5.★

私は運命を信じません

いやいやありました。

最後ではなく、「秘本三国志(四)」の中にありました。
五斗米道つう新興の道教団体(かな?)の教母少容さんと、まだ劉備さんに仕官する前の若き諸葛亮さんの対話の中にありました。もちろん史実ではなく陳舜臣さんの創作です。


『天下に太平をひらくためには、漢王室の存続などは問題ではなく、強力な指導者が天下を統一することである。
これが少容の考え方であり、天下の英雄を物色して、曹操にその望みを託した。
そして、曹操が天下をたばね、乱世に終止符を打つように、陰ながら、いろいろと手を打った。

「そうです。あなたの打つ手をみておりますと、どうも性急にすぎます」と、諸葛亮は言った。
性急にすぎるという忠告は、だいたい老人が若者にたいして発するものである。
少容は自分の息子よりずっと若い諸葛亮に、そう言われたのだ。

少容は苦笑をうかべはしなかった。彼女はもうこの若者と、対等に話し合うべきであると思ったのだ。
「そうです。天下が統一されることは、誰もが望みます。しかし、それは難しいのです。第一に、英雄が多すぎます。第二に、それなのに抜群の英雄がおりません。これは曹公をも含めて申せることですが・・・」

「統一をあきらめよと申されるのですか?」白髪のまじった美女は訊いた。
「いつかは統一されるでしょう。この国は統一されねばなりません。それまでに何十年かかるかわからないのです。三十年、五十年・・・そのあいだも、人びとは生きて行かねばなりません。その人たちをどうするのですか?」』


という流れからの、少容さんの


『「人それぞれ運命をもっております」
「私は運命を信じません」若者は断乎として言い放った。
「人間の力は、運命にうち克つべきです」』

でした。


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ちなみに続きは

『「では、どうするのですか?」
「天下を三つに分けましょう」と、諸葛亮は言った。

「天下三分?」
「三分の一ぐらいなら、どうやらたばねて行ける人間がいるでしょう。たとえば、中原の曹操と江東の孫権など。天下を統べる器量人ではありませんが、まず三分の一はまかせることができます」

諸葛亮は安定した分裂を、いったんつくり出そうという論を展開した。
いまの乱世を統一するのは至難だが、三分の状態になれば、その三つを一つにまとめるのは、べつに天才の腕を要しない。』

でした。




夢が、星のように飛びます。そして堕ちるのです

陳さんは「秘本三国志」を書くにあたって、世に広がっている"三国志"に己がとらわれないように、羅貫中さんの「三国志演義」を読み返すのをわざと避けられたそうです。←ずいぶん昔、読んだことはあるそうです

そして(羅貫中さんも「三国志演義」を創作する時に用いたといわれる)正史の「三国志」「後漢書」「資治通鑑」を根本資料として使用し、それを自己流に読み、解釈し、それにご自身の推理を交えて「秘本三国志」を書かれたそうです。


僕が十代のころ、高校生のころですね、一番最初に読んだときは、一風変わった「三国志」、というか、実録、というか、なんつうんでしょ、テレビではああだけど、実は本当の水戸黄門はこうでした、みたいな感じというか、ねえねえ知ってる?横山光輝(さん)の「三国志」ではああだけど、実際の劉備はこんなんだったんだよ、と、人に話すネタモトというか、まあそんな感じで読んでたんです。

だから、この「秘本三国志」の結びの一節。


『「三国志」の物語は、中国の庶民が統一平和を念願し、祈りをこめるようにして、代々、語り継いだものである』


この言葉の意味が僕に理解できようはずがなかったんです。
ただ単に唐突感を覚えただけだったんです。
でも現在、パラパラと拾い読みしてみると、「秘本三国志」こそ『統一平和を念願し、祈りをこめるようにして書かれた物語』じゃないですか。


人が死にすぎた。
あまりにも死にすぎた。

そして今も死ぬ。
簡単に死ぬ。
人は死ぬためだけに生まれてくる。


『乱世のはじまりには、人間は禽獣のようであった。利害が反すれば、その場で人を殺し、眉一本うごかさない。人間の心がそのようであったから、世の中が乱れたのかもしれない』
しかし『「生まれたからには、生きて行かねばなりません。これが人間のさだめです」』

