6ページどうしてもコピペできず。
多美子さんが7歳なら、臣俊さんは12歳?となると、ここで近いのは中村さんの『新撰組全史』の父親と共に近藤勇さんのご遺体を掘りおこした石山亀二さんか?そうなんです。俺は、もうすべて置いておいて、これは永野真三さん殺害の何事かではないかと思っているんです。
もちろん、最初の上梓というか、あ、もしかしたら永野さん、情死だと噂を流されたのか?はい、すべてこの“感じ”で書いています。で、最初の上梓というか、発行は子母沢さんのあとがきによると「昭和三年夏七月」です。臣俊さんが生れる13年前(病気で1年遅れたとかあるかも)、麻生太郎さんが生れる12年前です。おそらく、永野真三さんが殺害された昭和28年7月の25年前です。つまり永野真三さんが殺害される25年前に、そのことについて書かれていた。もちろん、この挿話に合わせて殺害が行われたということもありえますし、中村さんのご本によると、俺が持っている『新撰組始末記』では一つになっているエピソードが、『新撰組始末記』と『新撰組遺文』に分かれているみたいです。それを子母沢さんが昭和28年(真三さんはこの年に殺害されたも、もちろん俺の想像です)以降に今の形に纏められた、もありえます。俺が持っている『新撰組始末記』のあとがきに、思えば私がこの書の初版を出したのは昭和三年夏七月である。もう三十四年も昔になった。つづいて『新撰組遺文』『新撰組物語』の二著を夢中で書いた。こんどはこれらも幾分改訂して加えた。あの頃と今と、この人たちを見る世の中の目がどう変わったか、私は知らない。とありますし。
が、この挿話自体が最初から存在していたにもかかわらず、勇の娘瓊子(たまこ)(当時7歳)、が抜け落ちているとは俺には考えずづらく。真三さんが亡くなられた時、このままでなくとも、このような事実があり、そして事実無根の噂を流された。埋葬する時、そのあまりにもな非道卑劣さに縁もない人が涙を流した、ということではないかと。臣俊さん12歳、多美子さん7歳、昭和28年、が、大切なのかな、と。[※昭和28年の34年後は昭和62年、63年と一年ずれる。俺は昭和天皇は63年に亡くなられたのではと思っています。すべてにおいて失礼なことを書いている自覚あります。]
※まったくの嘘。今も。20180804