4.志

よくいわれていることではありますが

というわけでですね、漢字だけでも、『日本語読みと中国語読みの両方があり、しかも日本語読みが多様』(以下ライシャワーの日本史)なうえに、『漢字を極端に簡略化して、字義をまったく無視し、単なる表音文字として用いた』ひらがな・カタカナ。

日本ってなにするにしろ責任の所在がようわからん、あいまいじゃ、つうのは、なにげに日本語の漢字・ひらがな・カタカナ鼎立という『世界中で常時使われている表記法のうちで、おそらく最も難しく厄介なもの』つう『煩雑』さにもその理由の一端があるんですかね。


ほら、ononですよね。onupperではないですよね。to mountでもないですよね。
でも「上」はonであり、aboveであり、upperであり、to mountであり、to presentである。
もちろん、うえであり、かみであり、あがるであり、あげるであり、のぼるでもある。
とうぜん、ウエであり、カミであり、アガルであり、アゲルであり、ノボルですらある。


ん?ああ、たしかに「かみ」と書いたよ。言ったよ。なんだい?「神」と僕が書いた、言ったと思ったのかい?君は「髪」だと?いやいや、僕はそんなこと書いた、言った覚えはないさ。勝手に決めつけないでくれるかな。んん?おや?君は「上」かい?おお!君はするどい!素晴らしい!いいとこついてるぞ!!というとでも思ったのかい?だから勝手に思い込みで決めつけないでくれるかな。僕はね「加味」だという意味を心にこめて書いたのだよ。言ったのだよ。ん?なんだい?その不服そうな顔は。おや?なんだい?もしかして君達は最初の「なんだい」を「何だい」と書いたと、言ったと思ったのかい?ああ確かに二回目、三回目の「なんだい」は「何だい」さ。でも最初の「なんだい」は「何だい」ではなく「難題」と言ったのだよ、書いたのだよ。な、難しかっただろう?ん?なんだい?その不服そうな顔は。おや?なんだい?もしかして君達は「おや」を(略)


で、↑すべてを大肯定して話を続けますが、地理的状況に拘束されつくりあげられた日本語の煩雑さが、その後の日本人の性質に影響を与えたのでしょうかね?それとも日本人が日本人であるもともとの性質が、自分達の好みにあった煩雑な日本語をつくりあげたんでしょうかね?で、もし日本語の煩雑さが日本人の性質に影響を与えたのなら、漢字が流入する前の日本人はどんなだったんでしょうね。

で、ここで、結構そこにいる誰もが読めない漢字を読めたりもするんですが、そこにいる誰もが書ける漢字を書けないことがその三十倍くらいの確立である僕がいいますが、この日本語の『煩雑』さって悪くないですよね。



その文字を自分で書いておきながら、彼はカタカナの存在が頭から抜けているかもしれない

というわけでですね、平安朝前期のお人、紀貫之さん。
の「土佐日記」って、"かなまじり"ですよね?
全篇"かな"では無いですよね?
"日記"とかは漢字使ってますよね?

『をとこもすなる日記といふものを、をむなも』と、わざわざ女性のふりして"かな"まじりの文章書いたんですよね?

そこらへんまったく知らんです。

で、ひらがなって、成立当初は女文字とかいって男が使うなんて恥ずかしいって感じだったんでしたっけ?
士大夫たるもの、男はだまって漢文じゃ、みたいな。

少なくとも平安の頃までは、まあそもそも文字を持っているのは一部の支配階級の人たちだけだったのかもしれんけど、漢字・ひらがな・カタカナ、あんまり交じり合うこともなく、日本語の中で棲み分けしていたんですかね?

ん~でも和歌ってどうなんだろう?
あれは"かな"使いますよね。

万葉集とかはあれでしたっけ?
漢字をそれこそ"かな"のように純粋に表音文字として当て字して使ってましたっけ?
つうか、そういえば、万葉仮名って名称ありましたよね。
そこから、それがめんどくさいってことで"かな"が発明されたんですかね。

ん~でもそうだとすると万葉集は、つうか和歌は"かな"、つまり女性的なもの、たおやめぶり、ですか。
でも男もガンガン詠んでますよね。女文字とかいいつつ実は最初から裏では・・・だったりするんですかね。

あれ?古事記とかはどうなんだろう?
あれは原文は漢文ですか?どうですかね?


ああ、そういえば、これまた不確か記憶たよりですが、陳舜臣さんの言葉で「古来、中国の詩は、男は志をのべるもので、女は怨みをうたうものだ」みたいな、ん?これはあんまり関係ないか?


