8.寝言は寝て言え
Ⅰ:離脱
僕は昔、幽体離脱をしたことがあります。
と、常々言い張ってるんですけどね。
まあ「どうせ夢だろ?」と言われたら「そうかもね」と答えるくらいのモンなんですけどね。
でですね、昔々、まだまだ女性の眉毛が太かった頃、二十歳前後の頃の話なんですけどね。
僕は夜、というか寝てる時、に金縛りにあっていたんです。
その金縛りにあってる間は、もうホントに目は醒めてるのに体は全く「動けん」つう感じでした。
ちなみに僕は金縛りになる理由としては例の説に同意します。それは体が疲れすぎていて、眠りから醒めた時に脳はちゃんと目醒めていても、まだ体は疲れていて眠ったままの状態にあるために金縛りが起こるというヤツです。(あるよね?)
で、ある夜、遊びつかれでもしてたんですかね、どうですかね(当時から、つうか今よりもよっぽど、僕はよう歩いておりました)Gジャンを着たままいつの間にか寝てしまい、どれくらい寝たんだろう、目が覚めた時、まだ窓の外は真っ暗でした。とりあえず水でも飲もうと体を起こそうとしたら全く体が動きません。頭すら動きません。目は真っ暗な窓の外に固定です。
「ああ、また金縛りか」
我ながらもう慣れたもの、別段慌てたりはしません。
なぜならほっとけばまた知らないうちに眠りに落ちて、再び起きた時には金縛りはもう解けているからです。
でもなぜかその時は起き上がろうと妙に頑張ってしまいました。
「イチ、ニ、サン!」「イチ、ニ、サン!」
と何回か頭の中で掛け声をかけながらグッと力を入れて(つもり)起き上がろうとしました。
もちろん体はピクリともしませんでした。
それでも懲りずに「イチ、ニ、サン!」とやってたら、ある瞬間いきなりフワッと体が起き上がったんです。「やった!自分で金縛りを解いた!」と嬉しくなりましたが何か変です。何が変かはよく分かりませんが何か変なんです。
それでふとベッドの方を見たら、Gジャンを着たまま横になってる僕がいたんです。
と、常々言い張ってるんですけどね。
Ⅱ:風景の発見
風景の発見、です。
柄谷行人さんの「日本近代文学の起源」の中の『Ⅰ風景の発見』のことではありません。
まんま"風景"の発見です。
前にもちょろっと書いたんですけど、いろんな方のブログを読ませていただくようになり、たくさんの風景写真をみさせていただくようになった影響でしょうか、街中を歩いていると花や木、雑草などに目を向けることが多くなりました。一度目を向けると、世界はその表情を一変させます。東京都内でも、あまりにも豊かな多くの植物達の息づかいに満ちていることに気づきます。
で、同時にそのほとんどの名前がわからない自分にも気づきます。
名前がわからないのはなぜか?それらには名前がないのか?
もちろんそんな訳はありません。だって僕が現在存在しているのは、アマゾンの奥地でもアフリカの高地でもコナン・ドイルの「失われた世界」の舞台でもなく、平成二十一年の日本国東京都区内ですからね(2009年10月26日)。そうそう人類未知の動植物にぶち当たるわけがありません。
人間がつけた名前はあります。
ではなぜ、僕にはわからない?
で、思います。
僕にはそれらの名前をわかれるはずはなかったのだ。
何故なら今までの僕の世界にはそれらはなかったのだから。
物質世界ではなく、僕の精神世界において確かにそれらはなかったのだから。
ないモノをわかれる道理はないのだ。
だから、それらほとんどの名前がわからない自分に気づいた時、わからない自分を発見した時、僕は初めてこの世界の風景を発見したのだ。
そして、この世界も僕を発見したのだ。
僕はスタート地点に立ったばかりなのだ。世界をわかるのはこれからなのだ。
ん?
駄目か?
この流れでは話がずれるか?落ちるか?
とりあえず「そして、この世界も僕を発見したのだ」はいらんな。
Ⅲ:フワフワの獲得
で、今回はそこからまたフワフワっと話をフワフワします。
風景の発見とは言いますが、考えてみると世界は常にうつろい続け、コンマ一秒も同じ世界、同じ風景は無いわけです。そう思う僕個人にした所で体の中での細胞分裂は絶え間なく続いてて、コンマ一秒も同じ僕はいないわけです。
そう風景はその存在の宿命としてフワフワっとしているのです。
決して僕の頭の中がフワフワっとしているわけではないのです。
風景(世界)は不完全なものなのです。
で、その不完全な風景(世界)の瞬間を切り取り、新たな命をあたえ、それを全きなるもの、永遠なるものにする魔法こそが「写真」なのです。
そこに写っているモノは風景(世界)であって、もうそれは風景(世界)ではないのです。
そうカメラのシャッターを押すたび、人は永遠の生命をもった完全なる世界の創造者になるのです!と言っては言いすぎでしょうか?
露骨に言いすぎです。
ま、風景(世界)の瞬間を切り取るということでは絵画も同じではありますが、それはまた何時の日かのフワフワで。
Ⅳ:世間の発現
ね、↑気にしてるでしょ
ま、今も、気にしていないわけじゃないんだけどね
Ⅴ:これもね
こっちが間違い、そっちが正しいつうわけではなく、いろんな視点を獲得する努力つうもんはしといて人生無駄じゃないかもしれないっす。
もちろん"知る"と"識る"は別もんだけどね。
その人を"知"ってるってことが、必ずしも、その人を"識"ってることにはならないようなもんだ。
"知る"ことは楽勝、誰にでもできる。
でも"識る"ことは。
あいもかわらず意味不明だ。
Ⅵ:過保護
ふだんクスリはのまないんです。あらゆる意味において。一年に一回ものまないかも。
だからたまにのむと妙にきき過ぎてる気もします。
つうても、まさか他人のクスリのききっぷりを僕が己の感覚としてわかるはずもないので、もしかしたらこんなもんなのかもしれませんが、妙にきき過ぎてる気が自分的にはします。
いえね、ま、何日か前から喉はちょっと痛かったんですけどね、昨日、いや、もう今日かな、夜半から本格的に身体がだるくなり、「あ~やだやだ」と布団を頭まで引被って就寝。んで、朝起きて、だるさはかなり改善したけど頭痛がまだするんで、市販の風邪薬を用法・用量を守って二錠服用しただけなんですけどね。
たしかに頭のキリキリは消えたけど、どうにも頭がボ~としてしまいます。
キリキリが消え、ボ~がやってくる。どっちもどっち・・・てなことは当然ないです。
朝のままだったらかったるくて、こうして文章書く気もおこらんかったし。
ん?この場合、クスリの成分のケミカルな作用でキリキリは"消えた"のかな?
それともその成分の作用で脳のどこらへんかが"消えたと錯覚"させられた状態なのかな?
やっぱり後者かな?
こう問題が根源的に解決したわけではなく、問題から目をそむけている現実逃避な状態なのかな?
そうして現実逃避をしているあいだに、身体の方で自然治癒(と言っていいんだか)の能力を発揮して勝手に治してしまうと。
おお!身体とはまるで過保護な親のようではないか!!
Ⅶ:20100401
僕の中のココんトコのココの裏テーマは"繰り返し"だったりします。←"話の飛躍"は永遠の裏テーマですよ、はい
で、やっぱり、飽きずに読める"繰り返し"を書くためにはリズムが重要ですかね。