『孔明はながいあいだ軍隊を指揮してきた老将校に、むかしの兵卒と、いまのそれとの違いをきいたことがある。その老将校はちょっと考えてから、いまの兵卒は、よく泣きますなぁ。敵兵の死骸を見ても涙を流すやつがふえてきましたよ。むかしの兵隊は、そんなに女々しくなかったですがねぇ』

『彼らはもはや禽獣ではなかった。そして、そのことが理想主義的現実政治家の孔明に、希望を与えてきたのである』

『人間はよくなりつつある。そう信じなければ、孔明のような仕事はできなかったであろう』


え~確かめたわけではないですが、断言できます、これは陳さんの創作です。

このような老将校の述懐は絶対になかったでしょう。
現実の孔明さんが己の死の間際に『人間はよくなりつつある』と信じることもできなかったでしょう。

『人間はよくなりつつある。そう信じなければ』

これは陳さんご自身の言葉でしょう。
で、え~、突然ですが、坂本龍馬さん。


んで、司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」。

これは安部龍太郎さんの「龍馬脱藩の道」からの孫引きになりますが、司馬さんは「竜馬がゆく」を書く直前、桂浜の龍馬像を初めて訪れたときのことをのちに回想し

『ここに来て、はじめてあなたに会ったとき、名状しがたい悲しみに襲われました。そのときすでに、私はあなたの文章を通して、精神の肉声を知っていましただけに、そこにあなたが立ちあらわれたような思いをもちました』

そして

『全霊をあげて、あなたの心を書く』


んで、梅原猛さんがお書きになったのを読んだとおもうのですが、"鎮魂"てのもやっぱり重要な要素ですかね。現実とつながる"鎮魂"


そうそう

「秘本三国志」の最後。もちろん「私は運命を信じません」ではなく

『「横におなりなさい」と少容はすすめた。
「そうですね。横になっても見えますから」そう言って、孔明は横になって蒲団を胸までかぶった。
「なにをごらんになります」

「私の夢です。夢が、星のように飛びます。そして堕ちるのです、この五丈原に」』

でした。




更科日記の作者は菅原考標(たかすえ)の女(むすめ)、やっぱり歴史は歴志ですかね

でも現在、平安期の人物で一番の世界的有名人は、もしかしたら源氏物語の作者の方かもしれませんよね。この方も藤原為時(ためとき)の女で本名はわからないんですかね。


さて、更科日記。

もしかしたら昔昔の大昔、教科書とかで読んだことあるのかもしれないけど、まあないとおもうんです。
つうわけで今、ちょろちょろっと調べたら、書いたのは菅原考標さんの娘さんで、作品の成立は平安中期ころですと。

ん?おや?

いえね、この更科日記は菅原考標さんの娘さんが、少女時代から夫と死別した晩年までの約四十年間を書き記した日記らしいんです。

これは本当に少女時代から綿々と書き続けたものなのか?
途中から日記を書き始め、折にふれ少女時代を回想したものなのか?
あるいは晩年になって、自分が歩いてきた人生を振りかえったものなのか?

僕が今読んでる本ではそこらへん簡潔すぎてちょっとよくわかりません。
もしかしたら少女時代から書き続けてきた日記を、人生のどこかの時点で清書したとか?
ま、もちろんよくわかりません。


で、そこは今回はおいといて、え~と、菅原考標さんの娘さん、お生まれはお父さんの任官の地であった今の千葉県ですか?
で、お父さんが任期を終え、家族みんなで京都に帰るトコからこの更科日記はスタートですかね?