つうか、それがすべてではないでしょうが、和歌って男が女に求愛の歌をおくって、んでもって女が男にその返事の歌をかえして、みたいな感じですよね。

で、女性におくるんだから、男も"かな"使いますよね?
で、女性はもちろん"かな"使いますよね?

で、眠い。

というわけで、「西郷南洲遺訓」。
西郷隆盛さんの遺訓ですね。
なぜか我が家にあるんですけどね。漢文。返り点。読めん。なんですね。

で、眠い。

あれですかね、結構時代くだっても、それこそ明治政府によって学校教育が整備されるまでは、眠い、手紙とか日記では当て字とか"かな""カナ"まじりでけっこう自由に書いてますよね。

んで「西郷南洲遺訓」。漢文。返り点。読めん。なんですね。

会津藩の「京都守護職始末」も「新撰組、規律厳粛、志気勇悍、水火と雖も辞せず、後諸浪士来附するもの頗る多く、守護職の用をなせる事、亦甚だ多し」だもんな。
「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」だしな。

で、結論は限界。つまり限界がけつろん。

おやすみなさい。



「三国志」は「三国志」じゃないですか、「三国史」ではなく

「漢書」は「漢書」だけど、その中の「地理志」は「地理志」じゃないですか「地理史」ではなく。
で「三国志」は「魏志」や「魏史」とかではなく、「魏書」「呉書」「蜀書」の総称ですね。
これちゃんと調べたわけじゃないですけど、「漢書」とひっくり返ってますかね?

まあ「史記」は「史記」ですね「志記」ではなく。


まあ「三国志」に関しては、「魏書」「呉書」「蜀書」が「漢書」と同列という考え、少なくとも魏書が・・・あれ?魏志倭人伝・・・

で、それはさて置き、""です。
ちなみにここで登場するのも、あくまで僕の記憶たよりの「古来、中国の詩は、男は志をのべるもので、女は怨みをうたうものだ」の、""です。

で、それを前提に話をころがしますが、「三国志」や「地理志」。

この"歴史""歴志"つうのは、あれですかね、"歴史"は男どもの志の具象化、傷跡、あくまで男のもんじゃ、てなことなんですかね。←もちろん""""以外にも""だの""だの""だのありますよ

it's a man's man's man's worldてなことなんですかね。


つうても、たとえば漢帝国の初代皇帝劉邦さんの奥さんの呂后さんみたいに、劉邦さんの死後"女の身でありながら"帝国の実権を握った人もいるんですね。
事実上の皇帝として中国の政治をつかさどった人もいるんですね。

で、結果、現在、なんでも呂后さんは唐の則天武后さんや清の西太后さんらとともに中国三大悪女と呼ばれているらしいんですね、まったく悪い女がいたもんだと。

ま、たしかに劉邦さんの本妻の呂后さん。晩年の劉邦さんが愛した女性を、劉邦さんの死後異様に残忍な方法でなぶり殺しにしたり(無茶苦茶です)。呂の一族で権力を握るために、夫の一族である劉氏の人間や反抗する邪魔な人間を殺しまくったり。もう、かなりエグイことをやりたおしています。ひどいもんです。そりゃ悪女とよばれます。

が、↑の話はあくまでも王宮内での話で、どうも呂后さんの時代は戦争もなく平和で、刑罰も厳しくなく、庶民には暮らしよい時代だったらしいんです。

庶民には悪い時代ではなかった、悪い権力者ではなかった、みたいなんです。
呂后さんの死後、そっこう呂一族は誅殺され劉氏に実権がもどり、んでもって漢帝国栄光の武帝の時代がやってくるわけですが、その栄光も平和で穏やかな呂后さんの時代の国力の蓄えがあったからこそ、とも言われているらしいんです。

と、昔、陳舜臣さんの「中国の歴史(二)」で読んだ気がします。
はい""です。


もちろん、呂后さんの時代は王宮側の人間である官吏のみなさんが「いらんことしたら殺されるかも」とビクビクしてて、なんもできず実質無為自然、庶民まかせ、そしたら思いのほか上手くいった、結果オーライってこともあるかも。



殺伐とした話でございます

まあ、しょうがないとこもあると思うんです。

だって、ナニさんか名前はわすれましたが、晩年の劉邦さんに愛された女性。
この方、正妻である呂后さんとの子ではなく、自分との子を劉邦さんの跡継ぎにするよう熱心に頼み込んでいます。

