70,80は、はなたれ小僧ですよ。おれは今年の10月で47ですけど。





これらも『原爆の記録』から、これの説明は“長崎医大付属病院(爆心地から東南約700メートル)上と三菱工業青年学校(爆心地から東南約650メートル写真手前、一階に三菱長崎造船所機械工場の分工場、[]工場があった)”。もちろん[]工場(表記、本当は○の中にハ㊙ のよう)というのも気になりますが、浦上隠れキリシタンの場所としてながく迫害を受けていた(露見した時だけど、そして歴史上そういうことになっている)場所だし、これは人食いによる何かのような…。
[※だからそのままではなくても、“ウイルス感染”との関連が気になります]











ちなみに、付属の英語での説明文はこれ、何かおや?とくるとこありますかね。字義を一つ一つ辞書で細かく見ていくと結構底なし沼的に、いろいろ浮びあがって来るんですけど(おそらく人類的に辞書はそのように作られてる人智でも神智でも)
[※1958美女と液体人間THE H-MAN TTD-48Nはありますけど。これは太平洋の核実験で被爆した人たちが、そのことによりDNAが変化液体人間となり…東京にあらわれ、という]
で、この長崎医大附属病院永井隆さんが勤務されていた病院。『長崎の鐘』を読んだ時もおやっ?と思ったんですけど、病院の後ろが原爆による業火から逃れるため避難した山。手前の緑はともかく、俺にはまったく燃えていないように見えます。食糧増産のためなのか、という建前なのか、の棚田以外にも、何か人力で禿山にしようとした感じはないこたないですが。
もちろん爆発はあったと思います。ただそれは被害の範囲が厳密に計算されたものだったのでは?

後方の岩屋山、そういえば、中学の時、ここなのでしょう、の岩屋中学から転校してきた人がいて「俺の中学は原田知世(ゴミ処刑)の出身校だ」「へ~」みたいな、懐かしいメモリーが。あと、校長室掃除当番のとき、校長先生と卒業生名簿を見て「あ、前川清(さん)だ、ほんとにいた()」みたいな、懐かしいメモリーも。は、さて置き、城山国民学校長崎医大と爆心地から同じくらいの距離です。あの地点の標高はわかりませんが、でもまあ爆心点からも同じくらいでしょう。で、この国民学校はこれでは分かりづらいですが、燃えています。というか先に貼りつけた三階建ての建物ですね[※同じ建物ですよね()]。が、後の岩屋山が燃えているようには見えません爆心点からはそっちが近い可能性あるんですけど。
で、城山国民学校は、建物疎開区域と同じように、計画的に接収、この爆発に合わせて爆破燃やしたのだと思います。ちなみに俺の出身校、戦前の光園小学校。どうも今と場所違うみたいですけど(検察庁・裁判所の場所)。で、これも空襲で焼けたと言われていますが、計画的に焼いたような…。そして、この写真パッと見焼け野原ですが、、あきらかにすぐそこで地面が落ち込んでいるそこはどうなっているのだろう?もちろん燃えてないと思ってますけど。で。

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