で、そこも今回はおいといて、更科日記、もちろん女文字、かなで書かれているんですね。
で、僕が眠いこともありますし、話が飛びまして、今に残っていないだけで、もしくは有名でないだけで、この更科日記みたいなのは当時の貴族の女性、結構みんな書いていたとおもうんです。
かなで書かれた女性の文章が王朝にあふれかえっていたとおもうんです。

更科日記より百年くらい前になるんですかね?
紀貫之さんがおもわず女性のふりをしてかなを使い土佐日記を書きたくなるくらい、女性のかなの文章が王朝にあふれかえっていたとおもうんです。

だって当時のかなの総数がいったい何文字だったのかは知りませんが、いろはにと五十個くらい文字を覚えればとりあえずは文章が書けるわけですし。
あくまでよその国の言葉に自分の述べたいことを翻訳した漢文と違い、普段しゃべる感じでかなり自由に書けるわけですし、そりゃ書くでしょ。


で、それもこの際おいといて、いえね、ふとおもったんですけどね、こう夫の任官地に妻も一緒についていくわけではないですか。
ま、そりゃ、中には単身赴任の方もいらっしゃったでしょうが、菅原考標さんの娘さんもお父さんの任官地でお生まれになっているわけだから、こう夫の任官地に妻も一緒についてきてるわけではないですか。
で、その夫の任官先でね、人によっては近所の庶民の子どもをあつめて、ま、暇もつぶれるということで、その子たちにかなを教えてあげたりすることもあったのかなと。

ほら、だから漢文と違い、いろはにと五十個くらい文字をおぼえればとりあえずは文章が書けるわけだから、普段しゃべる感じでかなり自由に書けるわけだから。
そうやって日本全国、津々浦々、かなが広がっていったとか。
そして土着の武者が出てくる下地ができたとか。


で、おやすみなさい。




誄詞(るいし)。

ここは井上ひさしさんの言葉をお借りして『亡くなった人の生前の行いを重ねてほめたたえると同時に、その魂が天にいくように祈る「誄」』。

で「秘本三国志」ですが、だから作中にあるように、諸葛亮さんが『人間はよくなりつつある』と、それは本当に小さな希望かもしれませんが、そう思いながら死んでいくことは現実にはとてもなかったろうとおもうんです。

当時の状況的に絶対にありえないとおもうんです。
もしかしたら道なかばに倒れる絶望やあきらめの気持ちのほうが強かったかもしれないな。
そうおもうんです。

この一文は作者の陳さんから諸葛亮さんへの、たまたま違う時代を生きた、同じ人から人への「誄」だろうとおもうんです。
というか当時を生きた人たちすべてへの「誄」だろう。

そう思うんです。


後漢第十代質帝の死んだ西暦146年の4756万余の中国の人口が、呉の四代皇帝孫皓が晋に降伏した西暦280年には780万余の人口へと、その数字だけを今に残し、何も言えずに"消えた"人たちへの、『禽獣』の時代は終わった、『人間はよくなりつつある』という、あなたたちの死は無駄ではないという、陳さんからの「誄」だろうと思うんです。

さらに僕の想像をころがせば、人が人を一番殺したろう、そしてまだ殺し続けている、『禽獣』の時代20世紀を生きた、生きる人たちへの「誄」だろうと思うんです。

陳さんがこの作品を発表したのは昭和50年代初頭。

『人間はよくなりつつある。そう信じなければ』

これは陳さんご自身の言葉だろうと思うんです。


でですね、これは後藤繁雄さんとの共著ということになるのでしょうか、坂本龍一(ゴミ処刑以下同文)さんの「skmt」。
の、中の"065 柄谷行人"から引用させていただいて

『(坂本さんは柄谷さんに)「救い」というテーマでインタビューを試みる』

『「今の人類にとって、はたして救いの理念とかあるんでしょうか」と問うと、柄谷行人は「それはもう共産主義しかないですよ」と笑った』

『共産主義の名のもとに粛清された人間の数は一億人を超えるだろう。共産主義に限らず、人類の歴史には、戦争、宗教や政治の名による死者が累累と横たわっている。それらの人々の魂を誰も救えないだろう』

『柄谷行人は、「僕は唯物論的な政治ということを考えているんだ、まあ、考えているだけだけど」と言って、彼に説明を始めた』

『とにかく、その死者たちを全部記憶すること、個人レベルで、どういう人がいて、どういう感情をもって、どういうふうに生きてきたかということを全部データ化して記憶すること。ユダヤ人たちが、ホロコーストで殺された400万人の一人ひとりの情報を、出来るだけ集めてコンピュータに打ち込みデータ化しているように』