「漢帝国は呂后さんトコの息子ではなく私の息子にちょうだい」と。

まあ、これもしょうがないとこがあると思うんです。

だってこの方、天下人劉邦さんの愛情を一身にうけた自分が呂后さんに怨まれていることはよ~くわかっています。殺意もひしひしと感じています。

とは言っても、もちろん劉邦さんが生きている間は大丈夫なんです。
なんといっても絶対権力者が愛する女性ですから。
正妻である呂后さんといえどもなんの手出しもできません。
(だからこそ呂后さんの怨みはひたすら深くなっていったんでしょうが)


でもいかに天命を受けた皇帝とはいえ、劉邦さんも人間です。
もういい歳です。

あの始皇帝すら、万金を使ってどれだけ渇望しても、ついに不老不死の薬を手に入れることはできませんでした。ええ、人は死にます。

劉邦さん亡き後、呂后さんの息子が跡を継ぎ、漢帝国の権力を握ったらどうなるか?
今のままなら自然とそうなることでしょう。
そして呂后さんは真っ先に自分を殺すでしょう。
そして自分の息子を殺すでしょう。

まさに文字通り「殺るか殺られるか」です。

それを阻止するためには、まだ幼い自分の息子を帝国の次の皇帝にし、権力を握るしかありません。
そして勝者として呂后さんを「殺る」しか自分と息子の命を救う術はありません。


んなもんだから、この方、正妻である呂后さんとの子ではなく、自分との子を劉邦さんの後継ぎにするよう熱心に頼み込んでいます。

「漢帝国は呂后さんトコの息子ではなく私の息子にちょうだい」と。

で、劉邦さんもそこらへんの事情は重々承知。それにどうも呂后さんの息子さんは優しい性格の人だったみたいで、劉邦さんも戦乱が収まったばかりの帝国の皇帝になるには"ひ弱"すぎるのではないかと判断。

「自分の跡継ぎは呂后との子ではなく、愛するこいつの子にするか」

と、劉邦さんの考えが思いっきり傾斜します。
(だからこそ呂后さんの怨みはひたすら深く深くなっていったんでしょうが)



さて絶体絶命の呂后さん

絶対権力者である劉邦さんが「俺の跡継ぎはアッチ」と言ったらもうそれまで。
どうすることもできません。

それに天下人劉邦さんの愛情を一身にうけたアイツが自分をうとましく思っていることはよ~くわかっています。嘲りもひしひしと感じています。

とは言っても、もちろん劉邦さんが生きている間は大丈夫なんです。
なんといっても絶対権力者の正妻ですから。
絶対権力者が愛する女性とはいえ、呂后さんにはなんの手出しもできません。

でもいかに天命を受けた皇帝とはいえ、劉邦さんも人間です。

もういい歳です。あの始皇帝すら、万金を使ってどれだけ渇望しても、ついに不老不死の薬を手に入れることはできませんでした。ええ、人は死にます。

劉邦さん亡き後、アイツの息子が跡を継ぎ漢帝国の権力を握ったらどうなるか?
今のままなら自然とそうなることでしょう。
そしてアイツは真っ先に自分と息子を排除するでしょう。
先帝の正妻とその息子が、それ以外の者が権力を握ったときにどうなるか?

まさに文字通り「殺るか殺られるか」です。

それを阻止するためには自分の"ひ弱"な息子を帝国の次の皇帝にし、権力を握るしかありません。
そして勝者としてアイツを「殺る」しか自分と息子の命を救う術はありません。


んなもんだから、呂后さん、正妻である自分の子が劉邦さんの後継ぎになれるようにと、その智謀で劉邦さんに天下をとらせたとも言われる張良さんに「お願い、いい知恵だして」と熱心に頼み込んでいます。

んでもっていろいろ端折りまして。

この張良さんの策のおかげで、無事呂后さんの息子さんが劉邦さんの跡継ぎに決まります。どんなにその後に待ち受ける運命がわかろうとも、劉邦さんは皇帝として、個人の愛情よりも帝国の安定をとりました。

「殺るか殺られるか」

だからいろいろとしょうがないとこもあると思うんです。
といっても劉邦さんの死後、呂后さんがこの方におこなったことはあまりにも・・・ですが。
ちなみに、この方が殺された後の息子さんの消息。

二代皇帝となった呂后さんの息子さん、ほんとうに優しい人だったんですね。
「弟があぶない。このままでは私の母に殺される」と、つねに自分の傍におき寝食を共にしていたそうです。

