったんでしょうね
『(その戸籍にのっている)一戸当り何人と平均して兵をとりたてれば、民心は喜ばないでしょう』
『(劉表さんにいって)国中に命令を下し、およそ戸籍にのっていない家があれば、みな戸籍に入れさせ、そこで彼らをとりたてて軍勢を増やすのがよろしいでしょう』
で、以前僕が書いた
『後漢第十代質帝の死んだ本初元年(西暦146年)には、中国全土の人口は4756万余。
そんで、それから約140年後、晋が天下統一した時点での中国全土の人口は800万そこそこ。
最初は僕も(晋が天下統一した時点での人口)800万といってもそれは長引く戦乱のせいで人口が流動的になり、行政組織も弱体化、単に正確な人口調査ができなかっただけじゃないの、と思ったんです。本当はもっと人口多かったろうと。
でも、たとえば、曹操が袁紹との事実上の天下分け目の決勝戦「官渡の戦い」に勝利し、当時の人口密集地帯、いわゆる”中原”をおさえたのは西暦で200年ころ。
これは呉の滅亡の80年前。
で、この80年間、"中原"はそれなりに平和、そこまで大規模な戦争はおこっていないと思います。これは乱世に翻弄された普通の人たちが、少しでもと平和や治安をもとめて集まってくるには、そこに定着するには、十分を通り越した期間だと思います。
それに後漢から続く行政組織が復旧、正常に機能しはじめるにも十分を通り越した期間だと思います。それに、なにより、たぶんですが、どの国でも戦争をするには、作戦計画を立てるには、徴兵にしろ輜重にしろなんにしろ、自国の人口の把握が一番大事な気がします。時は乱世、いい加減にやったとは思えず、かなり厳密に調べた気がします。』
で、やっぱり800万そこそこって数字はかなり正確だったんじゃないですかね。
この「魏略」はちゃんと調べてなかった、って話ですけど。
それは劉表さんの話ですし、で、荊州は滅んだわけですし。
※ごめんなさい。20180830。
で、「魏略」。
この本は、引用部分を読んだだけですが、「魏」の「略」つうせいか、いまいち「蜀」の諸葛亮さんにしょっぱい気もします。
ただ、ほんと、当時の庶民は、権力者にみつかるとそっこう戦場送りだったんですね。