『人類史の中で、最後の社会に到着したもの(たとえば今なら我々だ)、その者たちこそ最も「呪われた」人間だ。なぜならその者たちの今は、無数の死者の上に成り立っているから。だから一人ひとり個人に至るまでの世界史を全部記憶すること。それしかないだろう。歴史や報道は、死者を数字化し、つるつるにしていく』



でですね、ご自身も太平洋戦争中フィリピンの別の島で戦われた、大岡昇平さんの「レイテ戦記」。

日本軍が8万人以上の戦死者を出したレイテ島の戦記。の、最後。
僕はテレビで「レイテ戦記」のドキュメンタリーを観るまでまったく思いがいたりませんでした。


いえね、この本はその本編が終わった後に、陸軍部隊編成表としてだったかな?将官以上ではありますが、何ページにもわたって延々とレイテ島で戦った人の名前が書いてあるんです。

部隊名、階級、名前、それだけが何ページにもわたって延々と書いてあるんです。
僕は当たり前のように読み飛ばしました。

そう僕はテレビでそのドキュメンタリーを観るまでまったく思いがいたりませんでした。




あせらないあせらない(2009831)

ひとやすみひとやすみ

晩御飯を食べた後、ちくま学芸文庫版の『正史 三国志 蜀書』の関張馬黄趙伝 第六のうちの「関羽伝」を読む。これは、宋の文帝さんの命令による裴松之さんの注釈などを含めても、正味8ページといったトコなのでわりとすぐ読了(関羽伝のみ)。

しかし、正史三国志は紀伝体で、本紀や列伝などそれぞれの人物の伝記が互いに補完しあって成立しているので、三国志について何の知識もない人が、本紀(曹操さんの伝記とか)ならまだしも「関羽伝」などの列伝の一つをいきなり読んでも、なんのことやら訳がわからないでしょう。

さて、これはどんな感じだろ?
何の知識もない事について、総論すっとばして各論をいきなり読み出す感じかな?どうだろ?
はい。いつものようにこの辺から話がフワフワしてきますよ。

そこで『正史 三国志』をもとに書かれた、元末~明初くらいに成立したと言われてる小説『三国志演義』ですよ!『三国志演義』その物じゃなくても、それをもとにした作品ですよ!

ちなみに僕は、人形劇「三国志」に始まって→横山光輝「三国志」→吉川英治「三国志」と渡り歩いたので大まかな歴史の流れは無問題。正史「関羽伝」の欠けてるピースも脳内補完しながら読めます。


それに「演義」→「正史」と逆流すると、後世の人々がどのように構想力をはたらかせて歴史的事実を改作したか、想像力の羽を広げて歴史の隙間を創作したかわかって、それはそれで興味深い(本人もことわってるように、正史の裴松之さんの注釈の中にすでに創作[推測]がかなりまじってるらしいけど)。


ついでに森鴎外さんの「歴史其儘と歴史離れ」にも思いをはせちゃったり。
はせちゃったあげくよくわかんなくなって眠くなったり。

と、ここまで書いてなんですが僕は『三国志演義』自体を読んだことございません。

で、僕は実は人形劇三国志を観てた子供の頃から、中間管理職の悲哀を露骨に感じさせる魯粛に惹かれまくりなのです。

実際のところどういう人だったのかはもちろんわかりませんけど。




Winner Takes It All(20100224)

例えば臥龍・諸葛孔明が「天下三分の計」なんていらん知恵を劉玄徳に吹き込み、それを実行させなければ曹孟徳は天下統一を果たしていたのだろうか?

ま、考えは人それぞれでしょうが、後漢末期の騒乱により中央支配のたがが外れた地方のエネルギーはまだまだ隆盛期にあり、孔明さんがいようがいまいが僕は孟徳さん一代じゃやっぱり統一までは無理だったのではなかろうか?と思います。

長い中央集権の間に圧縮して溜め込んだ、もともとン百年前に秦王・政に滅ぼされるまでは自分達の国を持っていた(特に中原以外の)周辺の民のエネルギーをすべて吐き出させ、高熱を持った鉄を素手で触っても大丈夫なまでに冷ます時間はどうしても必要だったと思います。