でもある日の早朝のことです。ずっと大丈夫だったため気の緩みもあったのでしょう。
呂后さんの息子さんが一緒に狩に行こうとしたら、弟さんはまだ寝ていました。

だから「起こしたらかわいそう」とそのまま寝かせて一人で出かけたら、その間に弟さんは呂后さんに殺されてしまったそうです。

と、昔、陳舜臣さんの「中国の歴史(二)」で読んだ気がします。

ええ、""です。



ただね、鎌倉幕府の成立から応仁の乱までは280年くらいしかないんですよ

んでも平安朝くらいまでの日本ってどれくらいの人が文字の読み書きできたんですかね。
やっぱり中央の貴族とか地方豪族とか支配階級の人ら限定ですかね。

まあそのほうが日本全国という横の面でも、時間という縦の線でも、情報管理がたやすく、民衆を支配するにはなにかと便利だったりするんですかね。
そもそも読めなきゃ何書こうが読まれる心配はないですし。

今だって、たとえばロシア語で書かれた文章を見せられても、それがどれだけ重大な情報だろうが僕には無価値ですからね。

(※偉大ですグーグル翻訳・2013/12/02(※いつもお世話になっているので・2013/12/02))

もちろんネット翻訳なんてしませんしね。
したところでワケがわからんかったりしますしね。

(※そんなことはまったくありません、要は使い方です・2013/12/02


は、さておき、そんな意地悪な発想ではなく、単に自分が生まれついた狭い共同体を唯一の世界として一生をすごしたろう当時の民衆には文字は必要無かったんですかね。人生接するのはすべて顔見知りの人たちという環境下で。その共同体でつつがなくお付き合いができる程度の話言葉の語彙があれば十分で。

なにげに、たまに文字を勉強するような人がいれば「お前、そんな人生に必要ないもんにうつつをぬかしてるんじゃない、この道楽者!」みたいな感じで親に怒られたりしちゃったんですかね。

つうか、そもそも当時の民衆は狭い共同体を唯一の世界として一生をすごしていたんですかね。
当時の民衆には移動の自由はなかったんですかね。

支配階級と民衆。
そこに流動性は一切なく、当時ははっきりと二分化してたんですかね。
それはまさに奴隷社会。
打破できてよかったではないか。
鎌倉幕府の成立こそまさに革命だ。

と安直に流れで結論づけていいんですかね。


ああ、そうそう、当時の"普通の人たち"という意味で最初"大衆"と書こうとしたんですけど、これだと意味違っちゃいますよね。で、"庶民"もなんか違う気がして最終的に"民衆"に落ちついちゃったんですよね。

いえね"大衆"にははっきりと近代の、"庶民"にはぼんやりと近世の香りがするんですね、僕的に。
つうか、当時、当時、と言いますが、いや、僕がね、自分で言ってるんですけどね。


で、当時といいますが、当時て何時ですかね。

ほら、大化の改新から鎌倉幕府の成立までだったら550年間くらいあるんですけどね。
室町時代の応仁の乱から平成二十年代までくらいあるんですけどね。
これを"当時"の一言で片付けていいんですかね。

ん?おや?

つうか、もし、大化の改新をそれまでの旧弊を打破した革命と呼ぶのなら、下克上、戦国時代の幕開けとなった応仁の乱もまさに革命ではないですか。

そう呼ぼうではありませんか。

んでもって、旧弊を打破した大化の改新で成立した新しいシステムが旧弊となったとき、それを打破した鎌倉幕府の成立を革命と呼ぶのなら、そろそろ旧弊を打破した応仁の乱で成立した新しい精神を旧弊として打破する革命がおこってもいいころですよね。

と、安直に流れで結論づけていいんですかね。
よし、あきらかに途中から話がかわっとるが、今日のむりくりはこんなもんでいいだろう。

あ、そうそう、今先、つうか、もうけっこう先、DVDで録画した「水曜どうでしょう」観てたら耕三寺てお寺の道路標識(でいいのかな?)が出てきて、そこに”kousanzi temple”て英語表記で書いてあった。やっぱりそうなのね。



:でも"民衆"てことばの響き、なんとなく冷たくないですか?