とはいうものの、当時の漢帝国の州の殆どを支配し圧倒的な勢力を誇った魏王曹孟徳さん。
でも漢の帝位簒奪、新帝国建国は自分の代ではおこないませんでした。
それを為したのは息子の子桓曹丕さんです。

もちろん自分はもともと漢の臣だという個人的感傷も孟徳さんの中にはあったんでしょうが、それよりもまだまだ力ずくで簒奪を行える状況ではなかったつうことでしょうね。


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そんなコトやろうもんならお膝元から政情不安一直線みたいな。
内憂外患一直線みたいな。

やっぱりここでも一般民衆の心の中から「漢の民」という意識を薄め、できれば消し去る時間が必要だったんですかね。

当時の人間の平均寿命がどれくらいかはわかりませんが、十年もすれば自然と「漢の民」ではなく「魏の民」だという意識に大多数の人がなりそうな気もしますし。
二・三年の短い間権力を握り専横をふるっただけならアレだけど。

あと人情として孟徳さんが形の上だけでも漢の臣としてその生をまっとうすれば、「もう魏は漢への義理は果たしたよな、現実問題、中原は魏が実質支配してるんだから」「しょうがない、これも時の流れだ」と思ってくれるだろうと。

後はやっぱり孟徳さんが漢の臣下でありながら帝位を簒奪したっつう後世の悪名を忌んだっつうトコも大きかったんですかね(完全にこの人インテリだし)。


あれ?

でもこういう後世の目(文章)を気にするって考え方は何時からなんだろ?

項羽さんとかあまり気にしてる感じしないけど。
いや、でも死の前に自分は劉邦に負けたのではない、天が俺を滅ぼすのだ!とくどいほど繰り返したのは後世の目を気にしている証拠か?

でもその言葉を聞いた人は皆項羽さんと共に戦って死んでいる気がするし、本当に項羽さんそう言ったのかな?

まあ「大王よ、ここに一隻しかない船で対岸の故郷に渡り追っ手を振り切り、そこで再起を図りなさい」と言った烏江の亭長は聞いたのかもしれんが、それ以前の"抜山蓋世"や虞美人のこととかも「まあ、長者よ聞いとくれ。実はな・・・」と亭長相手に延々話したのかな?

「いいか、後世の者供よ!俺は決して劉邦に負けたのではないのだぞ!天が・・・」

と、くどくど話したのかな?
それも何か項羽さんのイメージが・・・


それともそういう王の発言を記録する担当者みたいな人がいたのかな?
基本的に正確な資料をそれこそ後世に残すために、あらゆる陣営から生命を保障されているみたいな人たちが。


う~ん、実は、この文章を書き始める前から、こういう後世の目を気にするっていうのは漢の時代につくられた考え方で、それ以前はあまり一般的な考え方ではなく、それにとらわれた孟徳さんもやっぱり「漢の子」だなぁ、というゴールに話を持っていきたかったんです。
ほら、たぶんもともとその原型はあったんだろうけど、いわゆる"武士道"は平和な江戸時代に形成されたらしい、みたいな感じで。

でもなかなかそう上手くはいきませんね。


さて、話題をかえまして、漢、魏、そして念願の統一を果たした晋。

しかしこの統一も長くは続かず、(後)漢帝国滅亡西暦220年、その後に安定した長期全国政権が誕生するのは唐帝国建国西暦618年。

つまり三国志とは400年にわたる激動の時代(なんなら地方の時代)のほんの序章だったと。
多分、その間には異民族の進入とかいろいろあったんだろうし、無知なまま書くのもなんだけど、後漢末期の騒乱はもしかしたら政治が悪い云々レベルの話ではなく歴史の流れの避けられない必然だったんですかね。

そのエネルギーが収束し熱が冷めるのには曹孟徳一代の時間ではとても足りず、400年を必要としたと。
つまり400年にわたる民衆の苦難の時代の扉を、臥龍・諸葛孔明さんが「天下三分の計」なんていらん知恵を出して思わず開いてしまったわけでは決してないと。

もちろん400年間、延々戦乱に明け暮れてたわけではなく、分裂した国家同士均衡を取って(冷戦?)安定してた平和な時間も多いんだろうけど


日付でわかるように、最後の二つは2009年と10年の文章です。三国志に関する文章なのでここへ

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