は、さておき、んでですね、鎌倉幕府の成立から応仁の乱まではだいたい280年くらいなんですね。
280年くらいしかないんですね。

んでも、これ目をほそ~く、ほそ~くして見れば、おもいのほか270年に見えないこともないんですね。

つうかこれむしろ270年じゃないか?
いや270年だろう、てな感じなんですね。

そうすると、だいたい徳川が天下を握った関が原の戦い(西暦1600年)から徳川が天下を奪われた戊辰戦争終結(西暦1869年)までと同じ期間なんですね。


は、さておき、ところで地方分権つうのはあれですかね、革命勢力をつくろうてことなんですかね、は物騒ですかね?つうかほんとうの野党というか中央政権への批判勢力をつくりましょってなことなんですかね?

ほら平安の王朝に対しての坂東武者、徳川に対しての薩摩や長州みたいに、「あ、なんならいつでも政権とってかわりますよ」つう集団をよそにつくりましょ、てなことなんですかね。もちろん、いまさら西南戦争以来の内乱をやったるぞ~というわけではなく。

だって民主や自民なんて、藤原氏と平氏、でもなく、藤原氏の中の争い、江戸幕府の幕閣の争いでしかないやん、てなことなんですかね。

別にそういうわけではない?

四重底くらいで。20180829。

も、さておき、大化の改新から鎌倉幕府の成立までがおおよそ550年。
つうことは藤原氏のみなさんは550年間も日本を支配していたんですな。
つうてもこの550年、大和・奈良・平安と基本的には戦争もなく平和な時代ですよね。

もちろん芥川龍之介さんの「羅生門」の世界というか「今昔物語」の"今は昔"な世界でもありますが、550年間政権がひっくり返らなかったということは、そこまで悪い政治ではなかったんですかね。

つうか藤原さん、政治って何やってたんでしょ?

いまいち見えませんね。
ま、僕がそれを知る努力をしていないだけですけどね。

だって『真言密教の金剛界マンダラの成身会の「不生無礙常瑜伽」的存在地平の構造なんか、プラトンのイデア哲学やピタゴラスの世界像などを持ってくることによって初めてその独自の構造的整合性の成立が哲学的に可能』になる教義を作り上げた時代の人たちですからね。

まさか550年間、「ホッホッホ、風雅やのぅ」とみんなして言ってただけとも思えませんよね。

も、さておき、そういえば佐藤さん。苗字。これ昔"藤原氏を補佐する"で佐藤だ、て何かで読んだ気がします。

ええ""です。



親?ではなく、おや?

寺、つまりてら、つまりじ、字、ではなく寺、つまりじ、これは"zi"ではなく"ji"か?
ではなく、いや、べつにではなくというわけではなく、つまりじ、寺、ではなく、字、つまりじ、これが"zi"ではなく"ji"か?

考えてみたら、考えてみなくても、僕はじ、つまりじ、じ、をPCで打つときは"ji"ではなく"zi"を使うのだ。
んでも"ji"でもじ、"zi"でもじ、"red"でもれっど、"led"でもれっど、"ledzeppelin"”はれっどつぇっぺりん、まあほんとは"lead"でもれっど。

ん?"lead"はれっどと日本語表記するか?

おや?ああ、そうそう、"red"、これだと発光ダイオードになってしまいますな。

さて、色は匂えど散りぬるを、わが世だれぞ常ならん、有為の奥山今朝越えて、浅き夢みし酔いもせずな日本語の母音と子音の数て世界中の言語の中でどんなもんなんでしょ。

多いほうなのかな?
少ないほうなのかな?
普通なのかな?

あ、「日本語の母音と子音の数」、「(現在の)日本語の母音と子音の数」、にします。

たぶん時代々々で変動してますよね。あ、蝶々、つまりちょうちょ、ぬ?ちょうちょ、では、蝶々に変換しませんな、そう、蝶々、つまりちょうちょ、つまりちょうちょう、これ、いつころかは知らんけど、昔はてふてふですよね、てふてふって、てふてふと書いて、てふてふと読んでいたのかな?いつころかは知らんけど、昔のひとは、それとも、てふてふって、てふてふと書いて、蝶々、つまりちょうちょう、つまりちょうちょ、と、読んでいたのかな?いつころかは知らんけど、昔のひとは。

で、朝おきてコレぼんやりと読み返してみたら、"red"、これだと発光ダイオードになってしまいますな、と、書いてますな。

いや、なりませんな。

"red"だと、赤、つまりあか、つまりせき、席、ではなく、赤、つまりあか、になってしまいますな。
発光ダイオードは"led"、つまりれっど、ではなく、えるいぃでぃ、つまり"led"、に、なってしまいますな。

これはあくまで冗談なんですけどね。




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